マハルシの福音
第1巻 第4章 バクティとジニャーナ
信奉者:
『シュリー・バーガヴァタ(*1)』は、全てにひれ伏し、全てを主ご自身として見ることによって、ハートの中にクリシュナを見つける方法のあらましを述べています。これは自らの実現に通じる正しい道ですか。そのように、「心」が出会うどのような物の中にでもバガヴァーンを敬慕することは、「私は誰か」という心の問いを通じて心を超越したものを探し求めるより、簡単ではありませんか。
マハルシ:
ええ、あなたが全ての中に神を見るとき、あなたは神のことを思っていますか、それとも、思っていませんか。あなたの周り一面に神を見るためには、あなたは必ず神のことを思わなければいけません。あなたの心の中に神を留めておくことはディヤーナになり、ディヤーナは実現の前段階です。実現は、ただ自らのその中にのみあることができます。それは決して自らと離れていることはできません。そして、ディヤーナはそれに先立たなければなりません。あなたが神にディヤーナをしても、自らにしても、それは重要ではありません。なぜなら、目的は同じだからです。あなたは決して自らから逃れることはできません。あなたは全ての中に神を見たいと思いますが、あなた自身の中には見たいと思いませんか。全てが神であるなら、あなたはその全ての中に含まれていませんか。あなた自身が神であるなら、全てが神であることは不思議なことですか。これが『シュリー・バーガヴァタ』や他の人々によって別のところで勧められる方法です。しかし、この修練にとってさえ、見る者や考える者がいるはずです。それは誰ですか。
信奉者:
全てに行き渡っている神をどうやって見るのですか。
マハルシ:
神を見ることとは、神でいることです。神から離れて彼が行き渡る「全て」はありません。彼のみがいます。
信奉者:
私たちは時々、『ギーター』を読むべきでしょうか。
マハルシ:
いつも。
信奉者:
ジニャーナとバクティはどのような関係ですか。
マハルシ:
自らに住まうという永遠で途切れのない自然な状態が、ジニャーナです。自らに住まうには、あなたは自らを愛さなければなりません。神はまさしく自らであるため、自らへの愛は、神への愛です。そして、それがバクティです。ジニャーナとバクティは、そのように全く同じものです。
信奉者:
1時間かそれ以上ナーマ・ジャパをしている間、私は眠りのような状態に陥ります。目覚めるとすぐ、私はジャパが中断されていたことを思い出します。それで、私は再び試みます。
マハルシ:
「眠りのような」、それは的を得ています。それは自然な状態です。あなたは今、自我と関わっているため、その自然な状態があなたの仕事を中断するものだと思います。ですから、それが自分の自然な状態だとあなたが悟るまで、あなたはその体験を繰り返し経験しなければなりません。あなたはその時、ジャパが外側にある(無関係だ)と気づくでしょうが、それでもジャパは自動的に継続するでしょう。あなたの現在の疑いは、誤った自己認識、つまりは、そのジャパをする心とあなた自身を同一視するという(誤った自己認識)のためです。ジャパは、他の全ての思いを排除して、一つの思いにしがみつくことを意味します。それがその目的です。それは、自らの実現、ジニャーナに帰着するディヤーナに通じます。
信奉者:
どのように私はナーマ・ジャパを続けるべきでしょうか。
マハルシ:
人は献身の気持ちなく、機械的に軽々しく、神の名を使うべきではありません。神の名を使うためには、人は慕い憧れる気持ちで彼に呼びかけ、彼に自分自身を無条件で委ねなければいけません。そのような委ねの後にのみ、神の名は常にその人と共にあります。
信奉者:
探求、ヴィチャーラの必要性は、では、どこにありますか。
マハルシ:
委ねが効果を発揮できるのは、真の委ねが意味することに関する十分な知識を持って、それが行われる時だけです。そのような知識は探求と熟考の後に現われ、常に自らの委ねに帰着します。ジニャーナと主への絶対的な委ねの間に違いはありません、つまり、思いと言葉と行為において。完全であるには、委ねは何の疑問も持たないものでなければなりません。信奉者は主と駆け引きしたり、彼からの好意を要求したりできません。そのような完全な委ねは、全てを含んでいます。それはジニャーナとヴァイラーギャ、献身と愛です。
(*1)シュリー・バーガヴァタ・・・「バーガヴァタ・プラーナ」または、「シュリーマッド・バーガヴァタム」などとも呼ばれる。ヴィシュヌ(ナーラーヤナ)の化身クリシュナへのバクティに主眼を置いている。
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