2015年6月3日水曜日

「シュリー・アルナーチャラへの五つの宝石(Sri Arunachala Pancharatnam)」

◇「山の道(Mountain Path)」、1973年1月 p16~18

アルナーチャラ・パンチャラトナム

T.M.P.マハーデーヴァン

序論

 バガヴァーン・ラマナによって作られた「アルナーチャラへの五つの賛歌」の中で、この賛歌は元々サンスクリット語で記されました。優れたサンスクリット語学者であり、信奉者であるカーヴヤカンタ・ガナパティ・シャーストリは、1917年のある日にサンスクリット語で詩を作るようにバガヴァーンに請願しました。バガヴァーンは、自分はほとんどサンスクリット語を知らず、その言語に関する韻律論はさらに知る所が少ないと微笑んで答えました。しかし、カーヴヤカンタはそこで問題をそのままにしておく気はありませんでいた。彼はアールヤと呼ばれるサンスクリット韻律の一つの技法をバガヴァーンに説明し、請願を繰り返しました。夕方、彼がバガヴァーンを再び目にした時、絶妙なサンスクリット語で詩が用意されていて、アルナーチャラに呼びかける五つの短い詩節の中にヴェーダーンタの教えの全てを表現していました。

 この賛歌はアルナーチャラについての宝石のごとき五詩節から成り立ち、それゆえ、アルナーチャラ・パンチャラトナムなる名称です。最初の二詩節の中に、現実の本質が二つの水準-スワルーパ(本質的な)とタタシュター(付随的な)-から明らかにされています。残りの三詩節の中で、完成への道のりの概略が記されています。そのように、この短い詩の中に、バガヴァーンはスートラの形でヴェーダーンタの精髄を我々に授けます。それは彼の教えの中に見出される特有の強調点でもあります。タミル語を知る大志を抱く者たちのために、この詩はバガヴァーン自身によってタミル語のヴェンバに翻訳されています。その翻訳は、バガヴァーンによって記されたアルナーチャラについての他の四つのタミル語の詩にそれを加えて、「Arunachala Sthuthi Panchakam」という表題の下に出版したいと思った信奉者からの請願に応え、1922年に行われました。

 すでに述べたように、「アルナーチャラ・パンチャラトナム」の最初の二詩節の中で、現実の本質が指し示されています。ウパニシャッドは現実の本質を二つの方法で描きます-

 現実は、実在-意識-至福(サット-チット-アーナンダ)であり、その付随的な制限が世界の因果律です。現実なるものは、それ自体、無属性(ニルグナ)、無制限(ニルパーディカ)です。マーヤーのために、それは世界の原因のように見えます。第一詩節で、バガヴァーンはアルナーチャラ、至高なる自ら(パラマートマン)、即ち、無制限かつ無属性の実在-意識-至福に言及します。それは崇高な光であり、至福の大海です。その中に、多数性は、世界は存在しません。第二詩節で、アルナーチャラは、全世界の源かつ目的である神のように、世界の基盤として描かれています。しかしながら、創造は現実ではありません。それは幻の見せかけです。これが絵(映像)の類比の含意です。かつて、バガヴァーン自身がシュリー・ラマナーシュラマムの居住者へ意味を説明したように、「全世界はスクリーン上の絵のようです-スクリーンは赤き山、アルナーチャラです。生じ、沈むものは、それが生じたものから成り立っています。全世界の最終的な境地は、神アルナーチャラです」(Talks, p.215)。そのように、世界はアルナーチャラ‐ブラフマンの変形です。それはそれ自身で現実性を持ちません。アルナーチャラへの瞑想の目的のために、場所が体の中に割り当てられます-その場所は「ハート」であり、胸の左側にある身体的なハートではなく、右側にある精神的なハートです。アルナーチャラ自体が「ハート」として言及されるかもしれません。それは万物の中心であるからです。

 第三詩節で、バガヴァーンは自らの探求の道を教えます。これはジニャーナ・マールガ(知の道)と同じものです。アドヴァイタ・ヴェーダーンタによれば、ジニャーナはモークシャへの直接的な手段です。モークシャは新たに達成されるべきものではありません。それは自らの永遠の本質です。無知(アヴィドヤー)のため、それは認識されないままにあります。我々にそれを認識させるものは、自らについての真の知です。バガヴァーンのジニャーナ・マールガの定式化は、良く知られています。それは「私は誰か」という探求の形をとります。すべての人がこの道を歩むことができますが、確かで迅速な成功のためには、人は一点に集中した純粋な心を持たねばなりません。心を探求の道を実行するのに適したものにするための助けは、瞑想(ディヤーナ)、献身(バクティ)、行為(カルマ)です。第四、第五詩節で、バガヴァーンはこれらの鍛練に言及します。無私無欲の奉仕(カルマ・ヨーガ)は、心から一切の不純物を取り除きます。神への献身(バクティ・ヨーガ)と瞑想(ディヤーナ・ヨーガ)は、心に一点集中性を授けます。心が内に向き、その源に向かう時、それは至高なる自ら、アルナーチャラであるその源に溶け込みます。実在‐意識‐至福である完全な体験-これがすべての精神的鍛練の最終目的です。

バガヴァーン・ラマナのアルナーチャラ・パンチャラトナム
(アルナーチャラへの五詩節からなる賛歌)


(1)

おん身の光輝の中に全世界を飲み込む、恩寵で満ちた、神酒の大海!おお、アルナーチャラ、至高者そのものよ!おん身太陽となり、我がハートの蓮華を至福の内に開き給え!

Ocean of Nectar, full of Grace, engulfiing the universe in Thy Splendour! Oh Arunachala, the Supreme Itself! be Thou the Sun and open the lotus of my heart in bliss!

 これはバガヴァーン・シュリー・ラマナの「アルナーチャラ・パンチャラトナム」の最初の詩節です。ここで祈りは、ハートの蓮華の開花を求めています。ハートは蓮華になぞらえられています。なぜなら、それは主に捧げられるのに適したものであるからです。太陽が昇る夜明けに蓮華が開くのとまさしく同様に、ハートの開花は、主の恩寵がそれに降りきたる時にのみ果たされます。主は、太陽の中の太陽です。彼の恩寵によってこそ、個々人のハートは成熟性と純粋性を獲得するはずです。

 主は、アルナーチャラであり、不変のもの、絶えざる光です。彼は、至高なる自らです。彼は、恩寵と不死の大海です。彼こそが、邪悪で、不完全なもの一切を破壊します。アルナーチャラ以外の誰に、信奉者は永遠の命へ連れ行く聖なる輝きを求めて頼るのでしょうか。アルナーチャラの恩寵によってこそ、完全が得られます。

(2)

おお、アルナーチャラ!おん身の内に、全世界の絵(映像)が形作られ、留まり、溶け去る。これは崇高な真理である。おん身は、ハートの中で「私」として踊る、内なる自ら。「ハート」がおん身の名である、おお、主よ!

O Arunachala! in Thee the picture of the universe is formed, has its stay and is dissolved; this is the sublime Truth. Thou art the Inner Self, Who dancest in the Heart as 'I', 'Heart' is Thy name, Oh Lord!

 アルナーチャラは、至高なる神です。『タイッティーリヤ・ウパニシャッド』の聖句は、ブラフマンの本質を指し示して、そこから一切のものが存在するようになり、その中にそれらが住まい、そこへそれらが戻るものとして定義しています。ブラフマンは、全世界の基盤です。全世界の原因として、それは神と呼ばれています。しかし、どの創造の理論も満足のいくものにはなりえません。一者から多数のものがどのように現れるのかは、謎です。それゆえ、神が世界の質料因であり、作用因でもあると言われています。世界の起源、中間、終焉、全ては神の内にあります。そのように、バガヴァーン・シュリー・ラマナは、アルナーチャラの中に、この全てが現れると言います。それがそうでなければならないことは、実に不思議なことです。確かに、自らの腹から巣を編んで作り出す蜘蛛のような類比の助けによる説明が与えられてはいます。しかし、そういったどの説明も最終的に正当であることを意図してはいません。世界とその創造についての教えは、不二のブラフマンの実現への前置きとして与えられているに過ぎません。

 etacchitramという表現は、「これは絵のごとくである」を意味すると解釈されるかもしれません。芸術体験からの類比は、世界が単なる事実としてでなく、ブラフマンである最高の価値を示すものとしてみなされるために、与えられています。事実としてさえ、世界はその基礎をブラフマンに持ちます。ブラフマンはキャンバスであり、その上に世界の絵が描かれます。

 宇宙の現実性は、個人の現実性でもあります。ハートの内で、「私」、自らとしてそれは現れます。それそのものが「ハート」と呼ばれています。なぜなら、それは万物の中心であるからです。それはハートの内で踊ると言われています。なぜなら、それは万物を動かす原動力であるばかりでなく、歓喜の本源でもあるからです。

 アルナーチャラ、全世界の不動の基盤は、ハートの虚空の講堂(チダンバラム)で踊る舞踏王、ナタラージャと同じです。

(3)

内に向けられた純粋な心でもって、「私」なる思いがどこから生じたか探求する者は、自らの本質を悟り、おお、アルナーチャラ!大海の中の川のごとく、おん身の内に動きを止める。

He who inquires whence arise the ' I' thought, with a mind that is pure, inward-turned, and realizes his own nature, becomes quiescent, O Arunachala, in Thee, as a river in the ocean.

 ここでは、自らの探求の道が説かれています。その技法は、「私」なる思いをその源まで追跡することにあります。「私」なる思いは、全ての思いの中で最初に生じるものです。それはどこからやって来るのか。当然、それ自体が思いの性質を帯びた心を用いることによって、これを発見しなければなりません。しかし、この課題を達成できるのは、内に向かい、純粋である、かの心だけです。心が外に向かい、不純である時、それは注意散漫になり、散逸し、感覚の対象物にふけります。真理を知り、安らぎを見出すために、心はその外側にあるものの馬鹿げた追求に背を向けねばなりません。これを心が行えるのは、それが純粋である時だけです。純粋な心が内に向き、「私」なる思いの起源を探求する時、それはこの「私」が偽りの自分であることを発見します。この発見と共に、一切の思いは消え去り、真の自らのみが後に残ります。自我は自殺し、アルナーチャラである自らと一つになります。これが、川が海に合流し、その中に姿を消すことに例えられています。

 『ムンダカ・ウパニシャッド』(Ⅲ, ii, 8)は、次のように言明します-
流れる川が、名と形を捨て、大海の中に消え去るがごとく、 
賢なる者は、名と形から解放され、高きよりも高い、神聖なる方のもとへゆく

(4)

外的対象物を拒絶し、呼吸と心を制御して、心の中でおん身に瞑想し、ヨーギはおん身の光を見、おお、アルナーチャラ!おん身の内に喜びを見出す(または、これがおん身の栄光である)。

Rejecting the external objects, with breath and mind controlled, and meditating on thee within, the Yogi beholds thy light, O Arunachala, and finds his delight in Thee (or, this is Thy glory).

 ここでは、瞑想(ディヤーナ)の道である、ヨーガへの道のりの概略が述べられています。たいてい、心は対象物を楽しむために感覚器官を通ってそれへと流れ出ます。その喜びが対象物に存すると心は誤って思います。心がある対象物に失望する時、それは別のものに飛び付きます。ヨーガは、心が戻る過程です。ヨーガは、心を内に向けます。呼吸の制御は、心の制御の助けとして修練されます。体を鍛練し、呼吸を制御することは、心を手なずける助けになります。心が一点に集中され、自ら、または、神に定められる時、人は心の中に安らぎと喜びを見出します。最終的に、ヨーギは神を実現します。神は光の形-物質的な光でなく、純粋な意識または自覚-で見られます。アルナーチャラである、その光は、至高なる聖霊です。その光輝に匹敵するものはありません。その偉大さは、比類なきものです。この光を見ることとは、それであることです。ヨーギの個人性は溶け去り、至福である十全性のみがあります。

(5)

心をおん身に捧げ、おん身を見、全てをおん身の形として見ながら、絶え間ない愛を抱き、おん身を崇拝する彼は、おお、アルナーチャラ!至福である、おん身の内に没入し、勝利を得る。

With the mind offered unto Thee, seeing Thee, and seeing all as of Thy form, he who worships Thee with constant love conquers, O Arunachala, being immersed in Thee that art Bliss.

 最後の詩節では、献身の道が説かれ、私心ない行為の道もまたそれとなく説かれています。献身の本質は、個々人の魂を神への奉仕に完全に捧げることにあります。バクティは、花や果物といった外的なものを神に捧げることから始まるかもしれません。しかし、それが成熟する時、捧げられるものは、心です。信奉者が神をあらゆる所に見て、あらゆるものを神の表れとして見る時のみに、彼はこれを行えます。その時、彼はあらゆるものの内の神に仕え、それがカルマ・ヨーガの心髄です。そのような奉仕を通じ、信奉者の神への愛は力強く、ひたむきなものになります。そして、最終的に、彼は有限で、自ら動けない、苦しみに満ちた一切に勝利を得ます。彼は彼の個人性が溶け去ったことに、ブラフマンである無限の至福の海のみが存在することに気づきます。