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2017年1月25日水曜日

シュリー・シャンカラによる「バジャ・ゴーヴィンダム」 1~13、28~31詩節

◇『The Call Divine(召命)』 Volume XIII、Book 9、1960年5月1日、p565~568 & 他のサイト

バジャ・ゴーヴィンダム

シュリー・シャンカラーチャーリヤと14人の弟子

 偉大なる聖者シュリー・アーディ・シャンカラーチャーリヤによって作られた、バジャ・ゴーヴィンダムは、ヴェーダーンタの中で最も明快でありながら、洞察に富む作品の一つです。アーディ・シャンカラーチャーリヤによるヴェーダーンタに関する他の崇高な作品にいくつかは、ヴィヴェーカチューダーマニやアートマボーダです。彼は主題への科学的知見を深い献身と組み合わせ、輝かしい詩文を作り出しました。

 シャンカラの作品は三つの主要なカテゴリーに分類されます。

1.バシャヤ: ウパニシャッド、バガヴァット・ギーター・ブラフマスートラのような聖典への注釈書
2.ストートラ: ダクシナームールティ・ストートラのような献身を表す詩文
3.プラカラナ・グランタス: 靈的学習のための入門的な手引き書

 バジャ・ゴーヴィンダムはストートラの部類に属します。しかしながら、その詩節には深いヴェーダーンタ的思想が含まれているため、プラカラナ、入門的なテキストにしばしば含めます。小さなものですが、それはヴェーダーンタの根本を説くシャンカラの卓越した詩文です。その文体は簡素であり、その旋律はあらゆる年代の人々に訴えかけます。その31詩節それぞれが、我々の人生に関連した珠玉のごとき知恵です。

 このテキストの別名は、モーハ・ムダガラです。モーハという言葉は、サンスクリット語で「迷妄」を意味し、他方、ムダガラは「鉄槌」を意味します。合わせて、モーハ・ムダガラは、迷妄を取り除くもの、破壊するものを意味します。そのように呼ばれるわけは、それが、世界である、このサンサーラに我々が置く過剰な価値に打撃を与えるからです。

由来1

 シャンカラと弟子たちが旅していた昔日のある日、彼らはインドの聖都ベナレスに通りかかりました。道すがら、シャンカラは年を取ったパンディット、学者がパニーニの文法を記憶しているのをふと耳にしました。彼が文法を記憶しながらも、彼が学んでいるものの主旨を受け取りそこなっている様子を見てとり、これがシャンカラによる見事な演説を引き起こしました。それを我々はバジャ・ゴーヴィンダム、または、モーハ・ムダガラと呼びます。

由来2

 アーチャーリヤは、彼の有名なカーシー(ベナレス)への巡礼の間に、バジャ・ゴーヴィンダムを作ったと信じられています。14人の弟子が彼に同行したと言われています。伝えられるところによれば、彼がカーシーの通りを歩いていた時、年配の男性がサンスクリット語の文法を学ぼうと懸命に努力しているのを目にし、彼は心を痛めました。その高齢では、彼の人生の価値ある残りわずかな時間は、言葉を学ぶことに浪費するのでなく、神を崇拝するために使われているべきでした。このことはシャンカラを促し、愚かな生き方への一種の叱責である、この詩文が口をついて出ました。アーチャーリヤは、言葉を学ぶのでなく、神へ向かい、彼の栄光を歌うようその人に迫ります。アーチャーリヤがその人を愚か者(モーダマテー)と呼ぶとき、非難が含意されています。ここで、その魅惑的な詩美と詩作の極致であるにもかかわらず、バジャ・ゴーヴィンダムの調子が全く柔和でなく、いくぶん際立ったものであることが言い添えられてもよいでしょう。これは不思議なことではありません。なぜなら、そのような扱いが人を眠りから起こすのに必要とされるからです。より穏やかなアプローチは、事態を先延ばしにしたでしょう。アーチャーリヤが次の詩節で説明するように、事態は急を要します。なぜなら、何の前触れもなく死の時が近づくとき、懸命に学んだ文法は、哀れな魂を救おうとはしないからです。それゆえ、正しくも歌は、何の前置きもなく始まります。(元の英文

構成

 バジャ・ゴーヴィンダムは31詩節からなります。始まりの詩節は、他の詩節の終わりごと唱えられる合唱部分とみなされます。合唱に続く12詩節は偉大なる師、彼自身によって語られたと言い伝えられています。これら12詩節は、バジャ・ゴーヴィンダムの最初の部分であり、ドヴァーダシャ・マンジャリカー・ストートラム、12詩節の花束と呼ばれています。たとえ遠くから見ても生花の花束を観賞できるのとまさしく同様に、バジャ・ゴーヴィンダムもまた、その詩節の美しい調べの詠唱に耳を傾けるだけで、味わえます。花の近くに来る人々は、花から発する香りを体験します。同様に、詩節の意味を理解する人々は、人生についての役立つ教えを得ます。しかしながら、花を真に楽しむ者は、花の中へ深く入り、その蜜を引き出す蜂です。同様に、バジャ・ゴーヴィンダムを真に楽しむ人々は、その真意を吸収する人々です。詩節の中の事柄を検討し、熟考する人々です。その哲学を生き、それを靈的に向上するために使う人々です。

 シャンカラの演説に大いに鼓舞され、彼と共に旅している14人の弟子それぞれが一詩節ごと付け加えました。これら14詩節がチャトルダシャ・マンジャリカー・ストートラムを形作っています。生徒の言葉に耳を傾けた後、シャンカラは全時代の真の探究者を最後の4詩節で祝福します。

 そのように、合わせて、合唱、ドヴァーダシャ・マンジャリカー・ストートラム、チャトルダシャ・マンジャリカー・ストートラム、シャンカラの祝福が、バジャ・ゴーヴィンダム31詩節を形作っています。

バジャ・ゴーヴィンダム
a) 第1詩節:合唱
b)第2~13詩節:ドヴァーダシャ・マンジャリカー・ストートラム
c)第14~27詩節:チャトルダシャ・マンジャリカー・ストートラム
d)第28~31詩節:シャンカラの祝福

対をなす動機

 バジャ・ゴーヴィンダムは人生における我々の対をなす動機を扱っています。カーンチャナ、富の獲得、そして、カーミニー、それを楽しむことです。最初の動機によって、我々はドゥッカ・ニヴルッティ、悲しみに対する防衛のために富を蓄積します。二番目の動機によって、われわれはスカ・プラパティ、蓄積した富を楽しむことにふけります。シャンカラは、バジャ・ゴーヴィンダムの中で、世俗的追求の無益さに我々の目を向けさせ、我々が外側の何をどれほど探し求めようとも、真理は(現在)内にあり、(これからも内に)常にあるでしょう。

バジャ・ゴーヴィンダムの精神

 バジャ・ゴーヴィンダムの学習を始めるにあたり、シャンカラのメッセージの精神を理解することが重要です。学びの間、彼の人間の性質への訓戒が少々厳しく感じる時があるかもしれません。しかし、我々はぜひとも彼の言葉から伝わる愛を感じとるべきです。子供にとっての親のようです。彼は我々をけなすつもりではなく、ただ眠りから我々を揺り起こそうとしているだけなのです。些末なことへの執着に打ち勝ち、人生の真の務めに取り掛かり、かの内なる神聖な自らの探求を始めるよう我々に迫ります。我々が靈的体験を経ている人間ではなく、人間的体験を経ている(聖)靈そのものであると我々に思い出させるためです。そのように合わせて、我々は我々の迷妄、モーハからより優れた意識の高みに身を起こすことに向けて励まなければなりません。(由来2以外の上記の元の英文


本文

1.
ゴーヴィンダをあがめよ、ゴーヴィンダをあがめよ
ゴーヴィンダをあがめよ、ああ、愚かな心よ
(死の)時が近くに迫るとき
決して、決して文法規則は救わない

bhaja govindam bhaja govindam
govindam bhaja muudhamate
sampraapte sannihite kaale
nahi nahi rakshati dukrin karane

2.
愚か者よ、富の到来への渇望を放棄せよ
正しく決意し、心に渇望なくあれ
何であれ得たもの、あなたの行為により獲得した
金銭、それにより心喜ばせよ

mudha jaheehi dhana agama trishnaam
kuru sad buddhim manasi vitrishnaam
yal labhase nija karmopaatam
vittam tena vinodaya chittam

3.
女性の豊満な胸やへそあたりを
目にし、迷妄に憑りつかれるな
それは肉や脂肪などの変形である
幾度も幾度も、心の中で思い巡らせ

naarii stana bhara naabhii desham
drishhtvaa maa gaa moha avesham
etan maamsaa vasa adi vikaaram
manasi vichintaya vaaram vaaram

4.
蓮葉に落ちた水滴は非常に不安定である
同様に、命は極めて不確実である
知れ、病のごとき高慢に捕われ
全世界は悲嘆に暮れていると

nalinii dala gata jalam ati taralam
tadva jjiivitam atisaya chapalam
viddhi vyaadhy abhimaana grastam
lokam soka hatam cha samastam

5.
金銭を稼ぎうる限り
その限りは、あなたの取り巻きは慕う
その後、弱った体で生きる時
健やかなのか誰も家で尋ねない

yaavad vitt opaarjana saktah
taavan nija parivaaro raktah
pashchaa jiivati jarjara dehe
vaartaam kopi na prcchati gehe

6.
体に命がある限り
その限りは、幸せなのか家で尋ねる
呼吸が消え、体から離れる時
妻がその体を恐れる

yaavat pavano nivasati dehe
taavat prichchati kushalam gehe
gatavati vaayau deha apaaye
bhaaryaa bibhyati tasmin kaaye

7.
幼少期は遊びに夢中で
青年期は女性に夢中で
老年期は心配事に夢中である
至高なるブラフマンに誰も夢中でない

baalas taavat kriidaa saktah
tarunas taavat tarunii saktah
vriddhas taavat chintaa saktah
pare brahmani kopi na saktah

8.
あなたの妻とは誰か。あなたの息子とは誰か
この生死流転はまったく奇妙である
あなたは誰のものなのか。どこからあなたは来たのか
ここに、この真理を思え、兄弟よ

kaa te kaantaa kas te putrah
samsaaro ayam atiiva vichitrah
kasya tvam kah kuta aayaatah
tattvam chintaya tadiha bhraatah

9.
賢者との交際により、執着が減り
執着の減少により、迷妄からの解放が生じ
迷妄からの解放の生起により、真理に定着し
真理への定着により、生けるうちの解放が得られる

satsangatve nissangatvam
nissangatve nirmohatvam
nirmohatve nischalatattvam
nischalatattve jiivanmuktih

10.
若さが去るとき、愛の情熱とは何か
水が蒸発するとき、湖とは何か
金銭が失われるとき、取り巻きとは何か
真理が実現されるとき、生死流転とは何か

vayasi gate kah kaamavikaarah
sushke niire kah kaasaarah
ksiine vitte kah parivaarah
gyaate tattve kah samsaarah

11.
富や氏族、若さを驕るな
時によって、全ては瞬く間に奪い去られる
幻に満ちた、この全世界を捨て去り
ブラフマンの境地を知り、あなたは(それに)入れ

maa kuru dhana jana yauvana garvam
harati nimeshaat kaalah sarvamh
maayaa mayam idam akhilam hitvaa
brahma padam tvam pravisha viditvaa

12.
昼夜、朝晩
冬と春は再びやってくる
時は戯れ、寿命は過ぎ行く
それでもなお、欲望の風は弱まらない

dina yaminyau saayam praatah
sisira vasantau punara ayaatah
kaalah kriidati gachchhaty aayuh
tad api na munchaty aasaa vaayuh

13.
あなたの妻とは誰か。富に向けられた思いとは
何か、風狂人よ。あなたに支配者はいないのか
三世界において、有徳の人との交際のみが
生の大海を渡る船となる

kaa te kaantaa dhanagata chintaa
vaatula kim tava na asti niyantaa
trijagati sajjan sangatir ekaa
bhavati bhava arnava tarane naukaa

(14~27は、また後で翻訳するかもしれませんが、今は省略します)

28.
楽しみゆえ、美しい女性に耽溺し
その後、ああ、体には病が
世界は死を住まいとするにもかかわらず
それでもなお、悪行を離れない

sukhatah kriyate raamaabhogah
paschaadd hanta sariire rogah
yadyapi loke maranam saranam
tadapi na munchati paapa acharanam

29.
常に思え-財は禍(わざわい)をもたらし
まこと、そこにわずかの楽しみもない、と
息子さえ、富を持つ者は恐れる
常々、これが世の定めである

artham anartam bhaavaya nityam
na asti tatah sukaha lesah satyam
putraad api dhanabhaajaam bhiitih
sarvatra ishaa vihitaa riitih

30.
プラーナーヤーマに、プラティヤーハーラに
恒常・無常の分別の探求に
ジャパに伴われたサマーディの成就に
専念せよ、大いに専念せよ

praanaayaamam pratyaahaaram
nitya anitya viveka vichaaram
jaapya sameta samaadhi vidhaanam
kurv avadhaanam mahad avadhaanam

31.
蓮華のごとき師の御足の熱心な信奉者が
生死流転より、すぐさま解放されますように!
そのように、感覚器官と心の制御によって
あなたのハートに住まう神をあなたは体験するだろう

guru charana ambuja nirbhara bhaktah
samsaaraad achiraad bhava muktah
sendriya maanasa niyamaad evam
drakshyasi nija hridayastham devam
(shiba注)サンスクリット語に詳しくないため、日本語訳は「適当」です。英語サイトに単語の格変化まで記載されているものがなく、正直、文法的にわからないとこだらけです。翻訳の参考にさせていただいた主な他のサイトは、などです。

2016年1月12日火曜日

バガヴァーン・ラマナ選出、ヴィヴェーカチューダーマニからの10詩節 

◇「山の道(Mountain Path)」、1973年4月 p99、100

ヴィヴェーカチューダーマニ

知恵の至宝
バガヴァーンはかつて、シュリー・シャンカラーチャーリヤによる「ヴィヴェーカチューダーマニ」、即ち、「知恵の至宝」として知られるアドヴァイタ哲学に関する有名な作品から重要な10詩節を選びました。以下はそれらの詩節の意訳です。かっこ内の番号は、原文の詩節番号を示しています。
1.
解放を得るための最良の鍛錬とは、人の本質の絶え間ない想起として定義されてきたバクティである。

The best discipline for attaining Liberation is Bhakti which has been defined as the constant recollection of one's real nature. (31)

2.
至高なるものとは、永続的で途切れのない自覚である。それは比類なく、存在とも非存在とも描きえない。それは知性などの目撃者である。それは我々が「私」について話すときに暗示されるものである。それは永続的で完全な至福であり、我々自身の内に存在する。

The Supreme (Being or Self) is constant and unbroken awareness. It is unique and cannot be described either as being or non-being (since it transcends all concepts). It is the witness of our faculty of understanding (buddhi), etc. It is what is implied when we speak of ' I '. It is constant and perfect bliss and exists within ourselves. (351)

3.
至高なる自らは、プラクリティともその変形体とも異なる。それは存在と非存在についての全ての概念を可能にする純粋な自覚である。目覚めや他の状態の間、「私」-「私」の形で、それは明確に現れる。それは知性の目撃者である。

The Supreme Self is distinct from Prakriti (primal world stuff) as well as its modifications. It is the pure awareness which makes all ideas of being and non-being possible. It clearly manifests itself in the form of ' I '-' I ' during waking and other states (i.e. dream and deep sleep). It is the witness of our faculty of understanding (buddhi). (135)

4.
「私」-「私」の形をした、ただ一つの継続的な内なる自覚として、目覚め、夢、深い眠りの状態において、自らは明瞭に現れる。それは自我、知性などをその様々すべての形と変化において認識する。それは永続的な自覚かつ至福である。これをあなたのハートの内に実現せよ。

The Self clearly manifests itself in the states of waking, dream and deep sleep as a continuous single inner awareness in the form of ' I ', ' I ' . It cognizes the ego, the intellect, etc., in all their various forms and changes. It is constant awareness and bliss. Realize this within your Heart. (217)

5.
制御された心と明瞭な知性の助けによって、「私はこれである」と直接的にあなた自身の自らを実現せよ。生死波立つサンサーラなる無限の海を渡り切り、ブラフマンとして留まれ。(その時)あなたの人生の目的は達成される。

Realize your own Self directly as 'I am this' with the help of a controlled mind and clear intellect and, crossing over the boundless sea of samsara whose waves are births and deaths, abide as Brahman, the goal of your life attained. (136)

6.
この自ら輝くもの、全ての目撃者は、我々の知性の中で永遠に輝く。それは非存在ではない。それをあなたの目的とし、それを絶え間なく思うことにより、それをあなた自身の自らとして実現せよ。

This self-luminous (Being), the witness of all, shines constantly in our intellect(vijnanamaya kosa). It is not non-being. Make it your goal and realize it as your own Self by thinking of it incessantly.(380)

7.
至高なる存在の本質を理解することは非常に難しい。感覚的対象のように、心によってそれを思い描けない。その理解が明瞭である賢者によってのみ、それは知られうる。心の概念が実際に存在しないとき、サマーディの状態において彼らはそれを実現する。

It is very difficult to understand the nature of the Supreme Being. It cannot be conceived by the mind like sense objects. It can be known only by wise souls (Aryas) whose understanding is clear. They realize it in states of Samadhi when there are practically no mental concepts. (360)

8.
このように絶え間ない修練を通じて、心が完全となり、ブラフマンに溶け込むとき、サマーディはサヴィカルパでなくなる。その状態において、人は不二なるものの純粋な至福を体験する。

When, in this manner, through constant practice, the mind becomes perfect and is merged in Brahman Samadhi ceases to be savikalpa (i.e., becomes nirvikalpa or entirely free from thoughts). In that state one experiences the pure bliss of the non-dual (Brahman). (362)

9.
この種のサマーディを修練することにより、結び目のごとき一切の欲望は終わりを迎え、一切の行為は後に何も残さない。人は自分自身があらゆるところに存在すると自ずと知る。

By practising this kind of Samadbi all one's knot-like desires come to an end and all one's actions leave no residue. One spontaneously knows oneself as existing everywhere. (363)

10.
至高なるブラフマン、唯一なる現実は、存在とも非存在とも描きえない。それはハートの洞窟に存在する。それに内在する者は、親愛なる人よ、再び生まれはしないであろう。

The Supreme Brahman, the sole Reality, cannot be described either as being or non-being. It exists in the cavern of the Heart (i.e., it can be realized within ourselves). One who inheres in It, my dear, will not be born again. (266)

2013年5月5日日曜日

「アートマ・ボーダ(Atma Bodha、自らの知)」、シャンカラーチャーリヤ著

 最初の2つの文章は、http://nonduality.com/shankr10.htmからの日本語訳ですが、段落分けを変えています。もともとはSmt.Kanakamal氏の文章で、それをR.K.Shankar氏が英訳したもののようです。 
 以下の「アートマ・ボーダ」本文の英文は、『Collected Works of Sri Ramana Maharshi』からのもので、おそらくアーサー・オズボーン氏の英訳です。日本語訳にはSwami Chinmayanandaによる英訳(http://www.swamij.com/shankara-atma-bodha.htm)も参考にさせていただいています。(文:shiba)

アーディ・シャンカラーチャーリヤの生涯の手短な紹介

 アーディ・シャンカラーチャーリヤはジニャーニです。彼はたった7歳の時に僧となりました。彼のグルは聖者ゴーヴィンダでした。もちろん、そのグルは彼自身ジニャーニでした。シャンカラは16歳ごろに自らの実現を達成しました。

 グルはシャンカラにヴェーダの宗教を全インドに再確立するように命じました。彼は多くの学者と討論し、彼らを打ち負かし、彼の弟子としました。彼は初めてアドヴァイタ・ヴェーダーンタを確立しました。

 彼は『バガヴァッド・ギーター』、『ウパニシャッド』、『ブラフマ・スートラ』の注釈書を著しました。彼はまた、「アートマ・ボーダ」やその他のいくつかの作品ように彼独自のサンスクリット語の聖典を著しました。

シュリー・バガヴァーンが「アートマ・ボーダ」を偶然にサンスクリット語からタミル語へ翻訳するようになった次第の手短な物語

 サンスクリット語をほとんど知らないムスリムのタミル人の学者がいました。このムスリムはサンスクリット語の「アートマ・ボーダ」をタミル語に翻訳しました。ある日、これらのタミル語の翻訳が含まれた2冊の本が郵便で届きました。M.S.Rという名のある信奉者は、その日の郵便物と一緒に、これら2冊の本をシュリー・バガヴァーンに手渡しました。シュリー・バガヴァーンはいつものようにその日に届いたすべての郵便物を読みました。その後、彼はくり返しムスリムの学者のこれら2冊の本を熟読し始めました。その時、シュリー・バガヴァーンは何らかの内からの衝動に促されて、そのようにしているようでした。その後、シュリー・バガヴァーンはそれら2冊の本を手渡し、図書館に保管されました。

 その後、彼はV.Rという名の信奉者に「アートマ・ボーダ」のサンスクリット語の原文を持ってくるように頼みました。彼はくり返しサンスクリット語の原文を拾い読みし始めました。彼は自発的に「アートマ・ボーダ」のはじめの2詩節をタミル語の(タミル語の4行詩の一種、英語の14行詩のソネットのような)ヴェンパに翻訳し、それらを紙に書き留めました。

 信奉者のK.Sはこれを見ていて、シュリー・バガヴァーンに、「シュリー・バガヴァーンはくり返し何かの本を熟読しているようですが、それはどの本ですか」と尋ねました。シュリー・バガヴァーンは「アートマ・ボーダ」の最初の2詩節の「タミル語の4行詩訳」を見せました。それを見て、K.Sは、「同じように残りの(66)詩節も書かれるなら、良いですね」と言いました。バガヴァーンは、「結構、結構。一体これはどういうわけですか」と答えました。シュリー・バガヴァーンがそのように言ったのは、いつも彼は何をするにも決して率先して行うことがなかったからです。彼の本質は常に、肉体的にさえも、静かにいることでした。

 しかし、何かが内側から彼を促しているに違いありませんでした。二日後に、彼は「アートマ・ボーダ」の次のサンスクリット語の数詩節をタミル語の詩節に翻訳し、V.Rに見せました。彼はV.Rに「なぜ私が書かねばならないのかと思って静かにしているなら、これは私から離れようとしないみたいです。次から次へとこれらがやって来て、私(私の心)の前に立ちます。私はどうすればいいのですか」と言いました。もう数詩節を書いた後、彼はV.Rに「この先、これは私を離れようとしないでしょう!これらのタミル語の翻訳を書きとめるために私にノートを持ってきて下さい」と言いました。そのように言って、彼はV.Rに導入の詩節さえも見せました。

 非常にわずかな日数で、シュリー・バガヴァーンは「アートマ・ボーダ」のサンスクリット語の68詩節すべてを68のタミル語の4行詩に翻訳しました。それから彼はそこにいる人たちを見て、「40年前、マラヤーラム語(南インドの言語)の文章を含む小冊子がここに届きました。その冊子の中に、これらのサンスクリット語の「アートマ・ボーダ」の詩節がのっていました。その時は、(私の中に)それらをタミル語に翻訳しようという何の思いも生じませんでした」と言いました。ある信奉者が、「すべてのことにとって、(適切な)時期がくるはずではないのですか」と答えました。それに対して、シュリー・バガヴァーンは、「そうです、そうです!今、私が4行詩を一つ書くと、別の4行詩が(私の心の前に)現れます」と言いました。

 彼はさらに、「私はこの『アートマ・ボーダ』を以前に読んだようにも感じます。以前に、誰かこの『アートマ・ボーダ』をタミル語の4行詩で書きませんでしたか」と言いました。「今まで誰もこれらをタミル語の4行詩として書いていません」とシュリー・ムルガナールは言いました(シュリー・ムルガナールはタミル人の教師で、タミル語の偉大な詩人であり、もちろんシュリー・バガヴァーンの偉大な信奉者です)。そして、彼はさらに続けて、「これらの詩節が次から次へとシュリー・バガヴァーンの前に現れることに何の驚きがありますか。これは創造の周期の始まりに、ブラフマー(創造神)の心の前にヴェーダが現れるのとただ似通っているだけです」と言いました。ヒンドゥー教の信仰では創造は創造神、つまり、ブラフマーを通じて起こります。そして、ブラフマーはヴェーダどおりに世界を創造します。それらのヴェーダは、創造のそれぞれの周期のはじめに彼の前に自動的に現れ、彼にヴェーダの規定に従って世界を創造することを可能にします。それに対して、シュリー・バガヴァーンは笑いながら、「そのとおりです!しかし、自分だけがこれらのタミル語の4行詩を作ったと言い、私と戦いに誰も来なければいいのですが」と言いました。シュリー・バガヴァーンがそのように言ったのは、インドでは虚偽の理由でさえ、嫉妬心のため、もしくは、神聖な歌が最初に彼らによって作られたという名声を得ようとして人々が戦うことは一般的であるからです。

 シュリー・バガヴァーン自身の意思により書かれた本はほとんどありません。大部分の本は何らかの内側の促しにより書かれました。しかし、不運なことに、どのように内側から彼が促されたかはシュリー・バガヴァーンのわずかな本の中にしか記録されていません。

◇『シュリー・ラマナ・マハルシの全集(Collected Works of Sri Ramana Maharshi)』


アートマ・ボーダ(自らの知)

シュリー・バガヴァーンによる祈りの詩節

自らの啓示者であるシャンカラが、自分自身の自らと異なりうるのか
彼以外の誰が、今日、私の中の最奥の自らとして住まい、タミル語でこれを話すのか

本文

1.
これ-アートマ・ボーダ-は、長きにわたるタパスにより、すでに自分自身から不純物をとり除き、心安らかで、欲望がなくなった解放の探求者の望みを満たすためのものである。

2.
料理に火が必須であるのと同様に、解放へのあらゆる手段の中で、唯一、知のみが直接的なものである。それなくして、解放を得ることはできない。

3.
無知に対抗していないため、カルマはそれを破壊しない。一方、光が闇を破壊するのと同じく確実に、知は無知を破壊する。

4.
無知ゆえに自らは覆われているかのように見える。無知を取り除くや否や、雲が去った後の太陽のごとく、純粋な自らがひとりでに輝きだす。

5.
ジーヴァは無知と混ざり合っている。絶え間ない知の修練により、ジーヴァは純粋になる。カタカの木の実の粉(*1)が水の中の汚れと共に消えるように、知は(無知ともに)消える。

しかし、ここに世界があります。どうして自らのみが現実であり、不二でありうるのですか。

6.
サンサーラは好悪(こうお)、その他の対立する二組に満ちている。夢のごとく、しばらくの間、それは現実のように見える。しかし、目覚めるや否や、非現実であるがゆえに、それは消え去る。

夢は目覚めるとすぐに打ち消されるので、私はそれが非現実であると知っています。しかし、世界は存続し、私はそれを現実であるとしか気づいていません。

7.
全ての根底(礎)である不二のブラフマンが見られない限り、世界は現実のように見える。真珠母貝の偽りの銀色のように(*2)

しかし、世界はとても多様です。それなのに、あなたはただ一者のみあると言います。

8.
大海の表面に生じている泡のごとく、全世界は全ての支えであり、根本の原因である至高なる存在(パラメーシャ)から生じ、その中に留まり、その中に溶け込む。

9.
存在‐意識‐至福、全てに行き渡る永遠のヴィシュヌの中に、それら多様な全てのものや個々人が、黄金から作られる様々な宝飾品のごとく(現象として)現れる。

分かりました。しかし、無数の個々人の魂についてはどうですか。

10.
遍く行き渡るアーカーシャ(虚空)が(穴や、瓶や、家や、劇場の中のように)様々なものの中でばらばらになっているように見えるが、その制限が抜け落ちるや否や分かたれないままにあるのとまさしく同様に、五感の唯一、不二の支配者も同様である(神々や、人間や、牛などとして活動するように見えている)。

しかし、個々人は異なる特性を持ち、異なる条件に従い行動します。

11.
特性なども付け加えられたものである。(それ自体は味のない)純粋な水は、それに加えられたもの(ウパーディ)にしたがい、甘くなったり、苦くなったり、塩辛くなったりする。同様に、人種、名前、地位などはみな、万物の不二の自らに付け加えられたものである。自らにそのようないたずらをするこれらのウパーディとは何か。それらは、ここに粗大なもの、微細なもの、非常に微細なものとして示される。

12.
五つの粗大な要素(地、水、火、風、虚空)から成り立つ粗大な体は、苦楽の形で過去の行為の結果を受けるためにある。

13.
五つの気、心、知性、十種の感覚器官から構成され、微細な要素から成り立つ微細な体もまた、(夢にいるように)楽しみのためにある(*3)

14.
表現しえない始まりなき無知は、(深い眠りにいるように)原因となる体と言われている。自らは、これら三つのウパーディと異なると知れ。

15.
(それ自体は色のない)透明な水晶が背景に従い、赤や青や黄色などのように見えるのとまさしく同様に、純粋で汚れなき自らもまた五つの鞘(*4)と一体のように見える。

16.
稲の殻を取ることで中にある米があらわになるのとまさしく同様に、人は思慮深く、純粋なアートマンをそれを覆っている鞘から分離すべきである。

アートマンはあらゆる所に存在すると言われています。それでは、なぜそれが五つの鞘の中に思慮深く探されるべきなのですか。

17.
あらゆる所に常に存在するが、自らはあらゆる場所には輝き出ない。光が透明な媒介の中でのみ反射するのとまさしく同様に、自らは知性の中にのみ明確に見られる。

18.
王がその臣下と関わるように、自らは知性の中に体、感覚、心、知性、粗大な性質(プラクリティ)の活動の目撃者として、しかし、それらから離れ、実現されている。

自らはそれらの活動に関与しているように見えます。ですから、彼はそれらと異なるものではないし、目撃者でもありえません。

19.
周囲にある雲が動く時、月が動くように見えるのとまさしく同様に、識別しない者には、実際には感覚が活動的な時、自らもまた活動的に見える。

活動するには、体などにも知性がなければありませんが、それらは不活発であると言われています。それらはその活動に関与する知性ある自らがなければ、どうして活動できますか。

20.
人間が太陽の光の中で務めを果たすのとまさしく同様に(しかし、太陽はそれに関与しない)、体や五感なども、自らの関与なく、自らの光の中で機能する。

確かに、自らのみが知性です。私は私自身が生まれ、成長し、衰え、幸福になり、不幸になったりなどすることを知っています。正しいでしょうか。

21.
そうではない。(誕生、死などの)体の特性や五感は、空にある青色のごとく、識別しない者たちによって存在‐意識‐至福に付け加えられたものである。

22.
水面に映る月の上の水の動きのごとく、行為の主体などのような心の特性もまた、無知によってアートマンに付け加えられたものである(*5)

23.
知性が現れる時にのみ、好悪、苦楽が感じられる。深い眠りにおいて、知性は潜在しており、それらは感じられない。それゆえに、それらは知性のもので、アートマン(自ら)のものでない。ここにアートマンの本質がある。

24.
光がまさに太陽であり、冷たさが水であり、熱が火であるように、永遠の純粋な存在‐意識‐至福がまさに自らである(*6)

いつかしら、全ての個々人は「私は幸せです」と感じており、それゆえに存在‐意識‐至福の経験は明白です。どうすれば、この経験を永続的で、不変のものにできるのでしょうか。

25.
存在‐意識は自らのものである。「私」という形態または変形体は、知性のものである。これらは明確に二つである。しかしながら、無知によって個人はそれらを混合し、「私が知る」と思い、それに従い行為をなす。

26.
アートマンの中にはいかなる変化(もしくは、行為)もなく、知性の中に知識もない。ジーヴァのみがそれ自身を知る者、行為者、見る者と誤って考えている。

27.
縄を蛇と見紛(まが)うように、ジーヴァを自らと間違え、人は恐怖に陥りやすい。それに対し、自分自身をジーヴァでなく、至高なる自らとして知るならば、人は完全に恐怖を持たない。

28.
壺のごとき対象を灯火が照らすように、自らのみが五感や知性などを照らす。それらは不活発なため、自らはそれらによって照らされない。

もし自らが知性によって知ることができないならば、自らを知るための知る者がおらず、自らを知ることはできません。

29.
光を見るために、その他の光を必要としない。そのようにまた、自らは自ら輝くゆえ、知るための他の方法を必要としない。それは独り輝く。

もしそうであるならば、全ての人が自らを実現しているはずですが、そうではありません。

30.
「これでない、これでない」というヴェーダの教えの力に基づき、一切の付加物(ウパーディ)を取り除き、マハーヴァーキャ(*7)の助けによりて、ジーヴァートマン(個別の自分)とパラマートマン(至高なる自ら)の一致を実現せよ。

31.
体のような外界すべては無知から生まれ、水面の泡のように移ろいやすい。自らはそれと異なり、ブラフマン(至高者)と同一であると知れ。

32.
粗大な体と異なるため、誕生、死、老年、衰弱などは私に属していない。五感でないため、私は音などの五感の対象と何の関わりも持たない。

33.
スルティは言明している。「私は生命の気(プラーナ)でなく、心でなく、純粋な(存在)である」。心でないため、私には好悪、恐怖などがない。

34.
「私は属性がなく、動きなく、永遠であり、分かたれず、汚されず、不変であり、無形であり、常に自由で純粋である。

35.
「虚空のごとく、私は常に全ての内に外に行き渡り、揺るぎなく、全ての中に常に等しくあり、純粋であり、汚されず、澄み渡り、不動である。

36.
「変わらずに永遠であり、純粋であり、常に自由であり、ただ独りのままあるそれ、不滅の至福、不二の存在‐意識‐至福、超越的なブラフマンが私である」。

37.
効き目ある治療薬(ラサーヤナ)が病を根絶するように、「私はブラフマンのみである」という絶え間ない長き修練は、無知から生まれる一切のヴァーサナー(潜在的傾向)を破壊する。

38.
冷静であり、五感を支配下に置き、心をさ迷わないようにせよ。人のいない場所に座り、自らを無限で、ただ独りのみとして瞑想せよ。

39.
心を純粋に保て。鋭い知性により、外界にある一切を自らに溶け込まし、自らを虚空ごとく澄みわたり、ただ一者のみとして常に瞑想せよ。

40.
一切の名と形を捨て去ったため、あなたは今や至高なる存在を知る者であり、完全な意識‐至福のままある。

41.
意識‐至福と同一であるため、知る者と知られるものというような分かれはもはやない。自らはそれ自身として輝き出ている。

42.
このように絶え間ない瞑想の過程により、二片の木切れ、すなわち、自らと自我はこすり合わされ、知の火からの炎は無知の一切を焼き払う。

43.
このように知が無知を破壊する時、夜明けの光が夜の暗闇を追い払うように、自らは太陽のごとく、そのまったき栄光で昇る。

44.
確かに、自らはいつも今ここにある。しかし、それは無知ゆえに明らかでない。無知が破壊されるや否や、(無くしたと思っていた)自分の首にある首飾りのごとく、自らはあたかも得られたかのように見える。

45.
暗闇の中で郵便箱が人と見紛われるのとまさしく同様に、無知の中でブラフマンもジーヴァと見紛われる。しかしながら、ジーヴァの本質が見られるなら、幻は消え去る。

46.
現実の体験に基づき生じる知は、「私」および「私のもの」なる無知な認識を即座に破壊する。その認識は、暗闇の中で方向を間違う思い違いに似ている。

47.
自らを完全に実現したヨーギであるジニャーニは、知恵の目によって外界の全現象が自らの中にあり、自らから出現し、従って、自らのみが唯一の存在であると見る。

それでは、どのように世界で振る舞えばいいですか。

48.
粘土がそこから様々な道具(壺、瓶などのような)が作られる唯一の素材であるのとまさしく同様に、彼は自らもまた全世界であり、自ら以外に何も存在しないと見る。

49.
生きているにもかかわらず解放されるためには、蜂へ変わる蛆(うじ)のごとく(*8)、聖者は付加物(ウパーディ)を完全に遠ざけ、存在‐意識‐至福なる本質を得なければならない。

50.
幻影の海を渡り、好悪なる悪魔を殺し、ヨーギは今やシャーンティ(安らぎ)とつながり、自らの中に喜びを見出し、そのまったき栄光のままにある。

51.
ジーヴァンムクタは移ろいゆく外的な一切の楽しみから解放され、彼自身の自らに喜び、壺の中の灯のごとく明瞭で、堅固なままある。

52.
その中に含まれている対象物によって汚されないアーカーシャ(虚空)のように、ムニ(聖者)は彼を覆っている付加物(ウパーディ)によって汚されない。全てを知る者であるが、相変わらず彼は知らない者のようであり、触れる対象物により汚されない空気のごとく動く。

53.
付加物(体、五感など)が消滅する時、水の中に水が、虚空の中に虚空が、火の中に火が溶け込むがごとき、今や特異性から解放された聖者は遍く行き渡る存在(ヴィシュヌ)に溶け込んでいる。

54.
この利得を超える利得はなく、この至福を超える至福はなく、この知を超える知はない-これをブラフマンと知れ。

55.
それを見るとき見るものが何も残らず、それになるときサンサーラへもはや戻らず、それを知るとき知るものが何も残らない-それをブラフマンであると知れ。

56.
上に、下に、周りに、万物を満たすもの、存在‐意識‐至福そのもの、不ニであり、無限であり、永遠であり、唯一なるもの-それをブラフマンであると知れ。

57.
不変不滅の至福として、唯一なるものとしてあるもの、聖典さえも「それでない、それでない」と除外する過程により間接的に示している、それ-他ならぬそれがブラフマンであると知れ。

58.
アートマンの尽きることなき至福のかけらに依存し、ブラフマーといった全ての神々はそれぞれの段階に従い、至福を楽しむ。

59.
牛乳の中のバターのごとく、全世界はその中に含まれている。全ての活動はそれのみに基づいている。それゆえ、ブラフマンは遍く行き渡っている。

60.
微細でも粗大でもなく、短くも長くもなく、作りだされず、消費されないもの、形、属性、カースト、名前を欠くもの-それがブラフマンであると知れ。

61.
その光によって太陽と他の輝くものが輝き出すが、それ自体はそれらによって照らされず、その光の中でこの全てが見られる-それがブラフマンであると知れ。

62.
赤熱した鉄の破片の中の火のごとく、ブラフマンは内に外に、終始、全世界に行き渡り、それを輝かせ、それ自体も独り輝く。

63.
ブラフマンは全世界と異なるが、ブラフマンから離れて何ものも存続しない。もしブラフマン以外のものが現れるとすれば、それは蜃気楼の水のように幻に過ぎない。

64.
見られるもの、もしくは聞かれるものは何であれ、ブラフマンと異なりえない。真の知はブラフマンを存在‐意識‐至福であり、唯一、不ニであると見出す。

65.
知恵の目のみが遍く存在する存在‐意識‐至福を見ることができ、無知の目は見ることができない。なぜなら、盲目は太陽を見ることができない。

66.
浮きかすを除いた黄金のごとく、ジーヴァ(サーダカ)は、シュラヴァナ、マナナ、ニディディヤーサナにより煽られ、突如として燃えだす知の炎により彼の一切の不純を焼き払い、今や彼は独り輝き出る。

67.
暗闇を追い払う者である知の太陽が昇ったため、アートマンが全てに遍在する維持者としてハートの広がりの中に輝き、全てを照らしている。

68.
あらゆる場所で今ここに得られる、澄み渡り、温かく、常に清涼なアートマンなる水に沐浴する彼を特別な中心地や時節の中に探す必要はない。そのような人は行為なきままある。彼は全てを知る者である。彼は全てに行き渡り、常に不死である。

(*1)英訳にはカタカという言葉は出てきませんが、他訳ではカタカという木の実の名前が出てきます。この実の粉を泥水の上にかけると、膜状になり、汚れを除きながら下に沈んでいきます。雨季に川の水が泥と混ざるときに泥を除くために使われるようです。
(*2)真珠をつくる真珠母貝の内面は美しい銀色の光沢をもちますが、本当の銀ではありません。
(*3)「五つの気(パンチャ・プラーナ)」は「プラーナ、アパーナ、ウダーナ、サマーナ、ヴャーナ」。「十種の感覚器官(ダシャ・インドリヤ)」は、「眼、耳、舌、鼻、皮膚の五つの感覚器官と舌、手、足、肛門、生殖器という活動の器官」。また、他訳では「楽しみのためにある」は「経験のための道具である」となっています。
(*4)五つの鞘・・・パンチャ・コーシャ。粗大な体は「アンナマヤ・コーシャ」、微細な体は「プラーナーマヤ・コーシャ、マノマヤ・コーシャ、ヴィジナーナマヤ・コーシャ」、原因となる体は「アーナンダマヤ・コーシャ」に対応しているようです。
(*5)他訳では、「水に属している揺らぎが、無知を通じて水面で踊っている月のものとされる」とあります。
(*6)他訳では「輝きが太陽の本質であり、、」というように「本質」という言葉が使われています。
(*7)マハーヴァーキャ・・・たいてい4つのヴェーダからとられた真理を表す言葉を意味する。バガヴァーンとの対話では、チャンドーラギャ・ウパニシャッドからの「tat tvam asmi(汝はなり)」とブリハダーランヤカ・ウパニシャッドからの「aham brahmasmi(私はブラフマンである)」がよく引用されてています。
(*8)ここではウジ(maggot)が使われ、他訳では虫(worm)が使われています。幼虫(larva)は使われていません。

2012年3月28日水曜日

「ハスターマラカの賛歌(ストートラ)」 ハスターマラカーチャーリヤ作

◇『シュリー・ラマナ・マハルシの全集(Collected Works of Sri Ramana Maharshi)』
 「ハスターマラカの賛歌」は、サンスクリット語が読めない信奉者のためにバガヴァーン・ラマナがタミル語へ翻訳したものです。英訳は、おそらくアーサー・オズボーン氏のものです(文:shiba)
ハスターマラカの賛歌

シュリー・バガヴァーンによる紹介

 世界のグルであるシャンカラが、インドの西の地域を旅をしながら、様々な思想学派の解説者を討論で打ち負かしていた時、ある時、スリヴァリという名の村に到着した。プラバーカラという名前の村に住むバラモンの住民は、シャンカラの来訪を聞くとすぐに彼の十三歳の息子と共にシャンカラのもとへ行った。彼はシャンカラの前で平伏し、息子も平伏させた。その後、彼は少年が子供のころから口がきけず、好き嫌いがなく、名誉や不名誉の意識もなく、全く活発でないと説明した。その後、グルは子供を立たせ、快活な調子で以下のように尋ねた。

本文

1.
「汝は誰か。汝は誰の息子か。いずこに束縛されているのか。汝の名前は何か。汝はどこから来たのか。おお、子よ!私はこれらの問いに対する汝の答えを聞きたい」。このようにシャンカラーチャーリヤは子供に話し、ハスターマラカは以下のように返答した。

2.
私は人間でも、神でも、ヤクシャでも、バラモンでも、クシャトリヤでも、ヴァイシャでも、シュードラでも、ブラフマチャリでも、家住者でも、森住者でも、サンニャーシでもない。私は純粋な自覚のみである。

3.
太陽が世界の全活動を引き起こすのとまさしく同様に、私-常に存在する意識ある自ら-は、心を活発にさせ、五感を働かせる。また、虚空が遍く行き渡っているが、どの特性も欠くのとまさしく同様に、私は一切の性質を持たない。

4.
私は意識ある自らであり、常に存在し、いつも熱が火と関わっているのと同様に、万物と関わる。私はかの永遠の、未分化の、揺らぐことなき意識であり、それにより意識なき心と五感がそれぞれの方法で働く。

5.
私はかの意識ある自らであり、鏡像が映し出される対象から独立しないように、自我はそれから独立しない。

6.
私は制限なき意識ある自らであり、対象が反射する鏡を取り除いた後でさえ常に同じままにあるのとまさしく同様に、ブッディの消滅の後でさえも存在する。

7.
私は永遠の意識であり、心と感覚から離れている。私は心の中の心、目の中の目、耳の中の耳などである。私は心と五感によって認識しえない。

8.
私は永遠の、唯一の、意識ある自らであり、太陽が様々な水面に映し出されるのとまさしく同様に、様々な知性の中に映し出される。

9.
私は唯一の、意識ある自らであり、太陽が同時に全ての目を照らし、それにより目が対象物を知覚するのとまさしく同様に、全ての知性を照らす。

10.
太陽により手助けされる目のみが対象を知覚でき、その他(の目)はできない。太陽がその力を得る源が、私自身である。

11.
揺らめく水面上の太陽の影は割れているように見えるが、静かな水面上では完全なままにあるのとまさしく同様に、私、意識ある自らも、落ち着いた知性の中に明瞭に輝くが、動揺した知性の中では認識しえない。

12.
愚か者が太陽が厚い雲に覆われる時に全く失われていると考えるのとまさしく同様に、人々は常に自由な自らが束縛されていると考える。

13.
虚空が遍く行き渡り、接触に影響されないのとまさしく同様に、いかようにも影響されることなく、常に意識ある自らも万物に行き渡る。私は、かの自らである。

14.
透明な水晶がその背景にある輪郭を帯びても、それによりいかようにも変化しないのとまさしく同様に、そして、波立つ水面に映し出されるや否や、変わることなき月が揺らぐように見えるのとまさしく同様に、全てに行き渡る神である、あなた(=シャンカラ)もそのようである。

15.
このストートラは手のひら(ハスタ)に置かれたアマラカの実のように明瞭に自らを表わしたため、それはハスターマラカ・ストートラの名を受けた。さらに、ジニャーナにおいて卓越した少年は、この世界の全ての人によってハスターマラカとして賞賛されるようになった。

 少年の父親はそれらの言葉に驚き、口がきけなかった。しかし、アーチャーリヤは彼に、「彼は未完成の苦行のために、あなたの息子になりました。これはあなたの幸運です。彼はこの世であなたの何の役にも立ちません。彼を私と共にいさせましょう」と言った。アーチャーリヤは父親に帰るように命じ、少年を同伴して道を進んだ。それから、弟子は彼に、「(師の教えの)聴聞などなしに、この少年はどうしてブラフマンの境地を得ることができたのでしょうか」と尋ねた。グルは、「彼の母親は、数人の女性と共に川へ沐浴に行く間、ヤムナ川の岸で苦行を行っていた偉大な卓抜したヨーギに二歳の子供の世話を任せました。子供はよちよち歩いて川に向かい、溺れました。絶望した母親を哀れに思って、サードゥは体を捨て、その子供の体に入りました。そのために、この少年はこの優れた境地を得たのです」と答えた。

◇「山の道(Mountain Path)」、1994年、ジャヤンティ 
 「Mountain Path」(94年)に「ハスターマラカの賛歌」の英訳が掲載されていたのですが、「シュリー・バガヴァーンによる紹介」と第15詩節の内容が、上述の『Collected Works~』にある英訳のものと異なっており、また、後書きもありませんでした。以下には、その紹介と第15詩節の日本語訳を記します。(文:shiba)
シュリー・バガヴァーンによる紹介

 バラモンの女性がジャムナ川へ沐浴に行った。土手でヨーギが瞑想して座っているのを目にし、彼女は一人っ子の二歳の男の子を彼のそばにおいて、彼女が沐浴から戻るまで面倒を見てくれるように頼んだ。戻って来ると、彼女はヨーギが瞑想に没頭している間に子供が溺れ死んだことに気づき、ひどくうろたえた。先立たれた母親が彼の死をとても大きな声で嘆き悲しんだため、ヨーギは目を覚ました。何が起こったのかを理解し、彼は哀れに思い、気の毒な母親を慰めるため、ヨーガの力によって彼自身の体を捨て、死んだ子供の体に入った。子供が生き返ったのを見て、母親は大喜びし、彼の奇跡的な復活の秘密をわざわざ見つけ出そうとはせず、彼を連れて家に戻った。

 少年は普通の子供のようには成長しなかった。彼はあまりに黙想的であり、学んだり、舌足らずに話したり、遊んだりせず、いかようにも両親を楽しませなかった。そのため、彼らは彼が耳が聞こえなく、言葉を話せないに違いないと思った。

 数年後、アーディ・シャンカラーチャーリヤが近隣を旅していた。両親は子供を彼のところに連れてゆき、どうかあなたのその聖なる力によって子供を健康な状態に戻してくださいますように、と祈った。アーチャーリヤは一目で様子を見て取って、少年にいくつもの質問を投げかけた。少年は番に当たって即座に答え、その知恵の崇高さにより聴衆を驚嘆させた。

 両親は息子についての真実を知った後すぐ、彼をアーディ・シャンカラに託した。彼はその時からハスターマラカとして知られ、偉大なる師の四人の主導的な弟子の一人となった。

第15詩節

この賛歌は自らという現実を手(ハスタ)の中のアマラカの実のように明瞭に表したため、それは「ハスターマラカ・ストートラ」と知られるようになった。ジニャーナ(知恵)の完熟した果実であるこの少年は、その少年時代からさえ、「ハスターマラカン」として知られるようになり、全ての人から敬われた。

2011年12月17日土曜日

シュリー・シャンカラーチャーリヤの教えの批判への反論、世界の現実性

◇『シュリー・ラマナ・マハルシとの対話(Talks with Sri Ramana Maharshi)』 p289、290

Talk 315. 

付き添いの一人:
 シュリー・バガヴァーンは、「現実と架空のものは、共に同じものである」と言いました。 どうしてそうなのですか。

バガヴァーン:
 タントラ教徒やそのたぐいの他の人々は、正しい理解をせずに、シュリー・ シャンカラの哲学をマーヤー・ヴァーダ(*1) として非難します。彼は何と言いますか。彼は(以下のように)言います。

①ブラフマンは現実である(*2)
②全世界は架空のものである(*3)
③ブラフマンは全世界である

  彼は二番目の発言でやめず、それに三番目をさらに付け加えます。それは何を意味するでしょうか。全世界はブラフマンから離れていると思われており、その認識は誤りです。

 論敵は、彼のラッジュ・サルパ(縄と蛇)(*4)の例を指摘します。これは無条件の付加です。縄という真実が知られる後、蛇という幻はきれいさっぱり取り除かれます。しかし、彼らは条件つきの付加も考えに入れるべきです。つまり、マルマリーチカーもしくはムリガトリシュナ(蜃気楼の水)(*5)です。蜃気楼はそれを蜃気楼であると知る後さえも消えません。その景色はそこにありますが、水を求めて駆け寄ることはありません。

 シュリー・シャンカラは、両方の例示の見かたで理解されなければなりません。世界は架空のものです。それを知る後にさえも、世界は現れつづけます。世界はブラフマンであり、(それから)離れていないと知られなければなりません。

 「世界が現れるならば、しかし、誰に現れますか」と彼は尋ねます。あなたの答えは何ですか。あなたは自らと言わなければなりません。でなければ、世界は認識する自らがなくても現れるのでしょうか。それゆえに自らが現実です。これが彼の結論です。現象は自らとして現実であり、自らから離れては架空のものです。

 さて、タントラ教徒などは何を言いますか。彼らは、「現象はそれが現れる現実の一部であるから現実である」と言います。この二つの意見は同じではありませんか。これが「現実と虚偽が全く同じある」ということによって私が言わんとすることです。

 論敵は続けます。「無条件の幻と同様に条件つきの幻を考えに入れるなら、蜃気楼の水という現象は純粋に幻である。というのも、その水はどのような目的にも使えない。一方、世界という現象は異なる。というのも、世界には目的がある。それでは、どうして後者(世界)が前者(蜃気楼の水)と同等になるのか。」

 現象は、一つの目的、もしくは、複数の目的に叶うからというだけで、現実なるものになりえません。夢を例にとりましょう。夢の創造物には目的があります。それらは夢の中の目的に叶います。夢の中の水は夢の中の渇きをうるおします。しかしながら、夢の創造は目覚めの状態において否定されます。目覚めの創造は、他の二つの状態において否定されます。連続していないものは現実になりえません。現実であるなら、それは常に現実であるはずです。短い間だけ現実であり、その他の時間は現実でない、ということではなく。

 魔法の力による創造物も同じです。それらは現実のように見えますが、しかし、幻です。同じく全世界はそれ自身で、つまり、根底にある現実から離れて現実となりえません。

(*1)マーヤー・ヴァーダ・・・「幻についての教え」
(*2)ブラフマン・・・「至高の存在、絶対的現実」。「成長する、増大する」を意味する動詞のbrhから由来しており、「広大・無量」を含意する。万物の非人格的な、遍く行き渡る、無限の原因であり、支え。無形で無属性。万物のそれ自体はその原因をもたない原因。その本質は、サット(絶対的存在)、チット(意識)、アーナンダ(至福)である。
(*3) 全世界・・・英語のthe universeの訳。「存在するもの全て、万物、森羅万象、全世界」
(*4)ラッジュ・サルパ・・・ラッジュは「縄」で、サルパは「蛇」。暗闇の中で縄を蛇だと勘違いしてしまうという例。
(*5)マルマリーチカー/ムリガトリシュナ・・・「蜃気楼」

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』 p190~191 前略

1946年4月7日 夜 

 この論点から、話は様々な思想学派へと移りました。ある学派はただ一つの現実のみあると言い、他の学派はジャガット、ジーヴァ、イーシュワラ(*1)もしくは、パティ、パシュ、パーシャム(*2)というような三つの永遠の実体があると言います。これに関連して、バガヴァーンがユーモアたっぷりに以下のことを述べました。

 「アドヴァティンやシャンカラの学派が世界の存在を否定したり、彼らがそれを非現実とみなすと言うことはまったく正しくありません。それどころか、彼らにとってそれは他の人々よりも現実的なのです。彼らの世界は常に存在しますが、他の学派の世界は起源・成長・衰退を持ち、それゆえに現実になりえません。ただ、彼らが言うことは、世界は世界として現実でないが、世界はブラフマンとして現実であるということです。全てはブラフマンであり、ブラフマン以外何も存在せず、世界はブラフマンとして現実です。このようにして、彼らは他の学派以上に世界に現実性を与えていると主張します。

 例えば、三つの実体を信じている学派によると、ジャガットは現実性の三分の一でしかありませんが、アドヴァイタによると、世界はブラフマンとして現実であり、世界と現実は異なるものでありません。同様に、神やブラフマンにさえ、他の学派は三分の一の統治権しか与えていません。他の二つの実体が必然的に神の現実性を制限しています。ですから、シャンカラがマーヤー・ヴァーディ(*3)と呼ばれる時、『シャンカラはマーヤーが存在しないと言います。マーヤーの実在を否定し、それをミティヤや、非実在と呼ぶ彼をマーヤー・ヴァーディと呼ぶことはできません。その実在を認め、その産物である世界を現実と呼ぶ者たちがマーヤー・ヴァーディと呼ばれて然るべきです。イーシュワラを否定する者たちはイーシュワラ・ヴァーディ(*4)と呼べません。イーシュワラの存在を肯定する者のみがイーシュワラ・ヴァーディなのです・・・』と言い返せるかもしれません。」

 バガヴァーンはつづけて、「もちろん、この全ては無益な論争です。そのような論争に終わりはありません。なすべき適切なことは、『私』を見つけ出すことです。その存在について誰も疑いを持たず、眠っている間のように、他の一切のものが消えた時にそれのみが存続します。その後で、そのような疑問や論争の余地があるのか確かめなさい」と言い足しました。

(*1)ジャガット、ジーヴァ、イーシュワラ・・・「世界、個々の生命、神」
(*2)パティ、パシュ、パーシャム・・・シャイヴァ・シッダーンタ哲学の3つの主要素。文字通りの意味は「主人、牝牛、鎖」。「神、個々の生命、束縛」を意味する。
(*3)マーヤー・ヴァーディ・・・「マーヤー(幻)について論じる者、提唱者」
(*4)イーシュワラ・ヴァーディ・・・「イーシュワラについて論じる者、提唱者」

◇『シュリー・ラマナーシュラマムからの手紙(Letters from Sri Ramanasramam)』 p117、118

1946年8月24日
(69)ブラフマンは現実である-世界は幻である

 いくらか前に、アーシュラムへの新来者がバガヴァーンに英語で何か尋ねました。私はその言葉を知らないので、分かりませんでした。しかし、バガヴァーンはタミル語で答えました。私が把握できる限りの彼の返答を以下に記します。

バガヴァーン:
 ブラフマンが現実であり、世界は幻であると言われています。また、全世界はブラフマンのイメージ(心象、映像)であると言われています。これら二つの言明がどのように調和させられるのか、という質問が起こります。サーダカの段階において、あなたは世界は幻であると言わざるをえません。他の道はありません。なぜなら、人が自分が現実であり、永遠であり、遍く存在するブラフマンであることを忘れ、自分自身を移ろいゆく(多くの)体でいっぱいの世界の中の一つの体であると誤って思いこみ、その幻の下で苦しんでいる時、あなたは彼に世界は非現実であり、幻であると思いださせなければなりません。なぜでしょうか。なぜなら、この外側の物質的な世界すべてが非現実であると印象付けなければ、自分自身の自らを忘れた人の認識は、外側の物質的な世界に住まい、内観へと内に向かないからです。

 いったん人が自分自身の自らを実現し、そしてまた自分自身の自ら以外何も存在しないこと悟る時、彼は全世界をブラフマンとして見るようになります。自ら無くして、世界はありません。人が全ての起源である自分自身の自らを見ず、外側の世界だけを現実であり、永遠であると見る限り、あなたは彼に「この外側の世界すべては幻である」と言わなければなりません。そうせざるをえません。

 紙を例にとりましょう。我々は文字だけを見て、誰も文字が書かれた紙に注目しません。文字が上にあってもなくても、紙はそこにあります。文字が現実であるとみなす人々のために、あなたはそれが非現実であり、幻であると言わなければなりません。なぜなら、文字は紙に依拠しているからです。賢明な人は、紙と文字を一つであると見ます。ブラフマンと世界もまたそのようです。

 映画の場合も同じです。スクリーンはいつもそこにあります。映像は行ったり来たりしますが、スクリーンに影響しません。映像が現れても消えても、スクリーンが何か気にしますか。映像はスクリーンに依拠しています。しかし、映像はスクリーンにとって何の役に立ちますか。スクリーン上の映像のみを見て、スクリーンそのものを見ない人は、そのストーリーの中で起こる苦楽に悩まされます。しかし、スクリーンを見る人は、映像がすべて影(幻)であり、スクリーンから離れた別の何かではないと理解します。世界もまたそのようです。世界はまったく影絵芝居そのものです。

 質問者はその答えに喜び、いとまごいをし、去ってゆきました。