2012年10月28日日曜日

文字が読めなくとも解放は得られる、ありあまる知識の弊害

◇『シュリー・ラマナーシュラマムからの手紙(Letters from Sri Ramanasramam)』 

(34)書籍

 1944年のある朝、ある弟子がバガヴァーンに懇願するように言いました。「バガヴァーン、私は本を読み、それによってムクティ(*1)を達成する道を見つけたいのですが、本の読み方を知りません。何をすればいいのでしょうか。どのようにしてムクティを実現できるのでしょうか」。バガヴァーンは、「文字を読めなくても、何が問題なのですか。あなたがあなた自身の自らを知るならば、それで十分です」と言いました。彼は、「ここの人々はみな本を読んでいます。しかし、私はそれをできません。何をすればいいのでしょうか」と言いました。

 その弟子のほうに手を伸ばし、バガヴァーンは、「本が何を教えていると思いますか。あなたはあなた自身を見て、その後、私を見ます。それは、あなた自身を鏡の中に見るように、あなたに頼むようなものです。鏡は顔の上にあるものだけを映します。あなたが顔を洗った後で鏡をみると、顔はきれいに見えます。そうでなければ、鏡は、『ここに汚れがありますよ。洗った後で戻ってきなさい』と言います。本も同じことを言います。自らを実現した後に本を読むなら、全てのことは簡単に理解されます。自らを実現する前に本を読むなら、あなたはいつもとても多くの欠点を見ます。本は、『はじめに、あなた自身を正し、その後、私を見なさい』と言います。それが全てです。はじめに、あなたの自らを見なさい。机上の学問について、どうしてそんなに思い悩むのですか」と言いました(*2)

 その弟子は満足して、励まされて帰っていきました。その問題について質問する勇気のある別の弟子が、会話の穂を継ぎ、「バガヴァーン、あなたは彼におかしな説明をしました」と言いました。バガヴァーンは、「説明の中で何がおかしいのですか。全て真実です。私が若い時に、どのような本を読みましたか。私が他の人から何を学びましたか。私は常に瞑想に没頭していました。しばらく後に、パラニ・スワーミーが様々な人からヴェーダーンタの文献を含む多くの本を持ってきて、それらを読んでいました。彼は本を読む時に、多くの間違いをしたものでした。彼は年をとっており、博学ではありませんでした。しかし、彼は本を読みたいと切望していました。彼は粘り強く、宗教的な信念をもって読んでいました。そのために、私はうれしく思ったものでした。それで、私がそれらの本を自分で読み、彼に内容を教えるために本を手に取った時、そこに書かれていること全てが、すでに自分自身によって経験されていることが分かりました。私は驚きました。『いったいこれはどういう事なのか。これらの本の中で、私自身についてすでに書かれている』と不思議に思いました。それらの本のどれもこれも、そのようでした。そこに書かれていることが何であっても、私自身によってすでに経験されていたので、私はすぐにその内容を理解したものでした。彼が読むのに20日かかるものを、私は2日で読み終わりました。彼は本を返し、他の本を持ってきました。そのようにして、私は本に書かれてあることについて知るようになったのです」と答えました。

 弟子の一人が、「そのことが理由で、シヴァプラーカサム・ピッライは、バガヴァーンの伝記を書いている時に、その初めにさえ、バガヴァーンを『ブラフマンの名前を知らずにブラフマ・ジニャーニである方』として言及したのかもしれません」と言いました。バガヴァーンは、「ええ、ええ、その通りです。ですから、本を読む前に、はじめに自分自身について知るべきです。それがなされるならば、本に書かれていることは、自分自身によって実際に経験されていることの概略に過ぎないと分かります。自らを見ずに本を読むならば、多くの欠点を見つけます」と言いました。その弟子が、「皆がバガヴァーンのようになることは可能ですか。本を使うことは少なくとも人の欠点を正すことに役立ちます」と言いました。バガヴァーンは、「そうです。私は本を読むことが役に立たないとは言っていません。私は文字を読めない人がそのことでモークシャ(*2)を得られないと思い、気落ちする必要はないと言っただけです。彼が私に尋ねた時、どれほど落ち込んでいたか分かるでしょう。事実が適切に説明されないなら、彼はよりいっそう落ち込んでしまいます」と言いました。

(*1)(*2)ムクティ/モークシャ・・・サンスクリット語。「解放・自由」。
1949年7月2日

(252) シャーストラ(聖典) 後略

 バガヴァーンが新講堂へ入った後、サルヴァディカーリーによって図書館を旧講堂に留めておくことが決定され、いくつかの大きな戸棚が作られました。図書館はゴーヴィンダラジュラ・スッバ・ラオによって管理され、ヴェンカタラトナムがもっぱらバガヴァーンの奉仕に留まることも決定されました。ヴェンカタラトナムは全ての仕事をスッバ・ラオに引き渡し、バガヴァーンと共に新講堂で座りました。

 おとといの午後3時、ゴーシャラ(*1)から戻って来る時に、バガヴァーンは作られつつある戸棚と旧講堂に広げられた本も見て、それから新講堂へと入りました。長椅子に座りながら、彼はヴェンカタラトナムを見て、「おや、図書館員助手さん、全ての管理を引き渡して、ここに来たのですか」と言いました。ヴェンカタラトナムは肯定的に返答しました。ヴェンカタラトナムが心に抱いているかもしれない、それについての少しの落胆でも取り除こうとして、バガヴァーンは以下のように発言しました。

バガヴァーン:
 古い時代の人は、有り余る本の知識は心をさ迷わせる原因であると言います。それはあなたを目的に運びません。シャーストラを読み、パンディット(*2)になることは人に名声を与えるかもしれませんが、真理と解放の探求者に必要な心の安らぎを破壊します。ムムクシュ(解放の探求者)はシャーストラの本質を理解し、シャーストラを読むことがディヤーナ(瞑想、集中)の妨げになるため、それを放棄すべきです。それは中の実をとり、殻を捨てるようなものです。シャーストラの内のどれほどを読めますか。たいへん多くの本と宗教があるので、一回の人生では、一つの宗教に関連した全ての本を読むことにさえ十分ではありません。それでは、修練のための時間はどこにありますか。読めば読むほど、さらに読みたいと感じます。その全ての結果は、本を持ち、そのように時間を過ごす他の人々と議論し続けることになりますが、それは解放に通じません。私がここに来た最初の2年間、眼を閉じて、安楽に、静かにいること以外に、どのような本を見て、どのようなヴェーダーンタの教えを聞きましたか。

(*1)ゴーシャラ・・・牛小屋
(*2)パンディット・・・サンスクリット語やヴェーダ聖典やヒンドゥーの儀式などに精通した学者、教師。

2012年10月19日金曜日

誤った思い(「私は体である」)に基づき、世界は見られている

◇『シュリー・ラマナ・マハルシとの対面(Face to Face with Sri Ramana Maharshi)』 

176.
この匿名の記録者は、理学士の最終学年の学生であり、1946年にシュリー・マハルシに会いました。
  マハルシの前で私は身をかがめてお辞儀をし、講堂に座りました。多くの人々がいましたが、講堂は静かでした。私は静かな様子で座り続けることができなかったのですが、マハルシに何を話せばいいのか分かりませんでした。マハルシの近くの置き台に本が数冊ありました。私はその中の一冊を手に取り、読み始めました。その本には、「存在は一である」、「世界は非現実である」というような概念が記されていました。科学に限定された私の知識では、それらを理解できませんでした。私は以下のような一連の思考に混乱を感じざるを得ませんでした。「神は私をどうして創造しなければならないのか。私はどこにいたのか。私はどこにいるようになるのか。私が見る全ては虚偽なのか。確かに、私は私の前の対象物の存在を知っている。私の前に座っているマハルシを私は見ていないのか。」

 それ以上、私は本を読むことができず、物思いにふけり始めました。まさにその時、マハルシは私に「あなたの疑問は何ですか」と呼びかけました。私は頭を上げ、言いました。「ソファーに人の姿があります。床にも人の姿があります。私の眼によって、この二人をとてもはっきり感じます。しかし、実際は、ただ一なるものしかないとあなたは言います。どうしてそれが真実になるのでしょうか」。マハルシは微笑み、沈黙を保ちました。数分後に、彼は言いました。

マハルシ:
 あなたは実験室で実験を行うことに慣れているはずです。あなたがある対象を調べるならば、詳細さの程度はその対象を調べるためにあなたが使った道具の質によるでしょう。さて、たとえ道具が良くても、あなたの視力が悪いなら、あなたはその対象のことをほとんど知りません。視力が良くても、脳が正常でなければ、あなたは対象の本当の性質を知りません。さらに、脳が健全でも、心があなたが観察しているものに注意を払わなければ、対象について知ることは少なくなります。端的に言って、対象について知る程度(質)は、心と呼ばれる存在に依存しています。

 心とは何ですか。それは思いです。全ての思いは、ただ一つの思いから生じてきます。この思いは、「私は体である」という思いです。それは二つの要素を持っています。一つは「体」であり、もう一つは「私」です。「体」ははかない性質のもので、変化にさらされており、その存在を食べ物というような外側の要因に依存しています。本当に存在するものは、常に存在しているべきです。「体」は常に存在しないので、真実ではありません。「私」は、目覚め、夢をみる眠り、深い眠りを含んだ全ての状態において存在しています。ですから、「私」が真実です。「体」は真実でありません。これら二つが組み合わさったものは、一つの実体として存在できません。夜と昼が、光と闇がどうして共存できるでしょうか。同様に、「私」と「体」が共存する存在を基礎としてもつ実体も存在しませんですから、実際は、「私は体である」という思いは根拠を持たないのです。我々がこの真実でない思いに基づき世界を調べるなら、どうして真理を知ることができますか。

 その瞬間に、私は私の知識の基盤が揺るがされているのを感じ、究極的な達成を与えるものとしての科学的探究への私の確信は突如として失われました。さらにマハルシは、自分自身の真理を知った後で世界についての真理を悟ることができると言いました。私が受けたウパデーシャ(教え)は私の心の態度を変え、ついで私の日常的な活動も変えました。以前と同じ環境で私は生活を続けましたが、マハルシの祝福を受け、人生の達成を精神的な道において求めました。マハルシの恩寵によって、調和のとれた人生を送ることができると私は感じました。

2012年10月5日金曜日

『マハルシの福音』 第2巻 第6章 アハムとアハム・ヴリッティ

◇『Maharshi’s Gospel -The Teachings of Sri Ramana Maharshi』 2009年15版、p63-68

マハルシの福音 

第2巻 第6章 アハムとアハム・ヴリッティ 

信奉者:
 自我によって始められた探求が、どうしてそれ自体の非現実性を明らかにできるのですか。

マハルシ:
 あなたがアハム・ヴリッティ(*1)が生じてくる源に飛び込むとき、自我の現象的(*2)存在は超越されます。

信奉者:
 しかし、アハム・ヴリッティは自我が現れる3つの形の1つでしかないのではありませんか。『ヨーガ・ヴァーシシュタ』や他の古文書は、自我を3重の形を持つと描いています。

マハルシ:
 そうです。自我は3つの体-粗大なもの、微細なもの、原因となるもの(*3)-を持つと描かれていますが、それは単に分析的な解説という目的のためでしかありません。仮に探求の方法が自我の形に依存するなら、自我がとるであろう形が実に多いため、あなたはどんな探求もまったく不可能になるだろうと思うかもしれません。ですから、ジニャーナ・ヴィチャーラという目的のために、あなたは自我がただ1つの形だけ、すなわち、アハム・ヴリッティの形を持つということに基づいて進まなければなりません。

信奉者:
 しかし、それがジニャーナを実現するために不十分であると判明するかもしれません。

マハルシ:
 アハム・ヴリッティという手がかりを追うことによる自らの探求は、匂いによって主人を追跡する犬も同然です。主人はどこか遠くの知らない場所にいるかもしれませんが、それは犬が主人を追跡する妨げにはまるでなりません。主人の匂いはその動物にとって確実な手がかりであり、彼が着る服や体格や身長など、他の何も重要ではありません。彼を探している間、犬は気を散らさずにその匂いをしっかりつかまえ、終には彼を探し出すことに成功します。

信奉者:
 アハム・ヴリッティの源の探求が、どうして他のヴリッティから抜きん出たものとして、自らの実現の直接的な手段とみなされるべきなのかという疑問がまだ残っています。

マハルシ:
 「アハム(अहम्)」という言葉そのものがとても示唆的です。その言葉の2文字、すなわち、ア(अ)とハ(ह)は、サンスクリット語のアルファベットの最初と最後の文字です。その言葉によって伝えられるように意図された示唆とは、それが全てを含んでいるということです。どのようにでしょうか?なぜなら、アハムは存在自体を表しているからです。

 「私」(という)性(質)('I'-ness)「私はいる」(という)性(質)('I-am'-ness )なる概念は、慣用的にアハム・ヴリッティとして知られていますが、本当は、それは心の他のヴリッティのようなヴリッティではありません。なぜなら、本質的な相互関係を持たない他のヴリッティと異なり、アハム・ヴリッティは心のそれぞれ全てのヴリッティに等しく、本質的に関係しています。アハム・ヴリッティがなければ、他のヴリッティは存在できませんが、アハム・ヴリッティは心の他のヴリッティに依存せず、単独で存続できます。アハム・ヴリッティは、そのため、他のヴリッティと根本的に異ります。

 ですから、アハム・ヴリッティの源の探求は、単に自我の1つの形の土台の追求だけではなく、「私はいる」性が生じて来る、まさにそのそのものの探求です。言いかえれば、アハム・ヴリッティという形の自我の源の探求、および、その実現は、ありうる一切の形の自我の超越を必然的に伴います。

信奉者:
 アハム・ヴリッティが本質的に全ての形の自我を含んでいると認めるにしても、どうしてそのヴリッティだけが自らの探求の手段として選ばれなければならないですか。

マハルシ:
 なぜなら、それがあなたの体験の中の唯一のそれ以上単純化できない所与(*4)であるから、その源を探し求めることが、自らを実現するためにあなたが採りうる、ただ1つの現実的な道のりであるからです。自我は原因となる体を持つと言われていますが、どうやってそれをあなたの探求の対象にできますか。自我がその形をとる時、あなたは眠りという暗闇(無知)に浸かっています。

信奉者:
 しかし、微細な形と原因となる形の自我は、心が目覚めている間に行われるアハム・ヴリッティの源への探求を通じて取り組まれるには、あまりにもつかみどころがないのではないですか。

マハルシ:
 いいえ。アハム・ヴリッティの源への探求は、自我のまさにその存在に届きます。ですから、自我の形の微細さは、重要な考慮すべき事柄ではありません。

信奉者:
 唯一の目的は、自我に決して依存していない、自らの無条件の純粋な存在(Being)を実現することであるのに、アハム・ヴリッティという形の自我に関係する探求がどうして役立ちうるのですか。

マハルシ:
 機能的観点からは、形や活動やその他の何とあなたがそれを呼ぼうとも(消えてゆくので、それは重要ではありません)、自我はたった1つの特徴しか持ちません。自我は、純粋な意識である自らと不活発で感覚のない肉体の間の結び目として機能します。自我は、そのため、チット・ジャーダ・グランティ(*5)と呼ばれています。アハム・ヴリッティの源へのあなたの探求の中で、あなたは自我の本質的なチット(意識)の側面を捉えます。そして、この理由のために探求は自らの純粋な意識の実現に必ず通じるのです。

信奉者:
 ジニャーニよって実現された純粋な意識と経験の根本的所与として受け取られる「私はいる」性の関係性は何ですか。

マハルシ:
 純粋な存在の未分化の意識とは、その言葉そのもの(フリト+アヤム=ハートが私である)によって表されるように、本当のあなたであるハート、フリダヤム(*6)です。そのハートから、「私はいる」性が人の体験の根本的所与として生じます。単独では、その性質はスッダ・サットヴァです。ジニャーニの中で「私」が存続するように見えるのは、このスッダ・サットヴァ・スワルーパ(*7)(つまり、ラジャスとタマスに汚されていない)においてです・・・

信奉者:
 ジニャーニの中で自我はサットヴァな形で存続していて、そのため、それが現実的なもののように見える。合っていますか?

マハルシ:
 いいえ。どのような形の自我の存在も、ジニャーニとアジニャーニの中どちらでも、それ自体見せかけです。しかし、目覚めている状態と世界を現実であると誤って思うアジニャーニにとって、自我もまた現実のように見えます。彼はジニャーニが他の個々人のように行為するのを見るため、ジニャーニに関しても個人性の何らかの概念を想定せざるを得ません。

信奉者:
 ではどのように、アハム・ヴリッティはジニャーニの中で機能しているのですか。

マハルシ:
 それは彼の中でまったく機能していません。ジニャーニのラクシャヤ(*8)はハートそのものです。なぜなら、彼は『ウパニシャッド』の中でプラジニャーナ(*9)として言及される、かの未分化の純粋な意識と全く同一であるからです。プラジニャーナはまさしくブラフマン、絶対者であり、プラジニャーナ以外にブラフマンは存在しません。

信奉者:
 ではどうして、この唯一無二の現実を知らないということがアジニャーニの場合に不幸にも起こるのですか。

マハルシ:
 アジニャーニは、ハートから生じる純粋な意識の光の反射に過ぎない心しか見ません。ハートそのものを彼は知りません。なぜでしょう。なぜなら、彼の心は外に向いていて、そのを一度も探したことがなかったからです。

信奉者:
 ハートから生じる意識の無限で未分化の光が、アジニャーニに現れるのを何が妨げているのですか。

マハルシ:
 壺の中の水が壺の狭い範囲内に巨大な太陽を映し出すのとまさしく同様に、個人の心のヴァーサナー、潜在的傾向は、反射媒体として働き、ハートから生じる意識の全てに行き渡る無限の光を捉え、心と呼ばれる現象を反射という形で表します。この反射のみを見て、アジニャーニは惑わされ、自分が有限の存在、ジーヴァであるという考えになります。

 心がアハム・ヴリッティの源への探求を通じて内向きになるなら、ヴァーサナーは消滅します。そして、反射媒体がないために、反射の現象、すなわち、心もまた、唯一の現実、ハートの光に吸収されて消えます。

 これが志高き者が知る必要のある全ての要点です。彼に否応なしに求められるものは、アハム・ヴリッティの源への熱心な一点に集中した探求です。

信奉者:
 しかし、彼が行うであろうどのような努力も目覚めている状態の心に限られています。心の3つの状態の内の1つでしか行われない、そのような探求が、どうして心そのものを破壊できるのですか。

マハルシ:
 アハム・ヴリッティの源への探求は、疑いなく、心の目覚めている状態でサーダカ(*10)によって始められます。彼の中で心が破壊されているとは言えません。しかし、自らの探求の過程そのものが、心の3つの状態そのものだけでなく、3つの状態の交替や変化もまた、彼の強烈な内に向かう探求に影響を及ぼせない現象の世界に属することを明らかにするでしょう。

 自らの探求は、心の強烈な内向を通じてのみ、本当に可能です。アハム・ヴリッティの源へのそのような探求の結果として最終的に実現されるものは、純粋な意識の未分化の光としてのまさしくハートです。その中に、心の反射した光は完全に吸収されます。

信奉者:
 では、ジニャーニにとって心の3つの状態の間の区別はないのですか。

マハルシ:
 心そのものが意識の光に溶け、失われるとき、どうして(区別が)ありえますか。

 ジニャーニにとって、3つの状態全てが等しく非現実です。しかし、アジニャーニはこれを理解することができません。なぜなら、彼にとって現実の基準は目覚めている状態ですが、ジニャーニとって現実の基準は現実そのものだからです。純粋な意識の、この現実は、本質的に永遠であり、そのため、あなたが目覚めている、夢を見ている、眠りと呼ぶものの間に等しく存続しています。その現実と一体である人にとって、心もなくその3つの状態も存在せず、そのため、内向きもなく、外向きもありません。

 彼の(状態)は常に目覚めている状態です。なぜなら、彼は永遠の自らに目覚めています。彼の(状態)は常に夢を見ている状態です。なぜなら、彼にとって世界は繰り返し現れる夢の現象に過ぎないからです。彼の(状態)は常に眠っている状態です。なぜなら、彼はいつでも「体が私である」という意識なくいるからです。

信奉者:
 では、シュリー・バガヴァーンは目覚めていて、夢を見ていて、眠っている状態で私と話していると考えるべきでしょうか。

マハルシ:
 あなたの意識的な体験が、心の外に向かう状態の期間に今、限られているため、あなたは現在の瞬間を目覚めている状態と呼びますが、その間中、あなたの心はずっと自らに気づいていません(逐語訳的には、「自らに眠っています」)。そのため、あなたは今、本当はぐっすり眠っているのです。

信奉者:
 私にとって、眠りは単なる空白です。

マハルシ:
 そうであるのは、あなたの目覚めている状態が、落ち着きのない心の興奮に過ぎないからです。

信奉者:
 空白ということで私が意味することは、眠る時に私はほとんど何にも気づいていないということです。これは私にとって存在しないも同然です。

マハルシ:
 しかし、眠る間、あなたは確かに存在しました。

信奉者:
 存在したとしても、私はそれに気づいていませんでした。

マハルシ:
 (笑いながら)あなたが眠る間に、あなたが存在しなくなったと本気で言うつもりはないわけですね!あなたがX氏として眠りについたなら、Y氏として眠りから起きたのですか。

信奉者:
 おそらくは記憶の働きによって、私は私の同一性を知っています。

マハルシ:
 仮にそうだとしても、一続きの意識がなければ、どうしてそれが可能ですか。

信奉者:
 しかし、私はその意識に気づいていませんでした。

マハルシ:
 いいえ。眠る時にあなたが気づいていないと誰が言うのですか。それはあなたの心です。しかし、あなたが眠る時に心は存在しなかったですよね。眠る間のあなたの存在や体験についての心の証言にどのような価値がありますか。眠る間のあなたの存在や意識を反証するために心の証言を求めることは、あなたの誕生を反証するためにあなたの息子の証言を求めることも同然です!

 覚えていますか、以前に一度、私が、存在と意識が2つの異なるものでなく、全く同じものであるとあなたに言ったことを。では、どんな理由にしろ、眠っている間にあなたが存在したという事実をあなたが認めざるを得ないと思うなら、あなたがその存在に気づいてもいたと確信しなさい。眠る時にあなたが本当に気づいていなかったものは、あなたの体の存在です。あなたはこの体の意識と永遠である自らの真の意識を混同しています。プラジニャーナは「私はいる」性の源であり、心の3つの束の間の状態によって影響されずに常に存続し、それによってあなたが同一性を損なわずに保つことを可能にしています。

 プラジニャーナは3つの状態を超えてもいます。なぜなら、それはそれらなしで、それらに関わりなく存続できるからです。

 アハム・ヴリッティをそのまでたどることによって、あなたのいわゆる目覚めている状態の間にあなたが求めるべきものは、その現実です。この探求における熱心な修練は、心とその3つの状態が非現実であり、あなたが純粋な存在自ら、ハートの永遠かつ無限の意識であることを明らかにするでしょう。

(*1)アハム・ヴリッティ・・・「私という思い」。ヴリッティは、「思い、心の働き」。
(*2)現象的・・・phenomenalの訳。哲学用語。現象・・・「本体・本質が外的に発現したもの」(goo国語辞典)
(*3)原因となる体・・・causal bodyの訳。夢を見ない深い眠りの時にとるとされている体。他の2つの体の原因となる体。
(*4)所与・・・英語のdatumの訳。哲学用語。思考の働きに先立ち、意識に直接与えられているもの。
(*5)チット・ジャーダ・グランティ・・・チットは「意識」、ジャーダは「意識のないもの、体」、グランティは「結び目」。
(*6)フリダヤム・・・「ハート、中心」。
(*7)スッダ・サットヴァ・スワルーパ・・・「(ラジャス・タマスに汚されていない)純粋なサットヴァの形(本質)」。
(*8)ラクシャヤ・・・「目的、標的、注意」。
(*9)プラジニャーナ・・・「神聖なる知、至高の智慧」
(*10)サーダカ・・・「霊的修練(サーダナ)をする人」。