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2014年3月1日土曜日

バガヴァーンの言葉 - 1918年、C.V.スブラマニア・アイヤルの記録

◇「山の道(Mountain Path)」、1979年7月 p157~158

 バガヴァーンの言葉


 1918年6月、チットゥール県のC.V.スブラマニア・アイヤルにより記録されました。
  1. 心を内に向け、あなた自身の自らに安らいなさい。
  2. 心が束縛の原因です。
  3. 一つまた一つと放棄し、安らぎに留まりなさい。
  4. 我々が得るものを我々は失います。それゆえに、欲するなかれ。
  5. 二種類の瞑想があります。一つは進んだサーダカによって修練されるニルグナ・ディヤーナであり、彼は瞑想する者自身を知ろうと努めます。もう一種類は、それより進んでいない人々により修練されるサグナ・ディヤーナであり、いくぶん回り道です。そこでは、瞑想者、瞑想、瞑想の対象が究極的には一つに溶け込みます。
  6. 「私は決して生まれていなかった」と知るようになる時、私は決して死にません。死は生まれる者にとってあります。私は決して生まれませんでした。私は体を持たず、それゆえ、私は決して死にません。私はあらゆる所にいます。私がどこに行くことができ、どこに来ることができますか。
  7. 心が死んでいる時、彼は再び死にません。
  8. ジャグラート(目覚め)においてスシュプティ(眠り)を得なさい。そうすれば、あなたはジニャーニとなります。
  9. 心を内に向け、見る者を探しなさい。そうすれば、あなたはあなたが見る者であり、対象的世界は存在しないということを見出します。
  10. 心はそれ自身を主体と対象-見る者と見られるもの-に分けました。それゆえ、名と形からなる外側の世界は独立して存在しません。
  11. ジーヴァは、心に映ったブラフマンの影です。
  12. 人は前世において多くのカルマを行ったかもしれません。その中の少しだけ、今世のために選ばれ、彼は今世においてその結果を享受しなければなりません。それは幻灯機による興行のようであり、興行師は上映で披露されるスライドを少しだけ選び、残りのスライドは他の上映のためにとっておかれます。しかし、自らの知を得ることにより、カルマを滅ぼすことは可能です。カルマは過去の経験の結果であり、様々なカルマはスライドです。そして、心が投影機です。カルマは破壊されねばならず、そうすれば、映像もなく、サンサーラもありません。
  13. 私は心の支配者です。私は心ではありません。たいていの人々は心を自らとみなし、彼ら自身に苦しみをもたらします。
  14. グルは人にとって必要です。彼は実現への道の導き手として役立ちます。しかし、導くグルなくして真理を知った人々もいます。そのような人々は過去の転生において学んだに違いありません。一言か、二言で実現の道に向けるのに十分な人々もいれば、一方、どのような進歩をしうる前に何年も努力して進まなければならない人々もいます。
  15. ディヤーナは真理の実現のために必要です。全ての人が目的に達するために敷かれた道-ヨーガ、バクティ、ジニャーナ-の中で、彼らに合うものを選ばねばなりません。ヴィチャーラもまたヨーガであり、単なる書籍の学習ではありません。
  16. ジーヴァが彼自身をパラブラフマンとして知り、安らぎに留まる時、それが至高の沈黙(モウナム)です。
  17. 自らは不変です。全ての変化は心の変化です。アヴィドヤー(無知)を通じ、心の変化がアートマンに帰せられます。
  18. 砂糖でできたお菓子を見てみなさい。ナスの形のものもあれば、マンタパムや馬のように形作られているのもありますが、それら全ては一つの材料、砂糖からできています。同じように、この世界の対象物は様子や大きさ、または名や形は様々ですが、全てはブラフマン以外の何ものでもありません。
  19. アーシュラマ(グリハスタやブラフマチャーリヤのような人生の段階)は肉体に関連してのみ存在します。アートマンにはアーシュラマはありません。
  20. 「どうして人は幻の支配下にいなければならないのですか」という質問にバガヴァーンは、「幻を持つのは誰か探求しなさい。そうすれば、あなたは幻が存在しないことを見出します」と答えました。
  21. あなたは恐怖を持つべきではありません。なぜなら、アートマンはあらゆる所にあり、あなたはアートマンだからです。分離の感覚がある時に、恐怖が生じます。
  22. アドヴァイタ哲学のみが全ての試験に首尾よく耐えられます。他の学派は、それら自身の理論に合わせるためにヴェーダの聖句を無理に曲げています。
  23. 人は超常的な力を望みますが、彼らが得るものを彼らはいつの日か失わなければなりません。その力を求めることは、あなたがその力を得ようと試みる力よりも、あなたが劣っていることを暗示します。心の全ての働きは、あなたを束縛の状態に留めようとします。それゆえ、欲望を放棄し、何ものにも依存しないように。なぜなら、あなた自身が力と至福の貯蔵庫であるからです。他の一切のものを放棄し、あなたの心を安らぎに留めなさい。

2013年12月10日火曜日

トゥリーヤ(第四の状態)、儀式の必要性、ジニャーナと他者の苦しみ

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』、p92~97

 多少訳を変更して、読みやすいように対話形式にしています。(文:shiba)

46年1月5日 午後 

 私が講堂に入った時、バガヴァーンは何かの質問に答えていました。

バガヴァーン:
 夢が短く、目覚めが長いという以外、夢と目覚めの状態の間に相違はありません。共に心の結果です。目覚めの状態が長いので、我々はそれが我々の真の境地であると想像します。しかし、実際、我々の真の境地とはトゥリーヤ、または、第四の状態と時に呼ばれるものであり、いつもあるがままにあり、三つのアヴァスター(*1)、すなわち、目覚め、夢、眠りについて何も知りません。我々がそれら三つをアヴァスターと呼ぶので、我々は第四の状態もまたトゥリーヤ・アヴァスターと呼びます。しかし、それはアヴァスターではなく、自らという真の自然な境地です。これが実現される時、我々はそれがトゥリーヤでも、第四の状態でもなく-なぜなら、第四の状態は相対的なものに過ぎません-、トゥリーヤーティータ、第四の状態と呼ばれる超越的な境地であると知ります。

訪問者:
 聖職者は様々な儀式やプージャー(*2)を定め、人々は断食期間や祭日などにそれらを適切に行わなければ、罪が生じるなどと言われます。そのような儀式や儀式的崇拝を行う必要がありますか。

バガヴァーン:
 ええ。そのような全ての儀式もまた必要です。それはあなたには必要ではないかもしれません。しかし、そのことは、それが誰にとっても必要ではなく、全く役に立たないということを意味しません。幼児教室の生徒に必要なものは、大学院生には必要ありません。しかし、大学院生さえも幼児教室で彼が習ったまさにそのアルファベットを使わなければなりません。今や、彼はアルファベットの使い方と意義を十分に知っています。

訪問者:
 私はオームカーラ(*3)・プージャーをします。私はオーム・ラムと言います。それは良いことですか。

バガヴァーン:
 ええ。どのようなプージャーも良いのです。オーム・ラムや他のどのような名前も役に立ちます。肝心なことは、オーム、ラム、神という一つの思い以外の他の一切の思いを遠ざけることです。全てのマントラ、ジャパはその手助けをします。例えば、ラムのジャパをする人は、ラーマ・マヤ(*4)になります。崇拝する者が、やがては崇拝されるものになります。その時になってはじめて、彼は彼が繰り返し唱えていたオームカーラの完全な意味を知ります。

 我々の本質はムクティです。しかし、我々は我々が束縛されていると想像していて、我々がその間中ずっと自由であるにもかかわらず、自由になるために様々な骨の折れる試みを行っています。これは我々がその段階に達した時にのみ理解されます。我々は、我々がいつも我々であったもの、そして、(今も)我々であるものを得ようと必死に試みていたことに驚きます。

 一つの例によって、これが分かりやすくなるでしょう。ある人がこの講堂で眠りに落ちます。彼は世界旅行に出かけた夢を見て、山や谷、森や国、砂漠や海を放浪し、様々な大陸を越え、長い年月の難儀な骨の折れる旅の後、この国に戻り、ティルヴァンナーマライに到着し、アーシュラムに入り、講堂に歩み入ります。ちょうどその時、彼は目を覚まし、彼が少しも動いておらず、彼が横たわった場所で寝ていたことに気づきます。彼は大変な努力の後でこの講堂に帰ってきたわけではなく、講堂に今も、そして、いつもいました。それはまさにそのようなのです。「自由であるのに、どうして我々は我々が束縛されていると想像するのですか」と問われるなら、私は、「講堂にいるのに、どうしてあなたは自分が山や谷、砂漠や海を越え、世界を冒険していると想像したのですか。それはすべて心、もしくは、マーヤーです」と答えます。

シュリー・オウロビンドー・アーシュラムから来たという訪問客:
 しかし、我々は世界の中で苦しみを見ます。ある人は空腹です。それは身体的な現実です。それは彼にとってとても現実的です。我々はそれを夢であると呼び、彼の苦しみに心動かされずにいるべきなのですか。

バガヴァーン:
 ジニャーナや現実(*5)の視点からは、あなたが言う苦しみは確かに夢です。それは世界と同じく夢であり、苦しみは世界のごくわずかの部分です。夢の中でも、あなた自身が空腹を感じます。あなたは他の人が空腹で苦しんでいるのに気づきます。あなたは食事をとり、憐れみに心動かされ、あなたが空腹で苦しんでいると気付いた他の人に食事を与えます。夢が続く限り、その一切の苦しみは非常に現実的です。あなたが今、世界で見る苦しみを現実的であると思うのと同じです。目覚めて初めて、あなたは夢の中の苦しみが現実でないと発見します。あなたはたっぷり食べて、眠りについたかもしれません。あなたは夢を見て、灼熱の太陽が一日中照りつける中で激しく長時間働き、疲れて空腹で、たくさん食べたいと思います。その時、あなたは目覚め、お腹一杯でベッドから動いていないことに気付きます。

 しかし、今述べたこと全ては、あなたが夢にいる間に、あなたがそこで感じる苦しみが現実でないかのようにあなたが振る舞ってもいいと言わんとしているのではありません。夢の空腹は夢の食べ物で満たされねばなりません。あなたがとてもお腹が減っていると夢で気付いた仲間には、その夢の中で食べ物が与えられなければなりません。あなたは、二つの状態、夢と目覚めの状態を決して混ぜることはできません。

 あなたがジニャーナの境地に達するまで、従って、このマーヤーから目覚めるまで、あなたが苦しみを見る時はいつでも、苦しみを和らげることによって社会的な奉仕をしなければなりません。しかし、その時でさえ、我々が教わっているように、アハンカーラ(*6)なしに、つまり「私が行為者である」という実感なしに、「私は主(神)の道具である」と感じながらそれを行うべきです。

 同じように、あなたは、「私は自分より下にいる人を助けている。彼は助けが必要だ。私は助ける立場にいる。私は優れていて、彼は劣っている」と思いあがってはいけません。そうではなく、あなたはその人の内にいる神を崇拝するための手段として助けなければいけません。そのような奉仕すべては自らのためでもあり、他の誰のためでもありません。あなたは他の誰でもなく、ただあなた自身のみを助けているのです。

 ラーマチャンドラ・アイヤルがこれに関連して、『エイブラハム・リンカーンの古典的な例があります。彼は豚が溝から出るのを助け、その過程で彼自身と彼の服を汚してしまいました。彼がどうしてそんなにも労を費やしたのか尋ねられた時、彼は、「私は豚の問題を終わらせるためというよりもむしろ、気の毒な生き物が溝から出ようともがいているのを見るという自分自身の苦しみを終わらせるためにそれをしました」と答えました』と言いました。

ジョーシー氏:
 私は世帯主です。私には精神的成長の妨げになる扶養家族と障害となるものがあります。私はどうすべきでしょうか。

バガヴァーン:
 その扶養家族と障害となるものがあなたの外にあるのか、それらがあなたの内に存在するのか確かめなさい。

ジョーシー氏:
 私は初心者です。私はどのように始めるべきでしょうか。

バガヴァーン:
 あなたは今どこにいますか。どこに目的地がありますか。歩まれねばならない距離はどれほどですか。自らは到達されるべきどこか遠くにありません。あなたはいつもそれです。あなたはただ、あなたの習慣、あなた自身を自らでないものと同一視する長年の習慣をやめさえすればいいのです。一切の努力はそのためだけにあります。心を外に向けることにより、あなたは世界、自らでないものを見つづけています。あなたが心を内に向けるなら、あなたは自らを見ます。

 この教えの後、ローカンマがタミル語の歌を歌い始めました。バガヴァーンはすぐに、「母はこの歌をたびたび歌っていました。これは私が今話してきたまさにそのことを繰り返しています」と言いました。そこで直ちに、私はバガヴァーンに誰がその歌の作者なのか尋ねました。

 彼は、「アヴダイ・アンマル(*7)です。彼女は非常に多くの歌を作りました。それらはその地域(マドゥライや近辺の他県)では非常に人気があります。それらのいくつかは出版されています。しかし、とても多くが出版されないままです。それらは口頭で世代から世代へ、主に女性を通じて受け継がれています。彼女達は他の人から歌を聞き、すでに歌を知っている人たちと一緒に歌い、歌を暗記します」と言いました。私は今、バガヴァーンの母親が読み書きができなかったことを知りました。バガヴァーンは私に、「それにも関わらず、彼女はとてもたくさんの歌を暗記していました」と言いました。以下に、その歌とその意味が記されます。

どうして常にある自ら
自覚かつ至福が
どうしてそれが今まで、あたかも
これを忘れていたかのように振る舞ったのか
不可思議の中の不可思議、理解を越えているのは
あなたのおかしな恐れ
私の白鳥、私のかわいい人
私へのあなたの恐れ!
心は学び、知り、忘れ
体はもうけられ、生まれ、死ぬ
どこからこの不浄が清浄の中に?
大、小、階級、地位、光景、見る者-
どうしてこの薄暗がりの波が深淵なる至福の海の中に?
言葉も沈黙の誓いも必要ない
行くことも来ることもなく、始まりも終わりも中間もない
光もなく、音もない、性質もない
分離もなく、それゆえ、恐れもない
おお、不可思議の中の不可思議、夢の中のように見える物事!
内と外、高い低い、十方向すべては
無限に広大な光の中に失われた
壊れない、支えられていない、完全で穏やかな
純粋な自覚、不変の至福
かつては遠い目的地に思い焦がれていた
今やここに、歓喜が、歓喜が!

(*1)アヴァスター・・・状態
(*2)プージャー・・・神などを崇拝するヒンドゥー教の祈りの儀式。
(*3)オームカーラ・・・文字通りは、「オームの音節」
(*4)ラーマ・マヤ・・・「ラーマで満ちたもの」、「完全なラーマ」。
(*5)現実・・・英語のthe realityの訳。「真実」とも訳せますが、夢との比較で現実と訳しています。
(*6)アハムカーラ・・・「自我への同一化、愛着」。カーラは「創造されたもの」「すること」を意味する。
(*7)アヴダイ・アンマル・・・2010年1月号の「The Mountain Path」のp17に「Avudai Akka of Chengottai 」という記事があります。

2013年12月5日木曜日

マーヤーの五つの名、世界(波)とアートマ・スワルーパ(海)

◇『シュリー・ラマナーシュラマムからの手紙(Letters from Sri Ramanasramam)』

1947年5月21日
(119)ニディディヤーサナ 

 昨日の朝8時、Arya Vignana Sanghaで働き、バガヴァーンの弟子の一人であるサイード博士が、バガヴァーンのダルシャンのためにやって来て、「バガヴァーンは全世界がアートマ(自ら)というスワルーパ(*1)であると言います。もしそうなら、我々はどうしてこの世界にとても多くの問題を見出すのですか」と尋ねました。喜びを表す顔つきで、バガヴァーンは答えました。

バガヴァーン:
 それはマーヤーと呼ばれています。『ヴェーダーンタ・チンターマニ』で、マーヤーは五つの方法で描かれています。ニジャグナ・ヨーギ(*2)という名の人が、カナラ語でその本を書きました。その中でヴェーダーンタがとても適切に扱われており、ヴェーダーンタの学術用語の権威であると言えます。タミル語の翻訳があります。

 マーヤーの五つの名は、タマス、マーヤー、モーハ、アヴィドヤー、アニティヤです。タマスは、生命についての知識を隠すものです。マーヤーは、世界の形である一者(神)を世界と異なるように見せることに責任があります。モーハは、異なるものを現実にみせるものです-スクティ・ラジャタ・ヴァバティ(*3)、真珠母貝が銀でできているという幻を作りだすこと。アヴィドヤーは、ヴィドヤー(知)を台無しにするものです。アニティヤは、一時的なもの、永遠であり、現実であるものと異なるものです。 

 これらの五つのマーヤーのため、スクリーン上の映画の映像のように、問題がアートマの中に現れます。そのマーヤーを取り除くためだけに、全世界がミティヤ(*4)であると言われています。アートマンはスクリーンのようです。あなたが映される映像がスクリーンに依存していて、別なように存在していないということを知るようになるのとまさしく同様に、目に映る世界がアートマと異ならないということを自らの探求によって知ることができるまで、世界はまったくのミティヤ(*5)であると言わざるを得ません。しかし、いったん現実が知られるなら、全世界はアートマのみとして現れます。それゆえ、世界が非現実であると言ったまさにその人々が、続いてそれがアートマ・スワルーパのみであると言ったのです。結局のところ、重要なのは見かたです。見かたが変われば、世界の問題は我々を悩ませません。波は大海と異なりますか。いったいどうして波が起こるのか。尋ねられるなら、どのような答えができますか。波は行き来します。それらがアートマと異ならないということが見出されるなら、この悩みは存在しません。

 その信奉者は悲しげな口調で、「いくらバガヴァーンが我々に教えても、我々は理解できません」と言いました。

バガヴァーン:
 人々は遍く行き渡るアートマを知ることができないと言います。私に何ができますか。ほんの小さな子供さえも、「僕がいる。僕がやる。これは僕のものだ」と言います。ですから、全ての人が「私」というものがいつも存在していることを理解しています。その「私」がそこにある時のみ、あなたが体であり、彼はヴェンカンナです、私はラマンナです、というような実感がそこにあります。常に目に映る一者(神)が自分自身であるということ知るために、蝋燭を持って探す必要がありますか。我々が自分自身の中にあり、異なるものでないアートマ・スワルーパを知らないと言うことは、「私は私自身を知りません」と言うようなものです。

信奉者:
 それは、シュラバナ(*6)とマナナ(*7)によって目覚め、目に映る全世界をマーヤーに満ちていると見る人たちが、究極的にはニディディヤーサナ(*6)によって真のスワルーパを見つけるという意味です。

バガヴァーン:
 ええ、そうです。ニディはスワルーパという意味です。ニディディヤーサナは、グルの言葉のシュラバナとマナナの助けと共に、スワルーパに強く集中する行為です。それは、逸れることのない熱意をもって、それに瞑想することを意味します。長いあいだ瞑想した後で、彼はそれに溶け込みます。その時、それがそのものとして輝きます。いつもそこにそれはあります。人がそれをあるがままに見られるなら、この種の問題はありません。常にそこにある自分自身を見るために、どうしてこんなにも多くの質問がいりますか。

(*1)スワルーパ・・・(自分自身の)本質
(*2)ニジャグナ・ヨーギ・・・ニジャグナ・シヴァヨーギ、15世紀のカンナダ語(カナラ語)の詩人であり、多作の作家。
(*3)スクティ・・・貝、ラジャタ・・・銀、ヴァバティ・・・なること、形を装うこと
(*4)ミティヤ・・・幻、非現実
(*5)シュラバナ・・・聞くこと
(*6)マナナ・・・熟考すること
(*7)ニディディヤーサナ・・・途切れのない瞑想

2013年12月3日火曜日

忘却の効用、人形劇のような世界、ヴェーダーンタはアディカーリーへ

◇『シュリー・ラマナーシュラマムからの手紙(Letters from Sri Ramanasramam)』

 読みやすいように対話形式にするため、多少訳を変更しています(文:shiba)

1947年11月21日
(158) 記憶 - 忘却

 今日の午後3時、白孔雀がバガヴァーンの前に来て、私たちみんなの真っただ中で動き回り始めました。一人の信奉者が、それがとても人馴れしていることに気づき、「この鳥は過去生を知っているようです。そうでなければ、人々みんなの真っただ中をこんなにも自由に動けますか」と発言しました。バガヴァーンは、「ですから、ここにいる多くの人々が、それがマドハヴァ(最近亡くなったバガヴァーンの古参の従者)であり、その姿でここにやって来たと言うのです」と言いました。その信奉者は、「もしそうなら、それは過去生でこれこれであったということを知っていますか」と尋ねました。

バガヴァーン:
 どうして(知ることが)できるでしょうか。誰も過去生について知りません。人々は忘れています。そして、その忘却は良いことです。この一度の人生だけで、時に我々は過去に起こったことにひどく悩みます。もし我々が過去生をすっかり知るならば、そのような悩みに耐えられますか。過去生の事実を知ることは、自分自身の自らを知ることを意味します。それが知られるなら、この生まれと過去生が、心とそのサンカルパ(欲望、意思)のみから出ていると分かるでしょう。

 『(ヨーガ・)ヴァーシシュタ』において、この創造がどれほど様々な方法で描かれているのかご覧なさい。ガーディ(*1)がクリシュナにマーヤー・スワルーパ(マーヤーの本質)を見せるように頼んだ時、彼はガーディに無数の姿を見せました。ラヴァナ・マハーラージャの話(*2)もそのようであり、シュクラの話(*2)はよりいっそう興味深いものです。シュクラはサマーディに留まっていて、その間に彼の体が完全に朽ちていて、もはや存在していないことを理解していませんでした。その間に、彼はいくつもの生まれを持ちました。最後に彼はバラモンとして生まれ、メール山で禁欲的な生活を送っている時、彼の父ブルグがストゥーラ・サーリア(粗大な体)を身につけた死の神(カーラ)と共に彼のもとへ行き、彼に彼の生まれ変わりの間に起こった全てのことを話しました。その後、シュクラは彼らに同行し、彼の元々の体を見て、死の神の許しを得て、それに入りました。

 いくつかの他の話で、ある人にとって夢に現れた事を別の人が目覚めた状態そのものにおいて見たということが語られています。その中で、どの話が真実でしょうか。

信奉者:
 ある人にとって何かが夢で現れるなら、どうしてそれが他の誰かに目覚めの状態で現れうるのですか。

バガヴァーン:
 どうしてできませんか。異なる種類のものですが、それもまた夢です。スクリーン上に現れる映像のように、現れる全てのものは心の創造物です。現実には、人はそのどれでもありません。人形劇のようである、この非現実の世界において、人があの人形や、この映像だったことを思い出すよりも、全てを忘れるほうが良いのです。

信奉者:
 物質的な世界に従って、我々は「これは私のものである」と言わざるを得ません。そうではありませんか。

バガヴァーン:
 ええ、確かに、我々はそのように言わざるを得ません。しかしながら、ただ単にそう言うことによって、我々がその全てであると思い、それに関連する楽しみと悲しみに浸(ひた)る必要はありません。我々が乗り物に乗るとき、我々が乗り物であると思いますか。太陽を例にとりましょう。それは小さな壺の水の中で、大きな川の中で、鏡の中で輝きます。その映像はそこにあります。しかし、ただそのために、太陽が「私はその全てである」と思いますか。我々に関しても同じことです。全ての問題は、人が「私は体である」と思うならば生じます。人がその思いを拒絶するなら、その時、太陽のように、人はあらゆる所に輝き、遍く行き渡るでしょう。

信奉者:
 そのために、バガヴァーンは、なすべき最良のことは、「私は誰か」という自らの探求の道に従うことであると言うのではないですか。

バガヴァーン:
 ええ。しかし、『(ヨーガ・)ヴァーシシュタ』の中で、自らの探求の道は十分な資格を持たない誰にも示されるべきではないとヴァーシシュタがラーマに語ったと言及されています。他のいくつかの本では、靈的修練は数回の生まれ、もしくは、少なくともグルの元で十二年間行われるべきであると述べられています。しかし、もし私が靈的修練を数回の生まれの間なされねばならないと言うなら、人々を怖がらせ、遠ざけてしまうので、私は彼らに、「あなたはすでにあなたの内に解放を持っています。あなたはただ、あなたに降りかかった外側の物事をあなた自身からただ取り除きさえすばいいのです」と言います。靈的修練はそのためだけにあります。とはいえ、昔の人々がこの全てを理由もなしに言ったわけではありません。「あなたは神、ブラフマンそのものであり、あなたはすでに解放されている」と告げられるなら、人は「私はすでに必要とされるものを持っていて、それ以上何も欲しくない」と思い、靈的修練を何も行わないかもしれません。ですから、これらのヴェーダーンタに関する事柄はアナディカーリー(適していない人)(*4)に語られるべきではありません。他に理由はありません。(そしてバガヴァーンは微笑みました。)

最近到着した信奉者が、話の穂をつぎ、言いました:
 シャンカラのスタンザ(詩節)で、「鏡の中の都市のように、全世界は自らの中の反射である」(*5)とあります。世界は幻であり、非現実であると言う言明は一般の人々のためにあり、悟った人のためではありません。そうではありませんか。

バガヴァーン:
 ええ。悟った人の目には、あらゆるものはブラフマンに満ちているように見えます。いくら語られても、悟っていない人(アジニャーニ)は何も見ることができません。それゆえ、全ての聖典は一般の人々のためだけにあります。

(*1)ガーディ(Gadhi)の話・・・私が持ってる『ヨーガ・ヴァーシシュタ』ではクリシュナでなく、主ヴィシュヌがガーディにマーヤ・スワルーパを見せます。ガーディは夢のような出来事を体験しますが、それが現実(目覚めの状態)で起こっていたことに気づき、マーヤーの不可思議に翻弄されています。
(*2)ラヴァナ(Lavana)の話・・・ラヴァナ王がマーヤーの力により、わずかの時間で違う人生を体験します。
(*3)シュクラ(sukra)の話・・・父ブルグは息子シュクラが死んでいるのを見て、怒り、「時(もしくは死)」を呪おうとするのですが、「時」が無駄なことはやめなさいと言い、教えを説いています。
(*4)アナディカーリー・・・・アディカーリー(適した人)+否定の接頭辞
(*5)http://arunachala-saint.blogspot.jp/2013/05/dakshinamurthy-stotra_12.htmlの第2詩節。

2013年11月29日金曜日

ジニャーニの心とブラフマン、ジニャーニの振る舞いかた

◇『シュリー・ラマナーシュラマムからの手紙(Letters from Sri Ramanasramam)』

 読みやすいように対話形式にするため、多少訳を変更しています(文:shiba)

1947年2月8日
(90)ジニャーニの心は、ブラフマンそのものである 

 今朝の7時30分ごろ、私は講堂に行きました。中はまったく静かでした。窓の外から燃えている香木の香りが届き、新来の訪問者たちにバガヴァーンがいることを示しました。私は中に入り、バガヴァーンの前でお辞儀して、座りました。バガヴァーンはずっと枕に寄りかかっていましたが、蓮華座で背筋を伸ばして座りました。たちまち彼のまなざしは動きなく、並外れたものとなり、講堂全体が輝きで満たされました。突然、誰かが、「スワーミージ!ジニャーニは心を持ちますか、持ちませんか」と尋ねました。バガヴァーンは優しいまなざしを彼に投げかけ、言いました。

バガヴァーン:
 人が心なしでブラフマンを実現するということはありえません。実現は心がある時にのみ可能です。心はいつも何らかのウパーディ(*1)と共に働きます。ウパーディなくして心は存在しません。ウパーディと関連してのみ、我々は人がジニャーニであると言います。ウパーディなくして、どうして誰かがジニャーニであると言えるのですか。しかし、心なくしてウパーディはどのように働きますか。それは働きません。ですから、ジニャーニの心そのものがブラフマンであると言われています。ジニャーニは、いつもブラフマンを見ています。心なくして見ることがどうしてできますか。それゆえ、ジニャーニの心は、ブラフマーカーラ(*2)やアカンダーカーラ(*3)と言われています。

 しかし、実際には、彼の心そのものがブラフマンなのです。無知な人がブラフマンを内に認識せず、外側のヴリッティ(*4)しか認識しないのとまさしく同様に、ジニャーニの体は外側のヴリッティの中を動き回りますが、彼は常に内なるブラフマンのみを認識しています。そのブラフマンは遍く行き渡っています。いったん心がブラフマンの中に失われると、心をブラフマーカーラと呼ぶことは、川を大海のようであるというようなものです。いったん全ての川が大海に失われると、それは巨大な一面の水そのものです。その時、あなたは巨大な一面の水の中で、「これがガンジス川で、これがガウタミ川で、この川はとても長く、あの川はとても広い」などと見分けられますか。心に関してもまた同じことです。

 他の誰かが、「サットヴァはブラフマンであり、ラジャスとタマスはアーバーサ(*5)であると言います。そうですか」と尋ねました。

バガヴァーン:
 ええ!サットとは実在するものです。サットはサットヴァです。それは自然なものです。それは心の微細な働きです。それがラジャスとタマスに触れることにより、心は無数の形を伴う世界を創造します。ラジャスとタマスと接触のみが原因で、心はアーバーサである世界をみて、幻惑されます。あなたがその接触を取り除くなら、サットヴァが純粋で汚されずに輝きます。それが純粋なサットヴァ、スッダ・サットヴァと呼ばれています。この接触は、あなたが微細な心の中で最も微細な心で探求し、それを排除しない限りは、取り除けません。全てのヴァーサナーは抑制されねばならず、心はとても微細にならなければなりません。つまりそれは、最も微細な中でも微細な-アノラネーヤム(極小の内の極小)と言われます。それは極小のものにとっての極小になるべきです。それが極小のものにとっての極小として抑制されるなら、その時、それは無限のものの中の無限、マハトー・マヘーヤムへ高まります。

 それを見ている心や、力を得ている心と呼びなさい。それをあなたが好むどんな名前ででも呼びなさい。どのような名前でそれが呼ばれても、我々が眠る時、心はその全ての活動と共にハートの中に抑えられています。その時、我々は何を見ますか。何も見ません。なぜですか。なぜなら、心が抑制されているからです。我々が眠りから覚め、そして我々が目覚めるとすぐに心があり、サットとブラフマンがあります。目覚めている心がグナへ付着するとすぐに、全ての活動が現れます。あなたがそれらのグナ・ヴィカーラ(*6)を捨て去るなら、ブラフマンがあらゆる所に現れます。それは自ら輝き、自明であり、アハム、「私」です。その時、あらゆるものがタンマヤム(遍く行き渡る)に見えます。ヴェーダーンタの専門用語を見てみなさい。ブラフマヴィド(*7)、ブラフマヴィド・ヴァリシュタ(*8)などが言われ、それからブラフマイヴァ・バヴァティ(*9)と言われます。彼はブラフマンそのものです。それゆえ、我々はジニャーニの心そのものがブラフマンであると言います

 他の誰かが、「ジニャーニは全てに対して絶対的な平等をもって振る舞うと言われていますか」と尋ねました。

バガヴァーン:
 ええ!ジニャーニはどのように振る舞いますか。

マイトリー(慈)、カルナ(悲)、ムディタ-(喜)、ウペクシャ(捨)
そのような他のバーヴァ(態度)は彼らにとって自然となる
幸せな人(スカ)への慈しみ、苦しんでいる人(ドゥッカ)へのいたわり
善を行う人(プンニャ)への喜び、不善を行う人(アプンニャ)への平静
そのような全てはジニャーニの自然な特徴である


 『パタンジャリ・ヨーガ・スートラ』、1章・33(*10)

(*1)ウパーディ・・・制限、特性、変装、乗り物
(*2)ブラフマーカーラ・・・ブラフマンの形、姿
(*3)アカンダーカーラ・・・途切れのない形

(*4)アーバーサ・・・反射、反映
(*5)ヴリッティ・・・(心の)働き、形をかえたもの
(*6)ヴィカーラ・・・変形、変質
(*7)ブラフマヴィド・・・ブラフマンを知る者
(*8)ブラフマヴィド・ヴァリシュタ・・・ブラフマンを知る者の中で最上の者
(*9)ブラフマイヴァ・バヴァティ・・・『マンダカ・ウパニシャッド』の3・2・9に「ブラフマヴィド・ヴラフマイヴァ・バヴァティ(ブラフマンを知る者はブラフマンそのものである」とあります。
(*10)サンスクリット語の原文など色々参考にしており、英文そのままの翻訳ではありません。スワーミー・ヴィヴェーカナンダの英訳では、「慈・悲・喜・捨を、幸福な、不幸な、良い、悪い対象それぞれに関して思うことは、心を落ち着ける」とあります。