2019年10月31日木曜日

『バガヴァーンとの日々』(14)- 46年2月2日から46年2月6日まで

◇『DAY BY DAY WITH BHAGAVAN From the Diary of A.DEVARAJA MUDALIAR』、p133~143

バガヴァーンとの日々

A.デーヴァラージャ・ムダリアールの日記から

46年2月2日 朝

 訪問者が、ハリジャンの向上のために働いていること、その運動の彼の協力者たちがマハートマー・ガーンディーのダルシャンを得て、彼の祝福を受けたこと、マハートマー・ガーンディーが、もし彼らがハリジャンの娘とより高いカーストの紳士との間に結婚をもたらすことができるなら、そのような結婚は彼の祝福を得るだろうと彼らに言ったこと、彼(訪問者)がこの件についてのバガヴァーンの見解を聞きたいということをバガヴァーンに伝えました。バガヴァーンは、「マハートマー・ガーンディーがそのように言ったのなら、私たちは皆、彼が言ったことに耳を傾けるでしょう。私たちにとってなすべきことがさらに何かありますか。彼は著名な人物で、その分野で働いています。私たちはそれと何か関係していますか」と言いました。私たちのほうに向き、バガヴァーンは言い足しました。「私が口を開けば、誰それもまたこれこれのことを言ったと新聞に何か出るでしょう。翌日にはそれを批判する人々がいるでしょう。私たちの仕事は、静かにしていることです。私たちがこの全てに携わるなら、人々は当然、もっともなことにも、『どうして彼は静かにしていないで、この全てに口出ししているのか』と尋ねるでしょう。同様に、マハートマー・ガーンディーが、全ての活動をわきに置いて静かにしているなら、彼らは、『どうして彼はこの全ての活動に携わらないで、静かしているのか』と尋ねるでしょう。彼は彼が来た目的のことを行わなければいけません。私たちは私たちが来た目的のことを行わなければいけません」。

 アーブー山からのアーナンダ・スワーミという人が、質問をして、以下の答えを得ました。

 質問: 本の中で、プルシャはアングシュタ・プラマナだと言われています。それは一体、何を意味しているのでしょうか。

 答え: 明らかに、本は、その中にプルシャが顕現しているウパーディに言及しているに違いありません。本が、全てに行き渡るプルシャがアングシュタ・プラマナであるということを意味しているはずがありません。

 質問: そのプルシャはハートの中にありますか。

 答え: あなたが物質的なハート(心臓)のことを言っているのなら、そんなはずがありません。しかし、本は、逆さまの蓮華であるハートを内なる洞窟とその洞窟の中の炎などと表現しています。そのような霊のハートの中に、プルシャが住まうと言われているかもしれず、その炎はそのアングシュタ・プラマナであるかもしれません。

 質問: その光を見ることが自らの実現ですか。

 答え: それを見ることではなく、その中に住まうこと、それであることが、自らの実現です。

 質問: ニルヴィカルパ・サマーディでは、プラーナはどうなりますか。

 答え: それが出て来たところに行き、溶け込みます。

 質問: その時、呼吸があるのかどうか知りたいのですが。

 答え: その時、呼吸の形ではなく、何らかのスークシュマな形であるかもしれません。マハー・プラーナについて話されています。

 質問: サハジャ・サマーディとは何ですか。

 答え: それは私たちのスワバーヴァ・スティティです。それは私たちの自然な状態にいることです。ニルヴィカルパ・サマーディもまた、私たちのヴィカルパを捨て去ることしか意味しません。私たちがヴィカルパを捨て去るなら、サマーディは私たちの自然な状態です。

 質問: スシュプティ・アーナンダとトゥリーヤ・アーナンダの違いは何ですか。

 答え: 異なるアーナンダは存在しません。ただ1つのアーナンダしか存在せず、それは目覚めの状態の間に享受するアーナンダ、最も下等な動物から最上のブラフマーまでのあらゆる種類の存在のアーナンダ、自らのアーナンダを含んでいます。眠りの中で無意識に享受される至福は、トゥリーヤでは意識的に享受されます。それが違いです。ジャーグラットの間に享受されるアーナンダは、ウパーディ・アーナンダです。

 午後の大部分の間、バガヴァーンは、ヴェンカテーシャ・シャーストリアーがウパニシャッドの中に見出されるリブの全ての言葉をひとまとめにしたノートを熟読していました。

46年2月3日 午前

 ラジオのニュースが、4、50万の人々がガーンディーに会うためにマドゥラに集まったと知らせました。バガヴァーンは、「そのような群衆を収容する場所はどこですか。おそらく、アラガル寺院に向かう途中でしょう」と言いました。このことはバガヴァーンにマドゥラでの彼の昔の時代について思う気にさせ、言いました。「私には1人親戚がいました。叔父みたいもので、その寺院のマニガルでした。そのため、私は時折そこに行っていて、私たちはそこで大いに尊敬され、注目されていました。そこでは大量のギーで、とても素晴らしいポンガル・プラサードが作られていました。ある時、大きな真鍮のお皿に入ったそのようなプラサードをもらい、他に誰もいなかったので、私はそれをはるばるほぼ2マイル、その叔父の村まで運びました。しかし、その家の人々が結局はあまりそれを欲しがっておらず、その大部分を彼らの召使たちに与えたことに気づきました。彼らはとてもそれに慣れていたため、それは彼らを引き付けませんでした。私はその寺院の敷地によく遊びに行きました。寺院の周りには様々な建物があり、今は顧みられず、廃墟となっていますが、ナーヤクの王たちによって使われていました。ティルマル・ナーヤクはそこに住んだと言われています。当時、このラージャたちは彼らの山々を要塞化し、そこに住みました。例えば、ジンジーを見なさい。ジンジーの要塞は3つの山の上に建てられています。それらは全て廃墟になっています。この地方の近くのパダイヴェードゥは、昔、大都市でした。ハンピは大都市で、帝国の首都でした。その町はシュリー・チャクラをひな型にして造られていること、どこかに何らかのわずかな間違いがあったこと、そしてそのために帝国は一時期繁栄したが、持ちこたえられずに衰退したことが言われています。(以前はハンピのディワーンで、後にシャンカラーチャーリヤの)ヴィドヤラーニャによってなされた予言が、再びその帝国の子孫かムトの彼の後継者がシュリー・チャクラをひな型にして都市を造るなら、その都市を首都にして大帝国が再び繁栄するだろうと言明したという噂があります。現在のシャンカラーチャーリヤがそのような運命のために生まれてきた人物かもしれないとさえ思っている人たちもいます。私たちのナーヤナは、この町(ティルヴァンナーマライ)はもともと、神々自身によって、シュリー・チャクラをひな型にして作られているため、私たちが山のあたり一面に家を建て、その都市を作りさえすれば、これが大帝国の首都になるだろうと思っていました。彼はスワラージについていつも考え、話し、それを夢見、その計画を立て、スワラージが得られるときに彼が何をするつもりか言っていたものでした。古い、古い時代に山の南側のどこかこの辺りに町があったと人々は言います。今後何が起こるのか誰にも分かりません。今ここにある、この全ての家々が建てられることになるのを私たちは想像しましたか」。

 バガヴァーンはまた、アラガル寺院が、ティルパティ寺院と共に、シヴァ派によってムルガ(主スブラマンヤ)の寺院としてみなされていること、それはムルガの6つのパダイヴェードゥの1つだということを言いました。

午後

 バガヴァーンは、どのように聖スンダラムールティと寺院を結びつける部分が扱われているのか確かめるために、ティルチュリのsthala puranaを読んでいました。彼は私たちにそれをあちこち説明していて、聖者を褒め称える様々な文章を読んでいる間に、バガヴァーンは感極まってものが言えなくなり、ほとんど先に進めませんでした。少なくとも1ダース(12回)は、彼は言葉を詰まらせ、自分を抑えた後で、先に進まなければなりませんでした。

46年2月4日

 昨晩、バガヴァーンは、ティルチュリのsthala puranaの中で、ティルチュリでスンダラムールティの前に神がカライヤールとして現れ、彼にカナペルールに来るように求めたことを読みました。このカライという言葉は、牡牛か、比ゆ的には若い精力的な男性のどちらかを意味するかもしれません。その本にはさらに、彼は手に花束とchuzhiyam(三つ又のほこ)と呼ばれる武器を持って現れたと書かれていました。(牛か男性かの)疑問を解消するために、バガヴァーンは、もし手に入れられるなら、そのカナペルールのsthala puranaを調べたほうがいいでしょうと言いました。ムルガナールは、私たちの図書館にその本を一冊贈呈したと言いました。それで、それはすぐに見つけ出され、バガヴァーンに手渡され、彼はその本をくまなく調べました。今日の午後もまた、彼はその本を読んでいました。この本でもほとんど同じ言葉が使われていたため、疑問を解消することはできませんでした。彼は私たちにいくつかの部分を、特に、一般的に知られていない以下の出来事も載ったSundaramurti Padalamを読み上げました。シヴァが「カライヤール」として現れ、聖スンダラールに、「どうしてあなたは私たちについて歌っていないのですか。私たちはカナペルールに住んでいます」と尋ねたときに、その聖者は彼がその時いたティルチュリでさえ歌い始め、カナペルールに向かって歌い続けたようです。途中、彼はティルプナイヴァーサルで止まりました。そこに、神と女神が老人とその妻としてスンダラムールティのところに来て、とてもお腹がが減っていると言い、彼に食べ物を求めました。彼は急いで彼らのために食べ物を調理しましたが、用意できたとき、客を見つけることはできませんでした。スンダラムールティは村の中で彼らを探しましたが、彼らを探し出すことはできませんでした。彼が家に戻ると、用意した食べ物もまた消えていることに気づきました。その時、スンダラムールティは、これは主のリーラーだと思いました。すると、声がしました。「カナペルールの私たちのところに来ずに、あなたはここで何をしているのですか」。スンダラムールティは、「どうすればいいのでしょうか。あなたはどこかの森の中に行き、住んでいます。私はそこへの正しい道をほとんど知りません」と答えました。その声が、「私は牡牛に乗ってあなたの前を行くでしょう。その牡牛の足跡をたどりなさい」と言い足しました。それで、スンダラムールティはしばらく足跡をたどりました。しばらくすると、足跡が見つかりませんでした。スンダラムールティは再び祈りました。すると、再び足跡が見え、それをたどりました。かなりの距離の後、足跡はなくなり、彼がどこを見てもリンガムがありました。全てはリンガ・マヤ、ジョーティ・マヤでした。それでも、スンダラムールティは一方向に進み、寺院のヴィマーナムを見つけました。

 彼とその一行は、外の貯水池で体を洗い、寺院に入りたいと思いました。すると、見よ!寺院が消え去りました。その時、スンダラムールティは、「我が主が私に腹を立てているのは、私が最初にここに来なかったからだろうか」と心の中で思い、祈り始めました。すると直ちに、ヴィマーナムの頂上が1つ1つ現れ、寺院がそこにありました。バガヴァーンはこの全てを私たちに物語り、最後に言及された情感や祈りがそこに見つかるか確かめるために、聖スンダラールのテヴァーラムに目を向けました。それは見つかりませんでした。しかし、バガヴァーンはテヴァーラムを読み上げ、一度ならず、それらの歌のバーヴァと共鳴し、大いに心動かされ、感極まってものが言えなくなりました。しかし、感動に圧倒されたときに時々彼がするようにその本をわきにはやらず、大いに努力して自分を抑え、テヴァーラム全編を(読み)終えました。彼は特に、その聖者が神は全てのバーヴァを超えている(タミル語)ハートの中で実際に彼に瞑想する人々にとって花の蜜のようだと言った詩と、その聖者が神を彼の友、主、師と呼ぶ詩もまた指摘しました。彼はその本をわきに置き、ムルガナールが講堂に入ったすぐ後、バガヴァーンは、「彼は今着ました」と言い、私はどうしてバガヴァーンがそう言ったのかムルガナールに説明しました。すぐ後、バガヴァーンは、私が上に記録したほとんど全ての物語をムルガナールに話し始めました。

 今日の午後、タレヤーカン婦人が言いました。「バガヴァーン、私は、私がティルコイルールでした体験を報告しなければいけません。私は前に何回もティルコイルールに行っていますが、バガヴァーンが訪れた寺院などをこれまで目にしていませんでした。そのため、今回、私は必ずその全てを訪れることにし、私を全ての場所に案内するために、わざわざ私たちのヴィシュワナータに同行してもらいました。私たちは最初、アライヤニ・ナッルール寺院に行きました。46年2月2日に私たちがその寺院に到着したのは、午前8時ごろでした。がっかりしたことに、寺院の巨大な扉が大きな錠前で閉じられていることに気づきました。寺院の内側にも外側にも人が見当たりませんでした。私はどうすればいいのか分かりませんでした。どうにかバガヴァーンの最初の旅に関係する全ての寺院とその中のいくつかの場所を必ず見られますようにと、私は熱心にバガヴァーンに祈り続けていました。ヴィシュワナータが、『外側のプラカラを回って、何をなすべきか考えましょう』と私に言いました。それで、私は彼と共に回り始めました。しかし、私はずっと心の中で、私が気落ちして送り戻されませんようにと、私が訪問の目的を必ず全うしますようにと、バガヴァーンに強く祈っていました。私たちが回っているときに、私はある場所で水と牛乳が寺院の内側から滴り落ちているのを見て、寺院の中に誰かいるにちがいないとヴィシュワナータに言いました。しかし、ヴィシュワナータは、アビシェーカムの水が滴り落ちてるのかもしれないと言いました。私が4番目の角を回っているとき、驚いたことに、扉がほんの少し開いていることに気づきました。私たちが静かにこっそりと入ってくるように誰かが求めているかのようでした。私たちは回ることをやめ、寺院に入りました。中で、私たちは愛嬌のある顔つきの年を取った僧侶を見つけました。彼は、しかしながら、私たちがそこにいる間中、私たちと一言も話しませんでした。彼は私たちのためにアーラティ、アルチャナ、全てのことをを行い、そこは暗かったので、私たちの要望でランプをつけ、私たちに全ての場所を案内しました。私たちは外に出て、再び寺院の周りを回りました。私たちが回り終えるまでに、扉は再び閉められていて、その老人はいなくなりました。その日、扉を開け、私たちにダルシャンを与えたのは、バガヴァーンの恩寵でしかないと私は思います」。バガヴァーンはヴィシュワナータに、「その老人は誰か尋ねて、調べなかったのですか」と尋ねました。ヴィシュワナータは、「いえ、しませんでした」と答えました。

46年2月5日

 午前も午後も、バガヴァーンはKalaiyarkoil Puranamを読んでいて、その中の様々な部分を私たちに説明していました。彼はとてもその歌と物語に夢中であったため、今朝、新聞が届いた後でさえ、私たちに説明し続けていました。いつものようにラジオを聴くことを認められなかったために残念がっていた、付添人のクリシュナスワーミは、「そのような物語まで、バガヴァーンが取り上げるなら、全くきりがないでしょう」と発言しました。話を聞いていて、そうしてある意味バガヴァーンが話し続けるように励ましていた私たちを自分は非難しているのだと彼は思っていました。彼は、バガヴァーンが得ていたような、人が他の人々と分かち合たいと思う文学上の小旅行の楽しみを理解できませんでした。バガヴァーンは私たちに、どのようにその詩人が彼の技を示しているのか、どのようにたった一節がその詩人に何日も不安な思いをして過ごさせたかもしれないかを私たちに説明していました。

46年2月6日

 昨晩、ここの副行政長官で、転任のためカダルールに発つ、ラージャラトナ・ムダリアールが、いとまごいをしにバガヴァーンのもとに来ました。私の要請を受けて、彼は、ここでタミル語と呼ばれる祭りにおいて祝われる神と女神の間のタミル語(愛の口論)に関連して寺院の僧侶に使われる歌や会話などの写しを手に入れていて、私にそれを渡しました。昨晩、私は吟味してもらうためにそれをバガヴァーンに預けました。7時45分ごろに私が講堂に入ったとき、バガヴァーンは上記のものを読んでいて、それを彼の近くの人々に説明していました。私が入ってくるのを見て、バガヴァーンは、「今来たばかりですか」と言いました。ちょうどその時に説明していた箇所を終えた後、彼は再び私のために初めから読んで説明しはじめ、最後まで読み続けました。私たちはラージャラトナム氏が手に入れた写しが完全でないことに気づきました。私に届けられた写しの中に含まれていないものが寺院の僧侶のもとにあるのかどうか突き止めることを私は約束しました。

 本日、午前10時から11時の間に、寺院の前のバガヴァーンの新しい講堂のための基礎が築かれ、バガヴァーンはその式典に出席しました。その仕事を担当するシュタパティ(シュリー・ヴァイダヤナータ・シュタパティ)が、簡単なスピーチを行い、その中で、全ての仕事を1年以内に完了するように取り計らうことが彼の目標であり、努めであること、彼が全てのバガヴァーンの信奉者の協力と善意を求めることを彼は言いました。多くの信奉者もまた、様々な金額を寄付しました。はじめにある未亡人が来て、サルヴァーディカーリにいくらかお金を差し出しました。彼はそれを受け取り、「このお金をその女性が寄付金として提供してくれました」と言いながら、地面の上のお盆にそれを置きました。すると直ちに、様々な信奉者が様々な金額を置き始めました。その場所に差し出された額は、2000ルピー以下のはずはなかったと思います。ティルコイルール出身のラジオの歌手が、バガヴァーンを称える2、3の歌を歌い、その式典は私たち、入居者のためのご馳走で終わりました。

午後

 バガヴァーンはもう、カライヤールコイル神殿についての本の大半を読んでいて、「カライヤール」は、若くたくましい男性だけを意味し、雄牛ではないという、つまり、彼はティルチュリの近くに若い男性として聖スンダラの前に現れたというのが彼の意見です。


 パーラーヤナの後、ある人がやって来て、「私たちは明日の朝、私たちの村に行きます」とバガヴァーンに言いました。バガヴァーンは、「分かりました」と言い、その人は去りました。付添人のほうを向き、「タミル語(彼らに与えられていますか)」と言いました。付添人は出ていき、尋ね、戻ってきて、「彼らにまだ与えられていません。しかし、彼らに与えられるものが取っておかれています」と報告しました。私はこの全ては何についてなのかと思っていました。バガヴァーンは、「私が山のアーシュラム(つまり、スカンダーシュラマム)にいたとき、アンナーマライ・スワーミという人がいました。彼は1922年のタイの月に亡くなり、エーサンニャ・マト近くに埋葬されました。これは彼のグル・プージャー、命日法要です。彼の親族が来て、毎年それを祝います。彼らはそこで貧しい人々に食事を与え、お米などをここに置いていきます。私たちは彼らに私たちのプラサーダム(ヴァダイ、ポンガルなど)を与えます。そのようなグル・プージャーの日には、私たちのタミル語のパーラーヤナと共に、そのアンナーマライ・スワーミによって作られた歌を歌うのが通例です。私は彼らが今日何をするつもりなのか知りません」と私に言いました。私は、「それが慣習であったなら、私たちは今日ぜひとも同じことをすべきでしょう。それについてどうして疑問があらねばならないのしょうか」と言いました。そうしているうちに、バララムが、そのアンナーマライ・スワーミとは誰かバガヴァーンに尋ねました。バガヴァーンはそこで直ちに、111枚の挿絵が載ったカマスによって出版されたバガヴァーンの伝記を取り出し、アンナーマライ・スワーミが写真の右端に立っている集合写真を私たちに見せました。バガヴァーンは、「母は彼をとても気に入っていました。彼はタイの月に亡くなりました。彼女はヴァイカーシの月に亡くなりました」と言いました。その写真を見てすぐ、私たちは皆、バガヴァーンが写真の中でとても細く痩せていると言いました。バガヴァーンは、「それは当時私が一日一食で生活していたからです。およそ1年ぐらい、私は一日に一食しか食べていませんでした。しかし、写真の中の私の状態は何でもありません。あなたたちはグルムールタムでの私を見るべきでした。私は骨と皮だけで、どこにも肉はありませんでした。お腹は見当たりませんでした。それは背中に張り付いていて、そこまで引っ込んでいました。ですから、写真のこの状態はそれほど悪いわけではありません」と言いました。私たちはこの写真がいつ撮られたのかバガヴァーンに尋ねました。1921年のジャヤンティごろだと彼は言いました。このことから、会話は、バガヴァーンがここで最初に撮影された時期に移りました。すると直ちに彼は言いました。「それは1900年か1901年でした。政府が、ここの捕虜たちを写真に撮るために写真家を連れてきました。当時、ここに写真家はいませんでした。この写真家は、クンバコーナム・マウナ・スワーミの弟子で、私について耳にしていたようです。それで、彼はここへの旅をうまく利用して、私を訪問しました。彼は私たちにクンバコーナム・マウナ・スワーミの写真をくれて、私の写真を撮りました。集合写真が最初に撮られたのは、1906年かそこらです。その中で私たちは6人いました。私、パラニスワーミ、シヴァイヤ(彼は当時、コータラムのモウナ・スワーミになっていませんでした)、(当時、ここの衛生査察官だった)パチャイ・ピッライ、ランガ・スワーミ・アイヤンガー(Best & Co's agent)、そして、監督官セーシャ・アイヤルです。その写しは手に入れられません。アイヤンガーの家族が持っているかもしれません。私たちは見つけ出せていません」。この段階で、タレヤーカン婦人が、「子供のころのバガヴァーンの写真はないのですか」と尋ねました。バガヴァーンは言いました。「当時、ティルチュリのような場所に写真家はいませんでした。しかし、私が7、8才のころに、ヨーロッパ人の写真家が、ティルチュリの副治安判事などの集合写真を撮るためにそこに来ました。彼は病院の後ろに滞在していました。彼が副治安判事の集合写真を撮った後、私の叔父のネリアッパ・アイヤルが自分の写真を撮ってもらいたいと思いました。彼はその写真の中で私も彼のそばに置きたがりました。それで、私は学校から呼ばれました。

 「私は急いで来ました。ちょうどその時、私は最近きれいに剃られた広い額で(つまり、上に突き出た頭のてっぺんで)ほとんど(髪の毛の)房を後ろに隠していて(shiba注)、ボタンはなく、私の周りにだらりとぶら下がっている私のジッバなど、全般的に見てパチリと撮られるには準備ができていませんでした。私が到着するまでに、叔父は病院の敷地で椅子に座っていて、そこにはいい背景のためにクロトン(変葉木)があり、写真家がカメラを調節するのに忙しくしていました。私は叔父の左に立たせられ、右手を叔父の椅子の左手に置きました。病院から大きな本が持ってこられ、私は左側のわきの下でそれを持つように頼まれました。そのように配置され、私はパチリと撮られることになっていました。しかし、ついてないことに、ちょうど写真が撮られようとするときに、ハエが私の顔の上にとまり、私はそのハエを追い払うために手を上げました。その結果として、写真の中では私の右手が空中で揺れているのを見ることができます。私たちはこの写真もまた手に入れることができていません。私の子供時代、少年時代に撮られた他の私の写真はありません」。

(原注)
・プルシャ・・・人、または、自ら
・アングシュタ・プラマナ・・・親指の大きさの
・ウパーディ・・・付加物、付属物
・ニルヴィカルパ・サマーディ・・・その中で個別の自分とブラフマンとの間の全ての相違が存在しなくなったサマーディ
・スークシュマ・・・微細な
・マハー・プラーナ・・・重要な生命の力
・サハジャ・サマーデイ・・・自然で、絶え間のないサマーディ
・スワヴァーバ・スティティ・・・自然な状態
・ヴィカルパ・・・疑い、または、誤った概念
・スシュプティ・・・深い、夢を見ない眠りの状態
・トゥリーヤ・アーナンダ・・・ブランフマン、第四の状態、トゥリーヤの状態で経験される至福
・ウパーディ・アーナンダ・・・付加物によって引き起こされたアーナンダ
・マニガル・・・公共機関、施設の責任者、管理人
・ポンガル・プラサード・・・神に捧げられるポンガル
・ポンガル・・・米、豆、木の実、ギーなどからなる南インドの料理
・プラサード・・・神やグルなどに捧げられた後、信奉者に配られる食べ物
・パダイヴェードゥ・・・神々と悪魔が戦った戦地に建てられた寺院、神殿
・sthalapurana・・・聖地の伝説、言い伝え
・リーラー・・・冗談、戯れ
・リンガ・マヤ・・・リンガで満ちた
・ジョーティ・マヤ・・・光輝で満ちた
・ヴィマーナム・・・寺院の塔の上の部分、または、天の車
・バーヴァ・・・感情、気分
・プラカラ・・・寺院の中の神殿を囲む舗装された庭
・アビシェーカム・・・神に差し上げられる、水、牛乳、凝乳などからなる聖なる沐浴
・アーラティ・・・聖像のまえで灯火を振ること
・アルチャナ・・・聖像に花を捧げること
・シュタパティ・・・寺院や他の神聖な建築物の建築家
・ヴァダイ・・・南インドの、油で揚げられたケツルアズキのパン生地の料理
・ジッバ・・・襟とカフスのない長いゆったりとしたシャツ

(shiba注)
シカー(shikha)という、伝統的なヒンドゥー教徒、特に、バラモンや僧侶の剃られた頭の上に残された毛の房があります。web検索して写真で見ると、辮髪のように後頭部にだけ髪の毛が残っています。バガヴァーンは当時この髪型をしていて、バガヴァーンの特徴的な突き出た頭頂部(智慧の頭頂と言われるようです)が、その毛の房を隠していたということだと思います。

2019年10月19日土曜日

バガヴァーンとの日々⑬ - 46年1月27日ら46年2月1日まで

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』、p122~133

バガヴァーンとの日々

A.デーヴァラージャ・ムダリアールの日記から

46年1月27日

 クリシュナスワーミが、約束したように、今朝、戻りました。バガヴァーンは、マドラスでガーンディーに会うための彼の旅行について優しく質問していました。クリシュナは、電車には膨大な群衆がいたこと、ここからマドラスまでずっと立たなければならなかったこと、再びそこには10万以上の群衆がいたこと、ある曲がり角には駐車された車の海があったこと、私たちの友人の何人かの親切な尽力により6ルピーのチケットで彼がマハートマー・ガーンディーのとても近くに座ったこと、後に全ての群衆が門を破って殺到したこと、ガーンディーがヒンディー語以外のどの言葉でも話すことを拒んだことなどを話しました。バガヴァーンは、「あなたはガーンディーに会いました。今や、あなたは、そのような旅行から得られる喜びを味わい、知っています」と言い、そのように言いながら、「大事にしまってしておきなさい。6ルピーの価値があります」との言葉と共にチケットを返しました。クリシュナはまた、T.N.K.博士から彼に贈られた大小の多くの写真を持ってきました。その中の多くで、彼とバガヴァーンが一緒に見つかります。これに関連して、ナーガンマが、ヴィシュワナータ・アイヤルの母親がスカンダーシュラマムでとられたバガヴァーンの写真を見たがっていた、とバガヴァーンに言いました。彼はアルバムを持ってきて、その女性に見せるように言いつけ、それは行われました。

 クリシュナが、「T.N.K.博士が、私を通じて何か薬をバガヴァーンに送ると言っていましたが、私は彼に再び会って、それを持ってくる時間さえありませんでした。T.P.R.がそれを持ってくるでしょう」とバガヴァーンに言いました。バガヴァーンは、「どうして薬を?今、私はどこか悪いのですか。私は大丈夫です。この全ては不必要な空騒ぎです。どうしてあなたは私に薬を送るように彼に頼みに行ったのですか」と言いました。クリシュナは、「私は頼んでいません。彼自身がそれを送ると言いました。彼はバガヴァーンに会いに来るつもりでもいます」と言いました。バガヴァーンは、「彼は『バガヴァーンはどうですか』とあなたに尋ねて、あなたは何か言ったでしょう。そうでなければ、どうして彼が薬を送らなければならないのですか」と述べました。クリシュナは、「そのように尋ねられるとき、どうして黙っていられますか。話さざるを得ません」と言いました。クリシュナはまた、バガヴァーンに言いました。「私たちの友人の何人かが、私たちのアーシュラムを訪ねることをガーンディーに提案したいと思っていました。しかし、彼らがO.P.ラーマスワーミ・レッディ氏に相談したとき、彼は、『ここで私たちは誰もガーンディーに面会できません。ラジャジだけが影響力を持っています』と言いました」。するとバガヴァーンは、「彼はそのような場所に来ることを許されないでしょう(タミル語)」と言いました。1週間ほど前、バガヴァーンは、かつてガーンディーがこの場所にやって来て、(私たちのアーシュラムから200メートル以下の)家畜品評会場の近くにいて、そこでの仕事をそのために決められた時間以下で終わらせ、寄付金を集め、その場を離れた、と述べていました。クリシュナはまた、マハートマーが頻繁にバガヴァーンについて考えていること、彼に大きな尊敬の念を持っていることを人々に話しているという知らせをもたらしました。バガヴァーンは、「ええ。ええ。それはそうかもしれません。誰かが自分には心の安らぎがないと彼に言うときはいつでも、彼は、『しばらくラマナーシュラマムに滞在しに行きなさい』と彼らに言い、彼らをここに送り出します。彼らはやって来て、私たちに言います」と言いました。

 後ほど、午前10時すぎ、バガヴァーンはDinamaniを読んでいて、(コーヤンブットゥール近くの)ペールールの寺院に関する記事をそこで見つけ、私たちにそれを読み上げ、「それは私にとって初耳です。私たちはスンダラムールティの人生においてやPeriyapuranamの中でこれについて耳にしていません。しかし、それはSthalapuranamの中にあるのかもしれません」と言いました。これがその物語です。一年の特定の日に、神と女神が隣接する畑に連れ出され、ある信奉者の代わりに苗木を植え替える神と女神の祭りが祝われています。それは、ある日、スンダラムールティ・スワーミが寺院に入り、がっかりしたことに神も女神もそこにいないことに気づき、彼らを探すとすぐに、彼らが畑でこのハリジャンの信奉者のために(苗木を)植え替えることに取り組んでいるのを発見したということを記念しています。

46年1月28日 午前

 今では1か月ほどここに滞在している、P.B.ライ氏が、彼のベンガル語のバガヴァーンの伝記を仕上げました。彼はバガヴァーンの前で献辞を読み、英語に翻訳し、彼は数年まえマドラスで誰かからバガヴァーンについてはじめて耳にし、すぐ後でこの伝記を書き始め、これを完成させるのに4年を要したと言いました。バガヴァーンは、ずっと前、どこかのベンガル人がベンガル語の雑誌に彼の短い伝記を書き、彼についてのさらにいくつかの記事も何かのベンガル語の新聞か雑誌に掲載されたと言いました。ライ氏は、今バガヴァーンによって言及された2つの記事を書いたと言いました。そこで直ちに、バガヴァーンは他のベンガル語の記事を探し、それを探し当て、吟味してもらうためにライ氏に渡しました。それはAmrutと呼ばれる雑誌に掲載され、1934年に出版されました。この記事の著者は、ラーマクリシュナ・ミッションのジャガディーシャーナンダ・スワーミです。ライ氏はそれを熟読し、その記事は全ての点に触れているが、どういうわけか、バガヴァーンがここに来る前にマドゥラで起こった、死を思うことから生じ、自らの実現に帰着するバガヴァーンの体験について言及し忘れていると午後、私に言いました。

 最近ここにいた、ゴークル・バーイーという人が、ガーンディーをここに連れてこようとしたが、ガーンディーが、すでにあまりにも込み合っている彼の予定に何一つ追加されるべきでないと断固として命じていることが分かったということを手紙で知らせました。バガヴァーンは、「彼らはこの全てのための時間を見つけられません」と言い足しました。

46年1月29日

 バガヴァーンは、Ramana Lila(テルグ語のバガヴァーンの伝記)の新版を手に取り、何気なくそれを開くと、彼によって作られた奇妙な詩節をふと見つけ(食事の前、間、後に水を飲むことについてや、シッディを追い求める人々が手品師よりいっそう悪いことについてのような)、「彼はこの版にこの全てをつけ付け足しています。私はこれまでそれを目にしていません。いつ彼はこの全てを書き取り、それをこの版に付け足したのですか」と驚きを表しました。

 バガヴァーンがまだこの新版に目を通している間に、訪問者が尋ねました。「私は1年ほど前にここに来て、それ以来、バガヴァーンの指示に従おうとしてきています。私は、しかしながら、あまりうまくいっておりません。私は全ての女性を母として見ようとしてます。しかし、私はうまくいっていません」。バガヴァーンは返答せず、その訪問者は続けました。「私が家にいるうちは、大丈夫です。しかし、外に出て、女性を見るとき、私は心を制御することができず、足をさらわれます(心奪われます)。どうしたらいいのでしょうか」。彼はまた、「私はアートマ・サークシャートカーラムが欲しいのです。どうしたらいいのでしょうか。私はバガヴァーンの祝福を願い求めます」と言い足しました。一呼吸おいてから、バガヴァーンは返答しました。「家にいるときは大丈夫だとあなたは言います。家にいなさい、心の中の家に(いなさい)。心を外側に行かせてはいけません。それを内側に向け、そこでそれを家に留めなさい。そうすれば、万事うまくいき、あなたはアートマ・サークシャートカーラムを得るでしょう。問題は、私たちは心であると私たちが思っていることです。私たちが心であるのか確かめなさい」。

 その訪問者が言いました。「私はグリハスタです。それでも、私は妻に対してさえブラフマチャルヤを実践したいのです。しかし、うまくいきません。どうしたらいいのでしょうか」。バガヴァーンは返答しました。「それは長年のヴァーサナーのためです。サンカルパがとても強力なのは、それがとても長く存在してきたからです。しかし、それはなくなるでしょう」。

46年1月30日 午後

 バガヴァーンは、アップ・シャーストリー氏からの手紙を読んでいました。彼はベナレスのガンジス川の上で船の中に住んでいるハリディヤル・マハーラージという人を訪問していました。そのマハーラージ(スワーミ)は、200歳だという評判です。これに関連して、バガヴァーンは言いました。「私がグルムールタムにいたとき、私の爪は1インチほどの長さに伸び、垂れた長いジャタ(もじゃもじゃの髪)をしていて、人々は、見た目はとても若いが、私がとても年を取っていると、私が何世紀にもわたってそのように生きているとよく話していました!」。

 (すぐ前の記録で言及された)訪問者が、バガヴァーンに言いました。「今晩、私は家に戻ります。私は私の苦境を口にしました」。

 バガヴァーン: ええ。それは徐々になくなるでしょう。

 訪問者: 私はバガヴァーンのクリパ・ドリシュティ(慈悲の眼差し)を願い求めます。

 バガヴァーンは返答しませんでした。このわずか数分前、コロンボのラーマーチャンドラの2人の娘が歌い終え、(熱心な長年の信奉者である、彼女たちの父親によって作られた)ほぼ最後の歌に以下の詩が含まれていました。タミル語(恵み深いグルとしてアンナーマライに留まる彼は、その眼差しを彼らに向け、彼らの悲しみを晴らし、彼らに救いへの道を教える)。


 アーナンダ・スワーミという訪問者が、1940年のいつかの日付のThe Hinduからの抜き刷りを持ってきました。その中で、モーリス・フリードマン(ここ十年来のバガヴァーンの信奉者)が、どのように、詐欺の疑いをはさむ余地のない状況で、2人の女性が祈り、一種の恍惚状態に入り、その後、その手の中に不可思議にどこからともなくいくつかの砂糖菓子とアーモンドを得たのか報告しています。そのスワーミはまた、人々が果物などを受け取る、そのような他の例を彼自身が見たことがあると言い、そのような出来事はどのように説明しうるのかバガヴァーンに尋ねました。バガヴァーンは返答しました。「私たちはとても多くの物事を耳にします。そのような物事のために働く宗派があります。彼らはそのような物を見たり、得たりするかもしれません。しかし、誰がそれを見たり、得たりするのですか。あなたがそれを見るはずです。Periyapuranamでも、似たような出来事が言及されています。ある商人が、食事と一緒に後で食べると言い、妻にマンゴーを2つ送りました。彼が仕事から戻る前に、サードゥが来て、とてもお腹が減っていると言い、その妻は、彼を憐れみ、いくらかお米をあげ、そのお米と共にあげる用意のできたものが他に何もなかったので、マンゴーを1つあげました。彼女は夫が1つのマンゴーだけで満足するようにと願いました。夫が後で戻り、食事の間にマンゴーを求め、1つを平らげ、それがとても甘いことに気づいて、もう1つも求めました。妻はにっちもさっちもいかなくなり、夫の激怒を恐れ、前に2つの果物をしまっておいていた部屋に行き、この状況で神に助けを願い祈りました。さすれば、見よ!彼女が2つの果物をしまっておいたところに、もう1つ果物が置かれていました。それで、彼女はそれを持っていき、夫にあげました。彼はそれを食べ、それがさらにいっそうおいしく、彼が以前に決して知らなかった恍惚感とシャーンティを彼に与えることに気づきました。そのため、彼は妻にその果物について真実を言うように迫り、彼女から聞き出しました。驚いて、そして、まだ少しいぶかって、彼は妻にもう1つ果物を願い求め、手に入れるように頼みました。妻はやってみますと言い、神の恩寵によってもう1つ果物を受け取りました。その時、彼女が聖者であることが彼に分かってきて、彼は彼女の前で平伏し、彼女をこれ以上妻として扱うことは彼にとって罰当たりなことだと思い、村を去り、別の村で住みに行きました。妻はしばらく後に彼を探しあて、彼は彼女の主であるため、彼のところに行くのは彼女の義務だと、彼が彼の望むことを彼女にすべきだと思い、彼女はその村に向かいました。夫は、それを察知し、そこの村人たちに、「偉大な聖者がやって来ます。私たちはしかるべき敬意、作法、華やかさをもって、御輿や太鼓の音色を持ち出して、彼女を歓迎しなければいけません」と言いました。そうして、彼は手厚い歓迎を準備して、迎え入れる一団の先頭で行進し、妻の前で最初に平伏しました。

 「妻はどうすればいいのか分かりませんでした。彼女は死すべき運命の肉体を脱ぎ捨て、アストラル体に住まい、ついには天界に達し、そこでもまた夫を迎えました。その女性の聖者はカーライッカール・アンマイヤールで、その物語はPeriyapuranamの中に見られます」。

 私たちはまた、フリードマンとこのアーナンダ・スワーミによって語られたものに似た出来事を思い出しました。それはほんの数か月前にバガヴァーンの講堂で起こり、この日記に記録されています。その時、グジャラート人の女性が祈りの後、砂糖菓子を手の中に受け取りました。バララム氏の要望で、この日記の前の巻が持ちだされ、バララム氏が上述の出来事についての記述を、その奇跡を行った女性の名前と住所と共に、それが起こったとおりに読み上げました。アーシュラマムの古参の一員、ラーマスワーミ・ピッライ氏は、そのような出来事を重要視することを非難しました。彼は、「箱の中に入れられ、のこぎりでバラバラに切られ、無傷で出てくる人のように、私はもっと不思議な物事を見たことがあります。そのような奇跡から私が学んだ全ては、私たちは私たちの目を信用すべきではないということ、私たちの目がそのように(現実だと)伝えるからというだけで、ものが現実であると決して信じるべきではないということです」と言いました。バガヴァーンもまた言い足しました。「私たちはとても多くの不思議な物事が行われるのを目にします。手品師が固く縛られた女の子を麻袋に入れ、それをかごの下に置き去りにします。彼がその女の子を呼ぶと、彼女が別のどこからかか現れます。魔法のようなことが存在しています」。

 このころに、タミル語のパーラーヤナの時間になりました。私たちは(シヴァプラカーシャム・ピッライによる)Ramana Deva Malaiの第29詩節から始めました。奇妙な偶然で、それは、「知性、ブッディは、マーヤーのために現実を見ない」と書いてあり、バガヴァーンはシヴァプラカーシャム・ピッライの作品を引用し、タミル語(全てはマーヤーの仕業です)と私たちの会話に続けて言い足しました。

46年1月31日 午前

 午前8時30分ごろ、つまり、S.ラオ医師がバガヴァーンの足をマッサージし終えた、ほぼ半時間後、バガヴァーンは、「タミル語」、つまり、「まるで彼がマッサージしているかのようです。しかし、私がその人を探すと、誰もいません」と言いました。

 午前11時ごろ、訪問者が尋ねました。「バガヴァーンは今朝、私に、『現実(ヤタールタム)を知らなければ、安らぎ(シャーンティ)を得ることはできない』と言いました。その現実とは何ですか」。

 バガヴァーン: 常に存在するものが、現実です。それは安らぎです。安らぎはその別名です。

 訪問者: どうやってそれに達するのですか、もしくは、どうやって安らぎを得るのですか。

 バガヴァーン: すでに私が言ったように、存在するものは、安らぎです。私たちがする必要がある全ては、静かにしていることです。安らぎは、私たちの本質です。私たちはそれを台無しにしています。必要とされることは、私たちがそれを台無しにしなくなることです。私たちは新たに安らぎを作り出そうとしていません。例えば、講堂に空間があります。私たちはその場所を様々な物でいっぱいに満たしています。私たちが空間を欲しいなら、私たちがする必要のある全ては、それら全てのものを取り除くことです。そうすれば、私たちは空間を手にします。同様に、私たちが心から全てのごみを、全ての思いを取り除くなら、安らぎが明らかになるでしょう。安らぎを妨げているものを取り除かなければいけません。安らぎが唯一の現実です。

午後

 バガヴァーンは、Ramana Lilaの新版を見直していました。この版には、多くの間違いが潜り込むことを許されていると彼は感じています。いくらかは、適切に調査されていなかった校正刷りのため、ヴェンカタクリシュナイアーが当時視力の悪さに苦しんでいたためです。しかし、他のいくらかは、事実を確認する際の注意が不十分なためです。バガヴァーンはこれらを訂正しようとしていました。例えば、その本に載っているバガヴァーンのホロスコープに関連して、彼は15年を5年に訂正しました。彼はパーパハラナーディ川の方向と場所が正確でないことに気づきました。そのような間違いはバガヴァーンの性に合わず、そのため彼はそれらを発見するために全編を辛抱強く調べています。それは彼にとって、とりわけ彼の悪い視力を用いてでは、あまりにも重い負担です。

46年2月1日 午前

 ラジオのニュースが、コーチンのマハーラージの死を知らせました。バガヴァーンは、「彼は亡くなったのですか。私たちは彼の病気のことを読んで知りました!」と言いました。私は、「彼は年を取っていたに違いありません!」と言いました。バガヴァーンは言いました。「ええ。別の年を取った人が、今や玉座に上ろうとしているのかもしれません。亡くなった人は、ほんの数年前に玉座に上りました。アッパン・タンビラン(彼はバガヴァーンを訪問し、彼について記しました)が、いま生きていたなら、王位を獲得していたでしょう。彼らには、継承を待つ、王子の長いリストがあります」。私は、「彼らは一般的に年を取っているだけでなく、とても博学で、敬虔でもあります-このコーチンのラージャたちは」と言いました。バガヴァーンは、「ええ。彼らは一般的にサンスクリット語に精通しています。トラヴァンコールがハリジャンにその寺院を解放したときさえ、コーチンはしませんでした」と言いました。バララムが、「私が大学で学んでいた時、コーチンの第42位の王子が私と一緒に学んでいました。彼らにはそのように長い継承権の相続人のリストがあります」と言いました。付添人のクリシュナスワーミが、コーチンは大きな州なのかバガヴァーンに尋ねました。そこで直ちに、私たちはコーチンは小さいが、プドゥコーッタ(イ)はもっと小さいことについて話しました。誰かが、プドゥコーッタは、その元々の所有者が彼の主人を裏切って、英国民の手助けをしたから州になったと言いました。ここから、会話はタミル語(オーマイヤン)の方向に流れました。彼は当時、英軍にとって恐怖の的であり、英軍は彼を長い間捕まえられず、プドゥコーッタ・パリアガル(人?)の助けでついに捕らえられた言われています。その時、バガヴァーンは言いました。「ディンディグルに砦があります。正面入り口は警備されていて、私たち少年は入ることを許されていなかったものでした。私たちは壁の最も遠くの端に行き、登り、砦の中に飛び降り、砦の背後の壁の穴によって砦から出ました。その穴を通って、オーマイヤンは英国人から逃れた言われていました。私たちが今、その壁を見ると、どうやって私たちは登って、そこから飛び降りたのだろうかと思います」。バガヴァーンはRamana Lilaを引き続き調べ、さらに間違いを発見していました。

午後

 G.スッバ・ラオ氏が、Ramana Lilaから、シャンカラーチャーリヤが彼の弟子の1人にバガヴァーンはスブラマンヤの3人目のアヴァターラだと(1人目はクマーリア・バッタルで、2人目はジニャーナ・サンバンダール)言ったということを読み、シャンカラーチャーリヤは一体誰にそのように言ったのかバガヴァーンに尋ねましたが、バガヴァーンは分かりませんでした。しかし、シャンカラーチャーリヤは最後の人より前の人、つまり、今の人から3代前に違いないと彼は言いました。バガヴァーンはまた、「そのシャンカラーチャーリヤは、私に会いにスカンダーシュラマムに来ました。彼は彼が聞いたことを繰り返して言っていたに違いありません。それを(言い)始めたのは、ナーヤナだけです。以前は誰もそう言ってませんでした」と言い足しました。バガヴァーンは、Ramana Lilaの中で、ヴェンカタ・クリシュナイヤによるバガヴァーンのマドラスからの旅の詩的な描写-彼の体のヴィマーナム(*1)の中で、彼はダハラーカーシャ(*2)、チット・アーカーシャを横切っていたという-をふと見つけ、それを私たちに読み上げました。これは彼にここでの過去のある出来事を思い出させ、彼は言いました。「昔、私たちがスカンダーシュラマムにいたとき、タイの月に、私たちはある夜、山を巡りに40か50人のグループで出かけました。私たちは皆、始める前に、お茶に加えてプリなどのしっかりとした食事をとっていました。彼らは加えてマルンドゥ(材料として阿片を含んだレーヒャム)をとっていました。私たちがここの近くに来るまでに、ナンボードリという人、アートマーナンダ・スワーミが、『私はクシーラ・サーガラに浮かんでいて、船がその海沿いに私を運んでいる感じがします』と言い出しました。別の人は、飛行機に乗って空を飛んでいる感じがすると言いました。そのように、ヴェンカタ・クリシュナイヤは、私がダハラーカーシャを旅していたと言っています!」。そうしているうちにラーマナータ・ディークシタルが講堂に入って来て(彼は1912年以来バガヴァーンと共にいます)、彼を見るとすぐ、バガヴァーンは言いました。「彼はその機会に私たちと共にいたはずです。別の機会に、私たちがヴィルーパークシ洞窟にいたとき、私たちは山を巡りに出かけ、チダンバラム・スブラマンヤ・シャーストリーがその一団の先導者でした。私たちがここの近くのどこかに来たとき、グル・バクティについて、山を巡りながら、それぞれの人が1時間講義してはどうかと彼が提案して、ラーマナータンの番は一番初めでした。彼らは皆、マルンドゥ(つまり、ガンジャ)をとっていました。ラーマナータンは講義をはじめ、ティルヴァンナーマライとラマナ、チダンバラムとナタラージャ、体と自らが同じであるという彼のテーマを詳しく論じました。彼はそのテーマを論じ続け、それを擁護する独創的な主張を言い続けました。それは大変な熱意と気迫であったため、彼は制限時間をはるかに超えました。彼が止めるように頼まれたとき、彼は哀れを誘う様子でもう少し時間をと嘆願しました。そのため、彼は続けることを許されました。彼が2時間費やした後でさえ、彼は終えようとせず、彼を止めなけばならず、それから、別の人が話すように頼まれました。ラーマナータンの話しぶりは素晴らしいものでした。誰もそれを彼に期待していなかったでしょう。彼が「タミル語」を作ったのは、その翌日でした」。バララム氏は、昔ヴィルーパークシ洞窟にバガヴァーンが1人でいて、小さな壁を建てることに取り組んでいると、ある訪問者がそこに来て、どこにスワーミがいるのかバガヴァーンに尋ねたとき、バガヴァーンが彼に「スワーミは出かけました」と言ったということが言及されている、Ramana Lilaの中の文章をふと見つけました。バララムはバガヴァーンに、「そうなのですか?」と尋ねました。バガヴァーンは、「ええ」と言いました。さらに読み進めると、バララムは、その人が少し滞在し、どのスワーミが戻ってくるのも見つけられずに去って行き、彼が3日目に再びやって来て、その時も彼は少し滞在して、バガヴァーン以外誰も見つけられず、帰って行き、帰る間に彼はエチャンマを会い、彼女に彼のスワーミとは彼がその日と前の機会にヴィルーパークシ洞窟で会った人だと聞かされ、エチャンマが後に、そのようにその人を誤解させるのは彼にとってふさわしいのかバガヴァーンに尋ね、バガヴァーンが彼女に、「あなたは私に『私がそのスワーミです』と知らせる鈴を首回りにつけて出歩いて欲しいのですか。それとも、額に私がそのスワーミであるという張り紙を張って(出歩いて欲しいの)ですか」と返答したという陳述を見つけました。

 このことはバガヴァーンにその若かりし日々について、古い腰布と小さくぼろぼろのタオルだけ身に着けて出歩いていた時、彼のことをスワーミとみなすことがもちろん誰にとってもどのように簡単ではなかったかについて話す気にさせました。彼は言いました。「私がパチャイアンマン・コイルにいたとき、私はぼろぼろの破れた小さなタオルを持っていました。それはほとんどぼろ切れで、たいていの場所から糸が飛び出していました。一度、牛飼いの男の子が、『総督がこのタオルを欲しがってるよ』と私に言って、この破れたぼろ切れをからかいました。私は、『あなたにそれをあげる気はないと彼に伝えなさい!』と返答しました。私はそれを人前で決して広げませんでした。私はそれを丸めて球にしておき、そのように丸めて球になったタオルで必要に応じて体や手や口を拭いていました。私は2つの岩の間のある場所でそれを洗い、乾かしていました。私と一緒にいた人々の誰も、その場所を訪れたことはありませんでした。私の腰布さえもぼろぼろでした。一番上の端が擦り切れたとき、私は腰布を逆にして、それを裏の端で使っていました。森に入るとき、私はウチワサボテンのとげを針として使って腰布から取った糸でそれをひそかに繕っていました。そのため、誰も私のタオルと腰布の哀れな状態を知ることも、感づくこともありませんでした。ある日、どうにかして、当時私とよく共にいた人たちの1人が、私が布を乾かしていた場所に行き、そうして偶然、私の布の状態に気づきました。彼らはその後、そのような状態を許したことで、言い訳しようのない冒涜(アパチャーラ)を犯したなどで涙を流しました。彼らはトランクの中に布生地やとても多くのタオルなどを持っていて、全て私のために使うつもりでいました。ただ彼らはどれほどひどく私のタオルと腰布が破れていたか知らなかっただけでした。そうでなければ、彼らはずっと前にそれを他のものに取り換えていたでしょう」。彼は言い足しました。「私たちのムルガナールがこれらの事実を歌の中で述べていて、私がインドラをタオルとして(つまり、千の小さな目、穴があるタオル)、そして、ウチワサボテンのとげによって縫われた腰布を持っていると描写しました。しかし、その事実を知らない人は、その詩人がそもそも何を意図したのか理解できないかもしれません」。彼はまた、聖スンダラムールティの人生から2つの物語を私たちに話しました。その1つでは、その聖者は這い上がるナス(タミル語)の葉っぱで崇拝を行っていましたが、他の人々は彼が料理のためにそれを準備していると思いました。もう1つでは、ソーマヤジュルという人が、その葉っぱを通じてその聖者の助けを得て、彼のヤグナでシヴァの出席を取り付けました。

原注
(*1)ヴィマーナム・・・寺院の塔の上の部分、天界の車
(*2)ダハラーカーシャ・・・ごく小さいアーカーシャ、ハートの中で実現される自らに適用される用語

2019年10月8日火曜日

バガヴァーンとの日々⑫ - 46年1月22日ら46年1月26日まで

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』、p113~122

バガヴァーンとの日々

A.デーヴァラージャ・ムダリアールの日記から

46年1月22日

 朝早く、パラヤーナの直後、バガヴァーンはバララムにテルグ語の詩節を見せ、それを改善するために彼の提案を求めました。バララムは、「私が行うべき提案が何かあるでしょうか」と返答しました。バガヴァーンは、「分かりません。私はあなたのような人々に尋ねなければなりません」と言い、回転棚に詩節を差し込みました。

46年1月23日 夜

 シュリニヴァーサ・ラオ医師が、Reality in Forty Versesへの補遺の第10詩節の中で、バガヴァーンが私たちにソーハムと断言するように説いていないのか尋ねました。バガヴァーンは以下のようにそれを説明しました。

 全ヴェーダーンタは、デーハム、ナーハム、コーハム、ソーハムの4つの言葉に簡約できると言われています。この詩節には同じことが書かれています。最初の2行では、なぜデーハムがナーハムか、つまり、なぜ体が「私」ではない、ナ・アハムか説明されています。次の2行では、人がコー・アハム、つまり、私は誰か探求するなら、すなわち、人がどこからこの「私」が生じたか探求し、それを実現するなら、その時、そのような人のハートの中に、遍在する神アルナーチャラが「私」として、サ・アハム、ソーハムとして輝くだろう、すなわち、彼は「私はそれである」、つまり、「それが『私』である」と知るだろう、と書かれています。

 これに関連して、バガヴァーンはまた2詩節-1つはターユマーナヴァル、もう1つはナンマールワールから-を引用しました。(以下は)その両方の要約です。「私は分離した存在であると思い続け、『私』と『私のもの』について話し続けていたが、私がこの『私』について探求を始めたとき、あなたのみ存在することを私は知った」。2詩節とその意味が、以下に記載されます。

1. タミル語の詩節

2. タミル語の詩節

    (1) この「私」は誰か探し
       すぐに私は発見した
       あなたのみが至福なる天国として立つのを
       神聖なる主、あなたのみが!          -ターユマーナヴァル
 
    (2) 私は誰か知らずに
       「私」と「私のもの」について私は話していた
        しかし、私はあなたであり、私のものはあなたである
        全ての神々が崇める主よ            -ナンマールワール


6年1月24日 午前

 バガヴァーンは私のために上の2詩節を選び出し、ターユマーナヴァルの「タミル語」の第7詩節から以下の2行も引用しました。

タミル語の詩節

                                 私はあなたになり、あなたのみ存在しているが
                                 破壊されない「私」は存続している
                                 知る、内なる私として、そして、
                                 知られるものに変わる私として
                                 知っている、及び、知らない多くのものに(変わる)

 バガヴァーンは、多くの似たような引用がアールワールの歌の中で他に見つけられると言い足しました。S.ラオ医師は、バガヴァーンの手から「タミル語」(Tirivoimozhi)という本を受け取り、「なるほど、注釈もあります」と言いました。「私はあなたであり、私が私のものと呼んだ全てはあなたであることに私は気付いている」と書いてある、この詩節に関して、ヴィシシュタードヴァイタの注釈者は、「私と私のものを神自身とみなせるほど、私は神の近くに達した」と書きました。

 S.ラオ医師は言いました。「自らを実現した人々が、彼ら自身の間で意見を異にするはずがなく、様々な学派の指導者は、もし彼らが自らを実現した人たちであったなら、互いの教えに矛盾することを言ったはずがありません。しかし、彼らの支持者たちは、これら全ての分裂と現代の口論を引き起こすような方法で、その教えを誤解したか、誤って解釈したに違いありません」。S.ラオ医師は、彼がセーラムにいたとき、ある紳士が彼に聖ナンマールワールからの1詩節をしばしば引用したと言いました。その詩節の中で、そのアールワールは、ティルパティの神をヴィシュヌともシヴァとも描いています。

 郵便が、D.S.シャーストリ氏からの、45年11月25日のバガヴァーンのスカンダーシュラマムへの旅行に関する彼の妹のテルグ語の手紙の英訳を持ってきて、ヴィシュワナータ・アイヤル氏によって講堂で読み上げられました。パタシャラの少年たちが、「4匹のウサギが偉大な指導者を作っている」という印刷写真をバガヴァーンに見せました。10時15分ごろ、私が講堂にやって来たとき、バガヴァーンは私がそれを見たことがあるか尋ねました。私が「いいえ」というと直ちに、彼はそれを取りに行かせ、私に見せました。バガヴァーンは、「あなたは最初に4匹のウサギを見て、その後、どのようにそれがガーンディーを形作っているのか見なければいけません」と言いました。

午後

 午後3時ごろ、私が講堂に入ったとき、バガヴァーンはラオ医師が述べた詩節をすでに探しているところでした。ほんの短い時間で、私たちはその詩節をつきとめました。それは「タミル語」で始まり、ペーヤールワールがティルパティで神を見たときに、彼によって作られたと言われています。


 付添人のクリシュナスワーミが、マハートマー・ガーンディーに会いにマドラスに行きたいと、日曜日に帰ってくるだろうとバガヴァーンに言いました。バガヴァーンは、「サルヴァーディカーリに聞きなさい。以後、私があなたに行く許可を与えたと言わないように」と言いました。彼は、「彼が今出かけるなら、彼が戻ってくるときサルヴァーディカーリは彼を受け入れないかもしれません。彼がマドラスから戻ると、彼を迎え入れることに彼(サルヴァーディカーリ)が反対するなら、どうしたらいいのですか。ここで、どんな権限を私は持っていますか」と言い足しました。この全てにも関わらず、バガヴァーンに行って戻ってくると告げ、クリシュナは出かけました。

46年1月25日

 ローカンマルが、TiruvachakamからTirukkazhukkunra Pathigamを歌いました。ムルガナールはそこで直ちに、「タミル語」(恥じることなく恥じた)の意味は何か尋ねました。バガヴァーンは、それはタミル語(探すことなく探した、考えることなく思った)のような表現の1つであるかもしれないと、そして、タミル語(どうすれば人は考えることなく考えられますか。これらは全て言い方です。他の言い方はありません)と言いました。同様に、ムルガナールは、「タミル語」(おお、64人のヤクシャに8つの霊的達成を授けた、主よ)の中の引喩は何か尋ねました。バガヴァーンは確信を持っていませんでしたが、それはTiruvilaiyadal Puranamの中の物語の1つだと思いました。私はスブラマニアン・ピッライによる注釈付きのTiruvachakamの私の写しを取りに行きました。「タミル語(恥じることなく・・・)」などに関して、その本は全く光明を投じませんでした。後の行(64人のヤクシャ・・・)に関して、その本には、引喩はウッタラコーサマンガイの物語に対するものだと書いてありました。バガヴァーンは、Tiruvilaiyadal Puranamを受け取りましたが、そこでその物語を見つけられませんでした。そこで見つかった物語は、やはり6人の「タミル語」(ヤクシャ)についてでしたが、別のものでした。ムルガナールは、「このウッタラコーサマンガイの物語は、出版されていないようです。私たちが先の本(Tiruvachakam?)を手に入れられるなら、聖マニッカヴァチャガールの人生の多くの物事と彼の多くの言葉や歌がより明らかになるようです。私たちはその本が手に入れられるのか問い合わせなければなりません」と発言しました。


 パラヤーナの後、バガヴァーンはヴィシュワナータ・アイヤルに、「どの場所を訪れたのですか」と尋ねました。ヴィシュワナータは、「私たちはグーハ・ナマーシヴァーヤールの洞窟、マンゴーツリー洞窟、ヴィルーパークシ洞窟、スカンダーシュラマムに行きました。私たちは新しい道を通って戻りました。その道はとてもよく作られているので、私たちは苦労せずに戻ることができました。それはとても素晴らしい坂です」と返答しました。バガヴァーンは、彼らがムライパール・ティールタムから近道を通って行ったのか尋ね、ヴィシュワナータは「はい」と答えました。バガヴァーンは言いました。「私が今それらの場所を見ると、当時は岩と石とトゲだらけだったそれらの場所に私たちはどうやって住んでいたのだろうかと思います。しかし、当時、私たちは非常に快適で、くつろいでいました。私たちは決して不便を感じませんでした。明かりはありませんでした。私たちは岩と低木だらけの中を暗闇の中でさえ歩いたものでした。ある人が言ったように、私たちは明かりと目の両方を足に付けていました」。私が講堂から少し離れたとき、ソーナ・ドラブジ嬢(彼女と彼女の父親は、アーシュラマムの頻繁な訪問者で、バガヴァーンの熱心な信奉者です)が私に、上の全ての洞窟をヴィシュワナータ氏に付き添ってもらったのは私です、と言いました。

46年1月26日 午前

 バガヴァーンは、マドヴァ学派についての本に言及しました。S.ラオ医師が棚から取り出し、以前はアンナーマライ大学所属のB.N.クリシュナムルティ・サルマという人による、「マドヴァの有神論的現実主義の、ある哲学的基礎」に関する2冊の小冊子を私に渡しました。バガヴァーンは、その紳士は一昨日来て、その小冊子を直接手渡したと言いました。「彼は来て、サンスクリット語で話しました。彼はティルヴァイヤールのサンスクリット大学の学長です。彼は全ての人がサンスクリット語で話すべきだと言います。彼は、たくさん読んだが、真理を実現することができないと言います。私たちは彼に私たちの本を読み、助けになるか確かめるように勧めました。彼はここからいくつか本を持って行きました」。

 バガヴァーンは、数分間その小冊子をあちこち調べました。しかし、彼は興味を持っておらず、「これは全て学者向けです」と言いました。ラオ医師が、ムクティを扱っている、ある文章を指摘しました。それは、ムクティの後でさえ、それぞれのジーヴァは個人性を保つと、ジーヴァの階層構造と共に、ムクティを得た人たちの間にいくつかの段階が存在する、など書かれています。ラオ医師は、「他者がいる限り、人は恐怖を持つでしょう。より高い段階がある限り、人はそれに達したいという欲望を持つでしょう。そのため、これは、唯一、完全な安らぎをもたらしうる、恐怖も欲望もない、かの段階のはずがありません」と言いました。バガヴァーンはこれを承認し、恐怖も欲望もない、かの至高の境地についてのサンスクリット語の聖句を引用しました。

 (すでに言及された)パンジャーブからの盲目のムスリムが、今日、再び講堂にやって来ました。バガヴァーンは、Swadesamitranで、ネロールの盲目の人についての記事をほんの数分前に読んだところでした。彼の年は41で、マドラスでマハートマー・ガーンディーのダルシャンを得ていて、シャンカラの注釈つきのギーターをまるまる復唱できました。このことは、このムスリムがコーラン全てを復唱できるので、この2つのケースの類似性について私たちを話す気にさせました。バガヴァーンはテルグ語の新聞、Zamin Ryotを読んでいて、ネロールのカナカンマとラクシュミー・バーイー(バガヴァーンの信奉者で、ここの頻繁な訪問者)によるテルグ語のいくつかの詩節を目にしました。彼はその詩節を切り取り、ファイルブックに張り付けるようにバララムに頼みました。「この詩節はここで去年のジャヤンティに作られ、読み上げられましたが、今新聞に発表されています」とバガヴァーンは私たちに言いました。タレヤーカン夫人の要望で、その詩節は今日、ナーガンマによって講堂で読み上げられました。昼食の鐘が鳴ったとき、バガヴァーンは盲目のムスリムについて言いました。「彼がお昼をとっていくのか確かめて下さい。もしそうなら、ヒンディー語を知る誰かが彼の世話を引き受け、彼と一緒にいなければいけません」。彼は私たちによって大切に世話されるでしょうと私たちが言って初めて、彼は満足しました。

午後

 タレヤーカン夫人の要望で、ナーガンマは、マートゥ・ポンガルの日にここで起こったことについての彼女の記述を読み上げ、バララムはそれを英語に翻訳しました。彼女はまた、9月のある日に起こったことについての別の記述も読み上げました。バンガロールの信奉者たちが2羽のハトを持ってきて、アーシュラマムで飼うようにバガヴァーンにお願いした時のことです。どのようにそのハトがバガヴァーンに優しくなでられ、彼の膝上に座るという大変な幸運を得たのか、どのようにほぼ1時間の間、彼らがサマーディにいるかのよう静かにしていたのかは、全てナーガンマによって美しく書き留められていて、バララム氏はこれも翻訳しました。

 私はマドヴァの哲学に関する小冊子を手に持っていて、バガヴァーンは私に、「それを読みましたか」と尋ねました。「これは私の興味を引きません。バガヴァーンがおっしゃられたように、それは偉大な学者だけの興味を引くのかもしれません。しかし、私が時々感じるように、この著者も、『どうして常に存在していないなら、現実として扱うことを拒否しければならないのか』と尋ねています」と私は言いました。バガヴァーンは、「束の間のショーでしかないものを、どうして現実であると言えますか」と言いました。講堂の誰かが、「この全ての問題は、英語への翻訳のために生じています。サンスクリット語の言葉はサティヤムで、その意味は、現実ではなく、常に存在するものです」と言いました。バララムもまた、「存在するものは、決して存在しなくならない。(どの時点においてでも)存在しないものは、存在していない(タミル語)」と書いてあるギーターを引用しました。しばらくして、スッブ・ラクシュミー・アンマル(ここの台所でずっと奉仕をしているバラモンの未亡人)が、「私はケーライ・パーティが住んだ洞窟を今まで見たことがありませんでした。それで、昨日、その場所を見に行きました」と言いました。バガヴァーンは、「あなたが見た洞窟はどれですか」と尋ねました。スッブは、「それはアーラマラトゥ・グーハイと呼ばれています。私はそれを見ました。私たち皆がスカンダーシュラマムから戻った日に、バガヴァーンが、『ケーライ・パーティが住んだのはここです』と言いました。それで、私はそれがその洞窟であると思いました」言いました。バガヴァーンは、「いえ。それは彼女が住んだ洞窟ではありません。彼女は近くのグーハイ・ナマーシヴァーヤール寺院のマンパタムにだけ住みました。今、アーラマラトゥ・グーハイと呼ばれる洞窟に私はしばらく住んでいました。当時、バニヤンの木はありませんでした。その木とヴィルーパークシ洞窟までの両側の全ての木は、後にスカンダーシュラマムを計画し、作ったカンダスワーミによって全て植えられ、水を与えらえました」と言いました。その後、バガヴァーンは昔を思い出して、言い足しました。「私が初めてやって来て、そこのスブラマンヤール寺院に座っていたときにさえ、このケーライ・パーティは大寺院にいました。彼女は寺院のサードゥに食べ物を提供していました。後に、彼女は、よく食べ物を送っていた、あるカンマラ(鍛冶屋)の女性からの食事を私に持ってき始めました。しばらく後、ケーライ・パーティを通じて送るのではなく、そのカンマラの女性自身が食べ物を私に持ってき始めました。当時、ケーライ・パーティには、大きなジャタ(もじゃもじゃの髪の房)がありました。私が後にヴィルーパークシ洞窟に住むようになったとき、彼女はグーハイ・ナマーシヴァーヤール寺院に住んでいて、その時、髪を全て剃り落としました。彼女はそこのマンタパムに住み、マンタパムの壁や柱に彫られたナマーシヴァーヤールなどの像を崇拝していました。僧侶が内部の像を崇拝しに来ていました。しかし、彼女は彼女が住むマンタパムの壁の像を崇拝し、食べ物を捧げました。彼女は朝起きて、小さな丘の上を散歩に出かけ、私たちのアーシュラマムが今ある場所に向かって進み、スカンダーシュラマムがある場所に立ち寄り、彼女の場所に下って行きました。その頃までに、彼女は燃料や牛の糞などを集め、背中の後ろでそれを束にしていました。膝の上には、料理のためのあらゆる種類の多くの青葉を集めていました。彼女はポットを一つだけ持っていました。まずそのポットで水を沸かし、沐浴しました。同じポットで、彼女は米を調理し、ソースを作り、彼女が持ってきた葉っぱなどの副菜を用意し、それぞれかわるがわる、その食べ物を壁や柱の像に捧げ、私に持ってきて、その後、彼女自身の食事をとりに行きました。午後、彼女は町に行きました。町で彼女が知らない家はありませんでした。彼女は様々なものを求めに行き、それらを得ました。私のところに来て、彼女は、『善良な人が割れた米を一握りくれました。これでおかゆを作りました』と言いました。

 「しかし、見に行ってみると、彼女の居場所には様々な蓄えと大きなポット満杯の割れた米があありました。彼女はそういった女性でした。彼女は私をとても気に入っていました。私も時折、彼女のところに行きました。私は彼女が青葉を、例えば、ワサビノキから集めるのを手伝ったりしました。私はまた、調理される前の準備として葉っぱをきれいにしたり、むしったりするのを時々手伝いました。時々、私はそこにいて、彼女と一緒に食べました」。彼女がいつ亡くなったのか私はバガヴァーンに尋ねました。「彼女は、私たちがここに来る前に亡くなりました。彼女はただここ(アーシュラマム)に、ダクシナームールティ寺院の反対側のタマリンドの木の下に、埋葬されました」と彼は言いました。

 パラヤーナが終わったすぐ後、午後6時15分ごろ、サルたちが(彼らが果物と木の実をねだりに来るバガヴァーンのそばの窓が閉まっていることを知り)、同じ側の戸口付近に来ました。その戸口を通って講堂から出たいと思った女性や子供たちは、怖がりました。これに関連して、ヴィシュワナータ・アイヤル氏がマンティという言葉を使い、それはオスのサルを意味すると言いました。私は、「それはその正反対を意味すると思いますが。ピッライ・ペルマール・アイヤンガーからのこれを見てください。タミル語(マンティは彼女の仲間に土の中から根っこを彼女にくれるよう頼んだ)」と言いました。そこで直ちに、ムルガナールが、マンティは一般的に両方の性別を、特に女性を意味するために使われると言いました。バガヴァーンは、タミル語(私はサルの子供のようではない)を引用し、「そこでは明らかに、母ザルに言及しているはずです」と言い、さらに、マンティという言葉が見い出されるTirupaaugazhからのある歌とパッティナタールのタミル語Udarkkotruvannam)からの別の歌を思い出しました。この2つの歌はすぐに選び出されました。最初の歌はPalani Vaguppuです。その中の言及された個所がバガヴァーンによって読み上げられ、私たちに説明されました。それはパラニの肥沃さを褒め称えたもので、「ビンロウジの木に座っているマンティが、近くのビャクダンの木の上の花々を見て、それらが蛇の頭だと思い、怖がって別の木に飛び移りました。そして、そのように明け渡された枝々は、初めに下に曲がり、次に上に上がり、近くのプランテインの木々に房になって垂れ下がっている完熟のプランテインの実にぶつかり、プランテインをばらまき、今度は(プランテインが)下にあるジャックフルーツ(パラミツ)の上に落ち、その中で作られた蜜を流し出せました。その結果、放たれた大量の蜜が川に流れ入り、隣接するシャンバガの木の森を潤しています」と書いてあります。この全てはバガヴァーンによって説明されました。前の場合にも、私たちの(国の)詩人たちが国の肥沃さを誇張する例としてバガヴァーンがこれを挙げたのを私は聞きました。パッティナタールの別の行も選び出されました。それらは(以下のように)なります。タミル語。バガヴァーンはこの歌を最後の最後まで読み、韻律に従って朗読しました。

2019年10月1日火曜日

バガヴァーンとの日々⑪ - 46年1月9日から46年1月21日まで

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』、p101~113

バガヴァーンとの日々

A.デーヴァラージャ・ムダリアールの日記から

46年1月9日 午後

 P.バナージ氏がバガヴァーンに尋ねました。「ジーヴァンムクティとヴィデーハムクティの違いは何ですか」。

 バガヴァーン: 違いはありません。尋ねる人たちのために、「体を持つジニャーニがジーヴァンムクタで、彼がその体を下すときヴィデーハムクティを得る」と言われています。しかし、この違いは傍観者にとってだけであり、ジニャーニにとってではありません。体が下ろされる前も後も、彼の境地は同じです。しかし、私たちはジニャーニを人間の形と、その形の中にいるとみなしています。しかし、ジニャーニは、彼が自ら、内側にも外側にもあり、どの姿形にも制限されない唯一の現実であると知っています。バーガヴァタの中に1詩節あり(ここでバガヴァーンはタミル語の詩節を引用しました)、「酔っぱらっている人が彼の上着が体にかかっているのか、体から滑り落ちたのか意識していないように、ジニャーニはその体をほとんど意識しておらず、体が留まろうと落ちようと彼にとって違いはない」と書いてあります。

 P.B.氏が尋ねました。「信奉者と弟子との違いは何ですか。ここのある友人が、私はバガヴァーンの弟子だと自称すべきではないと、私は信奉者にだけなれると私に言いました」。

 バガヴァーン: 私たちがある物や人を崇拝するなら、その時、私たちは信奉者です。私たちがグルを持つなら、その時、私たちは弟子です。

 バガヴァーンが弟子を取らない、つまり、誰も正式には手ほどきせず、そのため、人が「私はバガヴァーンの弟子だ」と言うなら誤解を招くかもしれないという理由から、彼の友人は彼にそのように言ったに違いないと私は加えて言いました。

 P.B.: しかし、私が彼の教えに従おうとするので、その教えを受け取り、私自身を彼の弟子だとみなしたらどうですか。

 「もちろん、エーカラヴヤがドローナの像から弓を学んだように、そうしてもいいでしょう」と私は答えました。

 バガヴァーンがそこで言い足しました。「ともかく、上の場合のように、全てのことは内からやってきます。はじめ、人は彼がサンサーラの束縛に捕らわれていると、彼が弱くみじめであると、全能であり、彼を救える神を頼り、助けを得なければ、束縛と悲惨から抜け出せないと感じます。そうして、彼はイーシュワラにバクティを行います。このバクティが成長し、彼の献身の熱心さがとても強くなり彼自身をまるごと忘れ、イーシュワラマヤになり、完全な委ねが達成されたとき、神が人間の姿を取り、グルとしてやって来て、唯一の自らしか存在しないと、それは彼の内にいると信奉者に教えます。それで、信奉者は彼の内なる自らを実現することによってジニャーナを得て、その時、彼が崇拝し、バクティを抱いたイーシュワラや主、人間の姿でやって来たグル、そして、自らが、全く同じであることを理解します」。

 P.B.氏の最初の質問は、実現についてバガヴァーンをさらに話す気にさせ、彼は言いました。「実現、ムクティに段階は存在しません。ジニャーナに程度は存在しません。そのため、体を伴ったジニャーナの段階と体が下ろされた時の別の段階はあり得ません。ジニャーニは、彼が自らであり、自ら以外、何ものも、彼の体も他の何ものも存在しないことを知っています。そのような人に、体の存在や不在がどんな違いをもたらせますか。

 「実現について話すことは誤りです。実現すべき何が存在しますか。現実のものは常に、あるがままにあります。どのようにそれを現実‐化するのですか。必要とされる全てはこれです。私たちは非現実を現実‐化、つまり、非現実のものを現実とみなしています。私たちはこの態度を放棄しなければなりません。それがジニャーナを得るために私たちに必要とされる全てです。私たちは新たなものを何も作り出そうとしておらず、私たちが以前持っていなかった何かを達成しようとしていません。本の中で示される例はこれです。私たちは井戸を掘り、巨大な穴を作ります。穴、井戸の中のアーカーシャ(空間)は、私たちによって作られていません。私たちはそこでアーカーシャを満たしていた土を取り除いただけです。アーカーシャはその時そこにあり、今もそこにあります。同様に、私たちは、私たちの内部にある長年のサンスカーラ全てを投げ捨てさえすればいいだけで、その全てが捨て去られたとき、自らのみが輝くでしょう」。彼はまた言いました。「ムクティ、ジニャーナ、ディヤーナは私たちの本質です。それらは自らの別名です」。

46年1月10日 午後

 バガヴァーンは、ヴェンカテーシャ・シャーストリガル氏が作ったタミル語の詩節(タミル語)を熟読していました。彼とその妻(サランマル)は、アーシュラマムに滞在していました。しかし、2週間前、彼らはアーディヤンナーマライに移り、そこで腰を落ち着けました。私とT.P.ラーマチャンドラ・アイヤルと他何人かが1月1日に山の周りを回ったとき、シャーストリアー氏とその妻は道の途中で私たちと出会い、私たちを彼らの家に連れて行き、そこで、私たちはそれらの詩節を読み上げてもらいました。それゆえ、その詩節は私たちにとって初めてではないと私は言いました。すると、シャーストリアー氏はその時の詩節は27節で、今は108節あると言いました。数日前、ヴェンカタラマ・アイヤル氏が、シャーストリアーとその妻が火曜日にここに来るつもりだと言う知らせをバガヴァーンに伝えました。バガヴァーンはこれを聞いた後、シャーストリアー宛にここに届いた手紙に関連して、「火曜日に彼らはここに来るようです。彼らがここに留まるのか戻るつもりなのか、私たちは分かりません」と言いました。シャーストリアーが講堂にやって来たとき、私はバガヴァーンの発言について彼に伝え、「私があなたにこれを話したのは、あなたがそこに移ったことを私も好んでいないからです」と言い足しました。バガヴァーンは、「彼らはアーディ・アンナーマライに行き、そこで住むつもりだと言いに来ました。私は何も言っていません。どうして私たちが干渉すべきなのですか。彼らは、アーシュラマムでのような制約や規制の下にいることなく、自由に住みたいのですです。彼らがどこにいようとも、彼らは心の安らぎを持たなければなりません」と言いました。

 ヴェンカテーシャ・シャーストリガル氏が滞在していた、アーディヤンナーマライについて言えば、バガヴァーンは、「それはいい場所です。私は時折、そこに滞在したものでした。ある時、ギリ・プラダクシナの途中で私たちは雨に降られ、そこの寺院に一晩中滞在しました。サーマ・ヴェーダの詠唱を聞いたのは、その時でした」と言いました。

46年1月11日 午後

 コロンボからの若者がバガヴァーンに尋ねました。「J・クリシュナムルティは、意図的な集中の方法とは違って、無努力かつ無選択の自覚の方法を教えます。どのように瞑想を行うのが最も良いか、どのような形を瞑想の対象がとるべきか、シュリー・バガヴァーンは説明して下さるでしょうか」。

 バガヴァーン: 無努力かつ無選択の自覚は、私たちの本質です。私たちがそれを得る、その状態にいることができるなら、問題ありません。しかし、努力なくして、意図的な瞑想という努力なくして、人はそれに到達できません。長年のヴァーサナー全ては、心を外側に運び、心を外的対象物に向けます。そのような全ての思いは放棄されねばねらず、心は内側に向けられねばなりません。そのためには、たいていの人々にとって努力が必要です。もちろん、全ての人が、全ての本が「スンマ・イル」、つまり、「静かにしなさい、じっとしていなさい」と言います。しかし、それは簡単ではありません。ですから、この全ての努力が必要なのです。たとえ「スンマ・イル」で示されるマウナ、至高の境地を即座に達成した人を私たちが見つけても、必要な努力がすでに前世で終わっていたと考えられます。したがって、無努力かつ無選択の自覚は、意図的な瞑想の後にのみ、到達されます。その瞑想はあなたが最も気に入るどんな形をとってもかまいません。他の全ての思いを遠ざけるには何があなたの助けになるか確かめ、その方法をあなたの瞑想として採用しなさい。

 これに関連して、バガヴァーンは、聖者ターユマーナヴァルの「タミル語」から詩節5と52、「タミル語」から36を引用しました。その要旨は、次の通りです。「あなたがじっとしていれば、至福が付き従うだろう。しかし、幾たびあなたがあなたの心にこの真理を伝えても、心は静かにしないだろう。静かにしようとしないのは、心である。『静かにしなさい、そうすれば、あなたは至福を得るだろう』と心に言うのは、心である。全ての聖典がそれを言っても、我々が偉大な人々から毎日それについて聞いても、そして、我々のグルさえもがそれを言っても、我々は決して静かにしておらず、マーヤーと感覚の対象物の世界に迷い込む。それゆえに、意識的な、意図的な努力、瞑想が、マウナの境地、静かにいる境地を得るために必要とされる。」

 コロンボからの別の若者がバガヴァーンに尋ねました。「意識の3つの状態は、現実性の程度において、4番目より、どのように劣っているのでしょうか。この3つの状態と4番目の実際の関係は何でしょうか」。

 バガヴァーン: ただ一つの状態、意識、自覚、実在のそれしか存在しません。目覚め、夢、眠りの3つの状態は、現実のはずがありません。それらはただ来ては去ります。現実のものはいつも存在するでしょう。3つの状態すべてで存続する「私」、実在のみ、現実です。他の3つの状態は現実ではなく、そのため、それらがこれこれの程度の現実性を持つと言うことはできません。私たちはこのように大雑把に言い表せるかもしれません。実在、意識が、唯一の現実です。意識プラス目覚めを、私たちは目覚めと呼びます。意識プラス眠りを、私たちは眠りと呼びます。意識プラス夢を、私たちは夢と呼びます。意識は、その上を全ての映像が行き来するスクリーンです。スクリーンは現実で、映像はその上の影に過ぎません。長い間の習慣によって、私たちはそれら3つの状態を現実とみなしてきたため、私たちは単なる自覚、意識の状態を第4のものと呼びます。しかしながら、第4の状態は存在せず、ただ一つの状態しか存在しません。

 これに関連して、バガヴァーンは、ターユマーナヴァルの「タミル語」から詩節386を引用し、このいわゆる第4の状態は目覚めた眠り、目覚めの中の眠りとして表現されている-つまり、世界に気付かず(asleep)自らに気付いている(awake)、と言いました。

 O.P.ラーマスワーミ・レディヤール(議会議長)がバガヴァーンに尋ねました。「しかし、この3つの状態が、現実の状態、自らなるスクリーン上をどうして行き来しなければならないのですか」。

 バガヴァーン: 誰がこの質問をしますか。これらの状態が行き来すると自らが言いますか。これらの状態が行き来すると言うのは、見る者です。見る者と見られる物は共に心を構成しています。心というようなものがあるのか確かめなさい。その時、心は自らに溶け込み、見る者も見られる物も存在しません。それで、あなたの質問への本当の答えとは、「それらは行き来しますか。それらは行くことも来ることもありません」です。自らのみが常にあるがままにあり続けます。3つの状態は、その存在を「アヴィチャーラ(無-探求」」に負っていて、探求がそれらに終止符を打ちます。どれほど説明しようとも、人が自らの実現を得て、どうして自明の唯一の実在に長らく気づかなかったのかと思うまで、その事実は明らかにならないでしょう。

 別の訪問者がバガヴァーンに、「心と自らの違いは何ですか」と尋ねました。

 バガヴァーン: 違いはありません。内側に向けられた心が自らです。外側に向けられれれば、それは自我と全世界になります。様々な衣服にされた綿を、私たちは様々な名前で呼びます。様々な装飾品にされた黄金を、私たちは様々な名前で呼びます。しかし、全ての服は綿で、全ての装飾品は黄金です。一は現実で、多は名と形に過ぎません。

 しかし、心は自らから離れて存在しません、つまり、それは独立して存在しません。自らは心なしで存在しますが、決して心は自らなしでは存在しません。

46年1月18日 午前

 今日はタミル語(タイ・プーサム)の日です。このことは、どうしてラーマリンガ・スワーミの名声がその日に祝われるのか、彼はタイ・プーサム(の日)に騒々しいこの世を去ったのか、私を尋ねる気にさせました。バガヴァーンは分かりませんでした。私はまた、正確にはどのようにラーマリンガ・スワーミが地上の生を終えたかに関して、バガヴァーンが何か確かなことを知っているのか知りたくなりました。バガヴァーンは、これについても何も言いませんでした。

午後

 シュリーマッド・バーガヴァタムの英語の縮小版の中で、プリトゥが、(体が)構成されている複数の要素に体を溶け込むままに任せたと書いてあるのを私は見つけました。これはラーマリンガ・スワーミについて一般的に報告されていることにとてもによく似ているように思えたので(つまり、彼が部屋に入り、自分自身を閉じ込めたこと、数日後、部屋がこじ開けられたとき、空っぽだったこと)、「実現した」方々は体をそのように消し去ることができるのか私はバガヴァーンに尋ねました。彼は言いました。「本は、ある聖者たちは、彼らを連れてくるために特別に送られた象などに乗って、その体とともに天に赴いたと私たちに言います。それら(の本)はまた、光や炎として、アーカーシャやエーテルとして、石のリンガムとして聖者たちが消え去ることについて話します。しかし、覚えておくべきことは、この全ては傍観者の視界の中にのみあるということです。ジニャーニは彼が体であると思っていません。彼は体を見さえもしません。彼は体の中の自らのみを見ます。もし体がそこになく、自らのみあるなら、どの形であれ、その消失の問題は起こりません」。これに関連して、バガヴァーンは、46年1月9日の項目ですでに言及されたバーガヴァタムからのタミル語の詩節を再び引用しました。そして、今回、彼はその本からサンスクリット語の詩節とタミル語の詩節を両方を私たちに抜き出させました。私は以下にその2詩節を記載します。

タミル語の詩節

サンスクリット語の詩節
(バーガヴァタム、11章、ハムサ・ギーター、22)

(この詩節の意味は、113ページに記載されます)

 バガヴァーンは言い足しました。「死に際して体が後に残される者は誰もジニャーニと呼ぼうとしない、ある思想学派があります。ジニャーニが体をそのように重要視すると思うことは不可能です。しかし、そのような学派があります-シッダ学派です。ポンディチェリで、彼らは協会を持っています」。このすぐ後、ポンディチェリからの17才ぐらいの青年が来て、バガヴァーンに尋ねました。「プラナヴァの音を聞いた後、人が達すべき、それを超えた段階とは何ですか」。バガヴァーンは言いました。「そのプラナヴァを聞くのは、超えた段階について話すのは、いったい誰ですか。確かめ、見出しなさい。そうすれば、全てが明確になるでしょう。プラナヴァとは何ですか。あなたが話すプラナヴァを聞くことを超えた段階とは何ですか。どこにありますか。その全てのことを私たちは知りません。しかし、あなたはいます。そのため、あなた自身、見る者についてはじめに見出しなさい。そうすれば、全てが知られるでしょう」。

 青年は再び尋ねました。「私はムクティへの道とは何か知りたいのですが」。

 バガヴァーン: それは結構なことです。しかし、ムクティとは何ですか。私たちが道なるものについて話せるように、それはどこにあり、あなたはどこにいますか。両者の距離はどれほどですか。まずはあなた自身について、そして、あなたがどこにいるのか見出しなさい。その後、これらの質問が生じるのか確かめなさい。


 会話は、カーヤ・カルパについて様々な人々によって提案される様々な調理法に向かいました。バガヴァーンは、樟脳、樹齢100年のニームの木などに基づいた2、3のカルパに言及し、言いました。「誰がこの体にそんなにも手間をかけたいと思うのですか。本の中で説明されるように、私たちが持つ最大の病は、体、タミル語(誕生なる病)です。人が体を丈夫にし、寿命を延ばすために薬をとるのなら、それは病気を強め、永続させるために薬をとる人のようです。体は私たちが担う重荷であるため、荷物を運ぶことに従事し、重荷を振り捨てられる目的地への到着を切に願うクーリー(日雇い労働者)のように私たちは逆に感じるべきです」。

46年1月19日

 バガヴァーンは、タイ・プーサムとラーマリンガ・スワーミについての私の質問への答えが、今日のBharata Deviに出ていると私に言いました。そこには、スワーミがタイプーサムの日に、死に備えて部屋に入ったと書いてあります。スワーミをマハートマー・ガーンディーと比べ、彼(スワーミ?)Arutpaから主に引用した長い記事をヴィシュワナータ・アイヤル氏が読み上げました。

午後

 昨日、私はバガヴァーンに、バーガヴァタムの11章からのサンスクリット語の詩節をタミル語に翻訳してはどうかと提案しました。タミル語の詩節がサンスクリット語の原文にきっちり従っていないと彼が感じていたからです。それで、今日、講堂でムルガナールを見て、それについて彼と話しながら、彼は手に紙やペンを持たずに以下の詩節を何気なく作りました。

タミル語の四行詩

(この詩節の英訳は、113ページに記載されます)


 バガヴァーンは、タミル語訳を改良し、それを原文のサンスクリット語に近づけたいと思いました。彼はムルガナールといくつか変更を検討し、上の詩節を最終的なものとみなしてはいけないと私に言いました。

46年1月20日

 バララム・レッディ氏が、その翻訳が「タミル語」で始まるReality in Forty Versesへの補遺の中にあるサンスクリット語の詩節についてバガヴァーンに尋ね、バガヴァーンは、どのように彼がAbhavamという言葉を使い、カーヴヤカンタがAbhedamのほうを好んだか説明しました。バガヴァーンは、この詩節は、体は「私」でないという主張を二つの方法で確立しようと努めているとさらに私たちに言いました。第一に、体がジャーダ(意識がない)であり、決して「私」と感じたり、言ったりできないと言うことによって、第二に、私たちが体を持たないとき、つまり、体の意識を持たないときでさえ、「私」が存在すると言うことによって。この詩節についての会話は、以下の状況下で始まりました。モロッコのベルナルド・デュバルという人が、8年ほど前、15日間ぐらいここにいたようです。彼は、この戦争の間に捕虜でいたときにサンスクリット語を学び、バガヴァーンのウパデーシャ・サーラムを英語に翻訳しさえしたこと、後に彼がその全ての書類を失ったこと、バガヴァーンの全てのサンスクリット語の作品を彼に送っていただきたいということを、(今では10年間アーシュラムに住んでいる)A.W.チャドウィック少佐に最近、手紙で知らせました。デュバル氏のこの要望に関係して、バララムは、バガヴァーンによってサンスクリット語で作られた全ての作品は何か調べ出そうしていて、バガヴァーンは上の詩節もまた彼によって作られたとバララムに話したようです。

 ヴィシュワナータ・アイヤル氏の母親が来て、バガヴァーンに、「ナーガンマが、マートゥ・ポンガルの日にゴーシャラでアーシュラムの中で起こったことについてテルグ語で報告を書いてます。それはとても良いものです」と言いました。バガヴァーンは、「そうですか。彼女の兄はここで起こることの報告を彼女に書くよう頼んでいます。彼女はここにいますか」と言いました。そこで直ちに、私たちはナーガンマにそれを読み上げるように頼み、彼女はそうしました。バガヴァーンは、ヴィシュワナータの母にRamana Gopalaを読んだことがあるか尋ねました。彼女は、「私は息子がしたタミル語の翻訳しか読んでいないので、テルグ語の原文が聞きたいです」と言いました。そこで直ちに、私たちはナーガンマにテルグ語版を読み上げるように頼み、それは行われました。

 ボンベイの公認会計士、ゴクール・バーイー・D.バット氏という人が、バガヴァーンに関する詩節をいくつか作り、講堂で読み上げました。私の要望で、彼はまた、講堂に集まった全員のためにそれを翻訳しました。チットゥールから公務員(?)検査官のゴーヴィンダラーマイヤという人が、バガヴァーンの許しを得て、賢者アンギラサのGurupadakaを読み上げました。彼はそうするようスブラマニア・シャーストリという人に勧められたようです。その人は、80歳を超える、とても高齢のジニャーニで、もともとはコンジーヴァラム(カーンチープラム)の住人で、ラーマイヤは最近アンバトゥールで彼に会いました。

 今朝、10時ごろに講堂に戻る前に、バガヴァーンはラーマスワーミ・アイエンガー氏という人に牛小屋の近くでダルシャンを与えました。どうやら彼は、数年間、クンバコーナムでラマナーシュラマムのようなものを開催しているようです。彼は今や年を取り、衰えていて、彼がしたとされる様々な悪行のためにバガヴァーンに近づくことをサルヴァーディカーリが彼に禁じていた、長年の後、大変苦労してバガヴァーンに会いに来ました。この気の毒な人は牛小屋に運びこまれた彼の車の中に留まらなければならず、バガヴァーンは、講堂へ行く途中、車の近くに数分立ち、彼の古くからの弟子にダルシャンを与えました。その弟子はただ泣くばかりで、何も言いませんでした。バガヴァーンは、彼のよく知られる恵み深い表情の一つで彼を見ました。

午後

 私は講堂に行くのがとても遅くなりました。しかし、午後の散歩に行く前に、バガヴァーン自身が私に、「あなたは私たちがあの詩節に与えた最終的な形を見てませんね」と尋ね、私に以下を見せました。

タミル語の四行詩

(この詩節の英訳は、113ページに記載されます)


 私は(上の詩節の)一行目のタミル語を「空に上っている」と理解していたので、どうしてそれが適当なのかバガヴァーンに尋ねました。しかし、彼はそれはただ「動いている」を意味するだけだと説明しました。彼はまた私に、「私たちはサンスクリット語で簡潔にそれを知っています。しかし、Sita Rama Anjaneya Samvadamの中で、それはとても入念に詳しく述べられています」と言いました。この発言は、昨日、バガヴァーンが、タミル語のバーガヴァタムの中でサンスクリット語の詩節に対応するものを何も見つけられなかったとき、G.スッバ・ラオが、テルグ語のSita Rama Anjaneya Samvadamの中で同じことが起こったのを思い出したと言ったことによります。今日、その本が取り出されて、関連する部分がバガヴァーンに見せられました。バララム・レッディは、Sita Rama Anjaneya Samvadamとテルグ人との関係は、Kaivalyamとタミル人の関係と同じだと私に言いました。

 クンジュスワーミが講堂に到着したとき、クンバコーナムのラーマスワーミ・アイエンガーは出発したのか、彼はどうする予定なのか、バガヴァーンは彼に尋ねました。クンジュは、ラーマスワーミは健康を回復するまで1、2か月パラコットゥに滞在する予定であると、他の人たちのみが翌日に帰るだろうと言いました。

46年1月21日

 ゴクール・バーイーが、グジャラート語のラマナ・ギーターの第11章、次に、グジャラート語のウパデーシャ・サーラムを読み上げました。P.C.デーサーイー氏がバガヴァーンに頼みました。「第14詩節で、彼らはサンスクリット語の詩節の2行目を『心が継続的に自らの瞑想に定められるなら』などと翻訳しました。原文には『継続的に』も『自ら』も見つからない以上、それは問題ないのでしょうか」

 バガヴァーン: エーカ・チンタナは、継続的な思いを伴います。他の思いがやって来ないとするなら、ただ一つの思いが継続的でなければなりません。その詩節の意図するところは次のようです。前の詩節では、心を制御するためには、呼吸の制御、プラーナーヤーマが役立つかもしれないと言いました。この詩節は、そのように制御下に、ラヤの状態に連れ行かれた心は、単なるラヤ、眠りのような状態にいるままにしておくべきでなく、エーカ・チンタナ、一つの思い-その思いが自らについてであってもイシュタ・デーヴァターやマントラムについてであっても-に向かわせるべきだと言います。その一つの思いが何になるかは、それぞれの人のパクヴァ、適性によるでしょう。その詩節は、それを一つの思い(という表現)に留めています。

 デーサーイー氏は、次の版のグジャラート語の第14詩節が訂正されるべきか、今のままでもいいのか知りたいと思いました。バガヴァーンは何も言いませんでした。彼はその問題について十分話していました。(私は、2行目に「継続的な」を導入しても差し支えないだろうが、原文の中でバガヴァーンが言った全ては、ラヤに連れて行かれた心をエーカ・チンタナ、一つの思いに取り組まさせなければならないということなので、「思い、または、自ら」を取り入れることは正当化できないと判断しました)。


 46年1月20日の項目に書き留められたタミル語の詩節を作ることにバガヴァーンがまだ従事しているとき、バララム・レディ氏はテルグ語でも詩節を作るように彼に願いました。それで、バガヴァーンは作り、バララムといくつか選択肢を話し合いました。私は再び、タミル語の詩節の一行目の意味についてバガヴァーンに、「『体がある場所に留まっていても、動き回っていても、それは永続しない」と言っても意味がないように思えますが」と尋ねました。そこで直ちに、彼は私に、一行目はその全体が一つの文であるかのように読まれるべきでないと、一行目は行の半分で止まるべきだと言いました。詩節の正しい理解のために、私は以下に直訳を載せます。

 「体は永続しない(現実でない)。それが止まっていても、動き回っていても、プラーラブダのために、それが彼に張り付いていても、彼から滑り落ちていても、自らを実現したシッダはそれに気づいていない。あたかも酔いによって目がくらんだ酔っ払いが、彼の服が身に付いているのかいないのか気づいていないように。」