2019年10月19日土曜日

バガヴァーンとの日々⑬ - 46年1月27日ら46年2月1日まで

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』、p122~133

バガヴァーンとの日々

A.デーヴァラージャ・ムダリアールの日記から

46年1月27日

 クリシュナスワーミが、約束したように、今朝、戻りました。バガヴァーンは、マドラスでガーンディーに会うための彼の旅行について優しく質問していました。クリシュナは、電車には膨大な群衆がいたこと、ここからマドラスまでずっと立たなければならなかったこと、再びそこには10万以上の群衆がいたこと、ある曲がり角には駐車された車の海があったこと、私たちの友人の何人かの親切な尽力により6ルピーのチケットで彼がマハートマー・ガーンディーのとても近くに座ったこと、後に全ての群衆が門を破って殺到したこと、ガーンディーがヒンディー語以外のどの言葉でも話すことを拒んだことなどを話しました。バガヴァーンは、「あなたはガーンディーに会いました。今や、あなたは、そのような旅行から得られる喜びを味わい、知っています」と言い、そのように言いながら、「大事にしまってしておきなさい。6ルピーの価値があります」との言葉と共にチケットを返しました。クリシュナはまた、T.N.K.博士から彼に贈られた大小の多くの写真を持ってきました。その中の多くで、彼とバガヴァーンが一緒に見つかります。これに関連して、ナーガンマが、ヴィシュワナータ・アイヤルの母親がスカンダーシュラマムでとられたバガヴァーンの写真を見たがっていた、とバガヴァーンに言いました。彼はアルバムを持ってきて、その女性に見せるように言いつけ、それは行われました。

 クリシュナが、「T.N.K.博士が、私を通じて何か薬をバガヴァーンに送ると言っていましたが、私は彼に再び会って、それを持ってくる時間さえありませんでした。T.P.R.がそれを持ってくるでしょう」とバガヴァーンに言いました。バガヴァーンは、「どうして薬を?今、私はどこか悪いのですか。私は大丈夫です。この全ては不必要な空騒ぎです。どうしてあなたは私に薬を送るように彼に頼みに行ったのですか」と言いました。クリシュナは、「私は頼んでいません。彼自身がそれを送ると言いました。彼はバガヴァーンに会いに来るつもりでもいます」と言いました。バガヴァーンは、「彼は『バガヴァーンはどうですか』とあなたに尋ねて、あなたは何か言ったでしょう。そうでなければ、どうして彼が薬を送らなければならないのですか」と述べました。クリシュナは、「そのように尋ねられるとき、どうして黙っていられますか。話さざるを得ません」と言いました。クリシュナはまた、バガヴァーンに言いました。「私たちの友人の何人かが、私たちのアーシュラムを訪ねることをガーンディーに提案したいと思っていました。しかし、彼らがO.P.ラーマスワーミ・レッディ氏に相談したとき、彼は、『ここで私たちは誰もガーンディーに面会できません。ラジャジだけが影響力を持っています』と言いました」。するとバガヴァーンは、「彼はそのような場所に来ることを許されないでしょう(タミル語)」と言いました。1週間ほど前、バガヴァーンは、かつてガーンディーがこの場所にやって来て、(私たちのアーシュラムから200メートル以下の)家畜品評会場の近くにいて、そこでの仕事をそのために決められた時間以下で終わらせ、寄付金を集め、その場を離れた、と述べていました。クリシュナはまた、マハートマーが頻繁にバガヴァーンについて考えていること、彼に大きな尊敬の念を持っていることを人々に話しているという知らせをもたらしました。バガヴァーンは、「ええ。ええ。それはそうかもしれません。誰かが自分には心の安らぎがないと彼に言うときはいつでも、彼は、『しばらくラマナーシュラマムに滞在しに行きなさい』と彼らに言い、彼らをここに送り出します。彼らはやって来て、私たちに言います」と言いました。

 後ほど、午前10時すぎ、バガヴァーンはDinamaniを読んでいて、(コーヤンブットゥール近くの)ペールールの寺院に関する記事をそこで見つけ、私たちにそれを読み上げ、「それは私にとって初耳です。私たちはスンダラムールティの人生においてやPeriyapuranamの中でこれについて耳にしていません。しかし、それはSthalapuranamの中にあるのかもしれません」と言いました。これがその物語です。一年の特定の日に、神と女神が隣接する畑に連れ出され、ある信奉者の代わりに苗木を植え替える神と女神の祭りが祝われています。それは、ある日、スンダラムールティ・スワーミが寺院に入り、がっかりしたことに神も女神もそこにいないことに気づき、彼らを探すとすぐに、彼らが畑でこのハリジャンの信奉者のために(苗木を)植え替えることに取り組んでいるのを発見したということを記念しています。

46年1月28日 午前

 今では1か月ほどここに滞在している、P.B.ライ氏が、彼のベンガル語のバガヴァーンの伝記を仕上げました。彼はバガヴァーンの前で献辞を読み、英語に翻訳し、彼は数年まえマドラスで誰かからバガヴァーンについてはじめて耳にし、すぐ後でこの伝記を書き始め、これを完成させるのに4年を要したと言いました。バガヴァーンは、ずっと前、どこかのベンガル人がベンガル語の雑誌に彼の短い伝記を書き、彼についてのさらにいくつかの記事も何かのベンガル語の新聞か雑誌に掲載されたと言いました。ライ氏は、今バガヴァーンによって言及された2つの記事を書いたと言いました。そこで直ちに、バガヴァーンは他のベンガル語の記事を探し、それを探し当て、吟味してもらうためにライ氏に渡しました。それはAmrutと呼ばれる雑誌に掲載され、1934年に出版されました。この記事の著者は、ラーマクリシュナ・ミッションのジャガディーシャーナンダ・スワーミです。ライ氏はそれを熟読し、その記事は全ての点に触れているが、どういうわけか、バガヴァーンがここに来る前にマドゥラで起こった、死を思うことから生じ、自らの実現に帰着するバガヴァーンの体験について言及し忘れていると午後、私に言いました。

 最近ここにいた、ゴークル・バーイーという人が、ガーンディーをここに連れてこようとしたが、ガーンディーが、すでにあまりにも込み合っている彼の予定に何一つ追加されるべきでないと断固として命じていることが分かったということを手紙で知らせました。バガヴァーンは、「彼らはこの全てのための時間を見つけられません」と言い足しました。

46年1月29日

 バガヴァーンは、Ramana Lila(テルグ語のバガヴァーンの伝記)の新版を手に取り、何気なくそれを開くと、彼によって作られた奇妙な詩節をふと見つけ(食事の前、間、後に水を飲むことについてや、シッディを追い求める人々が手品師よりいっそう悪いことについてのような)、「彼はこの版にこの全てをつけ付け足しています。私はこれまでそれを目にしていません。いつ彼はこの全てを書き取り、それをこの版に付け足したのですか」と驚きを表しました。

 バガヴァーンがまだこの新版に目を通している間に、訪問者が尋ねました。「私は1年ほど前にここに来て、それ以来、バガヴァーンの指示に従おうとしてきています。私は、しかしながら、あまりうまくいっておりません。私は全ての女性を母として見ようとしてます。しかし、私はうまくいっていません」。バガヴァーンは返答せず、その訪問者は続けました。「私が家にいるうちは、大丈夫です。しかし、外に出て、女性を見るとき、私は心を制御することができず、足をさらわれます(心奪われます)。どうしたらいいのでしょうか」。彼はまた、「私はアートマ・サークシャートカーラムが欲しいのです。どうしたらいいのでしょうか。私はバガヴァーンの祝福を願い求めます」と言い足しました。一呼吸おいてから、バガヴァーンは返答しました。「家にいるときは大丈夫だとあなたは言います。家にいなさい、心の中の家に(いなさい)。心を外側に行かせてはいけません。それを内側に向け、そこでそれを家に留めなさい。そうすれば、万事うまくいき、あなたはアートマ・サークシャートカーラムを得るでしょう。問題は、私たちは心であると私たちが思っていることです。私たちが心であるのか確かめなさい」。

 その訪問者が言いました。「私はグリハスタです。それでも、私は妻に対してさえブラフマチャルヤを実践したいのです。しかし、うまくいきません。どうしたらいいのでしょうか」。バガヴァーンは返答しました。「それは長年のヴァーサナーのためです。サンカルパがとても強力なのは、それがとても長く存在してきたからです。しかし、それはなくなるでしょう」。

46年1月30日 午後

 バガヴァーンは、アップ・シャーストリー氏からの手紙を読んでいました。彼はベナレスのガンジス川の上で船の中に住んでいるハリディヤル・マハーラージという人を訪問していました。そのマハーラージ(スワーミ)は、200歳だという評判です。これに関連して、バガヴァーンは言いました。「私がグルムールタムにいたとき、私の爪は1インチほどの長さに伸び、垂れた長いジャタ(もじゃもじゃの髪)をしていて、人々は、見た目はとても若いが、私がとても年を取っていると、私が何世紀にもわたってそのように生きているとよく話していました!」。

 (すぐ前の記録で言及された)訪問者が、バガヴァーンに言いました。「今晩、私は家に戻ります。私は私の苦境を口にしました」。

 バガヴァーン: ええ。それは徐々になくなるでしょう。

 訪問者: 私はバガヴァーンのクリパ・ドリシュティ(慈悲の眼差し)を願い求めます。

 バガヴァーンは返答しませんでした。このわずか数分前、コロンボのラーマーチャンドラの2人の娘が歌い終え、(熱心な長年の信奉者である、彼女たちの父親によって作られた)ほぼ最後の歌に以下の詩が含まれていました。タミル語(恵み深いグルとしてアンナーマライに留まる彼は、その眼差しを彼らに向け、彼らの悲しみを晴らし、彼らに救いへの道を教える)。


 アーナンダ・スワーミという訪問者が、1940年のいつかの日付のThe Hinduからの抜き刷りを持ってきました。その中で、モーリス・フリードマン(ここ十年来のバガヴァーンの信奉者)が、どのように、詐欺の疑いをはさむ余地のない状況で、2人の女性が祈り、一種の恍惚状態に入り、その後、その手の中に不可思議にどこからともなくいくつかの砂糖菓子とアーモンドを得たのか報告しています。そのスワーミはまた、人々が果物などを受け取る、そのような他の例を彼自身が見たことがあると言い、そのような出来事はどのように説明しうるのかバガヴァーンに尋ねました。バガヴァーンは返答しました。「私たちはとても多くの物事を耳にします。そのような物事のために働く宗派があります。彼らはそのような物を見たり、得たりするかもしれません。しかし、誰がそれを見たり、得たりするのですか。あなたがそれを見るはずです。Periyapuranamでも、似たような出来事が言及されています。ある商人が、食事と一緒に後で食べると言い、妻にマンゴーを2つ送りました。彼が仕事から戻る前に、サードゥが来て、とてもお腹が減っていると言い、その妻は、彼を憐れみ、いくらかお米をあげ、そのお米と共にあげる用意のできたものが他に何もなかったので、マンゴーを1つあげました。彼女は夫が1つのマンゴーだけで満足するようにと願いました。夫が後で戻り、食事の間にマンゴーを求め、1つを平らげ、それがとても甘いことに気づいて、もう1つも求めました。妻はにっちもさっちもいかなくなり、夫の激怒を恐れ、前に2つの果物をしまっておいていた部屋に行き、この状況で神に助けを願い祈りました。さすれば、見よ!彼女が2つの果物をしまっておいたところに、もう1つ果物が置かれていました。それで、彼女はそれを持っていき、夫にあげました。彼はそれを食べ、それがさらにいっそうおいしく、彼が以前に決して知らなかった恍惚感とシャーンティを彼に与えることに気づきました。そのため、彼は妻にその果物について真実を言うように迫り、彼女から聞き出しました。驚いて、そして、まだ少しいぶかって、彼は妻にもう1つ果物を願い求め、手に入れるように頼みました。妻はやってみますと言い、神の恩寵によってもう1つ果物を受け取りました。その時、彼女が聖者であることが彼に分かってきて、彼は彼女の前で平伏し、彼女をこれ以上妻として扱うことは彼にとって罰当たりなことだと思い、村を去り、別の村で住みに行きました。妻はしばらく後に彼を探しあて、彼は彼女の主であるため、彼のところに行くのは彼女の義務だと、彼が彼の望むことを彼女にすべきだと思い、彼女はその村に向かいました。夫は、それを察知し、そこの村人たちに、「偉大な聖者がやって来ます。私たちはしかるべき敬意、作法、華やかさをもって、御輿や太鼓の音色を持ち出して、彼女を歓迎しなければいけません」と言いました。そうして、彼は手厚い歓迎を準備して、迎え入れる一団の先頭で行進し、妻の前で最初に平伏しました。

 「妻はどうすればいいのか分かりませんでした。彼女は死すべき運命の肉体を脱ぎ捨て、アストラル体に住まい、ついには天界に達し、そこでもまた夫を迎えました。その女性の聖者はカーライッカール・アンマイヤールで、その物語はPeriyapuranamの中に見られます」。

 私たちはまた、フリードマンとこのアーナンダ・スワーミによって語られたものに似た出来事を思い出しました。それはほんの数か月前にバガヴァーンの講堂で起こり、この日記に記録されています。その時、グジャラート人の女性が祈りの後、砂糖菓子を手の中に受け取りました。バララム氏の要望で、この日記の前の巻が持ちだされ、バララム氏が上述の出来事についての記述を、その奇跡を行った女性の名前と住所と共に、それが起こったとおりに読み上げました。アーシュラマムの古参の一員、ラーマスワーミ・ピッライ氏は、そのような出来事を重要視することを非難しました。彼は、「箱の中に入れられ、のこぎりでバラバラに切られ、無傷で出てくる人のように、私はもっと不思議な物事を見たことがあります。そのような奇跡から私が学んだ全ては、私たちは私たちの目を信用すべきではないということ、私たちの目がそのように(現実だと)伝えるからというだけで、ものが現実であると決して信じるべきではないということです」と言いました。バガヴァーンもまた言い足しました。「私たちはとても多くの不思議な物事が行われるのを目にします。手品師が固く縛られた女の子を麻袋に入れ、それをかごの下に置き去りにします。彼がその女の子を呼ぶと、彼女が別のどこからかか現れます。魔法のようなことが存在しています」。

 このころに、タミル語のパーラーヤナの時間になりました。私たちは(シヴァプラカーシャム・ピッライによる)Ramana Deva Malaiの第29詩節から始めました。奇妙な偶然で、それは、「知性、ブッディは、マーヤーのために現実を見ない」と書いてあり、バガヴァーンはシヴァプラカーシャム・ピッライの作品を引用し、タミル語(全てはマーヤーの仕業です)と私たちの会話に続けて言い足しました。

46年1月31日 午前

 午前8時30分ごろ、つまり、S.ラオ医師がバガヴァーンの足をマッサージし終えた、ほぼ半時間後、バガヴァーンは、「タミル語」、つまり、「まるで彼がマッサージしているかのようです。しかし、私がその人を探すと、誰もいません」と言いました。

 午前11時ごろ、訪問者が尋ねました。「バガヴァーンは今朝、私に、『現実(ヤタールタム)を知らなければ、安らぎ(シャーンティ)を得ることはできない』と言いました。その現実とは何ですか」。

 バガヴァーン: 常に存在するものが、現実です。それは安らぎです。安らぎはその別名です。

 訪問者: どうやってそれに達するのですか、もしくは、どうやって安らぎを得るのですか。

 バガヴァーン: すでに私が言ったように、存在するものは、安らぎです。私たちがする必要がある全ては、静かにしていることです。安らぎは、私たちの本質です。私たちはそれを台無しにしています。必要とされることは、私たちがそれを台無しにしなくなることです。私たちは新たに安らぎを作り出そうとしていません。例えば、講堂に空間があります。私たちはその場所を様々な物でいっぱいに満たしています。私たちが空間を欲しいなら、私たちがする必要のある全ては、それら全てのものを取り除くことです。そうすれば、私たちは空間を手にします。同様に、私たちが心から全てのごみを、全ての思いを取り除くなら、安らぎが明らかになるでしょう。安らぎを妨げているものを取り除かなければいけません。安らぎが唯一の現実です。

午後

 バガヴァーンは、Ramana Lilaの新版を見直していました。この版には、多くの間違いが潜り込むことを許されていると彼は感じています。いくらかは、適切に調査されていなかった校正刷りのため、ヴェンカタクリシュナイアーが当時視力の悪さに苦しんでいたためです。しかし、他のいくらかは、事実を確認する際の注意が不十分なためです。バガヴァーンはこれらを訂正しようとしていました。例えば、その本に載っているバガヴァーンのホロスコープに関連して、彼は15年を5年に訂正しました。彼はパーパハラナーディ川の方向と場所が正確でないことに気づきました。そのような間違いはバガヴァーンの性に合わず、そのため彼はそれらを発見するために全編を辛抱強く調べています。それは彼にとって、とりわけ彼の悪い視力を用いてでは、あまりにも重い負担です。

46年2月1日 午前

 ラジオのニュースが、コーチンのマハーラージの死を知らせました。バガヴァーンは、「彼は亡くなったのですか。私たちは彼の病気のことを読んで知りました!」と言いました。私は、「彼は年を取っていたに違いありません!」と言いました。バガヴァーンは言いました。「ええ。別の年を取った人が、今や玉座に上ろうとしているのかもしれません。亡くなった人は、ほんの数年前に玉座に上りました。アッパン・タンビラン(彼はバガヴァーンを訪問し、彼について記しました)が、いま生きていたなら、王位を獲得していたでしょう。彼らには、継承を待つ、王子の長いリストがあります」。私は、「彼らは一般的に年を取っているだけでなく、とても博学で、敬虔でもあります-このコーチンのラージャたちは」と言いました。バガヴァーンは、「ええ。彼らは一般的にサンスクリット語に精通しています。トラヴァンコールがハリジャンにその寺院を解放したときさえ、コーチンはしませんでした」と言いました。バララムが、「私が大学で学んでいた時、コーチンの第42位の王子が私と一緒に学んでいました。彼らにはそのように長い継承権の相続人のリストがあります」と言いました。付添人のクリシュナスワーミが、コーチンは大きな州なのかバガヴァーンに尋ねました。そこで直ちに、私たちはコーチンは小さいが、プドゥコーッタ(イ)はもっと小さいことについて話しました。誰かが、プドゥコーッタは、その元々の所有者が彼の主人を裏切って、英国民の手助けをしたから州になったと言いました。ここから、会話はタミル語(オーマイヤン)の方向に流れました。彼は当時、英軍にとって恐怖の的であり、英軍は彼を長い間捕まえられず、プドゥコーッタ・パリアガル(人?)の助けでついに捕らえられた言われています。その時、バガヴァーンは言いました。「ディンディグルに砦があります。正面入り口は警備されていて、私たち少年は入ることを許されていなかったものでした。私たちは壁の最も遠くの端に行き、登り、砦の中に飛び降り、砦の背後の壁の穴によって砦から出ました。その穴を通って、オーマイヤンは英国人から逃れた言われていました。私たちが今、その壁を見ると、どうやって私たちは登って、そこから飛び降りたのだろうかと思います」。バガヴァーンはRamana Lilaを引き続き調べ、さらに間違いを発見していました。

午後

 G.スッバ・ラオ氏が、Ramana Lilaから、シャンカラーチャーリヤが彼の弟子の1人にバガヴァーンはスブラマンヤの3人目のアヴァターラだと(1人目はクマーリア・バッタルで、2人目はジニャーナ・サンバンダール)言ったということを読み、シャンカラーチャーリヤは一体誰にそのように言ったのかバガヴァーンに尋ねましたが、バガヴァーンは分かりませんでした。しかし、シャンカラーチャーリヤは最後の人より前の人、つまり、今の人から3代前に違いないと彼は言いました。バガヴァーンはまた、「そのシャンカラーチャーリヤは、私に会いにスカンダーシュラマムに来ました。彼は彼が聞いたことを繰り返して言っていたに違いありません。それを(言い)始めたのは、ナーヤナだけです。以前は誰もそう言ってませんでした」と言い足しました。バガヴァーンは、Ramana Lilaの中で、ヴェンカタ・クリシュナイヤによるバガヴァーンのマドラスからの旅の詩的な描写-彼の体のヴィマーナム(*1)の中で、彼はダハラーカーシャ(*2)、チット・アーカーシャを横切っていたという-をふと見つけ、それを私たちに読み上げました。これは彼にここでの過去のある出来事を思い出させ、彼は言いました。「昔、私たちがスカンダーシュラマムにいたとき、タイの月に、私たちはある夜、山を巡りに40か50人のグループで出かけました。私たちは皆、始める前に、お茶に加えてプリなどのしっかりとした食事をとっていました。彼らは加えてマルンドゥ(材料として阿片を含んだレーヒャム)をとっていました。私たちがここの近くに来るまでに、ナンボードリという人、アートマーナンダ・スワーミが、『私はクシーラ・サーガラに浮かんでいて、船がその海沿いに私を運んでいる感じがします』と言い出しました。別の人は、飛行機に乗って空を飛んでいる感じがすると言いました。そのように、ヴェンカタ・クリシュナイヤは、私がダハラーカーシャを旅していたと言っています!」。そうしているうちにラーマナータ・ディークシタルが講堂に入って来て(彼は1912年以来バガヴァーンと共にいます)、彼を見るとすぐ、バガヴァーンは言いました。「彼はその機会に私たちと共にいたはずです。別の機会に、私たちがヴィルーパークシ洞窟にいたとき、私たちは山を巡りに出かけ、チダンバラム・スブラマンヤ・シャーストリーがその一団の先導者でした。私たちがここの近くのどこかに来たとき、グル・バクティについて、山を巡りながら、それぞれの人が1時間講義してはどうかと彼が提案して、ラーマナータンの番は一番初めでした。彼らは皆、マルンドゥ(つまり、ガンジャ)をとっていました。ラーマナータンは講義をはじめ、ティルヴァンナーマライとラマナ、チダンバラムとナタラージャ、体と自らが同じであるという彼のテーマを詳しく論じました。彼はそのテーマを論じ続け、それを擁護する独創的な主張を言い続けました。それは大変な熱意と気迫であったため、彼は制限時間をはるかに超えました。彼が止めるように頼まれたとき、彼は哀れを誘う様子でもう少し時間をと嘆願しました。そのため、彼は続けることを許されました。彼が2時間費やした後でさえ、彼は終えようとせず、彼を止めなけばならず、それから、別の人が話すように頼まれました。ラーマナータンの話しぶりは素晴らしいものでした。誰もそれを彼に期待していなかったでしょう。彼が「タミル語」を作ったのは、その翌日でした」。バララム氏は、昔ヴィルーパークシ洞窟にバガヴァーンが1人でいて、小さな壁を建てることに取り組んでいると、ある訪問者がそこに来て、どこにスワーミがいるのかバガヴァーンに尋ねたとき、バガヴァーンが彼に「スワーミは出かけました」と言ったということが言及されている、Ramana Lilaの中の文章をふと見つけました。バララムはバガヴァーンに、「そうなのですか?」と尋ねました。バガヴァーンは、「ええ」と言いました。さらに読み進めると、バララムは、その人が少し滞在し、どのスワーミが戻ってくるのも見つけられずに去って行き、彼が3日目に再びやって来て、その時も彼は少し滞在して、バガヴァーン以外誰も見つけられず、帰って行き、帰る間に彼はエチャンマを会い、彼女に彼のスワーミとは彼がその日と前の機会にヴィルーパークシ洞窟で会った人だと聞かされ、エチャンマが後に、そのようにその人を誤解させるのは彼にとってふさわしいのかバガヴァーンに尋ね、バガヴァーンが彼女に、「あなたは私に『私がそのスワーミです』と知らせる鈴を首回りにつけて出歩いて欲しいのですか。それとも、額に私がそのスワーミであるという張り紙を張って(出歩いて欲しいの)ですか」と返答したという陳述を見つけました。

 このことはバガヴァーンにその若かりし日々について、古い腰布と小さくぼろぼろのタオルだけ身に着けて出歩いていた時、彼のことをスワーミとみなすことがもちろん誰にとってもどのように簡単ではなかったかについて話す気にさせました。彼は言いました。「私がパチャイアンマン・コイルにいたとき、私はぼろぼろの破れた小さなタオルを持っていました。それはほとんどぼろ切れで、たいていの場所から糸が飛び出していました。一度、牛飼いの男の子が、『総督がこのタオルを欲しがってるよ』と私に言って、この破れたぼろ切れをからかいました。私は、『あなたにそれをあげる気はないと彼に伝えなさい!』と返答しました。私はそれを人前で決して広げませんでした。私はそれを丸めて球にしておき、そのように丸めて球になったタオルで必要に応じて体や手や口を拭いていました。私は2つの岩の間のある場所でそれを洗い、乾かしていました。私と一緒にいた人々の誰も、その場所を訪れたことはありませんでした。私の腰布さえもぼろぼろでした。一番上の端が擦り切れたとき、私は腰布を逆にして、それを裏の端で使っていました。森に入るとき、私はウチワサボテンのとげを針として使って腰布から取った糸でそれをひそかに繕っていました。そのため、誰も私のタオルと腰布の哀れな状態を知ることも、感づくこともありませんでした。ある日、どうにかして、当時私とよく共にいた人たちの1人が、私が布を乾かしていた場所に行き、そうして偶然、私の布の状態に気づきました。彼らはその後、そのような状態を許したことで、言い訳しようのない冒涜(アパチャーラ)を犯したなどで涙を流しました。彼らはトランクの中に布生地やとても多くのタオルなどを持っていて、全て私のために使うつもりでいました。ただ彼らはどれほどひどく私のタオルと腰布が破れていたか知らなかっただけでした。そうでなければ、彼らはずっと前にそれを他のものに取り換えていたでしょう」。彼は言い足しました。「私たちのムルガナールがこれらの事実を歌の中で述べていて、私がインドラをタオルとして(つまり、千の小さな目、穴があるタオル)、そして、ウチワサボテンのとげによって縫われた腰布を持っていると描写しました。しかし、その事実を知らない人は、その詩人がそもそも何を意図したのか理解できないかもしれません」。彼はまた、聖スンダラムールティの人生から2つの物語を私たちに話しました。その1つでは、その聖者は這い上がるナス(タミル語)の葉っぱで崇拝を行っていましたが、他の人々は彼が料理のためにそれを準備していると思いました。もう1つでは、ソーマヤジュルという人が、その葉っぱを通じてその聖者の助けを得て、彼のヤグナでシヴァの出席を取り付けました。

原注
(*1)ヴィマーナム・・・寺院の塔の上の部分、天界の車
(*2)ダハラーカーシャ・・・ごく小さいアーカーシャ、ハートの中で実現される自らに適用される用語

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