1920年代後期、バガヴァーンと数年間共に暮らしている卓越したタミルの詩人であるムルガナールは、彼のグルであるラマナ・マハルシの口頭での教えを収集し始めました。彼はタミル語の4行詩の形式でその教えを書きとめました。質問は記されず、多種多様な聖なる事柄に関する答えや声明のみが記されました。1930年代後期に、ムルガナールは800詩節以上を完成させました。そのすべての詩節は、実質的にバガヴァーンが口にした直接的な教えを記したものです。
これらの教えを本にして出版しようという決定が1939年になされました。バガヴァーンはタミルの学者で信奉者であるサードゥ・ナタナーナンダに詩節を主題ごとに配列するように頼みました。というのも、ムルガナールが集めた資料には特別な順序がなかったからです。ナタナーナンダがこの作品を仕上げ、バガヴァーンに見せた後、バガヴァーン自身がその作品をすみずみまで編集し、順序を変更したり、多くの改訂を加えたりました。そういった原文に基づく訂正に加え、バガヴァーンは新しい詩節も作り、本文の適切な箇所に加えました。バガヴァーンがこれらの詩節を確かめ、改訂することに費やした気遣いと注意から、その内容は彼が完全に認めたものであると言えます。
多くのバガヴァーンの口頭での教えが彼の存命時に記録されていますが、そのほとんどは彼により再び吟味されたり、編集されたりしていません。『グル・ヴァーチャカ・コーヴァイ』は、バガヴァーンの話された教えの中で、彼の存命時に彼によってすみずみまで調べられ、校正された最大の作品です。そういうわけで、ラマナの文献の中でも特別な地位を有しています。(以下略)
(注)以下で、(by V・R・D)と詩節番号の後ろに表記されているものは、T.V.ヴェンカタスブラマニアン博士、ロバート・バトラー氏、デイヴィッド・ゴッドマン氏の英訳です。その他の無表記のものは、マイケル・ジェームズ氏とサードゥ・オームの英訳です。基本的にマイケル・ジェームズ氏らの英訳を使わせていただいていますが、ゴッドマン氏らの英訳の方が分かりやすい場合はそちらを採用しています。
師の言葉の集成
- 至高なる真理の燈明 -
- 至高なる真理の燈明 -
序詞
1.この作品の名と起源
4.
この明るく輝く至高なる真理の燈明は、真理を見ていない私の無知で、未熟な心により灯(とも)されたのではない。これは、我が師、シュリー・ラマナの完全に成熟した至高なる知により灯された。
This clear Light of Supreme Truth was not lit by my innocent, infant mind, which has not seen the Truth. It was lit by the fully ripened Supreme Knowledge of my Master Sri Ramana.
「至高の真理の灯(パラマールタ・ディーパム)」は、『グル・ヴァーチャカ・コーヴァイ』の元々の副題である(ディヴィッド・ゴッドマン氏らの版からの情報)。
8.(by V・R・D)
至高なる自らは、存在する全てとしあるため、それにとって達成すべきものはわずか足りともない。それゆえに、この「至高なる真理の燈明」の利益は、ダルマ、アルタ、カーマへの心の動きの完全な停止をもたらすことである。
Since the Supreme Self exists as all there is, there is nothing whatsoever for it to attain. Therefore, the benefit of this 'Lamp of Supreme Truth' is to bring about toal cessation of mental movements towards dharma, artha and kama.
サードゥ・オーム:
今日まで、人間の生の正しい目標として、聖典は以下の4つを説明している。ダルマ:正しい社会的義務の実践、アルタ:正しい方法で富を獲得すること、カーマ:正しい限度内で、欲望をみたすこと、モークシャ:解放、自らとして留まる自然な境地。
9.(by V・R・D)
自分自身の本質、自らは、幸福のまさにその真髄として輝いており、今世と来世の一切の楽しみの起源である。その至高の卓越性のため、この作品の利益は、他の一切の達成の状態についての思いにより悩まされることなく、かの自らにしっかと吸収されることである。
One's own real nature, the Self, which shines as the very essence of happiness, is the origin of all the pleasures in this world and the next. Because of its supreme eminence, the benefit of this work is to become firmly abosorbed in the that Self, without being assailed by thoughts of all the other states of attainment.
「その他すべての達成の状態」は、ジニャーナ以外の状態である。
第一部 真理の探求
- 吉祥なる祈り -
16.(by V・R・D)
アートマ・スワルーパ、まったき意識である原初の本質は、完全にマウナである境地を通じ、直接に経験される。それはその形が虚偽の「私」、自我である映し出された意識(チッダーバーサ)の本質として栄え、輝いている。この純粋なる超越したスワルーパ、根本の礎(いしずえ)が、究極の現実である。
Atma‐swarupa, the primal essense that is wholly consciousness, is experienced directly through the state that is entirely mauna. It flourishes and shines as the real nature of the reflected consciousness [chidabhasa] whose form is the false 'I', the ego. This pure transcendental swarupa, the fundamental substratum, is the ultimate reality.
アートマ・スワルーパ・・・自らという本質、自分自身の真の姿 ; マウナ・・・(心の)沈黙、静寂
17.(by V・R・D)
我々のグルの姿とは、ハートの中で眠ることなく眠る現実である。彼は火を灯す必要のない美しい燈明のような、ハートの中で輝く自ら光を発する光輝である。ハートへの溶け入りを経験した者たちにとって、彼はこの上ない至福の心地よい清澄さで満ちた甘美な果実であり、わずかの嫌悪もなく、(それ自身への)常に増大する希求を生じさせる。彼の恩寵はまさしく真の富である。
Our Guru's form is the reality that sleeps without sleeping in the Heart. He is the self-luminous effulgence that shines in the Heart like a beautiful lamp that needs no kindling. To those who have experienced merging in the Heart he is a luscious fruit full of the sweet clarity of the supreme bliss that, without a trace of aversion, cause an ever-increasing desire [for itself]. His grace indeed is the true wealth.
1.世界の現実性
19.
原因のみがその結果として見られているため、そして、原因である意識(ブラフマン)は手のひらの上のアマラカの実と同じく明らかに真実であるため、その結果-聖典に名と形に過ぎないと描かれる、この広大な世界-もまた、真実と呼ばれて良い。
As cause alone is seen as its effect, and since Consciousness [Brahman], which is the cause, is as clearly true as an amalaka fruit on one’s palm, this vast universe, its effect, which is described in the scriptures as mere names and forms, may also be called true.
サードゥ・オーム:
ブラフマンは五つの側面、サット‐チット‐アーナンダ‐ナーマ‐ルーパ(つまり、存在、意識、至福、名、形)を持つ。最初の三つの側面は現実であり、永遠に自ら輝いているが、名と形は非現実的な側面であり、存在しているように見えているに過ぎず、サット‐チット‐アーナンダの輝きに依存している。
しかしながら、人が原因、現実であるサット‐チット‐アーナンダを見るなら、人は、見せかけの名と形を無視し、この全世界もまた現実であると言いうる。
21.
自分たちの前に現れる世界を現実であり、楽しいものと思う人々のために、(聖典に)世界は神の創造物である(と記される必要があった)。しかし、妨げのない自らの知を得た人々にとって、世界は束縛をもたらす心の想像に過ぎないとみなされている。
For the sake of those [ignorant ones] who take the world, which appears before them, as real and enjoyable [it became necessary for the scriptures to say that] it is God’s creation. But for those who have obtained unobstructed Knowledge of Self, the world is seen merely as a bondage-causing mental imagination.
22.
空虚な名と形からなるこの世界は五感の想像であり、純粋な至高なる自らの中にある現象(見せかけ)であり、自ら、サット‐チットからあたかも現実であるかのように生じる心というマーヤーの不可思議な戯れであると理解されるべきである。
This world of empty names and forms, which are the imagination of the five senses and an appearance in the pure Supreme Self, should be understood to be the mysterious play of Maya, the mind, which rises as if real from Self, Sat-Chit.
23.
絶対的な意識である自ら以外の何ものも存在するとして経験しない覚者は、至高なるブラフマンの視点からは存在しない世界を現実であると言わない。
The Realised who do not know anything as being other than Self, which is absolute Consciousness, will not say that the world, which has no existence in the view of the Supreme Brahman, is real.
マイケル・ジェームズ:
タミル語のイライヴァンはいつも、この世界の主である神を意味するものとして理解されており、バガヴァーンがある所で説明したように、「人間、世界、それらの主」の三つの組はマーヤーの中に共存しているように常に見え、それゆえに、この見かけの上の世界は、見かけの上の主である神の視点からは確かに存在している。それゆえに、この詩節をみて、バガヴァーンは「誰が神の視点からは世界が存在しないと言ったのですか」と発言したが、そのとき著者のシュリー・ムルガナールはその言葉を至高のブラフマンの意味で使ったと説明し、シュリー・バガヴァーンはこの意味を容認し、この詩節を承認した。
24.
おお、君よ。綿(わた)の木の実が熟すのを期待して待つオウムのように、あなたはこの世界の現象(見せかけ)を現実であり、楽しいものであると信じ、苦しみ続けている。世界があなたの感覚に現れるからというだけで現実であるならば、蜃気楼も水であるだろう。
O man, like a parrot waiting expectantly for the silk-cotton fruit to ripen, you persist in your sufferings, believing this world appearance to be real and enjoyable; if the world is real simply because it appears to your senses, then a mirage would be water.
26.
絶えず変化する幻の(実体のない)心によってのみ見られ、心の源である自らによって見られない、この世界に「現実的」という言葉はふさわしいのか。
Is the word ‘Real’ befitting to this world, which is seen only by the illusory and changeful mind, but not by Self, the source of mind?
28.
おお、この世界を恐れ、あなた自身を見つからないように隠す大志を抱く者よ。世界のようなものは何も存在していない!存在しているように見える、この虚偽の世界を恐れることは、縄に現れる虚偽の蛇を恐れるかのようである。
O aspirants who hide yourselves away fearing this world, nothing such as a world exists! Fearing this false world which appears to exist, is like fearing the false snake which appears in a rope.
30.
「この世界は思いの戯れに過ぎない」とそのように言われるなら、心が落ち着いている時でさえも、なぜ世界という映像が夢のように我々の前に突然現れるのか。それは過去の想像の蓄えられた勢いのためである!
If it is thus said that this world is a mere play of thoughts, why, even when the mind is quiet, does the world-scene, like a dream, suddenly appear in front of us? That is due to the stored momentum of past imaginations!
31.
蜘蛛が(巣の)糸をその口から吐き出し、再び引き入れるのとまさしく同様に、心も世界をそれ自体から映し出し、再び内にそれを吸収する。
Just as the spider emits the thread [of its web] out from its own mouth and again withdraws it back, so the mind projects the world out from itself and again absorbs it back within.
32.
心が脳と五感を通過する時、(この世界の)名と形が内側から映し出される。心がハートに留まる時、名と形は戻り、そこに埋もれている。
When the mind passes through the brain and the five senses, the names and forms [of this world] are projected out from within. When the mind abides in the Heart, they return and lie buried there.
35.
二組や三組のものからなる、この世界は心の中にのみ現れるため、赤熱した縄の端という一点を回転させることにより作られる幻の(実体のない)炎の輪のように、それは虚偽であり、自らの明晰な視界において存在しない。
Since this world of dyads and triads appears only in the mind, like the illusory ring of fire formed [in darkness] by whirling the single point of a glowing rope-end, it is false, and it does not exist in the clear sight of Self.
37.(by V・R・D)
存在するものは対象物のないジニャーナの完全性であり、それは無条件の現実として輝く。世界は、あなたのスッタリブによって把握される対象物として現れる。あらゆるのものを黄色に見る黄疸の人の誤った知覚のように、この全世界は、自我、ごまかし、欲望などという欠点を持つ心のみから成り立つ幻惑された光景である。
What exists is the plenitude of object-free jnana, which shines as unconditioned reality. The world appears as an object that is grasped by your suttarivu. Like the erroneous perception of a person with jaundice who see everything yellow, this entire world is a deluded view consisting wholly of a mind that has defects such as ego, deceit, desire, and so on.
スッタリヴ・・・対象化された意識(知)、知性、個々人の意識
38.(by V・R・D)
太陽の下で黄色のターメリックの粉末がその色を失い、白色になるのとまさしく同様に、現実の知という太陽光の前で、このまったくの想像である(心の)世界は消え去る。それゆえ、世界は神-真実のジニャーナなる太陽-の創造物ではない。孔雀の羽にある様々な色をした目のように、この鮮やかな世界は、広大な映像、純粋でない心という暗い鏡の中に見られる反射でしかない。
Just as yellow turmeric powder loses its color and becomes white under sunlight, this wholly mental world perishes before the sunlight of the knowledge of reality. Therefore, it is not a creation of God, the sun of true jnana. Like the many-hued eye of the peacock feather, this bright world is only a vast picture, a refrection seen in the darkened mirror of the impure mind.
40.
(賢者を除き)全ての人の心を欺き、荒らす、この虚偽の邪悪な広大な世界は、どうして存在するようになったのか。自らへの傾注にしっかりつかまらず、それから滑り落ちるという我々自身の誤り以外に何の理由もない。
How does this false and villainous vast world, that cheats and ravages the minds of all people [except the wise], come into existence? Because of no reason other than our own mistake in falling away from, instead of clinging to, Self-attention.
41.
この生-(我々の)好悪に基づく幻-は、空虚な夢であり、(無知の)眠りの間、あたかも現実のように見えるが、人が(自らの知へ)目覚める時、虚偽であると見出される。
This life, an illusion based upon [our] likes and dislikes, is an empty dream, which appears, as if real, during the sleep [of ignorance], but which is found to be false when one wakes up [into Self-Knowledge].
44.(by V・R・D)
世界は究極の真理の境地(パラマールタ)において存在しない。その現象(見せかけ)、その(見かけ上)マーヤーの中に存在する性質は、あたかも縄の中の蛇、木製の郵便箱の中の泥棒、蜃気楼の中の水ような想像された現象である。その本質は錯覚である。
The world does not exist in the state of ultimate truth [paramartha]. Its appearance, its [apparently] existing nature in maya, is like imagined appearance of a snake in a rope, a thief in a wooden post, and water in mirage. Their essential nature is delusion.
45.
黄金から形作られる様々な装飾品は黄金と異ならない。同様に、動くものと動かないものからなる、この世界は、自らから顕現し、自ら以外でありえない。
The various ornaments fashioned out of gold are not different from the gold, and similarly, this world of moving and unmoving things, manifested out of Self, cannot be other than Self.
47.(by V・R・D)
名と形を通じて自らを覆い、現実のごとく見える世界は、夢のような現象(見せかけ)でしかない。そうではなく、そのまさに同じ世界が自らによって覆われ、意識のみとして現れるなら、その時、自らとして、世界もまた現実である。
The world that veils the Self through names and forms, and appears to be real, is only dream-like appearance. If, instead, that very same world get veiled by the Self and appears as consciousness alone, then, as the Self, it too is real.
49.
煙の内に隠された火のように、知の光は、この世界の名と形の内に隠れ、輝く。心が至高なる恩寵によって澄み渡るなら、世界の本質は(自らとして)現実であると見出され、もはや幻の名と形として現れない。
As the fire shines hidden within the smoke, the Light of Knowledge shines hidden within the names and forms of this world. When the mind is made clear by Supreme Grace, the nature of the world is found to be real [as Self], and it will appear no more as the illusory names and forms.
50.
一切の感覚的知識の基礎である自らの真の知を決して失わない人々にとって、世界もまた自らの知以外の何ものでもない。しかし、自らの知を得ていない凡人が、ジニャーナを通じ見ながら、「世界は現実である」と語る賢者らの言明をどうして理解できるのか。
For those who never lose the True Knowledge of Self, which is the base of all sense-knowledge, the world also is nothing other than Self-Knowledge. But, how can an ordinary man, who has not gained Self-knowledge, understand the statement of Sages who, seeing through Jnana, say that the world is real?
51.
この世の(つまり、感覚の)知識とそれに対する愛着を放棄した者、心(つまり、マーヤー)の邪悪な力を滅ぼした者のみが、それにより至高なる自らの意識を得て、「世界は現実である」という言明の正しい意味を知ることができる。
Those who have given up worldly [i.e. sense-] knowledge and attachment to it, and who have destroyed the evil force of mind [i.e. Maya], thus gaining Supreme Self-Consciousness, alone can know the correct meaning of the statement, “The world is Real”
52.
見かたがジニャーナ(神聖な知恵)に変わり、それを通じて見られるならば、空(くう)などの五つの元素からなる全世界は現実であると見出され、至高なる知となる。そのようにあなたは見るべきである。
If one’s outlook is changed into Jnana [Divine Wisdom], seen through That, the entire universe, consisting of the five elements such as ether and so on, will be found to be real, being the Supreme Knowledge Itself. Thus you should see.
55.
この世界という見せかけは、夢という幻の見せかけのように心によるものに過ぎず、その真実は(それゆえ)マーヤー、心を超える至高なる意識によってのみ正しく知られうる。
The appearance of this world, like the illusory appearance of a dream, is merely mental and its truth [therefore] can be known correctly only by the Supreme Consciousness that transcends Maya, the mind.
57.(by V・R・D)
多くの色をもつ緑色の孔雀の卵の黄身が(色において)ただ一つであるのとまさしく同様に、満ち満ちた多様性へ歪められているように見える、この実体のない世界の元々のあり様は、混ざりけのない純粋な幸福である。自らの境地に住まうことにより、今、この真理を知れ。マーヤーの力を通じ、結果として現われている自らが、顕現する世界の形をとっている間にさえ。
Just as the yolk of the egg of many-hued green peacock is only one (in colour), the original state of this insubstantial world, which appears to be distorted into teeming multiplicity, is pure and unalloyed happiness. By abiding in the state of the Self, know this truth now, even while that Self, appearing as an effect, takes the form of the world manifesting through the power of Maya.
3.世界の魅力
71.(by V・R・D)
永遠でない世俗的な成功を目的として、山羊の喉袋が無意味に揺れ動くように人々は上機嫌で無益にさ迷うが、彼らは永遠の自らという解放へ通じる行いを軽蔑して見下す。ああ!そのような無知な人々の行いはあまりに哀れであり、賢者はそれを見るのさえも忍びない。
For the sake of impermanent worldly prosperity, people will gleefully wander in vain, like the pointless swinging of a goat's dewlap, but they will look contemptuously upon the conduct that leads to liberation, the eternal Self. Alas! The conduct of such ignorant poople is so pitiable, the wise cannot even bear to see it.
72.
ごくわずかの楽しみを切望し、人々は五感という畑を耕すために心を使い、懸命に精を出して働くが、彼らは決して自らへの傾注によりハートという心の源を耕すことによってやって来る実りである、溢れんばかりの至福を望まない。ああ、何と不思議なことか!
Longing for a tiny grain of pleasure, people toil so hard using the mind to plough the field of the five senses, but they never wish for the flood of Bliss which is the fruit that comes by ploughing the Heart, the Source of the mind, with [simple] Self-attention. Ah, what a wonder!
6.ヴィヴァルタ・シッダーンタ(幻の見せかけの教説)
83.(by V・R・D)
「我々が世界を知覚するゆえ・・・」で始まるヴェンバの詩節を通じ、世の人々に必要とされる唯一の真に有益な達成(ジニャーナ)を教えるグル・ラマナは、我々への愛情から、他の教説への考慮を避け、幻の見せかけの教説を究極的な利益を授ける真理であると言明した。
Through the venba verse that begins, 'Because we perceive the world...,' Guru Ramana - who teaches the one true beneficial attainment (jnana) that is needed by the people of the world - declared, out of his love for us, the doctrine of illusory appearance to be the truth that bestows the ultimate benefit, avoiding the considerarion of other doctrine.
ムルガナール:
自らである意識は、世界という見せかけの質料因であり、作用因である。縄が幻の蛇のように見えるとき、これはヴィヴァルタ・シッダーンタである。その意味は、縄の中の蛇とちょうど同じように、世界は現実である意識の中の想像による見せかけということである。
自らの境地を手放した人々は、自分自身を(世界を)見る者として間違ってとり、知覚された世界を現実であるとみなす。そのような人々はアジャータ・シッダーンタを通じて安らぎを得られない。彼らを困惑させ、苦しめる、彼らと離れて世界が存在しているという概念を取り除くため、ヴィヴァルタ・シッダーンタが教えられている。それで、それら二つ(アジャータとヴィヴァルタ)の間に矛盾は存在しない。
85.(by V・R・D)
神、自らは、膨大な名と形を伴い世界として現れている。しかし、その創造の質料因である泥と離れて留まる陶器を作る陶工と異なり、彼(神)は単なる作用因、創造、維持、破壊の行為の遂行に留まらない。
God, Self, manifests himself as the world its multitudinous names and forms. But unlike potter who fashions a pot while remaining distinct from the mud that is the material cause for its creation, He does not remain as merely the efficient cause, performing the acts of creation, sustenance and destruction.
86.
「なぜ自らが混乱しているかのように、それがそれ自身であり、世界としてみなされているという真理を知らないのか」と尋ねるなかれ。そうせずに、「この混乱が誰に起こるか」探求するならば、そのような混乱はこれまで自らにとって存在しなかったことが発見される!
Do not ask, “Why does Self, as if confused, not know the Truth that It is Itself which is seen as the world?” If instead you enquire, “To whom does this confusion occur?”, it will be discovered that no such confusion ever existed for Self!
87.(by V・R・D)
自らがそれ自身を世界として作り出したと言うことは、縄がそれ自体を蛇へ作り出したと言うようなものである。綿密に検討する時、蛇は全く存在していないことが見出される。その証に、自らがそれ自身を世界へ作り出したかのように見える、どのような世界の創造も存在していなかった。
Saying that Self has fashioned itself as the world is like saying that a rope has fashioned itself into a snake. On close examination, it is found that the snake does not exist at all. By the same token, there was not any world creation in which the Self apparently fashioned itself into the world.
91.
自らはその静止して「在る」という性質を動きという性質へ変えたのか。そうでなければ、その他に、この世界はどのように存在するようになったのか。自らは決して変化も動きも経験していない。 この世界は、それ自体虚偽である無知のみを理由にして存在しているごとく見える。
Has Self changed its nature of still Being into that of motion, or how else has this world come into existence? Self has never undergone change or movement; this world seems to exist solely because of ignorance, which is itself false.
95.(by V・R・D)
「至高なる自ら、他を持たない唯一なるものが、どうして心という制限、無知の形を保持するようになったのか」と尋ねるなら、その答えは、「制限は幻惑されたジーヴァの観点を通じてのみ付着している。実のところ、制限は決して自ら、意識に付着しなかった」となる。
If it is asked 'How has the Supreme Self, the one without second, come to possess the limitation of the mind, the form of ignorance?' the reply is, 'The limitaion has attached itself only through the delueded jiva-perspective. In truth, it never attached itself to the Self, consciousness.'
ムルガナール:
混乱を通じて縄が蛇として知覚されるのと同じ方法で、意識はジーヴァの幻惑を通じて心として現れている。事実を調べると、心というような実体は意識と離れて全く存在していないと見られる。両親の面倒をとてもよくみる親切な人に、「両親を悩ませるこの癖をどうして得たのか」と尋ねる人のように、その質問自体が根本的に不適当である。
97.
幻惑され、マーヤーの力により外に引き出されている心の視点のみにおいて、体は存在している。唯一なる広大な意識の虚空である自らの明瞭な視点において体はまるで存在せず、それゆえ、自らを「デヒー」、もしくは「クシェトラジニャ」(体を持つ者、知る者)と呼ぶのは間違いである。
The body exists only in the view of the mind, which is deluded and drawn outwards by the power of Maya. In the clear view of Self, which is a single vast Space of Consciousness, there is no body at all and it is therefore wrong to call Self ‘Dehi’ or ‘Kshetrajna’ [the owner or knower of the body].
99.
世界は、体と離れて存在しない。体は、心と離れて存在しない。心は、意識と離れて存在しない。そして、意識は、実在である自らと離れて存在しない。
The world does not exist apart from the body; the body does not exist apart from the mind; the mind does not exist apart from Consciousness; and Consciousness does not exist apart from Self, which is Existence.
サードゥ・オーム:
それゆえに、すべては自らであり、自らのみが存在すると結論できる。
7.アジャータ・シッダーンタ(非創造の教説)
100.
グル・ラマナは、彼のもとに来た人々の理解の程度に応じて様々な教義を説いたが、我々は彼から「アジャータ(不生)」のみがまさしく彼自身の体験であると聞いた。そのようにあなたは知るべきである。
Although Guru Ramana taught various doctrines according to the level of understanding of those who came to Him, we heard from Him that ‘Ajata’ alone is truly His own experience. Thus should you know.
サードゥ・オーム:
「アジャータ」とは、何も-世界も、人も、神も-今までに生じず、「在るそれ」が常にそのままに存在しているという知である。
101.
シュリー・クリシュナがアルジュナに、ギーターの最初の章(第二章)で明らかにしたのは、これと同じ「アジャータ(不生)」であり、後者(アルジュナ)の困惑と、真理を把握できないことのみが理由で、その後に残りの十六章で他の教義が説かれている。
It is this same ‘Ajata’ that Sri Krishna revealed to Arjuna in an early Chapter [two] of the Gita, and know that it was only because of the latter’s bewilderment and inability to grasp the Truth, that other doctrines were then taught in the remaining sixteen chapters.
102.
なぜヴェーダの様々な箇所が様々な方法で創造を描くのか。その唯一の意図は、創造の正しい理論を言明することではなく、創造の源である真理を大志を抱く者に探求させることである。
Why do the different portions of the Vedas describe creation in different ways? Their sole intention is not to proclaim a correct theory of creation, but to make the aspirant enquire into the Truth which is the Source of creation.
9.神の活動
105.
何らの事前の意図もなく昇る太陽がただ存在するだけで、動くもの、動かないもの、全ての存在が、それら独自の活動に従事するのとまさしく同様に、聖典には、全ての行為が神によって行われていると書かれている。
Just as all beings, moving and unmoving, engage in their own activities due to the mere presence of the sun, which rises without any prior intention, so it is said in the scriptures that all actions are performed by God [who in truth neither acts nor has intentions].
106.
ただ太陽が存在するだけで、凸レンズは火を発し、蓮は花開き、睡蓮は閉じ、全ての生物は立ち上がり、働き、休む。
In the mere presence of the sun, the convex lens emits fire, the lotus blossoms, the water-lily closes, and all creatures rise up, work and rest [according to their nature].
107.
針が磁石の近くで震えるのとまさしく同様に、また、月の光の中で月長石がしずくを落とし、睡蓮が花開き、蓮が閉じるように、五つの現象は、ただ神が力を持ちて存在するだけで、働く。
The five-fold phenomenon functions merely because of God’s potent presence, just as the needle trembles near the magnet, or as in the light of the moon, the moonstone drips, the water lily blossoms and the lotus closes.
108.(by V・R・D)
サンカルパのかけらもない神の面前で(五つの)活動に従属する、具現化したジーヴァらは、そのカルマ的に定められた運命によって命じられる多くの行為の過程に入り、その後、(行為の無益さを悟り)内に向かい、解放を得る。
The embodied jivas who are subject to the (five) activities in the presence of God - who is without a trace of sankalpa - enter upon the many courses of action dictated by their karmically determined destiny and then, (realising the futility of action,) turn within and attain liberation.
ここで言及される五つの神聖な働きとは、創造、維持、破壊、覆い隠し、恩寵です。
バガヴァーン:太陽が世界の活動に責任があるのと同じように、イーシュヴァラは五つの働きに責任があります。シャクティ(創造的な力)を通じてのほかは、イーシュヴァラは世界と直接的な関係を持ちません。padamalai, p.289, vv. 1, 2.
109.
地上で起こる出来事が太陽に影響しないのとまさしく同様に、四大元素(地水火風)の特性が広大な虚空に影響しないように、ジーヴァらの行為もまた、心を超えている神には間違いなく決して影響しないだろう。
Just as the [good and bad] incidents that happen on earth do not affect the sun, and as the properties of the four elements do not affect the vast ether, so also the actions [karmas] of jivas will certainly never affect God, who is beyond the mind.
10.3つの根本的存在(人、神、世界)
110.
人がまさに最後まで「このジーヴァである『私』とは誰か」と尋ねると、彼は存在していないと分かり、至高なる意識の広がりのみであるとしてシヴァが現わされる。そうして、ジーヴァ-この世界を巨大な欲望により見た「見る者」-が消える時、「見られるもの」である世界が現実性を持つと考えるのは馬鹿げている。
If one enquires to the very end, “Who is this jiva, ‘I’?” it will be found that he is non-existent, and Shiva will be revealed as being nothing but the Supreme Expanse of Consciousness. Thus, when the jiva – the seer, who with great desire saw this world – has disappeared, it is ridiculous to attribute reality to the world – the seen.
111.
上で述べた二つの根本的な存在(つまり、世界とジーヴァ)が消えた後、光輝くままあるもののみがシヴァ(つまり、自ら)である。これは絶対的な真理であるが、しかし、すでに死んだジーヴァがどうしてそれを不ニとして思えるのか。
After the above two prime entities [i.e. world and jiva] have disappeared, that which alone remains shining is Shiva [i.e. Self]. But although This is the absolute Truth, how can the already dead jiva think of It as being non-dual?
サードゥ・オーム:
不ニ(アドヴァイタ)という真理は、思いを超えているので、バガヴァーン・ラマナは「mata」(宗教)は「mati」(心)によって見出されるものなので、アドヴァイタは宗教と呼ぶことはできない とよく言っていた。
115.
このように、源である真理は一であるため、なぜ全ての宗教(時には賢者らさえも)が、初めに、これら三つの根本的な存在が現実であると認めることによって教えを始めているのか。それは、対象についての知識によってかき乱された心が、賢者らが相手に合わせてそれを三つとして教えないなら、一者の存在を信じないためである。
Thus, since the Truth of the Source is One, why do all religions [and sometimes even Sages] start their teachings by at first conceding that these three prime entities are real? Because the mind, which is tossed about by objective knowledge, would not agree to believe in the One unless the Sages condescended to teach It as three.
11.覆い隠し
116.
無数の過去生の間、他者にもたらした、もしくは、他者によってもたらされた全ての苦しみについてのジーヴァの忘却なる厚い覆い隠しは、神の恩寵によると知れ。
Know that the thick veiling of a jiva’s forgetfulness about all the troubles caused to others or by others during his innumerable past lives is due to the Grace of God [for his own peace of mind].
117.
この生涯における少しの悲惨な事例を思い起こすことでさえ、人の人生を地獄のようにしうる時、忘却のみが皆によって好まれるべきではないのか。
When the remembrance of even a few miserable instances in this lifetime can make one’s life a hell, should not forgetfulness alone be loved by all?
13.誤った交際
125.
自らを知ろうとしていると言いながらも、体をたいそう気に掛け、愛する人々は、クロコダイルを丸太と間違え、川を渡ろうとしている者のようである。
Those who show great care and love for their bodies, while saying that they are trying to know Self, are like one who tries to cross a river, mistaking a crocodile for a log.
126.
言葉と心の領域を超えている最も微細なるもの、サット‐チット‐アーナンダに専心することなく、ただ粗大な体の幸福の面倒を見ることにのみ人生を費やすことは、まさしく役に立たない草に水をやるために井戸から大変に苦労して水を汲みだすことのようである。
Instead of attending to Sat-Chit-Ananda, the subtlest, which is beyond the reach of speech or mind, to spend one’s life attending merely to the welfare of the gross body is just like drawing water with great difficulty from a well in order to water some useless grass [instead of paddy].
128.
彼らの前にある世界がただ大きな害だけをもたらすことを知らず、それを現実であり、幸福の源であるとみなす人々は、水に浮かんでいる熊をいかだとしてつかむ者のように、生と死の大海で溺れ死ぬだろう。
Not knowing that the world in front of them brings only great harm, those who take it to be real and a source of happiness will drown in the ocean of birth and death, like one who takes hold of a floating bear as a raft.
14.パンディット
132.あなた達の多くは、なぜ私をパンディットと呼ぶのか。真のパンディットの正しい印とは、全ての技芸と科学を知る者が存在しておらず、それゆえ、過去の時代を通じて人が学んだ一切は無知に過ぎないという知である。
Why do many of you call me a Pandit? The correct sign of the real Pandit is the knowledge that the knower of the all the arts and sciences is non-existent, and that all he has learnt throughout the past ages is therefore mere ignorance.
133.
「これら全ての技芸と科学を学んだ、この『私』は誰か」探求し、それによってハートへ到達し、自我はその一切の学びと共に消え去る。後に残る自らなる意識を知る彼が、真のパンディットである。それを実現していない他の人々が、どうしてパンディットでありうるのか。
Enquiring, “Who is this ‘I’ that has learnt all these arts and sciences?”, and thereby reaching the Heart, the ego vanishes along with all its learning. He who knows the remaining Self-Consciousness is the true Pandit; how can others who have not realised It be Pandits?
16.学識の無益さ
141.
一切の聖典の核心にある趣旨が、「解放を得るためには、心が制圧されねばならない」と知る後、それらを学び続けて何の役に立つのか。私は誰か。
After knowing that the purport at the heart of all scripture is that the mind should be subdued in order to gain Liberation, what is the use in continuously studying them? Who am I?
143.
汚れた体にたいへん執着している者たちにとって、神聖なる恩寵の助けにより、彼らの学びが彼らを自我の征服に導かなければ、一切のヴェーダーンタの学びは、ヤギの喉袋の揺れと同じぐらい無意味になるだろう。
For those who are very attached to their filthy bodies, all the study of Vedanta will be as useless as the swinging of the goat’s fleshly beard unless, with the aid of Divine Grace, their studies lead them to subdue their egos.
fleshly beard(肉のあごひげ)ではおかしいので、デイヴィッド・ゴッドマン氏らの英訳にあるdewlap(のど袋)を採用しています。
144.(by V・R・D)
心の混乱と苦しみは、人の本質の啓示(顕れ)によってのみ終わらせることができ、それは何らかの形のサーダナの修練を通じての心の破壊の結果生じる。心の混乱を単なる学びのみで終わらせようと期待することは、兎の角のごとく不可能なことである。
Mental confusion and misery can only end by the revelation of one's true nature, which result from the mind's destruction through the practice of some form of sadhana. (Expecting to) end the confusion of mind by mere study is, like a horse's horn, an impossibility.
17.ヴェーダーンタの偉大さ
148.
破滅の原因へ通じる感覚の楽しみに惑わされた世俗的な人々は、真理の存在について知ることができない。感覚の楽しみへの離欲により得られた、志ある者の花開くジニャーナの肥沃な栄光を彼らは呼ぶ-「不毛の地の哲学」と。
Worldly people, deluded by sensual pleasures which lead to destruction, cannot know of the existence of the Truth. They call the fertile glory of the aspirant’s blossoming Jnana, which was attained by dispassion towards sense-pleasures, as the ‘barren ground philosophy’.
149.
ヴェーダーンタの体験は、一切の欲望を完全に放棄した者たちにのみ可能である。欲望のある者たちにとって、それはとても遠く、それゆえ、彼らは欲望を免れている神への欲望により、他の一切の欲望を自身から取り除こうと試みるべきである。
The experience of Vedanta is possible only for those who have completely given up all desires. For the desirous it is far away, and they should therefore try to rid themselves of all other desires by the desire for God, who is free from desires.
22.自我なる結び目
156.
我々の前に無数の対象物を見るという我々の過ちの理由とは、我々の現実である自ら‐意識なる広大な完成(極致)に我々が専心し損なっているため、見る者、分離した「私」として我々が生じたことである。
The reason for our mistake of seeing a world of objects in front of us is that we have risen as a separate ‘I’, the seer, due to our failure to attend to the vast perfection of Self-Consciousness, which is our Reality.
157.
誤った、偽りの、自縄自縛の自我なる結び目は、体を現実であると信じ、空の青さのように全くの想像である様々な魅惑的なものを渇望し、そうして、それ自体を堅く締める。
The false, deceitful and self-blinded ego-knot, believing the body to be real, lusts after various allurements which are all fancied like the blueness of the sky, and thus it tightens itself.
159.
体を「私」として、および、「私の場所」として取り違える、汚れた自我の生とは、純粋で、現実の至高なる自らの中の夢として見られる、誤った想像に過ぎない。
The life of the filthy ego, which mistakes a body both as ‘I’ and as ‘my place’, is merely a false imagination seen as a dream in the pure, real, Supreme Self.
23.自我の力
164.
自我の完全なる根絶は、まこと極めて難かしい。主シヴァをとても強く愛していたため、自分自身の両目をえぐりとり、主の顔へと植え付けたカンナッパの場合でさえ、体への愛着(すなわち、自我)の痕跡が、その美しい輝く目を誇るという形で(その瞬間まで)残っていた。
The complete eradication of the ego is indeed very hard when even in the case of Kannappa, whose love for Lord Shiva was so great that he plucked out his own eyes and planted them on the Lord’s face, there remained [until that moment] a trace of body attachment[i.e. ego] in the form of his pride concerning his beautiful bright eyes.
165.
シヴァ・バクティの真の栄光とは、「私はこの汚らわし体である」という錯覚によって引き起こされる破滅からの信奉者の救済である。この理由のゆえに、カンナッパがその両目を差し出したとき、シヴァは受け取った。
The real glory of Shiva Bhakti is the salvation of the devotee from the damnation caused by the delusion “I am this filthy body”. This is the reason why Shiva accepted Kannappa’s eyes when he offered them.
24.自我の踊り
166.
適切に吟味される時、神の定めとは帰する所これである-自我が生じるなら、一切のものが生じ、自我が退くなら、その一切が退く。
When properly scrutinized, God’s ordinance amounts to this: If the ego rises, all things rise; if it subsides, they all subside.
167.
三世界で全ての生物によって送られる、錯覚に縛られた自我の生は、火葬場で死体に取り付く食死鬼の踊りでしかない。
The delusion-bound ego-life, led by all creatures in the three worlds, is nothing but the dance of ghouls who possess corpses in a cremation ground.
168.(by V・R・D)
聞けよ!全てに対して慈悲を持つ、全てを抱擁する公平なチット‐シャクティ(意識の力)によってそのようにするように促されないなら、人々は考えることすらできない。ここ、この世界における、「私はこれを達成せん!」という意識によって興奮した人々の跳ね回りは、実に不可思議である。
Listen! People cannot even think unless prompted to do so by the all-embracing and impartial chit-sakti that has benevolence towards all. Here in this world the jumping about of people, excited by the feeling 'I will accomplish this!', is indeed a great wonder.
169.
これは、「誰かが私を持ち上げ、支えてくれさえすれば、私は敵の軍勢に一人立ち向かい、打ち倒し、ここに死体の山を築かん」と宣言する、足腰の立たない人の熱意によく似ている。
This is much like the zeal of the cripple who declared, “If someone will only lift and support me, I will meet the host of enemies single handed, lay them low, and raise a pile of corpses here”
B2.
自分自身が至高なる力によって活動させられていることを理解せず、「さあ全てのシッディを獲得しよう」と考え、努力する狂人たちのむなしい活動は、「誰かが私を立たせてくれるなら、私の前で敵がなんの価値を持つだろうか」と自慢する物語の中の足腰の立たない人のごとくである。
The futile activities of those madmen who, not realising that they themselves are activated by the Supreme Power, make efforts thinking, “Let us acquire all the siddhis”, are like [the efforts] of the cripple in the story who boasted, “If anyone will help me stand, what worth will my enemies have before me?”
170.(by V・R・D)
あぁ、神ヴァーユとアグニでさえ、取るに足らない薄っぺらい一握りの藁をそれぞれ動かしたり、燃やしたりする力をまるで持っていなかったのに、彼の内に「私」として生じる力を通じて誰がどんな務めを達成できるのか。どうしてそれが可能であろうか。
When, alas, even the gods Vayu and Agni respectively had no power at all either to stir or burn a flimsy and insignificant wisp of straw, who can accompolish any task through the power that rises in him as 'I'? How would it be possible?
ムルガナール:
「彼がいなければ、微塵でさえ動けない」という真理は、ケーノーパニシャッドの中の物語によって説明されています。
ムルガナールの解説の中の引用は、タミル語の格言です。詩節とムルガナールの解説両方の中で言及されている物語は、ケーノーパニシャッドの三部と四部からです-
ブラフマンはヤクシャ、尊敬すべき年長者の姿を取りました。最近の勝利を得意がっていた神々の一団に、彼らが自分自身の力を持っていないことを証明するためです。ジャータヴェーダ、火神(アグニ)は、ヤクシャに一本の藁に点火するように頼まれましたが、失敗しました。マ-タリシュヴァ、風神(ヴァーユ)はその藁を吹き飛ばすよう頼まれましたが、彼も失敗しました。次に、神々の王インドラは、ヤクシャに近づきましたが、彼は消え失せ、シヴァ神の配偶者、ウマーにとって変わりました。インドラはウマーにヤクシャは誰なのか尋ねました。
彼女は答えました。「彼はブラフマンでした。あなたたちはブラフマンの勝利に得意げになっていました」。
その時、神々は、彼らの力すべてがブラフマンに由来し、彼らが個々の自分自身の力を持たないことを理解しました。
172.
蒸気動力によって、非常に重い積み荷を藁の束のように運搬する列車で旅している間、乗客が、もし賢明なら、その荷物を自身の頭にのせて支えるだろうか。
Would passengers, if wise, carry their luggage on their own heads, while travelling on a train which hauls, under steam-power, the heaviest loads like wisps of straw?
173.
同様に、そのまさに本質によって、至高なる力のみが万物を支えているため、人々にとって、その人生の重荷(心配事、不安)をその至高なる力に委ね、そうして自由な気もちでいることが賢明である。
Similarly, since, by it’s very nature, the Supreme Power alone sustains all things, it is wise for men to leave the burdens [cares and anxiety] of their life on that Supreme Power, and thus to feel free.
B3.
見よ!神が全世界の責任を担っているのに、偽りのジーヴァがその責任を引き受けていると考えることは、寺院の塔を支えているように見える彫像のように、無駄な骨折りである。重い積み荷を運搬する列車に乗る乗客が、荷物を棚に置かずに頭の上にのせておくことで苦しむならば、一体それは誰の誤りなのか。
Look! While God is bearing the responsibility of the whole world, it is a mockery for the false jiva to think that it shoulders these responsibilities, like the sculpture which appears to carry the temple-tower. Whose fault is it if a passenger in a train, which is hauling a heavy load, suffers by keeping his luggage on his head instead of placing it on the rack?
176.
真に力強いタパスとは、行為者の感覚を失い、全ては彼の意思であるとよく知って、愚かな自我の錯覚から解放されていることである。そのように、あなたは知るべきである。
The truly powerful tapas is that state in which, having lost the sense of doership, and knowing well that all is His Will, one is relieved from the delusion of the foolish ego. Thus should you know.
28.アハム‐ムカ(自らに面すること)の偉大さ
190.
おお、人々よ、シヴァがあなたの内に住んでいること知らず、(彼のダルシャンを求め)あなたは鳥のように聖地を次から次へと飛び回る。意識が、ハートの内に静かに留まるとき、至高なるシヴァである。
O people, not knowing that Shiva is dwelling within you, you fly about like birds from one holy place to another [seeking His Darshan]. Consciousness, when abiding still in the Heart, is the Supreme Shiva.
191.
帆が外に広げられているなら、船は嵐によって破壊されるだろうが、錨(いかり)が海の中深くに沈んでいるとき船は安全である。同様に、心が外に広がるのでなく、ハートの中に深く沈んでいるなら、それがジニャーナとなるだろう。
The ship would be destroyed by the storm if its sails were spread outside, but it is safe when its anchor is sunk deep into the sea. Similarly, if the mind were sunk deep in the Heart instead of being spread outside, that would be Jnana.
192.
外に駆け出そうとする心をしっかりと内に引き止めることが、ハートの中の至高なる主を見ようと望む成熟した志ある者の真に英雄的な行いである。
To arrest the mind – which tries to rush outwards – securely within, is the truly heroic act of the ripe aspirant who wants to see the Supreme Lord in the Heart.
30.神の世界
194.(by V・R・D)
シヴァの世界がはるか、はるか離れているという概念は、「私は体である」という考え、自我の錯覚のために生じる。人が達すべき汚れなきシヴァの世界は、その人自身のハート以外に他のどこにも存在しないことをしっかり確信せよ。
The notion that the world of Siva exists far, far away arise on account of the illusion of the ego, the 'I am the body' idea. Be firmly convinced that immaculate world of Siva, which one should reach, does not exist anywhere else except in one's own Heart.
195.(by V・R・D)
あなたは全てに行き渡る光であり、それはあなた特有の所有物である。この光は世界の存在のための場所を創造するだけでなく、その素晴らしい力を通じ、世界を開示し、照らしもする。この光として輝くことが、神の王国があなたの内にあるということを真に実現することである。
You are the all-pervading light that is your own distinctive possession. This light creates not only the space for the existence of the world but also reveals and illumines it through its wonderful power. To shine as this light is truly to realise that the kingdom of God is within you.
34.シヴァ・プージャー
205.
ヤマさえも征服することで、聖者マールカンデーヤは死を切り抜け、彼に運命づけられた時を超えて生きた。それゆえ、死の殺害者、シヴァを崇拝することによって死に打ち勝てると知れ。
Saint Markandeya survived death by conquering even Yama, and lived beyond his destined time. Know, therefore, that death can be overcome by worshipping Shiva, the death-killer.
37. ヴィブーティ(聖なる灰)
無始なる過去から蓄積した傾向を持つ架空の自我が、ジニャーナの炎によって燃やされる時、内にただ独り残るかの現実が、神聖なヴィブーティである。これをあなたは知るべきである。
When the fictitious ego, who has accumulated tendencies from the beginningless past, is burnt by the Fire of Jnana, that Reality which alone remains within is the Sacred Vibhuti. This you should know.
サードゥ:オーム:
ヴィブーティは、自我の破壊の後にただ独り輝く自らを表している。
210.
グルの姿をとった至高なる主は、至高なる言葉(パラ・ヴァーク)を通じ、言葉なく唯一の音節を表し、ジニャーナの炎をともし、彼の弟子の純粋なハートの内で自我を燃やす。彼が与えるヴィブーティとは、自らの復活である。
The Supreme Lord having taken the form of the Guru, lights the Fire of Jnana through His Supreme Speech [Para Vak], proclaiming without words the One Syllable, and thus burns the ego within the pure heart of His disciple. The Vibhuti He gives is the restoration of Self.
サードゥ・オーム:
ヴィブーティは乳牛のふんを密閉したかまどで焼くことにより作られる。シャイヴァ・シッダーンタのおいて、ジーヴァは一般的に「乳牛」として知られており、ここで使われている乳牛のふんはジーヴァのヴァーサナを象徴しており、それが灰へと帰される時、自らのみを後に残す。
39.シャクティとシャーンティ(力と安らぎ)
215.
全能者の恩寵の力である、自らの力にとって不可能なことは何もない。「私は不浄な体である」という概念なるマーヤーの汚れた性質のために、「剣と盾の力を通してのみ可能である」と言う人々もいる。
Nothing is impossible for Power of Self, which is the power of the Almighty’s Grace. Some people say “It is possible only through the power of sword and shield”, because of the dirty nature of Maya, the notion “I am the filthy body”.
サードゥ・オーム:
この詩節は、インドの自由闘争間の非暴力の神聖な力を通じて達成された成功を説明しています。
216.
力と安らぎが異なるという人々はそれらを正しく知っていない。内に安らぎとして行き渡るものが、外に力として表されている。
Those that say that Power and Peace are different do not know them rightly. What prevails internally as Peace is expressed externally as Power.
B6.
内に向けられたとき安らぎとして体験されるものが、外に向けられたときに力として体験される。深く探求し、実現したジニャーニのみが、安らぎと力が全く同じものであると知っている。
What is experienced as Peace while [the mind is]inward turned, is experienced as Power while [it is] outward turned. Only Jnanis who have deeply enquired and realised [the true nature of Self prevailing during both introversion and extroversion] know that Peace and Power are one and the same.
サードゥ・オーム:
「どちらが難しいか-ダムを建設し、洪水を制御することか、それとも、ダムを破り、洪水を放つことか」ということわざがあります。その習性によって大変な力でもって外をさまよう心を捕らえ、ハートの内に安らかに留めるためには、恩寵の至高なる力が必要です。しかし、心を放ち、そうして心が無数の世界を外側に創造(つまり、想像)し、見るのを許すことは、ほんのわずかの分量のかの至高なる力だけ必要です。それゆえ、創造と維持の力は内なる安らぎのかの至高なる力のちっぽけな反射に過ぎません。もし志ある者がこれを理解できるなら、確実に彼はもはや八つのシッディと全宇宙を創造し、維持する力を獲得することに喜びや驚きを感じないでしょう。
41.シッディへの欲望
219.
彼自身、一切(サルヴァ)を与える用意のある、神から取るに足りないシッディを貪欲に請い求めることは、ちょうど、求められるもの全てを与える気持ちでいる博愛主義者から古くなったかゆを請い求めるようなものである。
To greedily beg for petty siddhis from God, who is ready to give Himself, the All [Sarva], is just like begging for stale gruel from a philanthropist who has the heart to give everything that is asked for.
44.カーヤ・シッディ(不死の体の達成)
232.
他の全ての病を生み出す体が根本の病であることを知らない者だけが、この病を取り除こうとするどころか、体の不死を達成するためにタパスを行うだろう。そのような人々は、単なる雑草に水をやるのに精を出している者のようである。
Only those who do not know that the body is the root-disease which gives birth to all other diseases will perform tapas to achieve bodily immortality, instead of trying to root out this disease; such people are like one who toils hard to water mere weeds.
49.死
247.
原初のもの、一切の源、愛の住処、至福の姿、至高なるジニャーナの虚空である、不死なる自らからさ迷い出ることが、死である。
To stray from the immortal Self, which is the Primal Thing, the Source of all, the Home of Love, the form of Bliss, and the Space of Supreme Jnana, is Death.
51.ハート
261.
ハートは内と外の両方にあると言われているが、真実は内にも外にも存在しない。なぜなら、「内」と「外」という相違の土台である体という現象(見せかけ)自体が、心の概念であるため。
Though the Heart is said to be both inside and outside, it truly exists neither inside nor outside, because the appearance of the body, which is the base of the difference ‘inside’ and ‘outside’, is itself a mental conception.
54.決定的な助言
291.
もし救われることを欲するなら、以下の不可欠な真の助言が与えられる。亀がその甲羅の中にその五つの肢体全てを引き込むのとまさしく同様に、五感を内に引き込み、その心を自らに向けるべきである。これのみが幸福である。
If one wants to be saved, one is given the following true and essential advice: just as the tortoise draws all its five limbs within its shell, so one should draw the five senses within and turn one’s mind Selfward. This alone is happiness.
293.
見られる万物は、わずかの例外もなく、夢でしかなく、見る者なくしてそれ(見られるもの)が存在していないと確かに知り、自ら-サット・チット・アーナンダ-のみに向かえ。心の概念でしかない名と形からなる世界に注意を払うことなく。
Having known for certain that everything which is seen, without the least exception, is merely a dream, and that it [the seen] does not exist without the seer, turn only towards Self – Sat-Chit-Ananda – without attending to the world of names and forms, which is only a mental conception.
297.
自らでない、世俗的な楽しみという灼熱の砂を食べながら、外をさ迷うなかれ。広大で、永続的な、涼やかな影として安らぎが輝いているハートへ帰り来て、自らなる至福の祝祭を楽しめ。
Do not wander outside, eating the scorching sand of worldly pleasures, which are non-Self; come home to the Heart where Peace is shining as a vast, everlasting, cool shade, and enjoy the feast of the Bliss of Self.
56.グル・プージャー(グルの崇拝)
305.
純粋なジニャーナの光り輝く炎である、サッドグルの御足を常に思い、それにすがりつく人たちにとって、そのようなグル・バクティによって得られる恩寵を通じ、彼らの心は澄み渡り、メイ・ジニャーナ(真の知)を達成するだろう。
For those who ever think of and cling to the Feet of the Sadguru, who is the blazing flame of pure Jnana, through the Grace obtained by such Guru-bhakti, their minds will become clear and they will achieve Mei-Jnana [i.e., the true Knowledge].
308.
グル・バクティによるグルの御足の崇拝(つまり、委ね)が、本当のマントラであり、立ち上る一切のヴァーサナを破壊し、マーヤーの錯覚の恐れが存在しないであろうジニャーナを授けるだろう。そのように、あなたは知るべきである。
Worship of [i.e. surrender to] the Feet of the Guru, with Guru-bhakti, is the real mantra, which will
destroy all the rising vasanas and bestow Jnana, in which there will be no fear of Maya’s delusion. Thus should you know.
309.
人は地上を歩く至高なるシヴァに他ならないグルへあらゆる類の崇拝を行うが、自我なる「私」を失い、人の魂の主である彼に溶け込むことが、最良の崇拝である。
Though one performs all kinds of worship to the Guru, who is none other than the Supreme Shiva walking on earth, losing ‘I’, the ego, and merging into [i.e. uniting with] Him, the Lord of one’s soul, is the best of [the modes of] worship.
58.サードゥとの交際
328.
賢明な人々は、無意味に理屈をこねる者たち、そして、正しい道を知ることを通じて自身を内から抑制する代わりに、なんら価値のある目標を持たないことから、からっぽの口をくちゃくちゃと動かす者たちと決して交際しない。
Wise people will never associate with those who are vainly argumentative, and who, instead of inwardly subduing themselves through knowledge of the righteous way, munch their empty mouths, due to their lack of any worthy aim.
329.
その美しい口だけがぺらぺらと喋るが、心が混乱したままである馬鹿げた者たちと交際するならば、降りかかりうる災いは多くなる。持つべき最良の交際は、心を消滅させたことにより、至高なる静寂の中に住まう者たちと共にあることのみである。
Many are the evils that can befall one, if one associates with those mad people whose beautiful mouths alone chatter, but whose minds remain confused. The best association to have is only with those who dwell in the Supreme Silence, through having annihilated their minds.
64.スッダ・アハンカーラ(純粋な「私」)
359.
「私は体である」という自我が消滅する時、制限のない不滅の「私」(自ら)が輝きでる。この「私」の光輝は、地上で汚れた体の中に生を受け、束縛の内に苦しむ自我のごとく架空ではない。
When the ego, ‘I am the body’, is annihilated, the unlimited and unbroken ‘I’ [Self] shines forth. The shining forth of this ‘I’ is not fictitious like the ego, which takes birth in a filthy body on earth and suffers in bondage.
360.
幻想を免れて輝く、自然な、不滅の、常に存在するハートである「私」は、ジーヴァンムクタの内に見られるスッダ・アハンカーラ(純粋な「私」)である。なぜなら、それはどの活動の内にも行為者の感覚を持たない。
Know that the natural, unbroken and ever-existing Heart, ‘I’, which shines free of delusion, is the Suddhahankara [pure ‘I’] which is seen in Jivanmuktas, since it has no sense of doership in any activity.
ジーヴァンムクタ・・・生きているうちに解放を得た者。
365.
この体は十字架である。自我-「私は体である」という同一化-は、イエスである。自らの探求を通じて自我を殺すことが、イエスの磔である。自我の死から自らが生き残ること、それが至高なるものとして輝きでることが、彼の復活である。
This body is the cross. The ego – the identification ‘I am the body’ – is Jesus. The killing of the ego through Self-enquiry is the crucifixion of Jesus. The survival of Self from the death of the ego, and Its shining forth as the Supreme Thing is His Resurrection.
67.無欲
371.(by V・R・D)
欲する対象を得る前は、強烈な欲望がみじんでさえメール山のように見せる。しかしながら、欲する対象が得られる時、まったく対照的に、メール山はみじんのように見える。強い欲望が我々を永遠に貧しくさせているため、決して満足しえない強欲のように満たすことが不可能である底知れぬ深淵を我々を我々はどこにも見たことがない。
Before attaining a desired object, intense desire makes even an atom appear to be Mount Meru. However, when the desired object is attained, in total contrast, Mount Meru appears to be an atom. As strong desires keep us forever impoverished, we have not seen anywhere a bottomless abyss that is as impossible to fill as avaricious desires, which can never be satisfied.
69.アートマ・ヴィチャーラ(自らの探求)
384.
「あなたは誰か。彼は誰か」と外に向かってさらにさらにと探求する態度を放棄し、強い関心もって内に向かい自分自身について「私は誰か」と常に探求することが最良である。
Giving up the attitude of outwardly enquiring more and more, “Who are you? Who is he?”, it is best to always inwardly enquire with great interest about oneself, “Who am I?”
387.
「偽りの感覚を通じて外の世界を見る、この『私』は誰か」という探求を通じて、いたずら好きで飛び回る自我を破壊することにより、メイ・ジニャーナ・パラ・ニシターに永続的に留まることが、真に、人にとって解放を得るための手段である。
By destroying the mischievous and frisky ego through the enquiry, “Who is this ‘I’ who sees the outside world through the deceitful senses?”, to remain permanently in Mei-Jnana-Para-Nishta is truly the means for one to attain Liberation.
マイケル・ジェームズ:
メイ・ジニャーナ・パラ・ニシターは、真実の知識としての至高の住まい(supreme abidance)を意味する。
389.
自惚れた(空虚な)「私」という思いが再び生じないように、心が(感覚を通じて)外に向かうのを抑制し、心の源-ハートとして知られている自ら-に定着させることが、アートマ・ヴィチャーラ(自らの探求)である。
Restraining the mind from going outside [through the senses], and fixing it always in its Source, Self, which is known as the Heart, so that the vain ‘I’-thought will not rise again, is the Atma-Vichara[Self-enquiry].
390.
実在‐意識としてハートの中で輝く至高なるものを知るために、独居に留まることによって、ゆっくりと着実にそれに傾注することなく、大変な熱意を持って(神として)それを外側に探すことは無駄である。(外側にそれを探すことは、)まさに、洪水でおぼれた人を見つけるために、手に覆いのない灯火をもって水の中に潜らんと試みるようなものである。
To know the Supreme Thing, which shines in the heart as Existence-Consciousness, it is useless to search for It [as God] outside with great enthusiasm, instead of slowly and steadily attending to It [as It is] by remaining in solitude. [To search for It outside is] just like trying to dive within the water with a naked lamp in one’s hand, in order to find a person who has drowned in a flood.
マイケル・ジェームズ:
覆いのない灯火は水に触れるとすぐに消えるので、行方不明の人を見つけるために役立たない。同様に、注意が二人称(あなた)と三人称(彼、彼女、それ)に向かっているなら、一人称(私)の現実である至高のものを見つける役には立たない。
「実在かつ意識(つまり、自ら)として輝くアルナーチャラを無視して、外側に神を探すことは、暗闇を求めて灯火を用いることに例えられる」とあるシュリー・アルナーチャラ・アシュタカム(シュリー・アルナーチャラへの8詩節)の4詩節を参照のこと。
391.
五つの覆いの内で輝く自らは、ハートの内で傾注されねばならない。そうすることなく、それを聖典の内に探求することは聖典の探求でしかない。どうしてそれが自らの探求となりうるのか。
Self, which shines within the five sheaths, should be attended to within the Heart. Instead of doing so, to enquire for It in the scriptures is only scriptural enquiry – how can it be Self-enquiry?
393.
自らの探求という純粋な道をとる者たちは決して道から外れない。なぜなら、太陽のごとく、この上なくまっすぐなこの道そのものが、それ独自の議論する余地のない明晰さと比類なさを彼らに明らかにするゆえ。
Those who take to the pure path of Self-enquiry are never derailed because, like the sun, this supremely direct path itself reveals to them its own unchallengeable clarity and uniqueness.
396.(by V・R・D)
過去の習慣の力のために、人の注意は外に引き寄せられる。失念なく、懈怠なく、「私は誰か」尋ねる苦闘である、その注意をアートマ・ヴィチャーラにより自らへと向ける努力こそが、人が戦う神と悪魔の戦いである。
Through the force of past habit one's attention is drawn outwards. The endeavour of turning that attention towards the Self by atma-vichara, which is the struggle to enquire 'Who am I?' without forgetfulness or sloth, is alone the deva-asura battle that one fights.
397.
思いが生じる時はいつでも、わずかでさえ、それを追いかけたり、満たさんとすることなく、まずは「誰にこの思いが起こったのか」尋ねたほうが良い。
Whenever a thought arises, instead of trying even a little either to follow it up or to fulfill it, it would be better to first enquire, “To whom did this thought arise?”
398.
「この思いが生じたのは、私にではないのか-では、私は誰か」、そのように内に尋ねる時、心は戻り、その源に退くだろう。そして、すでに生じた思いもまた、消え去るだろう。
When one thus inwardly enquires, “Is it not to me that this thought has arisen – then who am I?”, the mind will return to subside in its Source, and the already risen thought will also vanish.
399.
このように日々修練する時、不純物が心から取り除かれつつあるため、心はさらにさらに純粋になり、修練はたいそう容易になり、探求を開始するやいなやハートに達するほどまでになる。
When one daily practices in this manner, since the impurities are being removed from the mind, it will become purer and purer to such an extent that the practice will become so easy that the mind will reach the Heart as soon as the enquiry is commenced.
400.
激しい山火事の熱気に耐えきれず、助からんとして茂みから出で来る動物が、必ずも焼け死ぬのとまさしく同様に、ハートに隠れている一切のヴァーサナも、自らの探求の威力なる、ますます燃え盛る火を前に持ちこたえられず、破壊されるだろう。
Just as the creature which come out of the bushes to save their lives, being unable to bear with the heat of the wild forest-fire, are surely burnt to death, so all the vasanas hiding in the Heart will be destroyed, being unable to stand before the growing and blazing fire of the strength of Self-enquiry.
401.
火葬用のまき山をかき混ぜるのに使われる棒とまさしく同様に、「私は誰か」という思いは、他の一切の思いを破壊した後、それ自体、最後には滅びるだろう。そして、至高なる沈黙が永遠に行き渡るだろう。
The thought “Who am I?”, after destroying all other thoughts, will itself finally die just like the stick which is used to stir the funeral pyre, and then the supreme Silence will prevail for ever.
403.(by V・R・D)
火の中で熱された鉄球が、加熱の過程により、火の塊として赤熱するのとまさしく同様に、汚されたジーヴァが、アートマ・ヴィチャーラなる浄めの火の中で熱される時、それはアートマ・スワルーパそのものとして輝くだろう。
Just as a ball of iron heated in a fire glows as a mass of fire by virtue of that heating process, when the jiva that is polluted [by the three defilements] is heated in the purifying fire of atma-ichara, it will shine as Atma-swarupa itself.
406.(by V・R・D)
秩序だった方法で、毎日たゆまず行われる自らの探求なる、賢者の石との接触により、その形が幽霊のごとき自我であるジーヴァは、幽霊の性質、心の汚れなる緑青(ろくしょう)を落とし、シヴァ・スワルーパ、純粋な意識として輝くだろう。
By contact with the philosopher's stone, the self-enquiry performed unflaggingly every day in a systematic way, the jiva, whose form is the ghost-like ego, will shine as Siva swarupa, pure consciousness, losing the verdigris, which is the mind-defilement, ghost-nature.
407.(by V・R・D)
神の子、ジーヴァは、彼の本質を忘れ、嘆き悲しみながら、苦しんでいる。彼が「苦しむ『私』とは誰か」熱心に問い、それによりハートに留まるなら、彼はその輝かしき本質、自らである彼の父との完全な同一性を実現するだろう。
The jiva, the son of God, forgetting his real nature, suffers, crying and lamenting. If he zealously enquires, 'Who is the "I" who suffers?' and thereby abides in the Heart, he will then realise his glorious nature, his complete identity with his father, who is the Self.
71.真の知(意識)の研究
419.(by V・R・D)
感覚器官の知覚対象となる一切の動くもの、動かず、感覚がないように思われるものは、実のところ、純粋な意識である。黄金の装飾品のように、それらは名と形の属性を通じて多くのように見える。しかしながら、その装飾品の真実である黄金がただ一つであるのとまさしく同様に、対象物の真実である意識もまた、その属性を持たない本質のためにただ一つである。それゆえに、(人を感覚のない体と同一視させる)結び目がぷつりと切れ、ハートが開く時、その本質が意識であり、分かれることなく輝くアートマ・スワルーパは付属した意識であるスッタリブから分離し、純粋な意識(そのもの)となり、純粋な存在として輝く。
All the moving, unmoving and seemingly insentient things that become objects of perception for the senses are, in truth, pure consciousness. Like golden ornaments, they appear to be many through their attributes of name and form. However, just as gold, which is the reality of the ornaments, is only one, consciouness, which is the reality of the objects, is also only one because of its attribute-free nature. Therefore, when the knot [that makes one identify with the insentient body] snaps and the Heart opens, the Atma-swarupa, whose nature is consciouness and which shines without division, will separate from the suttarivu, the attributed consciousness, and shine as pure being, becoming pure consciousness [itself].
78.カルタヴヤからの解放
かの惑わす確信、カルタヴヤの概念は、矢継ぎ早に人の苦悩を作り出す、実に邪悪な種であるがゆえ、それから解放されている者たちの内にのみ、静穏の真正な至福がハートから湧き出て、輝くだろう。
Because the kartavya idea, that deluding conviction, is indeed the evil seed that produces in quick succession all of one's afflictions, only in those who have been freed from it will the authentic bliss of tranquillity spring forth from the Heart and shine.
467.(by V・R・D)
心の絶え間ない不安と決まって連れ立っている、「これをせねばならない。あれをせねばならない」という決意によって促され、あたかもする価値があるかのごとく、無益に行為を行うなかれ。魂の中の魂、神を崇拝する真の秘訣は、何であれ神の神聖なる恩寵が命じるように行うことである。
Do not pointlessly perform deeds, as if they are worth doing, prompted by the resolve, 'I should do this; I should do that', which are invariably associated with unceasing anxiety of mind. The true secret of worshipping God, the soul of the soul, is to act in whatever way the divine grace of God dictates.
82.節度ある生活
491.
有り余る富を持つ何人かの人々が多少の贅沢な生活様式を快くやめるのなら、何百万の哀れに苦しんでいる貧しい人々が生きれるだろうに。
If some men of abundant wealth were to give up willingly a few of their luxurious modes of living, millions of pitifully suffering poor could live.
492.
慈悲深い主は全ての生き物に対して必要な食べ物を必要な量だけ作り出す。人が命を保つために必要とされるもの以上を消費するならば、それは他者の食べ物を暴力的に奪う罪である。そのようにあなたは知るべきである。
Since the gracious Lord produces the needful food for all creatures only in the needed quantity, if one consumes more than what is needed to sustain life, it is a sin of stealing violently other’s food. Thus should you know.
84.謙虚
494.
人の偉大さは人が謙虚になる程度まで増す。全世界が礼拝するほどに神が至高である理由は、幻惑された自我が知らず知らずのうちに決して生じることのない謙虚という彼の崇高な境地ゆえである。
One’s greatness increases to the extent one becomes humble. The reason why God is Supreme to such an extent that the whole universe bows to Him, is His sublime state of humility in which the deluded ego never rises unknowingly.
495.
真の偉大さを得ようと努める賢明な大志を抱くものにとって、完全たる無我性が達成されるまで、他の人へ敬意を払うこと(ナマスカーラン)が最良である。逆に、他の人から敬意を受けることは彼にとって実に危険である。
For a wise aspirant who seeks to gain true greatness, it is best to pay his homage [namaskarams] to others until complete egolessness is achieved. On the other hand, it is indeed dangerous for him to accept homage from others.
第二部 真理の熟考
10.知と無知
543.
外側の世界は無数の違い(つまり、様々な名称と形態)を伴ってあるが、それら全ての内なる現実は唯一の自らである。ちょうど、巨大な回転する油絞り機に置かれたごまの種は無数でも、それらの中の唯一の本質が油であるようなものである。
Though the worlds outside are with innumerable differences [that is, with different names and forms], the inner reality of all of them is the one Self, just as, though the sesame seeds put into the big whirling oil-expeller are innumerable, the one substance in them is the oil.
12.目覚めと夢
555.
ジニャーニは夢と目覚めの両方とも幻惑された心の創造物であるという。なぜなら、それらの両方において、思いと名と形が同じ様子で存在している。
Jnanis say that both dream and waking are the creations of the deluded mind. Because, in both of them, thoughts and names-and-forms exist in the same manner.
556.
自我が半ば花開く時、夢があらわれる。自我が完全に花開く時、目覚め(た状態)、満開の無知である世界の現象が出現する。
When the ego is half blossomed, dream appears. When the ego is fully blossomed, waking, the world appearance which is the full bloom of ignorance, comes into existence.
560.
「目覚め(た状態)は長く、夢は短い」と言う答えは、単に質問者への(気休めになるような)答えとして与えられた。(長い短いというような)時間の違いは、心というマーヤーの虚偽に満ちた戯れのために真実であるがごとく見える。
The answer ‘Waking is long and dream is short’ was given as a mere [consoling] reply to the questioner. [In truth, however, no such difference exists, because, since time itself is a mental conception,] the concept of differences in time [such as ‘long’ and ‘short’] appears to be true only because of the deceitful play of maya, the mind.
16.感覚対象物の楽しみ
582.(by V・R・D)
インドラにヴァイラーギャを得させるために、他の一切を上回る自らの至福をすでに享受していた賢者、ダディヤンガタルヴァナ(ダディーチ)は彼に告げた。「自らのこの至高なる至福に比べれば、あなたの妻インドラーニによってもたらされるとあなたが想像する、骨の折れる努力によって得られる至福は、のぼせ上った雄犬が雌犬から苦も無く得るそれのように取るに足らないものである」。
In order to enable Indra to attain vairagya, Dadhyangatharvana, a sage who was already enjoying the bliss of the Self that surpasses everything else, told him: ' Compared to this supreme bliss of the Self, the bliss attained by arduous effort, which you imagine comes from your wife Indrani, is trivial as that which an infatuated dog effortlessly derives from a bitch.'
神々の王、天界の支配者というインドラの地位は、多くの人生にわたって行われた熱心なタパスによって得られうるものです。この骨の折れる努力全ての成果は、王としての転生であり、その人生は絶え間ない快楽を享受することに費やされます。インドラの王妃、インドラーニと性交することは、この熱心なタパスがもたらす快楽の一つです。しかしながら、この詩節が指摘するように、これらの快楽、数多くの人生にわたって行われる熱心な努力に与えられる報酬は、自らの実現がもたらす至福に比べ、交尾する犬によって享受される快楽同然です。
583.(by V・R・D)
猛烈に腹が痛んでいる、極度に飢えた人にとって、プッラリシからできたお粥でさえおいしいごちそうになる。それゆえ、この古い世界において、あなたのもとにやって来る楽しみは、欲される対象の質ではなく、ただそれへの渇望(の強度)次第であるに過ぎない。
For a person in extreme hunger, whose bell is griping violently, even gruel and porriage made from pullarisi becomes a delicious feast. Therefore, in this ancient world, the pleasure that comes to you is not dependent on the quality of the object desired but only on the (intensity of the) graving for it.
プッラリシとは、その種が飢饉の間にしか食べらない野生の草である。
586.(by V・R・D)
意識の至福を体験していない、それら無知な人々は、卑しむべき女性器の快楽に始まると言われれる他の快楽を高く評価し、それらにもてあそばれるだろう。その死の瞬間でさえ、彼らは快楽を渇望しながら、やせ衰え、死ぬだろう。
Those ignorant people who have not experienced the bliss of consciousness will esteem the other pleasures, said to begin with the pleasure of the despicable female sexual organ, and will be tossed about by them. Even at the moment of their death they will pine away, lusting after them, and perish.
589.(by V・R・D)
たいそう望まれるが、取るに足りない性的快楽は、(分別の)目を失った無防備な人々にのみ求められるにふさわしい。思いによって制限されない至高の至福なる甘美な果実を平らげたいという気高い熱望を集中的に陶冶(とうや)した人々にとって、(この取るに足らない快楽は)最下である。
The much-desired but trivial pleasure of sex is worthy of being sought only by those defenceless people who have lost the eye (of discrimination). To those who have intensively developed the lofty longing to consume the luscious fruit of supreme bliss that is not circumscribed by thought, (this trivial pleasure) is most inferior.
592.
ギー(をくべること)によって、火は燃えあがり、消火されないだろう。ちょうどそのように、欲望を満たすことによって、欲望の火は決して退かないだろう。
Just as by [feeding it with] ghee, a fire will blaze forth and will not be extinguished, so by satisfying desires, the fire of desire will never subside.
マイケル・ジェイムズ:
ここでの言葉は、タミル語でカーマであり、一般的には欲望、特に愛欲を意味する。
18.無知の表れ
598.
体を「私」と同一視する無知な人々は、ブラフマンを「私」として経験するジニャーニを見て、あたかもジニャーナの至高の境地を定義するように、「見よ、これらの人々がアドヴァイタ(不ニ)の状態にいるなら、どうやって食事をとったり、行為を行ったりなどするのか」と発言する。そのように言いながら、彼らは自分自身の無知をさらけ出している。意識を持たない体を「私」と誤って取り違える無知を。
Ignorant people who identify the body as ‘I’, seeing Jnanis who experience Brahman as ‘I’, remark, as if defining the supreme state of Jnana, “See, if these people are in the state of advaita, how then do they take food, do activities and so on?” Saying thus, they expose their own ignorance – that of mistaking the insentient body for ‘I’.
599.
年頃に達していない少女は、彼女の結婚の式典の豪華さを夫婦の合一だと思い、とても幸せに思う。同じように、内に探求せず、自らを知らない学識あるものは、言葉の上でのヴェーダーンタについて、それを不二の知(アドヴァイタ・ジニャーナ)と思い、たいそう誇り、幸せに感じる。
A girl who has not attained the age of puberty feels very happy, thinking the grandeur of the celebration of her marriage to be conjugal union. Likewise, the learned who have not enquired within and known Self, feel very proud and happy about the verbal Vedanta they prattle, thinking it to be the non-dual knowledge [advaita jnana].
22.障害
617.
優れた信奉者の人生で、雷のように苛烈に生じる多くの苦しみは、彼らの純粋な心を(タパスに、つまり、自らに住まうことに)さらにしっかと打ち立てるためのみであり、(そこから)彼らを振り落とすためではない。
The many afflictions which occur with severity like thunderbolts in the life of great devotees are only to establish their pure mind more and more firmly [in tapas, that is, in Self-abidance] and not to shake them down [from it].
618.
彼の人生においてプラーラブダによりやって来る一切の苦しみは、彼の心を鍛え、それにより彼を救うために神の恩寵により送られているということを十分に見分け、知り、大志を抱くものにその苦しみをタパスとして、少しでさえも恐れることなく、辛抱強く耐えさせよう。
Discriminating and knowing well that all the sufferings that come by prarabdha in his life are sent to him by God’s Grace in order to make his mind stronger and thereby save him, let an aspirant bear with them patiently as tapas without being alarmed even in the least.
プラーラブダ(カルマ)・・・サンチッタ(積み重なった)・カルマの一部で、今世で経験されるもの。
619.
鉱石から取り出された宝石が研磨石で磨かれないならば完全な光沢をもたないだろうのとまさしく同様に、真のタパス、人が行っているサーダナは、それに試練や苦難がその中途で与えられないならば十分に輝かないだろう。
Just as a gem taken from the mine will not have full lustre if it is not polished on the grindstone, so the real tapas, the sadhana which one is doing, will not shine well if it is not provided with trials and tribulations on its way.
620.
寺院の巨大な四輪馬車が通りを進み、安全に目的地に到着するためには、通りの両側に向かって走ることによって衝突するのを防ぐ、強力な輪留め楔(くさび)だけでなく、妨害するブロックもまた不可欠である。
For a big temple-chariot to go along the streets and safely reach its destination, not only the strong linchpins but also the obstructing blocks, which prevent it from dashing into anything by running to the sides of the streets, are indispensable.
シュリー・ムルガナールとサードゥ・オーム:
この詩節全体では、例(ウパマナ)だけが与えられていて、「例示されるもの」(ウパメーヤ)は読者が推察するに任せられています。それは以下のように理解されるべきです。「同様に、大志を抱く者が首尾よく彼のタパスやサーダナを完了するためには、欠点のない性格と生活様式だけでなく、プラーラブダを通じてやって来る障害物もまた不可欠である。それゆえ、大志を抱く者は、障害物を辛抱強く受け入れ、それらを恩寵によるものであるとみなすべきである」。例えば、ヴェンカタラーマン青年の兄によって発された、「こんな風である者にどうしてこの全てが(いるのか)」という辛辣な言葉は、辛抱強く受け入れられ、偉大なバガヴァーン・シュリー・ラマナ・マハルシという方を世に送り出しました。このような何気ない言葉によってだけでなく、邪な人々によって引き起こされる故意の問題によってさえ、大志を抱く者の人生に大変良い結果を生むでしょう。
23.マーヤーの不可思議
621.
常に存在しているものは、実のところ、ただ一つ(つまり、自ら)であるのに、そして、その本質は不変であるのに、それが多くのジーヴァになり、多くの善悪のカルマを行い、その結果を得、それによって、太古の時代から今まで、四つの道で七種の無数の生まれを持ち、終には解放を得ることに成功するように見えるのは、なんと不可思議なことか。
Though that which ever exists is truly only one [namely Self] and though Its nature is non-becoming, what a wonder it is that It appears to have become many jivas, to be doing many good and bad karmas and reaping their results, and thereby, from time immemorial till now, to be taking in four ways innumerable births of the seven types, and finally to succeed in attaining Liberation.
サードゥ・オーム:
生まれる4つの道は、種子、蒸散?、卵、子宮を通じてであり、7種の生まれとは、デーヴァ(神々)、人間、(四足)獣、鳥、足のない生き物、水にすむ生き物、植物である。
生まれる4つの道は、種子、蒸散?、卵、子宮を通じてであり、7種の生まれとは、デーヴァ(神々)、人間、(四足)獣、鳥、足のない生き物、水にすむ生き物、植物である。
34.神聖なる五つの働き
あなたは知るべきである。ありとあらゆる世界において、イーシュワラによって、彼の意思、彼の法、彼の計画を通じ、行われる五つの活動が、絶え間なく、ありとあらゆる瞬間に、秩序だった方法で起こっていると。
You should know that in each and every universe the five activities performed by Iswara, through his will, his law and his plan, take place in an orderly way, unceasingly, at each and every moment.
40.清浄
汚物の肉塊である体は、たとえ多くの浄化法を通じて何度も何度も洗い清められても、九つの穴から汚物を繰り返し生じる。これに気付くや否や、あなたは体に対する嫌悪を養い、それへの愛着を完全に放棄すべきである。この目的のためにのみ、聖典は体の清浄を強調している。
Even though the body, a freshly lump of filth, is cleansed again and again through many cleansing practices, it repeatedly generates filth through the nine orifices. On noticing this you should develop disgust for the body and completely abandon attachment to it. It is for this purpose alone that the scriptures emphasise bodily purity.
681.(by V・R・D)
ヴェーダは、男性は女性と結婚し、家住者として生活すべきであると定めている。この規定は、性交のつまらない快楽を求める欲望の放棄をその目的として持っていないのか。同様に、ヴェーダが多くの言明の中で、ヤーガ(供犠)の執行を支持し、称揚しているのは、天界などの一切の楽しみへの嫌悪と放棄を養うためではないのか。答えよ!
The Vedas ordain that a man should marry a woman and live as a householder. Does not this ordinance have as its intention the renunciation of the desire that a person has for the trivial plasure of sex? In the same way is it not to develop disgust for and renunciation of all the enjoyments of heaven, and so on, that Vedas, in many statements, extol and advocate the performance of yagas( ritual oblations)? Answer me!
ムルガナール:
体の清浄、家住者の生活、供犠の執行-そのようなヴェーダの指示は、(不愉快な真実を)オブラートに包んだ表現であると思うべきである。
47.プラーナーヤーマ(呼吸の制御)
701.
「私は体である」という概念を完全に捨て去ることが、レチャカ 。「私は誰か」という鋭い探求を通じて内に沈潜することが、プーラカ 。「私はそれである」として自らと一つに留まることが、クンバカ 。これが、ジニャーナ・プラーナーヤーマである。
Completely giving up the notion ‘I am the body’ is rechaka; diving within through the subtle scrutiny ‘Who am I?’ is puraka; and abiding as one with Self as ‘I am That’ is kumbhaka–such is jnana-pranayama.
ヨーガのプラーナーヤーマでは、レチャカは「息を吐く」、プーラカは「息を吸う」、クンバカは「息を止める」を意味する。
51.神聖な名
716.(by V・R・D)
「私」という感覚に注意を集中し、あなたがただ絶え間なく、かの最初の名、「私‐私」を思うだけでも、その修練は、あなたを体とつなげる自我の萌芽である、「私」なる錯覚の思いが生じる源へとあなたを連れ行くだろう。
Even if you do nothing more than unceasingly think of that first name 'I-I ' with the attention focused on that 'I' sense, that practice will take you to the source from where rises the illusory thought 'I', which is the embryo of the ego that connects you to the body.
バガヴァーン:
「私」として体に生じるものが心です。人が「体のどの場所に『私』という思いが初めに生じるのか」尋ねるなら、それはハートにと知られるでしょう。それが心の誕生の地です。人が絶え間なく「私-私」と思っても、それはその場所に通じるでしょう。(「私は誰か」、随筆版、The Path of Sri Ramana Part One, p.185.より)
54.バクティとヴィチャーラ
727.
人に神の恩寵という偉大なる支えが授けられているのか、いないのか疑わせないようにしよう。なぜなら、束縛からの解放をたいそう好み、心が探求に大変に関心があるという事実そのものが(神の恩寵が授けられているという)十分な証拠である。
Let one not doubt whether God’s Grace, the great support, has been bestowed on one or not, for the fact that one’s mind is much interested in enquiry, having a great liking for release from bondage, is itself sufficient proof [that God’s Grace has been bestowed].
62.探求の助け
761.
ジャパを幾度も継続して行うことにより、神の(名と)形に愛を持って瞑想することにより、食事の規則を守る(つまり、適量の純粋な食物をとること)ことにより、過去の傾向は弱められてゆき、心は一点に集中し、力を得る。
By continuously doing japa many times, by meditating with love upon a [name and] form of God, and by observing diet restrictions [that is, taking only sattvic food in moderate quantities], the mind will become one-pointed and will gain strength, the past tendencies having been weakened.
762.
象の鼻の落ち着きのない性質が鼻がつかまる鉄の鎖によりたやすく抑えられるのとまさしく同様に、卑しく、弱い心のこっそり(または、惑わす)さ迷う性質は(心がつかまる神の)名と形によって抑制される。
Just as the wandering nature [chalana] of an elephant’s trunk is easily restrained by the iron chains which it holds, so the stealthy [or illusive] wandering nature of the base and weak mind will be restrained by the name and form [of God which it holds].
63.サーダナの終わり
765.(by V・R・D)
これを知るべきである。トリプティスから生じる相違が経験される限り、サーダナ(修練)は絶対的に不可欠である。トリプティス(の経験)から、混乱させる概念である自我が消滅していないと結論できる。
This you should know: so long as the differences that arise from the triputis are experienced, sadhana is absolutely indispensable. One can conclude from the (experience of) the triputis, that the ego, the deluding concept, has not perished.
トリプティス・・・「見る者、見られるもの、見るという過程」などの3つ組のこと。
68.サーダカの行い
786.
己が義務(つまり、自らへの定着なる真のタパス)を行い始めた人々にとって、純粋な不二の自らの境地から単に滑り落ちることですら罪科であると言われているとき、彼らにとって他人の問題に口出しすることがどうして適切となるだろうか。
When it is said that even the mere slipping down from [abidance in] the state of the pure non-dual Self is a crime for those who have started to do their duty [namely the true tapas of Self-abidance], will it on consideration be proper for them to interfere in the affairs of others?
サードゥ・オーム:
ティルクッラルの266詩節で、ティルヴァッルヴァルは、「タパスを行う人々のみが、己の義務を行う人々である」と言います。そのため、大志を抱く者の第一の義務、ダルマは、自らに傾注し、留まるという真のタパスを行うことです。それゆえ、自らへの傾注の怠慢とは、己の義務、ダルマから滑り落ちることです。言い換えれば、他の物事に傾注することは、アダルマの罪です。そうであるとき、大志を抱く者が他人の問題に口を出すなら、さらにどれほど罪深くなるでしょうか。
もし人が他者の中に良き性質だけを常に見て、悪しきを見ないなら、その人生はとても快く、うんざりする余地はないだろう。
If one always sees only the good qualities in others instead of seeing any bad, one’s life will be very pleasant, having no room for any disgust.
789.
おお、心よ。偉大なる方々があなたに対して親切であるのは、あなたが自己中心的でない甘美な性質を得ているからではない。それはただ、あなたの積もり積もった欠点を気に留めずに許す、彼らの偉大さゆえである。そのように知れ。
O mind, it is not because you have attained egoless, sweet qualities that Great Ones are kind towards you; it is only because of their greatness of forgiving all your accumulated defects without minding them. Know thus.
790.
過(あやま)つことは、人間の性質である。されど、徳行厚き人々が過つなら、威信を保たんとしてその過ちを隠すのでなく、過ちを認め、心改めることが彼らにとって良きことである。
To err is human nature; yet if those who are strong in having virtuous behaviour err, it is good for them to admit their errors and to reform themselves, instead of hiding them in order to maintain their prestige.
791.
あらかじめ決められた規則(ニヤマ)は、長い道のりにわたり助けとなるため、受け入れられ、遵守されるのにふさわしい。しかし、それらが至上の修練である真の知の探求(メイ・ジニャーナ・ヴィチャーラ)の妨げになる(と分かる)時、無用であるとして放棄せよ。
Since the prescribed observances [niyamas] help one for a long distance, they are fit to be accepted and observed. But when they [are found to] obstruct the highest practice, the enquiry for true knowledge [mey-jnana-vichara], give them up as useless.
792.
あなたが望むようにあなたの望むものが何であれ得られた時、「それは自分のタパスの力による」と思うなかれ。それは神の恩寵によると知り、彼の御足をよりいっそう愛せ。
When whatever you desire is obtained as you desire, do not think that it is due to the power of your tapas. Knowing that it is because of God’s Grace, love his Feet more and more.
794.(by V・R・D)
サーダカの努力が失敗に終わるとき、この利益は、自らの実現は、個人の努力によってでなく、グルの恩寵によってのみ得られうることを彼に理解させ、そうして、サーダカがグルによって授けられる涼やかな恩寵を求めるように準備をさせることである。
When the sadhaka's efforts result in failure, the benefit of this (effort) is to make him understand that Self-realization can only be attained by Guru's grace, and not by personal exertion, thus preparing the sadhaka to seek the cool grace bestowed by the Guru.
どのような策略をもってしても主を得ることは不可能である
しかし、自らの努力に疲れ果て、
彼を得ることは自らの力の内にないことを
その心の中で明らかに確信し、
自我の迷惑なおふざけが
完全に静められた人々にとって
彼はたやすくその手中に落ちるだろう
Sri Ramana Sannidhi Murai, 'Keerthi Tiruvahaval', lines 343-346.
73.博愛(人類愛)
807.
人は他者に与える一切をただ自分自身にのみ与えている。この真理が知られるなら、誰が他者に与えるのを控えるのか。
All that one gives to others, one is giving only to oneself. If this truth is known, who will refrain from giving to others?
74.生ける者への憐れみ
811.(by V・R・D)
強者が弱者をその強大な力で迫害するならば、弱者を不断に憐れんでいる神がそれらの虐げる行為を裁き、ふさわしい罰を割り当てると賢者は理解すべきである。虐げられている人々に対して深い同情を抱き行動することは、(賢者の)義務である。
If the strong persecute the weak through their great might, the wise should realise that God, who tirelessly takes pity on the weak, will judge those acts of opression and mete out appropriate punishment. It is the duty(of the wise) to act with compassion towards the oppressed.
82.自我の破壊
849.
黄金からなる装飾品が多くあるのとちょうど同じように、善なるダルマ(正しい行為)はとても多くあると言われているが、全ての装飾品の唯一の真実が黄金であるのとちょうど同じように、それらのダルマの唯一の真実は、自己犠牲(献身)(トゥヤーガ)である。
Though the good dharmas [righteous acts] are said to be so many, just as the golden ornaments are many, the sole reality of all those dharmas is self-sacrifice [tyaga], just as the sole reality of all ornaments is gold.
858. (by V・R・D)
他のどのような手段によってでもなく、あなたの死のみによってのみ、あなたは解放の世界-意識の虚空、分割されないアートマ・スワルーパ-に入ることができる。次に、「どのように死に、存在するのをやめるのか」と聞かれるならば、(答えは)束縛の源である「私」と「私のもの」という幻想の処刑によって、となる。しかしながら、体を殺すことは誤りである。
Only by your death and not by any other means can you enter the world of liberation, the undivided Atma-swarupa, the space of consciousness. If it is then asked, ‘How to die and cease to exist?’, (the answer is) it is only by putting to death the source of bondage, the delusion of ‘I’ and ‘mine’. However, killing the body is wrong.
83.現実の知
867.
存在していないように思われる神のみが、常に存在している。逆に、存在しているように思われる自分自身(個人)は、常に存在していない。そのように自分自身の非存在を知る境地のみが至高のジニャーナであると言われうる。
God, who seems to be non-existent, alone is ever existing, while oneself [the individual], who seems to be existing, is ever non-existent. The state of thus seeing one’s own non-existence [maya] can alone be said to be the supreme Jnana.
第三部 真理の体験
7.心を静める
915.
芽吹く前にさえ、雑草のような三種の欲望(女性、富、名声への欲望)を除き去ること、そして、心を退け、風が作り出した波がない海のように静かにあることが、ジニャーナである。
To root out the weed-like three desires [the desires for women, wealth and fame] even before they sprout out, and to make the mind subside and remain still like an ocean without wind-created waves, is Jnana.
916.
人を苦しみへと投げ入れる原因であるいずれの感覚器官を通じても、僅かでさえ心がさ迷わない時、そして、荒れた海が完全に静まり、穏やかになるように心が静まったままである時、それがジニャーナである。
When the mind does not wander in the least through any of the senses, which are the cause that throws one into misery, and when the mind remains subsided like a stormy ocean which has completely subsided and become calm, that is Jnana.
8.死んでいる心
924.
確信をもって明言する。心が消滅し、もはや思いの形で働いていない時でさえ、ジニャーナンダ(真の知の至福)の住みかとして、時空により制限されているかのように(以前は)(「私はこの体である」として)隠れていた現実(「私は在る」)が依然として存在している。
I declare with certainty that even when the mind is extinguished and is no more functioning in the form of thoughts, there still exists a reality [‘I am’] as the abode of Jnanananda [the bliss of true knowledge], which was[previously] hiding [as ‘I am this body’] as though it were limited by time and space.
18.神の恩寵
969.(by V・R・D)
ジーヴァらは神の恩寵なる天上の川に絶えず浸ったままである。迷妄の支配下にやって来ることにより彼らが経験する気がかりな苦痛や心の悲嘆は、その水が岸に押し寄せるガンジス川の真ん中にいつも住んでいるにもかかわらず、愚かさのため苦痛をもたらす渇きを癒やす方法を知らず、あたかも死んでいるかのごとく苦しむ者のようである。
The jivas remain immersed unceasingly in the ambrosial-flood of God's grace. The anxious distress and the mental grief they experience by coming under the sway of delusion is like a person who, despite living all the time in the midst of the River Ganga, whose waters rush against the shore, does not know the way to quench his tormenting thirst and, through stupidity, suffers as if he were dead.
970.
誰でにでも慈悲深いまなざしを授ける公平な神が、どうして邪悪な人々を見捨てるのか。万物として押し寄せる、その(神聖な)目は、誰も見捨てない。(ある人々を拒絶しているように見えるのは、ただ)ぼんやりした欠点のある見方の惑わし(ゆえ)である。
Why does the impartial God, who bestows [His]gracious glance upon one and all, discard wicked people? The [divine] eye which surges as everything, does not discard anyone; [it is only because of] the delusion of their dim, defective outlook [that it seems to reject some people].
22.(宗教の)調和
989.(by V・R・D)
ジニャーナの極致であるモウナが、それらの共通の本質であるため、全ての宗教は、比類なく、純粋に輝くアドヴァイタの真理への手段として受け入れられる。(それゆえ)それらは不ニのブラフマ・ジニャーナの源であるヴェーダーンタに反していない。
Since mouna, the culmination of jnana, is their common nature, all religions are are acceptable as a means to advatic truth, which shines unque and pure. They are therefore not opposed to the Vedanta that is the source of non-dual Brahma-jnana.
991.(by V・R・D)
外に向かい、己が宗教への愛着から他宗教を論駁するのでなく、内に向かい、真の愛を抱きて修練せよ。いずれの宗教にあなたが信を持とうとも。
Instead of turning outwards, arguing against other religions on account of attachment to your own, turn inwards and practise, with genuine love, whichever religion you have faith in.
27.ジニャーナなる虚空
1007.(by V・R・D)
この世界を足早に駆け回り、聖者らに会い、彼らに平伏し、熱心に現実について尋ねるあなたよ!偉大なるタパスの実践者が完全性を達成するために瞑想する至高の現実をあなたが吟味するなら、それは絶対的に対象物のない意識の虚空と見出される。
You who speedily run around in this world, seeing holy people, prostrating to them, and earnestly enquiring about reality! If you examine the supereme reality that great performers of tapas contemplate to attain completeness, it will be found the absolutely object-free space of consciousness.
1008.
吟味する時、世界を忙しく駆け回り、霊性の師を探しに行く弟子に父なるグルにより示され、与えられたものは、ジニャーナの素晴らしい虚空のみである。
When scrutinized, that which is shown and given by the Guru-Fathers [the father-like Gurus] to the disciples who go in search of spiritual masters, hurrying around the world, is only the wonderful space of Jnana [the mere consciousness ‘I am’].
32.アートマ・スワルーパ
1041.(by V・R・D)
数多くの多様なトリプティスは、必然的に分離できない三つ組として現れ、決して見る者から離れて現れないが、そのどれも人の本質ではない。その現われと消滅のための礎として存在し、それ自身、自らとしてのみ存在し、輝くものが、人の本質である。
Although the numerous and diverse triputis, which invariably appear as inseparable sets of three, never appear apart from the seer, none of them is one's true nature. That which exists as substratum for their manifestation and disappearance, and which exists and shines, merely as itself, the Self, is one's true state.
1051.
各々すべてのジーヴァの内に住んでいるが、知られていない彼、そして、彼の体として彼らを所有し、絶え間なく、倦むことなく、実際にはそれらすべてのジーヴァを活動的にする彼のみが、不死の内なる自ら(アンタラートマ)である。
He who is unknown though residing within each and every jiva, and who is unceasingly, untiringly and efficiently activating all those jivas, having them as His bodies, alone is the immortal inner Self [antaratma].
1052.
自らはただ(車輪の)中央にある動かない車軸でしかなく、常に苦しんでいる、その性質が生じ、滅する自我という心(生命)である回転する車輪の輻(や)ではない。
Know that Self is only [like] the unmoving axle in the middle [of the wheel], and not [like] the spokes of the revolving wheel, which are [similar to] the ever-suffering [or ever-wandering] ego-souls, whose nature is rising and falling [setting].
サードゥ・オーム:
この章の1033、1046、1051、1052、1057詩節で、ジーヴァ(個々の心、自我)とアートマ(現実の自ら)との違いを明確に表わしている。
シャイヴァ・シッダーンタや仏教のような宗教思想の学派で、苦しんでいるジーヴァは「アートマ」(もしくは、ジヴァートマ)として呼ばれているが、シュリー・ラマナの教えや多くのアドヴァイタの聖典においては、「アートマ」という言葉はジーヴァ(自我、もしくは非現実の心)を意味するために使われず、至高の現実を意味するためだけに使われる。それゆえ、読者は、これらの様々な思想の学派間の相違は、「アートマ」という言葉に与えられた意味にのみにあり、個々の心の非現実性についての最終的な結論には見出されないと理解すべきである。
41.無形性
1099.(by V・R・D)
主シヴァは信奉者による繰り返される映像化(を伴う)、長期のバーヴァナーを通じて創造された形をとる。信奉者のため、彼はマーヤー・ウパーディを通じて無数の名と形を帯びるが、シヴァの真理は無形の意識のみである。
Lord Siva adopts the form created through prolonged bhavana [involving] the repeated visualisations by his devotee. Though, for the sake of devotees, he assumes innumerable names and forms through maya-upadhi, the truth of Siva is only formless consciousness.
52.沈黙の偉大さ
1173.
「一切の言語の源であり、現実であり、最大の明晰さを持つ(真の)神聖な言語は(何か)」と問われるなら、その言語は、バニヤンの樹下に座した知の具現者(アートマ・スワルーパ)である主(シュリー・ダクシナームールティ)が説いた沈黙(マウナ)のみである。
If it be asked, “[What is] the [true] divine language, which is the source of all languages, which is real and which possesses the greatest clarity?” That language is only Silence [mauna], which the Lord [Sri Dakshinamurti] who is the embodiment of knowledge [jnana-swarupa] seated at the foot of the banyan tree, taught.
1176.
「それ(現実)は存在する」「それは存在しない」、「それは形を持つ」「それは無形である」、「それは一つ(不ニ)である」「それは二つ(ニ元)である」と、(生じ、)退く、知性(マティ)の鋭さにより、議論するのでなく、常に絶えざる経験である、存在‐意識‐至福という沈黙のみが真の宗教(マタ)である。
Instead of arguing by the sharpness of the intellect [mati], which [rises and] subsides, “It [the reality] exists”, “It does not exist”, “It has form”, “It is formless”, “It is one [non-dual]”, “It is two [dual]”, the Silence of existence-consciousness-bliss [sat-chitananda], which is the ever-unfailing experience, alone is the real religion [mata].
53.純粋な沈黙
1190.(by V・R・D)
至高なる存在、イーシュヴァラは、プラーラブダを完全に使い切らせるために、プラーラブダに従って、ジーヴァを行動させる。プラーラブダの力を通じ、起こると定められていないことは、どれほど試みようとも、起こらないだろう。起こると定められていることは、それを阻止しようとして何を試みるかに関わりなく、起こるだろう。最良の道は、それゆえ、モウナに住まうことである。
Iswara, the supreme being, actuates the jiva in accordance with his prarabdha to make that prarabdha completely exhaust itself. Through the power of prarabdha, that which is not destined to happen will not happen, however much one may try, and that which is destined to happen will happen irrespective of what one may try to do to prevent it. The best course, therefore, is to abide in mauna.
1191.
あらゆることを行う能力を持つ神の掟(ニヤティ)に反しては、誰も何も行うことはできない。(それゆえ、)邪で、不完全な、惑わす心の心配事を捨て去り、(神の)足元で静かにしていることが、最良である。
It is not possible for anyone to do anything opposed to the ordinance [niyati] of God, who has the ability to do [anything and] everything. [Therefore] to remain silent at the Feet [of God], having given up [all] the anxieties of the wicked, defective and delusive mind, is best.
1199.(by V・R・D)
形容しがたいモウナの境地は、内から生じるサンカルパ(思いと欲望)という騒音が止まなければ、花開かない。その内で思いが止んだ者たちは、混沌とした戦場においてさえ、高らかで、完全なモウナを捨て去らない。
The indescribable state of mouna will not blossom forth unless the noise, the sankalpas [thoughts and desires] that rise from within, cease. Those within whom thoughts have ceased will not abandon loud and perfect mouna even in a tumultuous battlefield.
56.ブラフマン
1215.(by V・R・D)
意識に内在する大いなる力であるマーヤーは、原初の完全な存在であるブラフマンから離れて存在していない。彼女が毎日かけごとをするための駒は、ジーヴァ、神、世界いう三つの根本的存在である。彼女の遊びための基礎であるゲームボードは、元始(げんし)の者であり、静かで、至福に満ちたブラフマンである。これは不可思議ではないのか。
Maya, the great power inherent in consciousness, does not exist apart from Brahman, the perfect primal entity. For her to play gambling game every day, her game pieces are the three primal entities: the jiva, God and the world. The game board, the basis for her game, is brahman, the first and foremost one, who is silent and blissful. Is this not a wonder?
1218.(by V・R・D)
動かない基礎であるスクリーンは、ブラフマンである。動かないスクリーン上に現れる動く映像は、ジーヴァ、イーシュワラ(神)、世界である。(スクリーン上で)知覚された一切はマーヤーであると知るべきである。
The unmoving basis, the screen, is Brahman. The moving pictures that appear on that unmoving screen are jiva, Iswara and the world. You should know that everything which is percieved [on the screen] is maya.
59.至高なる現実
1230.
何であれ心によって存在するものとあなたが思ったものは、実のところ、存在しないものである。存在するものや、存在しないものと心に抱くことのできない(つまり、思うことのできない)、かの一者(自ら)のみが、存在するもの(ウッラドゥ)である。
Whatever by the mind you think [or know] to be that which exists is in truth that which does not exist. That one [Self] which you cannot have in your mind [i.e. which you cannot think] either to be that which exists or to be that which does not exist, alone is that which exists [ulladu].
1232.
存在するや、存在しないと(何についても)思わずに、(人が)静かに在ることによって知られ、無形で名前のない自ら、「私」としてハートで常に輝く意識のみが、完全な現実と知れ。
Know that the consciousness which always shines in the heart as the formless and nameless Self, ‘I’, [and which is known] by [one’s] being still without thinking [about anything] as existent or non-existent, alone is the perfect reality.
61.著者の体験の言明
1240.(by V・R・D)
仮に私がグルの指導を通じて生じた経験を言明するならば、それは次のようになるだろう。「以前に私が林立する愛着として知覚した一切は、口に出されないモウナの広がり、真のジニャーナ以外の何物でない。一切の相対的知識は、重要でなく、一つの夢である」。
If I were to declare the experience that arose through the instruction of my Guru, it would be: 'All that I perceived before as a forest of attachments is none other than the unuttered expanse of mauna, true jnana. All relative knowledge, which is insignificant, is a dream.'
1243.
意識の本質(チンマヤ)であり、誤りのないヴェーダの中で現実として輝く統一(プールナ)の中に入り、住まう時、三つの時間(過去、現在、未来)、三つの場所(第一人称、第二人称、第三人称)、そして三つ組(知る者、知るという行為、知られるもの)を見ることは不可能である。
When entering and abiding in the Whole [purna], which is of the nature of consciousness [chinmaya], which shines there in the unerring Vedas as the reality, then it is impossible to see the three times [past, present and future], the three places [the first, second and third persons] and the triads [the knower, the act of knowing and the object known].
チンマヤ・・・文字通りの意味は「ハートにいる者」。また、「意識で満ちた、至福に満ちた」を意味する。ガネーシャ神の別名 ; プールナ・・・完全、統一
- 祝祷 -
1254.
アルナギリに栄光あれ!ラマナ・グルに栄光あれ!唯一の(比類なき)言葉にそって生きる信奉者に栄光あれ!実り(自らの知)をもたらす、グルムールティ(シュリー・ラマナ)の言葉(ヴァーチャカ)からなる見事な花輪(コーヴァイ)である、この「至高なる真理の燈明」(パラマールタ・ディーパム)に栄光あれ。
Glory to Arunagiri; glory to Ramana Guru; glory to the devotees who live by the one [unequalled] word [Sri Ramana’s teachings]; glory to this ‘Light of Supreme Truth’ [paramartha dipam], which is a fine garland [Kovai] of the sayings [Vachaka] of the Gurumurti [Sri Ramana], in giving [its] fruit [Self‐knowledge]!
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