35.
デーヴァラージャ・ムダリアールは弁護士であり、シュリー・ラマナを「私の父と母」と呼び、ラマナの息子-Ramana Sei-と署名したものでした。彼は有名な『Day by Day with Bhagavan』と『My Recollections of Bhagavan Sri Ramana』を著しました。1936年ごろから、ほとんど毎月一度、私はバガヴァーンのもとへ定期的に通い、いつも3日から5日、アーシュラムに滞在しました。1937年に、私はバガヴァーンの恵みの驚くべき証拠を得ました。私の事務所(つまり、チットゥールの破産管財事務所)は監査をうけ、事務員の愚かな間違いの結果、現金残高に70ルピーの不足がありました。それがなくなっていると告げられるとすぐに、私はその額を支払いました。当局が厳格な法的観点をとるならば、この間違いを一時的な横領と呼ぶこともできました。私は公正であるとの良い評判をいつも得ており、それに傷がつくことを恐れたので、ひどくうろたえました。その夜、バガヴァーンが若いバラモンとして夢に現れました。彼は端正で、勇壮な容姿をしており、たやすく、苦もなく、私に近づいてくる大きな蛇を手に取り、脇にのけました。監査報告は私に何の害も与えず、事務員の間違いという私の説明は、それ以上とやかく言われることなく受け入れられました。
私は1939年に法的業務をやめ、アーシュラムに住むことに決めました。そこで、ワンルームの小屋を建てることを許されました。そのような許可は稀にしか与えられず、チャドウィック少佐とヨーギ・ラーミアにのみ与えられていました。
ある時、砂粒が私の目に入りました。ハイデラバードから来た信奉者のG.S.メルコテ医師が目を調べ、「砂は固定されています。ティルバンナーマライの病院にあなたを連れて行かなければなりません。もしそれでうまくいかなければ、マドラスに行くか、もしくは目が永久的に損傷するでしょう」と言いました。
私はたいへんに動揺して、バガヴァーンに心の中で、「私は静かな時間を持ち、あなたと共にいる安らぎと幸福を楽しむために、ここに来ました。このすべてが起こるのは、あなたの意思なのでしょうか」と言いました。それから、私はメルコテ医師に、「ビーバー香のオイルを一滴たらしてみて、滑らかにすることで砂が排出されるか確かめてみましょう」と言いました。彼は同意しました。私たちはバガヴァーンの講堂に行き、何も告げることなく彼の前で平伏しました。それから、バガヴァーンの付き添いの人からビーバー香の油を少し受け取り、医師と一緒に私の部屋に向かいました。角にさしかかる時、私ははっきりと安らぎを感じました。我々が部屋に着いた時、彼は目を調べ、そこに何も見つけませんでした。それから、彼は、「私はどうやって砂が消えたのか説明できません。これは明らかにあなたのバガヴァーンの仕業です」言いました。
アーシュラムに滞在して1日か2日後、そこでの食事が私に合わないことに気づきました。これとは別に、たいてい私はとても少量のお米を食べていました。あるとき、バガヴァーンは私の葉っぱのお皿を見て、「こんなに少しの食事でどうやってやっていけるのですか」と尋ねました。私は、「こんなに少ししか食べないときでさえ、1日か2日後にはお腹の調子が悪くなるのです。私はこの量でさえうまく消化できません」と答えました。バガヴァーンは黙っていましたが、その後、私がアーシュラムに住み続けて、食事をすべて食べても、もうお腹が悪くなることはありませんでした。
私の娘は体が弱く、前の出産から10年ほど間があったので、私は彼女の出産をひどく心配していました。彼女の夫が住む土地で受けることができる医療扶助は最小限のものでした。手紙で、私はこの心配のすべてをバガヴァーンに伝えました。心配する必要はなく、私の娘は安全なお産をするとのアーシュラムからの返信を得ました。これは一般的にアーシュラムから送られる類の返信ではありませんでした。一般的なものは、以下のようなものでした。「我々は、バガヴァーンの恵みにより、出産が安全であることを望みます」。娘の夫に、「ここで私は特に役に立たないでしょう。もし必要があれば電報をしてください」と告げて、私はアーシュラムに帰りました。2・3日の間、バガヴァーンと共にいた後、娘の夫から娘の出産が安全で順調であったという手紙を受け取りました。
1946年の末ごろ、私の兄弟から、マドラスの裁判所で行われる彼と我々の別の近い親戚との間のある訴訟で手助けしてほしいと電話がありました。私は訴訟が公判なしに終わることを熱心にバガヴァーンに祈りました。私はバガヴァーンに、近い親戚が裁判所で訴訟の手続きをし、我々の家庭内の問題がさらされるのは不面目なことであるという内容の手紙を書きました。訴訟が公判に持ち込まれないことを心の中で強く望みました。しかし、両方の関係者とも頑固で、気難しく、歩みよりはとてもありそうにもないことでした。それでもなお、バガヴァーンの恵みは失敗しませんでした。訴訟はなんらの公判なしに終わりましたが、状況から言って、それは私が決して夢にも思えなかったことでした。申し立てが読み上げられた時、私の兄弟に不満を持っていた関係者と弁護士の両方ともが欠席しており、それで訴状が退けられたのです。
どのようにバガヴァーンがサマトヴァ(平等)を実践し、いつも私たちに手本を示して教えたかを描くとなると、まる1冊の本を書けました。彼の前では、高い階級も低い階級も、裕福な者も貧しい者も、男性も女性も、子供も大人も、人間も動物も、みんな同じでした。ちょうど彼自身が皆を等しく扱ったのと同様に、彼はアーシュラムにいる他の誰かより特別な配慮や気遣いが自分に示されるのをけっして我慢しませんでした。
何度も起こったことなのですが、どんな料理や珍味であれ、彼に配られる量が他の人に配られる量より少しでも多いことに彼が気づいた時はいつも、彼はかっと憤って誰であっても責任ある人を叱責したものでした。彼は、「そのようなことをすることによって、あなたは私を辱めています。これよりひどい辱めはありえません」とよく言いました。
昔、ヨーロッパからきた女性が、講堂でバガヴァーンの対面に座っていました。足を交差させて床にしゃがむことに慣れていなかったので、足を前に伸ばしていました。バガヴァーンの付添人の1人はこれをバガヴァーンに対して不敬であると思い、彼女に足を曲げるように頼みました。このかわいそうな女性は、敬意を表すために来たのに不敬なことをしてしまったと感じました。彼女が無念で泣さんばかりな印象を私は受けました。
行為ではなく心を読まれるバガヴァーンは、女性に悲しみが生じたことを気の毒に思いました。彼女にもっとも快適に座れるように座って何の差し支えもないと彼は話しましたが、再び彼女をそうするように説得できませんでした。
膝のリューマチのために短い間以上は足を組んで座ると痛むので、バガヴァーン自身が長いすの上で足を伸ばしていました。しかしながら、今や彼は足を組んでまっすぐ座り、まる一日、再び緩めるようにという説得に応じませんでした。彼は、「これが彼女にとって規則ならば、皆にとって規則です。私も足を伸ばすべきではありません」と言いました。どれだけ私たちが付添人によってなされた愚かな行為を気にとめないようバガヴァーンに懇願しても、彼は全く説得に応じませんでした。次の日になってはじめて、我々はいつも通り彼が好むときに足を伸ばしてもらうことに成功しました。
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