2011年12月18日日曜日

「自らの探求に関する対話」-シュリー・ヤラマンチリの日記から

◇「自らの探求に関する対話(Dialogue on self-enquiry)」(*1)
以下の対話は、1928年にバガヴァーンと会い、自らの探求についてバガヴァーンと議論したシュリー・ヤラマンチリと呼ばれる信奉者の日記に由来するものです。それは1982年の2月に、「Arunachala Ramana」に発表されました。
質問:
 どのようにしてアートマンを実現すべきですか?

バガヴァーン:
 誰のアートマンですか?

質問:
 私のです。

バガヴァーン:
 では、あなた自身がそれを実現しなければいけません。

質問:
 私はそれを実現し、知ることができません。

バガヴァーン:
 誰にそれが知られていないのですか?

質問:
 私自身にとってです。

バガヴァーン:
 その「私自身」は誰か知ろうとしなさい。

質問:
 それはあなたが教えなければならないことです。

バガヴァーン:
 (笑いながら)あなたは私を試しにここに来たようですね。私があなたが何であるか言うなら、本当にあなたのためになりますか?あなたにただ私が言うだけで、あなたは満足しますか?あなた自身に「私は誰か」尋ねなさい。問いかけた後、自分自身の内側からあなたは答えを得て、それはあなたを満足させます。

質問:
 私はサーダナを長い間してきましたが、無駄でした。

バガヴァーン:
 あなたは「アハム(*2)」を探し求めなければならないでしょう。そうすれば、その見せかけの「私」は消えます。

質問:
 その詳しい過程を教えてください。

バガヴァーン:
 心とは、実のところ、思いのかたまりです。そして、全ての思いは「私」から飛び出します。ですから、それは最初の思いです。派生的な思いに溺れずに、探求者は第一(根本)の思いであるこの「私」に集中しなければなりません。

質問:
 ある思いと「私」との間の違いは何ですか?

バガヴァーン:
 思いは独立していません。思いは「私」と関わっている時にのみ、立場があります。しかし、「私」は独りで立てます。実際は、この「私」も独立していません。今度は、それはアートマンに支えられています。

 幾度も幾度も、それは自らから生じ、そこに沈みます。それは深い眠りにおいて退き、目覚めにおいて再び現れます。我々はその誕生の地を内に向けられた視野でもって探しださなければなりません。

質問:
 私はそのように問いかけていますが、答えを得ていません。

バガヴァーン:
 あなたがその質問を熱心に尋ね、内に進むなら、誤った「私」は消え、真の「私」が現れます。

質問:
 真の「私」とは何ですか?

バガヴァーン:
 それは我々が「魂」や「神」と呼ぶものです。

質問:
 私が探求を始める時、膨大な思いがやってきて、道をふさぎ邪魔をします。私が一つ取り除くなら、代わりに別のものが現れます。終わりがないように思えます。

バガヴァーン:
 私はあなたに思いと格闘するように言っていません。あなたがそのように探求を行うなら、終わりはありません。ここに秘密があります。「私」という全ての思いの源があり、我々はそれを捕まえ、それがどこから生じるか確かめなければなりません。これが絶対的に必要です。犬が匂いの跡をたどることにより主人を突き止めるように、あなたは(真の)魂である源に到達するために、「私」の内なる発達をたどらなければなりません。

質問:
 このことから、私は人が自分の努力で源に達することができると理解しました。

バガヴァーン:
 あなたが自分自身を知ろうと欲するようになるのは、神の恩寵によってです。この自分自身を知ろうとする欲求そのものが、アートマンの恩寵の明らかな証(あか)しです。ですから、あなたの努力の源としてすでに働いている恩寵が存在しています。恩寵は自らの外側の性質ではなく、まさにその本質です。それはハートの中に住んでおり、あなたを内にそれ自体へ引き寄せます。あなたがしなければならない唯一の務めは、注意を内に向け、「私」の源を探すことです。これが、あなたが費やさなければならない唯一の個人的努力です。ですから、恩寵のないところには自らの探求への欲求はない、(と言えるの)です。

質問:
 それでは、グルは必要ないのでしょうか。

バガヴァーン:
 必要な時に、自らそのものが外側のグルの形をとり、その過程へあなたを誘(いざな)います。彼はあなたを内へ押し入れ、すでにそこにいる内なるグルにあなたを手渡します。終には、ハートに住まうアートマンがそこであなたを抱擁します。

質問:
 では、この方法の際立った特徴が何であるか教えていただけるでしょうか。

バガヴァーン:
 「私」という実感はいつも我々の中にあります。ですから、自らからの放射物である、この「私」を通じて自らを見出すことは比較的簡単です。さらに、「私」が多くの形に枝分かれする前に、この方法を通して「私」という元々の形に我々の注意を向けるなら、それは源での「私」の直接的な解消に通じます。

 そうでなく、あなたが「私」がすでに多くの形をとった時に探求を始めるなら、あなたはその惑わす力に押し流され、その源には決してたどり着きません。

質問:
 自らは名前がなく、無形です。それでは、名と形を持つ、この「私」を問うことによって、どうしてそれを見つけられるのですか。

バガヴァーン:
 偽の「私」、または、自我は、魂と体の間に位置し、それらをつないでいます。魂は意識あるものですが、体は意識をもちません。偽の「私」はそれらを結び合わせています。そのため、それは精神と物質の間の結び目(チット・ジャーダ・グランティ)(*3)とも言われています。

 このことから、我々はそれがその足を自らに置き、その頭を体に置いていることが分かります。それゆえに、自我の起源を探求することによって、容易に無形の自らに進み、到達できるのです。

(*1)http://sri-ramana-maharshi.blogspot.com/2008/05/dialogue-on-self-enquiry.htmlからの翻訳です。
(*2)アハム・・・「私」
(*3)チット・ジャーダ・グランティ・・・チットは「意識」、ジャーダは「意識がないもの」、グランティは「結び目」。

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