2011年12月23日金曜日

『マハルシの福音』 第2巻 第3章 ジニャーニと世界

◇『Maharshi’s Gospel -The Teachings of Sri Ramana Maharshi』 2009年15版、p46-53

マハルシの福音

第2巻 第3章 ジニャーニと世界 


信奉者:
 世界はジニャーニ(*1)よって知覚されますか。

マハルシ:
 誰からの質問ですか。ジニャーニから、それとも、アジニャーニ(*2)からですか?

信奉者:
 アジニャーニからと認めます。

マハルシ:
 世界が、その現実性についての問題を解決しようと努めていますか。疑問は、あなたに生じます。まずはじめに、疑う者は誰か知りなさい。その後、世界が現実か、現実でないかじっくり考えなさい。

信奉者:
 アジニャーニは、世界とその対象物を見て、知ります。それらは彼の触覚や味覚などに影響します。似た方法で、ジニャーニは世界を経験しますか。

マハルシ:
 あなたは世界を見ることや知ることについて話します。しかし、(いなければ対象の知識はない)あなた自身、(対象を)知る主体を知らなければ、世界、知られる対象の本質をどうして知ることができますか。疑いなく、対象物は体と感覚器官に影響しますが、その質問が生じるのは、あなたの体にですか。体は、「私は対象を感じる。それは現実だ」と言いますか。それとも、世界が、「私、世界、は現実だ」とあなたに言いますか。

信奉者:
 私は世界についてのジニャーニの視点を理解しようとしているだけです。自らの実現の後、世界は知覚されますか。

マハルシ:
 世界や自らの実現の後で世界に起こることについて、どうして心配するのですか。はじめに自らを実現しなさい。世界が知覚されてもされなくても、どうだっていいでしょう。眠っている間の世界を知覚しないことによって、あなたの探求においてあなたを手助けする何かを得ますか。逆に、世界の知覚によって、今、あなたは何か失うでしょうか。ジニャーニにとってもアジニャーニにとっても、世界を知覚するかしないかは全く重要ではありません。世界は両者によって見られますが、彼らの視点は異なります。

信奉者:
 ジニャーニとアジニャーニが似た方法で世界を知覚するなら、彼らの間の違いはどこですか。

マハルシ:
 世界を見て、ジニャーニは、見られる全ての礎(いしずえ)である自らを見ます。アジニャーニは、彼が世界を見ても見なくても、彼の真の存在(Being)自らを知りません。

 映画ショーのスクリーン上の動いている映像を例にとりましょう。上映が始まる前、あなたの前に何がありますか。スクリーンだけです。そのスクリーン上で、あなたはショーを全部見て、見る限り、その映像は現実的です。しかし、その映像をつかもうとしに行ってみなさい。あなたは何をつかみますか。とても現実的に見えた映像がその上にあったスクリーンだけです。上映後、映像が消えるとき、何が残りますか。再び、スクリーンです!

 自らもそのようです。それのみが存在します。映像は行き来します。あなたが自らにつかまるなら、映像という現象(見せかけ)に騙されないでしょう。また、映像が現れても消えても、全くどうでもいいことです。あたかも映像がスクリーンと別に存在するかのように、スクリーンを無視して彼が映像しか見ないように、自らを無視してアジニャーニは世界を現実だと思います。スクリーンがなければ映像はないように、見る者がいなければ見られる物は何もないということを知っているなら、人は惑わさていません。ジニャーニは、スクリーン、映像、それについての視覚が自らでしかないと知っています。映像があれば、自らは顕現した形でいます。映像がなければ、それは未顕現の形のままいます。ジニャーニにとって、自らがどちらの形でいるかどうかは、全く重要でありません。彼はいつも自らです。しかし、ジニャーニが活動的であるのを見ているアジニャーニは困惑(混同)します。

信奉者:
 まさにその点が、自らを実現した人は私たちのように世界を知覚するのかという最初の質問するように私を促したのです。そして、彼が知覚するなら、昨日、写真が不可思議に消えたことについてシュリー・バガヴァーンがどう感じたのか知りたいのですが....

マハルシ:
 (微笑んで)あなたはマドゥライ寺院の写真について言っていますね。数分前に、写真は交代でそれを見ていた訪問者の手を渡って行きました。どうやら写真は彼らが調べていた何かの本のページの間に置き忘れられたようです。

信奉者:
 ええ、その出来事です。バガヴァーンはそれをどう見ますか。写真は熱心に探されましたが、結局のところ、見つかりませんでした。求められたちょうどその時に、写真が不可思議に消えたことをバガヴァーンはどう見ますか。

マハルシ:
 あなたが遠いあなたの祖国、ポーランドに私を連れて行っている夢をあなたが見ているとしましょう。あなたは目覚め、私に尋ねます。「私はこれこれの夢を見ました。あなたも何かそのような夢を見ましたか。もしくは、私がポーランドにあなたを連れて行っていることを何か他の方法で知りましたか」。あなたはそのような質問にどんな意味を持たせるでしょうか。

信奉者:
 しかし、行方不明の写真に関しては、全ての出来事はバガヴァーンの前で起こりました。

マハルシ:
 あなたの現在の質問だけでなく、写真を見ること、その消失も、全て心の働きに過ぎません。

 この点を例示するプラーナの話があります。シータが森の庵(いおり)から行方不明になっていた時、ラーマは、「おお、シータ、シータ」と泣き叫びながら、彼女を探しに出かけました。パールバティーとパラメーシュワラは、森で起こっていたことを上から見ていたと言われています。パールヴァティーはシヴァに驚きを表わし、「あなたはラーマを完全な存在(Perfect Being)だと称賛しました。シータを失い、彼がどのように振る舞い、嘆いているのか御覧なさい!」と言いました。シヴァは、「あなたがラーマの完全性に懐疑的であるなら、あなた自身が彼を試してみなさい。あなたのヨーガ・マーヤー(*3)を通じて、あなた自身をシータの外見に変化させ、彼の前に現れなさい」と答えました。パールヴァティーはそうしました。彼女はシータそっくりの外見でラーマの前に現われましたが、非常に驚いたことに、あたかも盲目であるかのように、ラーマは彼女の存在を無視し、「おお、シータ、おお、シータ!」と大声で叫びながら、以前のように進んで行きました。

信奉者:
 私にはその話の教訓が理解できません。

マハルシ:
 仮にラーマがシータの体の存在を本当に探していたのなら、彼は彼自身の前に立っていた人を彼が失ったシータと認めていたでしょう。しかし、ではなく、行方不明のシータは、彼の目の前に現れたシータと全く同様に非現実であったのです。ラーマは実際には盲目ではありませんでした。しかし、ラーマに、ジニャーニにとって、シータの姿をしたパールヴァティーが現実にいることだけでなく、庵にシータが以前いたこと、彼女の消失、結果として生じる彼の彼女の探索も、全て等しく非現実でした。行方不明の写真がどう見られたか、もう分かりましたか。

信奉者:
 すっかり分かりましたとは言えません。とても多くの方法で、私たちによって見られ、触られ、感じられる世界は、夢や幻のようなものですか。

マハルシ:
 あなたが真理を、真理のみを探究しているなら、あなたにとって、世界を現実でないと受け入れるより他に方法はありません。

信奉者:
 どうしてそうなのですか。

マハルシ:
 世界は現実であるという考えをあなたが放棄しなければ、あなたの心が世界をいつも追っているだろうという単純な理由からです。存在するのは現実だけですが、あなたが現象(見せかけ)を現実と思うなら、あなたは現実そのものを決して知らないでしょう。この点は、「縄の中の蛇」という類比によって例示されます。あなたが蛇を見る限り、縄を縄として見ることはできません。存在しない蛇があなたにとって現実になり、同時に、現実の縄は縄として全く存在しないように見えます。

信奉者:
 世界が究極的には現実ではないと仮に受け入れることは簡単ですが、それが本当に現実ではないという確信を持つことは難しいです。

マハルシ:
 あなたが夢を見ている間、あなたの夢の世界さえも現実的です。夢の世界が続く限り、あなたがその中で見たり、感じたりする一切は現実的です。

信奉者:
 それでは、世界は夢以上のものでないのでしょうか。

マハルシ:
 あなたが夢を見ている間に抱く現実感に何か問題ありますか。あなたは何かまったく不可能な事、たとえば、亡くなった人と楽しく会話する夢を見ているかもしれません。ほんの一瞬、あなたは、「彼は亡くなってなかったかな」と心の中で考え、夢の中で疑うかもしれませんが、どういうわけかあなたの心は夢の映像に黙って従い、夢のためにその人は生きているのも同然になります。言いかえれば、夢は夢としてあなたにその現実性を疑うことを許しません。まさにそのように、あなたはあなたの目覚めている体験の世界の現実性を疑うことはできません。どうして世界を創造した心それ自体が、それを現実でないと受け入れられますか。それが目覚めている体験の世界と夢の世界の間でなされる比較の意義です。両方とも心の創造物でしかなく、心がどちらかに夢中になっている限り、夢見ている間は夢の世界の、目覚めている間は目覚めている世界の現実性を否定できないことに心は気づきます。逆に、あなたが世界からあなたの心を完全に引き戻し、内に向け、このように留まるなら、つまり、あなたが全ての体験の礎である、自らに常に目覚め続けているならば、あなたは世界が、あなたは今それだけを意識していますが、あなたの夢の中であなたが住んだ世界とまさしく同様に非現実であると気づくでしょう。

信奉者:
 私が前に言ったように、私たちは多くの方法で世界を見て、触れ、感じます。これらの感覚は見られたり、触れられるなどした対象物への反応であり、人それぞれ異なるだけでなく、同じ人に関しても異なる、夢の中でのような心の創造物ではありません。それは世界の客観的現実性を証明するのに十分ではないですか。

マハルシ:
 不一致やそれを夢の世界に帰する、この全ての話は、あなたが目覚めている、今だけ起こります。あなたが夢見ている時、夢は申し分なく統合された完全なものでした。言いかえれば、あなたが夢でのどの渇きを感じたなら、幻の水を幻で飲むことが幻の渇きを確かに潤しました。しかし、夢自体が幻であるとあなたが知るまでは、この全てはあなたにとって現実的であり、幻ではありませんでした。目覚めている世界も同様です。あなたが今持つ感覚は、世界が現実であるという印象をあなた与えるために調整されています。

 逆に、世界が独立して存在する現実(それは、世界の客観性ということで、どうやらあなたが言わんとすることのようですが)であるなら、眠っているときに世界があなたに姿を現すことを何が妨げているのですか。あなたは、「私が眠っているとき、私は存在していなかった」とは言いません。

信奉者:
 私は私が眠っている間の世界の存在も否定しません。その間中ずっと世界は存在し続けています。私が眠っている間に私が世界を見ていなくても、眠っていない他の人たちがそれを見ました。

マハルシ:
 眠っている間に自分が存在していたと言うために、それをあなたに証明するために他の人々の証言を求める必要がありましたか。今、どうして彼らの証言を求めるのですか。あなた自身が目覚めている時にだけ、その「他の人々」は(あなたが眠っている間に)世界を見たとあなたに言うことができます。あなた自身の存在に関しては違います。目覚めるとすぐ、あなたはぐっすり眠ったと言います。ですから、その程度は、最も深い眠りの中で、あなたはあなた自身に気づいていますが、その時、あなたは世界の存在を少しも認識していません。あなたが目覚めている今でさえ、世界が、「私は現実である」と言いますか、それとも、あなたがですか。

信奉者:
 もちろん、がそれを言いますが、私はそれを世界について言います。

マハルシ:
 それでは、あなたが現実であると言う、その世界が、あなたを全く馬鹿にしています。なぜなら、自分自身の現実をあなたは知らないのに、世界の現実性を証明しようと努めているからです。

 あなたはどうにかして世界が現実であると主張したいと思っています。現実の基準とは何ですか。独りで存在し、独りで姿を現し、永遠で、不変であるものだけが、現実です。

 世界は独りで存在しますか。心の助けなしに、かつて世界は見られましたか。眠るとき、心も世界もありません。目覚めているとき、心があり、世界があります。この不変の共存は何を意味しますか。あなたは帰納論理学の原則に親しんでいます。それは科学的探究の土台に他ならないとみなされています。どうして、それらの一般に認められた論理の原則に照らして、この世界の現実性の問題を解決しないのですか。

 あなた自身について、「私は存在する」とあなたは言えます。つまり、あなたの(存在)は単なる存在ではなく、あなたが意識している存在(Existence)です。実際、それは意識とまったく一致した存在(Existence)です。

信奉者:
 世界は、それ自体を意識していないかもしれませんが、それでも存在します。

マハルシ:
 意識は、常に意識です。あなたが何を意識していようとも、あなたは本質的にあなた自身を意識しています。自意識のない存在は、名辞矛盾<*1>です。それは全く存在ではありません。それは付属した存在に過ぎませんが、真の存在(Existence)、サットは属性ではなく、それは実体そのものです。それはヴァースツ(*4)です。それゆえ、現実はサット‐チット、存在(Being)意識として知られていて、決して一方を排除した他方だけではありません。世界は独りで存在せず、その存在を意識してもいません。そのような世界が現実であると、どうしてあなたは言えますか。

 それに、世界の性質とは何ですか。永続的な変化、継続した果てしない流れです。依存した、自意識のない、常に変化する世界が、現実のはずはありません。

信奉者:
 西洋の経験科学が世界を現実とみなしているだけでなく、ヴェーダなどもまた世界とその起源について複雑な宇宙論的描写を提示します。世界が非現実であるなら、どうしてそれらはそうしなければならないのですか。

マハルシ:
 ヴェーダなどの本質的な目的は、不滅のアートマンなる本質をあなたに教え、権威を持って「汝はなり」と宣言することです。

信奉者:
 受け入れます。しかし、ヴェーダが世界を現実とみなさないならば、それはどうしてたいそう長く引き伸ばされた宇宙論的描写を提示しなければならないのですか。

マハルシ:
 あなたが理論において受け入れたことを実践に適用しなさい。残りはほっておきなさい。シャーストラは、あらゆるタイプの真理の探求者を導かなければいけません。そして、全ての人が同じ心の構成ではありません。あなたが受け入れられないことは、アルタ・ヴァーダ、補助的な主張として扱いなさい。

↓「Maharshi's Gospel]の用語集から
(*1)ジニャーニ・・・自らの知を達成した人
(*2)アジニャーニ・・・自分自身の本質について無知な人
(*3)ヨーガ・マーヤー・・・あるものの本質を隠し、幻の見かけを作り出す力
(*4)ヴァースツ・・・現実、究極的実体
↓shiba注
<*1>名辞矛盾・・・言葉の上で矛盾していること、「丸い四角形」など。

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