2013年11月29日金曜日

ジニャーニの心とブラフマン、ジニャーニの振る舞いかた

◇『シュリー・ラマナーシュラマムからの手紙(Letters from Sri Ramanasramam)』

 読みやすいように対話形式にするため、多少訳を変更しています(文:shiba)

1947年2月8日
(90)ジニャーニの心は、ブラフマンそのものである 

 今朝の7時30分ごろ、私は講堂に行きました。中はまったく静かでした。窓の外から燃えている香木の香りが届き、新来の訪問者たちにバガヴァーンがいることを示しました。私は中に入り、バガヴァーンの前でお辞儀して、座りました。バガヴァーンはずっと枕に寄りかかっていましたが、蓮華座で背筋を伸ばして座りました。たちまち彼のまなざしは動きなく、並外れたものとなり、講堂全体が輝きで満たされました。突然、誰かが、「スワーミージ!ジニャーニは心を持ちますか、持ちませんか」と尋ねました。バガヴァーンは優しいまなざしを彼に投げかけ、言いました。

バガヴァーン:
 人が心なしでブラフマンを実現するということはありえません。実現は心がある時にのみ可能です。心はいつも何らかのウパーディ(*1)と共に働きます。ウパーディなくして心は存在しません。ウパーディと関連してのみ、我々は人がジニャーニであると言います。ウパーディなくして、どうして誰かがジニャーニであると言えるのですか。しかし、心なくしてウパーディはどのように働きますか。それは働きません。ですから、ジニャーニの心そのものがブラフマンであると言われています。ジニャーニは、いつもブラフマンを見ています。心なくして見ることがどうしてできますか。それゆえ、ジニャーニの心は、ブラフマーカーラ(*2)やアカンダーカーラ(*3)と言われています。

 しかし、実際には、彼の心そのものがブラフマンなのです。無知な人がブラフマンを内に認識せず、外側のヴリッティ(*4)しか認識しないのとまさしく同様に、ジニャーニの体は外側のヴリッティの中を動き回りますが、彼は常に内なるブラフマンのみを認識しています。そのブラフマンは遍く行き渡っています。いったん心がブラフマンの中に失われると、心をブラフマーカーラと呼ぶことは、川を大海のようであるというようなものです。いったん全ての川が大海に失われると、それは巨大な一面の水そのものです。その時、あなたは巨大な一面の水の中で、「これがガンジス川で、これがガウタミ川で、この川はとても長く、あの川はとても広い」などと見分けられますか。心に関してもまた同じことです。

 他の誰かが、「サットヴァはブラフマンであり、ラジャスとタマスはアーバーサ(*5)であると言います。そうですか」と尋ねました。

バガヴァーン:
 ええ!サットとは実在するものです。サットはサットヴァです。それは自然なものです。それは心の微細な働きです。それがラジャスとタマスに触れることにより、心は無数の形を伴う世界を創造します。ラジャスとタマスと接触のみが原因で、心はアーバーサである世界をみて、幻惑されます。あなたがその接触を取り除くなら、サットヴァが純粋で汚されずに輝きます。それが純粋なサットヴァ、スッダ・サットヴァと呼ばれています。この接触は、あなたが微細な心の中で最も微細な心で探求し、それを排除しない限りは、取り除けません。全てのヴァーサナーは抑制されねばならず、心はとても微細にならなければなりません。つまりそれは、最も微細な中でも微細な-アノラネーヤム(極小の内の極小)と言われます。それは極小のものにとっての極小になるべきです。それが極小のものにとっての極小として抑制されるなら、その時、それは無限のものの中の無限、マハトー・マヘーヤムへ高まります。

 それを見ている心や、力を得ている心と呼びなさい。それをあなたが好むどんな名前ででも呼びなさい。どのような名前でそれが呼ばれても、我々が眠る時、心はその全ての活動と共にハートの中に抑えられています。その時、我々は何を見ますか。何も見ません。なぜですか。なぜなら、心が抑制されているからです。我々が眠りから覚め、そして我々が目覚めるとすぐに心があり、サットとブラフマンがあります。目覚めている心がグナへ付着するとすぐに、全ての活動が現れます。あなたがそれらのグナ・ヴィカーラ(*6)を捨て去るなら、ブラフマンがあらゆる所に現れます。それは自ら輝き、自明であり、アハム、「私」です。その時、あらゆるものがタンマヤム(遍く行き渡る)に見えます。ヴェーダーンタの専門用語を見てみなさい。ブラフマヴィド(*7)、ブラフマヴィド・ヴァリシュタ(*8)などが言われ、それからブラフマイヴァ・バヴァティ(*9)と言われます。彼はブラフマンそのものです。それゆえ、我々はジニャーニの心そのものがブラフマンであると言います

 他の誰かが、「ジニャーニは全てに対して絶対的な平等をもって振る舞うと言われていますか」と尋ねました。

バガヴァーン:
 ええ!ジニャーニはどのように振る舞いますか。

マイトリー(慈)、カルナ(悲)、ムディタ-(喜)、ウペクシャ(捨)
そのような他のバーヴァ(態度)は彼らにとって自然となる
幸せな人(スカ)への慈しみ、苦しんでいる人(ドゥッカ)へのいたわり
善を行う人(プンニャ)への喜び、不善を行う人(アプンニャ)への平静
そのような全てはジニャーニの自然な特徴である


 『パタンジャリ・ヨーガ・スートラ』、1章・33(*10)

(*1)ウパーディ・・・制限、特性、変装、乗り物
(*2)ブラフマーカーラ・・・ブラフマンの形、姿
(*3)アカンダーカーラ・・・途切れのない形

(*4)アーバーサ・・・反射、反映
(*5)ヴリッティ・・・(心の)働き、形をかえたもの
(*6)ヴィカーラ・・・変形、変質
(*7)ブラフマヴィド・・・ブラフマンを知る者
(*8)ブラフマヴィド・ヴァリシュタ・・・ブラフマンを知る者の中で最上の者
(*9)ブラフマイヴァ・バヴァティ・・・『マンダカ・ウパニシャッド』の3・2・9に「ブラフマヴィド・ヴラフマイヴァ・バヴァティ(ブラフマンを知る者はブラフマンそのものである」とあります。
(*10)サンスクリット語の原文など色々参考にしており、英文そのままの翻訳ではありません。スワーミー・ヴィヴェーカナンダの英訳では、「慈・悲・喜・捨を、幸福な、不幸な、良い、悪い対象それぞれに関して思うことは、心を落ち着ける」とあります。

2013年11月17日日曜日

R.ラファエル・ハースト氏(ポール・ブラントン)の最初の訪問 - 悟りの探求

◇『大いなる愛と恩寵(Surpassing Love and Grace)』、p14~18

14. 初期の時代から 


 この文章は、スワーミー・オームカーラの1931年9月付の月刊誌「PEACE」から抜粋されたものです。それはポール・ブラントンのシュリー・ラマナーシュラマムの最初の訪問を描いています。彼の著書、『A Search in Secret India』は、初期のころにシュリー・バガヴァーンを広く知らしめるために、他の何よりも役立ちました。ポール・ブラントンが初めてインドに来た時、彼はR.ラファエル・ハーストという名前を使っていました。ポール・ブラントンは彼のペンネームであり、後に彼はそれを永久に採用しました。その名前で記した本によって、彼が大いに知られるようになったからです。

 興味深いことに、一人の外国人記者のアーシュラムへの訪問という出来事が、遠い昔には新聞に書かれるべき重要なことだったのです!

 それは午後4時半のことで、弟子たちは講堂でマハルシの前に座り、ハースト氏と仏教の比丘がアーシュラムを訪問しようとしているという趣旨の新聞に出た告示について話していました。時計は五時を打ち、砂糖菓子を一皿分携えたヨーロッパ人の服装をした男性が、仏教の比丘に伴われて講堂に入って来ました。訪問者らは砂糖菓子をマハルシに差し上げ、ヨーロッパ風にお辞儀した後、共に彼の前の床に座りました。彼らが弟子たちが話していた訪問者たちでした。英国の服装の男性はR.ラファエル・ハースト、当時インドを訪問していたロンドンの記者でした。彼は東洋の宗教的な教えに熱烈な興味を持っていて、その知的研究と理解により、東洋と西洋の間の協調の運動が大いに促進されるだろうと考えました。彼は多くの他のアーシュラムを訪れた後、シュリー・ラマナーシュラマムに来ました。彼と共に来た比丘もまた、生まれはイギリス人でした。彼は依然は陸軍将校でしたが、今はスワーミー・プラジニャーナンダとして知られています。彼はヤンゴンの英国人のアーシュラムの創設者です。訪問者たちは共に魔法にかけられたかのようにマハルシの前で座りました。水を打ったような静寂がありました。

 訪問者たちを連れてきた人が、彼らが何か質問をしたいかどうか尋ねることによって、静寂は破られました。しかしながら、彼らはそのようにする気分でなく、そうして一時間半がたちました。それから、ハースト氏は彼の訪問の目的を述べました。強烈な熱意がこもった声で、彼は靈的な悟りのためにインドへ来たのだと言いました。彼は「私自身だけでなく、西洋の多くの他の人々も東洋からの光を熱望しています」と付け加えました。マハルシは完全に内に引きこまれて座り、まるで注意を払いませんでした。そこに座っていた人々の中の一人が、彼らに比較宗教学の研究のために東洋に来たのかどうか尋ねました。比丘は答えました。「いいえ。我々はそれをヨーロッパでよりよく学べるでしょう。我々は真理を見つけたいのです。我々は光が欲しいのです。我々は真理を知ることができますか。悟りを得ることは可能ですか」。マハルシはいまだ沈黙し、内に引き込まれたままでした。訪問者たちが散歩を望んだので、会話は終わり、みな散りました。

 次の日の朝、訪問者たちは講堂に入り、大変な熱意を持ってマハルシにいくつか質問をしました。以下に再現された会話は、会話が進行している間にとられた大雑把な覚え書きからです。

比丘:
 我々は悟りを求め、至る所を旅しました。どうすれば我々はそれを得られますか。

マハルシ:
 深い探求と継続的な瞑想を通じて。

ハースト:
 西洋では多くの人々が瞑想しますが、進歩の兆候を示しません。

マハルシ:
 あなたはどのようにして彼らが進歩していないと知るのですか。靈的な進歩は簡単には見分けられません。

ハースト:
 数年前、私は至福を垣間見たのですが、次の数年の内にそれは再び失われました。それから、昨年、私は再びそれを得ました。それはなぜですか。

マハルシ:
 あなたの瞑想が自然(サハジャ)になっていなかったために、あなたはそれを失いました。あなたが習慣的に内向きになる時、靈的な至福の楽しみは普通の体験になります。

ハースト:
 それはグルがいないためではないでしょうか。

マハルシ:
 ええ。しかし、グルは内にいます。内にいるそのグルは、あなたの自らと同じです。

ハースト:
 何が神の実現への道ですか。

マハルシ:
 ヴィチャーラ、あなた自身に「私は誰か」と尋ねること、あなたの自らという本質への探求。

比丘:
 世界は堕落した状態にあります。どんどん悪くなってきています。靈的に、道徳的に 、知的に、そして、あらゆる方面において。靈的な師は、混沌から世界を救うために現れるのでしょうか。

マハルシ:
 必然的に。善が衰退し、悪がはびこるとき、は善を元通りにするために現れます。世界はあまりにも善かったり、あまりにも悪かったりしません。それは善と悪が混在したものです。混ざりけのない幸福と不幸は、世界の中に見つかりません。世界はいつも神を必要としていて、神はいつも訪れます。

比丘:
 彼は東洋に生まれるでしょうか。それとも、西洋でしょうか。

 マハルシはその質問に笑いましたが、それに返答しませんでした。

ハースト:
 マハルシはアヴァターラがすでに肉体の内に存在しているかどうか知っていますか。

マハルシ:
 彼は知っているかもしれません。

ハースト:
 神性を達成するための最良の道は何ですか。

マハルシ:
 自らの探求が、自らの実現に通じます。

ハースト:
 靈的進歩のためにグルは必要ですか。

マハルシ:
 ええ。

ハースト:
 弟子が道を先に進むのをグルが手助けすることは可能ですか。

マハルシ:
 ええ。

ハースト:
 何が弟子の立場(期間)の条件ですか。

マハルシ:
 自らの実現への強い望み、熱意、心の純粋さ。

ハースト:
 グルは弟子の世俗的な事柄も管理したいと思いますか。

マハルシ:
 ええ、全てのことを。

ハースト:
 彼は弟子が必要とする靈的な閃きを与えられますか。

マハルシ:
 彼は弟子に弟子が必要とする全てを与えることができます。このことは体験から理解できます。

ハースト:
 グルと身体的に接触していることは必要ですか。もしそうなら、どれぐらいの期間ですか。

マハルシ:
 それは弟子の成熟性しだいです。火薬は一瞬で着火しますが、石炭に火をつけるには時間がかかります。

ハースト:
 務めについて生活しながら、(聖)靈の道に従い成長することは可能ですか。

マハルシ:
 務めと知恵の間に対立はありません。逆に、私心のない務めは自らの知への道を開きます。

ハースト:
 人が務めに従事しているなら、彼には瞑想のための時間がほとんど残されていません。

マハルシ:
 瞑想のために特別の時間を割く必要があるのは、靈的な道の初心者だけです。より進んだ人は、務めに従事していても、していなくても、常に至福を楽しみます。彼の手は社会にあっても、彼は頭を独り冷静に保てます。

比丘:
 メヘル・バーバー(*1)について聞いたことはありますか。

マハルシ:
 ええ。

比丘:
 数年以内に(自分は)アヴァターラ(*2)になるだろうと彼は言っています。

マハルシ 
 全ての人が神のアヴァターラです。「天の王国はあなたがたの内にあります」(*3)。イエス、ムハンマド、ブッダ、クリシュナ、皆があなたの内にいます。真理を知るものは、他の誰をも神の顕現として見ます。

比丘:
 マハルシはメヘル・バーバーについて意見があるでしょうか。

マハルシ:
 どんな意見ですか。それ(外的なアヴァターラの存在)は、真理の探求者が考慮する必要のない問題です。

比丘:
 世界は活力を取り戻すでしょうか。

マハルシ:
 世界を統治している一者(*4)がいて、その面倒を見るのはの仕事です。世界を創造したが、それをどのように導くか知っています。

比丘:
 今、世界は進歩していますか。

マハルシ:
 我々が進歩すれば、世界も進歩します。あなたがあるがごとく、世界もあります。自らを理解せずに、世界を理解することが何の役に立ちますか。自らの知がなければ、世界の知識は役に立ちません。内に潜り、そこに隠されている財宝を見出しなさい。ハートを開き、あなたの真の自らという目通じ、世界を見なさい。覆いを破りさり、あなた自身の自らという神の荘厳を見なさい。

(*1)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC
(*2)アヴァターラ・・・文字どうりの意味は「降下」。神聖な存在が、この世に現れること。「化身」。
(*3)「天の王国(the Kingdom of Heaven)」という言葉は使われていませんが、ルカによる福音書、17章20・21に以下のように記されています-神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちでくるものではない。また、『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ。「天の王国」は、マタイによる福音書によく出てくる言葉のようです。
(*4)一者・・・英語のthe Oneの訳。「絶対者、神」

2013年11月12日火曜日

サーダナに関する様々な対話 - ヨーガ、自らの探求、困難、サマーディ

◇『グル・ラマナ(GURU RAMANA-memories and notes)』、第二部-対話 前書きは省略

第11章 瞑想 


<1> 1936年5月16日

 C氏は1926年に『パタンジャリ・スートラ』を読み、それがどれほど彼に感銘を与えたか話しました。最初の少しのスートラにより、彼は教えの真実性を確信しました。しかし、不運なことに、彼が1936年の始めにシュリー・バガヴァーンに会うまでは、彼に適切な導きを与える人がいませんでした。

バガヴァーン:
 パタンジャリの最初のスートラは、まさしく、ヨーガ全体系の極みです。全てのヨーガはヴリッティの停止を目指しています(*1)。これは聖典の中で言及される多様な方法による心の制御を通じ、もたらすことができます。それは意識からあらゆる思いを取り除き、純粋に保ちます。努力が必要です。実際、努力がヨーガそのものなのです。

C氏:
 努力は目覚めている状態において行われねばならず、当然、モークシャ(*2)はジャーグラット(*3)においてのみ獲得できるということになると思います。

バガヴァーン:
 まさしくそうです。心の制御のためには、自覚が必要です。そうでなければ、努力するべき誰がいますか。あなたは眠りにおいて、または、薬の影響下では努力できません。また、ムクティ(*4)は完全な自覚の中で獲得されねばなりません。なぜなら、現実そのものが純粋な自覚なのです。

C氏:
 自覚以外の何も存在しないようです。というのも、何を知るにも、知識が存在するはずです。我々はそれを乗り越えられません。

バガヴァーン:
 確かに。主観的な知-それ自身を知る知がジニャーナです。それはその時、知る者としての主体、知られるものとしての対象、それらを結ぶ知です。

C氏:
 その場合、その最後が私には明らかではありません。

バガヴァーン:
 どうしてですか。知は、見る者と見られるものをつなぐ光です。仮に、あなたが本を探しに真っ暗な図書館に入るとしましょう。主体であるあなた、客体である本が共に存在しますが、あなたは本を光なしに見つけられますか。光が、あなたを結ぶために存在しなければいけません。あらゆる経験における主体と対象の間のこのつながりが、チット、意識です。それは礎であり、経験の目撃者、パタンジャリの見る者でもあります。

<2> 1936年6月18日

 引退した県の警視は、60歳の誕生日の後、観照的生活を始めるつもりでした。彼は瞑想が深刻な問題であると見出し、(シュリー・ラマナの)弟子に導きを求めて近づきました。しかし、弟子は彼に彼の困難を師の前に置くように助言しました。彼は今日それを行いました。

訪問者:
 バガヴァーン、私は瞑想する時にいつでも、頭に強い熱を感じます。もし私が続けるなら、全身が燃えるように感じます。何が解決策でしょうか。

バガヴァーン:
 集中が脳によって行われるならば、熱の感覚や頭痛さえも結果として起こります。集中は涼やかで、さわやかなハートで行われるべきです。力を抜きなさい。そうすれば、あなたの瞑想は楽になります。侵入してくる一切の思いを優しくかわすことによって、心をしっかりと保ちなさい。ただし、緊張なく。じきに、うまくいきます。

<3> 1936年7月1日

 このアーシュラムにずいぶん前に所属した信奉者は断続的に一種の恍惚状態に陥り、そこで彼は自らでなく、空(そら)のような空白を見ました。彼はそれについてシュリー・バガヴァーンに話しました。

バガヴァーン:
 その空白を見る彼が自らです。

信奉者:
 瞑想は、心の制御によってのみ可能です。心の制御は、瞑想を通じてのみ達成することができます。これは循環論法ではないですか。

バガヴァーン:
 それらは相互依存的です。実際、瞑想は心の制御、侵入する思いへの鋭い注意深さを包含しています。はじめは制御のための努力が実際の瞑想のための努力よりも大きいのですが、やがては瞑想が勝利し、無努力になります。

信奉者:
 そのためにはあなたの恩寵が必要です。

バガヴァーン:
 修練が必要です。恩寵は存在しています。

信奉者:
 瞑想において、心の中で繰り返されるべき言葉はありますか。

バガヴァーン:
 概念の心による復唱以外の瞑想とは何ですか。それは心によるジャパであり、言葉で始まり、自らの沈黙に終わります。

<4> 

 ある訪問者は、彼が自我であると想像するものと戦う時に、瞑想において大変な困難を経験しています。彼は師のもとへ確認のために行きました。

訪問者:
 瞑想において、私は間違った「私」を排除しようと試みますが、これまでのところ成功していません。

バガヴァーン:
 どうして「私」がそれ自身を排除できますか。あなたがなすべき一切は、その源を見つけ、あなたの真の自らとしてそれに留まることです。あなたの努力はそこまで届きます。それを超えては自然に進みます。

訪問者:
 バガヴァーン、あなたはいつも「自らは常に存在する」と言います。私が存在するなら、では、どうして私はそれを感じないのですか。

バガヴァーン:
 あなたは今、あなたが存在していることを感じませんか。あなたの疑問は、あなたが常に存在し続けるのかどうかです。あなたはどうして疑問を持たなければならないですか。少し考えれば、あなたの存在の壊れる部分である体が単なる機械であり、壊れ得ないものである心に仕える道具であるとあなたは確信します。それが一切(all-in-all)、知る者、師であり-あなた自身です。

 あなたの疑問と困難は、あなたの思いから生じます。それは体を知覚し、体をあなた自身と間違えています。あなたの敵(自我)である思いを止めなさい。そうすれば、心はあなたの純粋な存在、不滅の「私」として残ります。それが自我を排除する最良の方法です。

<5> 1937年1月2日

訪問者:
 私はマントラ・ジャパが修練においてとても力強いものであると教わりました。

バガヴァーン:
 自らはすべてのマントラの中で最も偉大なものであり、自動的に、永遠に続いています。あなたがこの内なるマントラに気づかないなら、ジャパとして意識的にそれに専念すべきです。他の一切の思いをかわすために、ジャパには努力が伴います。それへの継続的な注意によって、終には、あなたは内なるマントラに気づくようになります。それは実現の境地であり、無努力です。この自覚の堅固さによって、あなたがどれほど他の活動に従事しようとも、あなたはその流れに途切れなく無努力で保たれます。ヴェーダの朗唱やマントラに耳を傾けることは、ジャパの意識的な復唱と同じ効果があります。そのリズムがジャパなのです。

<6> 1936年7月5日

訪問者:
 どのようにして瞑想中に眠りに落ちるのを防ぐべきですか。

バガヴァーン:
 あなたが眠りを防ごうと試みるなら、それは瞑想中に考えることを意味します。それは避けなければなりません。しかし、あなたが瞑想している間に眠りにすっと入るなら、眠っている間やその後でさえも、瞑想は継続します。しかし、思いであるため、眠りは取り除かねばなりません。というのも、生来の境地は、妨げる思いのないジャーグラットにおいて意識的に獲得されなければならないからです。目覚めと眠りは、生来の思いのない境地というスクリーン上の映像に過ぎません。気づかれることなく、それらを通過させましょう。

<7> 1942年7月27日

 北インド出身の鉄道主任技師が、瞑想における直接の導きを得ようと一月以上アーシュラム滞在しました。

技師:
 私は瞑想において初心者です。どうかバガヴァーンが私を導いてくださいますように。あなたは我々に「私は誰か」探求し続けるように熱心に勧めます。それが私をどこへ導くのか教えていただけますか。

バガヴァーン:
 それは単に尋ねているだけではありません。あなたはその真意へ入らなければなりません。多くの人が体の何かの中心に瞑想して、終にはそれらに溶け込みますが、遅かれ早かれ、彼らは避けることのできない彼らの本質を調べなければなりません。それでは、どうして一直線にあなた自身に集中して、終にはその源に溶け込まないのですか。

技師:
 そうです。20年間、私はあるチャクラに集中しつづけ、ものを見て、音を聞きつづけていますが、まるで真理に近付けていません。今、思いが心に生じるとすぐに、「私は誰か」と問い続ければよいのでしょうか。

バガヴァーン:
 まさしくそうです。あなたが外側の思いにより妨げられない限りは、その真意に留まりなさい。目的は、心の変化の絶え間ない抑制を通じ、「私」という感覚の根元へ到達することです・・・

<8> 1936年11月10日

訪問客:
 私が見る限りでは、押し寄せる思いを防ぐのに完全に成功するまで、自らを実現するのは不可能です。正しいでしょうか。

バガヴァーン:
 少し違います。あなたは他の思いを防ぐ必要はありません。深い眠りにおいて、あなたは完全に思いから自由です。なぜなら、「私」という思いがないからです。目覚めて「私」という思い生じる瞬間に、他のあらゆる思いが自然に押し寄せます。それゆえ、人がなすべき最も賢明なことは、この先導する思いである「私」という思いを捕まえ、それを吟味し-それは誰で、何か-、それによって他の思いに気をそらさせる機会を与えないことです。そこに、ヴィチャーラの真価と心の制御におけるその有効性があります。

<9> 1937年2月19日

訪問者:
 どの瞑想(ディヤーナ)が最良ですか。

バガヴァーン:
 最良の瞑想は、三つの状態すべてで継続するものです。それは「私は瞑想している」と思う余地さえないように力強くならねばなりません。そのように目覚めと夢の状態がそれによって完全に占領される時、深い眠りもまた分化しないディヤーナと考えられるかもしれません・・・

訪問者:
 スシュムナ・ナーディとアートマ・ナーディの違いは何ですか。

バガヴァーン:
 スシュムナは、ヨーガの修練において、つまり、動的なディヤーナにおいてシッディ(超常的な力)の達成のために働く中心的なナーディであり、ヨーギはサハスラーラ、脳に帰着すると主張します。アートマナーディ、パラナーディ、もしくは、アムリタナーディは、ジニャーナ・マールガの静的なディヤーナにおいてハートからサハスラーラへ昇る力の流れであり、自らの実現に通じます。スシュムナは、それを支えるアートマナーディに最終的に溶け込まなければなりません。

 ナーディとは神経構造であり、それに沿って意識がハートから全有機体へ流れます。

<10> 1936年2月12日

 C氏は山から帰る途中のバガヴァーンを捕まえました。

C氏:
 シュリー・オウロビンドーは、ヨーガの修練に影響する二つの力について話します。一方は水平的で、他方は垂直的です。私はそれが分かりません。

バガヴァーン:
 一切の力は、方向を持たない自らから出てきます。しかし、シュリー・オウロビンドーは、頭の中心における集中の結果生じる動的な力(または、クンダリーニ・シャクティ)とハートにおけるヴィチャーラ・ディヤーナの結果生じる静的な力について比ゆ的に話しているのかもしれません。

C氏:(夕方遅くに)
 バガヴァーンはサマーディ、恍惚状態(trance)について話します。私はそれを体の意識の完全な喪失を意味すると理解しています。私はそれを決して達成できないのではと恐れています。私は私自身を眠りにつかせるのさえ難しく感じます。それは自らの実現の前に必要ですか。

バガヴァーン:(笑いながら)
 もしそうなら、あなたはクロロフォルムを吸い込まなければなりません。サマーディは、自らの境地そのものです。あなたは体の意識の完全な喪失をどう解釈していますか。それを一種のカタレプシー(*5)や深い眠りに陥っているとは想像しないでしょう。サマーディにおいて、心はジャーグラットにいますが、しかし、思いなくあり、心はそれが中へ引き込まれるスシュプティ(*6)の至福を楽しみます。サマーディにおいて心はとても注意深くあるため、それはブラフマンを経験します。仮に心がそのように完全に目覚めていないなら、どのようにしてそれがブラフマンを知るのですか。実際、心そのものがブラフマンになります。恍惚状態は、この考えを伝えていますか。でなければ、サマーディを表すには不適切な言葉です。

C氏:
 カルマ・ヨーギやバクタもまた、サマーディを経るのですか。

バガヴァーン:
 サマーディとは、集中と心の制御を通じてハートへ溶け込むことです。カルマ・ヨーギやバクティ・ヨーギもまた、彼らが修練するなら、サマーディを達成します。実際は、彼らの大部分が結局はヴィチャーラの方法によってムクティを達成します。

<11> 1936年7月15日

 C氏はシュリー・バガヴァーンの「40詩節」を講堂で黙読していました。第30詩節が彼を魅了しました。彼は声に出して読み、言いました。

C氏:
 この詩節から、私は探求がハートではなく、心で始めねばならないと理解しましたが、バガヴァーンはいつもハートについて話します。おそらくは、修練の最終段階として。

バガヴァーン:
 まさしくそうです。それは押し寄せる思いを阻止するため、そして、「私」の位置を理解するために、内に向けられた心で始まります。心がついにハートに沈む時、妨げられない至福が圧倒されるほどに感じられます。その時、純粋な自覚から離れていない実感があります。つまり、頭とハートがまったく同じものとなります。

C氏:
 『ヴィヴェーカ・チューダーマニ』の第266詩節においてシュリー・シャンカラーチャーリアは、ブラフマンはブッディ、微細な知性により実現されうると言います。それは知性が大きな助けになりうること、実際、実現に不可欠であることを意味しています。

バガヴァーン:
 「ブッディ」という言葉は、微細な知性として正しく翻訳されていますが、ここで、それは、ハートの洞窟を意味しています。とは言え、微細な知性もまたブラフマンを実現できるので、それゆえ、最も重要です。(声に出して266詩節を読んで)


ブッディの洞窟の中に、ブラフマンがある
それは粗大とも微細とも異なる、絶対的実在
至高であり、他を持たない唯一なるもの
ブラフマンとして、この洞窟に住まう者は、おお、最愛なる者よ
もはや女性の子宮へ入ることはない

<12> 1936年7月30日

C氏:
 『ヴィヴェーカチューダーマニ』では、「私」‐「私」の意識について永遠にハートの中で輝いていると語りますが、誰もそれに気づいていません。

バガヴァーン:
 そうです。目覚め、夢、夢を見ない眠り-どのような状態にいるのであれ、それに気づいていようがいまいが、全ての人が例外なくそれを持っています。

C氏:
 『サット・ダルシャナ・バシャヤ』の対話の部分で、「私」‐「私」は絶対的な意識として言及されていますが、バガヴァーンはかつて私にサハジャ・ニルヴィカルパ以前のどのような実現も知性によるものであると言いました。

バガヴァーン:
 そうです。「私」‐「私」の意識は絶対者です。それはサハジャの前に来ますが、その中にはサハジャ自体の中にあるように微細な知性があります。違いは、後者では形の認識が消えていますが、前者ではそうではありません。

C氏:
 バガヴァーン、あなたは昨日、人間の体には針の先のように小さい穴があり、そこから意識がいつも湧き出ていると言いました。それは開いていますか、それとも閉じていますか。

バガヴァーン:
 それはいつも閉じており、体を意識へ結び付ける無知の結び目です。心が一時的なケヴァラ・ニルヴィカルパの中に沈む時、それは開きますが、再び閉じます。サハジャでは、それはいつも開いています。

C氏:
 「私」‐「私」の意識の体験の間はどうですか。

バガヴァーン:
 その意識が、それを永久的に開く鍵(かぎ)です。

<13>

C氏:
 「私は誰か」という探求は体のどこかの場所へ導きますか。

バガヴァーン:
 明らかに、自らの意識は個々人自身に関係しているために、体の中の中心によって体験の中心として、彼の存在の中で体験されなければなりません。それは機械の発電機に似ていて、発電機はあらゆる類の電気の働きを生じさせます。それは意識的および無意識的に、体の生命やその一切の部分や器官の活動を維持しているだけでなく、物質的次元とより微細な次元の間の関係も維持しており、個人はそこで活動します。また、それは発電機のように振動し、それに注意を払う落ち着いた心はそれを感じることができます。それはヨーギやサーダカにスプラナの名称で知られており、サマーディにおいて意識によってきらめいています

C氏:
 あなたが究極的な意識-「私」‐「私」-と呼ぶものが生じる場所-中心にどのように到達するのですか。単に「私は誰か」と思うことによってですか。

バガヴァーン:
 ええ。それはあなたを連れて行きます。あなたは落ち着いた心で行わねばなりません。心の落ち着きが不可欠です。

C氏:
 その中心-ハート-に達する時、どのようにその意識は現れるのですか。私はそれを認識しますか。

バガヴァーン:
 もちろん、あらゆる思いのない純粋な意識として。それはあなたの自ら、むしろ、実在の途切れのない純粋な自覚です。それが純粋な時、間違えることはありません。

C氏:
 中心の振動する動きは、純粋な意識の体験と同時に感じられるのですか、それとも、その前か、後ですか。

バガヴァーン:
 その両方はまったく同じものです。しかし、瞑想が十分に安定し、深まり、究極的な意識に非常に近い時に、または、突然の大きな恐怖や衝撃の間に心が停止するようになった時にさえも、スプラナは微細な方法で感じられます。それはそれ自体へ注意を引きつけ、その結果、落ち着きによって鋭くなった瞑想者の心はそれに気づくようになり、自然とそれに引き寄せられ、最終的にそれ、自らに飛び込みます。

C氏:
 「私」‐「私」の意識は、自らの実現ですか。

バガヴァーン:
 その前触れです。それが永続的(サハジャ)になる時、自らの実現、解放です。

(*1)『ヨーガ・スートラ』、第1章2詩節、「ヨーガ チッタ ヴリッティ ニローダ(ヨーガとは心の働きの止滅である)」。ヴリッティは、「(心の)働き、変形したもの」とよく訳されます。
(*2)モークシャ・・・解放
(*3)ジャーグラット・・・目覚めている状態
(*4)ムクティ・・・解放
(*5)カタレプシー・・・受動的にとらされた姿勢を保ち続け、自分の意思で変えようとしない状態。統合失調症やヒステリーなどでみられる。蝋屈症。(「デジタル大辞泉」)
(*6)スシュプティ・・・眠り

2013年11月3日日曜日

ナテーサ・アイヤル (アーシュラムの料理人)の思い出

◇『シュリー・ラマナ・マハルシと向かい合って(Face to Face with Sri Ramana Maharshi)』

64.
 ナテーサ・アイヤルはチダンバラムからティルヴァンナーマライへと移り、アーシュラムで料理人としての職を見つけました。アイヤルはマハルシとの滞在と仕事の記述を残しませんでしたが、デイヴィッド・ゴッドマンが彼をよく知っていた信奉者達から情報を集めました。
ナテーサ・アイヤルが世俗を放棄しようという衝動を感じた時、彼は妻と娘を残し、ティルヴァンナーマライへ行き、そこで彼はバガヴァーンに魅せられました。彼が調理場での仕事を始めた時、調理の大部分はバラモンの未亡人の一団によってなされていて、彼を大変激しく働かせました。かつて彼は、1人のやかましい女性から逃げて、結局、5人のもとで働くことになったと笑って言いました。

 ある時、彼が調理場での扱いに疲れた時、彼は誰にも告げずアーシュラムを離れようと決心しました。彼の家に帰る途中で、彼はティルヴァンナーマライから40マイル離れたヴィリュップラムに到着しました。沐浴した後、そこで彼はヴィブーティを額につけ、目を閉じました。そして、彼がバガヴァーンへお祈りをしていた時、彼はバガヴァーン自身が彼の前に立っているのを感じました。「どうやってここに来たのですか」とアイヤルは驚いて尋ねました。バガヴァーンは微笑み、「私から離れてずいぶんと遠くに行ったものですね」と答えました。アイヤルは泣き崩れ、返答できませんでした。

 バガヴァーンの姿はティルヴァンナーマライに向かって歩き始め、アイヤルはためらいなく彼に従いました。その姿はついには消えましたが、アイヤルはバガヴァーンが彼の前にいつもいると感じました。そして、彼はアーシュラムに到着しました。彼が講堂に入り、平伏した時、バガヴァーンは、「私から離れてずいぶんと遠くに来たものですね」と言葉を繰り返しました。アイヤルは崩れ落ち、泣きました。彼は調理場へ戻り、仕事を再び始めました。

 この出来事はアイヤルの中に委ねの過程を起こし、終には、「バガヴァーンは、みながあちこちアーシュラムを動いているのを見る体ではない」という理解に到りました。彼はかつて言いました。「バガヴァーンは我々の心によってはかることのできる何かや、何者かではありません。我々は我々の無知を認め、彼について本当のことを何も言うことができないということを認めなければななりません。私は何もバガヴァーンについて言えません。なぜなら、本当のバガヴァーンは言葉で説明できないからです。それはあなた自身で味わうことによってのみ知ることができる甘美な味なのです」。

 彼がバガヴァーンの付添人であった時にバガヴァーンに行われた手術についての彼の体験を語ることが、彼は大好きでした。彼の言葉によれば-手術の間中のバガヴァーンの振る舞いは、体が単に彼が身につけている何かに過ぎないということをとても明確に示しました。肉が切開され、血が流れ、私は癌性増殖の周りの肉に差し込まれていたラジウム針を見ることができました。バガヴァーンは意識がはっきりしていましたが、彼の腕に行われていた手順に全く無関心でした。我々はみな、バガヴァーンの静寂の力に吸収されました。医者達さえも、それに吸い込まれました。手術が完了した時、医者達は自然にバガヴァーンに平伏しました。彼らの1人は、「私は多くの人々を手術しましたが、このような経験をしたことはありませんでした。部屋には、私が他のどこでも感じたことのない安らぎがありました。それが今まで私が経験した何ものとも異なっていたと言う以外は、それがどのようであったのか言い表せません」と言いました。

バガヴァーンの弟の孫であるV.ガネーシャンの記録

 バガヴァーンが亡くなった数年後、私がアーシュラムの門に近づいた時、ナテーサ・アイヤルがアーシュラム近くの寺院の踏み段に座っているのを見て驚きました。聞いてみると、彼は言いました。「アーシュラムの運営が私に去るように求めました。私は他に行くべき場所がありません。ここは私のサッドグルのアーシュラムです。私はここで座ることに決めました。なぜなら、ここが私がアーシュラムに最も近づける場所だからです」。彼がそのように扱われたことに閉口し、私はアーシュラムの会長である父のもとへまっすぐに行きました。しかし、父は彼を連れ戻すことを拒否しました。

 私は大変に心かき乱され、ムルガナールに会いに行きました。彼はアーシュラムの外の小さな小屋に住んでいました。目に涙をため、私は彼に起こったことを話しました。ムルガナールは私にいたずらっぽく微笑み、尋ねました。「どうしてあなたはこのことを私に話しているのですか。あなたは直接、バガヴァーンのもとへ行き、問題について彼に話せたのに。あなたが彼のサマーディへ行くなら、彼はあなたの言葉に耳を傾けないでしょうか」。私は神殿へ行き、あらん限りの大声で叫びました。「バガヴァーン!不正がナテーサ・アイヤルに行われています!私の心は痛みます!彼を仕事に戻らせて下さい」。幸運にも、私の奇妙な感情の迸(ほとばし)りを目撃する人は誰もいませんでした。バガヴァーンが問題に対処して下さるだろうと自信を持ち、私は平伏し、ギリ・プラダクシナへ出かけました。

 次の日の朝、私がアーシュラムへ行った時、私はアイヤルが調理場の彼のいつもの場所で働いているのを目にしました。尋ねられると、彼は私に、「昨夜、会長があるいて家に戻る時、彼は寺院の前で止まり、私にアーシュラムへ戻って来て、元の仕事を再び始めるよう頼みました」と言いました。

アイヤルの死去に関する、ブパティ・ナーラヤナ・ラジュによる「アルナーチャラ・ラマナ」の1983年9月号の記述

 ナテーサ・アイヤルは前もって自分が死去することを知っていました。彼は意気揚々と私に言いました。「ラジュ、バガヴァーンが私を呼んでいます。私は10日後に行くでしょう」。私が彼に次に会った時、彼は依然として元気でした。「ラジュ、もう5日だけです。私は5日後に行くでしょう」。彼の肉体の状態は衰えていきましたが、彼は依然として力に満ちていました。人々の中には、「彼は頭がおかしくなっている」と言う人もいました。私は何か奇妙なことが起こりつつあると知っていました。彼はとても弱り、流動食さえとることができませんでした。10日目に彼は意識を失いました。しかし、突然、彼の顔がとても晴れやかになりました。活発な口調で彼は尋ねました。「バガヴァーンは来ましたか。今、行きます」。それが彼の口から出た最後の言葉でした。