バガヴァーン・ラマナとバガヴァッド・ギーター
G.V.クルカルニ教授
『バガヴァッド・ギーター』は、ヒンドゥー教の主要な聖典(プラシュターナ・トゥライー(*1)、三つの権威)の一つであるとよく知られています。それは普遍的な聖典であり、「神の歌」です。
バガヴァーン・ラマナは、ギーターと聖書は一つであり、ギーターを常に読むべきであるとよく言っていました。彼は探求者の様々な質問への答えに、しばしばギーターから詩節を引用し、それらを彼独自の真似できない光明を投じる方法で解説しました。
彼がギーターの教えに投げかけた光はまったく独特で、極めて明快で、とても洞察力に富んだものです。これはおそらく彼がその聖典すべてを生き、それゆえ、それをバガヴァーン・シュリー・クリシュナ、もしくは、ジニャーネーシュワラ(*2)のように明確に解説する権威をもっていたからです。彼は言葉の上の博識からでなく、自分自身の絶対的な直接体験から語りました。
バガヴァーンは信奉者により、簡潔にギーターの内容を教えてくださいと頼まれました。彼は42詩節を選び、導きとして役立つように適切な順序に並べました。別の信奉者は700詩節すべてを暗記しておくのは難しいと不満をいい、ギーターの要点として覚えておける1詩節がないのか尋ねました。即座に、バガヴァーンは第10章・20詩節に言及しました。
Aham Atma, Gudakesa, Sarvabhutashayasthitah Aham
Adischa Madhyam cha bhutanam anta eva cha
私は自らであり、おお、グダケーシャ(*3)、全存在のハートに住する
私は全存在の始まりであり、中間であり、終わりである
別の時、バガヴァーンは信奉者の質問へ答えて、ギーターの目的を要約しました。
信奉者:
ギーターは、カルマを強調してるようです。というのも、アルジュナは戦うように説得されました。シュリー・クリシュナ自身が、偉大な功績のある活動的な人生によってその例を示しています。
マハルシ:
ギーターは、あなたが体でなく、それゆえ、カルタ(行為者)でないと言うことによって始まっています。
信奉者:
その意義は何ですか。
マハルシ:
人は自分自身が行為者であると思わずに行為すべきであるということです。人は何らかの目的のために現れ来ています。その目的は、人が自分自身を行為者であると思っても、思わなくても達成されます。
信奉者:
カルマ・ヨーガとは何ですか。
マハルシ:
カルマ・ヨーガとは、人が不遜にも行為者であるという役割を称さないヨーガです。行為は自動的に進んでいきます。
信奉者:
行為の結果への無執着ではないのですか。
マハルシ:
行為者がいる場合にのみ、その質問は起こります。あなた自身を行為者とみなすべきでないと至る所で言われています。
信奉者:
初めから終りまで、ギーターは活動的な人生を説いています。
マハルシ:
そうです、行為者のいない行為です。バガヴァーン・シュリー・クリシュナはそのようなカルマ・ヨーギの理想的な例です。
マハルシはそれを次のように明らかにしました:
自らは彼のシャクティによって全世界をそうあるように創造しますが、彼自身は行為しません。シュリー・クリシュナは、『バガヴァッド・ギーター』の中で「私は行為者でないが、行為は進んでゆく」と言います。「マハーバーラタ」から、とても素晴らしい行為が彼により果たされたのは明らかです。しかし、彼は彼が行為者でないと言います。それは太陽と世界の行為のようです。
ギーターには、一般的な読者を困惑させる、ある見かけ上の矛盾があります。マハルシは彼の答えの中でそのような矛盾を取り除きます。
質問に返答して、彼は言いました:
答えは探求者の能力に応じることになります。ギーターの第2章では「誰も生まれておらず、死んでいない」と言われてますが、第4章ではシュリー・クリシュナは、彼とアルジュナの無数の転生が起こり、すべて彼には知られているが、アルジュナには知られていないと言います。どちらの言明が真実ですか。両方の言明は真実ですが、(それらは)異なる立場から(なされているの)です。さて、質問が提起されています。「どうしてジーヴァが自らから生じうるのか」。ただ、あなたの真の存在を知りなさい。そうすれば、あなたはその質問を提起しません。どうして人は自分自身を分離しているとみなすのですか。「生まれる前にどうあったのか、死後にどうなるのか」。そのような議論でどうして時間を無駄にするのですか。深い眠りの中であなたの形は何でしたか。どうしてあなたは自分自身を個人であるとみなすのですか。
別の機会に信奉者がマハルシに尋ねました:
どうしてクリシュナは「数回の転生の後、探求者は(真の)知を得て、私を知る」と言ったのですか。段階を追っての発展があるはずです。
マハルシは答えました:
『バガヴァッド・ギーター』はどのように始まりますか。「私も、あなたも、これらの首長もいなかった。それは生まれておらず、死ぬこともない」。ですから、あなたが見るような誕生もなく、死もなく、現在もありません。現実が(かつて)あり、(現在)あり、(これからも)あります。それは不変です。後に、アルジュナはシュリー・クリシュナに、どうしてアーディティヤ(*4)の前に存在しえたのか尋ねました。それで、クリシュナはアルジュナが彼を粗雑な体と混同しているのを見て、それに応じて彼に語りました。教えは多様性を見る者のためにあります。実際、彼自身やその他の人にとっても、ジニャーニの立場からは束縛もなく、ムクティもありません。アバヤーサ(修練)は本来的な安らぎの妨げを防ぐためだけにあります。年月の問題はありません。この瞬間にその思いを防ぎなさい。アバヤーサをしようが、しまいが、あなたは自らの自然な境地にのみいます。
ここで、マハルシは彼の有名な言明である「あなたはすでに実現されています」に言及しています。人々は一般的にシュリー・クリシュナを人格神とみなしています。彼らは主の身体的形態を過度に強調しています。彼らによると、彼はヒンドゥー教の神話上の神です。そして、そのようにして彼らはギーターの真の教えを見逃しています。シュリー・クリシュナはギーターを通じて彼自身について何と言っているでしょうか。バガヴァーンは明確にこの疑問を取り除き、シュリー・クリシュナの本質を説きます。彼は、第11章に描かれている彼(クリシュナ)によりアルジュナに示された広大無辺の形の限界さえ指摘します。
かつて信奉者が、「ラホールに11才の女の子がいます。彼女は全く並外れています。彼女が言うには、彼女はクリシュナに2度呼びかけ、意識あるままで留れますが、彼に3回呼びかけるなら、彼女は無意識となり、10時間続けて恍惚状態に留まります」と言いました。
マハルシは、「あなたがクリシュナは自分と異なると思う限り、あなたは彼に呼びかけます。恍惚状態に陥ることは、サマーディの不安定性を示しています。あなたは常にサマーディにいます。それが実現されるべきものです。神の映像(ヴィジョン)とは、自分自身の信仰の神として対象化された自らの映像でしかありません。自らを知りなさい」と言いました。
別の信奉者が「ヴィシュヴァルーパ(*5)とは何ですか」と尋ねました。
マハルシ:
それは神である自らとして世界を見ることです。『バガヴァッド・ギーター』では、神は様々な物と存在であり、全世界でもあると言われています。どのようにそれを実現し、そのようにそれを見るべきですか。人は自分自身の自らを見ることができますか。
信奉者:
それでは、それを見たという人がいると言うのは間違いですか。
マハルシ:
あなたが存在するのと同じ程度、それは真実です。実現は完全性を意味します。あなたが制限されている時、あなたの知識はそのように不完全です。ヴィシュヴァルーパ・ダルシャンで、アルジュナは彼が望んだものを何でも見るように言われましたが、彼の前に提示されたものではありませんでした。そのダルシャンが、どうして現実であると言えますか。
別の機会に、信奉者が「ディヴィヤ・チャクシュ(神の目)は、神の栄光を見るために必要ですか。この身体的な目は、普通のチャクシュです」と尋ねました。
マハルシ:
ああ、なるほど!あなたは百万の太陽の光輝といったものを見たいのですね。
信奉者:
栄光を百万の太陽の光輝として見ることはできませんか。
マハルシ:
あなたは一つの太陽を見ることができますか。どうして何百万の太陽を求めるのですか。
信奉者:
神の目によって、そうすることが可能なはずです。
マハルシ:
わかりました。クリシュナを見つけなさい。そうすれば、問題は解決されます。
信奉者:
クリシュナは生きていません。
マハルシ:
それはあなたがギーターから学んだことですか。彼は自分自身が永遠であると言いませんか。あなたが考えていることは何についてですか。彼の体ですか。
信奉者:
彼は生きている間に他者に教えました。彼の周りにいる人々も悟ったに違いありません。私は似たような生きているグルを見ています。
マハルシ:
では、ギーターは彼が体を隠した後、役に立たちませんか。彼は自分の体をクリシュナとして話しましたか。「私は存在しておらず、、」
後に、シュリー・バガヴァーンは、神の目が自らの輝きを意味し、その言葉すべては自らを意味していると言いました。この対話で、バガヴァーンはとても論理的に、そして容赦なくクリシュナの本質についての一般的な無知を取り除き、彼が遍く行き渡る自らであり、ハートに住んでいることを明確に示しました。
ギーターで与えられるカルマ、バクティ、(ディヤーナを含む)ジニャーナの三つのヨーガは、異なる気質をもつ探求者のためのものであるとマハルシは言います。カルマ・ヨーガは、活動的な気質を持つ人のためです。それは探求者の中の行為者性の概念を排除するように意図されています。バクティ・ヨーガは、力強い感情を持つ人のためにあります。それは自我を神への至高の献身に溶け込まします。ジニャーナ・ヨーガは、自らの探求ができる理性と理解力を持つ人のためにあります。心がさ迷う時、心は制御され、自らに引き戻されねばなりません。それは個別の「私」、虚偽の自我を排除します。これは真っ直ぐな道であり、他の全てのヨーガは究極的にそれに通じます。偽りの自我が理解され、それゆえに取り除かれる時、現実が自動的にそのまったき栄光で輝きます。この真理を理解し、それを今ここで体験することがギーターの教えの目的であるとバガヴァーンは言います。
聖者ジニャーネーシュワラの言葉に、「大地を黄金にすること、望みをかなえる宝石でできた偉大な山々を創り出すこと、七つの海を神酒で満たすことはたやすい。しかし、ギーターの極意を示すことは難しい」とあります。バガヴァーン・ラマナはまさしくこれを行いました。それが彼の主要な教えである「あなたが誰か知るか、もしくは、委ねなさい」と一致していることに不思議はありません。
偉大なアーディ・シャンカラからラナデ博士、スワーミー・スワルーパナンダまで、多くの学者と聖者がギーターに関する書籍を記しました。この華やかな集まりの中で、わずかな言葉で言い表わされているにも関わらず、バガヴァーン・ラマナのギーターへの貢献は並外れており、原文に忠実です。それは普遍的であると同時に、時間と空間の範疇を超えていますが、人の日常生活において実践的です。
我々がこの真理を理解し、それを今ここで体験するために、彼の恩寵と祝福を我々みなに注いで下さるように、この百年の生まれの間、彼に祈りましょう。彼に千のプラナーム(礼拝)を!
(*1)プラシュターナ・トゥライー・・・文字通りの意味は「三つの源」で、特にヴェーダーンタ学派の3つ聖典①ウパニシャッド、②ブラフマ・スートラ、③バガヴァッド・ギーターを意味する。
(*2)ジニャーネーシュワラ(ディヤーネーシュワラ)・・・13世紀のマハーラーシュトラの聖者、詩人。「バガヴァッド・ギーター」の注釈書であるディヤーネーシュワリ(もしくは ジニャーネーシュワリ)を記した。
(*3)グダケーシャ・・・グダカは「眠り」を意味し、眠りを征服した者がグダケーシャと呼ばれる。「眠り」は真理への無知を象徴している。
(*4)アーディティヤ・・・天空の女神、神々の母アーディティの子孫。ヴェーダーンタではヴィシュヌの別名。
(*5)ヴィシュヴァルーパ・・・「広大無辺な形、遍く行きわたる姿」。ヴィシュヌ神、もしくはその化身クリシュナの顕現した姿。
☆http://benegal.org/ramana_maharshi/books/bc/bc007.htmlからの翻訳です。上の文章に引用されている対話や答えは『Talks with Sri Ramana Maharshi』からの引用であり、Talksの引用箇所を参照して、多少翻訳を変更している部分があります。
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