カーヴヤカンタ:学問とタパスの巨人
K.ナテーサン
シュリー・カーヴヤカンタ・ガナパティ・ムニ(1878-1936)は、同時に学者であり、詩人であり、愛国者であり、政治思想家であり、タパスヴィーであるという点で独特であり、彼の時代の最も尊敬された人物の1人でした。彼は人生のごく早い時期に、様々な分野なサンスクリット語の学問-ヴェーダ、ウパニシャッド、イティハーサ、プラーナ、マントラ、シャーストラ、アランカラ、アーユルヴェーダ、哲学、文法、詩学、天文学-をすべて習得しました。彼はサンスクリット語で流暢に話し、即興詩を作ることができました。ナディアで1900年に開催されたパンディットの集会は、彼の詩的能力に、とりわけ他の詩人によって始められた詩節を完成させるという特別な文学的課題の技量に大変に感銘を受けたため、カーヴヤカンタ(喉から自然と詩が湧き出る者)という称号を彼に授与しました。
十二歳でさえサンスクリット語の詩人であったカーヴヤカンタは、宗教文学の泉でも大いに喉をうるおし、十八歳になる前には厳格な精神生活に十分準備が整っていました。結婚後、彼は精神的修練に真剣に取り組み、その目的のために様々な聖地を訪れました。彼はマントラ・ジャパを、インド独立の問題を含めた一切の問題を解決する、その力を固く信じていました。シヴァ・パンチャクシャリは彼のお気に入りのマントラであり、彼はそれを一千万回唱えました。1903年、彼はタパスを行うためにアルナーチャラにやってきました。彼がヴェールールでの教職を引き受ける前に、当時、ブラフマナ・スワーミーとして知られていたシュリー・ラマナ・マハルシを、彼は山の上で二度訪問しました。その組織力によって、彼は生徒集団を集めました。彼らのマントラ・ジャパは国の病を癒やし、その福利を促進するに十分な精神的な力を発生させるはずでした。国家の福利が個人の救済の上に位置すべきであるということは、ヴィヴェーカーナンダのように、実際、彼の強い確信でした。彼はすぐにヴェールールでの職を辞し、1907年にアルナーチャラへ戻りました。優れた業績を持つと自認し、大勢の追随者もまたそれを認める知的および精神的巨人、カーヴヤカンタは、それでも、彼の人生の目的が成就されていないと感じました。彼は以前に会ったブラフマナ・スワーミーのことを思い出し、再び彼の下へ行きました。このことは彼が未だ欠いているように思われた内なる安らぎを彼に与えるはずでした。その出会いはカーヴヤカンタだけにとってでなく、スワーミーの真の達成についてそのような優れた権威者から学ぶことができた、あまねく世界の人々にとっても意義深くありました。
クリシュナ・ダースによるオーム・ナマー・シヴァーヤ-アルナーチャラ
カーヴヤカンタは、ブラフマナ・スワーミーが滞在していたヴィルーパークシャ洞窟に近づき、彼の前で平伏し、震える声で言いました。「読むべき一切のものを私は読みました。ヴェーダーンタ・シャーストラでさえ、私は完全に理解しました。私はジャパを心ゆくまで行いました。けれども、私はこの時まで、タパスとは何か理解していません。それゆえ、おん身の御足に寄る辺を求めました。どうかタパスの本質について私にお教えください」 。十五分間、シュリー・ラマナは沈黙してカーヴヤカンタをじっと見つめました。その後、彼は口を開きました。
この「私」という概念がどこから生じたのか見守るなら、心はその中へと吸収されます。それがタパスです。マントラが繰り返され、マントラの音が作り出される源に注意が向けられるなら、心はその中に吸収されます。それがタパスです。学者は喜びで満たされ、そのウパデーシャが独創的なものであり、ブラフマナ・スワーミーはマハルシであり、これ以後、そのように呼ばれるべきであると宣言しました。元の名前が(ティルパティの主にちなんで名づけられた)ヴェンカタラーマンであったブラフマナ・スワーミーに、彼はバガヴァーン・シュリー・ラマナ・マハルシという正式名を授けました。カーヴヤカンタは、今やシュリー・ラマナの主要な弟子でした。彼の弟子たちもまた、マハルシのもとへ来ました。彼らは多くの不確かな点についての説明を求め、それを得ました。(1913年から1917年にかけて)それらの質問と答えを記録した、彼の『Sri Ramana Gita』は、バガヴァッド・ギーターのように十八章に分割され、閃きの偉大な源です。彼の『Ramana Chatvarimsat』は、信奉者たちによく知られた賛歌であり、バガヴァーンの神殿で毎日唱えられています。様々な場所へ移りましたが、彼は最後にはカラグプル近隣の村に落ち着き、1936年に亡くなりました。彼の起伏に富んだ人生は、執筆、研究、タパス、弟子たちを導くことに費やされました。
百以上に達するカーヴヤカンタの作品は、膨大な範疇に分類されます。賛歌、スートラ(警句)、注釈書、リグ・ヴェーダの研究、インドのための模範の形成、さらには小説まであります。『Uma Sahasram』は、千詩節の中で、聖母の栄光を歌います。終わりのほうの数百詩節は、シュリー・ラマナのまさに目の前で驚くほど短時間の内に作られ、カーヴヤカンタは4人にせっせと書き取らせました。『Indrani Saptasadi』、『Chandi Trisati』、『Gita Mala』は他の重要な作品であり、最後のものは、インドラやアグニのような神々の賛美です。 彼のスートラの中で最も群を抜いているのは、『Dasa Maha Vidya』についてのものです。それは十の広大無辺な力というテーマについて、ヴェーダーンタ的学派とタントラ的学派を調和させています。『Sahasranama』は、リグ・ヴェーダから抜粋されたインドラの千の名前を一列に並べています。彼のリグ・ヴェーダの注釈書は、説明を要する難解なテーマを読者の手の届く範囲にもたらしました。マハーバーラタについての彼の研究書は、そのヴェーダ的基礎についての問題を扱っています。シュリー・ラマナの『Ulladu Narpadu』のサンスクリット語の翻訳、『Satdarsanam』、そして、『Upadesa Saram』の彼の注釈は、シュリー・ラマナの信奉者たちにとても人気があります。
カーヴヤカンタの燃えるような愛国心の証拠として、彼の『Indrani Saptasadi』から以下の例が挙げられるでしょう。
おお、母よ!我が国が、久しく打たれ、損なわれ、嘆いている、この国が繁栄するために、私はおん身の御足に寄る辺を求めます。
ダルマに仇なす者どもが滅びますように。我々の国の友邦が繁栄しますように。それは私の心を喜ばせるでしょう。おお、聖母よ!私はおん身の御足に寄る辺を求めます。
おお、インドラに愛されし人!密偵が我々の力強き人々のかかとをつけ回します。我々は悲しみをあらわにすることさえ恐れています。彼らは恩寵を求めて、おん身の御足に寄る辺を求めて、おん身を拝します。
「ラマナ」には、どういう意味があるのでしょうか?
返信削除こんにちは。
返信削除ラマナはサンスクリット語で、「愛する人」、「楽しむ人」の意味です。
私は、「(我々みなが)愛する人」、「(自らの内に)楽しむ人」という意味で理解しています。
おぉ、そういう意味でしたか!
返信削除長年の疑問解決です。
有難うございます。