2012年9月26日水曜日

自らの達成の力、あなたの重荷を神に委ねよ、全ヨーガの真髄

◇『サット・ダルシャナ・バシャヤとマハルシとの対話(Sat-Darshana Bhashya and Talks with Maharshi )』、p24~26

あなたの重荷を主に手渡しなさい 


信奉者:
 ここにいる時、私には確信があります。感銘を受けます。しかし、外に出て、社会や国のことを考え、あなたの答えである「汝自身を知れ」を思い出します・・・

マハルシ:
 あなたが弱い時、社会や国に何ができますか。はじめに、強くならねばなりません。しかし、あなたに告げますが、自らの達成は至高の力です。あなたがジニャーニになった時、行動するための力を失うのではないかと恐れないように。

信奉者:
 私はそれを恐れています。

マハルシ:
 恐れるべきではありません。ある特定のことを行うようにあなたが運命づけられているか、選ばれているなら、それは行われます。

信奉者:
 では、私は一切のことを放棄すべきでしょうか。タパス(禁欲生活)を行い、神に私の望みを叶えてもらうように頼むことはできませんか。

マハルシ:
 できます。しかし、タパスのために、または、願いが神に達するために、何らかのアビヤーサ(*1)、何らかのサーダナがあるはずです。あなたがサーダナにいる時、それが瞑想であっても祈りであっても、あなたはあなたの望みについて考えていますか、それとも神について考えていますか?

信奉者:
 私が瞑想中に私の望みについて考えるなら、それはまるでディヤーナではありません。

マハルシ:
 では、サカーマとニサカーマ、すなわち、それが欲によって動機づけられていても、欲のないものであっても、両方にとって同じディヤーナ、同じタパス、同じ瞑想があると考えなさい。あなたの望みが満たされる時でさえ、タパスは成長します。それは止みません。それがタパスの真の特色なのです。バクティの場合もまた同じです。

 さて、あなたに質問します。旅行かばんを持った人が鉄道客車に乗る時、彼はそれをどこにしまいますか。

信奉者:
 彼はそれを客室の中か、手荷物車にしまいます。

マハルシ:
 では、彼はそれを頭の上やひざに乗せて支えませんか。

信奉者:
 愚か者以外は誰もそうしないでしょう。

マハルシ:
 それを頭の上で支える人を愚か者とあなたが呼ぶならば、ヴィチャーラ・マールガ、知の道であれ、バクティ・マールガ、献身の道であれ、あなたが靈的生活に入った時、あなたの重荷を担うことは1000倍より愚かです。

信奉者:
 しかし、私の一切の責任、一切の義務を投げ出してもよいのですか。

マハルシ:
 では、寺院の塔(ゴープラ)をご覧なさい。塔にはたくさんの彫像があり、それぞれの角に一つ、大きな彫像があります。それを見ましたか。

信奉者:
 ええ、見ました。

マハルシ:
 では、次のことをあなたに言います。その大きな高い塔は、それらの彫像によって支えられています。

信奉者:
 どうしてそうなるのですか。どういう意味ですか。

マハルシ:
 私が言いたいのは、そのように話す時、あなたが一切の心配事、重荷、責任などを担わなければならず、そして、担っていると言う時のあなたの態度よりも、それは愚かでないということです。

 全世界の主(*2)が、一切の重荷を担っています。あなたは自分が担っていると想像しています。あなたは、一切の重荷を彼に手渡すことができます。あなたが行わなければならないことが何であれ、あなたはそれを適切な時に行うための道具にされます。それを行いたいという望みを持たなければ、それが行えないと思わないように。望みは、行うための力をあなたに与えません。力は主のものです。

信奉者:
 あなたがカルマ・ヨーガの真髄を私に教えていると理解すべきでしょうか。

マハルシ:
 これはカルマ・ヨーガの真髄であり、バクティ・ヨーガの真髄であり、もちろん、ジニャーナ・ヨーガの真髄でさえあります。というのも、はじめの道々は異なるかもしれませんが、それらの道は、終には、この場所に通じるからです。

(*1)アビヤーサ・・・宗教的な、もしくは聖なる修練。サーダナはジャパやプラーナーヤーマなど技法を直接指すが、アビヤーサはそれより指す範囲が広いみたいです。
(*2)主・・・「The Lord」の訳、あるじ、神

2012年9月23日日曜日

バガヴァーン・ラマナ・マハルシとは誰なのか。どこにいるのか。

◇『シュリー・ラマナーシュラマムからの手紙(Letters from Sri Ramanasramam)』、p165~166、抜粋  

(84)ラマナとは誰か

アムリタナータの質問:

慈悲の宝庫として名高い
アルナーチャラの洞窟にいる、このラマナとは誰ですか
彼はヴァラルチですか、イーシャ(*1)・グルですか
ハリ(*2)ですか、ヤーティンドラ(*3)ですか
私はグルのマヒマー(*4)を知りたいのです

バガヴァーンの答え①:

アルナーチャラ・ラマナはパラマートマー(*5)そのものであり
意識として、ハリから以下の
一切生命のハートの中に戯れている
彼は至高の存在である
あなたがジニャーナの眼を開き、真理を見るならば
それはあなたに明らかとなる

バガヴァーンの答え②:(『Sri Ramana Lila』にある英訳)

ヴィシュヌから始まる全て(の者)の蓮華の形をしたハートの奥底に 
純粋な知性(絶対的な意識)として
パラマートマーが輝いている
彼はアルナーチャラ・ラマナと同じである
心が彼の愛に溶け、彼がそこで最愛の人として住まう
ハートの最奥に到達するとき
純粋な知性である微細な眼が開き
彼が純粋な意識として現れる

(*1)イーシャ・・・「主、神」。動詞の語根である「ish-」が、「所有する」や「支配する」を意味するので、神がイーシャと呼ばれるときは、神がすべてを所有し、支配していることを含意している。
(*2)ハリ・・・ビシュヌ/ナーラーヤナの別名。
(*3)ヤーティンドラ・・・文字どうりの意味は「修行者の王」。yatinは「修行者」を意味し、インドラは「王」を意味する。
(*4)マヒマー・・・「超自然的な力、栄光」。
(*5)パラマートマー・・・「至高の」を意味するパラと、「自分自身」を意味するアートマンが組み合わさった語。「個別の自分」を意味するジーヴァートマーと対比される


◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhgavan)』 (p162、p164)

46年3月1日 

 オズボーン氏がバガヴァーンに言いました。「バガヴァーン、昨夜、ヌーナ(4歳ぐらいの彼の娘)が我々に、『サイード博士は、私の世界で一番の友達よ』と言いました。そこで直ちに、我々は彼女に、『バガヴァーンはどうなの』と尋ねました。彼女は、『バガヴァーンは世界にいないわ』と答えました」。

 バガヴァーンは子供のこの発言に驚き、思わず彼の指は鼻へと上がり、そこで鼻をつかみ、言いました。「子どもがするには、なんと賢明な発言でしょうか!優れた人々でさえその発言の意味することを理解できません。彼らは、『世界にいなければ、他のどこにいるのですか』と彼女に尋ねるべきでした」。

 そこで直ちに、オズボーン氏は答えました。「ええ。我々は彼女に尋ねました。彼女は、『バガヴァーンは世界の外にいるわ』と言いました」。

46年3月5日 朝

 バガヴァーンは、昨日、「ヌーナが、『バガヴァーンは世界にいないけど、世界の外にいるわ』と言った時に、彼女が何を意図したのか、または感じたのかが分かると良いでしょう」と言ったようでした。それで、今日、オズボーン氏は以下の書き物を取り出し、バガヴァーンに手渡しました。

 「私はヌーナに、『バガヴァーンは世界にいない』をどのような意味で言ったのか尋ねました。はじめ彼女は恥ずかしがって、何も言いませんでした。私は、『サイード博士は世界にいると思っているんじゃないの』と言いました。彼女は、『うん』と言いました。『バガヴァーンが世界にいないなら、それじゃあ、どこにいるの』と私は尋ねました。ヌーナは、『アーシュラムと天国に』と答え、少し後に、『私たちが見ることができないバガヴァーンは、どこにだっているの。私たちがとても良ければ、彼を見れるの。みんながバガヴァーンだけど、バガヴァーンほど良くはないの』とつけ加えました。どれほどが純粋な直感で、どれほどが時折の会話から彼女が理解し、覚えていることなのか言うことは困難です。時々、それがほんの直感であることに疑いはありません。たとえば、ある時コダイカーナルで、私が彼女に『おやすみ』と言うときに、彼女に祈っていたのか尋ねると、彼女は、『もう、眠りたいわ。眠ることは祈ることよ』と言いました」。

 上の文を見た後、バガヴァーンとバララムは共に、「眠ることは祈ることとは、とても分別ある発言です」と言っていました。私は理解できなくて、バガヴァーンにそれについて尋ねました。彼はそれが、「眠ること、すなわち、心を静めることは本当の祈りである」を意味していると理解したのだと説明しました。彼は私に、「眠り」とは、「眠っているが、それでいて眠っていない至福をいつ私は得るのか」などとタミル語の書籍で言及されるのをよく耳にする「眠らない眠り」と解釈されるべきであると言いました。


◇『バガヴァーンに師事して(At the Feet of Bhagavan)』、p56

 シュリー・バガヴァーンは山の上のヴィルーパークシャ洞窟にいました。午後7時を過ぎたある晩に、アルナーチャラを周りを回るために、彼らはみな、山を下ってきていました。他の信奉者たちはみな、先立って行きました。シュリー・カーヴヤカンタ・ガナパティ・ムニだけが、バガヴァーンと共にいて、彼らはゆっくりと洞窟からの階段を下りていました。

 彼らが数歩、歩いた時、突然、シュリー・マハルシは立ち止まり、彼と共にシュリー・カーヴヤカンタも立ち止まりました。星をちりばめた空に、満月が明るく輝いていました。月と美しい空を指して、シュリー・バガヴァーンは言いました。「ナーヤナ(*1)!月と一切の星々がの内に存在し、太陽自身がその衛星と共にの腰の周りを回っているならば、私は誰ですか。私は誰ですか」。

 このシュリー・マハルシの発言は、彼の幸せな弟子に、「シュリー・ルドラ(*2)」、「プルシャ・スークタ(*3)」、そして、アタルヴァ・ヴェーダの「スカンバ(*4)・スークタ」に記されているような、ヴェーダの偉人として師を心に描かせました。彼はまさしくその全てであり、彼方のそれでした。彼でないものは何もありません。

 後に、シュリー・カーヴヤカンタは、この啓示を信奉者全てに知らせました。

(*1)ナーヤナ・・・テルグ語。シュリー・カーヴヤカンタ・ガナパティ・ムニの愛称。「お父さん」。
(*2)スリー・ルドラ・・・ルドラ(シヴァの通り名)にささげられたヤジュルヴァ・ヴェーダの中の賛歌
(*3)プルシャ・スークタ・・・広大無辺の存在であるプルシャにささげられたリグ・ヴェーダの中の賛歌
(*4)スカンバ・・・「すべての存在を支えるもの、支柱」

2012年9月22日土曜日

過去・現在・未来、グルの真実、行為者性の放棄、運命と自由

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)(p87~90、p91~92 前略

46年1月3日

 私が講堂に入った時、バガヴァーンはすでに質問に答えていました。質問の趣旨は、「進化論は正しいのでしょうか」だったと思います。

バガヴァーン:
 我々みなの問題は、我々が過去に我々であったものを知りたがり、そしてまた、我々が未来になるものを知りたがることです。我々は過去や未来について何も知りません。我々は確かに現在を知っており、我々が今、存在していることを確かに知っています。昨日と明日は共に、今日に関連してのみ存在します。昨日はその時に「今日」と呼ばれ、明日は我々によって明日、「今日」と呼ばれます。今日は常に存在しています。常に存在しているものは、純粋な実在です。それには過去や未来はありません。現在の本質と常に存在する実在を見出すよう試みてはどうですか。

 別の訪問客が、「現在は過去のカルマによると言われています。今、我々は我々の自由意思によって過去のカルマを乗り越えられますか」と尋ねました。

バガヴァーン:
 私があなたに言ったように、現在とは何か確かめなさい。その時、あなたは過去や未来に影響される、もしくは、それらを持つものを理解し、また、常に存在し、常に自由であり、過去や未来によって、または、どんな過去のカルマによっても影響されないものを理解します。

 別の訪問客が、「ある人は別の人の中に何かへの衝動をつくりだせますか。グルは弟子を魔法によるように変容できますか」と尋ねました。

バガヴァーン:
 グルについてのあなたの考えは何ですか。あなたは彼を人の姿で、ある寸法や色などをした体として考えています。悟りの後、弟子はグルに、「今や、私はあなたが私の無数の生まれ全ての間、私の最奥のハートの中にただ一つの現実として住んでおり、私の前に人の姿でやって来て、この無知の覆いを取り去ったことを悟りました。そのような崇高な温情への返礼に私はあなたのために何ができますか」と言いました。そして、グルは、「あなたは何もする必要はありません。あなたがあなたの真の境地にあるがままにある(「私は在る」として留まる)ならば、十分です」と言いました。これがグルについての真理です。

 ジョーシー氏が五つの質問をしました。以下に、質問とバガヴァーンの回答を記します。

質問1:
 答えることなく、「私は誰か」と尋ね続けるべきでしょうか。誰が誰に尋ねているのですか。探求の時、何のバーヴァナー(態度、概念)が心にあるべきですか。「私」とは何ですか、自らですか、自我ですか。

答え:
 「私は誰か」という探求の中の「私」は、自我です。その問いが本当に意味するところは、この自我の源、起源は何か、です。心に何のバーヴァナーも持つ必要はありません。必要とされる全ては、あなたがこれこれの様子や、これこれの名前などを持つ体であるというバーヴァナーを放棄しなければならないということです。あなたの本質についてバーヴァナーを持つ必要はありません。それは常に存在しているように存在しています。それは現実であり、バーヴァナーではありません。

質問2:
 私はいつもこの探求に従事できません。というのは、他にするべき仕事を持っていて、そのような仕事をしている時、この探求を忘れるからです。

答え:
 あなたが他の仕事をする時、あなたは存在しなくなるのですか。あなたは常に存在しています。違いますか。

質問3:
 行為者の感覚-「私がしている」という感覚-なしに、仕事は行えません。

答え:
 行えます。愛着なく働きなさい。あなたが「私が行為者である」という感覚を持って働いた時よりも、仕事はより良く運びさえします。

質問4:
 私は何の仕事をすべきで、何の仕事をすべきではないのか分かりません。

答え:
 思い悩まないように。この人生で、あなたによってなされるように仕事として定められていることは、あなたが好んでも、好まなくても、あなたによって行われます。

質問5:
 どうして悟ろうと試みねばならないのですか。夢から覚めるように私はこの状態から出ます。眠っている時、私たちは夢から出ようと試みません。

答え:
 夢の中ではそれが夢であるとあなたは少しも気づかないので、努力して夢からでようと試みる義務はありません。しかし、この人生では、夢の経験によって、読むことや聞くことによって、あなたはこの人生が夢のようなものであるとの何らかの直感を得ています。それゆえ、努力して夢から出るという義務があなたに投げかけられているのです。しかしながら、あなたが自らを求めていないなら、誰があなたに自らを実現して欲しいのですか。あなたが夢にいることを好むならば、そのままにいなさい。

(質問4に関連し、バガヴァッド・ギーターを引用して)P.C.デーサーイー婦人:
 (アルジュナが言われたように)各々によって行われるように定められている特定の仕事があり、どれだけそれをしたくないと思っても、それをすることを拒否しても、結局は行うことになるならば、自由意志は存在するのですか。

バガヴァーン:
 我々によって行われるように予定されている仕事が、我々によって行われるのは本当です。しかし、我々自身を体、すなわち、仕事をするそれと同一視しないことにより、仕事の楽しみや苦しみ、好ましい結果や好ましくない結果から自由でいることは我々に開かれています。あなたがあなたの本質を悟り、どんな仕事でも行っているのはあなたでないということを知るならば、運命、過去のカルマ、神の計画など、あなたがどのようにそれを呼ぼうとも、それによって体が従事するであろう仕事が何であれ、あなたはその結果に影響されません。あなたはいつも自由であり、その自由に制限はありません。

1946年1月4日 午後 

 1946年1月3日の午後のデーサーイー夫人の質問へのバガヴァーンの答えに関連して、私は彼に、「本業や専門職というような人の人生における重要な出来事だけあらかじめ決まっているのですか、それとも、一杯の水を手に取ることや、部屋のある場所から別の場所へ移動するというような人生における取るに足りない行為もまたあらかじめ決まっているのですか。

バガヴァーン:
 ええ、あらゆることがあらかじめ決定されています。

私(デーヴァラージャ・ムダリアール):
 では、人はどのような責任、どのような自由意思を持つのですか。

バガヴァーン:
 それでは、体は何のために存在するようになりますか。それはこの人生で遂行されるように選び出された様々な物事を行うために計画されています。全ての計画がチョークで描かれています。「わずかのものもの意思以外によって動かない」は、あなたが「の意思以外によって動かない」、もしくは、「カルマ以外によって動かない」と言おうとも、同じ真理を表します。人の自由に関して言えば、彼には彼自身を体と同一視せず、体の活動の結果起こる苦楽によって影響されない自由がいつもあります。

2012年9月18日火曜日

ヴェラチェリー・ランガ・アイヤル (シュリー・ラマナの級友)の思い出

◇『シュリー・ラマナ・マハルシと向かい合って(Face to Face with Sri Rmana Maharshi)』 

44. 
ランガン(ヴェラチェリー・ランガ・アイヤル)は、シュリー・ラマナの級友でした。
  1907年6月、私たちが学校に一緒にいたとき以来はじめて、私はバガヴァーンに会いました。私は「私が分かりますか」と尋ね、バガヴァーンは「ランガン」と難しそうに声に出しました。その当時、彼はほとんど口を利かず、声を発するのが困難に感じました。私の母は、1890年代後半の彼女の最初の訪問について私にすでに話していました。その時、バガヴァーンはティルヴァンナーマライの主要なアルナーチャレーシュワラ寺院の近くの丘の上にある寺院に住んでいました。

 何年も後、バガヴァーンは私の母の訪問について話して、「あなたのお母さんが私に会いに来た時、彼女は私の苦行者のような外観と服装を怖がっていました。私の髪はすっかりもつれ、私の体は完全にほこりに覆われていました」と言いました。その当時、彼は時間の経過にまったく気づかなかったと付け加えました。時々、彼が立ち上がろうとした時、彼の頭はぐらぐらして、バランスをくずしたものでした。これが起こった時、自分が世界を意識していない状態で何日も過ごしたに違いないと彼は結論しました。これらの弱さの一時的な兆候のほかには、彼には時間の経過を知る方法がありませんでした。その当時、何か食事を取っていたのか尋ねられた時、「体の意識がない時、体の機能も停止します」と彼は答えました。

 最初の訪問の後、私が出発する時、私はバガヴァーンに、「あなたは大変な高みに達しました」と言いました。彼の返答は、「はるか彼方にある山々は平坦に見えますよ」でした。彼が、「たとえ普通の家庭生活を送っていても、人はジニャーニになれます」と私に告げていると感じました。彼は、「身体的な放棄の中に特別なことや、偉大なことは何もありません」と私に告げているようでした。

 次にバガヴァーンにあった時、私は職を探しにマドラスに行く途中でした。当時、私の経済状況は悪い状態にありました。私がこの問題をまったく口にしなくても、バガヴァーンはこのことを知っているようでした。私の職探しの試みはうまくいかず、ティルヴァンナーマライを経由して家に帰りました。私がバガヴァーンを見るや否や、彼は私の経済問題を持ち出しました。その夜、私が横たわっている時、バガヴァーンがやってきて、私の隣に座りました。私は起き上がり、彼のそばに座りました。彼は、「ランガン、経済的困難について心配しているのですか。あなたにとって一万ルピーで十分ですか」と尋ねました。終には、私は自動車会社で職を得て、バスを売っていました。バスが売れるごとに手数料を得たので、バガヴァーンが口にした一万ルピーを調達することができました。このお金は負債を清算し、私の二人の娘の結婚式を行うのに十分でした。

 バガヴァーンと共に生活することは、自分を含め多くの人の中に放棄の気持ちを引き起こしましたが、バガヴァーンは信奉者に身体的放棄という最終段階をとるのをいつも思い留まらせました。サンニャーサ(出家)をとろうする私の熱望はやわらぎ、終には消えました。

 私は助けを必要とする多くの機会があって、スカンダーシュラムの訪問の際、家族の問題すべてをバガヴァーンに話すという癖が直につきました。ある時、彼は私のほうに向き、「あなたは自分の持つ問題がとても大変だと考えています。私の問題について知っていますか。一つの出来事をあなたに話しましょう。かつて、山の険しいところを上っている時、私はバランスを保つために岩につかまっていました。その岩はぐらぐらしていて、私の重さに耐えられませんでした。私は後ろに倒れ、石の小さな雪崩(なだれ)に一部埋まりました。なんとかそれを取り除こうとしましたが、左の親指の関節が外れているのに気づきました。それは指の近くにだらりとぶら下がっていました。私は関節のくぼみに親指を押し込みました」と言いました。バガヴァーンの母親はその事故を思い出すに忍びないと私に言いました。彼は体中から血を流しながら帰ってきました。

 バガヴァーンの母親がマドゥライに住んでいる時にお互いを知っていたので、私は彼女とたいへん仲良くなりました。ある時、彼女は私に、「ある日、私がバガヴァーンをじっと見ていた時、彼の体が徐々に消え、その代わりにリンガム(神が象徴的に表現された形)を見ました。そのリンガムはとても輝いていました。私は自分の目を信じられませんでした。私は目をこすりましたが、まだ同じ輝くリンガムを目にしました。私は息子が我々をおいて永遠に去ろうとしていると思ったので、怖くなりました。幸運にも、そのリンガムは徐々にそれ自体をバガヴァーンの体に変えました」と話しました。彼女の話を聞いた後、私は確証や意見を得ようとバガヴァーンのほうを向きましたが、彼はただ微笑み、何も言いませんでした。

 私の息子が『バガヴァーン・パリナヤム(バガヴァーンの結婚)』という題名の本を書いていた時、その出来事について彼に話し、彼はそれを原稿に組み入れました。その本の中で、バガヴァーンはジニャーナ・カンヤ(ジニャーナなる花嫁)と結婚しています。数か月後、バガヴァーンの前で息子がその本を読み上げた時、彼はその出来事をどのように知ったのか尋ねられました。「父が私に話しました」と息子は答えました。「おや!彼は本当にそのこと全てをあなたに話したのですか」と言いました。他の信奉者は誰もそれについて聞いたことがなかったので、その出来事についてもっと知りたがりましたが、バガヴァーンは、「大したことではありませんでした」と言い、他のことに彼らの注意をそらしました。

  ある時、スカンダーシュラムの中で眠っているバガヴァーンを残し、少しの間、私は外に出ました。私が帰った時、戸外で寝台の上に彼が座っているのを見ました。その時は何も思わなかったのですが、私がアーシュラムの中に入った時、私がアーシュラムを離れた時に見たままの姿勢でバガヴァーンが中で眠っていました。後で私がこれについてバガヴァーンに話した時、彼は微笑んで、「その時に、どうして私に言わなかったのですか。その泥棒をつかまえられたのに!」と言いました。これはバガヴァーンの超常現象への返答の典型でした。そのような出来事が彼に報告されるなら、彼は無視するか、冗談として受け流しました。その訳は、彼はどの信奉者も自らの実現という主要な目的から奇跡的な現象についての非生産的な関心へと脱線して欲しくなかったからです。

 バガヴァーンは彼の崇高な境地を公衆から秘密にしておくのを好みましたが、彼は時おり、彼の力と知識をかいま見せました。かつて、ある信奉者がバガヴァーンから離れたところに座っていて、サンスクリット語の詩節を写していました。彼は何を書くべきか迷っていました。バガヴァーンは尋ねられることさえなく、彼に呼びかけ、彼の迷いを晴らしました。しかし、彼がその全知をそのように公然と示すのは稀でした。

 私のスカンダーシュラムへの訪問の内の一回に、私はバガヴァーンの力の別の顕現を目撃しました。ある村から2人の男性がやって来て、バガヴァーンが彼自身の手でヴィブーティ(聖なる灰)を自分たちに下さるように頼みました。彼らはヴィブーティを置かれている場所から集めるのを断り、バガヴァーンがそうするように言った時でさえも断り、終には、がっかりして去りました。私は彼らの後について行き、「どうしてバガヴァーン自身の手からヴィブーティが欲しいのですか。どうしてそんなにこだわるのですか」と尋ねました。彼らの一人が私に、「私はハンセン病にかかっていました。かつて、私はバガヴァーンに会いにやってきて、彼は彼自身の手でいくらかヴィブーティを私に下さいました。私がそれを体に塗りつけるとすぐに病気の兆候がなくなりました。この人は私の友人です。彼もハンセン病にかかっています。ですから、私はバガヴァーンの手からヴィブーティをお願いしたのです」と言いました。バガヴァーンは意図せずにハンセン病者の病気を治したことを知っていたに違いありません。「奇跡の人」としての名声を得たくなかったので、おそらくバガヴァーンはそれを繰り返すことを断ったのでしょう。

 私の兄弟と私はバガヴァーンの面前にいることから大変な恩恵を受けていたので、私たちは決まって他の人たちにティルヴァンナーマライに行くように勧めていました。我々のある友人が我々の要請を受けてバガヴァーンに会いに行ったのですが、帰ってきて我々に、「あなたは何という役立たずのスワーミーのもとへ私を送ったのですか!エカーダシーの日に、彼はたまねぎを切っていました」と言いました。

 ある時、バガヴァーンは私に、「あなたとあなたの兄弟は、マハルシ(偉大なる聖者)がここにいるというニュースを広めています。いくらかの人々は、ここにやって来て、私が隅で座っているのを見るまではあなたたちを信じています。それから彼らは、『えぇ、これがその人?』と思います。彼らはがっかりして、あなたたちをののしりながら去ってゆきます」と言いました。

 バガヴァーンはうまく平凡さの見かけを保っていましたが、彼に会いにやって来た全ての人の精神的価値を分かっていて、ふさわしくない人によって彼自身を理解させないようにしていました。バガヴァーンは彼の周りの人々の精神的成熟性を認識できました。彼は彼のもとへやってきた動物のそれも判別できました。ある日、バガヴァーンの母親が、「どうしてその犬はいつもあなたのひざの上にいるのを好むのですか」と尋ねました。バガヴァーンは私のほうを向き、「この犬は常に揺らぐことのないサマーディにいます。偉大なる魂が犬の姿で来ています。母はこれを知りません」と言いました。

 バガヴァーンと私が山の周りの林道を歩いていた時、彼が自分を体と同一視するのを止めていることが私に明らかとなりました。棘(とげ)を踏んづけてしまい、私は遅れていました。バガヴァーンは立ち止まり、私のところへ戻ってきて、棘を取り除きました。その後、バガヴァーンが大きな棘を踏んづけました。彼の足を持ち上げた時、私はたくさんの棘が足から突き出ていることに気づいて驚愕しました。古いのものもあれば、新しいものもありました。もう一方の足を持ち上げましたが、私は同じものを見つけました。「どの棘を取り除きますか」とバガヴァーン笑って尋ねました。それから、彼は突き出ている棘をその棘が埋まった足で押しつぶし、楽しそうに歩き続けました。

 私はたいして精神的進歩をしていないと感じました。それで、かつて、私はバガヴァーンに、「ジニャーナを得るために、私は何度生まれなければならないでしょうか」と尋ねました。バガヴァーンは「時間や距離のような要素は存在していません。一時間のあいだに、我々は多くの年月が経ったという夢を見ます。あなたは映画フィルムの中で、単なる影が大きな海や山や建物に姿を変えるのを見ませんか。世界は、あなたの外側にありません。心の中にある小さな世界が、大きな世界として外側に現れています。心の消滅が、ジニャーナです」と答えました。

2012年9月13日木曜日

自らの探求とその他のサーダナ、「目撃者」の真意、善性の修養

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』 

1946年7月18日

 今朝、S.P.タヤルという名前の訪問客によって質問がなされました。

S.P.タヤル:
 私は20年近くサーダナをしてきましたが、進歩が見られません。私は何をすべきでしょうか。

バガヴァーン:
 私がそのサーダナが何か知っているなら、何か言うことができるかもしれません。

S.P.タヤル:
 毎朝5時ごろから、私は自らのみが現実であり、他の一切は非現実であるという思いに集中します。これを約20年間しているのですが、2・3分以上思いがさ迷うことなく集中することができません。

バガヴァーン:
 心が外に向かうたびに心を引き戻し、心を自らに据えること以外に成功するための方法はありません。瞑想、マントラ、ジャパ、ディヤーナ、その類の何も必要ありません。なぜなら、それらは我々の本質であるからです。必要とされる全ては、自ら以外の対象を考えるのをやめることです。瞑想とは、自らについて思うというよりもむしろ、自らでないものについて思うのをやめることです。あなたが外側の対象を考えるのをやめ、心を外に向かうのを防ぎ、内に向け、自らに据えるならば、自らのみが残ります。

S.P.タヤル:
 これらの思いや欲望の引きつける力を克服するために、私は何をすべきでしょうか。思いの制御を達成するために、私はどのように生活を律するべきでしょうか。

バガヴァーン:
 あなたが自らに据えられば据えられるほど、他の思いはひとりでに落ちます。心は思いのかたまりに他ならず、「私という思い」はその全ての根です。あなたがこの「私」が誰か、それがどこから生じているのか見る時、一切の思いは自らに溶け込みます。

 生活を律すること-決まった時間に起きる、沐浴する、マントラやジャパなどを行う、儀式を行うなどのような-これら全ては自らの探求に魅力を感じなかったり、それができない人々のためのものです。しかし、この方法を修練することができる人にとっては、全ての規則や修練は不要です。

 ここで、K.M.ジブラジャニが言葉を挟み、「自らの実現を得る前に、超常的なビジョン(映像、光景)を見るという段階を経ることは必要でしょうか」と言いました。

バガヴァーン:
 ビジョンについて、そして、それが来るのか来ないか、どうして心配するのですか。

K.M.ジブラジャニ:
 私は(心配)していません。それを得ることがなくても失望することがないように、私はただ知りたいだけなのです。

バガヴァーン:
 ヴィジョンは必要な段階ではありません。ある人たちには来て、他の人には来ません。しかし、それが来ようが来まいが、あなたは常に存在しています。あなたはそれに張り付かなければいけません。

K.M.ジブラジャニ:
 私はいつも同じ中心ではなく、時には脳の中心に、また時には心臓に集中します。これは間違いでしょうか。

バガヴァーン:
 あなたがどこに集中しても、どのような中心に集中しても、集中するあなたがいるに違いありません。そして、それがあなたが集中しなければならないものです。

 様々な人が様々な中心に集中します。脳や心臓だけなく、眉毛の間の場所や、鼻の先端や、舌の先端や、最も下にあるチャクラや、外にある対象さえにもです。そのような集中は、ある種の至福を感じる一種のラーヤに導くかもしれませんが、この全ての中で「私は在る(I AM)」という思いを失わないように注意が払われなければなりません。それら全ての経験の中で、あなたは存在することを決してやめません。

K.M.ジブラジャニ:
 つまり、私が目撃者でなければならないということでしょうか。

バガヴァーン:
 「目撃者」について話すことが、目撃者と彼が目撃している彼から離れた他の何かが存在するという考えに通じるべきでありません。「目撃者」が実際に意味することは、「見る者、見られるもの、見る」という過程を照らす光です。「見る者、見られるもの、見る」という三つ組みの前に、間に、後に、その輝きは存在しています。それのみが常に存在します。

K.M.ジブラジャニ:
 人が自らの実現に自身を備えるために、全てのの善なる、または、神的(daivic)性質を養うべきであると本で言われています。

バガヴァーン:
 全ての善なる、または、神聖な性質はジニャーナの中に含まれており、全ての悪い悪魔的(asuric)性質はアジニャーナの中に含まれています。ジニャーナが来る時、一切のアジニャーナは去り、全ての神聖な性質が自動的に訪れます。ある人がジニャーニであるなら、嘘を言うことや、何か悪いことをすることはできません。間違いなく、いくらかの本では、人は一つ一つ性質を養い、そうして究極のモークシャ(解放)のために備えるべきであると言われています。しかし、ジニャーナ、もしくはヴィチャーラ・マールガに従う人たちにとっては、彼らのサーダナ自体で全ての神聖な性質を得るのにまったく十分です。彼らはその他の何も必要としません。

2012年9月7日金曜日

「私という思い」につかまる、恩寵とサッドグル、自らと自我である自分

◇『サット・ダルシャナ・バシャヤとマハルシとの対話(Sat-Darshana Bhashya and Talks with Maharshi )』、p3~6

最初の疑問


信奉者:
 あなたは、自らの探求によって自らを実現できると言います。この探求の特徴は何ですか。

マハルシ:
 あなたは心です。もしくは、あなたは自分は心であると思っています。心とは思いに他なりません。さて、一切の特定の思いの背後に、「私」という一般的な思いがあり、それはあなた自身です。この「私」を最初の思いと呼ぶことにしましょう。それが何であるか見出すために、この「私という思い」に張り付き、それを問いなさい。この問いがあなたを強く捉える時、あなたは他の思いを考えられません。

信奉者:
 私がそのようにして、私自身、つまり、「私という思い」につかまる時、他の思いが行ったり来たりし、私は自分自身に「私は誰か」問いかけますが、答えはやってきません。このような状況にいることはサーダナでしょうか。

マハルシ:
 これは人々がよくする間違いです。あなたが自らの真剣な探求をする時に起こることは、「私という思い」が一つの思いとして消え、深みから他の何かがあなたをつかみます。そして、それは探求を開始した「私」ではありません。

信奉者:
 その他の何かとは何ですか。

マハルシ:
 それは現実の自ら、私の真意です。それは自我ではありません。それは至高の存在そのものです。

思いの排除


信奉者:
 しかし、探求を始める時、他の思いを排除しなければならないとあなたはよく言っていますが、思いには終わりがありません。一つの思いを排除するなら、他のものがやって来て、まったく終わりがないように思えます。

マハルシ:
 私はあなたが思いを排除し続けなければならないとは言っていません。あなたがあなた自身に、そう、「私という思い」につかまり、そして、あなたの関心がそのただ一つの考え(概念)にあなたを留まらせる時、他の思いは排除され、自動的に消えます。

信奉者:
 それでは、思いの排除は必要ではないでしょうか。

マハルシ:
 ええ。それは、一時的に、もしくは、しばらくの間、必要かもしれません。思いが生じる時に、一切の思いを排除し続けるならば終わりがないとあなたは想像しています。いいえ。終わりはあります。あなたが油断せず、思いが起こる時に、一切の思いを排除する厳しい努力をするならば、あなた自身の内なる自らに深く深く入りつつあることにすぐに気づきます。そこでは、思いを排除するあなたの努力は不要です。

信奉者:
 それでは、努力なく、緊張なくいることが可能です!

マハルシ:
 それだけでなく、ある程度を超えて、あなたが努力をすることは不可能なのです。

信奉者:
 私はさらに教え導かれたいのです。私はまったく努力すべきでないのでしょうか。

マハルシ:
 今、あなたが努力なくいることは不可能です。あなたがより深くに進む時、あなたにとって努力することは不可能です。

ヴィチャーラと恩寵


信奉者:
 では、私は外側の助けなしで済ますことができ、自分自身の努力でより深みにある真理に独力で入ることができます。

マハルシ:
 そうです。しかし、あなたが自らの探求に捉えられているというその事実こそが、神聖な恩寵(アルル(*1))の顕れです。それはハート、内なる存在、現実の自ら(*2)の中で燦然と輝いています。それは、あなたを内側から引き込みます。あなたは外側から入ろうと試みなければなりません。あなたの試みがヴィチャーラ(熱心な探求)であり、深い内なる動きが恩寵(アルル)です。それゆえに、恩寵がなければ真のヴィチャーラはなく、ヴィチャーラのない人には現に働いている恩寵はないと私は言います。両方ともが必要です。

(*1)アルル・・・タミル語。அருள்(Arul)。「神の恩寵、恵み」。
(*2)現実の自ら・・・「the Real Self」、本当の自分。

サッドグル


信奉者:
 サッドグルの恩寵がなければ人は自らに達することができないとあなたはどこかで述べました。正確には、それはどういう意味ですか。グルとは何ですか。

マハルシ:
 知の道の観点からは、自らという至高の境地がサッドグルです。それは、あなたが自分自身と呼ぶ、自我である自分とは異なります。

信奉者:
 では、それが私自身の至高の境地であるなら、サッドグルの恩寵がなければ、それに達することができないということをどういう意味において述べたのですか。

マハルシ:
 自我である自分は、ジーヴァです。それは一切の主(サルヴェーシュワラ)と異なります。私心のない献身を通じ、ジーヴァは主に近づき、主は恵み深くも名と形を帯び、ジーヴァを彼自身に取り込みます.... それゆえ、グルは主以外の何者でもないと言われています。彼は神の恩寵が人間として具現化したもの(化身)であるとギーターは言います。真のグルは神自身です。誰がこれを疑えますか。

信奉者:
 しかし、人間のグルを一人も持たなかったように思える人もいくらかいます。

マハルシ:
 そうです。さる偉大な方々の場合は、神が彼らの光の中の光として内側から彼自身を表します。

信奉者:
 では、真の献身(バクティ)とは何ですか。

マハルシ:
 私が行う、もしくは、私自身が行っていると私が思うことは何であれ、本当は、主の行いである。本当は、何ものも私のものではない。私はここに主への奉仕のためにいる。この奉仕の精神(アルル・ウルヴァム)が、実際、至高の献身であり、真の信奉者は至高の存在を万物に内在する主とみなします。名と形による崇拝は、全ての名と形の向こうへ人を導きます。完全な献身は、終には、至高の知になります。

 はじめバクティが世俗的な望みによって動機づけられてさえいても、望みが叶えられた時にバクティは止みません。それは揺らぐことのない信仰によって増大し、完全に成長し、実現という至高の境地になります。

信奉者:
 では、ジニャーナの道とは何ですか。

マハルシ:
 自我がはぎ取られる時、人は自然に至高なる自らの自覚に自分自身を打ち立てます。

信奉者:
 バクティとジニャーナが、どうして共に同じ目的に通じると言えるのですか。

マハルシ:
 どうして言えませんか。両方の道が、一切の理解を超える至高なる安らぎの境地(モウナム)にあなたを導きます。