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2018年2月26日月曜日

神と運命 - 神(カルタ)は業(カルマ)よりも強し

◇「山の道(Mountain Path)」、1967年4月、p113~116

神と運命

A.デーヴァラージャ・ムダリアール
デーヴァラージャ・ムダリアールは、最古参の信奉者の一人です。彼は小誌の1964年10月号で、我々のために「マハルシと献身の道」という記事を記しました。主に衰えつつある視力のために、彼は1965年の終わりにアーシュラムを離れました。1966年1月号で、我々はアーシュラム広報にお別れの手紙を記しました。今、デーヴァラージャはすでに片目の白内障の手術を受け、再び字を書ことができます。我々は彼からのこの新たな記事をとても喜んで歓迎したいと思います。
(運命なる)動き続ける指は記し、記され
先へと進む。汝のあらん限りの祈りも、知恵も
それを呼び戻し、半行取り消させることあたわず
汝の全ての涙でも、その一語も洗い流せぬ
-ウマル・ハイヤームによるルバイヤートより

 私見では、これを記した時、ウマルは冷笑家ではなく、宿命の貫き通せない壁に出くわした熱心な探求者でした。大多数のヒンドゥー教徒もまた、運命に打ち勝つことはできないと信じています。彼らは、神が彼らのひたいに人生における彼らの運命を記し、その結果、全ての出来事は、心地よいものも痛々しいものも、定められたように彼らのもとにやって来るだろうと話します。しかしながら、カルマの問題を学んだ人々は、運命とは独断的な神によって彼らに課されたものではなく、因果法則の結果であり、各人がその過去の行為が引き起こした経験を経なければならないと言明します。人の各々の行為には、心地よいものであろうとも痛々しいものであろうとも、その結果が後に続き、誰もそれから逃れることはできません。一回の人生で行為の全ての結果を使い尽くすことが可能でないなら、カルマを使い尽くすために相次いで人生を経験しなればならないかもしれません。

 この教説は思慮深い思想家たちによって歓迎されてきました。なぜなら、それが我々が世界で見出す人と人との間の大きな相違にいくらかの理性的な説明を与えるからです。さもなければ、公明正大な愛情深い神によって創造され、統治された世界における膨大な相違をどうして説明しうるでしょうか。カルマの教説はヒンドゥー教にとってとても基本的なものであるため、我々はそれ抜きにヒンドゥー教を考えることはできせん。

 カルマは三つのカテゴリー-プラーラブダ、アーガーミ、サンチッタ-に分類されます。人が生まれるとき、この人生で片づけられる予定の蓄積したカルマの量が、プラーラブダ・カルマと呼ばれ、その残りがサンチッタです。今世で蓄積したものは、アーガーミと呼ばれます。少なくともプラーラブダは全ての人によって経験されなければならず、それからは逃れようがないと一般的に考えられています。私はここで、この事柄に関するバガヴァーンの教えを提供しようと思います。

 シュリー・クリシュナがアルジュナに語ること-「マーヤーによって惑わされ、あなたは戦うことを拒むが、あなた自身の本質があなたを戦うように強いるだろう*1」-に関して、ある信奉者がバガヴァーンに我々がいったい自由意志を持つのかどうか尋ねました。バガヴァーンは答えました。「あなたには、体とそのプラーラブダとしてそれにやって来る苦楽とあなた自身を同一視しない自由が常にあります」。これに続いて、私は言いました。「私は人の人生の重要な出来事があらかじめ定められていることは理解できますが、まさか人生のあらゆること-例えば、私が手に持つこのうちわを床の上に置くというような、どれほどささいな事でも、すでにあらかじめ定められているということであるはずがありません。まさかあなたは、これこれの日付の一日のこの特定の時間に私があなたの前で床の上にうちわ置くことが私の生まれる前に定められていたと言うのではないでしょうね」。バガヴァーンはためらうことなく答えました。「ええ(、言います)」。

 私が彼と交わした他の様々な会話から、これがバガヴァーンの教えであることを私は確信しています。私はここで、彼が若き賢者として彼の母親の一緒に家に戻るようにという涙ながらの願いを断ったときに、彼女に与えた返答にだけ言及しようと思います。「命じる彼が、プラーラブダに応じて各々の人生を形作っている。起こらないと運命づけられていることは、どれほどあなたが試みようとも、起こらないだろう。起こると運命づけられていることは、人がそれを阻止しせんと試みようとも、起こるだろう。これは確実である。そのため、最良の道は、静かにいることである」。

 しかしながら、もし純粋な原因と結果としてのカルマの法則が絶対的に不可侵かつ無慈悲なほどに至高であるなら、人は宗教や神や祈りが何の役に立つのか尋ねるかもしれません。人が彼を罪と苦しみから救い、安らぎと祝福を与えられる全てを愛する全能の神を頼らなかった時代は存在していなかったようです。ヴェーダの時代に始まり、シヴァ派とヴィシュヌ派両方の偉大なバクタたちの時代を通じて、わりあい近代に至るまで、どのような罪を人が犯そうとも憐み深き神が彼を救うことができると全く明確に述べる大量の宗教文献があります。火によって綿が燃やされるように、神の恩寵によって、プラーラブダを含め、全てのカルマを破壊することができるとも彼らは述べています。西洋の聖者と神秘家は同じことを言っていて、神が公平、公明正大であるから、罪びとを救うことができず、その罪のためにまずは彼を罰しなければならないという考えをからかっています。というのも、もしそうであるなら、憐みや愛、父性や母性といった神の他の属性はどうなるでしょうか。ヴィシュヌ派の信奉者は、神の中のヴァーッサリャ、つまり、慈愛の性質を強調し、牝牛のヴァーッサリャによって説明しています。子牛が生まれるやいなや、牝牛はその全身をなめ始め、子牛が不潔であるという事実を気に留めません。彼らは言います。神は罪びとを救いうるに先立って、彼が清らかになるのを待たず、見つけるとすぐに彼を救う-ただ人が救いを望み、それを求めて叫び、哀願するなら。苦しんでいる人が、「神は私を助けることができる」と十分に信頼して、助けと安らぎを求めて神を頼りとするなら、彼は確かに救われる。それが聖典の言うことであり、無数の聖者が言明することです。キリストは言いました。「労苦し、重荷を背負う汝ら皆よ、私のもとに来きなさい。そうすれば、私はあなた方に安息を与えよう。恐れるなかれ」。主クリシュナはほぼ同じことを言いました。アルジュナが、解放を手に入れうる全ての異なる種類のヨーガについてクリシュナが話さなければならなかったこと聞いた後、これら全ての指導で混乱し、それらに従うことができないと感じたと彼が不満を言ったとき、クリシュナは言いました。「では、全てのダルマを放棄し、私だけに寄る辺を求めなさい。嘆くなかれ。私があなたの全ての罪からあなたを救いましょう*2」。ここで要求されるものは、神への完全な委ねです。しかし、自分自身を完全に神の憐みに身を委ね、自分自身のために何も望まず、あらゆることを全てを愛する全知なる神に託すことは、思われるほど簡単ではありません。しかしながら、ここで私が主張したいことは、恩寵は全能であり、いかなる例外もなく人は蒔いたものを刈り取らねばならないと言われるカルマの法則にさえ打ち勝つことができるということです。私は気質的にこれを強く信じる傾向にあり、バガヴァーンが私のためにそれを裏付けてくれたと信じています。私はここで、私の小さな本 My recollections of Bhagavan Sri Ramana の101、102ページ上に、そのテーマに関して私が記したことを引用しようと思います。

 「私が一度ならずバガヴァーンと論じ合った別の点は、恩寵がプラーラブダ、つまり、運命をくつがえすことができる程度です。徹頭徹尾、私の言い分の主だった趣旨は、神は全能であり、彼にとって不可能なことは何もなく、もし人がそのために努力し、値するものだけを得るなら、得ることができるなら、恩寵にまるで居場所はないだろうということでした(そして、それは相変わらず私の今の確信です)。自分一人でか、他の人々と私がそのような議論に携わっていた時-私に味方する人いれば、反対する人もいました-、バガヴァーンは黙っていました。しかし、彼がいろいろな機会にした様々な発言や所見から、私は以下がこの事柄に対する彼の態度であるという結論に至りました-『もちろん、神に不可能なことは何もありません。しかし、あらゆることが神の意志、または、計画によって定められた秩序に従って、起こり、例外はほとんどありません。我々のプラーナにマールカンデーヤが何人いますか』」。

 他方で、多くの権威ある書籍では、ジニャーニからの一目が、過去、現在、プラーラブダを含めた我々の全てのカルマの結果から我々を救うことができると明確に述べられています。そして、シュリー・ジャナキ・マータ*3が彼女のタミル語の日記の中で公表したことですが、彼女がこの疑問をかつてバガヴァーンと議論し、彼の恩寵が人がプラーラブダに打ち勝つ手助けさえすると主張したとき、彼は彼女に言いました。「あなたがそのような信仰をもっているなら、そうなるでしょう」。

 私はこの引用に何も有益な付け加えができないことを分っていますが、マールカンデーヤへの言及を説明すべきかもしれません。プラーナに書かれていることですが、マールカンデーヤは16年間しか生きられないよう運命づけられていて、彼はシヴァに祈り、永久に16歳であるという恩恵を授かりました。バガヴァーンはそれに言及し、神聖なる恩寵の明白で劇的な介入はとても例外的であるという彼の趣旨を強調しました。

 いつ、なぜ、誰に恩寵が訪れるか人は言うことはできないとウパニシャッドの中で述べられています。それが選ぶ者にだけそれは到来すると言われています。百人が努力するかもしれませんが、その中の一人か二人だけが選ばれるのかもしれません。恩寵について、それが予測不可能であるということ以外、誰も何も予測できません。

 ここで、私の本 Day by Day with Bhagavan に記載されたポール・ブラントンからの以下の引用文に目を向けるのは興味深いでしょう。

 「神聖なる恩寵とは、活動中の広大無辺な自由意志の一つの顕現です。一切の自然法則に優越し、自然法則を相互作用にによって変更しうる、それ独自の未知の法則を通じ、それは物事の成り行きを不可思議な方法で変更できます。それは宇宙の中で最も力強い力です。」

 「それは完全な自らの委ねによって発動されたときにのみ、降りてきて、働きます。神は全ての存在のハートに住んでいるため、それは内から働きます。そのささやきは、自らの委ねと祈りによって清められた心の中でのみ聞くことができます。」

 上の二つの引用文は、D.C.デーサーイーという人による Divine Grace through total self-surrender と名づけられた本の中に含まれ、バガヴァーン自身が、その本に通読するとすぐ、それらを我々に読み上げました。

 神の恩寵は予測不可能であり、罪を免じ、カルマを消す力を持つという私の発言は、この恩寵が努力なしに得ることができること意味すると受け取られるべきではありません。逆に、大変な努力が必要です。人は、独力で自分自身を高めることができないことを認め、神の御足にくずれ落ち、叫ばなければなりません。「主よ、私は弱く、無力です。あなただけが私を救えます。私はあなたを寄る辺とします。あなたが私に望むことを行ってください」。これがなすべき努力です。我々自身のちっぽけな努力の無益さを理解した後の無努力の達成に向けての努力です。タゴールが言うように、「おぉ、汝自身の肩に汝自身を担わんとする、愚か者よ!おぉ、汝自身の門戸に物乞いをしに来る、乞食よ!一切を担うことができ、後悔して後ろを振り返ることのない彼の手に汝の一切の重荷を委ねよ」。我々がこれをするとき、神が責任をとるとタゴールは言います。「私が舵(かじ)を手放すとき、御身がそれを手にする時期が来たことを私は知る。なすべきことは即座になされるだろう。このあがきは無駄である」。

 宗教とは、私見では、人間の心に狼狽と絶望でなく、慰めと安堵をもたらすものであるべきです。もしそれができないなら、他の点においてどれほどあっぱれなものでも、知識人の称賛を勝ち取るためにどれほど哲学的思索にふけっていても、私はそれに用はありません。もし信奉者が神に保護を求めて近づくなら、「親愛なる息子よ、私はあなたを愛してますが、あなたを抱き上げ、私の保護下にあなたをかくまってあげたいのはやまやまなのですが、私の王国のおきては、あなたが戻ってきて、あなたの罪を取り除くか、もしくは、カルマを使い果たすまで、あなたを助けられないというものなのです」と言う神なるものに私は用はありません。むしろ私は神のことをキリストの放蕩息子のたとえ話の父親、道に迷った息子を絶えず注意深く捜していて、彼が引き返し、家路につくのを見た瞬間に、彼がまだ遠くにいるときでさえ、彼のもとに駆け寄り、抱擁し、家に連れ帰って、彼を洗い、真新しい衣服を与え、ごちそうのために太った子牛を屠った父親のようにみなすことを好みます。私は神がそのようであると本当に信じています。フランシス・トンプソンが The Hound of Heaven の中で言うように、神の恩寵こそが我々を追い求めていて、我々こそが逃げていっているのです。我々が世界の安っぽい目を引く飾りから背を向け、(「放蕩息子」のたとえのように)豚たちとの付き合いと我々が豚たちと分かち合ってきたもみ殻や皮の食事を断ち、神の方に向くのなら、その時、我々が神に向かって歩む一歩ごとに、神が我々に向かって十歩歩むと言われています。キリストと他の霊性の師たちはこう述べており、私はカルマの法則のもとに肉を一ポンド要求するシャイロックよりもむしろ彼らを信じることを好みます。バガヴァーンは Who am I? の中で言いました。「どれほど人が罪深くても、『あぁ、私は罪びとだ。どうして私が解放を得られるのか』と悲しみに沈んで泣き叫ぶのをやめ、自分が罪びとであるという思いすら捨て去り、熱心に自らへ瞑想を続けるなら、彼は間違いなく改められます」。

映画「ナザレのイエス」から放蕩息子のたとえ話

 私の信条は次のようです。「神聖なる恩寵を信じなさい。完全に自らを委ねて、それを請い求めなさい。そうすれば、あなたは救われるでしょう。一切の哲学的論争をいたずらに学識ある人々に任せなさい。あなたがただ彼のほうに向き、彼を寄る辺とするなら、あなたを迎え入れたいと切に願っている神に満足しなさい」。

 バガヴァーンは救いへの一つの確かな道として完全な自らの委ねの道を推薦し、献身を「ジニャーナの母」と呼んでいます。かのよく知られた初期のバガヴァーンの信奉者、シヴァプラカーシャム・ピッライ-彼のために Who am I? が書かれたのですが-は、彼の詩の一つの中で言います。「あなたと私、他の全てを動かす力があります。あなたの自我をその母の足元に置きなさい」。バガヴァーンの様々な行為と発言から、委ねの道を私にとって最良の方法だと彼がみなしていたことにわずかの疑いもありません。解放は自らの知-それは、自らでいることです、なぜなら、知ることとはいることだからですーを通じてのみ可能であると彼がはっきりと明言したことは真実です。けれども、それがもたらされるのは、必ずも、完全に委ねた者に、です。

(原注)
*1 バガヴァッド・ギーター、18章、59詩節
*2 同上、18章、66詩節
*3 彼女に関する記事について、小誌の1966年6月号、p105参照

2018年2月9日金曜日

マハルシと献身の道 - 「労苦し、重荷を背負う汝ら皆よ、私のもとに来たれ」

◇「山の道(Mountain Path)」、1964年10月、p206~209

マハルシと献身の道

A.デーヴァラージャ・ムダリアール
デーヴァラージャ・ムダリアールは、バガヴァーンの最古参の信奉者の一人です。弁護士を職業とし、彼は言葉が正確で、表現が明確であり、それゆえ、しばしばバガヴァーンに頼まれ、西洋の訪問客の質問に答える折に通訳を務めました。数年間、彼はアーシュラム日記をつけ、Day by Day with Bhagavan という題名で二冊出版されています。彼はまた My Recollections of Bhagavan Sri Ramana も記しています。両方ともアーシュラムから出版されています。上の説明は彼を理知的に思わせるかもしれませんが、以下の文章が示すように、彼の心根は純粋なバクタです。
    インドだけでなく、全ての宗教において、献身または委ねの道は、神に到達する、または、解放を得るための一つの方法として重んじられてきました。ヒンドゥー教で推奨される四つの主要な道は、カルマ、バクティ、ヨーガ、ジニャーナ-行為、献身、ヨーガに関する発達、知識であり、人間の人生における務めとは、それらの中の一つまたは複数の道によって神に達せんとすることであると考えられています。上の四つは、様々な人々が霊的に進化し、完成を得ることを願って修練する多様な技法を含みます。バガヴァーン・ラマナはよく、それら全ては良く、全て難しいが、大志を抱く者の気質や能力に応じてのみ、いずれかが彼に最も魅力的に映り、最も簡単に見えるかもしれないと言いました。彼はまた、どのような方法を修練しようとも、人は最終的にジニャーナに、つまり、絶対者、自らなる神聖な知に到達しなければならないと言いました。

 自らの実現を得るための最短かつ最も直接的な道は、「私は思う」「私は欲しい」「私はする」などのように我々が毎度言及する、この「私」または自我とは本当は誰か、どこからそれは生じるのか探求することであるとバガヴァーンが説いたことはよく知られています。この「私」とは心の別名であり、再び心とは思いの塊に過ぎません。心が外に出て、世界に関する思いに耽溺するのを許さずに、心が飛び出すところの源を見つけるために、絶え間なく、断固として心自体に心を引き戻すなら、心は我々を自らに連れ行くだろうと彼は説きました。この方法はヴィチャーラ、探求として知られており、ジニャーナ・マールガの部類に入ります。

 しかしながら、バガヴァーンが彼自身、ジニャーニと同じぐらいバクタである、知の人であるのと同じぐらい献身の人であったことは、あまりよく知られていません。私はこのテーマに関して詳細に記せますが、それはほとんど必要ありません。Five Hymns to Arunachala を一読すれば、彼がどれほど真摯で熱心な信奉者であったかを証明するのに十分です。私がここで明らかにしたいと望むことは、自らの探求を推薦し、質問者に「私は誰か」彼自身に問うように言うとき、バガヴァーンはしばしば次のように言って終えました-「もしあなたがそうする力がないと言うのなら、全ての面倒を見る唯一なる偉大な力に身を委ねなさい」。私は彼がこれを言うのを一度だけでなく、何度も聞きました。彼の最初期の本、かの偉大な短い著作 Who am I? の中でさえ、彼は言います-「神は、どれほど重くとも、全ての重荷を担う用意ができています。あなたの全ての重荷も彼に委ね、自由になってはどうですか。鞄を網棚に置かずに膝や肩に乗せている鉄道列車の乗客のような馬鹿な真似はよしなさい」。カルマ・マールガであれ、ヨーガであれ、私は彼が自発的にこのように推奨するのを聞いたことがありません。

 これに関連して、バガヴァーンの最古参の信奉者の一人であり、バガヴァーンの教えについて語る権威を疑い難く持つであろう方、故シヴァプラカーシャム・ピッライによるタミル語の詩からの一節を引用したいと思います。「全ての者にあなたはこの教えのみを授けた-あなたは誰か熟慮し、見つけ出しなさい。その後、もし、さらに誰かが従順にそれ以上を望むなら、あなたは最後の助言として言う-あなたや私、全てを動かす力(シャクティ)が存在します。その母の足元にあなたの自我を引き渡しなさい」。

 我々の国の多くの古の聖者たちだけでなく、二人だけ言及するなら、シュリー・ラーマクリシュナ・パラマハンサとシュリー・ラームダースのような近代の聖者たちも、委ねというバクティの道を推奨しています。プラーナはさらに踏み込んで、この霊的暗黒時代、カリ・ユガの間は、バクティの道が最も適しており、最も修練しやすいと断言しています。何もかもを神に任せ、彼の足元に身を委ね、ただ彼の御名をいつも唱え続けなさい。他の何もする必要はありません-あなたは救われるでしょう。それが彼らの言うことです。

 しかし、誰が何と言おうとも、どれほどその方法が一見簡単に見えても、一たびあなたがそれを熱心に修練し始めるなら、委ねは、完全な本当の委ね、全く心に疑念を抱くことのない委ね、良いものであれ悪いものであれ、可もなく不可もないものであれ、あなたに降りかかる全てのものを神からもたらされるとして喜んで受け入れる委ねは、全くもって非常に困難なです。しかし、委ねが完全でないなら、効き目はないだろうと我々は教えられています。二つの物語があります-一つは偉大な叙事詩、マハーバーラタから、もう一つはシュリー・ラーマクリシュナ・パラマハンサによって語られたもので、これを例示しています。最初のものは、ドラウパディーの力強い夫たちが当時自由を失っていて、彼女が無防備になっていた時、邪悪なドゥルヨダーナとその友人たちが宮殿で彼女の衣服を脱がせようとし、彼女が最後の唯一の寄る辺としてシュリー・クリシュナに祈ったものです。しかし、彼女がサリーにしがみつき、腰からサリーを脱がされまいとする自然で、ほとんど無意識的な努力を放棄して初めて、彼からの助けがやって来ました。彼女が自分自身を助けようと苦闘する限り、神聖なる恩寵が彼女を助けるために湧き出ることはできませんでした。ラーマクリシュナによって語られる物語は、さらにいっそう力強いものです。洗濯人が衣類を洗っていた時、ある人がいちゃもんをつけ、彼をたたき始めました。洗濯人はヴィシュヌに助けを求めて叫びました。ヴィシュヌはその時、配偶者のラクシュミーとともに天界で興じていました。洗濯人の哀れを誘う叫び声を聞くや否や、彼は立ち上がり、地上に向かって駆け出しました。しかしながら、少しして、ラクシュミーは彼がのんびりぶらぶら歩いて帰って来るのを見ました。「どうしたんですか」と彼女は尋ねました。「どうしてあんなに突然、出て行ったのですか。それに、どうして今や急がずに戻って来たのですか」。
 
 主はそこで直ちに説明しました。「ある信奉者がたたかれて、私に助けと保護を願い求めました。それで、私は彼の救助に駆けつけなければなりませんでした。しかし、私がそこにつく前に、彼が自分自身を守るために棒を手に取りました。だから、どうして私が構う必要がありますか」。

 これがバガヴァーンが説いたことです-委ねは完全でなければならず、そうでなければ、効果的ではなくなるでしょう。あなたが霊的境地において何らかの進歩を期待しうる前に、あなたが持つもの全て、体、所有物、魂をグルに捧げる、差し出さければならないと我々の宗教文学の中で明確に説かれています。神、グル、自らは同等視されていることを我々はまた覚えておかなければなりません。そのような委ねは、我々の霊的目標、それをムクティ、モークシャ、ニルヴァーナ、解放や何とあなたが呼ぶのであれ、その達成のための十分かつ確実な手段として説かれてきています。アッラーフの意思への服従は、イスラム教の基本的な命令です。イエスは言いました。「労苦し、重荷を背負う汝ら皆よ、私のもとに来きなさい。そうすれば、私はあなた方に安息を与えよう」。クリシュナは言いました。「あなたの一切の義務を放棄し、私のみに寄る辺を求めよ。私はあなたを一切の罪から解放する。嘆くなかれ」。

 シュリー・クリシュナは、彼の御足に寄る辺を求め、完全に委ねるなら、他の何もする必要はない、他の何の義務にも気をもむ必要はないと明確に断言しました。この全き献身、自らの委ねの道は、全インド中の多くのバクタによって、特に、タミル地方の偉大なシヴァ派とヴィシュヌ派の詩聖たちによって、マハーラーシュトラのトゥカーラム、エークナート、ナームデーヴなど、そして、ベンガルのチャイタンヤによって、宣言され、従われてきました。私がすでに引用した、バガヴァッド・ギータのいわゆる「チャラナ・スローカ」で説かれるように、特にヴィシュヌ派は委ねの道を大変に重要視してきました。彼らはこの委ねをプラパッティと呼び、その教説をきわめて詳細に発展させ、その分枝がどれほど遠くまで及ぶか示しています。

 この「プラパッティ」の道の特に私にとって魅力的である一つか二つの側面にのみ言及しようと思います。例えば、他の道では神は目的であり、様々な他の物事が手段として使われるが、委ねの道では、手段と目的の両方が神であると彼らは言います。彼らが言う別のことは、他の道では二つ以上の手段がとられるかもしれないが、委ねの道では他の手段は必要ないか、許容さえされないということです。なぜなら、それは委ねへのあなたの信頼が完全でなく、それゆえにあなたの委ねそれ自体が存在しないことを暗示するだろうからです。彼らがこの論拠のために引用する一つの例示があります。ラーマーヤナで、インドラジットは「ブラフマー・アストラ」と呼ばれる強力な武器を使い、その神聖な力によってハヌマーンの手足をしばりました。ラークシャサたちは、しかしながら、念には念を入れようとして、彼を縄と鎖でも縛り始めました。するとすぐに、神聖なる武器は彼らのそれへの信頼の欠如のために働くのをやめました。完全に神に身を任せ、彼の愛と慈悲と力に安心し、彼の恩寵と意思による以外は何かなすことができると夢にも思わないことが、ヴィシュヌ派の信者によって説かれるプラパッティの方法であり、それは本当に熱心な信奉者にとって大変な価値があります。

 近代の聖者たちでさえ、グルに完全に委ねるなら、他の何もする必要はないと幸運な弟子たちに慈悲深くも言いました。かつてギリシュ・チャンドラ・ゴーシュがラーマクリシュナの前で涙を流し、どれほど単純で短くても、どの修練にも彼が従うことができないと言明したとき、ラーマクリシュナは喜んで彼に言いました。「では、私に委任状をください」-その意味することろは、「委ねなさい、そうすれば、後のことは私が行います!」。

 私はかつてバガヴァーンに言いました。「私はもう一人のギリシュです。あなた自身が私を救わなければなりません。全ての聖者にギリシュがいるはずです」。

 バガヴァーンは答えました。「でも、彼は委任状を渡しました」。

 「私も私に可能な程度、委ねました」と言いました。「それ以上、私に何ができますか」。

 バガヴァーンは何も言いませんでした。

 「委ねなさい、そうすれば、私があなたの面倒を見ます」と言うのは、バガヴァーンのやり方ではありませんでした。しかしながら、その点に関して以下の出来事は意義深いものです。バガヴァーンが体を離れる一年ほど前、ある午後、私は彼に言いました。「バガヴァーン、私はシヴァプラカーシャム・ピッライによる詩から3詩節歌います。なぜなら、それは私よりも上手く私が言いたいことを表せるからです」。そして、私は歌いました。その意味は次のとおりです。「私はあなたの教えにも指導にも従ってきませんでした。しかし、救いがたい獣だとして信奉者に愛想をつかし、見放すことはグルにとってふさわしいことですか。あなたがこのように私に我が道を行かせるのなら、何が私に起こることになるでしょうか。私は改心しませんし、あなたは私を正しも、変えもしないでしょう。我が主よ、あなた以外に今世や来世において他の助けが何か私にあるのでしょうか。では、どうお思いなのですか。これはあなたにとって正しい振る舞いですか」。

 バガヴァーンはすぐには返答せず、それは私にいくらか失望をもたらしました。一、二分後、彼は言いました。「私が何をしてもしなくても、あなたの務めは、ただ委ね、じっとしていることだけです」。

 幾人かの友人は、私がこれを「心配しないでいいです。私は何をすべきか知っているし、それを行うでしょう」ということを意味すると受け取ってかまわないと私に言いました。逆に、それは「あなたが本当に委ねるなら、不平を言う権利はありません。ですから、信奉者が不平をいうなら、それは委ねていないという印です」ということを意味するだけかもしれません。いずれにせよ、私は楽観主義者でいるのを好み、どれほど私の委ねが不完全であろうとも、彼の恩寵が完全である限り、彼が私の面倒を申し分なく見てくれるであろうと信じています。

 私は最近、Bhavan's Journal の中で、ヴァジュレシュワリに30年ほど住み、数年前に亡くなったスワーミー・ニティヤーナンダ(⇒)の教えのいくらかを読みました。弟子が彼に尋ねました。「私は何をすべきでしょうか」。彼は返答しました。「あなたは何もする必要ありません」。私はそれを「何もかもをグルに委ね、託す以外何も」ということを意味すると受け取ります。

 知識人はバクティの道を見下したくなるかもしれませんが、そのような態度は正当化されないということを十分に示すほど私は記したと思います。これを例示するための物語をもう一つして終わりにしましょう。トータープリーは、ラーマクリシュナが、タントラ教徒のグルをすでに得ていた後、グルとみなしたアドヴァイタの唱道者です。彼は人々が人格神を崇拝することに我慢ならず、ラーマクリシュナが始終カーリーについて話し、彼女を崇拝し、「母」と呼んでいることをからかっていました。彼は以前に一度も健康を損ねたことがありませんでしたが、突如、深刻で痛みがひどい種類の赤痢に襲われました。それはとてもひどかったため、数日後、彼はガンジス川に身を投げようと決意しました。彼は川に入り、対岸に向かっておそらく半マイルかそこら歩いたところで、水が膝よりも決して深くならないことに気づきました。ついに、ラーマクリシュナの「母」、カーリーが彼の前に現れ、そのようにして奇跡的に彼を改心させました。

 それゆえ、幾人かの哲学者や聖者さえもが委ねの道を非難するとしても、謙虚な信奉者をがっかりさせないようにしましょう。プリンの味は食べてみなければわかりません。それはあまねく世界中で、インドのバクタだけでなく、ペルシャのスーフィ、西洋東洋双方の神秘主義者に対して、うまくいき、成果を上げてきました。とりわけ、シュリー・クリシュナは、彼のもとに来て、彼の足元に寄る辺を求める全ての者を彼が救うという保証を与えています。疑うのはよして、委ね、永遠の安らぎと至福を達成しようではありませんか。

2017年2月1日水曜日

バガヴァーンのドヴァーダクシャラ・マントラ - その由来と意味

◇「山の道(Mountain Path)」、1971年7月、p168 & 「THE MAHARSHI」、2005年3/4月 etc

そのマントラはどのように私のもとにやって来たのか

T.K.S

 オーム・ナモー・バガヴァテー・ヴァースデーヴァヤというマントラは、若かりし頃、私を大変に魅了していました。それは私を大いに喜ばせたため、私は主ヴァースデーヴァについて絶えず考えていました。私にはこの体が40代に死ぬだろうという予感があり、その時までに主のダルシャンを得たいと望んでいました。私は断食し、絶え間なく主ヴァースデーヴァへの献身を修練しました。私は『シュリー・バガヴァッド・ギーター』と『シュリー・バーガヴァタム』を大いに喜んで読みました。その時、ギーターの中で、Jnani tu atmaiva me matam(私の見解では、ジニャーニは私自身の自らである)を読み、それはストレートに私の心に響き、次の思いが私に浮かびました。「ヴァースデーヴァ自身である、バガヴァーン・シュリー・ラマナが身近にいるのに、どうして私は別にヴァースデーヴァを崇拝すべきなのか」。留意されるべきは、この全てが、シュリー・バガヴァーンと共に彼のアーシュラムに居を定める前の私の若かりしころのことだということです。そのため、忠誠心に矛盾がないように、私はただ一つのマントラ、ただ一人の神(デーヴァタ)、ただ一冊の聖典が欲しかったのです。容易にシュリー・ラマナ・パラマートマンは崇拝すべき神に、彼の『Collected Works』は福音になりました。マントラに関しては、オーム・ナモー・バガヴァテー・シュリー・ラマナーヤが、オーム・ナモー・バガヴァテー・ヴァースデーヴァヤにきっちり対応するということが直感的に閃きました。この新たなマントラの文字を数えたのですが、それが(サンスクリット語で)12文字含んでいることに気づき、私はとてもうれしく思いました。私はこの全てをシュリー・バガヴァーンに伝え、彼はそのマントラを承認して下さいました。

 進んだ修練者(サーダカ)はこれを笑い、「直接浸(ひた)るべき至福の大海がそこにあるのに、どうしてマントラが必要なのか」と言うかもしれません。実を言えば、その中で私は伝統的な修練の方法(ウパサーナ)に従おうとしていたのです。それはバクティ(献身)の主要な要素の一つを形成しています。シュリー・バガヴァーンは彼の本質が全ての目撃者であることを明らかにしました。それでも、アドヴァイタは態度の中にのみあるべきであり、外の行為に決して示されてはならないという明確な訓令があります。

心中、常に不二の感覚を保て
しかし、決してそれを行為に表すな
我が息子よ、不二の感覚はたとえ三世界に適用されても
グルに対して用いられるべきでない

-シュリー・バガヴァーンのSupplement to the Forty Verses on Reality

 このようにして、オーム・ナモー・バガヴァテー・シュリー・ラマナーヤなるマントラが私のもとにやって来たのです!


Gayathri Girishによる「オーム・ナモー・バガヴァテー・シュリー・ラマナーヤ」


オーム・ナモー・バガヴァテー・シュリー・ラマナーヤ

T.S.ヴァイダヤナタン

 このマントラは、熱心な信奉者、シュリー・T.K.スンダレーサ・アイヤルに明らかにされ、続いて、バガヴァーンに承認され、彼の存在を希求します。それはバガヴァーンのドヴァーダクシャラ・マントラとして知られており、それが12文字であることを意味します。

 ヒンドゥー教では、実際のマントラを隠しておくことが一般的であり、実際にそのマントラを言うことなく、それを5か6文字のマントラと呼びます。これはそのマントラの高潔さ、純粋さを守るためになされ、手ほどきを受けてない人がそれを誤用しないためです。我々がシュリー・ナーガンマの『Letters from Sri Ramanasramam』の中で、ドヴァーダクシャラ・マントラが牝牛のラクシュミーの前でその臨終の日に唱えられていたということを読むとき、これが彼女が言及していたマントラです。実際の意味は、手短には、以下になります。

・オーム
 これは主シヴァのビジャ・マントラであり、その起源をジーヴァとシヴァの合一を表す、ソーハムに由来します。それはまた、主シヴァの内在的な形のことを指しています。それは時にプラナヴァと呼ばれ、全創造の背後の根源的な音であると信じられています。

・ナモー
 サンスクリット語のマナは、心を意味します。ジーヴァの心は世界に向かって出ていきます。言葉を逆さにすると、マナはナマになり、神もしくは内なる自らを頼りにすることを意味します。ナマハは非常に神聖な名前の共通の結びであり、「私はあなたを頼りにする」を意味します。上のように、ナモーは文法上強制されています。

・バガヴァテー
 バガを所有する者。神性を示す六つのバガがあります。神かその真の化身のみ、それらを所有できます。その特質とは、万能の力、ダルマ、名声、繁栄、知識、離欲です。

・シュリー
 いくつか意味がありますが、この文脈では、「恵み深い」を意味します。

・ラマナーヤ
 自らに楽しむ者

 そのため、マントラの意味は、「恵み深き神聖な主ラマナに帰依します」です。


Kali Dasによる「ラマナ・サッグル」、リズミカルで誰でも歌えるシンプルさ

ラマナ・サッグルx8
オーム・ナモー・バガヴァテーx3 シュリー・ラマナーヤ x2
アルナーチャラ・シヴァx6


-サーダナに関するバガヴァーンとの対話-

私が見た彼 - No.3

クンジュ・スワーミー

 約12年間、バガヴァーンに直接仕えて過ごした後、私はひたすらサーダナに専念したいという衝動を感じ始めました。しかしながら、バガヴァーンへの直接の奉仕を放棄することに私はたやすく甘んじられませんでした。私は数日間その問題をじっくり考えていたのですが、答えは奇妙な方法でやってきました。

 ある日、私が講堂に入ると、バガヴァーンが、彼への本当の奉仕とは彼の体に必要なものを世話することではなく、彼の教えの本質を追及すること、すなわち、自らを実現することに集中することであるとそこにいた他の人々に説明しているのを耳にしました。言うまでもなく、それは自動的に私の疑問を晴らしました。

 それゆえ、私はアーシュラムの務めを放棄しましたが、その時、どのように、実際、丸一日を実現の探求に費やすべきか決めるのが困難であると気づきました。私はその問題をバガヴァーンに委ね、彼は自らの探求を私の最終目標とし、自らの探求、瞑想、ジャパ、聖典の読誦をかわるがわる修練し、行っているものに飽きたり、困難であると感じるや否や、別のものへ変えるよう私に助言しました。やがて、サーダナは自らの探求、純粋な意識、または、実現(の探求)に安定するでしょうと彼は言いました。

 どのような道を熱望者に勧める前にも、バガヴァーンは初めに、どのような側面、形、または道に彼が自然と惹かれるのか彼から聞き出そうとし、その後、その人にそれに従うよう勧めたものでした。彼は時に、プージャから、ジャパ、ディヤーナ、そして最後にヴィチャーラへと進む、サーダナの伝統的な段階を是認したものでした。しかしながら、これらのどの方法でも、途切れのない厳しい修練は、それ自体、実現へ導くに足ると彼はよく言いました。
(THE MAHARSHI、1991年7/8月、抜粋)

2015年9月17日木曜日

『マハルシの福音』 第1巻 第7章 グルとその恩寵

◇『Maharshi’s Gospel -The Teachings of Sri Ramana Maharshi』 2009年15版、p26-30

マハルシの福音

第1巻 第7章 グルとその恩寵

信奉者:
 グル・クリパとは何ですか。どのようにそれが自らの実現に通じるのですか。

マハルシ:
 グルは自らです・・・ 時にその人生において人はそれに不満足になり、そして、彼が持つものに満足しなくなり、神への祈りなどを通じ、彼はその望みの満足を求めます。彼の心は徐々に清められ、終に、彼は神を知ることを、世俗的な望みの満足よりも彼の恩寵を得ることを切望します。その時、神の恩寵が顕れはじめます。神はグルの形をとり、信奉者に姿を現し、彼に真理を説き、さらに交際によって彼の心を清めます。信奉者の心は力を得て、その時、内側に向かうことができます。瞑想によって、それはさらに清められ、わずかの波立ちもなく、静かなままあります。その穏やかな広がりが、自らです。

 グルは「内部」と「外部」の両方にいます。「外部」から、彼は心が内側に向くように後押しし、「内部」から、彼は自らに向かって心を引き寄せ、心を静める手助けをします。それがグル・クリパです。神とグルと自らの間に違いはありません。

信奉者:
 神智学協会では、彼らは彼らを導いてくれる師たちを探し出すために瞑想します。

マハルシ:
 師は内にいます。瞑想は、彼が外側のみにいるという無知な考えを取り除くためのものです。もし彼があなたが待ち望む見知らぬ人であるなら、彼は必ずや姿を消しもするはずです。そのような移ろいゆく存在がどのような点で必要ですか。しかし、あなたが自分は分離しているや自分は体であると思う限り、その限りは「外」の師もまた必要であり、彼は体を持っているかのように現れるでしょう。自分自身と体との間違った同一視が止むとき、師は自らに他ならないと見出されるでしょう。

信奉者:
 グルは、手ほどきなどを通じて、私たちが自らを知るのを手助けしてくれるのでしょうか。

マハルシ:
 グルはあなたの手をとり、耳元でささやきますか。あなたは彼をあなた自身であるものだと想像しているかもしれません。あなたが自分は体を持っていると考えるために、あなたは、彼もまたあなたに具体的な何かをする体を持つと考えます。彼の働きは内に、霊的領域にあります。

信奉者:
 どうすればグルは見つかりますか。

マハルシ:
 神は、内在していて、その恩寵によって、愛する信奉者を憐れみ、信奉者の発達に応じてその姿を顕します。信奉者は彼が人であると思い、2つの肉体の間の関係を期待します。しかし、グルは、神または自らの化身であり、内から働き、その人が内なる自らを実現するまで、彼がその方法の誤りを悟るのを助け、彼を正しい道に導きます。

信奉者:
 では、信奉者は何をすべきですか。

マハルシ:
 彼はただ師の言葉に従い、次第に内に進みさえすればいいのです。師は「内」と「外」の両方にいます。彼はあなたを内側に駆り立てるための状態を作り出し、同時に、あなたを中心(the Centre)に引き寄せるために「内部」を準備します。そうして、あなたが中心に据えられるために、彼は「外」から後押しし、「内」から牽引します。

 あなた自身の努力によって世界を征服できるとあなたは考えています。あなたが外面的に挫折し、内側に駆り立てられるとき、あなたは「あぁ!人よりも優れた力があるのだ!」と感じます。

 自我は、ライオンより力が劣る何によっても支配下に置くことができないとても力強い象のようです。ライオンとは、この例えにおいて、グルに他なりません。まさにそのまなざしは、象のごとき自我を震え上がらせ、殺します。

 あなたの栄光があなたが存在しなくなるところにあると、あなたはやがて知るようになるでしょう。その状態を得るために、あなたはあなた自身を委ねなければなりません。その時、師はあなたが導きを受けるのにふさわしい状態にいることを見て取り、彼はあなたを導きます。

信奉者:
 手ほどきも他のどのような具体的な行為も与えないグルの沈黙が、どうして彼の言葉などよりも力強くなれるのですか。そのような沈黙は、聖典の学習よりもどのように優れているのですか。

マハルシ:
 沈黙は、最も強力な形の働きです。聖典がどれほど膨大で、断固たるものであっても、それらは効果を欠いています。グルは沈黙し、恩寵は全てに行き渡ります。この沈黙は、寄せ集められた全ての聖典よりも膨大で、より断固たるものです。

信奉者:
 しかし、信奉者は幸福を獲得できるのですか。

マハルシ:
 信奉者は師に彼自身を委ねます。そして、それは彼によって保たれる個人性のわずかの痕跡もないということです。委ねが完全であるなら、一切の自意識は失われ、その時、苦しみも悲しみもあり得ません。

 永遠の存在(Being)とは、幸福に他なりません。それは天啓(思いがけない発見)として訪れます。

信奉者:
 どうすれば私は恩寵を獲得できますか。

マハルシ:
 恩寵は自らです。それもまた手に入れることはできません。あなたはただそれが存在することを知りさえすればいいのです。

 太陽はただ輝きだけです。それは暗闇を見ません。それでも、あなたは太陽が近づくや否や暗闇は消え失せると話します。そのようにまた、信奉者の無知は、暗闇という幻影のように、グルを見ることで消え去ります。あなたは太陽光に囲まれています。それでも、あなたが太陽を見たいのなら、その方向に向き、それを見なければいけません。そのようにまた、恩寵は今ここにありますが、あなたが行う適切なアプローチによって見出されます。

信奉者:
 恩寵は探求者の成熟を早められませんか。

マハルシ:
 その全てを師に任せなさい。無条件で彼に委ねなさい。2つのことの内の1つが行われなければいけません-あなたが己の無力を悟り、あなたを助けてくれる高き力を必要とするために、あなた自身を委ねるか、もしくは、苦しみの原因を吟味し、その源の中へ入り、自らに溶け込むことです。どちらの道でも、あなたは苦しみから解放されるでしょう。神またはグルは、彼自身を委ねた信奉者を決して見捨てません。

信奉者:
 グルまたは神への平伏の意義とは何ですか。

マハルシ:
 平伏とは、自我が鎮まることを意味します。そして、それはその源に溶け込むということです。神またはグルは、表向きの跪拝(きはい)、お辞儀、平伏によって欺かれません。彼は自我がそこにあるかないかを見ます。

信奉者:
 バガヴァーンはその恩寵のしるしとして、彼の葉っぱからいくらかプラサードを私に下さらないのでしょうか。

マハルシ:
 自我について思うことなく、食べなさい。その時、あなたが食べるものは、バガヴァーンのプラサードになります。

信奉者:
 学のある人は、グル・クリパを必要としていないという意味において、悟り(Enlightenment)により適しているのではないのですか。

マハルシ:
 学識者でさえ、学のない賢者の前でお辞儀しなければなりません。無学は無知であり、教養は博学な無知です。共に真の目的について無知です。賢者は異なる方向において無知です。彼にとって「他」がいないため、彼は無知です。

信奉者:
 贈り物がグルに捧げられるのは、彼の恩寵を獲得するためではありませんか。そのため、訪問者はバガヴァーンに贈り物を捧げます。

マハルシ:
 どうして彼らは贈り物を持ってくるのですか。私がそれを欲しがりますか。たとえ私が拒んでも、彼らは贈り物を私に押し付けます!何のために?魚を捕まえるために餌を与えるようではありませんか。釣り人はぜひとも魚に食べ物を与えたいと思っていますか。いいえ、彼はぜひとも魚を食べたいと思っています!

信奉者:
 モークシャを得る前に順々に手ほどきを与えるという神智学の考えは真実ですか。

マハルシ:
 モークシャをある人生で達成する人々は、その過去生で全ての手ほどきを経たに違いありません。

信奉者:
 必ずしもこの世界においてではありませんが、ジニャーニは死後に4種か5種の仕事を選ばなければならないと神智学は言います。

マハルシ:
 仕事に従事する人もいるかもしれませんが、全て(の人がそうするの)ではありません。

信奉者:
 あなたは目に見えないリシたちの僧会を意識していますか。

マハルシ:
 目に見えないなら、あなたはどうやって彼らを見れるのですか。

信奉者:
 意識の中で。

マハルシ:
 意識の中に、外側のものは何もありません。

信奉者:
 私は彼らを実現できますか。

マハルシ:
 あなたがあなた自身の現実を実現するなら、リシや師のそれもあなたに明らかになるでしょう。ただ1人の師しかおらず、それは自らです。

信奉者:
 輪廻転生は真実ですか。

マハルシ:
 無知がある限りのみ、輪廻転生は存在します。

 実際は、今も昔も、輪廻転生は全くありません。今後も、まるでないでしょう。これが真理です。

信奉者:
 ヨーギはその過去生を知ることができますか。

マハルシ:
 あなたは過去を知りたいと思っていますが、現在を知っていますか。現在を見出しなさい。そうすれば、残りはそれに倣うでしょう。私たちの現在の限られた知識でもってさえ、あなたは非常に苦しんでいます。どうしてあなたはあなた自身にさらなる知識を背負わせなければならないのですか。さらに苦しむためですか。

信奉者:
 バガヴァーンは、他者に自らを実現させるために超常的な力(神通力)を使いますか。それとも、そのためにはバガヴァーンの実現という単なる事実で十分ですか。

マハルシ:
 自らの実現の霊的な力は、全ての超常的な力の使用よりも遥かに力強いものです。賢者の中には自我がないため、彼にとって「他者」はいません。あなたに授けることができる最高の利益とは何ですか。それは幸福であり、幸福は安らぎから生まれます。安らぎは妨げがないところにだけ君臨でき、妨げは心に生じる思いによります。心自体が存在しないとき、完全な安らぎがあるでしょう。人が心を消し去っていないなら、彼は安らぎを得て、幸福でいることはできません。そして、彼自身が幸福でないなら、彼は「他者」に幸福を授けることはできません。しかしながら、心を持たない賢者にとって「他者」はいないため、彼の自らの実現という単なる事実、それ自体が、「他者」を幸福にするのに十分です。

2015年1月1日木曜日

ムクティ、ムクタ、ムクティへの道々- ウパデーシャ・サーラムに基いて

◇「山の道(Mountain Path)」、1965年1月 p9~11

自らの実現への道々

B.V.ラーダークリシュナン博士

 ヒンドゥー教の四つのプルシャルタ、または、人生の目標-ダルマ、アルタ、カーマ、モークシャ(正義、繁栄、楽しみ、解放)-の中で、最後が最上のものとみなされています。チャルヴァカを除く、ヒンドゥー教の全思想体系は、サンサーラ、または、(輪廻)転生からの人の最終的解放を信じています。この最終的解放は、モークシャ、ニルヴァーナ、カイヴァルヤ、アパヴァルガと様々に呼ばれています。それを得るために、カルマ、バクティ、ヨーガ、ジニャーナという様々な道があります。シュリー・ラマナは、この号に引用されるウパデーシャ・サーラムの中で、その有効性に応じて、それらを段階に分けます。

 シュリー・ラマナは、アドヴァイタ・ヴェーダーンタの体現者です。彼は観念的な哲学者ではなく、理論を詳しく説明することを好みませんでしたが、現実の直接的体験からくる知恵を持っていました。

 彼が説いた解放、または、ムクティとは、ブラフマンと一体となることです。というよりむしろ、アートマとブラフマンの同一性は常に継続していて、幻によって隠されているだけであるため、それは至高なる自らと同一であるという自覚に目覚めることです。

 我々の視界から隠されていますが、この同一性は永遠に存在しています。「絶対的な意味において現実であり、全ての中で最上であり、虚空のごとく全てを貫通し、あらゆる変化を免れ、完全に満足し、不分割であり、その本質は自らの光であることであり、その中に善も悪もなく、結果もなく、過去や現在や未来が存在する余地のない、それ、かの無形なるものが解放と呼ばれている」(*1)。それは以前に存在しなかったものが存在するようになることではありません。なぜなら、何であれ存在するようになるものには終わりがあり、それゆえに束の間のものです。そのため、ムクティは達成や獲得ではなく、成るという過程の停止でしかありません。それは自らの廃絶ではなく、意識の拡大と輝きによる、その無限性と絶対性の実現です。それは未来の時に託されるべきではなく、スヴァルガやブラフマ・ローカや他のどのような名前で呼ばれる場所に位置づけられるべきではありません。それはただ在ります。

 シュリー・ラマナは、ムクティは得られるべき新たな何ものでもなく、我々の本質であると我々にしばしば思い出させました。「自らを実現するということは存在しません。自らは常に実現されています」(*2)。それを知ることのみが妨げられていて、その妨げを我々は無知と呼びます。「『束縛されている私は誰か』探求し、自らの本質を知ることのみが解放です」(*3)。自らの内には、束縛も解放も存在しません。無我の境地が、唯一なる現実です。

 インドの全ての聖賢のように、これはグルの恩寵を通じて実現されうると彼は確言しました。しかし、これはグルが我々の外側にいる別の個人ではなく、顕現した自らであることを暗に意味します。我々が我々自身を体と同一視する限り、我々はグルを我々の外側にいる別の身体的な個人であるとみなします。しかし、実際、我々は体ではなく、彼もまた体ではありません。実現とは、この理論的な理解を直接的な知識に転換することです。たとえ我々が体をグルと間違えても、彼自身はそのような誤りを犯しません。彼は我々を導くためだけに外側に現れます。これが、シュリー・ラマナが、自ら、神、グルは同じものであると述べた時に意味することです。そのため、彼には、「虎の口に陥った獲物が決して逃れることを許されないのとまさしく同様に、グルの恩寵を得た彼は、間違いなく救われ、決して見捨てられません」(*4)という素晴らしい発言をすることができました。

 では、誰がグルなのでしょうか。シュリー・ラマナがその用語を使う高度な意味において、グルは普遍的な自らとの途切れることのない意識的な同一性の中にいる完璧な聖者のみでありえます。「グルとは、自らの深遠な深みの中にいかなる時も留まる者です。彼は彼自身と他者の間のどのような違いも決して見ず、『私の周りにいる人々は束縛や無知の暗闇の内にいるが、私は悟った、または、解放された者である』という考えをまったく免れています。彼の冷静さはどのような状況下でも決して揺るがされるはずがなく、彼は決して動揺しません。」(*5)

 そのような人はジーヴァン‐ムクタ、生きているうちに解放された者と呼ばれます。「ジーヴァンムクタは外的な対象物の現実性を感じることをまったく免れている。ただそのような感覚を持つように見えるだけである。・・・彼の心は完全にブラフマンに溶け込み、永遠の至福を楽しんでいる。彼は二元性を免れている。目覚めているが、彼は目覚めの状態の性質を免れている。この体の内にいる間にさえ、影のように付き従う『私』と『私のもの』という考えの欠如が、ジーヴァンムクタの特徴である。彼は過去の楽しみを引きずらず、未来を気に掛けず、現在を平静を持って眺める。彼は苦楽によってかき乱されず、(輪廻)転生の束縛を免れている。」(*6)

 ジーヴァンムクタが無知の支配下にあることがありえるのでしょうか。ありうるということが伝統的に認められています。これは白いキャンバスの上の黒い影になぞらえられます-それは彼にどのような影響も及ぼすことはできません。彼の継続する身体的存在は、壺を作った後で、しばらくの間、回転する陶工のろくろに例えられます。シュリー・ラマナは、それを電気が切られた後でも数回、回転する扇風機に例えたものでした。アジニャーナレーシャ、または、無知は、ろくろの継続する勢いです。解放された人にとって、それはさらなるカルマを作りません。彼の中に活動として見えるものは、アカルマ、即ち、無為、無執着の行為でしかありません(*7)。

 完全な解放は体の破壊の後にのみ得られうると言う人たちもいますが、それは知る人々から受け入れられません。シュリー・ラマナは、「(ジーヴァンムクティとヴィデーハムクティの間の)違いは存在しません。尋ねる人々のために、体を伴う覚者がジーヴァンムクタであり、彼が体を脱ぎ捨てた時にヴィデーハムクティを得ると言われていますが、この違いは傍から見る人にだけ存在し、彼には存在しません。彼の境地は、体を脱ぎ捨てる前と後で同じです」(*8)と明確に断言しました。

 では、彼はいまだカルマに束縛されているのでしょうか。シュリー・ラマナは我々に完璧な回答を与えて、彼はもはや彼自身を体と同一視していないため、体は(束縛されている)かもしれないが、彼は(束縛されて)いないと言いました。「実のところ、覚者は一切の運命を超越し、体にも、その運命にも束縛されていません。」(*9)

 さて、目的地の検討から道へ移りましょう。シュリー・ラマナは、カルマ、または、行為は決して解放に通じえないと説きます(*10)。しかしながら、愛着なく、神への奉仕の精神において行われる行為は、解放の道を示し、心を清めることができ、そうして、より効果的な道をとることを可能にします(*11)。崇拝や儀式という身体的行為、復唱のような声による行為、そして、瞑想のような純粋な心による行為は役立ち、この順序で、それぞれが先のものよりも役立ちます(*12)。

 行為の一つの形である呼吸の制御についての彼の判断も同様でした。「呼吸の制御の修練は心を抑制することに役立つだけであり、その最終的消滅をもたらすことはできません。」(*13)

 実際、彼は呼吸の制御は独立した技法ではなく、心の制御へ通じる道であると説きました。「呼吸の制御は心の制御に役立つものであり、そのような何らかの助けなくして心を制御できないと気づく人々のために勧められます。心を制御し、集中できる人々にとって、それは必要ありません。人が心を制御できるようになるまで、最初それを使うことはできますが、その後、放棄されるべきです」(*14)。「心は呼吸の制御の修練によって退きますが、呼吸と生命力の制御が継続する限りのみ、そのように退いたままにあります。それらが放たれる時、心もまた放たれ、即座に外に向かい、その微細な傾向の力を通じ、さ迷い続けます。」(*15)

 さあバクティの道へやって来ましたが、シュリー・ラマナは、熱烈な献身を通じて一切の思いを超え、真に「在る」ものの内に留まることが、至高なるバクティのまさにその本質であると言いました。真実のバクティは、自我を完全に委ねた結果、それが何も残らないことであり、自らの探求によって自我が存在しないと発見するのと同じことになると説きました。「ただ二つの道しかありません」と彼はしばしば言いました。「あなた自身に『私は誰か』問いなさい。もしくは、委ねなさい。」

 自らの実現への最も直接的な道が、自らの探求であると彼は説きました。それは、自らがすでに実現されていないと人に思わせる障害物を取り除くことによって、自らの実現へ直接的に通じます。「たとえ心が他の手段によって退くにしても、それは見かけ上そうあるだけです。それは再び生じます。」(*16)

 すでに説明したように、全ての技法の有効性を段階に分けましたが、時折、シュリー・ラマナは全ての方法を容認しました。彼はまた、自らの実現という最終的な境地は、どのような道やどのような宗教を通じて近づいても同じであると言いました。しかしながら、最も効果的な方法は、自らの探求です。「カルマ、バクティ、ヨーガ、ジニャーナの唯一の道は、カルマ、ヴィバクティ(献身の欠如)、ヴィヨーガ(分離)、アジニャーナ(無知)を持つのは誰なのか探求することである。この探求を通じて、自我は消え、それらの否定的な性質のどれもがかつて存在しなかった自らに住まう境地が真理として残る」(*17)。様々な色の牝牛からとられても、牛乳が一様に白色であるのとまさしく同様に、実現もまた、どのような宗派に属するのであれ、全ての人々にとって一様です(*18)。

 実際、自らの内に自我を溶け込ますことに通じるなら、全ての道は良いものです。信奉者が委ねと呼ぶものを、アドヴァイティンは知と呼びます。両者が同様に、自我をその源まで連れ戻し、そこにそれを溶かします(*19)。一方は、愛の祭壇の上に自我を捧げ、他方は、それが存在せず、決して存在しなかったことを発見します。自我の非存在という同じ究極の地点に、両者が到達します。

(*1)『Vedanta Sutras with Sankara's commentary』、1-1-4
(*2)『Talks with Sri Ramana Maharshi』、p. 490. Sri Ramanasramam. v-
(*3)「Who Am I?」、p. 46-47. (『Collected Works of Ramana Maharshi』、Rider & Co.)

(*4)同上、p. 44.
(*5)『Ramana Maharshi and the Path of Self-Knowledge』 Arthur Osborne著、p. 140. Rider & Co.
(*6)『Shankaracharva's Viveka Chudamani』、w. 429-436.

(*7)『Bhagavad Gita』、IV, 20.
(*8)『Teachings of Ramana Maharshi in his own words』、p. 192、 Arthur Osborne編, Rider & Co.
(*9)同上、p. 188.
(*10)(この号に記載された)「Upadesa Saram」、 v. 2.
(*11) 同上、 v. 3.
(*12) 同上、 v. 4.

(*13)「Who am I?」、p. 43
(*14)『The Teachings』、p. 146.
(*15)「Who am I ?」、p. 42

(*16)同上、p. 42.
(*17)「Supplementary Forty Verses」、 v. 14 (『Collected Works』).
(*18)「Atma Satshatkara」、 v. 42 (『Collected Works』).
(*19)『Day by Day with Bhagavan』、 vol. 11、 p. 35. Devaraja Mudaliar著, Sri Ramanasramam.

2014年12月25日木曜日

父なる神の御心への委ね - イエス・キリストの系譜

◇「山の道(Mountain Path)」、1977年1月 p27~29


神の御心と委ね

グラディス・デム

 旧約聖書と新約聖書の間に対立を見出すことは賢明ではないでしょう。なぜなら、イエス・キリストは、「私が律法 や預言者を廃する ために来たと思ってはいけません。廃するためではなく、成就するために来たのです 」(マタイ、5. 17)と明確に述べました。

 モーセは十戒を受け取りました。イエス・キリストはそれらの戒めの遵守を繰返し述べました。彼は、「それゆえ、これらの最も小さき戒めの一つでも破り、またそのように人に教えたりする者は誰であれ、天の王国で最も小さき者と呼ばれるでしょう。しかし、これを行い、またそのように教える者は誰であれ、天の王国で大いなる者と呼ばれるでしょう」(マタイ、5. 19)と言いました。

 十戒は魂を浄化に導き、徳のある探求者を「約束の地」に導きます。それをイエスは「まるで理解を超えた平安」(*1)と呼びました。

 それら十戒にキリストのものが加えられました。「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ、15. 12)。

 「全ての恐れを追い払う」(*2)その愛は、キリストの中に例証されました。彼は旧約聖書の律法を神の愛で飾りました。

 「あなたは殺してはならない、と昔の人々によって言われてきたことは、あなたがたの聞くところです。・・・しかし、私はあなたがたに告げます。・・・あなたの敵対者とすみやかに和解しなさい。」 

 「『目には目を、歯には歯を』と言われてきたことは、あなたがたの聞くところです。しかし、私はあなたがたに告げます。あなたがたは悪に抗わないように。誰があなたの右頬を打っても、左もまた彼に向けなさい。」 

 「『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われてきたことは、あなたがたの聞くところです。しかし、私はあなたがたに告げます。あなたがたの敵を愛し、あなたがたをののしる彼らを祝福し、意地悪くあなたがたを利用し、虐げる彼らのために祈りなさい。-天にましますあなたがたの父(なる神)が完全であるように、あなたがたも、それゆえ、完全となりなさい。」(マタイ、5. 21, 25, 38, 43, 44, 48)

 キリストは神の愛、アッバを全人類の父(なる神)として定めました。徐々に、キリストは、完全な委ね を通じて、父(なる神)の御心への道案内をします。妥協は存在しません。「誰も二人の主人に仕えられません。・・・あなたがたは神と富に仕えることはできません。」(マタイ、6. 24)

 また、「『主よ、主よ』と私に言う者がみな、天の王国に入るのではなく、天にまします我が父(なる神)の御心を行う者が(天の王国に入るのです)!」(マタイ、7. 21)

 ここで、キリストは、自我の意思 を神の御心 へ委ねることが、精神的な王国を探す巡礼者に必須であると説きます。

 祈りに関して、イエス・キリストには伝えるべきことがたくさんありますが、一つの必要条件は誠実さです。あるパリサイ人たちが弟子たちをパンを食べる前に手を洗うことを怠ったと非難した時、イエスは彼らを叱責しました。「あなたがた、偽善者よ、イザヤはあなたがたについて適切に予言したものです。『この人々は口でもって私に近づき、口先だけで私を敬うが、彼らの心は私から遠く離れている』。」(マタイ、15. 7)

 イエスの叱責は、律法の外側の遵守のみに固執するが、人に命を与える内なる真理を無視する人々へ向けられています。

 誠実さはキリストの言葉の中で際立ったものであり、彼が人々に祈る方法を教える前に、人々に向けて語られたものです。「あなたがたが祈る時、あなたがたは偽善者たちのようであってはいけません。なぜなら、彼らは人々に見られようとして、ユダヤ教会堂の中や通りの角に立って祈ることを好みます。まさしく私はあなたがたに告げますが、彼らは彼らの報いを受けています。

 「しかし、あなたが祈る時、あなたはあなたの私室に入り、そして、あなたが扉を閉めた時、密やかにまします、あなたの父(なる神)に祈りなさい。密やかにご覧になる、あなたの父(なる神)は、憚ることなくあなたに報いるでしょう。・・・あなたの父(なる神)はあなたがたが要するものを、あなたがたが彼に求める前に、ご存じです。

 「ですから、あなたがたはこの方法にならって祈りなさい。

   天にまします我らの父よ
   あなたの御名が尊ばれますように。
   あなたの王国が来ますように。
   あなたの御心が、天に行われるように、地に行われますように。
   私たちの日々の糧を、今日、私たちにお与え下さい。
   そして、私たちが私たちの負債者を免じるように、私たちの負債をお免じ下さい。
   そして、私たちを誘惑に導くことなく、私たちを悪からお救い下さい。
   なぜなら、その王国、その力、その栄光は永遠にあなたのものだからです。アーメン。」

    Our Father which art in heaven,
    Hallowed be thy name.
    Thy kingdom come.
    Thy will be done on earth as it is in heaven.
    Give us this day our daily bread.
    And forgive us our debts, as we forgive our debtors.
    And lead us not into temptation, but deliver us from evil.
    For thine is the kingdom, and the power, and the glory, for ever. Amen.

アンドレア・ボチェッリによる「主の祈り」、アメリカのコダックシアターからのライブ(2009)

 この祈りは「主の祈り」と呼ばれていて、その意味は真理の探求者の受容性に応じて明らかにされます。聖なる知識は多くの段階で授けられます。

 イエス・キリストが祈りを言い表わす前に、彼は感覚‐世界がそれへ続く「扉」を閉めることによって脇へやられねばならないと教えました。「私室」とは我々の魂のかの隠された聖域であり、そこで父(なる神)との密やかな面会が催されます。ここで、目には見えない愛は、すでに我々が必要とするものに気づいており、「私たちが要する 」ものを現わすでしょう。

 父(なる神)の御心への委ねが、内なる聖殿への鍵です。

 主の祈りは、その貴重な知恵を我々の受容性に応じて明らかにします。それは次のように解釈されるかもしれません。

 我らの父よ -「何と素晴らしいことですか、おお、神よ、あなたをアッバ、父(なる神)として知ることは!あなたは創造者であり、守護者、生けるもの全ての最愛の親です。これを知る私たちの心を喜びが満たします」。

 天にまします -「あなたは我々の魂に住まう方です。天の王国は内にあります。あなたの不死なる領域が、私たちの真の住まいです」。

 あなたの名が尊ばれますように -「『私は在る、が私である』があなたです。あなたの名は神聖です!私たちはあなたの御名の神聖な沈黙の内のあなたの在る‐ものの前にお辞儀します」。

 あなたの王国が来ますように -「あなたの王国とは、聖霊のことです。私たちの曇った視界に光がさし、あなたの聖霊が私たちの真中に来ますように」。

 あなたの御心が、天に行われるように、地に行われますように -「私たちの限られた意思があなたへ完全に委ねられますように。なぜなら、ただそうしてのみ、あなたの御心は、あなたの子供たちである私たちを通じ、地に顕れます」。

 私たちの日々の糧を、今日、私たちにお与えください -「あなたは私たちが要する全てをご存じです。魂と体を養うために、あなただけを頼りとするように私たちにお教え下さい。過去を振り返らず、明日を思い悩まず、私たちは私たちの毎日に必要なものを完全にあなたに委ねます。今、あなたの内に生きるように私たちにお教え下さい」。

 私たちの負債をお免じ下さい -「あなたは慈悲の泉です。あなたは私たちの弱さをご存じです。私たちはあなたにお願いたします。おお、父(なる神)よ。私たちの頬から後悔の涙をぬぐいさり、私たちの頑なな心をお清め下さい」。

 私たちが私たちの負債者を免じるように -「私たちを不当に扱う人々への寛容と許しで私たちの心を満たして下さい。あなただけが憎しみを愛に変えることができます」。

 私たちを誘惑に導くことなく -「私たちが利己主義を捨て去るなら、試練や災難は乗り越えられる障害です。私たちに慈悲をおかけ下さい、おお、最愛の父(なる神)よ。私たちの力を超えて、私たちが誘惑されないようにして下さい」。

 私たちを悪からお救い下さい -「あなたは全世界における唯一の現実です。私たちの無知な感覚に悪と映るものは、真実は、影に過ぎません-なぜなら、あなただけが全ての支配者であるからです。私たちの自我の邪な傾向に翻弄される時、私たちは自分自身をどうすることもできません。私たちの救い主となって下さい!」

 なぜなら、その王国、その力、その栄光は永遠にあなたのものだからです -「我らの父(なる神)よ。私たちはあなたを賛美する歌を歌います。すなわち、あなたの権威、あなたの栄光と美は、地、海、空を包んでいます。あなたの愛の王国はあらゆるところにあります。あなたは永遠に君臨しています!」

 アーメン -「あなたの御心がなされますように。そうありますように。」

 神の御心への完全な委ねの至高の例は、イエス・キリスト自身でした。この委ねは、愛の委ねでした。「私が父(なる神)を愛し、父(なる神)が私に命じる ように私が行うことを世は知るでしょう。」(ヨハネ、14. 31)

 模範的な方法でイエス・キリストの足跡をたどった、みなに愛される一人の聖者は、アッシジのフランシスです。かつて、彼は修道士たちに「神の御心への委ね」を説きました。彼は、「ここにいるあなたがたみなに私は言い付けます。聖なる服従と従順を通じて、あなたの肉体的要求、飢えや渇きやあなたの肉体が要求する他の何ものも、まるで気に掛けないように。私はあなたがたに求めます。神を褒め称え、他のことについての思いを彼に委ね、瞑想と祈りにのみ従事するように。彼の神聖な摂理があなたがたが必要なものを取り計らいます。彼はあなたを彼の特別な庇護の下に置いています。あなたがたのそれぞれ全ての人が、この言い付けを喜びに満ちた心で受け取り、幸せな顔つきをしますように」と彼らに語りました。

 別の機会に、聖フランシスが鳥たちに教えを説いた時、彼は弟子たちに彼らもまた鳥たちのように神の摂理に彼ら自身を全託すべきであると説きました。ここで、聖フランシスはキリストが告げた教えに従っていました。「空の鳥を見なさい。彼らは播かず、刈り取ることも、集めて倉に入れることもありません。それでも、あなたがたの天の父は彼らを養って下さいます。」(マタイ、6. 26)

 シリアの聖イサクは、「いったん魂が神に完全に委ねられ、そして、神の助けを幾度も体験したなら、魂はもはやそれ自身のことを気に掛けませんが、驚嘆と沈黙に包まれています・・・魂が神の摂理を拒絶するといけないからと、それ自身の認識手段を当てにするように戻り、それらを運用することは、魂にとって不可能です-委ねによって、魂は神がそれを密やかに絶えず気遣っていることを知っています」と記しました。

 聖イサクはまた「私室」についても語り、その時、彼は、「神との親交を可能とするために、私たちは隠遁を必要とします」と説きました。

 さらに、彼は言います。「あなたがあなたの魂を完全に神の庇護の下に置く時、それで十分であると知りなさい。あなたがこれができる時、あなたはあなたために神によりなされる奇跡を目撃します。あなたは神がいつも身近にいて、彼を愛する人々にどのような援助でも行う用意があることを理解します。目には見えませんが、神の摂理はいつもそこにあり、魂を包んでいます。神がそこにいないと思い、そうであることを決して疑わないように。時に、神は、魂を向上させるために彼の存在を人間に見えるようにします。」

 証聖者マクシモスもまた、完全で、揺らぐことのない信頼を伴う、委ねについて話します。「あなたがた自身を神に投じ、あなたがたは祈りを頼りとしなければなりません。彼は彼の愛によってあなたがたを守り、あなたがたの世話をするでしょう。出エジプト記に、『主があなたがたのために戦います。あなたがたは沈黙を守らねばなりません』(出エジプト、14. 14)と記されてはいませんか。」

「I Surrender All」 歌詞:W. Van DeVenter 歌:Robin Mark

 イエス・キリストが説いたように、聖マクシモスも簡潔に述べます。「全ての善の目的(終わり)が、愛です。」

 愛と慈悲は、全く同じものです。

 イエス・キリストは、「あなたがたの父(なる神)が慈悲深くあるように、あなたがたも、それゆえ、慈悲深く ありなさい」(ルカ、6. 36)と言いました。

 自我は、自らの知を得ようというなら、情熱的な誠実さをもって、神の御心へ身を委ねなければなりません。

 イエス・キリストは、強烈な、活気に満ちた、生き生きとした真理を語りました。彼が発した一文は、私たちが決して無視することのできない言い付けです。「天にまします、あなたがたの父(なる神)が完全であるように、あなたがたも、それゆえ、完全となりなさい。」

 神を愛する者が慕い、それに向けて成長するのは、この完全性です。

(*1)ピリピ人への手紙、4. 4-7・・・「あなたがたは主の中にいつも喜びなさい。繰り返し言いますが、喜びなさい。あなたがたの節度をすべての人に示しましょう。主はすぐ近くにいます。何事も思い煩わないように。ただ、あらゆることの中に、感謝をもって祈りと願いによって、あなたがたの求めるところを神に知らせましょう。そうすれば、まるで理解を超えた神の安らぎが、イエス・キリストを通じ、あなたがたの心と思いとを守るでしょう。」
(*2) ヨハネの第一の手紙、4. 18・・・「愛の中には恐れがありません。完全な愛は恐れを取り除きます。なぜなら、恐れには罰があるからです。恐れる者は、愛において完全となされていません。」

☆以上の翻訳には聖書から多くの引用がありますが、その英文はおそらく「欽定訳聖書(Kings James Bible)」からです。その聖書の引用と「主の祈り」の解説の英文は文語体で記されていますが、分かりやすさを重視し、上では口語体で訳しています(文:shiba)。

2014年12月12日金曜日

委ねとは何か - もとより、全ては神のものである

◇『A Practical Guide To Know Yourself』 A.R.Natarajan、pp.116-124

25.あなたの重荷をサッドグルに手渡しなさい

 ラマナは、自らの探求、心の源の探索、そして、自らの委ねは、自らの知のためのただ二つしかない効果的な手段であるとよく言いました。委ねは概してより簡単であるとみなされますが、それはその真実の含意を理解し損なっているからです。それはサッドグルの導きと保護への完全で、無条件の信頼を含意します。「悪い」出来事が起こる時、我々はその理由を尋ねます。人は「良い」「悪い」が相対的な言葉、対になる両極の一部であり、他方がなければ一方を持つことはできないことを忘れます。それ以上に、人はカルマ的に良いもの、(心が)内に向かうことに役立つものを最もよく知るのは、サッドグルであるということを無視します。どのような質問や疑問も、委ねが不完全であるということを指し示すでしょう。

 委ねた人はまた、活動を探し求めず、それを放棄しようともしないでしょう。必要とされる行為が何であれ、それは行為のための力と行為の結果がサッドグルに依るという知識と共になされるでしょう。結果として、人は行為やその結果について心配しません。

 サッドグルへの信頼がしっかり根付くにつれ、委ねの精神は徐々に成長します。人が自らの探求を修練するにつれ、自分が行為者であるという概念は腐食します。委ねの道を邪魔するのはこの行為者性という考えであるため、この考えが弱まる時、全ての物事が神によって定められていることをより明確に知ることができます。人は、我々が委ねと呼ぶものが、「ジャッガリーで作られた主ガネーシャの像から少しのジャッガリーをつまみとり、ガネーシャ自身の崇拝において、それをお供えする崇拝者のごとく」であることをはっきり知るようになります。何も自分のものではなく、全てのものをサッドグルが有している時、何を委ねることができますか。この事実の認識は、心配という一切の重荷を取り除きます。それは全世界の重荷を負う者の責任であるとみなされます。

□ □ □

信奉者:
 委ねとは何ですか。

バガヴァーン:
 それは心の制御と同じものです。自らのより優れた権威を認める時に、自我は従います。これが委ねのはじまりです。自らがなければ自我は存在できませんが、しかし、この事実の無知のために、それは反抗的なままいて、自分から進んで、自分の意思によって行為します。

信奉者:
 どうしたら反抗的な自我が服従させられるのですか。

バガヴァーン:
 その源を探し求めることによって、その時、自我は自動的に消えます。もしくは、自発的に全ての行為、動機、決定をサッドグルに委ね、それにより自我を根こそぎにすることによって。習慣によって思考がなくてはならない永続的なしきたりであるという誤った観念が作り出されますが、探求と分別はその誤信を破壊します。

信奉者:
 人々は神やグルの前で平伏します。私が思うに、彼らの委ねを証明するためか、少なくともそれを示すために。

バガヴァーン:
 真の委ねは自我をその源、ハートの中で溶かすことです。神は外側の行為によって欺かれません。崇拝者の中に彼が見るものは、どれほど自我が十分に制御されているか、どれほど破壊の間際にいるかです。(*1)

****

信奉者:
 委ねとはどういう意味ですか。

バガヴァーン:
 人が委ねる時、彼の中に行為者の感覚はなくなります。平静な気持ちがあり、行為やその結果を心配しません。どのような務めも彼自身のために行いません。そのような人は、全ての行為を放棄した者でしょう。(*2)

****

 初めてやって来たパルシー教徒の紳士が尋ねました:

信奉者:
 私は聖なる事柄について初心者です。私の友人の一人は、神への委ねが最良の道であると勧めました。私は神に委ねましたが、彼は聖なる道にいる私を教え導いてくれません。どうぞあなたの恩寵を施して下さい。

バガヴァーン:
 ああ!あなたは委ねました、そうですね。それでは、どうして神が何もしていないとあなたは言うのですか。それはただあなたが委ねの真意を理解していないということでしかありません。あなたはあなた自身を完全に神の思うままにし、何の見返りも期待すべきではありません。

信奉者:
 今や私は私の委ねの理解が不完全なものであったことを悟りました。私を正しく導いて下さい。

バガヴァーン:
 あなたは恩寵が必要だと言います。導きを期待し、あなたがここに来ること、それ自体が神の恩寵です。あなたの委ねが完全で、無条件であるなら、同じ恩寵が継続します。あなたは何も頼む必要はありません。「私」と「私のもの」という思いを取り除こうと努めなさい。何ものもあなたのものであると思わないように。それは全て神のものです。(*3)

****

信奉者:
 どうして私の安かな状態への妨げが訪れるのですか。

バガヴァーン:
 あなたが良いとみなす物事があなたに訪れる時、あなたがたは喜び、神に感謝します。それは正しいことです。しかし、あなたが悪いとみなす物事が訪れる時、あなたは同様に感謝すべきです。そこのところで、あなたは失敗しています。(*4)

****

信奉者:
 あなたが哀れな私にわが道を行かせるに任せるなら、どうして私が救われますか。

バガヴァーン: 
 私が何かをしようと、何もしなくても、あなたは委ね、ただ静かにいなければなりません。(*5)

****

 才気ある人のように見える品の良い女性が講堂を訪れ、平伏しました。

信奉者:
 (彼女は声を低くして言いましたが、それでも聞きとれました)-私は神によって安楽な人生に恵まれています。私は人間が所有したいと望むもの全てを持っています。

バガヴァーン:
 では、あなたは幸福です。さらに何が必要ですか。

信奉者:
 いえ、いえ。私は何かが欠けているのをはっきり感じます。私は完全な心の安らぎを享受していません。

バガヴァーン:
 おや、そうですか。あなたの人生の目的は完了しておらず、そのために、安らぎがありません。

信奉者:
 物質的な安楽があるにも関わらず、私は幸せではありません。私の心はいつも不安で、そして、動揺しています。おそらくは、私の運命によるものでしょう。

バガヴァーン:
 ええ、ええ。あなたは率直に全てのことを話しました。運命とは何ですか。あなたが高き力に委ねるなら、運命がどうしてあなたに影響を及ぼせますか。委ねが答えです。それは全てのものを正しく整えます。

信奉者:
 それが私の悩みです。私は委ねることができません。私の自我が邪魔をします。

バガヴァーン:
 そうかもしれません。ですが、あなたの試みを続けなさい。一点に向けられた集中力を持ちなさい。あなた自身を神に委ねなさい。「私はあなたの思いのままです。私は無力です。私はあなたに委ねます。私はあなたの助けを求めます」と言いなさい。それは安らぎをもたらします。

信奉者:
 確かに分かってはいるのですが、私は実践することができません。おそらく、それは私の運命によるものです。

バガヴァーン:
 運命に何ができますか。あなたが完全な委ねを行うなら、それは働かなくなります。あなたは心配から解放されます。心は穏やかになり、安らぎが行き渡ります。(*6)

****
「自らの達成の力、あなたの重荷を神に委ねよ、すべてのヨーガの真髄」で翻訳済み

****

信奉者:
 もし顕現した存在全体が唯一の神でしかないなら、いったいどうして放棄が可能なのですか。放棄されるべきものとは何ですか。

バガヴァーン:
 人は神以外は何でも存在するという間違った知識を放棄しなければなりません。顕現した見かけがどのように映るのであれ、二元性や複数性が何であれ存在するという概念を放棄しなければなりません。至高なる存在のみが、唯一の現実です。それのみが在り、見かけの複数性を支えています。ですから、神以外は何でも存在するという知識を放棄しなさい。言いかえれば、二元性や複数性の感覚を放棄しなさい。

信奉者: 
 聖典が信徒を教え諭し、彼に二元性の概念を放棄させることは疑いなく良いことですが、聖典のこの教えと同様に重要な指示、つまり、神への自らの委ねとをどのように調和させられるのですか。何であれ二元性が存在しないなら、自らの委ねの必要性や可能性はどこにありますか。

バガヴァーン:
 これらの地方のある人々の間の主ガネーシャへの深い献身の気持ちに基づいた習慣に我々は親しんでいます。この人々にとって、その地域の全ての寺院に安置されている彼の聖像への日々の崇拝は、彼らの日々の食事の前の不可欠の儀式です。この信条を持つ、ある貧しい旅人が、あまり人の住んでいない国を通りかかっていました。昼食の前の聖像への日々の崇拝を行えるガネーシャの寺院が近くにどこにも見当たらず、彼は少量のジャッガリー(ブラウンシュガー)からその神の像を作ろうと決心しました。ジャッガリーから像を作り、彼は熱心に儀式を続けました。しかしながら、儀式の中で彼がその神へ少しの神饌(しんせん)をお供えしなければならない所に至った時、その像をつくるために彼が持つ全てのジャッガリーを使ったため、彼は鞄の中に何も残っていないことに気づきました。しかし、通例の神饌のお供えがなければ、どのような崇拝も完全なものになりえないため、その単純な旅人はその像そのものからジャッガリーのかけらをつまみとり、それをその神にお供えしました。ジャッガリーのかけらをつまみとるというまさにその行為において、彼が崇拝したいと望んだ、まさにその像を汚し、それゆえに、崇拝と供物を共に無価値なものにしたことに彼は気づきませんでした。

 あなたの自らの委ねの考えは、その旅人によってなされた供物に勝るものではありません。あなたがあなたの存在を至高なる存在から離れた何かとして仮定することによって、あなたはそれをただ汚しているに過ぎません。あなたがあなた自身を委ねても、委ねなくても、あなたがその至高なる存在から離れていたことは決してありません。実際、この瞬間に、まさに過去や未来におけるように、神のみが在ります。(*8)

****

信奉者:
 委ねは主要なサーダナですか。

バガヴァーン:
 疑いなく、委ねのサーダナは認められています。しかし、委ねが完全な時、区別は存在しません。弟子がグルからマントラの手ほどきを受け、彼が委ねたと信じる時、しばしば、彼の委ねは本物ではありません。委ねにおいて、人は心を放棄しなければならず、心が引き渡された後、どのような類の二元性も存在しません。神から分離したままである彼は、委ねていません。

信奉者:
 全ての行為とその結果が神に委ねられるなら、心は制御されるのでしょうか、されないのでしょうか。

バガヴァーン:
 そのようにすることによって、心は清められますが、それは死んではいません。大酒のみが彼の行為とその結果を神に委ねたと考えたとしましょう。その酔っぱらった状態で、彼が過ちを犯し、その過ちのために誰かが彼を棒で叩くなら、彼はその殴打もまた神に委ねなければなりません。しかし、誰もそのように振る舞いません。彼の様子は彼が殴打を受けた時点で変わります。

信奉者:
 我々がグルや神に委ねるなら、個人の現実性は消え去り、それと引き換えに、我々はより大きな現実の支えを得て、神の力が我々の内に輝くと信じられています。

バガヴァーン:
 委ねた後に、より大きな神の力を受け取ることを期待することは、委ねの真の態度ではありません。(*9)

****

 ある人が母の寺院に鐘のなる時計を寄贈し、それによってバガヴァーンは一連の考えを現わし始めました。

バガヴァーン:
 崇拝には、少量の樟脳で十分です。これが行われないのに、人々は神から不釣り合いな賜物(たまもの)を期待します。自分たちが神に多くを与えたという思いを抱き、反り返って歩く人もいます。彼らが与える彼らのものとは、実際、何ですか。神が有するものの内の少しが返還されました。それだけのことです。思いなきままにいることが、人が神に捧げることができる最良の供物です。(*10)

****

信奉者:
 修練のために、カルマを取り除いたり、無効にするように、そして、モークシャの達成を早めるように神に祈ることは正当なことではありませんか。

バガヴァーン:
 正当なことです。あなたが高き力と異なると感じる限り、それに祈りなさい。あなたがあなたの上に重荷があると感じる限り、それに関して祈りなさい。しかし、さらに良いのは、プラパッティ、自らの委ねの境地を得なさい。そして、あなたの全ての重荷を主に委ねなさい。その時、彼はあなたの背中から重荷を取り去り、あなたが彼の内にあり、彼と一体であるという実感をあなたに与えます。(*11)

(*1)S.S.Cohen、『Guru Ramana』、p. 59.
(*2)K.R.K.Murti、「My Reminiscences of Sri Ramana Bhagavan」、『The Mountain Path』、July 1985、p. 183.
(*3)N.N.Rajan、『Leaves from the Diary』、The Ramana Way、May 1991、p. 75.
(*4)A.Devaraja Mudaliar、『My Recollections of Bhagavan Sri Ramana』、1960、p. 113.
(*5)同上、p. 118.
(*6)N.N.Rajan、『Leaves from the Diary』、The Ramana Way、Mar. 1991、p. 9.
(*7)Kapali Sastri、『Sat Darsana Bhasya and Talks with Maharshi』、pp. xxiv-xxvi.
(*8)Swami Madhava Thirtha、「A Visit to the Maharshi」、『The Mountain Path』、Oct 1981、p. 225.
(*9)Swami Madhava Thirtha、「Conversations with the Maharshi-I」、『The Mountain Path』、Oct 1980、p. 211.
(*10)A.R.Natarajan (tr.and ed.)、『Unforgettable Years』、「Subbalakshmi Amma」、p. 89.
(*11)B.V. Narasimha Swami、「A Dialogue with the Maharshi-IV」、『The Mountain Path』、Apr. 1983、p. 90.

2014年12月7日日曜日

委ねの真意 - 主に『Talks~』と『Day by Day~』からの引用

◇「山の道(Mountain Path)」、1977年1月 p4~6

バガヴァーン自身の言葉による委ねの真意
シュリー・バガヴァーンはしばしば委ねを効果的な方法だと述べましたが、彼はその用語の含意についての一般的な誤解を取り除くように気を付けました。彼自身の言葉で以下に複写される彼の教えは、『バガヴァッド・ギーター』における主の保証-彼の恩寵により、汝は至高の安らぎ、永遠の住まいを得る(18‐62)-の真の意義を明らかにします。
  人は個人が世界の重荷を担っているという誤った思い込みを取り除くべきである:
 「主が世界の重荷を担っている。それを担っていると思う、偽の自我は、(寺院のてっぺんで)それを支えているように見える、歯を食いしばる彫像のようである。(鉄道)客車の中で旅する人が、彼の荷物を車両の中に置かずに、頭の上に乗せ、不快を感じるならば、それは一体誰の過ちなのか。
 -「40詩節への補遺」、第17詩節
バガヴァーン: あなたがあなた自身を高き力に委ねるならば、万事うまくいきます。その力があなたのことを最後まで面倒見ます。ただあなたが「私は行為の主体である」と思うかぎりは、あなたはあなたの行為の結果を受け取らざるを得ません。一方、あなたがあなた自身を委ね、あなた個人を高き力の道具でしかないと認めるなら、その力が行為の結果と共にあなたのことを引き受けます。あなたはもはやそれらに影響されず、務めは妨げなく進み続けます。あなたがその力を認めても、認めなくても、物事のあり方は変わりません。(物の)見かたが変わるだけです。あなたが列車で旅行している時、どうしてあなたの荷物を頭の上で支えなければならないのですか。あなたの荷物が頭の上にあっても、列車の床の上にあっても、列車はあなたとあなたの荷物を運びます。それを頭の上に置くことによって、あなたは列車の負担を減らしているわけではなく、ただあなた自身に不必要に負担をかけているだけです。世界における個々人の持つ行為者の感覚についても同様です。
-『Talks with Sri Ramana Maharshi』、p. 478

 完全な委ねは、解放の別名である:
サイード博士: 全面的、または、完全な委ねは、自分の中に解放や神への望みさえも残すべきでないということを求めますか。
バガヴァーン: 完全な委ねは、あなたがあなた自身の望みをまるで持たないこと、神の御心のみがあなたの望みであり、あなたがあなた自身の望みをまるで持たないということを求めます。
サイード博士: 今や私はその点について満足したので、私が委ねを達成しうるための手段とは何であるのか知りたいと思います。
バガヴァーン: 二つの道があります。一つは「私」の源を調べ、その源に溶け込むことです。もう一つは、「私は独りでは無力だ。神のみが全能であり、彼を完全に頼りとする以外、私には他に安全は存在しない」という感情であり、そうして、神のみが存在し、自我は重要でないという確信を徐々に育てます。両方の方法は、同じ目的に通じます。完全な委ねは、ジニャーナ、もしくは、解放の別名です。
-『Day by Day with Bhagavan』、p. 176

 委ねはジニャーナと異ならない:
質問3: 私は委ねのほうが容易であると感じます。その道を採用したいと思います。
バガヴァーン: どの道を通ってあなたが行っても、一者の中にあなた自身を失わねばなりません。委ねは、あなたが「御身は全てである」や「御身の御心が果たされんことを」という段階に達する時にのみ完全です。その境地はジニャーナと異なりません。ソハム(「私は彼である」)には、ドゥヴァイタ(ニ元性)が存在します。委ねには、アドヴァイタが存在します。実際には、ドヴァイタもアドヴァイタも存在せず、在るそれが、在ります。委ねは容易に見えます。なぜなら、人々がいったん口で「私は委ねます」と言い、彼らの重荷を主へ置くなら、彼らは自由になり、好きなことができると彼らは想像するからです。しかし、実のところ、委ねの後にあなたは好き嫌いをまるで持てず、主の御心が取って代わり、あなたの意思は完全に存在しなくならねばなりません。そのような自我の死は、ジニャーナと何ら異なりません。ですから、どの道をあなたが行こうとも、あなたはジニャーナ、もしくは、一体性へ行かねばなりません。
-『Day by Day with Bhagavan』、p. 32

 真の委ねにおいて、人は神の御心に従わねばならない:
シュリー・ラーガヴィア: 我々は委ねます。しかし、いまだ助けはありません。
バガヴァーン: ええ。あなたが委ねたのなら、あなたは神の御心に従うことができなければならず、あなたの気にいらないかもしれないことについて不平を言ってはいけません。物事は見かけの上で見られるものとは異なっていると分かるかもしれません。苦悩は、神の信仰に人をしばしば導きます。
シュリー・ラーガヴァイア: しかし、我々は世俗的です。妻、子供たち、友人、親族がいます。彼らの存在を無視し、我々の中にいくらか少しの人格を保つことなく、神の御心に身を任せることはできません。
バガヴァーン: それは、あなたによって明言されたように、あなたが委ねていないということを意味します。あなたは神のみを信頼しなければなりません。
-『Talks with Sri Maharshi Maharshi』、p. 49
マハルシ: 彼が現れても消え去っても、彼に委ね、彼の御心に従いなさい。彼の望みを待ち受けなさい。あなたが彼にあなたが気にいるように行うよう頼むなら、それは委ねではなく、彼への命令です。あなたは彼をあなたに従わせることはできませんし、あなたが委ねたと思わせることもできません。彼が何が最善なのか、いつどのようにそれを行うべきか知っています。全てのことを彼に任せなさい。重荷は彼のものです。あなたにはもはや何の心配もありません。全ての心配は彼のものです。委ねとは、そういうものです。
ー『Talks with Sri Ramana Maharshi』、p. 425

 人は自らの存在の根源の原因に身を委ねるべきである:
マハルシ: 人が自分自身を委ねるなら、それで十分です。委ねとは、自らの存在の根源の原因へ身を委ねることです。そのような源があなたの外側の何らかの神であると想像することで、思い違いをしないように。自らの源は、自分自身の内にあります。それに身を委ねなさい。あなたがあなた自身がそれの外にいると想像するため、あなたは「どこにその源があるのか」という質問を提起します。砂糖はそれ自体の甘さを味わえず、味わう人がそれを味わい、楽しまねばならないということを主張する人もいます。同様に、個人は至高者になりえず、その境地の至福を享受することはできない。それゆえ、喜びが生じるためには、一方では個人性が、他方では神性が保持されねばならない!神は砂糖のように意識がありませんか。いったいどのようにして、自分自身を委ね、それでもなお、至高の喜びのために個人性を保つことができるのでしょうか。さらに、彼らはまた、人は神の領域に達し、そこに留まり、至高の存在に奉仕すると言います。「奉仕」という言葉の響きは、神を欺けますか。彼は知ってはいませんか。彼はそれらの人々の奉仕を待っていますか。彼-純粋な意識-は代わりに尋ねはしないでしょうか-「大胆にも私に奉仕すると言う、私から離れたあなたとは誰ですか』。 
 人が原初の根源から離れていると言うこと、それ自体、自惚れです。
-『Talks with Sri Ramana Maharshi』、pp. 175-6

 部分的な委ねは、完全な委ねに通じる:
信奉者: 委ねは不可能です。
マハルシ:ええ。はじめは、完全な委ねは不可能です。部分的な委ねは、間違いなく、みなにとって可能です。やがては、それは完全な委ねに通じます。さて、委ねが不可能なら、何ができますか。心の安らぎがありません。それをもたらすには、あなたは無力です。それは委ねによってのみ、なしえます。
信奉者:部分的な委ね-なるほど-それは運命を取り消せますか。
マハルシ: ええ、そうです!できます。
信奉者: 運命は過去のカルマによるのではありませんか。
マハルシ: 人が神に委ねるなら、神がその面倒を見ます。
信奉者: それが神の摂理であるなら、いかにして神がそれを取り消すのでしょうか。
マハルシ: 全ては彼の中にのみあります。
-『Talks with Sri Ramana Maharshi』、p. 195
信奉者: 委ねは努力の後に訪れます。
マハルシ: ええ、それはやがて完全になります。
-『Talks with Sri Ramana Maharshi』、p. 405

 委ねは、実現(悟り)への二つの主要な手段の内の一つである:
信奉者: 私は私の自らを実現するにはあまりに弱すぎます。
マハルシ: それなら、あなた自身を無条件で委ねなさい。そうすれば、高き力が自らを啓示します。
信奉者: 無条件の委ねとは何ですか。
マハルシ: 人が自分自身を委ねるなら、質問を尋ねる、もしくは、考えに入れられるべき人は存在しません。「私」という根本の思いにつかまることによって思いが排除されるか、高き力に自分自身を無条件に委ねるか。実現には、その二つの道しかありません。
-『Talks with Sri Ramana Maharshi]』、pp. 284-5

 委ねた者には矛盾は生じない:
信奉者: (祝福のために)おそばに行ってもよろしいでしょうか。
マハルシ: そのような疑問があなたの中に起こるべきではありません。それはあなたの委ねの声明と矛盾します。
信奉者: あなたはジニャーナ・ヨーガについて話すようですが。
マハルシ: ええ、そうです。
信奉者: しかし、委ねはバクティ・ヨーガではないですか。
マハルシ: 両者は同じものです。
-『Talks with Sri Ramana Maharshi]』、p. 405

 委ねた者には質問は起こらない:
信奉者: 私は3か月間待ち、助けがやって来るのか確かめます。さて、私はその保証を得られますか。
マハルシ: それは委ねた者によって尋ねられたことですか。
-『Talks with Sri Ramana Maharshi』、p. 406
信奉者: 委ねた後の心の流れはどうなりますか。
マハルシ: 委ねた心がその質問を提起してるのですか。
-『Talks with Sri Ramana Maharshi』、p. 334

2014年8月22日金曜日

「プラパッティ・アシュタカム」 - シュリー・ジャガディーシャによる祈りの詩節

◇「山の道(Mountain Path)」、1985年10月 p269~271

貴重な遺品

 1945年ごろ、『Ramana Sahasranamam』の編集者、優れたサンスクリット語の学者であるシュリー・ジャガディーシャ・シャーストリは、大変深刻な病状にあり、寝たきりでした。みなが彼の生存を絶望視していました。彼を救うために、バガヴァーンの特別な介入が求められました。

 以下は、A.デーヴァラージャ・ムダリアールがこの出来事について書いたものです。「私がよくバガヴァーンの宮殿のサンスクリット語の詩人と呼んだジャガディーシャ・シャーストリは、プラパッティ・アシュタカムと呼ばれる詩節を記しました。彼は死の床にいて、この最後の懇願を詩(プラパッティ・アシュタカム)で記し、プラーラブダは一定の進路を進まねばならないというバガヴァーンによるいかなる弁解も決して受け入れず、ただバガヴァーンがそれを望みさえすれば、バガヴァーンの恩寵がプラーラブダを打ち消し、自分を救えると言明しました。バガヴァーンが彼を大変に憐れんだので、彼は死の淵から引き上げられました」。(『My Recollection』、p103)

 バガヴァーンがこの特別な祈りをどれほど重要視していたのか示すために、デーヴァラージャ・ムダリアールを再び引用しましょう。「これら(プラパッティ・アシュタカム)は、バガヴァーンの許可と勧めを得て、T.K.スンダレーサ・アイヤルによってタミル語に翻訳されました。私は糸綴(と)じの小さなノートを買い、1ページおきにサンスクリット語版とタミル語版を載せたいと思いました。私はサンスクリット語がタミル文字で書かれて欲しいと思いました。私は初めにタミル語の詩節を書き、サンスクリット語のために1ページおきに空白にしておきました。私はそれらを音訳でき、私のために音訳しようとしてくれる人が誰かいないか探していました。もちろん、私はわざわざバガヴァーンに私のためにそのような仕事をして頂こうとは思っていませんでしたが、私にとって普段通りに、会話の流れで、私はバガヴァーンに私の望みを話し、彼はすべての抗議を払いのけ、私からノートを取り、サンスクリット語の詩節をいつものように整った美しいタミル文字の詩節に写し、私に返しました。ノートは私のもとにあり、家宝として息子たちに譲られることになるでしょう」。(『My Recollection』、p86)

 信奉者たちが貴重な遺品として保存していたおかげで、シュリー・バガヴァーンの手書きの形で、ジャガディーシャ・シャーストリによる元々のサンスクリット語の詩節とT.K.スンダレーサ・アイヤルによるそのタミル語の翻訳の両方を以下に複写できることを我々はとてもうれしく思います。

プラパッティ・アシュタカム


ティルチュリに生まれた彼へ、私は委ねます
パーンダヤ国に戯れた彼へ、私は委ねます
アルナーチャラのなぞえに住む方へ、私は委ねます
タパスの辛苦に動じることのないビクシュへ、私は委ねます

TO HIM born in Tiruchuli I surrender
; to Him who sported in Pandya country, I surrender
; to the dweller on Arunachala slopes, I surrender
; to the bikshu unaffected by the rigours of tapas I surrender.


創造者から虫まで、全てに等しくある彼へ、私は委ねます
六種の感情の征服者へ、私は委ねます
知の本質の担い手へ、私は委ねます
限りない憐れみの御倉(みくら)へ、私は委ねます

To Him who is alike to all, from the Creator to the worm, I surrender
; to the subduer of the six passions, I surrender
; to the bearer of the essence of Knowledge I surrender
; to the store of unbounded mercy, I surrender.


全世界に勝る彼へ、私は委ねます
彼へ-ヴェーダが全世界と他の諸々であると語る彼へ、私は委ねます
一切をむさぼり食らう鰐(わに)、時(とき)への恐れを取り除くために
死を懲らしめる者へ、私は委ねます

To Him who surpasses the universe I surrender
; to Him — whom the Vedas say to be the universe and more, I surrender
; to the chastiser of death
in order to be rid of fear of the all-devouring alligator Time, I surrender.


欲楽の生の苦痛を克服する
知の体現者へ、私は委ねます
得意げなキューピッドによって引き起こされた熱病を阻むために
戯れに降りてきた、カーマの敵対者へ、私は委ねます

To the embodiment of Knowledge
which conquers the pain of sensual life, I surrender;
to the enemy of Kama come down in sport
to prevent the fevers caused by proud Cupid, I surrender.


厳密な生涯にわたる独身者へ、私は委ねます
カマンダルと杖の持ち主へ、私は委ねます
ブラフマーサナをしてディヤーナに安らう彼へ、私は委ねます
ブラフマンと一体である隠者へ、私は委ねます

To the strictly life-long celibate, I surrender;
to the holder of kamandalu and staff, I surrender
; to Him that rests in Dhyana on Brahmasana, I surrender
; to the Hermit at one with Brahman I surrender.


ハラへ、私は委ねます、不朽なるものへ、私は委ねます
独立の在り処へ、私は委ねます
はかり難い技量をもつ彼へ、私は委ねます
汚れのない知る者の中の第一人者へ、私は委ねます

To Hara I surrender ; to the never-decaying I surrender
; to the abode of Independence I surrender
; to Him of immeasurable skill I surrender
; to the foremost of spotless Knowers I surrender.


三種の苦しみ、不運、迷妄、カルマによって
引き起こされた熱を払い去る者へ、私は委ねます
真の決意を持ち、汚れなく
完全に満足し、最上の幸福を味わう彼へ、私は委ねます

To the dispeller of fever
caused by ill luck, three-fold ills, delusion, and karma, I surrender;
to Him of true resolve, no taint,
 perfect contentment and bliss, I surrender.


信奉者に安らぎをもたらす
穏やかなほほ笑みをたたえた顔へ、私は委ねます
ラマナへ-一切の苦痛を取り除き、喜びをもたらすがゆえ
そのように名付けられた彼へ、私は委ねます

To the face of gentle smile
that brings peace to devotees, I surrender
; to RAMANA —(Blessing) so named
because removing all pain He brings in joy, I surrender.  


至福の授け手であるシヴァへ、私は委ねます
あらゆる美徳の御倉(みくら)である師へ、私は委ねます
私のハートの蓮華に住まう方へ、私は委ねます
寄る辺であり、主へ、私は委ねます

To Siva the bestower of bliss, (I surrender)
(;)the Master, the store of all virtues, I surrender
; to the Indweller of my Heart-Lotus, I surrender
; to the Refuge and the Lord I surrender.


彼の祝福によって、彼の性質を得るために
他の全ての人々もまた、賢明にもラマナに委ねますように

May all others also wisely surrender to Ramana,
in order to gain His qualities, by His Blessings.


以下は、バガヴァーンの手書きのT.K.スンダレーサ・アイヤルによるタミル語の翻訳です。

2014年2月9日日曜日

バクティはジニャーナの母である - バクティとジニャーナのサーダナ

◇「山の道(Mountain Path)」、1976年4月 p96~98

バクティはジニャーナ・マーターである


 M.サダーシヴァ・ラオ博士

 一般的には、バクティの道の神の名への瞑想は、ジニャーナの道の自らへの瞑想よりもより簡単で分かりやすいと思われています。実のところ、サーダナ、つまり、聖なる修練としてのバクティ瞑想に関して、公にされた情報はほとんどありません。バガヴァーン・ラマナ・マハルシが自らの探求を説くまでは、ジニャーナ瞑想の正確な性質はさらにもっと不明瞭なものでした。13世紀以降に生きたマハーラーシュトラの偉大な聖者たちが、今日知られているようなバクティの道を明らかにし、彼らによって作られ、今日まで受け継がれる見事なバジャン、つまり、献身を表す歌を通じてそれを広めました。それらはバクティの道の主要な情報源であり、非常に気持ちを鼓舞するものです。それらのバジャンにおいて、聖者たちはバクティの道を詳しく述べただけでなく、彼らの絶対的な体験を語ることによって、バクティ・サーダナを一端をうかがわせました。絶対的な体験とはジニャーナであり、バクティ・サーダナが、神への強烈なバクティ、つまり、献身という最初のアプローチに関して以外、その本質において自らの探求と異ならないことを示唆しています。

 バガヴァーンは言いました。「バクティはジニャーナ・マーターである(バクティはジニャーナの母である)」(*1)。バクティの道はジニャーナに通じ、自らの探求もまたジニャーナにのみ通じます。バクティの目的は、神への完全な委ねと表現されます。バガヴァーンは、「完全な委ねは、ジニャーナの別名です」(*2)と言います。再び、彼は、「バクタが委ねと呼ぶものを、ヴィチャーラ(自らの探求)を修練する人はジニャーナと呼びます。両者とも自我を源へ連れ戻し、それをそこで溶け込ませようと試みています」(*3)と言います。神の名と形への瞑想に関して、彼は信奉者に言います。「あなたが『私は名と形である』と思う限りは、ジャパにおいてもあなたは神の名と形から逃れられません。あなたが『私は名と形ではない』と悟る時、名と形はひとりでに抜け落ちます。他の努力は必要ありません。ジャパやディヤーナは自然と、自ずから、それに通じます。(神の)名と神は異なりません」(*4)。

 自らの探求と瞑想に関わる他の一切のサーダナの核心は、バガヴァーンによって以下のように説明されます。

 「ハートに住まう無知の形である『私』という思い(自我)が破壊されるまで、心はハート(自ら)の中に留められねばなりません。これがジニャーナです。これがディヤーナでもあります・・・。それゆえ、人が心を自らの中に保つ技術を獲得するなら、他のことを心配する必要はありません。」(*5)

 どのように心を自らに到達させ、留められるのかを示すために、以下の文章が学ばれるかもしれません。それは簡潔に集中の本質を表しているだけでなく、集中に適当なサーダナにも言及しています。

 「サーダナに関しては、多くの方法があります。あなたはあなた自身に『私は誰か』尋ねるヴィチャーラを修練するかもしれません。もしくは、それがあなたに魅力的でないなら、『私はブラフマンである』(へ)のディヤーナに携わるかもしれません。ないしは、他の方法では、あなたはジャパにおいてマントラや(神の)名へ集中するかもしれません。目的は心を一点に集中すること、一つの思いに集中し、そうして、多くの思いを排除することです。そして、我々がこれを行うなら、終には、その一つの思いさえ消え、心はその源で消え去ります。」(*6)(斜体は著者による)

 ここで述べられたはじめの二つのサーダナは、ジニャーナの道に属し、次の二つはバクティの道に属します。最後の文は、両方の道を含むサーダナ全体を要約しています。それはより十分な理解のため、以下のように詳しく説明できます。

 瞑想は、一つの思い(自らの探求では「私」という思い、バクティでは神の名)への(内に向けられた)心の一点集中を修練することによって始られます。同時に、集中を妨げる、迷い出る全ての思いを閉めだすために努力が行われます。この修練によって、心は一点に集中し、迷い出る思いがなくなります。結果、瞑想はより深くなり、心は(聖なる)ハート、自らへ沈みます。自らは、純粋な(思いのない)意識です。ただ一つの思いは、思いのない状態で生き残れません。心がハートに留められるなら、心から自我が取り除かれ、自らの中に溶け込み(消滅し)ます。

 初心者のために、さらなる説明が必要かもしれません。心から迷い出る思いを取り除くはじめの修練の後、ただ一つの思い-「私」、または、(神の)名-への集中はより深くなってゆき、ついには心はハートに溶け込みます。その後、それはサマーディと呼ばれる一切の思いがないハートへの内在のみとなり、終には、人はそれが自分自身の普通の状態であると気づきます。これが自らの実現として知られているものです。言及されるハートはその名前の身体的器官ではなく、精神的中心、自らそのものです。自らは思いを越えてあります。どのような外側の対象物とも関係しない、ただ一つの思いは、心全体を深く内に運び、ハート、または、自らに沈みます。自らの知はそれを対象物として知ることではありません。それはヴァーサナーが取り除かれた心が自らに溶け込む時に、自らと一体であることです。サマーディ、思いのない状態での心の自らの中の内在は、自らへの絶対的な溶け込みをもたらします。純粋な心そのものが、自らです。それは純粋で、無限の(絶対的な)意識でもあります。

 自らの探求とバクティ瞑想の違いは、最初のアプローチにあります。ジニャーナの道のアプローチは、名や形のない神の非人格的な側面、すなわち、自ら、至高の実在に対してです。バクティの道では、アプローチは、名や形やその他の属性を持つ自分で選んだ人格神へです。自らの探求では、集中のために採用されるただ一つの思いは、「私」という思いです。瞑想が深く進む時、その思いは純粋になり、純粋な私、または、純粋な自覚へ帰着します。バガヴァーンはまた、眠りから目覚めるとすぐに経験される、その同一性や環境を意識するようになる前の過渡的な「私」の認識を推奨しました(*7)。

 心全体が内に潜り、ハートに沈む時、完成が見出されます。それは自分自身の現実の生き生きとした体験です。瞑想やサマーディの間だけでなく、その後さえも、彼は彼自身を自らと一体として経験します。バクタは彼の神との一体性を感じますが、神の名と形は抜け落ちたでしょう。それらは思いのない状態では生き残れないからです。全ての二元性は、超越的な状態がはじめて経験される時に、一時的に消えます。未発達の心はハートに長く留まれず、二元性の世界にさ迷い出るでしょう。その経験が無努力で、自発的になるまで、それを深い瞑想において蘇えらすべきです。これはバガヴァーンによって、「自らに住まう」と呼ばれています。彼は信奉者に自らにいつも住まうように助言しました。それはタパスの最高の形であり、ヴァーサナーを取り除きます。更なる進展は、神、もしくは、グルの恩寵によります。バガヴァーンが指摘したように、「それ(恩寵)は実際あなたの内側に、あなたのハートの中にあり、(どのような方法によってでも)あなたがその源(ハート)での心の沈潜、もしくは、溶け込みを果たす瞬間に、恩寵が内から押し寄せます」(*8)。心が自らに溶け込んだ時のバクティ・サーダナの極致は、マハーラーシュトラの聖者たちによって様々な様子で美しく表現されています。聖者ジニャーネーシュワル(*9)曰く、「不死なる名は、サマーディの達成のためのサーダナである」。聖者ナームデーヴ(*10)曰く、「彼と私の間の一切の二元性が消える時、名はパラマートマン彼自身であると見出される」。聖者ゴーラ・クンバ(*11)曰く、「ニルグナへ達するために、私はサグナを通らねばならかった」。聖者トゥカーラーム(*12)曰く、「水の中の塩のように、私はおん身と一体となり、炎の中の樟脳のように、後に何も残さず、私はおん身の中に溶け込んだ」。

(*1)原注、『Day by Day with Bhagavan』、p39
(*2)原注、同上、p176
(*3)原注、同上、p38
(*4)原注、同上、p184
(*5)原注、「Self-enquiry」、p35
(*6)原注、『Day by Day with Bhagavan』、p30~31
(*7)原注、『Talks with Sri Ramana Maharshi』、p275~279、288 ; 1937年1月3日、talk.314に「trasitional I(過渡的な私)」についての記述があります。
(*8)原注、『Day by Day with Bhagavan』、p31
(*9)ジニャーネシュワル・・・http://en.wikipedia.org/wiki/Dnyaneshwar
(*10)ナーム・デーヴ・・・、http://en.wikipedia.org/wiki/Namdev、「kotobank」にナーム・デーオでのっています。
(*11)ゴーラ・クンバ(ル)・・・http://en.wikipedia.org/wiki/Gora_Kumbhar
(*12)トゥカーラーム・・・http://en.wikipedia.org/wiki/Tukaram、「kotobank」にのっています。

詩聖トゥカーラームのアバング



「アヌ・レニ・ヤ・トゥーカダ」、歌:Bhimsen Joshi
       
トゥカは言う、私は小さきものよりも小さいが、しかし、虚空を満たしている
私の体を超越し、私は私の死体を取り除いた。つまるところ、物質的世界は幻に過ぎない
私はこの物質的世界の三つ組を捨て去り、真の知でもって輝くようになった
トゥカは言う、今や私の存在は他者のためにのみある

2014年1月18日土曜日

あなたは体ではなく、自らである - 体の苦しみから学ぶべきこと

◇「山の道(Mountain Path)」、1975年4月 p83、84

あなたは体ではない

マリー・B・バイルズ

 現代医学は重要なのは人の体であり、それを健康にする-もしくは健康にしようと試みる-ことであると思っています。たとえ患者が大変に高齢な時も、体を少しでも長く、さらに少しでも長く生きたままに保つためにあらゆる努力がなされます-それも、必要ならば痛々しい手段でもって。

 「彼らはいつも彼に何か新しい治療を与えます」と患者の娘は嘆きます。「そして、たいていそれはとても痛々しいのです」。

 看病する妹は高名な専門医に、「お医者さん、どうしてその人が死ぬまで検死解剖を待てないのですか」と言いました。医者は科学者でした。彼は面白くありませんでした。

 ある女性が自動車事故でひどい怪我をしました。すぐに彼女は最寄の病院の集中治療室へ担ぎ込まれ、彼女の体に命を連れ戻す-少なくとも一時的に-あらゆる努力がなされました。そして、看護婦と医者は体を十分なものにすること-再び、少なくとも一時的に-が近頃、大変上手です。私はかつて牧師が教会の病院で長い祈りの言葉を病人の枕もとで唱えているのを聞きました。彼は神にどのように神がその人-つまり、その人の体-を健康にすべきか教えていました。神に何をすべきか教えるのは少し余計なことのように思えましたが、それは置いておき、我々は神への完全な委ねからのみもたらされうる内なる安らぎへの何らの言及もなかったことを見過ごせません。牧師は体の物理的な回復をもたらす楽観的な見通しを目指しました。その後、私は本当はただ一つの祈り、「主の御心のままに」だけがあると控え目にそれとなく言いました。しかし、彼が私が意図したことを知っていたのかさえ私は疑問です。

 それから、西洋では挨拶の形式があります。「おかげんいかがですか」、または、「調子はどうですか」。確かに、それは単なる形だけの行為であり、質問者は問われた人が彼の不満を事細かに話し始めるなら、それを歓迎しないものですが、再びまた言及されているのは体です。

 私が述べた全ては西洋に当てはまり、東洋の人々は精神的本質をもっと意識していると抗議されるかもしれません。私はそれが正しいと信じたいのですが、西洋を模倣しようとする熱狂のため、すでにそうでなくても、私が言ったことが東洋にも当てはまるようになるのを恐れます。そして、ラマナ・マハルシに会いにやってきた人々は、彼が「調子はどうですか(How are you?)」という質問を尋ねるのを控えることによってでなく、「あなたは誰か(Who are you?)」という質問を尋ねることによって、彼らが体でないということを度々思い出さなければなりませんでした。

 2500年前、ゴータマ・ブッダは同じ質問、もしくは、それに似たものを提起したようです。彼の優れた弟子であるサーリプッタは、病気で、年老いたナクラピター(*1)に、「あなたは体ではありませんね?」と言いました。ナクラピターはブッダとの面会から戻ったばかりで、幸福に輝いていました。彼はそれは神の飲み物を振りかけられたかのようだと言いました。彼は、「ええ、私は体を持ち歩いているだけです。師は幸福を求めて体に依存することは、常に変化し、朽ちていくものに依存することであり、自らの内に常に存在する避難所、人生の苦しみの嵐のただ中の避難所である島(安全な場所)があるとおっしゃりました」と言いました。論理的な性格のサーリプッタはその教訓をさらに説明しました。「ええ、その通りです。多くの人は彼ら自身を彼らの体と同一視し、実際は体が苦しむということを彼らが言わんとする時に、『私は苦しい』と言います。しかし、八正道の弟子は、『私は体ではない』と言います。その時、彼は痛みへの嫌悪を感じません。なぜなら、彼はもはや彼の体に所有されていないからです」。

 時代を通じ、キリスト教会の信者は、奇跡や医者や信仰によってであれ、体の癒やしに大きな注意を払ってきました。それによって彼らは、癒やしという偉大な奇跡を行ったと伝えられているキリストの歩みに従っていると思いました。我々は彼が体の癒やしか、自らの探求-彼自身の表現を使うなら、神の王国(の探求)-のどちらにもっとも重きを置いたのかは決して分からないでしょう。どのように彼が癒やされた人に「行きなさい、もう罪を犯してはならない」と告げたかの、あのとても興味深い記録があります(*2)。ですから、彼が癒やしの奇跡を彼の御業の中のもっとも重要ではないものとしてみなしていたこともありそうです。

 確かに、全ての人に援助の手を差し伸べることは、人生における我々の務めの中の一つです。しかし、憐れみを抱き仕事を行う献身的な看護婦の仕事の中には、同様に仕事を行うごみ掃除人の仕事の中にある以上の美徳はありません。仕事が行われる精神のみが問題です。それゆえ、体のためになされる仕事に付与される重要性が、人生の主要な探求、五感が知覚できる全てを超えた自ら(もしくは、神の王国)の探求に反していないのか問われるかもしれません。我々は誰なのか。我々は明らかに体ではありません。不死なる者、無形の者、無限で触れられない者が存在します。

 「体をひとりでに話させよう」とマルクス・アウレリウスは言いました。我々自身を体、すなわち、移ろいゆくものと同一視することにより、我々は自らの探求を妨げているだけでなく、この探求を進めるために痛みや苦しみが我々に与える機会を見過ごしてもいるのです。アメリカ人の仏僧であるスマンガロは、その晩年に心の病を治す能力を得たことに不意に気づきました。300人ほどを治した後、彼は治った人々の中の3人だけが道徳的、もしくは、精神的に利益を得たという事実に気づきました。残りの人々は「狭量さ、自己中心性、悪意ある噂話、悪賢い商法、好色、姦淫、暴食など」という以前の生活へと戻りました(*3)。どうして彼らをそのままにしておかなかったのか、それが彼の受け取り方でした。彼らは地上での人生の第一の目的を見つける道はもちろん、病から何も学びませんでした。

 我々はどうして体の苦しみが来たのか、どうしてある場合には治り、別の場合には治らないのか分からないかもしれません。我々はそれぞれ異なる理論を持っていますが、我々の誰も実際は知りません。我々が知ること、それぞれが自分の体験から見出しうることは、体の苦しみから我々が学べる教訓がいつも存在するということです。そして、我々は愚かにも我々が学べる教訓を含む何を差し置いても体を治療をします。そして、我々が絶望や、より悪いことに自殺へと逸れるならばさらにいっそう愚かなことです。

 体の治癒や体の死は、瑣末なことです。自らを見つけることが肝要です。「どちらを探しに行くのが良いでしょうか」とブッダは言いました。「あなたの所持品を持って行った女性ですか、それとも、自らですか」。ブッダの抗しがたいほほ笑みのもとに若者はもちろん、「自らです」と答えました。仮に選択肢が病気の体の治癒であるなら、我々は同じように答えないでしょうか。

 弁護士という私の職業において、私はよく病人や年配の人が遺言書を作るために呼ばれます。その中に老人ホームにいる老齢の女性がいました。彼女は関節炎のため不自由な体で、絶えず痛みがあり、二人の看護婦が部屋に入るのを手助けしなければなりませんでした。彼女は偉大な聖なる師から輝き出たに違いない何らかのものを放射しているようでした。私は彼女につらい老年における彼女の喜びに満ちた落ち着きの秘訣を尋ねました。彼女は、「それはきっと私が感謝すべき大変多くのことを持っているからだと思います」と答えました。感謝!たいていの人は「不平をいうべきたいへん多くのこと」を話したものです。しかし、彼女は病を祝福として受け入れました。彼女は回復しませんでしたが、健康よりも価値ある何かを得ていました。私は彼女が実践的なカトリック教徒であると教わりました。彼女の宗教の外側の形がなんであれ、彼女は苦しみを通じて自我という障害を少しずつ崩してくことを学び、「委ね」ました。

 ラマナ・マハルシはよく「委ね」という用語を使いました。この女性は、「私のくびきを負うて、私に学びなさい」(*4)というキリストの言葉を引用したでしょう。女性がそれを説明する方法がどんなものであれ、彼女は確かに彼女が体ではないと学んでいました。

 しかし、これを記す私は誰なのか。私はいまだ痛みに嫌悪を感じ、つかの間の健康に得意げになります。私が言える全ては、私が起こっていることに気づいており、いまだ体の束縛の内いるのを認めているということです。最後に思うこと-我々が体であるという我々の西洋的信念が、死への恐れ、そして、どれほど苦痛であっても意図的に延命を行う原因ではありませんか。

(*1)『サンユッタ・ニカーヤ(Samyutta Nikaya) 』、22. 1「ナクラピター・スッタ(Nakulapita Sutta)」
(*2)「ヨハネによる福音書」、5章にこの話があります。
(*3)原注、『The Light and the Gate』  R. C. Johnson著から
(*4)「マタイによる福音書」、11. 28-30、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたくしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」

2013年8月12日月曜日

委ねの本質、感情の制御、ヴァルナーシュラマの必要性、自我の追跡

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』、p84~87

 読みやすいように文章を少し変え、対話形式にしています。(文:shiba)

46年1月2日 午後 

 ジョーシー氏が、バガヴァーンが質問用紙と呼ぶものを提出しました。そして、バガヴァーンがそれに答えます。

バガヴァーン:(はじめに、ジニャーニが心を持たず務めを行うことについて)
 あなたは心が破壊されるならば、人は務めを行えないと想像しています。どうして人に務めを行わすことができるのは心だけであると思うのですか。活動を生み出すことができる他の原因もまたあるかもしれません。例えば、この時計をご覧なさい。心を持たずに動いています。また、我々が「ジニャーニは心を持つ」と言うと仮定しましょう。彼の心は普通の人の心と大いに異なります。彼は心をまったく何か遠くの物事へ向けて話を聞いている人のようです。ヴァーサナーが取り除かれた心は、務めを行っていても、務めを行っていません。逆に、心がヴァーサナーで満ちているならば、体が活動的でなかったり、動いていなくても、心は務めを行っています。

質問2:
 ソーハム(*1)は「私は誰か」と同じでしょうか。

バガヴァーン:
 アハム(*2)だけがそれらに共通しています。一方はソーハムであり、もう一方はコーハム(*3)です。それらは異なります。どうして我々はソーハムと言い続けなければならないのですか。人は本当の「私」を見出さねばなりません。「私は誰か」という質問において、「私」は自我を意味します。それを追跡し、その源を見つけようと試みるなら、我々はそれが分離して存在せず、本当の「私」に溶け込むことが分かります。

質問3:
 私は委ねのほうが容易であると感じます。その道を採用したいと思います。

バガヴァーン:
 どの道を通ってあなたが行っても、一者(the One)の中にあなた自身を失わねばなりません。委ねは、あなたが「おん身は全てである」や「おん身の御心が果たされんことを」という段階に達する時にのみ完全です。その境地はジニャーナと異なりません。ソハムには、ドゥヴァイタが存在します。委ねには、アドヴァイタが存在します。実際には、ドヴァイタもアドヴァイタも存在せず、在るそれが、在ります。委ねは容易に見えます。なぜなら、人々がいったん口で「私は委ねます」と言い、彼らの重荷を主へ置くなら、彼らは自由になり、好きなことができると彼らは想像するからです。しかし、実のところ、委ねの後にあなたは好き嫌いをまるで持てず、主の御心が取って代わり、あなたの意思は完全に存在しなくならねばなりません。そのような自我の死はジニャーナと何ら異なりません。ですから、どの道をあなたが行こうとも、あなたはジニャーナ、もしくは、一体性へ行かねばなりません。

質問4:
 どのように私の感情を取り扱うべきでしょうか。私はそれを抑制すべきですか、満たすべきですか。私がバガヴァーンの方法に従い、「これらの感情は誰にあるのか」尋ねるなら、それらは消滅せず、より強力になるようです。

バガヴァーン:
 それはあなたが私の方法に適切に取り組んでいないことを示しているだけです。正しい道は全ての感情の根元、それらが出てくる源を見出し、それらを取り除くことです。あなたが感情を抑制するなら、しばらくの間は抑えられるかもしれませんが、再び現れます。あなたが感情を満たすなら、それらはしばらくの間だけ満たされますが、再び満足を渇望します。欲望を満足させ、それによって欲望を取り除こうと試みることは、灯油をかけることによって火を消そう試みることのようです。唯一の道は、欲望の根元を見出し、そうして、それを取り除くことです。

別の訪問者:
 私が「私は誰か」という探求を試みるなら、私は眠りに落ちます。私は何をすべきですか。

バガヴァーン:
 あなたが目覚めている間中ずっと探求を継続しなさい。それで全く十分でしょう。あなたが探求を眠りに落ちるまでし続けるなら、探求は眠りの間も続きます。目覚めればすぐに、探求を再開しなさい。

別の訪問者:
 国が進歩するためには、ヴァルナーシュラマ(*4)の違いが無くなるのが必要ではありませんか。

バガヴァーン:
 どうしてそれが必要であるのか、必要でないのか言えるでしょうか。私はそのような問題について何も言いません。人々はしばしばヴァルナーシュラマについての私の意見を尋ねにやってきます。もし私が何か言うなら、彼らはすぐに新聞に発表しに行きます。「何某(なにがし)もこれこれの意見です」。ヴァルナーシュラマ・ダルマを定めた同じ聖典が、全ての生命の一体性、そして、アブヘダ・ブッディ(*5)を唯一の現実として示してもいます。全ての生命の合一性、もしくは、一体性より優れた真理を教えることが誰かできますか。誰も自分自身を改める前に、国民や国を改革し始める必要はありません。各々の第一の義務は、彼の本質を実現することです。それをした後で、国民や国を改革したいと思うならば、ぜひとも彼をそのような改革に従事させましょう。ラム・ティールタ(*6)は、「改革者求む-ただし、はじめに自分自身を改める改革者」と広告を出しました。世界に二人として同じにはなれず、同じ様には振る舞えません。どれほど懸命に我々が消し去ろうと試みようも、外側の相違は必ず継続することになります。ヴァルナーシュラマが作りだしたそのような階級や区分をなくそうとする、いわゆる社会改革者の企ては成功しておらず、新しい区分を作りだしただけであり、ブラフモ・サマージストやアーリヤ・サマージストのような2、3のカーストや階級をすでに存在しているものに更に付け加えました。各々にとっての唯一の解決策は、彼の本質を実現することです。
 
別の訪問者:
  一般的に、ジニャーニは活動的な人生から退き、どのような世俗的活動にも従事しません。

バガヴァーン:
 そうかもしれませんし、そうでないかもしれません。ある人々は実現した後も貿易や商売を続けたり、王国を統治します。ある人々は森に隠遁し、体の生命を維持するために絶対的に必要なもの以外の一切の行為を控えます。ですから、全てのジニャーニが活動を放棄し、人生から退くと我々は言えません。

訪問者:
 私はバガヴァーンが我々の本で言及されている肉屋のダルマヴィヤーダような、今生きていて、人生で普通の日常の務めを行っているジニャーニの具体的な例をあげられるのか知りたいのです。

バガヴァーン:
 (沈黙)

訪問者:
 自らの実現のために放棄は必要ですか。

バガヴァーン:
 放棄と実現は同じです。それらは同じ境地の異なる側面です。自らでないものを捨て去ることが放棄です。自らに住まうことがジニャーナ、または、実現です。一方は、同じただ一つの真理の消極的な側面であり、他方は積極的な側面です。バクティ、ジニャーナ、ヨーガは、我々の本質である自らの実現、または、ムクティの別名です。はじめ、それらは手段として見えます。終には、それらは目的となります。バクティ、ヨーガ、ディヤーナなどを続けるために、あなたの側に要求される意識的な努力がある限り、それらは手段です。それらがあなたの側の何らの努力なしに進む時、我々は目的を達成しています。達成すべき実現は存在しません。現実は、常にあるがままにあります。我々がしていること、それは我々が非現実のものを実現している、つまり、非現実を現実とみなしているということです。我々はそれを捨て去らねばなりません。それが求められる全てです。

訪問者:
 どのようにして非現実がやって来たのですか。現実から非現実が生じうるのしょうか。

バガヴァーン:
 それが生じたのか確かめなさい。別の立場からは、非現実のようなものは存在しません。自らのみが存在します。あなたが自我-それのみに基づき世界と全てが存在しますが-を追跡しようと試みる時、あなたは自我がまるで存在せず、この全ての創造も同様であると分かります。

(*1)ソーハム・・・「彼/それは私である」
(*2)アハム・・・私
(*3)コーハム・・・「私は誰か」
(*4)ヴァルナーシュラマ(ダルマ)・・・カーストの序列や人生の段階、カーストや人生の段階に属する義務
(*5)アブヘダ・ブッディ・・・相違の概念をもたない知性
(*6)ラム・ティールタ・・・ラーマ・ティールタのことで、ラムはラーマの短縮形。1873年から1906年。ヴェーダーンタ哲学の教師。日本にも来ていたようです。

2013年6月27日木曜日

『マハルシの福音』 第2巻 第2章 サーダナと恩寵

◇『Maharshi’s Gospel -The Teachings of Sri Ramana Maharshi』 2009年15版、p42-45


マハルシの福音


第2巻 第2章 サーダナと恩寵 


信奉者:
 神に関する研究は、はるか昔から続いています。最終的な結論は言われているのでしょうか。

マハルシ:
 (しばらく沈黙を守る。)

信奉者:
 (困惑して)シュリー・バガヴァーンの沈黙を私の質問への返答とみなすべきでしょうか。

マハルシ:
 ええ。マウナ(*1)は、イーシュワラ・スワルーパ(*2)です。それゆえ、聖句には次のようにあります。

至高なるブラフマンの真理は、沈黙の雄弁(*3)を通じて、表明された

信奉者:
 ブッダは、神についてのそのような質問を無視したと言われています。

マハルシ:
 そして、そのために、彼はスーニャ・ヴァーディン(虚無主義者)と呼ばれました。実際には、彼は神などについての学術的な議論よりも、今ここで至福を実現するように探求者を指導することに関心を持っていました。

信奉者:
 神は、顕現し、かつ、未顕現だと評されます。前者として、彼は彼の存在の一部として世界を包含していると言われています。もしそうであるなら、その世界の一部として私たちは、顕現した姿の彼を楽に知っていたはずです。

マハルシ:
 神と世界の性質について決定しようと努める前に、あなた自身を知りなさい。

信奉者:
 自分自身を知ることは、神を知ることを意味しますか。

マハルシ:
 ええ、神はあなたの内にいます。

信奉者:
 では、何が私が自分自身を、神を知ることの妨げになっているのですか。

マハルシ:
 あなたのさ迷う心と誤った方法です。

信奉者:
 私は弱い人間です。でも、どうして内なる主の優れた力は、その障害物を取り除かないのですか。

マハルシ:
 いいえ、彼はします。あなたがそれを熱望していれば。

信奉者:
 彼が私の中に熱望を作りだしても構わないのではないですか。

マハルシ:
 では、あなた自身を委ねなさい。

信奉者:
 私が自分自身を委ねるなら、神への祈りは必要ありませんか。

マハルシ:
 委ね自体が、力強い祈りです。

信奉者:
 しかし、人が自分自身を委ねる前に、彼の性質を理解することは必要ではないですか。

マハルシ:
 神が、あなたが彼にして欲しいと思う全てのことをあなたのために行うとあなたが信じているなら、あなた自身を彼に委ねなさい。そうでないなら、神に構わないで、あなた自身を知りなさい。

信奉者:
 神またはグルは、私を気遣ってくれていますか。

マハルシ:
 あなたがどちらかを探し求めるなら-彼らは本当は2人でなく1人で、まったく同一ですが-彼らは、あなたがおよそ想像しうる以上の気遣いであなたを探し求めているので、安心しなさい。

信奉者:
 イエスは失われたコインの喩え話を挙げ、そこで女性は見つかるまでそれを探します。

マハルシ:
 ええ、それは神またはグルが熱心な探求者を常に探しているという真理を的確に表現しています。仮にコインが無価値な破片であるなら、女性はそんなにも長く探さなかったでしょう。それがどういう意味か分かりますか。探求者は、献身などを通じて資格を得なければいけません。

信奉者:
 しかし、人は神の恩寵を完全には確信していないかもしれません。

マハルシ:
 未熟な心が彼の恩寵を感じなくても、神の恩寵が欠けていることにはなりません。というのも、それは、時には神が恵み深くない、つまり、神であるのをやめることを暗示するからです。

信奉者:
 それは、「あなたがたの信仰どおり、あなたがたの身になるように(*4)」というキリストの言葉と同じですか。

マハルシ:
 まさしくそうです。

信奉者:
 ウパニシャッドには、アートマンが選ぶ者のみがアートマンを知ると書かれていると聞いています。そもそもどうしてアートマンは選ばなければならないのですか。それが選ぶなら、どうして特定の人を(選ぶのですか)?

マハルシ:
 太陽が昇るとき、いくつかのつぼみだけ花開き、全ては花開きません。そのことで、あなたは太陽を非難しますか。つぼみもひとりでには花開けず、そうするには太陽光を必要とします。

信奉者:
 アートマンの助けが必要とされるのは、それ自身にマーヤーという覆いをかぶせたのはアートマンであるからと言ってはいけませんか。

マハルシ:
 そう言ってもかまいません。

信奉者:
 アートマンがそれ自体に覆いをかぶせたなら、アートマン自体が覆いを取り除くべきではないですか。

マハルシ:
 そうするでしょう。誰にとって覆いがあるのか確かめなさい。

信奉者:
 どうして私がしなければならないのですか。アートマン自体に覆いを取り除かせましょう!

マハルシ:
 アートマンが覆いについて語るなら、アートマン自体がそれを取り除くでしょう。

信奉者:
 神は人格をもちますか(personal)。

マハルシ:
 ええ、彼は常に第一人称(the first person)、私であり、常にあなたの前に立っています。あなたが世俗的な物事に優先権を与えているため、神が背景に退いているように見えます。あなたが他の全てを放棄し、彼のみを求めるなら、彼のみが私、自らとして残るでしょう。

信奉者:
 実現の最終的な状態は、アドヴァイタによれば神(the Divine)との絶対的合一であり、ヴィシシュタ・アドヴァイタによれば限定的合一であると言われていますが、他方、ドヴァイタは、合一は全く存在しないと主張します。このどれが正しい見解とみなされるべきですか。

マハルシ:
 どうして未来のいつかに起こることについて思いを巡らすのですか。皆が、「私」が存在することとを認めています。どの思想学派に人が属していようとも、熱心な探求者にはじめに「私」は何か見出させましょう。その後で、「私」が至高の存在に溶け込むのであれ、彼と離れているのであれ、最終的な状態がどうなるのか知る時間は十分にあるでしょう。結論を先取りせず、広い心でいましょう。

信奉者:
 しかし、最終的な状態についていくらか理解することは、志高き者にとってさえ役に立つ導きになりませんか。

マハルシ;
 実現の最終的な状態がどうなるのか今、決定しようと試みることは何の役にも立ちません。それに本質的な価値はありません。

信奉者:
 どうしてそうなのですか。

マハルシ:
 なぜなら、あなたが間違った方針に基づいて進むからです。あなたの確認は、自らから得る光によってのみ輝く知性に頼らなければいけません。自らの限定された顕現でしかなく、その小さな光を自らから得る知性が自らに判断を下すことは、知性の側の僭越ではありませんか。

 どうして決して自らに到達できない知性に、実現の最終的な状態の性質を確かめる、ましてや、決定する能力がありますか。それは、ろうそくから得られた光という基準で、太陽光をその源で測ろうとすることのようです。ろうそくが太陽の近くのどこかに来る前に、ろうは溶け落ちるでしょう。

 単なる推測にふけらずに、常にあなたの内にある真理の探究に今ここで専念しなさい。

(*1)マウナ・・・サンスクリット語。「沈黙、静寂」。
(*2)イーシュワラ・スワルーパ・・・サンスクリット語。「神の本質」。
(*3)沈黙の雄弁・・・「silent eloquence」の訳、「静かなる雄弁」とも訳せます。
(*4)マタイによる福音書、9:29