25.あなたの重荷をサッドグルに手渡しなさい
ラマナは、自らの探求、心の源の探索、そして、自らの委ねは、自らの知のためのただ二つしかない効果的な手段であるとよく言いました。委ねは概してより簡単であるとみなされますが、それはその真実の含意を理解し損なっているからです。それはサッドグルの導きと保護への完全で、無条件の信頼を含意します。「悪い」出来事が起こる時、我々はその理由を尋ねます。人は「良い」「悪い」が相対的な言葉、対になる両極の一部であり、他方がなければ一方を持つことはできないことを忘れます。それ以上に、人はカルマ的に良いもの、(心が)内に向かうことに役立つものを最もよく知るのは、サッドグルであるということを無視します。どのような質問や疑問も、委ねが不完全であるということを指し示すでしょう。
委ねた人はまた、活動を探し求めず、それを放棄しようともしないでしょう。必要とされる行為が何であれ、それは行為のための力と行為の結果がサッドグルに依るという知識と共になされるでしょう。結果として、人は行為やその結果について心配しません。
サッドグルへの信頼がしっかり根付くにつれ、委ねの精神は徐々に成長します。人が自らの探求を修練するにつれ、自分が行為者であるという概念は腐食します。委ねの道を邪魔するのはこの行為者性という考えであるため、この考えが弱まる時、全ての物事が神によって定められていることをより明確に知ることができます。人は、我々が委ねと呼ぶものが、「ジャッガリーで作られた主ガネーシャの像から少しのジャッガリーをつまみとり、ガネーシャ自身の崇拝において、それをお供えする崇拝者のごとく」であることをはっきり知るようになります。何も自分のものではなく、全てのものをサッドグルが有している時、何を委ねることができますか。この事実の認識は、心配という一切の重荷を取り除きます。それは全世界の重荷を負う者の責任であるとみなされます。
□ □ □
信奉者:
委ねとは何ですか。
バガヴァーン:
それは心の制御と同じものです。自らのより優れた権威を認める時に、自我は従います。これが委ねのはじまりです。自らがなければ自我は存在できませんが、しかし、この事実の無知のために、それは反抗的なままいて、自分から進んで、自分の意思によって行為します。
信奉者:
どうしたら反抗的な自我が服従させられるのですか。
バガヴァーン:
その源を探し求めることによって、その時、自我は自動的に消えます。もしくは、自発的に全ての行為、動機、決定をサッドグルに委ね、それにより自我を根こそぎにすることによって。習慣によって思考がなくてはならない永続的なしきたりであるという誤った観念が作り出されますが、探求と分別はその誤信を破壊します。
信奉者:
人々は神やグルの前で平伏します。私が思うに、彼らの委ねを証明するためか、少なくともそれを示すために。
バガヴァーン:
真の委ねは自我をその源、ハートの中で溶かすことです。神は外側の行為によって欺かれません。崇拝者の中に彼が見るものは、どれほど自我が十分に制御されているか、どれほど破壊の間際にいるかです。(*1)
****
信奉者:
委ねとはどういう意味ですか。
バガヴァーン:
人が委ねる時、彼の中に行為者の感覚はなくなります。平静な気持ちがあり、行為やその結果を心配しません。どのような務めも彼自身のために行いません。そのような人は、全ての行為を放棄した者でしょう。(*2)
****
初めてやって来たパルシー教徒の紳士が尋ねました:
信奉者:
私は聖なる事柄について初心者です。私の友人の一人は、神への委ねが最良の道であると勧めました。私は神に委ねましたが、彼は聖なる道にいる私を教え導いてくれません。どうぞあなたの恩寵を施して下さい。
バガヴァーン:
ああ!あなたは委ねました、そうですね。それでは、どうして神が何もしていないとあなたは言うのですか。それはただあなたが委ねの真意を理解していないということでしかありません。あなたはあなた自身を完全に神の思うままにし、何の見返りも期待すべきではありません。
信奉者:
今や私は私の委ねの理解が不完全なものであったことを悟りました。私を正しく導いて下さい。
バガヴァーン:
あなたは恩寵が必要だと言います。導きを期待し、あなたがここに来ること、それ自体が神の恩寵です。あなたの委ねが完全で、無条件であるなら、同じ恩寵が継続します。あなたは何も頼む必要はありません。「私」と「私のもの」という思いを取り除こうと努めなさい。何ものもあなたのものであると思わないように。それは全て神のものです。(*3)
****
信奉者:
どうして私の安かな状態への妨げが訪れるのですか。
バガヴァーン:
あなたが良いとみなす物事があなたに訪れる時、あなたがたは喜び、神に感謝します。それは正しいことです。しかし、あなたが悪いとみなす物事が訪れる時、あなたは同様に感謝すべきです。そこのところで、あなたは失敗しています。(*4)
****
信奉者:
あなたが哀れな私にわが道を行かせるに任せるなら、どうして私が救われますか。
バガヴァーン:
私が何かをしようと、何もしなくても、あなたは委ね、ただ静かにいなければなりません。(*5)
****
才気ある人のように見える品の良い女性が講堂を訪れ、平伏しました。
信奉者:
(彼女は声を低くして言いましたが、それでも聞きとれました)-私は神によって安楽な人生に恵まれています。私は人間が所有したいと望むもの全てを持っています。
バガヴァーン:
では、あなたは幸福です。さらに何が必要ですか。
信奉者:
いえ、いえ。私は何かが欠けているのをはっきり感じます。私は完全な心の安らぎを享受していません。
バガヴァーン:
おや、そうですか。あなたの人生の目的は完了しておらず、そのために、安らぎがありません。
信奉者:
物質的な安楽があるにも関わらず、私は幸せではありません。私の心はいつも不安で、そして、動揺しています。おそらくは、私の運命によるものでしょう。
バガヴァーン:
ええ、ええ。あなたは率直に全てのことを話しました。運命とは何ですか。あなたが高き力に委ねるなら、運命がどうしてあなたに影響を及ぼせますか。委ねが答えです。それは全てのものを正しく整えます。
信奉者:
それが私の悩みです。私は委ねることができません。私の自我が邪魔をします。
バガヴァーン:
そうかもしれません。ですが、あなたの試みを続けなさい。一点に向けられた集中力を持ちなさい。あなた自身を神に委ねなさい。「私はあなたの思いのままです。私は無力です。私はあなたに委ねます。私はあなたの助けを求めます」と言いなさい。それは安らぎをもたらします。
信奉者:
確かに分かってはいるのですが、私は実践することができません。おそらく、それは私の運命によるものです。
バガヴァーン:
運命に何ができますか。あなたが完全な委ねを行うなら、それは働かなくなります。あなたは心配から解放されます。心は穏やかになり、安らぎが行き渡ります。(*6)
****
「自らの達成の力、あなたの重荷を神に委ねよ、すべてのヨーガの真髄」で翻訳済み
****
信奉者:
もし顕現した存在全体が唯一の神でしかないなら、いったいどうして放棄が可能なのですか。放棄されるべきものとは何ですか。
バガヴァーン:
人は神以外は何でも存在するという間違った知識を放棄しなければなりません。顕現した見かけがどのように映るのであれ、二元性や複数性が何であれ存在するという概念を放棄しなければなりません。至高なる存在のみが、唯一の現実です。それのみが在り、見かけの複数性を支えています。ですから、神以外は何でも存在するという知識を放棄しなさい。言いかえれば、二元性や複数性の感覚を放棄しなさい。
信奉者:
聖典が信徒を教え諭し、彼に二元性の概念を放棄させることは疑いなく良いことですが、聖典のこの教えと同様に重要な指示、つまり、神への自らの委ねとをどのように調和させられるのですか。何であれ二元性が存在しないなら、自らの委ねの必要性や可能性はどこにありますか。
バガヴァーン:
これらの地方のある人々の間の主ガネーシャへの深い献身の気持ちに基づいた習慣に我々は親しんでいます。この人々にとって、その地域の全ての寺院に安置されている彼の聖像への日々の崇拝は、彼らの日々の食事の前の不可欠の儀式です。この信条を持つ、ある貧しい旅人が、あまり人の住んでいない国を通りかかっていました。昼食の前の聖像への日々の崇拝を行えるガネーシャの寺院が近くにどこにも見当たらず、彼は少量のジャッガリー(ブラウンシュガー)からその神の像を作ろうと決心しました。ジャッガリーから像を作り、彼は熱心に儀式を続けました。しかしながら、儀式の中で彼がその神へ少しの神饌(しんせん)をお供えしなければならない所に至った時、その像をつくるために彼が持つ全てのジャッガリーを使ったため、彼は鞄の中に何も残っていないことに気づきました。しかし、通例の神饌のお供えがなければ、どのような崇拝も完全なものになりえないため、その単純な旅人はその像そのものからジャッガリーのかけらをつまみとり、それをその神にお供えしました。ジャッガリーのかけらをつまみとるというまさにその行為において、彼が崇拝したいと望んだ、まさにその像を汚し、それゆえに、崇拝と供物を共に無価値なものにしたことに彼は気づきませんでした。
あなたの自らの委ねの考えは、その旅人によってなされた供物に勝るものではありません。あなたがあなたの存在を至高なる存在から離れた何かとして仮定することによって、あなたはそれをただ汚しているに過ぎません。あなたがあなた自身を委ねても、委ねなくても、あなたがその至高なる存在から離れていたことは決してありません。実際、この瞬間に、まさに過去や未来におけるように、神のみが在ります。(*8)
****
信奉者:
委ねは主要なサーダナですか。
バガヴァーン:
疑いなく、委ねのサーダナは認められています。しかし、委ねが完全な時、区別は存在しません。弟子がグルからマントラの手ほどきを受け、彼が委ねたと信じる時、しばしば、彼の委ねは本物ではありません。委ねにおいて、人は心を放棄しなければならず、心が引き渡された後、どのような類の二元性も存在しません。神から分離したままである彼は、委ねていません。
信奉者:
全ての行為とその結果が神に委ねられるなら、心は制御されるのでしょうか、されないのでしょうか。
バガヴァーン:
そのようにすることによって、心は清められますが、それは死んではいません。大酒のみが彼の行為とその結果を神に委ねたと考えたとしましょう。その酔っぱらった状態で、彼が過ちを犯し、その過ちのために誰かが彼を棒で叩くなら、彼はその殴打もまた神に委ねなければなりません。しかし、誰もそのように振る舞いません。彼の様子は彼が殴打を受けた時点で変わります。
信奉者:
我々がグルや神に委ねるなら、個人の現実性は消え去り、それと引き換えに、我々はより大きな現実の支えを得て、神の力が我々の内に輝くと信じられています。
バガヴァーン:
委ねた後に、より大きな神の力を受け取ることを期待することは、委ねの真の態度ではありません。(*9)
****
ある人が母の寺院に鐘のなる時計を寄贈し、それによってバガヴァーンは一連の考えを現わし始めました。
バガヴァーン:
崇拝には、少量の樟脳で十分です。これが行われないのに、人々は神から不釣り合いな賜物(たまもの)を期待します。自分たちが神に多くを与えたという思いを抱き、反り返って歩く人もいます。彼らが与える彼らのものとは、実際、何ですか。神が有するものの内の少しが返還されました。それだけのことです。思いなきままにいることが、人が神に捧げることができる最良の供物です。(*10)
****
信奉者:
修練のために、カルマを取り除いたり、無効にするように、そして、モークシャの達成を早めるように神に祈ることは正当なことではありませんか。
バガヴァーン:
正当なことです。あなたが高き力と異なると感じる限り、それに祈りなさい。あなたがあなたの上に重荷があると感じる限り、それに関して祈りなさい。しかし、さらに良いのは、プラパッティ、自らの委ねの境地を得なさい。そして、あなたの全ての重荷を主に委ねなさい。その時、彼はあなたの背中から重荷を取り去り、あなたが彼の内にあり、彼と一体であるという実感をあなたに与えます。(*11)
(*1)S.S.Cohen、『Guru Ramana』、p. 59.
(*2)K.R.K.Murti、「My Reminiscences of Sri Ramana Bhagavan」、『The Mountain Path』、July 1985、p. 183.
(*3)N.N.Rajan、『Leaves from the Diary』、The Ramana Way、May 1991、p. 75.
(*4)A.Devaraja Mudaliar、『My Recollections of Bhagavan Sri Ramana』、1960、p. 113.
(*5)同上、p. 118.
(*6)N.N.Rajan、『Leaves from the Diary』、The Ramana Way、Mar. 1991、p. 9.
(*7)Kapali Sastri、『Sat Darsana Bhasya and Talks with Maharshi』、pp. xxiv-xxvi.
(*8)Swami Madhava Thirtha、「A Visit to the Maharshi」、『The Mountain Path』、Oct 1981、p. 225.
(*9)Swami Madhava Thirtha、「Conversations with the Maharshi-I」、『The Mountain Path』、Oct 1980、p. 211.
(*10)A.R.Natarajan (tr.and ed.)、『Unforgettable Years』、「Subbalakshmi Amma」、p. 89.
(*11)B.V. Narasimha Swami、「A Dialogue with the Maharshi-IV」、『The Mountain Path』、Apr. 1983、p. 90.
0 件のコメント:
コメントを投稿