シュリー・ラマナ・マハルシとの対話
スワーミー・マードハヴァ・ティールタ
質問:
私は誰か。その問いは誰に向けられてますか。
答え:
その問いは自我に向けられていて、アートマに向けられていません。
質問:
「私は誰か」という探求と共に「私はシヴァである」と言うべきでしょうか。もしくは、「私は心、知性、体ではない」などと言うべきでしょうか、言うべきでないのでしょうか。
答え:
探求の過程において、心の中のそのような問いに返答しないように。答えは内からやって来させるべきです。自我の答えは本物ではありません。ジニャーナ・マールガ(知の道)の方法により答えを得るまで探求を続けなさい。この探求は瞑想と呼ばれています。その状態から生じる動きなく、安らかなジニャーナマヤ(完全な知)が、ジニャーナ(知)です。
質問:
現在、私は聖像の形に瞑想しています。また、グルから受けた指導に従い、ジャパもしています。私は「私は誰か」という探求を行うのに適していますか、適していませんか。
答え:
「私」もまたグル・マントラです。『ブリハダーランヤカ・ウパニシャッド』(*1)で、神の最初の名は「私」であったと言われています。オームは後で存在するようになったに過ぎません。アートマは常に「私‐私」と言います。ジャパの行為者がなければ、ジャパはまるで存在しません。全て(の人)が「私」のジャパをします。それに集中することにより、瞑想は成功します。そのような瞑想の成果は知です。それでも、あなたが形への瞑想を続けたいと思うなら、そのようにしてかまいません。その人に合うサーダナが、その人にとっての適切な方法です。
質問:
私は宗教的な教えを出版することによる宣伝(布教)の仕事をしています。そして私はジャパ、マントラ、執筆、主の偉業を歌うこと、研究、指導をしています。これを続けるべきでしょうか、続けるべきでないでしょうか。言い換えれば、「私は誰か」という探求を行っている間、私は先に述べたすべての仕事を続けるべきでしょうか。
答え:
自らの探求を離れることなく、その全ての仕事を行いたいならば、そのようにしてかまいません。あなたははじめにジャパ、歌うこと、奉仕が何であるか理解しなければなりません。「私は在る」としてありなさい(*2)。現実が真のジャパです。ジャパと神は一つです。名と名付けられる物の間には同一性が存在します。偉大な信奉者、ナームデーヴ(*3)は言いました(ここで、バガヴァーンは「The Vision」の古い写しを手にとりました)。「名は全世界に完全に行き渡っている。名は不死であり、多くの形からなっている。名そのものが形であり、形そのものが名である。名と形の間に区別は存在しない。神は顕現し、名と形を帯びた。名を超えるマントラは存在しない。人がその「私」を十分に知る時にのみ、名の遍く行き渡る性質は理解され得る。彼自身を知る時、彼は名をあらゆる場所に見出す。知識、瞑想、苦行の修練によって、誰も名を実現できない。そうでなく、あなた自身をグルの御足に委ね、あなたの中の「私」が誰か知ることを習え。その「私」の源を見つけた後、自明の存在であり、一切の二元性を欠く一体性の中にあなたの個人性を溶け込ませよ。その名こそが全世界に行き渡り、浸透している。名はパラブラフマンそのものである。そこに違いは存在しない。」
質問:
私の現在の状態において、十分な信仰、謙虚、委ねが私の中にありますか。そうでなければ、どのようにそれらを完全にすればいいですか。
答え:
あなたは完全です。ですから、不完全という考えを捨てなさい。破壊されるべき何ものも存在しません。自我は現実のものではありません。心こそが努力をなし、心は現実ではありません。人が蛇であると想像する縄を殺す必要がないのとまさしく同様に、心を破壊する必要はありません。心の形を知ることによって心は消えます。ニヴリッティは、ニティヤー・ニヴリッティに属しています(人は永遠に破壊されているものを破壊できません)。
質問:
特定の姿勢で座るべきですか、もしくは、草の敷物の上に座るべきですか。
答え:
自らに安立していることが本当の姿勢です。その姿勢にしっかりといなさい。どんな姿勢でアートマが座りますか。アーサナ(姿勢)がなければ自らの知は存在しないと言うことは間違いです。アートマはそれらを必要としません。特定の種類の姿勢をとることの強制は、心を不安定にします。
質問:
スワディヤーヤ(*4)のためにどんな本を読むべきですか。
答え:
自らが本当の本です。あなたはその本の中のどこでも目を通すことができ、誰もそれをあなたから取り去れません。あなたが思いだす時はいつでも、自らへ向きなさい。その後で、あなたは好きなものを読めます。
質問:
どのように瞑想中に起こる疲労、恐怖、心配に打ち勝つべきですか。
答え:
誰にそれらが起こるのか見出しなさい。この探求を行うことにより、それらのものは消えます。それらのものは永続的ではありません。それらに注意を払わないように。二元性の知識が存在する時、恐怖が生じます。あなたが「私と離れて他者が存在する」と思う時にのみ、恐怖がやってきます。あなたが心を自らへ向けるならば、恐怖や心配は消え去ります。現在の状態において、心が不安定な時、あなたが一つの恐怖を取り除くなら、別のものが起こり、それに終わりはありません。次から次へと木の葉をむしるのは骨の折れる仕事です。自我が全ての源です。あなたが根を破壊するなら、葉や枝は枯れます。
質問:
あなたの近くで座っている間、あなたのアートマの力を受け取るために、どのような類の心の状態を我々はもつべきですか。
答え:
心を静かに保ちなさい。それで十分です。あなた自身を静かに保つなら、この講堂に座り、あなたは聖なる助けを得ます。全ての修練の目的は、全ての修練を放棄することです。心が静かになる時、自らの力が経験されます。自らはあらゆる所に行き渡っています。心が安らかにあるなら、人はそれを経験し始めます。
質問:
体の内に「私」の源はありますか。
答え:
自我は体の内にあるので、はじめ、その探求は体の内で行われます。その源が見出される時、内も外もありません。ハートの内を探求することは、「私は誰か」という探求を意味します。
質問:
ハートは体の内の右側にありますか。
答え:
「私」が生じる場所がハートです。知の中心としてのハートを知りなさい。
質問:
どちらが私にとっていいですか。あなたの目と口をしっかりと見ることですか。それとも、私は目を閉じて座り、心を特定のものに集中すべきですか。
答え:
あなた自身の本質をしっかりと見なさい。目が開いていても、閉じていても重要ではありません。一者(One)はあらゆる所にいます。ですから、あなたが目を開いていても、そうでなくても全く同じです。あなたが瞑想したいなら、あなたの内にある「私」に対して瞑想しなさい。それはアートマです。それは目を持たないため、目を開いたり、目を閉じたりする必要はありません。あなたが自らの知を得る時、世界についてのどのような考えも存在しません。あなたが部屋に座っている時、窓が開いていても、閉まっていても、あなたは依然として同じ人です。同様に、あなたが現実(Reality)の境地に住まう時、目が開いていても、閉じていてもまったく同じです。外側の活動が続いても、続かなくても、大した問題ではありません。
質問:
瞑想の間と後で、私は世界の不幸な人々についての多くの思いを持ちます。
答え:
はじめに、この「私」が現実であるのか見出しなさい。それらの思いを得るのは「私」であり、結果としてあなたは弱さを感じます。それゆえ、どのように体との同一化が生じるのか見出しなさい。体の意識が全ての苦しみの根本原因です。あなたが「私は誰か」という探求を行う時、あなたはその源を見出し、「私」は破壊されます。その後、もはや質問は存在しません。
(*1)『ブリハダーランヤカ・ウパニシャッド』・・・ヤージュニャバルキャの作と思われる10の「ムキャ(主要な)・ウパニシャッド」の一つ。紀元前5百年より前に成立。意味は「偉大なる知の森」。
(*2)「Be as you are」の訳。「あるがままにいなさい」と意訳されますが、直訳的には「『私は在る(I AM)』としてありなさい」と訳せると思います。
(*3)ナームデーヴ・・・インド、マハーラーシュトラ州の詩聖。西暦1270~1350。
(*4)スワディヤーヤ・・・自らを学ぶこと
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