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2017年7月18日火曜日

真の自らの探求 - 我々の内なるキリスト、移ろうことなきアッタを求めよ

◇「山の道(Mountain Path)」、1968年10月、p271~273

 真の自らの探求

 マックス・ホッペ
マックス・ホッペ氏(ブラザー・ダンマパーラ)は、西ドイツ、a.A.、ウッティング、8919、古代仏教共同体(Altbuddhistische Gemeinde)の長です。仏教とヴェーダーンタの多くの生徒、そして、西ドイツのシュリー・バガヴァーンの数人の信奉者もまた、この僧院の中に安らかな隠遁所を見出しています。マックス・ホッペ氏はその地域における我々の機関紙の熱心な仲介者でもあります。

 苦しみの中で、我々は我々自身に委ねられています。我々の悲しみ、我々の痛み、我々の不眠を誰も我々から取り除くことはできません。それらは我々自身の応答を要求します。それらは我々を苦々しさへと駆り立て、我々を感情的気質および身体的状態の奴隷にするか、もしくは、我々の理解の助けとなり、それによって本当の幸福への扉を我々のために開きます。マイスター・エックハルトの言葉によれば、「苦しみは、我々を完成へと運ぶ最速の馬である」。

 変容させる理解、すなわち、ブッダの教説の中に見られる苦しみの理解に導くゆえに、実り多きものとなる苦しみは、ハンス・ムッフによる以下の言葉の中に、見事な方法で特徴づけられています。「推進力は抵抗によって理解されるでしょう-原初の永遠なる存在は、無常の苦しみによって(理解されるでしょう)。無常の苦しみは、我々が不滅であると思い出させるものです」。

 K.O.シュミットは、彼の本、Dir ist das Licht(あなたの内にある光)の中で、49人の偉大な宗教的天才の人生と教えをその特有の輝かしい側面において我々の前に提示しています。近代における最も偉大な聖者、シュリー・ラマナ・マハルシ(1879-1950)もまた、発言の機会を得ています。彼の記述の中で、K.O.シュミットは言います。「デルフォイのアポロン神殿の入り口の上にそびえ立っていた、ギリシャの哲学者タレスの言葉、『グノーティ・セアウトン』-『汝自身を知れ』-は、マハルシの卓越した要求、『汝の自らを知れ』によって深みと質を増しています。なぜなら、哲学者の忠告は『私』の行動条件や指針、傾向、弱点や欠点、力と限界の認識を目指しますが、神秘家は超越的な、真実の、すなわち、神聖な自らを目指します。その光輝の中に、つかの間の『私』は消え去り-それと共に、一切の疑問、一切の不確かさと悲惨は(消え去ります)」。

 「神性の驚異を見通したいと欲する者は誰でも、彼自身の内から、彼の知恵を容易に引き出すだろう」とマイスター・エックハルトは我々に宣言します。そして、ヤーコプ・ベーメは言います。「あなたはどこに神を探したいのですか。星々の上にある深みの中ですか。そこにあなたは彼を見つけないでしょう。あなたのハートの中に、あなたの存在の中心に彼を探しなさい。そこにあなたは彼を見つけるでしょう!」。この自らの探求、アートマ・ヴィチャーラのために、シュリー・ラマナ・マハルシは、「私は誰か、私は何か、私はどこにいるのか」という質問、解決を要求する現在の存在から発する質問によって、明確な出発点を提供しています。

 シュリー・ラマナ・マハルシの著名な学者、アーサー・オズボーンは、これに関連して言います。「自らの探求へのこの呼びかけは実践的な鍛錬法であり、心理的内省とは何の関係もありません。それはさらに遥か深いものです。それは衝動や動機の問題ではなく、同上のもの(衝動や動機)の根底にある自らを求める問いかけなのです。」

 上に言及したK.O.シュミットの本の中で、以下のように書かれています。「自ら-すなわち、我々の本質の最奥の核、高き自ら、エマーソンの『オーヴァー・ソウル』とは、我々の内なる神聖なる火花です。そして、その探求は、それでない一切のものを取り除くことによって、そして、『私は誰か』という絶え間ない問いによって始められ、終には私は在るに、自らに通じます。正しい角度からそれを見れば、この探求はキリストの要望の成就以外の何物でもありません。『神の王国と彼の義をはじめに求めなさい。そうすれば、他の全てはあなたがたに加えられるでしょう』。この神の王国は我々の内にあり、それは神聖な自らの輝かしい王国、もしくは、キリスト教の神秘家たちがそう呼ぶような『我々の内なるキリスト』です」。

 これらの言葉の後、力強い結論を備えたブッダの偉大なメッセージへと我々は向かいます。

 「私が見る生じ、滅するもの、そして、この無常の結果として、私に苦しみをもたらすもの、それが私の自らであるはずがない。私自身に関する、私自身の周りで認識されるであろう一切が生じ、滅し、それによって私に苦しみをもたらすのを私は見る。それゆえ、認識されうる何物も私の真の自らではない」。

 すでにエフェソスのヘラクレイトスは、「万物は流転する」と理解し、普遍的な無常を以下の言葉で説明しました。「同じ川へと我々は足を踏み入れては、出てゆくが、それは我々自身であって、我々自身ではない」。彼の生徒の一人はもはや起こっている一切のこの絶え間ない急速な変化をあえて言葉で表現しようとせず、ただ最後に象徴的に指をパチリと鳴らしました。全現象の錯覚を起こさせる性質、非実体性を見た人はいつも多く存在するため、多くの人は私がかつてある墓石上に読んだものに感動を覚えるかもしれません。「世界は行為し続け、人々は去来する-あたかもあなたが一度も存在していなかったかのように、あたかもかつて何も起こらなかったかのように」。

 さらに賢明な人々は、あらゆるものは我々が手につかもうと思うと文字通り消え去り、まさしくそれ故に我々が愛着するであろうものはどれであれ全て、本質的な私、すなわち、自らを意味しないことを常に認識しています。我々が物事を個別に分離して見るとき、何物も永遠の価値を認められていません。それゆえに、常々、より深い洞察力を持つ人々は悲惨な状態、涙の谷間(悲しみの多い人生)について語っています。ブッダ、完全に目覚めし者は、しかしながら、現実の他の側面も見ています。目覚めに通じる瞑想において、全ては我々がこれらの移ろいゆく要因を我々の自らでないと、真の自らでないと明確にみなすことにかかっています。完全に目覚めし者は、古代パーリ聖典の経典、サンユッタ・ニカーヤの中でこれを明確かつ率直に言います。「移ろいゆくものは苦痛である。苦痛であるものは、アン・アッタである(アッタでない、自らでない)。アン・アッタが意味するは-それは私に属していない、それは私ではない、それは私の自らでない」。

アナッタ・ラッカナ・スッタ(非我相経)

 これを心に留めて瞑想する者は誰でも、揺れ動かず、難攻不落なるものの実現を彼自身の内にさらにさらに体験し、それによって、一切は、実のところ彼に全く属していない、非本質的なものとして抜け落ちます。ブッダの言葉は最奥の体験となります。「タターガタ(我々自身の内なる達成者)は大海のごとく深く、果てしなく、計り難い」。そして、これは我々を広げ、解放します。愛と慈悲は、我々がブッダの道を進むにつれて養われ、深い哀れみの感情が目覚め、我々がを我々の周りに心の喜び見るときも喜びが生じます。この体験の幸福はいつも繰り返しスッタの中で強調されています。「この教説は始まりで幸福にし、中ほどで幸福にし、終わりで幸福にする」。

 この態度において、我々の人生行路上の全てのものは我々にちょうど適したように自ずと整います。これは我々に正しい平静を与えますが、しかし、まさにここで、鈍感な無関心から我々をはるか遠ざけます。そうして、認識の上に成り立った自信、行く手に持続する喜びを与える自信が結果として我々に生じます。

 ジョージ・グリムによって適切な比喩が与えられています。彼は言います。「荒れ狂う滝のしぶき飛び散る水滴は雷のように速く変化していますが、虹-それを支えるものが水滴ですが-は、太陽自体-その反射が虹ですが-と共に、変わらずに穏やかに動かないままあり、この落ち着きのない変化に影響されないのとまさしく同様に、そのように、我々の人間存在の構成要素、いやむしろ、サンサーラ(再誕の循環)として互いにつながれた我々の無数の人間存在全体もまた、休みなく変化していますが、超越的な自らの反射としての私という思い-それを支えるものが無数の人間存在ですが-、および、この超越的な自らも、どれほど多くの我々の目が死によって閉じられようとも、永遠の存在の中のこの継続的な変化に完全に影響されないままあります。それ(自ら)は世界を、世界の生起と消滅を、それ自体それにより影響されずに、眺めています。

 移ろいやすく、もろく、それゆえに究極的には常に苦痛を与える、我々の人間存在を構成する属性は自らでないという体験から、内から本当に理解されるアン-アッタの見解は、Buddhistische Meditationen(仏教徒の瞑想) の中のジョージ・グリムの言葉によって明らかになります。

 「山ほどある人間存在の変化は我々を通り過ぎ流れている小川でしかありませんが、しかしながら、我々自身を運び去ることはできず、むしろ、我々は動けずに現在におり、その結果、どれほど多くの我々の目が死によって閉じられようとも、終わりなき時の間、何の価値も持たない『今』が常々我々の運命になるでしょう。人間存在の所有を渇望する我々の意思が消え去らないまでは、つまり、我々が我々であるものであることをやめ、我々でないものになるまでは、この苦悶に終わりはありません。これを見通し、その意思がそれゆえにさらにさらに消し去られている善良で賢明な人は、常に至福の境地により近づきますが、愚者にとってそれはいつも遠く離れたままです」。

2015年12月25日金曜日

アドヴァイタの文脈で見るキリスト教 - 魂(プシューケー)から霊(プネウマ)へ

◇「山の道(Mountain Path)」、1988年7月 p181~183

アドヴァイタとキリスト(教)信仰

ビード・グリフィス神父

 シュリー・ラマナ・マハルシには様々な宗教の人々の中から弟子がいますが、その多くはキリスト教徒です。それゆえ、伝統的キリスト(教)信仰を抱く者が不二の教説とマハルシのものであった「私は誰か」という探求の方法をどれほど受け入れることができるのか調べることは興味深いことかもしれません。一見したところ、伝統的なキリスト教はアドヴァイタ哲学からかけ離れたものであるように思えるかもしれませんが、より深い学びによって二つの教説には深遠な類似性が存在することが明らかになるやもしれません。この格好の例は、アドヴァイタとキリスト(教)信仰の調和にその人生を捧げたフランス人修道士、ル・ソー神父、スワーミー・アビシクターナンダの教えと人生に見出されます。彼にとっての決定的瞬間が訪れたのは、1949年1月、彼がティルヴァンナーマライのアーシュラムを訪問した時でした。彼はそれについて(以下のように)記しました。「私の心がその事実を認識しうる、ましてやそれを表現しうる前にさえ、この賢者の目には見えない光輪(栄光)は私に中の言葉より深い何かによって感じられていました。アルナーチャラの賢者の中に、私は永遠なるインドの比類なき賢者、その(インドの)賢者たち、その苦行者たち、その予言者たちの途切れない継承を認めました。それはあたかもインドの魂そのものが私自身の魂のまさにその深みを貫き、それと神秘的な交わりを持ったかのようでした。それは万物を貫通し、バラバラに切り裂き、巨大な深淵を開きました」。

 このフランス人修道士の人生を変え、その心に絶え間ない苦闘を引き起こしたのは、この体験でした。この圧倒的な不二の体験を彼のキリスト(教)信仰と調和させようとしながら、彼は日記にその苦闘を書き留めました。その体験は彼にとってさらに深まったのは、彼がティルコイルールのスワーミー・グナナーナンダのアーシュラムで6か月過ごした時、スワーミー・グナナーナンダの内に彼に真正なアドヴァイタの体験を伝えた真のグルを認めるようになった時でした。生涯、彼はこの比類ない体験の絶対的真理を疑い得ませんでしたが、それを伝統的キリスト(教)信仰と調和させることは絶え間ない苦闘でした。彼の本は、『Sacchidananda』の題名で英語に翻訳され、彼はそれをアドヴァイタ的体験へのキリスト(教)的アプローチと呼び、二つの教説を調和させる彼の最初の真剣な試みでしたが、後にこれを超えて行きさえしました。彼が最も深い理解の水準に達したのは、サンニャーサとウパニシャッドに関する随筆からなる『The Further Shore』という彼が記した最後の本の中でした。サンニャーサに関する随筆は元々、リシケーシュのシヴァーナンダ・アーシュラムの雑誌『Divine Life』に掲載され、多くのヒンドゥー教徒に非常に高く評価されています。この本自体が、アドヴァイタとキリスト(教)信仰を調和させることに彼がどれほど成功したのかについての良い試金石です。

 アンリ・ル・ソー、”スワーミージ”、内なる旅、10分ごろから場面はアルナーチャラへ

 我々がアドヴァイタ的体験とのキリスト教の関係を理解したいと思うなら、聖パウロに見出される体(ソーマ)と魂(プシューケー)と霊(プネウマ)の間の区別から始めるのが最良です。不幸にも、後代に、アリストテレスに基づいた体‐魂としての人間の概念が受け入れられるようになり、これは人と神の間に隔たりを残しました。神は人類の「外側」、人類より「上」(にいる)と思われ、神の内在性の感覚は失われがちになりました。しかし、初期の伝統では、聖霊とは、人と神の間の出会いの場であると理解されています。人の霊が神の聖霊に出会うのは、その地点です。聖パウロは「アンソロポス・プシューケーコス」、魂の人と「アンソロポス・プネウマティコス」、霊の人の区別をし、彼の理解するところの人生のまさにその目的とは、魂から霊へ、人から神へと進むことです。この理解において、人間とは、まずはじめに物質的有機体、体であり、世界の物質的有機体の一部です。現代物理学の見解では、全世界は「力の場」、「相互依存的関係性の複雑な網」であり、絶え間ない動的変化の状態にあります。それは「依存的生起(縁起)」という仏教的見解とシヴァの踊りというヒンドゥー教の神話に非常に近しいものです。そして、これは人間の物質的基礎、粗大な体または「アンナ・コーシャ」、「ムーラ・プラクリティ」です。

 キリスト教の伝統の魂、または、プシューケーは、ヒンドゥー教の伝統の微細な体に対応します。それは五感、欲求、感情だけでなく、想像力、理性、意思もまた含みます。カタ・ウパニシャッドの用語において、それは五感(インドリヤ)と心(マナス)と知性(ブッディ)、そして、アハンカーラ、「私の作り手」も含みます。プシューケーは自我、経験上の自ら、ジヴァートマンを中心とし、それがその本質的限界であると認識することが重要です。それゆえに、プシューケー、個々の分離した自らを超越しうること、そして、聖霊、アートマンに自分自身を開きうることに全てはかかっています。キリスト教の伝統のプネウマは、ヒンドゥー教の理解におけるアートマンに極めて密接に対応しています。それは人間性の超越の地点、創造されざるものへの創造物の開放、最終的解放への通路です。

 この観点から考えると、キリスト教の伝統において考えられるところの人間の堕落とは、プネウマからプシューケーへの、聖霊から魂への、無限かつ永遠なるものから有限で一時的なものへの転落に存します。同じ原則に基づいて、救済とは、聖霊の命への魂の返還、人が神との交わりを再び取り戻すことに存します。托身(受肉)によって、神は再び人に入り、神は人になり、聖霊の内の命へと魂は戻されます。これは(キリストの)復活を通して達成されています。復活において、イエスの体と魂は聖霊の命へと連れ行かれると理解されています。粗大な体は十字架の上で死に、墓に埋葬されました。次に、それは微細な体に変じ、彼は弟子たちにその微細な体で現れ、時間と空間の通常の様態を超えて現れ、消えました。最終的に、昇天において、体と魂は時間と空間を超え行き、無限で永遠なるものへと終に入り、その結果、人は神と一つになりました。

 キリスト教の啓示がこれらの用語において考えられるなら、それがどのようにアドヴァイタ的体験と関連しうるのか理解することは困難ではありません。魂、もしくは、心の体は、自我、アハンカーラを中心とし、本質的に二元的です。それは全てのことを主体と対象、心と物質、時間と空間という観点から考えます。しかし、我々が心の状態を超え、自我を超え行く時、我々は一切の二元性から自由の身となります。聖霊の中では、この一切の人間性は乗り越えられています。ヒンドゥー教の伝統におけるシャンカラであれ、仏教におけるナーガールジュナ、イスラム教におけるイブン・アル・アラビー、キリスト教におけるマイスター・エックハルトであれ、その最終的な境地において、二元性が存在しないことは全ての伝統の神秘主義者の体験です。全創造物がその初めから向かっているのは、この超越的な境地であり、人類の運命とは現在の分割された意識の状態から不二、無限、永遠である最終的な意識の境地へと進むことです。しかし、その不二の現実において、全ての神秘主義者が証言するように、この世界の全ての現実性が見出されます。我々は世界を時間と空間で分割され、瞬間ごとに変化していると見ますが、それは我々の現在の分割された意識の様態の限界でしかありません。我々が心の様態を超え行く時、我々は現実そのものを「totasimul」、完全かつ同時に見ます。シャンカラがタイッティーリヤ・ウパニシャッドの注釈の中で述べたように、「ブラフマンを知る者は、永遠であり、ブラフマンの本質から異なるものでなく、我々が真理、知、無限-サティヤム、ジニャーナム、アナンタムとして描いた、一回の認識を通して、一瞬に蓄積されたものとして、全ての好ましい物事を同時に楽しむ」のです。

 この世界が非現実であるということではありません。それどころか、「この全世界はブラフマンである」とウパニシャッドは確言します。しかし、我々がそれを認識する方法には欠陥があります。我々が「魂」から聖霊へ、心から心を超えたものへと進む時、その時、我々はこの世界をあるがままに見るでしょう。無限である真理と知-サティヤム、ジニャーナム、アナンタム-の完全性の中に、我々は全ての人と全てのものをあるがままに見るでしょう。これが救済のキリスト(教)的理解です。それは聖霊の無限の命への体と魂の移行です。イエス自身がその境地について、「私は父(なる神)の内におり、父(なる神)は私の内にいる」と言うことができ、弟子たちのために、「父(なる神)である、あなたが私の内におり、私があなたの内にいるように、彼らが一つになりますように。彼らが我々の内で一つになりますように」と祈ることができました。これがキリスト(教)的アドヴァイタ、完全な一体性の境地であり、その中に区別はいまだ見出されません。それは純粋な同一性の状態ではありません。イエスは、「私は父(なる神)である」でなく、「私は父(なる神)の内におり、父(なる神)は私の内にいる」と言っています。彼は、「私を見る者は、父(なる神)を見る」、そして、「私と父(なる神)は一つである」と言うことができます。けれども、彼は、「私は父(なる神)である」とは言えません。純粋なアドヴァイタがありますが、それでも、その不二性の中に区別は残ります。

 この区別は何でしょうか。三位一体というキリスト(教)の教説は、それを「関係」として描きます。存在(being)の完全な一体性はありますが、それでも、その存在の中に関係があります。現代物理学が世界を「相互依存的関係性の複雑な網」として描いていることが思い出されるでしょう。世界は相互に依存した統一体ですが、それは無数のエネルギーの振動から成り立ち、その関係性によって区別されているだけです。良く知られているように、物理学者はもはや原子の中の「粒子」について話さず、異なる周波数の波について話します。そのようにまた、我々が想像するように、人間は孤立した個人ではなく、時間にして創造の始まりまで及んでいる広大無辺な統一体の一部です。各人が、サーンキヤ哲学でマハットとして知られる広大無辺な意識という漠々たる領域の中の意識の中心です。そして、この意識とエネルギーからなる全世界は、至高のエネルギー(シャクティ)と至高の意識(シヴァ)の中に連れ行かれます。我々が見てきたように、世界はシヴァの踊りに比することができ、ギリシャ正教会において三位一体がペリコーレーシス-踊りとして知られているのは、非常に興味深いことです。世界の中心には、この永遠の踊り、純粋な意識の至福の中での位格(父と子と聖霊)の交わりが存在します。それでも、この存在(being)の中の多様性すべては、至高なる神性の不二の存在、不二の意識の中に含まれています。

 キリスト(教)的アドヴァイタに関する考察は、何かそのような世界と人の概念へと我々を導きます。しかし、全てが述べられた時、言葉は言いようのない、かの現実を表現しえないということを認めなければなりません。教会博士、聖トマス・アクィナスは、神その人、絶対的現実は人知にとって「omnino ignotus」-全くもって未知-のままであると言明しました。最終的に、彼は「ネーティ、ネーティ」であるとウパニシャッドをもって我々は言わなければなりません。究極的な真理が知られるようになるのは、沈黙の中であり、ヒンドゥー教徒であれ、カトリック教徒であれ、我々全員が、全てが知られている、その沈黙、その静寂、その究極的な神秘の中へと導かれつついます。「それが知られる時、全ては知られる」。

ビード・グリフィス神父

はっきり聞き取れるところだけ下に訳してます
ヴェーダーンタ、ヨーガ、仏教の教えやスーフィーの教えを通して、キリスト(教)信仰の深い次元を発見することは全く可能であると私は考えています。
我々は神のことを考えなければなりません。我々は何らかのイメージを必要とします。我々は何らかの概念を必要とします。我々は聖書や何らかの聖典を必要とします。それらは神についての理解を我々に与えるためのものです。それは我々の導き手ですが、我々はそこで止まるべきではありません。我々が作り上げた全てのイメージ、概念、考えは、イメージや概念を超える「超えてある神秘」へと我々を導かなければなりません。

2014年12月25日木曜日

父なる神の御心への委ね - イエス・キリストの系譜

◇「山の道(Mountain Path)」、1977年1月 p27~29


神の御心と委ね

グラディス・デム

 旧約聖書と新約聖書の間に対立を見出すことは賢明ではないでしょう。なぜなら、イエス・キリストは、「私が律法 や預言者を廃する ために来たと思ってはいけません。廃するためではなく、成就するために来たのです 」(マタイ、5. 17)と明確に述べました。

 モーセは十戒を受け取りました。イエス・キリストはそれらの戒めの遵守を繰返し述べました。彼は、「それゆえ、これらの最も小さき戒めの一つでも破り、またそのように人に教えたりする者は誰であれ、天の王国で最も小さき者と呼ばれるでしょう。しかし、これを行い、またそのように教える者は誰であれ、天の王国で大いなる者と呼ばれるでしょう」(マタイ、5. 19)と言いました。

 十戒は魂を浄化に導き、徳のある探求者を「約束の地」に導きます。それをイエスは「まるで理解を超えた平安」(*1)と呼びました。

 それら十戒にキリストのものが加えられました。「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ、15. 12)。

 「全ての恐れを追い払う」(*2)その愛は、キリストの中に例証されました。彼は旧約聖書の律法を神の愛で飾りました。

 「あなたは殺してはならない、と昔の人々によって言われてきたことは、あなたがたの聞くところです。・・・しかし、私はあなたがたに告げます。・・・あなたの敵対者とすみやかに和解しなさい。」 

 「『目には目を、歯には歯を』と言われてきたことは、あなたがたの聞くところです。しかし、私はあなたがたに告げます。あなたがたは悪に抗わないように。誰があなたの右頬を打っても、左もまた彼に向けなさい。」 

 「『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われてきたことは、あなたがたの聞くところです。しかし、私はあなたがたに告げます。あなたがたの敵を愛し、あなたがたをののしる彼らを祝福し、意地悪くあなたがたを利用し、虐げる彼らのために祈りなさい。-天にましますあなたがたの父(なる神)が完全であるように、あなたがたも、それゆえ、完全となりなさい。」(マタイ、5. 21, 25, 38, 43, 44, 48)

 キリストは神の愛、アッバを全人類の父(なる神)として定めました。徐々に、キリストは、完全な委ね を通じて、父(なる神)の御心への道案内をします。妥協は存在しません。「誰も二人の主人に仕えられません。・・・あなたがたは神と富に仕えることはできません。」(マタイ、6. 24)

 また、「『主よ、主よ』と私に言う者がみな、天の王国に入るのではなく、天にまします我が父(なる神)の御心を行う者が(天の王国に入るのです)!」(マタイ、7. 21)

 ここで、キリストは、自我の意思 神の御心 へ委ねることが、精神的な王国を探す巡礼者に必須であると説きます。

 祈りに関して、イエス・キリストには伝えるべきことがたくさんありますが、一つの必要条件は誠実さです。あるパリサイ人たちが弟子たちをパンを食べる前に手を洗うことを怠ったと非難した時、イエスは彼らを叱責しました。「あなたがた、偽善者よ、イザヤはあなたがたについて適切に予言したものです。『この人々は口でもって私に近づき、口先だけで私を敬うが、彼らの心は私から遠く離れている』。」(マタイ、15. 7)

 イエスの叱責は、律法の外側の遵守のみに固執するが、人に命を与える内なる真理を無視する人々へ向けられています。

 誠実さはキリストの言葉の中で際立ったものであり、彼が人々に祈る方法を教える前に、人々に向けて語られたものです。「あなたがたが祈る時、あなたがたは偽善者たちのようであってはいけません。なぜなら、彼らは人々に見られようとして、ユダヤ教会堂の中や通りの角に立って祈ることを好みます。まさしく私はあなたがたに告げますが、彼らは彼らの報いを受けています。

 「しかし、あなたが祈る時、あなたはあなたの私室に入り、そして、あなたが扉を閉めた時、密やかにまします、あなたの父(なる神)に祈りなさい。密やかにご覧になる、あなたの父(なる神)は、憚ることなくあなたに報いるでしょう。・・・あなたの父(なる神)はあなたがたが要するものを、あなたがたが彼に求める前に、ご存じです。

 「ですから、あなたがたはこの方法にならって祈りなさい。

   天にまします我らの父よ
   あなたの御名が尊ばれますように。
   あなたの王国が来ますように。
   あなたの御心が、天に行われるように、地に行われますように。
   私たちの日々の糧を、今日、私たちにお与え下さい。
   そして、私たちが私たちの負債者を免じるように、私たちの負債をお免じ下さい。
   そして、私たちを誘惑に導くことなく、私たちを悪からお救い下さい。
   なぜなら、その王国、その力、その栄光は永遠にあなたのものだからです。アーメン。」

    Our Father which art in heaven,
    Hallowed be thy name.
    Thy kingdom come.
    Thy will be done on earth as it is in heaven.
    Give us this day our daily bread.
    And forgive us our debts, as we forgive our debtors.
    And lead us not into temptation, but deliver us from evil.
    For thine is the kingdom, and the power, and the glory, for ever. Amen.

アンドレア・ボチェッリによる「主の祈り」、アメリカのコダックシアターからのライブ(2009)

 この祈りは「主の祈り」と呼ばれていて、その意味は真理の探求者の受容性に応じて明らかにされます。聖なる知識は多くの段階で授けられます。

 イエス・キリストが祈りを言い表わす前に、彼は感覚‐世界がそれへ続く「扉」を閉めることによって脇へやられねばならないと教えました。「私室」とは我々の魂のかの隠された聖域であり、そこで父(なる神)との密やかな面会が催されます。ここで、目には見えない愛は、すでに我々が必要とするものに気づいており、「私たちが要する 」ものを現わすでしょう。

 父(なる神)の御心への委ねが、内なる聖殿への鍵です。

 主の祈りは、その貴重な知恵を我々の受容性に応じて明らかにします。それは次のように解釈されるかもしれません。

 我らの父よ -「何と素晴らしいことですか、おお、神よ、あなたをアッバ、父(なる神)として知ることは!あなたは創造者であり、守護者、生けるもの全ての最愛の親です。これを知る私たちの心を喜びが満たします」。

 天にまします -「あなたは我々の魂に住まう方です。天の王国は内にあります。あなたの不死なる領域が、私たちの真の住まいです」。

 あなたの名が尊ばれますように -「『私は在る、が私である』があなたです。あなたの名は神聖です!私たちはあなたの御名の神聖な沈黙の内のあなたの在る‐ものの前にお辞儀します」。

 あなたの王国が来ますように -「あなたの王国とは、聖霊のことです。私たちの曇った視界に光がさし、あなたの聖霊が私たちの真中に来ますように」。

 あなたの御心が、天に行われるように、地に行われますように -「私たちの限られた意思があなたへ完全に委ねられますように。なぜなら、ただそうしてのみ、あなたの御心は、あなたの子供たちである私たちを通じ、地に顕れます」。

 私たちの日々の糧を、今日、私たちにお与えください -「あなたは私たちが要する全てをご存じです。魂と体を養うために、あなただけを頼りとするように私たちにお教え下さい。過去を振り返らず、明日を思い悩まず、私たちは私たちの毎日に必要なものを完全にあなたに委ねます。、あなたの内に生きるように私たちにお教え下さい」。

 私たちの負債をお免じ下さい -「あなたは慈悲の泉です。あなたは私たちの弱さをご存じです。私たちはあなたにお願いたします。おお、父(なる神)よ。私たちの頬から後悔の涙をぬぐいさり、私たちの頑なな心をお清め下さい」。

 私たちが私たちの負債者を免じるように -「私たちを不当に扱う人々への寛容と許しで私たちの心を満たして下さい。あなただけが憎しみを愛に変えることができます」。

 私たちを誘惑に導くことなく -「私たちが利己主義を捨て去るなら、試練や災難は乗り越えられる障害です。私たちに慈悲をおかけ下さい、おお、最愛の父(なる神)よ。私たちの力を超えて、私たちが誘惑されないようにして下さい」。

 私たちを悪からお救い下さい -「あなたは全世界における唯一の現実です。私たちの無知な感覚に悪と映るものは、真実は、影に過ぎません-なぜなら、あなただけが全ての支配者であるからです。私たちの自我の邪な傾向に翻弄される時、私たちは自分自身をどうすることもできません。私たちの救い主となって下さい!」

 なぜなら、その王国、その力、その栄光は永遠にあなたのものだからです -「我らの父(なる神)よ。私たちはあなたを賛美する歌を歌います。すなわち、あなたの権威、あなたの栄光と美は、地、海、空を包んでいます。あなたの愛の王国はあらゆるところにあります。あなたは永遠に君臨しています!」

 アーメン -「あなたの御心がなされますように。そうありますように。」

 神の御心への完全な委ねの至高の例は、イエス・キリスト自身でした。この委ねは、愛の委ねでした。「私が父(なる神)を愛し父(なる神)が私に命じる ように私が行うことを世は知るでしょう。」(ヨハネ、14. 31)

 模範的な方法でイエス・キリストの足跡をたどった、みなに愛される一人の聖者は、アッシジのフランシスです。かつて、彼は修道士たちに「神の御心への委ね」を説きました。彼は、「ここにいるあなたがたみなに私は言い付けます。聖なる服従と従順を通じて、あなたの肉体的要求、飢えや渇きやあなたの肉体が要求する他の何ものも、まるで気に掛けないように。私はあなたがたに求めます。神を褒め称え、他のことについての思いを彼に委ね、瞑想と祈りにのみ従事するように。彼の神聖な摂理があなたがたが必要なものを取り計らいます。彼はあなたを彼の特別な庇護の下に置いています。あなたがたのそれぞれ全ての人が、この言い付けを喜びに満ちた心で受け取り、幸せな顔つきをしますように」と彼らに語りました。

 別の機会に、聖フランシスが鳥たちに教えを説いた時、彼は弟子たちに彼らもまた鳥たちのように神の摂理に彼ら自身を全託すべきであると説きました。ここで、聖フランシスはキリストが告げた教えに従っていました。「空の鳥を見なさい。彼らは播かず、刈り取ることも、集めて倉に入れることもありません。それでも、あなたがたの天の父は彼らを養って下さいます。」(マタイ、6. 26)

 シリアの聖イサクは、「いったん魂が神に完全に委ねられ、そして、神の助けを幾度も体験したなら、魂はもはやそれ自身のことを気に掛けませんが、驚嘆と沈黙に包まれています・・・魂が神の摂理を拒絶するといけないからと、それ自身の認識手段を当てにするように戻り、それらを運用することは、魂にとって不可能です-委ねによって、魂は神がそれを密やかに絶えず気遣っていることを知っています」と記しました。

 聖イサクはまた「私室」についても語り、その時、彼は、「神との親交を可能とするために、私たちは隠遁を必要とします」と説きました。

 さらに、彼は言います。「あなたがあなたの魂を完全に神の庇護の下に置く時、それで十分であると知りなさい。あなたがこれができる時、あなたはあなたために神によりなされる奇跡を目撃します。あなたは神がいつも身近にいて、彼を愛する人々にどのような援助でも行う用意があることを理解します。目には見えませんが、神の摂理はいつもそこにあり、魂を包んでいます。神がそこにいないと思い、そうであることを決して疑わないように。時に、神は、魂を向上させるために彼の存在を人間に見えるようにします。」

 証聖者マクシモスもまた、完全で、揺らぐことのない信頼を伴う、委ねについて話します。「あなたがた自身を神に投じ、あなたがたは祈りを頼りとしなければなりません。彼は彼の愛によってあなたがたを守り、あなたがたの世話をするでしょう。出エジプト記に、『主があなたがたのために戦います。あなたがたは沈黙を守らねばなりません』(出エジプト、14. 14)と記されてはいませんか。」

「I Surrender All」 歌詞:W. Van DeVenter 歌:Robin Mark

 イエス・キリストが説いたように、聖マクシモスも簡潔に述べます。「全ての善の目的(終わり)が、愛です。」

 愛と慈悲は、全く同じものです。

 イエス・キリストは、「あなたがたの父(なる神)が慈悲深くあるように、あなたがたも、それゆえ、慈悲深く ありなさい」(ルカ、6. 36)と言いました。

 自我は、自らの知を得ようというなら、情熱的な誠実さをもって、神の御心へ身を委ねなければなりません。

 イエス・キリストは、強烈な、活気に満ちた、生き生きとした真理を語りました。彼が発した一文は、私たちが決して無視することのできない言い付けです。「天にまします、あなたがたの父(なる神)が完全であるように、あなたがたも、それゆえ、完全となりなさい。」

 神を愛する者が慕い、それに向けて成長するのは、この完全性です。

(*1)ピリピ人への手紙、4. 4-7・・・「あなたがたは主の中にいつも喜びなさい。繰り返し言いますが、喜びなさい。あなたがたの節度をすべての人に示しましょう。主はすぐ近くにいます。何事も思い煩わないように。ただ、あらゆることの中に、感謝をもって祈りと願いによって、あなたがたの求めるところを神に知らせましょう。そうすれば、まるで理解を超えた神の安らぎが、イエス・キリストを通じ、あなたがたの心と思いとを守るでしょう。」
(*2) ヨハネの第一の手紙、4. 18・・・「愛の中には恐れがありません。完全な愛は恐れを取り除きます。なぜなら、恐れには罰があるからです。恐れる者は、愛において完全となされていません。」

☆以上の翻訳には聖書から多くの引用がありますが、その英文はおそらく「欽定訳聖書(Kings James Bible)」からです。その聖書の引用と「主の祈り」の解説の英文は文語体で記されていますが、分かりやすさを重視し、上では口語体で訳しています(文:shiba)。

2014年8月13日水曜日

キリスト教に見られるヴェーダーンタ的思想 - 異なる宗教の対面

◇「山の道(Mountain Path)」、1992年ジャヤンティ p197~198

ヴェーダーンタから見たキリスト教

ビード・グリフィス神父

 近代の最も驚くべき現象の一つは、世界中の異なる宗教が対面していることです。それぞれの宗教は、その独自の文化様式の中で成長しました。ヒンドゥー教はインドで、仏教は最初インドで、その後、極東全土に、イスラム教はアラビア半島で、その後、北アフリカと中東全土で、キリスト教はパレスチナで、その後、ヨーロッパとアメリカ全土で。しかし、異なる宗教的伝統が5大陸全土で自由に交わっており、それぞれの宗教が世界の他の宗教的伝統にそれ自身を関係づけるように要求されているのは、今日に限ったものです。いくらかにとって、特にセム語族の宗教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教にとっては、それぞれが自分たちを唯一の真の宗教とみなしているため、これは苦痛を伴う体験です。しかし、今日では、神学者は自らの宗教的伝統を他の伝統の文脈において検討することを強いられており、新たな普遍的な神学が現れつつあります。

 キリスト教は、パレスチナで、ヘブライ語とアラム語を話すセム語族の文化の中で成長し、古代イスラエルの伝統と慣習に従いました。しかし、その発展のまさに最初の世紀に、それはギリシャ‐ローマの世界へ移動し、その聖典はギリシャ語で記されました。1500年の間、それは実質的にヨーロッパと中東に限定されており、16世紀になってはじめてアメリカ、そして、アジアとアフリカのヨーロッパ植民地に広がり始めました。結果として、キリスト教会の構造は、教義と組織の両方において、基本的に聖書の啓示という土台の上に建てられたギリシャ‐ローマ的構造です。

 1000年にわたる時の流れにおいて、ギリシャ哲学とローマ法に基づき、精巧な教義と組織の構造が作りあげられました。この基本的な構造は今日まで残っていますが、教会が異なる宗教的伝統-特に、ヒンドゥー教、仏教、イスラム教-に遭遇しているため、この基礎はその是非を問われつつあり、キリスト教は今日、ヴェーダーンタ、大乗仏教、イスラム教のスーフィの伝統の観点からそれ自身を見ることを学ばなければなりません。

 これは始まったばかりの仕事ですが、すでに教会の新たな理解の概要を見てとることはできます。キリスト教が一つの新たな精神によって啓示を受けたカリスマ的ユダヤ人の小集団として始まり、ギリシャ‐ローマの世界において、その教会的構造を徐々に発展させただけであることを我々は思い起こさなければなりません。キリスト教がアジアの精神性、特にヴェーダーンタのそれに遭遇し、今、是非を問われているのはこれらの構造です。キリスト教神学はプラトンとアリストテレスの哲学に基づいており、それは確かにとても深遠なものですが、ヴェーダーンタはさらなる深みを持った哲学を提供します。ヒンドゥー哲学の核心は、アドヴァイタ、不二の概念の中に見出されます。あらゆる理性的思考の体系とあらゆる概念的体系を超えて、超越的であるが、しかし内在的な現実が言葉と思考を超えて存在し、究極的な真理であり現実が見出されるのは、この現実の体験、ヒンドゥー教の用語でブラフマンとアートマンの体験の内にです。

 幸運にも、新プラトン主義の影響下のキリスト教の伝統の中に同様の概念があり、それは6世紀にディオニシウス・アレオパギトという名のシリア人の僧によって発展されました。ディオニシウスの教えは、中世の偉大な教会博士、聖トマス・アクィナスによってキリスト教神秘主義の真正な表現として受け入れられました。ディオニシウスによれば、神、究極の真理であり現実を知りたければ、我々はあらゆる観念や概念、存在そのものの概念さえも乗り越えねばなりません。それゆえ、キリスト教の伝統の中に、シャンカラの教説と類似した教説があり、ヒンドゥー教とキリスト教の伝統が出会えるのはこの地点です。我々が観念や概念の水準に留まる限り、我々はいつも相違を見出します。異なる宗教的伝統を分かつ、あらゆる相違、あらゆる二元主義を我々が克服できるのは、超越的現実の神秘主義的体験においてのみです。それぞれの宗教が至高の現実への独自の洞察を持ち、それを異なる観念や概念で表現しています。しかし、そのような一切の相違を超え、究極的真理-それがブラフマンやアートマン、仏教ではニルヴァーナやスンニャター、イスラム教ではアル・ハックとして知られているのであれ-が存在します。今日、我々はこれら全ての洞察を評価し、我々個々人の信仰と実践に関連づけることを学びつつあります。

2014年1月18日土曜日

あなたは体ではなく、自らである - 体の苦しみから学ぶべきこと

◇「山の道(Mountain Path)」、1975年4月 p83、84

あなたは体ではない

マリー・B・バイルズ

 現代医学は重要なのは人の体であり、それを健康にする-もしくは健康にしようと試みる-ことであると思っています。たとえ患者が大変に高齢な時も、体を少しでも長く、さらに少しでも長く生きたままに保つためにあらゆる努力がなされます-それも、必要ならば痛々しい手段でもって。

 「彼らはいつも彼に何か新しい治療を与えます」と患者の娘は嘆きます。「そして、たいていそれはとても痛々しいのです」。

 看病する妹は高名な専門医に、「お医者さん、どうしてその人が死ぬまで検死解剖を待てないのですか」と言いました。医者は科学者でした。彼は面白くありませんでした。

 ある女性が自動車事故でひどい怪我をしました。すぐに彼女は最寄の病院の集中治療室へ担ぎ込まれ、彼女の体に命を連れ戻す-少なくとも一時的に-あらゆる努力がなされました。そして、看護婦と医者は体を十分なものにすること-再び、少なくとも一時的に-が近頃、大変上手です。私はかつて牧師が教会の病院で長い祈りの言葉を病人の枕もとで唱えているのを聞きました。彼は神にどのように神がその人-つまり、その人の体-を健康にすべきか教えていました。神に何をすべきか教えるのは少し余計なことのように思えましたが、それは置いておき、我々は神への完全な委ねからのみもたらされうる内なる安らぎへの何らの言及もなかったことを見過ごせません。牧師は体の物理的な回復をもたらす楽観的な見通しを目指しました。その後、私は本当はただ一つの祈り、「主の御心のままに」だけがあると控え目にそれとなく言いました。しかし、彼が私が意図したことを知っていたのかさえ私は疑問です。

 それから、西洋では挨拶の形式があります。「おかげんいかがですか」、または、「調子はどうですか」。確かに、それは単なる形だけの行為であり、質問者は問われた人が彼の不満を事細かに話し始めるなら、それを歓迎しないものですが、再びまた言及されているのは体です。

 私が述べた全ては西洋に当てはまり、東洋の人々は精神的本質をもっと意識していると抗議されるかもしれません。私はそれが正しいと信じたいのですが、西洋を模倣しようとする熱狂のため、すでにそうでなくても、私が言ったことが東洋にも当てはまるようになるのを恐れます。そして、ラマナ・マハルシに会いにやってきた人々は、彼が「調子はどうですか(How are you?)」という質問を尋ねるのを控えることによってでなく、「あなたは誰か(Who are you?)」という質問を尋ねることによって、彼らが体でないということを度々思い出さなければなりませんでした。

 2500年前、ゴータマ・ブッダは同じ質問、もしくは、それに似たものを提起したようです。彼の優れた弟子であるサーリプッタは、病気で、年老いたナクラピター(*1)に、「あなたは体ではありませんね?」と言いました。ナクラピターはブッダとの面会から戻ったばかりで、幸福に輝いていました。彼はそれは神の飲み物を振りかけられたかのようだと言いました。彼は、「ええ、私は体を持ち歩いているだけです。師は幸福を求めて体に依存することは、常に変化し、朽ちていくものに依存することであり、自らの内に常に存在する避難所、人生の苦しみの嵐のただ中の避難所である島(安全な場所)があるとおっしゃりました」と言いました。論理的な性格のサーリプッタはその教訓をさらに説明しました。「ええ、その通りです。多くの人は彼ら自身を彼らの体と同一視し、実際は体が苦しむということを彼らが言わんとする時に、『私は苦しい』と言います。しかし、八正道の弟子は、『私は体ではない』と言います。その時、彼は痛みへの嫌悪を感じません。なぜなら、彼はもはや彼の体に所有されていないからです」。

 時代を通じ、キリスト教会の信者は、奇跡や医者や信仰によってであれ、体の癒やしに大きな注意を払ってきました。それによって彼らは、癒やしという偉大な奇跡を行ったと伝えられているキリストの歩みに従っていると思いました。我々は彼が体の癒やしか、自らの探求-彼自身の表現を使うなら、神の王国(の探求)-のどちらにもっとも重きを置いたのかは決して分からないでしょう。どのように彼が癒やされた人に「行きなさい、もう罪を犯してはならない」と告げたかの、あのとても興味深い記録があります(*2)。ですから、彼が癒やしの奇跡を彼の御業の中のもっとも重要ではないものとしてみなしていたこともありそうです。

 確かに、全ての人に援助の手を差し伸べることは、人生における我々の務めの中の一つです。しかし、憐れみを抱き仕事を行う献身的な看護婦の仕事の中には、同様に仕事を行うごみ掃除人の仕事の中にある以上の美徳はありません。仕事が行われる精神のみが問題です。それゆえ、体のためになされる仕事に付与される重要性が、人生の主要な探求、五感が知覚できる全てを超えた自ら(もしくは、神の王国)の探求に反していないのか問われるかもしれません。我々は誰なのか。我々は明らかに体ではありません。不死なる者、無形の者、無限で触れられない者が存在します。

 「体をひとりでに話させよう」とマルクス・アウレリウスは言いました。我々自身を体、すなわち、移ろいゆくものと同一視することにより、我々は自らの探求を妨げているだけでなく、この探求を進めるために痛みや苦しみが我々に与える機会を見過ごしてもいるのです。アメリカ人の仏僧であるスマンガロは、その晩年に心の病を治す能力を得たことに不意に気づきました。300人ほどを治した後、彼は治った人々の中の3人だけが道徳的、もしくは、精神的に利益を得たという事実に気づきました。残りの人々は「狭量さ、自己中心性、悪意ある噂話、悪賢い商法、好色、姦淫、暴食など」という以前の生活へと戻りました(*3)。どうして彼らをそのままにしておかなかったのか、それが彼の受け取り方でした。彼らは地上での人生の第一の目的を見つける道はもちろん、病から何も学びませんでした。

 我々はどうして体の苦しみが来たのか、どうしてある場合には治り、別の場合には治らないのか分からないかもしれません。我々はそれぞれ異なる理論を持っていますが、我々の誰も実際は知りません。我々が知ること、それぞれが自分の体験から見出しうることは、体の苦しみから我々が学べる教訓がいつも存在するということです。そして、我々は愚かにも我々が学べる教訓を含む何を差し置いても体を治療をします。そして、我々が絶望や、より悪いことに自殺へと逸れるならばさらにいっそう愚かなことです。

 体の治癒や体の死は、瑣末なことです。自らを見つけることが肝要です。「どちらを探しに行くのが良いでしょうか」とブッダは言いました。「あなたの所持品を持って行った女性ですか、それとも、自らですか」。ブッダの抗しがたいほほ笑みのもとに若者はもちろん、「自らです」と答えました。仮に選択肢が病気の体の治癒であるなら、我々は同じように答えないでしょうか。

 弁護士という私の職業において、私はよく病人や年配の人が遺言書を作るために呼ばれます。その中に老人ホームにいる老齢の女性がいました。彼女は関節炎のため不自由な体で、絶えず痛みがあり、二人の看護婦が部屋に入るのを手助けしなければなりませんでした。彼女は偉大な聖なる師から輝き出たに違いない何らかのものを放射しているようでした。私は彼女につらい老年における彼女の喜びに満ちた落ち着きの秘訣を尋ねました。彼女は、「それはきっと私が感謝すべき大変多くのことを持っているからだと思います」と答えました。感謝!たいていの人は「不平をいうべきたいへん多くのこと」を話したものです。しかし、彼女は病を祝福として受け入れました。彼女は回復しませんでしたが、健康よりも価値ある何かを得ていました。私は彼女が実践的なカトリック教徒であると教わりました。彼女の宗教の外側の形がなんであれ、彼女は苦しみを通じて自我という障害を少しずつ崩してくことを学び、「委ね」ました。

 ラマナ・マハルシはよく「委ね」という用語を使いました。この女性は、「私のくびきを負うて、私に学びなさい」(*4)というキリストの言葉を引用したでしょう。女性がそれを説明する方法がどんなものであれ、彼女は確かに彼女が体ではないと学んでいました。

 しかし、これを記す私は誰なのか。私はいまだ痛みに嫌悪を感じ、つかの間の健康に得意げになります。私が言える全ては、私が起こっていることに気づいており、いまだ体の束縛の内いるのを認めているということです。最後に思うこと-我々が体であるという我々の西洋的信念が、死への恐れ、そして、どれほど苦痛であっても意図的に延命を行う原因ではありませんか。

(*1)『サンユッタ・ニカーヤ(Samyutta Nikaya) 』、22. 1「ナクラピター・スッタ(Nakulapita Sutta)」
(*2)「ヨハネによる福音書」、5章にこの話があります。
(*3)原注、『The Light and the Gate』  R. C. Johnson著から
(*4)「マタイによる福音書」、11. 28-30、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたくしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」