真の自らの探求
マックス・ホッペ
マックス・ホッペ氏(ブラザー・ダンマパーラ)は、西ドイツ、a.A.、ウッティング、8919、古代仏教共同体(Altbuddhistische Gemeinde)の長です。仏教とヴェーダーンタの多くの生徒、そして、西ドイツのシュリー・バガヴァーンの数人の信奉者もまた、この僧院の中に安らかな隠遁所を見出しています。マックス・ホッペ氏はその地域における我々の機関紙の熱心な仲介者でもあります。
苦しみの中で、我々は我々自身に委ねられています。我々の悲しみ、我々の痛み、我々の不眠を誰も我々から取り除くことはできません。それらは我々自身の応答を要求します。それらは我々を苦々しさへと駆り立て、我々を感情的気質および身体的状態の奴隷にするか、もしくは、我々の理解の助けとなり、それによって本当の幸福への扉を我々のために開きます。マイスター・エックハルトの言葉によれば、「苦しみは、我々を完成へと運ぶ最速の馬である」。
変容させる理解、すなわち、ブッダの教説の中に見られる苦しみの理解に導くゆえに、実り多きものとなる苦しみは、ハンス・ムッフによる以下の言葉の中に、見事な方法で特徴づけられています。「推進力は抵抗によって理解されるでしょう-原初の永遠なる存在は、無常の苦しみによって(理解されるでしょう)。無常の苦しみは、我々が不滅であると思い出させるものです」。
K.O.シュミットは、彼の本、Dir ist das Licht(あなたの内にある光)の中で、49人の偉大な宗教的天才の人生と教えをその特有の輝かしい側面において我々の前に提示しています。近代における最も偉大な聖者、シュリー・ラマナ・マハルシ(1879-1950)もまた、発言の機会を得ています。彼の記述の中で、K.O.シュミットは言います。「デルフォイのアポロン神殿の入り口の上にそびえ立っていた、ギリシャの哲学者タレスの言葉、『グノーティ・セアウトン』-『汝自身を知れ』-は、マハルシの卓越した要求、『汝の自らを知れ』によって深みと質を増しています。なぜなら、哲学者の忠告は『私』の行動条件や指針、傾向、弱点や欠点、力と限界の認識を目指しますが、神秘家は超越的な、真実の、すなわち、神聖な自らを目指します。その光輝の中に、つかの間の『私』は消え去り-それと共に、一切の疑問、一切の不確かさと悲惨は(消え去ります)」。
「神性の驚異を見通したいと欲する者は誰でも、彼自身の内から、彼の知恵を容易に引き出すだろう」とマイスター・エックハルトは我々に宣言します。そして、ヤーコプ・ベーメは言います。「あなたはどこに神を探したいのですか。星々の上にある深みの中ですか。そこにあなたは彼を見つけないでしょう。あなたのハートの中に、あなたの存在の中心に彼を探しなさい。そこにあなたは彼を見つけるでしょう!」。この自らの探求、アートマ・ヴィチャーラのために、シュリー・ラマナ・マハルシは、「私は誰か、私は何か、私はどこにいるのか」という質問、解決を要求する現在の存在から発する質問によって、明確な出発点を提供しています。
シュリー・ラマナ・マハルシの著名な学者、アーサー・オズボーンは、これに関連して言います。「自らの探求へのこの呼びかけは実践的な鍛錬法であり、心理的内省とは何の関係もありません。それはさらに遥か深いものです。それは衝動や動機の問題ではなく、同上のもの(衝動や動機)の根底にある自らを求める問いかけなのです。」
上に言及したK.O.シュミットの本の中で、以下のように書かれています。「自ら-すなわち、我々の本質の最奥の核、高き自ら、エマーソンの『オーヴァー・ソウル』とは、我々の内なる神聖なる火花です。そして、その探求は、それでない一切のものを取り除くことによって、そして、『私は誰か』という絶え間ない問いによって始められ、終には私は在るに、自らに通じます。正しい角度からそれを見れば、この探求はキリストの要望の成就以外の何物でもありません。『神の王国と彼の義をはじめに求めなさい。そうすれば、他の全てはあなたがたに加えられるでしょう』。この神の王国は我々の内にあり、それは神聖な自らの輝かしい王国、もしくは、キリスト教の神秘家たちがそう呼ぶような『我々の内なるキリスト』です」。
これらの言葉の後、力強い結論を備えたブッダの偉大なメッセージへと我々は向かいます。
「私が見る生じ、滅するもの、そして、この無常の結果として、私に苦しみをもたらすもの、それが私の自らであるはずがない。私自身に関する、私自身の周りで認識されるであろう一切が生じ、滅し、それによって私に苦しみをもたらすのを私は見る。それゆえ、認識されうる何物も私の真の自らではない」。
すでにエフェソスのヘラクレイトスは、「万物は流転する」と理解し、普遍的な無常を以下の言葉で説明しました。「同じ川へと我々は足を踏み入れては、出てゆくが、それは我々自身であって、我々自身ではない」。彼の生徒の一人はもはや起こっている一切のこの絶え間ない急速な変化をあえて言葉で表現しようとせず、ただ最後に象徴的に指をパチリと鳴らしました。全現象の錯覚を起こさせる性質、非実体性を見た人はいつも多く存在するため、多くの人は私がかつてある墓石上に読んだものに感動を覚えるかもしれません。「世界は行為し続け、人々は去来する-あたかもあなたが一度も存在していなかったかのように、あたかもかつて何も起こらなかったかのように」。
さらに賢明な人々は、あらゆるものは我々が手につかもうと思うと文字通り消え去り、まさしくそれ故に我々が愛着するであろうものはどれであれ全て、本質的な私、すなわち、自らを意味しないことを常に認識しています。我々が物事を個別に分離して見るとき、何物も永遠の価値を認められていません。それゆえに、常々、より深い洞察力を持つ人々は悲惨な状態、涙の谷間(悲しみの多い人生)について語っています。ブッダ、完全に目覚めし者は、しかしながら、現実の他の側面も見ています。目覚めに通じる瞑想において、全ては我々がこれらの移ろいゆく要因を我々の自らでないと、真の自らでないと明確にみなすことにかかっています。完全に目覚めし者は、古代パーリ聖典の経典、サンユッタ・ニカーヤの中でこれを明確かつ率直に言います。「移ろいゆくものは苦痛である。苦痛であるものは、アン・アッタである(アッタでない、自らでない)。アン・アッタが意味するは-それは私に属していない、それは私ではない、それは私の自らでない」。
アナッタ・ラッカナ・スッタ(非我相経)
これを心に留めて瞑想する者は誰でも、揺れ動かず、難攻不落なるものの実現を彼自身の内にさらにさらに体験し、それによって、一切は、実のところ彼に全く属していない、非本質的なものとして抜け落ちます。ブッダの言葉は最奥の体験となります。「タターガタ(我々自身の内なる達成者)は大海のごとく深く、果てしなく、計り難い」。そして、これは我々を広げ、解放します。愛と慈悲は、我々がブッダの道を進むにつれて養われ、深い哀れみの感情が目覚め、我々がを我々の周りに心の喜び見るときも喜びが生じます。この体験の幸福はいつも繰り返しスッタの中で強調されています。「この教説は始まりで幸福にし、中ほどで幸福にし、終わりで幸福にする」。
この態度において、我々の人生行路上の全てのものは我々にちょうど適したように自ずと整います。これは我々に正しい平静を与えますが、しかし、まさにここで、鈍感な無関心から我々をはるか遠ざけます。そうして、認識の上に成り立った自信、行く手に持続する喜びを与える自信が結果として我々に生じます。
ジョージ・グリムによって適切な比喩が与えられています。彼は言います。「荒れ狂う滝のしぶき飛び散る水滴は雷のように速く変化していますが、虹-それを支えるものが水滴ですが-は、太陽自体-その反射が虹ですが-と共に、変わらずに穏やかに動かないままあり、この落ち着きのない変化に影響されないのとまさしく同様に、そのように、我々の人間存在の構成要素、いやむしろ、サンサーラ(再誕の循環)として互いにつながれた我々の無数の人間存在全体もまた、休みなく変化していますが、超越的な自らの反射としての私という思い-それを支えるものが無数の人間存在ですが-、および、この超越的な自らも、どれほど多くの我々の目が死によって閉じられようとも、永遠の存在の中のこの継続的な変化に完全に影響されないままあります。それ(自ら)は世界を、世界の生起と消滅を、それ自体それにより影響されずに、眺めています。
移ろいやすく、もろく、それゆえに究極的には常に苦痛を与える、我々の人間存在を構成する属性は自らでないという体験から、内から本当に理解されるアン-アッタの見解は、Buddhistische Meditationen(仏教徒の瞑想) の中のジョージ・グリムの言葉によって明らかになります。
「山ほどある人間存在の変化は我々を通り過ぎ流れている小川でしかありませんが、しかしながら、我々自身を運び去ることはできず、むしろ、我々は動けずに現在におり、その結果、どれほど多くの我々の目が死によって閉じられようとも、終わりなき時の間、何の価値も持たない『今』が常々我々の運命になるでしょう。人間存在の所有を渇望する我々の意思が消え去らないまでは、つまり、我々が我々であるものであることをやめ、我々でないものになるまでは、この苦悶に終わりはありません。これを見通し、その意思がそれゆえにさらにさらに消し去られている善良で賢明な人は、常に至福の境地により近づきますが、愚者にとってそれはいつも遠く離れたままです」。
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