ヴェーダーンタから見たキリスト教
ビード・グリフィス神父
近代の最も驚くべき現象の一つは、世界中の異なる宗教が対面していることです。それぞれの宗教は、その独自の文化様式の中で成長しました。ヒンドゥー教はインドで、仏教は最初インドで、その後、極東全土に、イスラム教はアラビア半島で、その後、北アフリカと中東全土で、キリスト教はパレスチナで、その後、ヨーロッパとアメリカ全土で。しかし、異なる宗教的伝統が5大陸全土で自由に交わっており、それぞれの宗教が世界の他の宗教的伝統にそれ自身を関係づけるように要求されているのは、今日に限ったものです。いくらかにとって、特にセム語族の宗教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教にとっては、それぞれが自分たちを唯一の真の宗教とみなしているため、これは苦痛を伴う体験です。しかし、今日では、神学者は自らの宗教的伝統を他の伝統の文脈において検討することを強いられており、新たな普遍的な神学が現れつつあります。
キリスト教は、パレスチナで、ヘブライ語とアラム語を話すセム語族の文化の中で成長し、古代イスラエルの伝統と慣習に従いました。しかし、その発展のまさに最初の世紀に、それはギリシャ‐ローマの世界へ移動し、その聖典はギリシャ語で記されました。1500年の間、それは実質的にヨーロッパと中東に限定されており、16世紀になってはじめてアメリカ、そして、アジアとアフリカのヨーロッパ植民地に広がり始めました。結果として、キリスト教会の構造は、教義と組織の両方において、基本的に聖書の啓示という土台の上に建てられたギリシャ‐ローマ的構造です。
1000年にわたる時の流れにおいて、ギリシャ哲学とローマ法に基づき、精巧な教義と組織の構造が作りあげられました。この基本的な構造は今日まで残っていますが、教会が異なる宗教的伝統-特に、ヒンドゥー教、仏教、イスラム教-に遭遇しているため、この基礎はその是非を問われつつあり、キリスト教は今日、ヴェーダーンタ、大乗仏教、イスラム教のスーフィの伝統の観点からそれ自身を見ることを学ばなければなりません。
これは始まったばかりの仕事ですが、すでに教会の新たな理解の概要を見てとることはできます。キリスト教が一つの新たな精神によって啓示を受けたカリスマ的ユダヤ人の小集団として始まり、ギリシャ‐ローマの世界において、その教会的構造を徐々に発展させただけであることを我々は思い起こさなければなりません。キリスト教がアジアの精神性、特にヴェーダーンタのそれに遭遇し、今、是非を問われているのはこれらの構造です。キリスト教神学はプラトンとアリストテレスの哲学に基づいており、それは確かにとても深遠なものですが、ヴェーダーンタはさらなる深みを持った哲学を提供します。ヒンドゥー哲学の核心は、アドヴァイタ、不二の概念の中に見出されます。あらゆる理性的思考の体系とあらゆる概念的体系を超えて、超越的であるが、しかし内在的な現実が言葉と思考を超えて存在し、究極的な真理であり現実が見出されるのは、この現実の体験、ヒンドゥー教の用語でブラフマンとアートマンの体験の内にです。
幸運にも、新プラトン主義の影響下のキリスト教の伝統の中に同様の概念があり、それは6世紀にディオニシウス・アレオパギトという名のシリア人の僧によって発展されました。ディオニシウスの教えは、中世の偉大な教会博士、聖トマス・アクィナスによってキリスト教神秘主義の真正な表現として受け入れられました。ディオニシウスによれば、神、究極の真理であり現実を知りたければ、我々はあらゆる観念や概念、存在そのものの概念さえも乗り越えねばなりません。それゆえ、キリスト教の伝統の中に、シャンカラの教説と類似した教説があり、ヒンドゥー教とキリスト教の伝統が出会えるのはこの地点です。我々が観念や概念の水準に留まる限り、我々はいつも相違を見出します。異なる宗教的伝統を分かつ、あらゆる相違、あらゆる二元主義を我々が克服できるのは、超越的現実の神秘主義的体験においてのみです。それぞれの宗教が至高の現実への独自の洞察を持ち、それを異なる観念や概念で表現しています。しかし、そのような一切の相違を超え、究極的真理-それがブラフマンやアートマン、仏教ではニルヴァーナやスンニャター、イスラム教ではアル・ハックとして知られているのであれ-が存在します。今日、我々はこれら全ての洞察を評価し、我々個々人の信仰と実践に関連づけることを学びつつあります。
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