2014年7月31日木曜日

空性(スンニャター) - スワバーヴァ・スンニャとプラパンチャ・スンニャ

◇「山の道(Mountain Path)」、1988年7月 p160~161

スンニャと知恵

G.ナーラーヤン

 教育と科学において、人は頻繁に開かれた心の必要性について話します。新たな資料を受け取り、新たな状況を観察し、提供された証拠を比較考量し、それに応じて態度や見解を変えるためには、見解や先入観にとらわれないでいる必要があります。開かれた心は、その見方において論理的である上に理性的です。これは、科学と人文学の両方において、学び、発見するための重要な取り組み方です。

 知識は、必要であり、役立ちますが、いつも限界があります。誰も何についてであれ完全な知識を持ちません。ある程度の知識はありますが、それと共に、無知の影があります。我々は、人間や動物や植物であれ、何であれ生きているものを知識を通じて完全に理解することはできません。ですから、人は過去の知識と経験の重圧なく、新たに見ることを習わなければなりません。空っぽの心とは、無選択の自覚を通じて、それ自体をこの条件付けから解放しています。良い音色の空っぽの太鼓のように、それは傾聴するために見事に調律されていて、正しい調べと音を出します。傾聴において、解放があり、それから正しい行動が現れます。空っぽの心はそれ自体を新たになものにするため、それは若く、爆発的に現在に変じることができます。

 「私は誰か」という永遠の問いかけがあります。私は記憶や希望や恐れのかたまりである。私はいくらかの知識と経験を得た。あなたがさらに調べると、家の中央の梁(はり)のように「私」という思いがあります。経験、知識、記憶は、この「私」という思いに関係しています。それでは、「私」という思いとは何でしょうか。あなたがそれを調べれば調べるほど、それは無の領域にいっそう後退します。それは実体ではなく、架空の過程です。

 禅仏教に興味深い話があります。ある裕福な商人は、ある禅師の弟子です。彼の心は混乱し、落ち着きなく感じます。彼は動揺し、この問題を解決できません。それで、彼は禅師のもとへ行き、報告します。「私の心は混乱しています。どうぞ私に安らぎをお与えください」。禅師は答えます。「あなたの心を出して見せなさい。そうすれば、私がそれに安らぎを与えましょう」。弟子が自分の心を注視すると、心は彼の支配から逃れ、無の領域に後退します。心という過程は消え、突然の悟りと安らぎがあります。それは言葉で捉えることのできない実存的跳躍です。

 ラマナ・マハルシのような真理を悟った聖者は、この死の体験を経て、自我を超越し、「私は体でも、心でもなく、不死なる精神である」と宣言しました。これは知識や学識の成果ではなく、ましてや知的分析の結果でもありません。そのような洞察は、知性のまさにその源であり、瞑想の中でそれ自体を空っぽにしている心と密接に関係しています。永遠の現在に住む、そのような聖者から、偉大なる祝福が発っせられます。

摩訶般若波羅蜜多心経、プラジニャー・パーラミター・フリダヤ・スートラム(ハート・スートラ)

 語源的に、「スンニャ」という言葉は、「膨らむ、広がる」を意味するスヴィという語根に由来しています。スンニャは、充溢を受け入れる虚空です。ブッダはスンニャター(*1)について語りましたが、それを詳細に説明したのは、偉大な仏教の聖者、ナーガールジュナ(紀元1世紀)でした。理解しなければならないスンニャターの本質的な二つの側面があります。現象的世界において、それはスワバーヴァ(*2)・スンニャであり、それ自身の独立した、本質的な現実性を欠いていることを意味します。無条件に、絶対的に現実であるものは、ただの一つも存在しません。あらゆるものは混成され、何か他のものに条件づけられています。それは相対性の領域です。世界は独立したものの集合体ではなく、変化し、関わり合う一連の過程です。物事とは、単に、この過程の中の出来事(事象)です。

 絶対なるものの見解からは、スンニャターはプラパンチャ(*3)・スンニャを意味します。それには思いの構築、言語化、結果として生じる複数性がありません。そのため、それは人間の言葉では、「ある」や「ない」という言葉では表現できません。スンニャターには複数性がないため、それは部分に分解できない不可分の統一体です。スンニャターは理論や信仰ではなく、深遠な洞察的体験です。それはそれ自体が目的ではなく、心をプラジニャー(超越的な知恵)へ導くための手段です。この洞察から、相対的、現象的世界に現実なるもの、絶対なるものとしてしがみつくことない巧みさが生まれるために、幻からの解放があります。

 人はスンニャターの本質、スンニャ‐タットヴァとは何か知りたいと思います。それはナーガールジュナの「アパラプラトヤヤム・シャーンタム・プラパンチャイル・アプラパンチタム・ニルヴィカルパム・アナーナールタム・エータット・タットヴァシャ・ラクシャナム」(*4)引用することによって最もうまく説明されます。
  1. アパラプラトヤヤムは、一方によって他方に教えられたり、分け与えたりできない洞察を意味します。
  2. シャーンタムは、経験に基づく心によって影響されない静止した性質を意味します。
  3. プラパンチャイル・アプラパンチタム:それは言葉で表現する心によって表現できません。
  4.  ニルヴィカルパム:それは思いとその投影物を超越しています。
  5. それはアナーナールタムであり、不二を意味します。
    スンニャターは、明晰さの成果である、より優れた形の知性を手に入れることができます。それは単なる賢さや能力ではありません。正しい思考と正しい行動がこの知性から流れ出ます。ナーガールジュナはスンニャターを理論や概念に変えないようにと我々に警告します。「ブッダによって、スンニャターは一切の見解や主義を不要とするために言明された。スンニャターそのものをもう一つの主義に変える者たちは、まったく見込みがなく、手の施しようがない」。

(*1)スンニャター・・・パーリ語。サンスクリット語ではシューニャター。スンニャ(空)+ター(性質)、空性。
(*2)スワバーヴァ・・・サンスクリット語。パーリ語ではサバーヴァ。スワは「自ら」、バーヴァは「成ること」。本質、自性。
(*3)プラパンチャ・・・サンスクリット語。パーリ語ではパパンチャ。現象的世界、その苦しみと幻惑。
(*4)ナーガールジュナ著、『ムーラマドヤマカーリカー(中論)』、第18章「アートマパリークシャ」、第9詩節

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