2014年8月30日土曜日

「ウパデーシャ・サーラム(教えの精髄)」- マラヤーラム語版の英訳から

◇「山の道(Mountain Path)」、1984年4月 p103~104

 バガヴァーン・ラマナが30詩節からなるタミル語のウパデーシャ・ウンディヤールを作ったのは、シュリー・ムルガナールの要請であり、彼の詩を完成させるためでした。すぐ後に、信奉者たちの要望により、バガヴァーン自身がその詩のテルグ語版を作りました。1927年、バガヴァーンは、日々のパラヤーナにふさわしいように、それぞれ24音節からなるスローカの形でサンスクリット語版を一気に作りました。

 翌年、マラヤーラム語を話す信奉者たちのために、バガヴァーンはマラヤーラム語版を作りました。それらはより長い節で書かれており、それゆえ、より説明的な形式になっています。9、10、12、14、15、20、22、26、29詩節は、この役立つ拡張の明確な例を提供し、そのため、その中に他の三つの版の中に暗に示されている点が説明されているのに気づいたムルガナールやクンジュ・スワーミーなどはマラヤーラム語版を好ましく思いました。

 それゆえ、友人たちに請われるままに、私はマラヤーラム語の詩の逐語的な英訳を試みました。信奉者たちがこの簡潔な詩を理解するのにそれが役立てばと思います。この詩は、バガヴァーン自身によって四つの言語で作られ、その意図と効果において彼の教えの精髄を含み、劇的な形式においてはシヴァからリシたちへのウパデーシャでもあります。
(K.K.ナンビアール、後書きから)

ウパデーシャ・サーラム
(マラヤーラム語版からの直訳)

K.K.ナンビアール

1.
創造者に定められるままに、カルマは結果を生むため、どうしてカルマがとなれるのか。それには意識がない。

Since Karma yields results as ordained by the creator, how can Karma be God? It is insentient.

2.
カルマの結果は永久的ではないが、それでもヴァーサナー(傾向)の形で心に種を残し、かえってカルマの大海に行為者を繰り返し投げ込むばかりである。カルマは決して人を救いに導かない。

The results of Karma are impermanent and yet leave seeds in the form of Vasanas (tendencies) in the mind which will only repeatedly plunge the doer in the ocean of Karma. Karma never leads one to salvation.

3.
結果への何らの望みもなく、に純粋に奉仕して、無私のカルマを行え。そのような行為は心を清め、人をモークシャの途上へ導く。

Perform disinterested Karma purely in the service of God, without any desire for its fruit. Such actions purify the mind and lead one on the way to moksha.

4.
行為は三種あり、それらは体、言葉、心によって行われる。それらはプージャー(崇拝)、ジャパ(復唱)、ディヤーナ(瞑想)であり、後のものほど価値が高い。

Actions are of three kinds, those performed by body, by speech and by mind. These are pooja (worship), Japa (incantations) and dhyana (meditation), and are in ascending order of merit.

5.
この八つの要素からなる全世界は目に見えるの顕現であると念頭に置き、それに基づきを崇拝せよ。これが崇拝の最良の形である。

Keeping in view that this entire eightfold universe is the visible manifestation of God, worship Him accordingly. This is the best form of worship.

6.
神の名なるマントラの復唱は、賛美(ストートラ)の最良の形より良い。かすかなつぶやき声で繰り返し唱えられるマントラは、声高の朗唱より優れている。心の復唱が、その三つの中で最良である。瞑想はこれと異ならない。

Repetition of mantras of God's names is better than the best forms of praise (stotras). Mantra repeated in faint murmur is superior to loud chanting. Mental repetition is the best of the three. Meditation is not different from this.

7.
油や一年を通じての小川の定流のように、途切れなく行われる瞑想は、断続的な瞑想より良い。わずかの途切れもない、絶え間ない瞑想が最良であり、もっとも力強い。

Meditation carried out without a break like the steady flow of oil or of a perennial stream is better than intermittent meditation. Incessant meditation without a single break is the best and most powerful.

8.
は私である」や「私はから離れていない」という態度は、私はから離れているという態度より、はるか優れている。

The attitude "He is I" or "I am not separate from God" is far superior to the attitude that I am separate from Him

9.
一切の思いを超越する、実在に住まうことが、献身の最も純粋な形である。至高の献身は、モークシャへ通じる。

Abidance in the Real Being transcending all thoughts is the purest form of devotion. Supreme devotion leads to moksha.

10.
自らの存在の秘められた核心に到達し、なんら心の散逸もなく、その内に住まうことが、カルマ、バクティ、ヨーガ、ジニャーナ、四種の道すべての精髄である。

Having reached the secret core of one's existence, abiding therein without any mental distraction is the essence of all four paths, Karma, Bhakti, Yoga and Jnana.

11.
呼吸の制御によって、網に捕えられた鳥のごとく、素早く動く心は抑制される。そのように、呼吸の制御は、心の吸収のための仕掛けである。

By breath-control the fleeting mind is kept under restraint like a bird trapped in the net. Thus breath-control is a device for absorption of the mind.

12.
心には理解する力があるが、プラーナには活動の力のみある。心とプラーナは共に、同じ力の源から生じる枝である。

Mind has the power of apprehension, while prana has the power of activity only. Mind and prana are both branches springing from the same source of power.

13.
ラヤとナーシャは抑制の二つの形である。ラヤは一時の吸収であり、そのように吸収されたものは必ず蘇ることになる。しかし、死んでいる、即ち、永久的に吸収されたものが再び蘇ることは決してないだろう。

Laya and Nasha are two forms of restraint. Laya being absorption for a time, that which is so absorbed is bound to revive. But that which is dead or permanently absorbed will never rise again.

14.
呼吸の抑制によって、心が吸収された所で、(心を)ただ一つの思いの流れに沿わせるなら、心は消滅するだろう。

Where the mind gets absorbed by breath‐restraint, it will die if made to follow a single current of thought.

15.
心が消滅した偉大なヨーギにとって、いまだ彼は普通の人のように見えるが、何らの行為も必要ない。彼が彼の本質を得ているがゆえに。

For the great yogi whose mind is extinguished, though he yet looks like an ordinary man, there is no need for any action, as he has attained his true nature.

16.
心が外側の対象物から退けられ、内に向けられ、純粋な自覚なる自らの姿を注視する時、それが真の知である。

When the mind is withdrawn from external objects and is turned inwards to behold its own form of pure Awareness, that is True Knowledge.

17.
心が内に向けられ、絶え間なく自らの姿を調べる所に、心というようなものは存在しないと見出されるだろう。これが皆にとっての真っ直ぐな道である。

Where the mind, turned inward, unceasingly investigates its own form it will be found that there is no such thing as the mind. This is the straight path for all.

18.
思いとは別に、心は存在しない。思いそのものが、心であると言われている。全ての思いの根本は、「私」という思いである。「私」が心である。

Apart from thoughts there is no mind. The thoughts themselves are said to be the mind. The root of all thoughts is the 'I'‐thought. 'I' is the mind.

19.
内に潜り、どこから「私」という思いが生じるか見出さんと努めるなら、「私」は崩れ落ちるだろう。これが知恵の追求である。

If diving within, one seeks to find out whence the 'I'-thought rises, the 'I' will topple down. This is the pursuit of wisdom.

20.
「私」が消え去る所に、真の「私」‐「私」が自らのあるべき場所に、ハートに自然と生じる。それは無限である。

Where the  'I' perishes, there arises spontaneously in its own place in the Heart the Real 'I' - 'I' , which is infinite.

21.
これが「私」という用語の真意である。なぜなら、日々、眠る間に「私」が吸収される時、自分自身の存在を誰も疑わない。

This is the true import of the term 'I' , for nobody doubts one's own existence, when the 'I' is abosrbed daily during sleep.

22.
体、五感、プラーナ、知性、無知、目に映る世界-全ては幻であり、存在せず、意識がないゆえ-「私」ではない。私は永遠なる現実である。

Body, senses, prana, intellect, ignorance and the visible world, all being illusory, non-existent and insentient, are not I; I am the Eternal Reality.

23.
「在るそれ」に気付いている「私」とは別の意識は存在しない。「在るそれ」は、絶対的な意識である。「私」もまた、その意識ではないのか。

There is no consciousness apart from 'I' to be aware of "That which is". "That which is" is Absolute Consciousness. Am 'I' not also that Consciousness?

24.
創造者と創造物は共に、実質的に、「存在の内に一体」である。相違は彼らの属性と知識にのみあるため、彼らの間に区別がなされるべきではない。

The Creator and creature are both in substance "One in Being". No distinction should be made between them as the differences are only in their attributes and knowledge.

25.
創造物が様々な属性を除き、彼自身を見て、知る所、それこそが自身を見ることである。創造者は自らに他ならない。

Where the creature sees and knows himself without the various attributes, that is verily seeing God himself. The Creator is no other than the Self.

26.
「自分自身を見ること、知ること」と語られていることは、「自らとして住まうこと」のみである。自らは常に一人のみであり、二人ではない。これを「タンマヤ・ニシター」と知れ。

What is spoken of as 'seeing and knowing oneself ' is only 'abiding as the Self'. The Self is ever one alone, never two. Know this as 'Tanmayanishta'.

27.
かの知は、知識と無知を共に超越する「真の知」である。さらに何が知られるべきなのか。「真の知」の他に何ものも存在しない。

That knowledge is "True knowledge" which transcends both knowledge and ignorance. What more is to be known? There is nothing other than "True Knowledge".

28.
自分自身の姿を探し求め、人がその本質を実現するなら、その時、それは始まりも終わりもない存在である。それは途切れのない自覚‐至福である。

Searching for one's own form, if one realises one's true nature, then it is Being without beginning and end; it is unbroken Awareness-Bliss.

29.
束縛と解放についての一切の思いを超える、ブラフマンのこの上ない至福を誰が描けるのか。その境地に常に住まう人々は、至高者への奉仕に堅固である。

Who can describe that supreme bliss of Brahman, beyond all thoughts of bondage and release? Those abiding ever in that state are steadfast in the service of the Supreme.

30.
「私」の一切の痕跡が去った時にある、それを実現し、それとして住まうことが、良きタパスである。全ての自らであるラマナは、そのように語る。

Realising That which is when all trace of 'I' is gone and abiding as That is good tapas. So says Ramana, the Self of all.

3 件のコメント:

  1. 質問させてください。
    ここで使われているサーラムとは何語でどういう意味でしょうか?
    というのも今朝の夢にアラム・サーラムという言葉が出てきて、何となく起きてメモしてまた眠りました。全然意味がわからないのですが。
    もう一つそれと組になるような言葉も出てきたのですがそれは覚えていません。
    変な質問で申し訳ありませんが、よろしければ教えてください。

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    1. サーラム(saram:സാരം)は、マラヤーラム語で、「精髄」という意味です。

      アラムに関しては、aram:അരംであるなら「①やすり②ゴム③ファイル④鉄格子」という意味のようです。alam:അളംであるなら、「場所」という意味のようです。ご参考までにどうぞ。

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  2. お返事ありがとうございます。
    マラヤーラム語なるものなのですね。
    アラムはアラム人とかアラム語とか出てきましたが、ヒンズー語で平和や愛の意味があるとも見ました。でもサーラムがヒンズー語じゃないので、ちぐはぐですね。
    よくわかりませんが、調べていて少し勉強になりました。
    ありがとうございました。


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