努力と無努力
論説(*1)
時間と空間、様々な伝統と人種において幅広く隔てられた賢者らによって、時代を通じて、霊的努力の必要性は力強く強調されてきました。それにも関わらず、彼らの本質的な教えは、我々は決して自らでなくなることはない、解放されるべき生命は存在しない、新たに自らを獲得するということない、なぜなら、(もしそうでないなら)自らが永続的でないことを暗示するから、です。では、なぜ修練と努力がそのように強調されているのでしょうか。
事実は、シュリー・バガヴァーンが他の賢者らと一致して説くように、我々が我々の至福に満ちた境地を自覚していないからです。「試みは、純粋な至福を覆う無知を取り除くことのみ注がれます。この無知は、自らを体や心などと誤って同一視することによります。無知という幻の覆いが取り除かれる時、常に存在する真理があるがままに明らかにされます。これを達成するためには、修練が必要です」。修練とは、心にいわば習癖をつくる長年の傾向(サンスカーラ)を取り除くことを意味します。それが平らかにされ、その根っこが切られない限り、幻と苦しみがはびこります。それは真理への無知の中にとりこまれた人生についてまわります。「自我は幻と同意語です。無知が決して存在しなかったと知ることが、全ての霊的教えの目的です」。探求者自身が、無知が決して存在しなかったと見出し、体験的に気づくために、探求者の素質に応じて定められた霊的修練と瞑想によって’心の潜在的傾向を無効にすることを、グルは探求者の努力に委ねます。
あなた自身が、努力しなければならない
仏陀は、ただ道を指し示すのみ...
-ダンマパダ(*2)全ては真理を覆う傾向を取り除く修練次第です。そのように、探求者は、探求に必然的に伴う骨の折れる全ての負担を引き受ける決心をし、(実際に)引き受けることができなければなりません。「まこと、人は神であり、まこと、神は人である.... しかし、これは隠されている.... 時が神の王国なる、この宝を隠している.... 人はその他あらゆることを知っているが、自分自身を知らない」とマイスター・エックハルト(*3)は言いました。それゆえに、努力が必要です。
悟りを開いた慧能は、万物は非現実であり、それを現実として知覚することは完全に誤りであると壁にガーター(詩節)を記しましたが(*4)、真理の探求者にどのように努力するのか学ぶように強く勧め、そして、「あなたがたが修練するならば私の意に沿い、あなたがたは道を踏み外さない」と熱心に説きました。
コーランが「全ての知識と力は神と共にある」と断言するのとまさしく同様に、イエス・キリストは「神の意思なくして一羽の雀でさえ落ちることはない」と断言しましたが、キリストとコーランは共に人々に正しい努力を強く勧めています。バガヴァーンはそれについてまったく断定的でした。これを例示するために、彼はよく聖者ターユマーナヴァルを引用しました。「あなたが静かにしていれば、至福が付き従う。全ての聖典がそれを言い、我々は毎日、偉大な人々から、我々のグルさえからもそれを耳にするが、我々は決して静かにしておらず、マーヤーと感覚対象物の世界へさ迷い入る。それゆえ、意識的で意図的な努力が、かの静寂の無努力の境地を得るために必要とされる。」
「無努力の境地が得られるまで、全ての人が何らかの方法で努力します」とバガヴァーンは強く主張します。人にとって努力しないことは不可能ですが、人がより深くに行くと、一切の努力はやみ、あたかも努力のしずくが恩寵の無限の海によってのみ込まれるのを待ちかまえているかのように、自らが引き継ぎます。努力と苦しみの一度の生涯、もしくは、その数々の生涯は、比べてみれば何でもありません。探求者の心がそれに委ねられるに十分に謙虚であるか、純粋である時、恩寵は信じられないほどに素晴らしく寛大です!たとえ永遠をかいま見ただけでさえ、これを直接的に体験した人々の実感と証言はそのようなのです。
そのように永遠をかいま見た後、探求者はその記憶を持つだけです。心がその経験を留めるほど十分に安定していない限り、最大限の努力と忍耐が不可欠です。自分が目指しているもの、それ以外のどのようなものも心を満たせないと知るため、この場所から本当に真剣なサーダナが始まるのかもしれません。逆に、自我がでしゃばるなら、そのような体験さえ忘れられるか、もしくは、高慢や自己欺瞞に通じる方便になるかもしれません。
自らの実現に通じる瞑想は、怠惰な空想でも、空虚な無行為でもなく、心の制御を得ようとする強烈な内なる苦闘です。「我々が霊的現実(*5)の知識を得なければならないとまさしく同様に、我々はその修練を獲得しなければならない」とイブン・アタ‐イッラー(*6)は忠告します。大変長く思いの支配下にいたため、その過程を逆にするのは容易なことではありませんが、「熱心な努力は決して失敗しません」とバガヴァーンはくり返し我々に保証しました。そして、編者は、この保証はいくらくり返し言っても言い過ぎるということはないと繰り返し言います。波は上がったり、下がったりします。しかし、最も低い引潮から、近づいてくる波によって、探求者は最も高きに上ることができます。恩寵は常に存在しています。影を離れ、太陽が全てを公平に照らしているのを見ることは我々次第です。普段の義務を私心なく、その力の及ぶかぎり行うことにおいて、人は安らぎと偉大な高みにも霊的に昇ることができる、と賢者らは言います。
道元は、古典『正法眼蔵』の中で、自分自身を仏陀という最高の理想と同一視しながら、理想を実践へ移すために必要とされる努力を怠る者たちを叱責します。霊的努力を不要として捨て去ることは、本心では真理のために努力する気がないことをうまく釈明する知的合理化でしかありません。彼はさらに、あらゆる人が仏法の道具であると説明します。「一度たりとも、自分がそうではないと思ってはいけない。修練によって確実に、人はそれを直接に体験するだろう」。
修練と忍耐は、必ず成果をもたらします。古(いにしえ)の師はみな、それに手を焼きました....「100戦の勝利(と敗北)の後、人は偉大な安らぎを得る」とするなら、それは戦いです。「全ては瞑想の修練に帰する」と白隠は『瞑想の歌』(*7)の中で言います。
我々は想像上の雲を追い払うために全人生を修練に投じなければなりません。楽に成功を達成した人がいるなら、バガヴァーンは「彼は必要な全ての努力を前世で行ったと受け取ってかまいません」と言いました。
物質的全世界と霊的現実の間には類似があります。世界は反射でしかありません。それがヘルメス(*8)の言明、「上にあるがごとく、下にもある」の真意です。オリゲネス(*9)もまた、天上の事柄の様式と影から、「上にあるものはまた、下にもある」と主張しました。スポーツ、音楽、芸術、工芸などにおいて無努力性(*10)を達成するためには、我々は大変な努力を継続して行わなければなりません。これが限定された目的を達成することに適用されるなら、目的が無限である時、どうしてそれを適用すべきでないのですか。もしくは、バガヴァーンが言うように、「無努力の境地が得られるまで、全ての人が何らかの方法で努力します。では、どうして自らを得ることに努力を向けないのですか」。今までに練習や案内人なしでエベレストに昇った人がいますか。そして、これはエベレスト以上です!シャンカラは、ブラフマンが全ての自らとして実現される前、現象的世界のあらゆる相互作用はその間十分に現実的であると言います。いったんブラフマンが実現されるなら、あらゆる他の知識の序列はアヴィドヤー(無知)になりますが、それまでは、知識の低い階層は知識としてその独自の現象的領域で有効です。我々が夢の中で空腹を感じる時、それを満たすのは夢の食べ物だけです。これはまた、幻の世界の中の幻の努力にも、直接の生き生きとした体験においてそのように(幻として)理解されるまで、当てはまります。
ほとんど超人的な霊的努力に成功した後、ミラレパ(*11)は彼の師マルパによって後世の堕落した人間は努め励むことができないだろう、努力を怠るだろうと教わりました。シュリー・クリシュナの最後の言葉の趣旨もまたそのようです。様々な聖典が、この時代の人類の全般的な衰退を生き生きと描いています。
知的理解の段階で満足している者は、目的地からほど遠く、「達することなく達っした」という幻想に陥りがちです。今日では、この時代の精神の中で、努力は必要でないと説く多くの師、いわば、安楽椅子グル(*12)がいます。曰く、人は初めから落ち着いた心を持つべきである。曰く、必要とされる全ては我々自身の不在を見ることである。曰く、実現は2・3週間の超越瞑想(*13)の内に保障される、などなど。そのような教えが、この時代の多くの追随者を魅了することに何の不思議もありません!端的に言って、全ての霊的努力は、我々自身が精神的に作り上げた幻に打ち勝つために、心を静めることを目的にします。「グナからなる幻はとても克服しがたい」とシュリー・クリシュナは『バガヴァッド・ギーター』の中で言います。
落ち着いた心とは、人が自我性という幻の限界を打ち破り、無限に至ったことを暗示し、初心者やいまだ探求している人々には当てはまりません。「あなたが思いを超えた境地に達するなら、三世界は消え去るだろう」(黄檗希運禅師、『宛陵録』(*14))。
誰が自分自身の不在を見るのでしょうか。見るその者は存在しています。さらに、「不在」もまた存在を暗示する概念です。
超越瞑想は、先験的な知識無くして修練することはできません。なんと、それは人が思いを超越したことや、心を克服していることを意味しますが、そのような状態で、さらに探求する必要がどこにありますか。患者への薬のように、教えは探求者に適したものであるべきです。聖典やアドヴァイタを引用したり、マントラを与えることは難しくありませんが、教えより偉大であるグルからもたらされる変容させる力を欠くなら、効果的ではないでしょう。
つまるところ、ある現代の教え手たちは、相対的な現象的状態を否定することによって、努力なく、もしくは、ほとんど努力なく、超越的な無努力の境地を当然のこととするのに反し、ジニャーニは、実在の一体性において、そして、最高の水準から語りますが、形を持った状態のその独自の領域における相対的妥当性を認識し、努力を強調しつつ悟りへの様々な道を説きます。ウパニシャッドの中で、ブラフマンは「高くも低くもある彼」として描かれています。
世界は自堕落、快楽、安楽に屈しており、それらは収穫逓減の法則(*15)に従い、たいてい終には退屈になります。努力と忍耐を通じてのみ、自堕落は、至高の幸福と無上の喜びに通じる自制に変じることができます。
要約すると、無努力は熱心な努力を通じて達成でき、その努力は決して失敗しません。そのように、賢者らは言います。
(*1)「論説(editorial)」とは編集者が出版物上で意見を述べる記事のことですが、1973年4月号の「Mountain Path」の編集者はルシア・オズボーンなので、彼女が記した記事と考えていいと思います。
(*2)中村元訳、『ダンマパダ』、第20章 「道」、276、「汝らは(みずから)つとめよ。もろもろの如来(=修行を完成した人)は(ただ)教えを説くだけである。心をおさめて、この道を歩む者どもは、悪魔の束縛から脱れるであろう」。
(*3)マイスター・エックハルト、http://en.wikipedia.org/wiki/Meister_Eckhart
(*4)神秀が「身は是れ菩提樹、心は明鏡台の如し。時時に勤めて払拭せよ。塵埃を惹かしむること莫れ」と詠んだのに対し、慧能は「菩提本(もと)樹無く、明鏡も亦(また)台に非ず。本来無一物、何れの処にか塵埃を惹かん」と詠んだ。
(*5)al-baqiyah
(*6)Ibn Ata-Illah、おそらくhttp://en.wikipedia.org/wiki/Ibn_Ata_Allah
(*7)『Song of meditaion』、『(白隠禅師)座禅和讃』。上の引用は、「夫れ摩訶衍の禅定は 称歎するに余りあり。布施や持戒の諸波羅蜜、念仏懺悔修行等、そのしな多き諸善行、皆この中に帰するなり」の部分であると思います。
(*8)ヘルメス・トリスメギストス、http://en.wikipedia.org/wiki/Hermes_Trismegistus
(*9)オリゲネス、http://en.wikipedia.org/wiki/Origen
(*10)「effortlessness」、「自然な巧みさ、自然体」とも訳せる。
(*11)ジェツン・ミラレパ、http://en.wikipedia.org/wiki/Milarepa
(*12)「armchair gurus」。armchairには「観念的な、机上の空論の」という意味がある。
(*13)「transcendental meditation」、マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーによる瞑想法。
(*14)英語:Zen Master Huang Po、『The Wan Ling Record』
(*15)「the law of diminishing returns」。ここでは、快楽を増やそうとさらに刺激を増しても、それに比例して快楽は増えず、刺激に対して得られる快楽が減って行く、というような意味であると思います。
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