2015年1月1日木曜日

ムクティ、ムクタ、ムクティへの道々- ウパデーシャ・サーラムに基いて

◇「山の道(Mountain Path)」、1965年1月 p9~11

自らの実現への道々

B.V.ラーダークリシュナン博士

 ヒンドゥー教の四つのプルシャルタ、または、人生の目標-ダルマ、アルタ、カーマ、モークシャ(正義、繁栄、楽しみ、解放)-の中で、最後が最上のものとみなされています。チャルヴァカを除く、ヒンドゥー教の全思想体系は、サンサーラ、または、(輪廻)転生からの人の最終的解放を信じています。この最終的解放は、モークシャ、ニルヴァーナ、カイヴァルヤ、アパヴァルガと様々に呼ばれています。それを得るために、カルマ、バクティ、ヨーガ、ジニャーナという様々な道があります。シュリー・ラマナは、この号に引用されるウパデーシャ・サーラムの中で、その有効性に応じて、それらを段階に分けます。

 シュリー・ラマナは、アドヴァイタ・ヴェーダーンタの体現者です。彼は観念的な哲学者ではなく、理論を詳しく説明することを好みませんでしたが、現実の直接的体験からくる知恵を持っていました。

 彼が説いた解放、または、ムクティとは、ブラフマンと一体となることです。というよりむしろ、アートマとブラフマンの同一性は常に継続していて、幻によって隠されているだけであるため、それは至高なる自らと同一であるという自覚に目覚めることです。

 我々の視界から隠されていますが、この同一性は永遠に存在しています。「絶対的な意味において現実であり、全ての中で最上であり、虚空のごとく全てを貫通し、あらゆる変化を免れ、完全に満足し、不分割であり、その本質は自らの光であることであり、その中に善も悪もなく、結果もなく、過去や現在や未来が存在する余地のない、それ、かの無形なるものが解放と呼ばれている」(*1)。それは以前に存在しなかったものが存在するようになることではありません。なぜなら、何であれ存在するようになるものには終わりがあり、それゆえに束の間のものです。そのため、ムクティは達成や獲得ではなく、成るという過程の停止でしかありません。それは自らの廃絶ではなく、意識の拡大と輝きによる、その無限性と絶対性の実現です。それは未来の時に託されるべきではなく、スヴァルガやブラフマ・ローカや他のどのような名前で呼ばれる場所に位置づけられるべきではありません。それはただ在ります。

 シュリー・ラマナは、ムクティは得られるべき新たな何ものでもなく、我々の本質であると我々にしばしば思い出させました。「自らを実現するということは存在しません。自らは常に実現されています」(*2)それを知ることのみが妨げられていて、その妨げを我々は無知と呼びます。「『束縛されている私は誰か』探求し、自らの本質を知ることのみが解放です」(*3)自らの内には、束縛も解放も存在しません。無我の境地が、唯一なる現実です。

 インドの全ての聖賢のように、これはグルの恩寵を通じて実現されうると彼は確言しました。しかし、これはグルが我々の外側にいる別の個人ではなく、顕現した自らであることを暗に意味します。我々が我々自身を体と同一視する限り、我々はグルを我々の外側にいる別の身体的な個人であるとみなします。しかし、実際、我々は体ではなく、彼もまた体ではありません。実現とは、この理論的な理解を直接的な知識に転換することです。たとえ我々が体をグルと間違えても、彼自身はそのような誤りを犯しません。彼は我々を導くためだけに外側に現れます。これが、シュリー・ラマナが、自ら、神、グルは同じものであると述べた時に意味することです。そのため、彼には、「虎の口に陥った獲物が決して逃れることを許されないのとまさしく同様に、グルの恩寵を得た彼は、間違いなく救われ、決して見捨てられません」(*4)という素晴らしい発言をすることができました。

 では、誰がグルなのでしょうか。シュリー・ラマナがその用語を使う高度な意味において、グルは普遍的な自らとの途切れることのない意識的な同一性の中にいる完璧な聖者のみでありえます。「グルとは、自らの深遠な深みの中にいかなる時も留まる者です。彼は彼自身と他者の間のどのような違いも決して見ず、『私の周りにいる人々は束縛や無知の暗闇の内にいるが、私は悟った、または、解放された者である』という考えをまったく免れています。彼の冷静さはどのような状況下でも決して揺るがされるはずがなく、彼は決して動揺しません。」(*5)

 そのような人はジーヴァン‐ムクタ、生きているうちに解放された者と呼ばれます。「ジーヴァンムクタは外的な対象物の現実性を感じることをまったく免れている。ただそのような感覚を持つように見えるだけである。・・・彼の心は完全にブラフマンに溶け込み、永遠の至福を楽しんでいる。彼は二元性を免れている。目覚めているが、彼は目覚めの状態の性質を免れている。この体の内にいる間にさえ、影のように付き従う『私』と『私のもの』という考えの欠如が、ジーヴァンムクタの特徴である。彼は過去の楽しみを引きずらず、未来を気に掛けず、現在を平静を持って眺める。彼は苦楽によってかき乱されず、(輪廻)転生の束縛を免れている。」(*6)

 ジーヴァンムクタが無知の支配下にあることがありえるのでしょうか。ありうるということが伝統的に認められています。これは白いキャンバスの上の黒い影になぞらえられます-それは彼にどのような影響も及ぼすことはできません。彼の継続する身体的存在は、壺を作った後で、しばらくの間、回転する陶工のろくろに例えられます。シュリー・ラマナは、それを電気が切られた後でも数回、回転する扇風機に例えたものでした。アジニャーナレーシャ、または、無知は、ろくろの継続する勢いです。解放された人にとって、それはさらなるカルマを作りません。彼の中に活動として見えるものは、アカルマ、即ち、無為、無執着の行為でしかありません(*7)

 完全な解放は体の破壊の後にのみ得られうると言う人たちもいますが、それは知る人々から受け入れられません。シュリー・ラマナは、「(ジーヴァンムクティとヴィデーハムクティの間の)違いは存在しません。尋ねる人々のために、体を伴う覚者がジーヴァンムクタであり、彼が体を脱ぎ捨てた時にヴィデーハムクティを得ると言われていますが、この違いは傍から見る人にだけ存在し、彼には存在しません。彼の境地は、体を脱ぎ捨てる前と後で同じです」(*8)と明確に断言しました。

 では、彼はいまだカルマに束縛されているのでしょうか。シュリー・ラマナは我々に完璧な回答を与えて、彼はもはや彼自身を体と同一視していないため、体は(束縛されている)かもしれないが、彼は(束縛されて)いないと言いました。「実のところ、覚者は一切の運命を超越し、体にも、その運命にも束縛されていません。」(*9)

 さて、目的地の検討から道へ移りましょう。シュリー・ラマナは、カルマ、または、行為は決して解放に通じえないと説きます(*10)しかしながら、愛着なく、神への奉仕の精神において行われる行為は、解放の道を示し、心を清めることができ、そうして、より効果的な道をとることを可能にします(*11)崇拝や儀式という身体的行為、復唱のような声による行為、そして、瞑想のような純粋な心による行為は役立ち、この順序で、それぞれが先のものよりも役立ちます(*12)

 行為の一つの形である呼吸の制御についての彼の判断も同様でした。「呼吸の制御の修練は心を抑制することに役立つだけであり、その最終的消滅をもたらすことはできません。」(*13)

 実際、彼は呼吸の制御は独立した技法ではなく、心の制御へ通じる道であると説きました。「呼吸の制御は心の制御に役立つものであり、そのような何らかの助けなくして心を制御できないと気づく人々のために勧められます。心を制御し、集中できる人々にとって、それは必要ありません。人が心を制御できるようになるまで、最初それを使うことはできますが、その後、放棄されるべきです」(*14)。「心は呼吸の制御の修練によって退きますが、呼吸と生命力の制御が継続する限りのみ、そのように退いたままにあります。それらが放たれる時、心もまた放たれ、即座に外に向かい、その微細な傾向の力を通じ、さ迷い続けます。」(*15)

 さあバクティの道へやって来ましたが、シュリー・ラマナは、熱烈な献身を通じて一切の思いを超え、真に「在る」ものの内に留まることが、至高なるバクティのまさにその本質であると言いました。真実のバクティは、自我を完全に委ねた結果、それが何も残らないことであり、自らの探求によって自我が存在しないと発見するのと同じことになると説きました。「ただ二つの道しかありません」と彼はしばしば言いました。「あなた自身に『私は誰か』問いなさい。もしくは、委ねなさい。」

 自らの実現への最も直接的な道が、自らの探求であると彼は説きました。それは、自らがすでに実現されていないと人に思わせる障害物を取り除くことによって、自らの実現へ直接的に通じます。「たとえ心が他の手段によって退くにしても、それは見かけ上そうあるだけです。それは再び生じます。」(*16)

 すでに説明したように、全ての技法の有効性を段階に分けましたが、時折、シュリー・ラマナは全ての方法を容認しました。彼はまた、自らの実現という最終的な境地は、どのような道やどのような宗教を通じて近づいても同じであると言いました。しかしながら、最も効果的な方法は、自らの探求です。「カルマ、バクティ、ヨーガ、ジニャーナの唯一の道は、カルマ、ヴィバクティ(献身の欠如)、ヴィヨーガ(分離)、アジニャーナ(無知)を持つのは誰なのか探求することである。この探求を通じて、自我は消え、それらの否定的な性質のどれもがかつて存在しなかった自らに住まう境地が真理として残る(*17)。様々な色の牝牛からとられても、牛乳が一様に白色であるのとまさしく同様に、実現もまた、どのような宗派に属するのであれ、全ての人々にとって一様です(*18)

 実際、自らの内に自我を溶け込ますことに通じるなら、全ての道は良いものです。信奉者が委ねと呼ぶものを、アドヴァイティンは知と呼びます。両者が同様に、自我をその源まで連れ戻し、そこにそれを溶かします(*19)。一方は、愛の祭壇の上に自我を捧げ、他方は、それが存在せず、決して存在しなかったことを発見します。自我の非存在という同じ究極の地点に、両者が到達します。

(*1)『Vedanta Sutras with Sankara's commentary』、1-1-4
(*2)『Talks with Sri Ramana Maharshi』、p. 490. Sri Ramanasramam. v-
(*3)「Who Am I?」、p. 46-47. (『Collected Works of Ramana Maharshi』、Rider & Co.)

(*4)同上、p. 44.
(*5)『Ramana Maharshi and the Path of Self-Knowledge』 Arthur Osborne著、p. 140. Rider & Co.
(*6)『Shankaracharva's Viveka Chudamani』、w. 429-436.

(*7)『Bhagavad Gita』、IV, 20.
(*8)『Teachings of Ramana Maharshi in his own words』、p. 192、 Arthur Osborne編, Rider & Co.
(*9)同上、p. 188.
(*10)(この号に記載された)「Upadesa Saram」、 v. 2.
(*11) 同上、 v. 3.
(*12) 同上、 v. 4.

(*13)「Who am I?」、p. 43
(*14)『The Teachings』、p. 146.
(*15)「Who am I ?」、p. 42

(*16)同上、p. 42.
(*17)「Supplementary Forty Verses」、 v. 14 (『Collected Works』).
(*18)「Atma Satshatkara」、 v. 42 (『Collected Works』).
(*19)『Day by Day with Bhagavan』、 vol. 11、 p. 35. Devaraja Mudaliar著, Sri Ramanasramam.

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