ナーヤンマール(シヴァの信奉者たち)
V. A. デーヴァセーナーパティ博士
実例は教訓に勝ります。人が話すことではなく、どのように生きるか、何を行うかが彼の同胞に影響します。特に哲学と宗教の分野において、これは当てはまります。我々は優れた教師たちの著作を読み、その考えを収集するかもしれませんが、それは我々の人生にほとんど影響を与えないかもしれません。その一方で、聖賢たちの人生は広く影響を及ぼします。我々がそれらを読む時、少なくともしばらくの間、我々は清められたように感じます。まさに沐浴が体を洗い清めるように、それらの伝記は心を清めます。
シャイヴァ・シッダーンタとして知られるタミル・ナードゥのシヴァ派は、『ティルットンダル・プラーナム』をその12の重要な聖典(*1)の中の一つとみなしています。この著作は、『ペリヤ・プラーナム』として一般に知られています。ペリヤール、即ち、偉大な人物の人生を扱っているため、実際、それはペリヤール・プラーナムです。彼らの偉大さは、彼らが完全に利己心、「私」および「私のもの」という感覚を克服したことに由来します。彼らの人生は、ラマナ・マハルシの歌の中の祈り-「私の自我を根絶しなさい、アルナーチャラ・シヴァよ!」-の成就の実例です。
マドゥライの寺院の彼らの聖像の前に、青年のころの彼を恭しい敬慕の気持ちで立たせたのは、おそらくは彼らの人生への彼の生まれついての慧眼であったのでしょう。彼(マハルシ)の偉大な体験の後、『ペリヤ・プラーナム』の物語と彼が寺院で見た63人のナーヤンマール(*2)の聖像が新たな意義を帯びたと述べ、スワミナサン教授は数年後のマハルシの体験の回想に注意するよう呼びかけます。「新たなる命への目覚めの後、私は一人で行き、長時間、シヴァやミーナークシやナタラージャや聖者たちの前で立ったものでした。私は感情の波が私を圧倒するのをよく感じました。私の心は以前握っていた体を手放しました。そのため、心はあらたに握るものを持ちたいと熱望し、それゆえに寺院への頻繁な訪問となりました。私はイーシュワラの前に立ち、私の献身が高まり、63人のそれのように永続的になるように、時折、私は彼の恩寵の降臨を願い求めました.... 私は彼らが持った同じバクティを私が持てるように願いました」<*1>。以前に、マハルシは一冊の『ペリヤ・プラーナム』に出会いました-そして、彼は、「シヴァの恩寵を得た63人の聖者の物語を読むにつれ、喜びに満ち溢れました」<*2>。
「63人のナーヤンマールガル」のタイトルソング
『ペリヤ・プラーナム』は、スンダラムールティ・スワーミ-の『ティルットンダルトーガイ』(*3)に基づいています。スンダラムールティが個々の聖者の名前に言及した後、九つの聖者の集団に言及していることは意義深いことです。それらの集団の一つは、「枠外の信奉者たち」です。それらの聖者たちは、物語が進む地理的、年代上の制約の枠を超えています。言いかえれば、スンダラムールティは、主の信奉者がいつどこに住んでいようとも、彼ら全てを含めたいのです。彼らは全ての場所の、全時代の信奉者です。
『ペリヤ・プラーナム』は、ナンビアーンダール・ナンビの『ティルットンダル・ティルヴァンダーディ』(*4)に含まれる『ティルットンダルトーガイ』を少し詳しくしたものにも頼っています。『ペリヤ・プラーナム』は、四人の偉大なサマヤーチャールヤ(*5)の中の三人、つまり、ティルジニャーナサンバンダル、ティルナーヴッカラサル(アッパル)、スンダラムールティを扱っています。マーニッカヴァーチャガルの人生は扱われていませんが、おそらくは彼の名前が元々の一覧表に現れていなかったからでしょう。
主の信奉者だけではなく、信奉者の信奉者もまた語られていることを特筆することは、興味深くあります。これは少し考慮する必要がある事柄です。①信奉者と②信奉者の信奉者を崇拝することは、正しいのでしょうか。崇拝は、神だけのためにとっておかれるべきではないのでしょうか。これらの問いへ答えるかのように、『ペリヤ・プラーナム』には前置きの物語があります。シヴァの一切を超越した本質をよく知り、シヴァの至福の中に喜ぶ、賢者ウパマニュが、無数の信奉者やヨーギに囲まれて、カイラーサ(山)の斜面に座っています。大いなる光輝を目にし、彼は崇拝して手を掲げ、集まった人々にそれは主の下へ向かうスンダラムールティであると告げました。シヴァのみを崇拝し、他の誰も崇拝しない彼が、どうしてスンダラルに服従の意を示すのか尋ねられました。彼は、「ハートで主を抱擁したナンビ・アールーラル(スンダラムールティ)は、我々が崇拝するにふさわしい」と答えました。ここに我々は、信奉者と信奉者の信奉者の崇拝の明確な例を見ます。彼らみなが、完全に利己性から救い出された人たちです。彼らの心は完全に主へ委ねられているため、彼らの中には他の何ものの余地も存在しません。その信奉者たちを崇拝する人々は、彼らのハートの中に安置された主のみを崇拝しています。それらの信奉者たちは、いわば、動き、生きている神の寺院です。
そのような主への全てを抱擁する完全な愛の中で、信奉者たち(ナーヤンマール)は人生を過ごしました。愛の対象が無限であるため、愛の形もまた無限であり、性別や年齢や階級の区別を超えています。信奉者たちを動かした愛は、単純で易しげに見える形から人間の領域を驚くほど超えた形まで様々です。彼自身が偉大な克己で知られている、晩年のパッティナッタールは、(次のように)声高に言います。
私にはできない。我が息子を切り刻み、あなたに食べさせることが-
女性の嘲りによって刺された青年時代(の要求)を放棄することができず
(主を知る)6日の内に、植え替えんとして我が目を抜き取ることができず
では、どうして私はカーラッティの主(*6)の召使いとなれるのか
では、どうして私はカーラッティの主(*6)の召使いとなれるのか
言及しているのは、息子を殺したシルットンダル(*7)、青年期に性的なことがらを放棄したティルニーラカンタル(*8)、そして、両目をえぐり取ったカンナッパルについてです。
カンナッパルの物語は、時代を通じて、信奉者の心を感動させています。シャンカラとマーニッカヴァーチャガルは、この聖者を高らかに賛美した歌いました。聖典や哲学に親しんでいない狩猟の第一人者、カンナッパルは、シヴァの聖像への一切を食らい尽くす愛によって圧倒されました。彼は生肉を主へ差し上げ、それは寺院の聖職者を悲しませました。聖職者はそのような慣例にない崇拝の形に慣れていませんでした。聖職者がそれについてシヴァに祈りを捧げると、シヴァは彼に、「お聞きなさい!あなたに彼がどのような境地にいるのか我々が教えましょう。彼のあらゆる行為は、我々にとって愛しいのです。それを彼の真の境地であると知りなさい」と告げました。
カンナッパルの愛がいかに真摯なものであったのかを示すために、主は聖像の片方の目から血を流させます。カンナッパルは、悲嘆にくれる中、出血を止めようとして知られているあらゆる治療を試み、彼の片方の目を植え替えようと突然に思います。出血は止まり、彼はたいへん喜びます。しかし、その喜びは束の間で、次の瞬間には、聖像のもう片方の目から出血があります。一時の躊躇もなく、カンナッパルは植え替えるために彼のもう一方の目を抜き取ります。マーニッカヴァーチャガルは(次のように)歌います。
彼が、我が陛下が、この(私)を見た時
カンナッパルのような愛は私の中になかった
比較にならないほど哀れな私を、恩寵の中、彼は自分のものにした
バクタ・カンナッパ・ナーヤナールの歌
『ペリヤ・プラーナム』には、我々に狼狽や反感をもたらしそうな他の献身の記述があります。しかし、それらの恐ろしくまた、胸の悪くなるような物語の背後には、主への愛という唯一なる光明が輝いています。人が主や彼の信奉者を愛するなら、与えないでとりおくものは何もありません。どこに線を引こうとも、愛を否定することになるでしょう。愛は自らを含め、あらゆるものを放棄します。何であれ、とりおくものは何もありません。偉大な信奉者たちは、彼ら自身を、彼らに近しく愛しい者たちを、そして、一切の所有物を完全に放棄しました。
『ペリヤ・プラーナム』には、驚かせるようなものではありませんが、その独自の方法で、同じ精神を明らかにする記述があります。例えば、プーサラール・ナーヤナール<*3>は、主のために寺院を建てたいと望みますが、必要なお金がありません。ひるむことなく、彼は次に寺院を心の中で建て始めます。実際の建物の場合のように、計画から建築まで、あらゆることに綿密に注意が払われます。建築が完了する時、主は寺院を実際に建設していたカンチープラムの首長のもとへ夢の中で現れ、プーサラール・ナーヤナールによって建てられた寺院に入りたいので、その寺院には入らないと彼に告げました。その首長は、プーサラールが住んだティルニンラヴールに旅し、心の中だけに寺院を建てた聖者に主が満足していることに気づきます。
シヴァ、純粋な「私は在る」という意識の化身は、心によって作られたものでしかない一切の二元性を超越しています。彼は、在らざるものを包含する在るもの、闇を超越する光、その陰に過ぎないものとして醜・悪を持つ善・美です。愛の目にとってのみ、そのような献身の思いもよらない真意が明らかになります。ラマナ・マハルシは、ナーヤンマールの愛の抗しがたい美しさを見ることができ、さらには、全世界がそのような愛を知ることを望みました。彼らがどのような時代や場所にいようとも、聖者の人生をまことに理解するため、我々の目および心もまた開いて下さるよう、願わくは我々にマハルシへ祈らせ給え!
↓原注
<*1>『Ramana Maharshi』、K.Swaminathan、pp. 9-10
<*2>同上、p. 7
<*3>1966年1月号、p. 17.参照
↓shiba注
(*1)12の聖典・・・63人のナーヤンマールの賛歌をおさめ、『ティルムライ(聖なる書物)』と呼ばる。『ペリヤ・プラーナム』は、第12巻に該当する。『ペリヤ・プラーナム』の著者はセーッキラール。
(*2)ナーヤンマール・・・ナーヤナールの複数形。タミル・ナードゥで6~8世紀に活躍した、シヴァ神を奉じる63人の詩聖。
(*3)『ティルットンダルトーガイ(聖なる信奉者たちの集成)』・・・60人のナーヤンマールの伝記がおさめられている。
(*4)『ティルットンダル・ティルヴァンダーディ(聖なる信奉者たちの聖なるアンダーディ形式詩)』 ・・・63人のナーヤンマールの伝記がおさめられている。アンダーディ形式とは、各詩節の最後の文字が、次の詩節のはじめの文字になる形式。
(*5)サマヤーチャールヤ・・・宗教的指導者
(*6)カーラッティの主・・・シヴァ神。アーンドラ・プラデーシュ州にはシヴァ神を奉じるカーラッティ(カーラハスティ)寺院がある。聖者カンナッパはここで6日の内に真理を悟った(参考:http://yutan123.world.coocan.jp/tb/ind/Kalahasti.htm)。
(*7)シルットンダルの物語・・・修行者の姿をしたシヴァ神に食事を捧げるために、シルットンダル夫妻は1人息子を首をはねて、その肉をとり、料理した。修行者は息子が一緒でないと食べないと言い、妻が息子を呼ぶと息子は何事もなかったかのように駆けよってきた。気づいたら修行者も、調理した肉もなくなっていた(参考:http://www.shaivam.org/nachirut.html)。
(*8)ティルニーラカンタルの物語・・・陶器職人の男性は、神の名(ティルニーラカンタム)の下に妻をはじめ、女性に夢でさえ触れないという誓いをたて、厳格に守り、シヴァ神の祝福を受けた(参考:http://www.shaivam.org/nakuyava.html)。
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