2015年1月11日日曜日

マハーラーシュトラのサント・カヴィ(詩聖)-バクティとジニャーナの美しき融合

◇「山の道(Mountain Path)」、1968年10月 p275~279

マラーティーの詩聖たち

S.R.シャルマ教授
シャルマ教授は、プーナのファーガソン大学の引退した歴史学の教授です。彼はマハーラーシュトラの歴史と神秘主義いずれもの解説者として広く知られています。歴史の他に、彼は『Focus on Tukaram from a Fresh Angle』、『Teachings of Jnanadeva and Wisdom Beyond Reason』を記しました。
  13世紀から17世紀にかけて、ジニャーンデーヴ(1275-'96)からトゥカーラーム(1608-'90)に至るまで、マハーラーシュトラには詩聖たちのきらびやかの集まりが存在しました。全体的に見て、それは国に大変活力あった時期であり、ムガル帝国からの独立のためのマラーター闘争とシヴァージーの下でのその最終的達成までに及びます。しかしながら、概して、詩聖たちはそのような事柄に関心を示しませんでした。

 彼らはあらゆる社会的階級から招かれた、強く、荒削りな、無遠慮な王朝でした。ジニャーンデーヴはバラモンでしたが、仕立屋のナームデーヴ、陶工のゴーラ、庭師のサヴァンタ、掃除人のチョーカー、商人のトゥカーラームもまたいました。彼らの中には女性もいました。ジニャーンデーヴの妹ムクタバーイ、ナームデーヴの使用人のジャニ、チョーカーの妻のソーヤラです。彼らの卓越した特質は、バクティとジニャーナの美しい融合です。彼らは崇拝し、彼らが崇拝する神との一体性へ溶け込みました。これはとりわけトゥカーラームに顕著です。例えば、彼は、「私がパンダーリの主に瞑想する時、心と共に体は変容する。その時、話す余地がどこあるのか。私の私なる性質は、ハリとなる。心は神聖な意識に溶け込み、全創造物は神聖に映る。トゥカは言う。『どうして私に言い表わせるのか。突如として、私は神の意識の中に失われる』」と言明しました。

 そしてまた、「バクタの栄光は、彼ら自身にのみ知られる。他の者にとって理解することは困難である。この世に愛の幸福を増すために、彼らは実際に分かつことなく、二元性を表に現わす。これは信仰を通じて合一を体験した者たちにのみ理解される」(と言明しました。)

 ジニャーンデーヴは、彼の妹のムクタバーイと彼の2人の兄弟と共に、彼ら4人全員が詩聖でしたが、不幸な幼少時代を過ごしました。彼らの父はサンニャーサに入った後で、結婚生活に戻りました。そして、そのために、正統派のバラモンたちは家族全員を追放しました。彼らは若くして親を失い、彼らの天賦の才は彼らがまだ10代のころに輝き出ました。彼らの中で最も偉大なジニャーンデーヴは、ジニャーネーシュワル、「知恵の主」として良く知られています。彼の偉大な作品、『ジニャーネーシュワリー』は、『バガヴァッド・ギーター』の不朽の詩節注釈書です。これとは別に、アバング、または、賛歌、そして、彼のアヌバヴァームリタ、または、「不死の体験」もまたあります。彼自身がこの不死を得た後、彼は言います。

 「解放された者、熱望する者、束縛された者の間の区別は、この不死の体験が人に知られない限りのみ存続する。楽しむ者と楽しまれるもの、見る者と見られるものは、分かつことのできない不二の中に溶け込んだ。信奉者は神となり、目的は神となり、目的は道となった。まさしくこれが、全世界の中での独居である。」

 この崇高な達成は、22歳までに完成されました。その時、彼は彼の生涯の務めは終えられたと言明し、煉瓦でふさぐように指示を与えた後、特別に用意された地下室の中でおごそかにサマーディに入りました。これはプーナ地方のアーランディ村にありました。神聖で、静穏な美しい雰囲気がそこにはあります。そこには一本の木があり、その下で『ジニャーネーシュワリー』の詠唱の終わることのないの鎖が現在まで続いています。ジニャーネーシュワルは、マハーラーシュトラにとって絶えることない啓示の泉のままいます。彼はこの驚くべき王朝の礎であったと同時に、帝王でした。

サント・ジニャーネーシュワル-「アジ・ソーニヤ・チャ・ディヌ」

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 次に現れたナームデーヴは、三人の兄弟をパラブラフマンの顕現として描き、彼らを輝ける太陽として語りました。彼自身が元来バクタであり、恍惚状態になりやすい人でした。若いころ、彼は泥棒で、人殺しでしたが、ある日、若い母親が彼女の父親のいない子供に、彼の父親が殺されたために貧しい中で生活しなければならないと説明するのをついに耳にし、彼は殺したのは私だと突然の恐怖と共に悟り、気持ちの著しい急変によって自ら命を絶とうと近くの寺院に駆け込みました。彼は止められましたが、彼は残りの人生を苦行と崇拝に捧げました。神聖な名の彼の恍惚とした称賛は、それへのマハルシの解説と共に、「Mountain Path」(1964年10月、pp. 236-7)に引用されています。彼はマラーティ語はもちろん、ヒンディー語でも記しました(北インドの大部分の言語がそうであるように、共にサンスクリット語由来の姉妹語)。そして、彼のヒンディー語の歌のいくつかが、創始者のグル・ナーナクが部分的に記し、部分的に編集したシーク教徒の聖典、『グラント・サヒーブ』に含まれていることに注目することは興味深くあります。

 彼はいまだ単純なヴィトーバーの姿をした神の信奉者でしたが、彼をより深い理解に目覚めさせたのは、ジニャーネーシュワルの妹、ムクタバーイでした。彼が彼女に会った時、彼女は彼を訓戒しました。

あなたが主の信奉者となったならどうなるでしょうか 
内なる避難所はあなたの理解を超えています: 
あなたは決して眼差しを神霊へと向けません! 
その時まで、あなたの神を敬う会話が何の役に立つでしょうか
あなたの自らをあなたは見つけてはいません:
私なる性質は、鉄のように固くあなたをつかんでいます
それでも、あなた自身の過ちを気に留めず、あなたは我々に我々の出自を尋ねます

 彼女はまた、彼のために記しました。

全ての形は永遠に、無形性によって行き渡られています
それは形を持ちませんが、マーヤに包まれ
信奉者たちは形を与えます、遍く行き渡る無限の内なるそれに

 神々しい集団の中の一人、掃除人のチョーカーもそのようであり、「神は形を持つのでも、形なくあるのでもない」と言明しました。

 もう一人、使用人の女の子、ジャナーバーイは、彼女が「神を食べ、神を飲み、神の上で眠り、神と共にすべての活動を行う」と感じました。

 ナームデーヴは1350年に亡くなりました。彼はそこに行く全ての信奉者がその聖なる足で彼を祝福するように、彼の灰がパンダルプールのヴィトーバー寺院の正面玄関の階段の下に埋められることを望みました。

サント・ナームデーヴ-「バクタジャナ・ヴァッサレ」

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 このきらびやかな集まりの中の次なる偉大な聖者は、エークナート(1533-'99)でした。彼はバクティとジニャーナは花と果実のようであり、分けて考えることはできないと説きました。彼はジニャーネーシュワル、ナームデーヴの伝統を続けました。『ジニャーネーシュワリー』の原文が損なわれたため、彼はそれを再編集し、彼の校訂版は今日まで受け入れられています。彼は学者でも詩人でもあり、『バーガヴァタ』の11章の彼の詩節解説は『ジニャーネーシュワリー』と同じく啓発的で、人気があります。(「バルダス」と呼ばれる民謡を含め)彼の豊かな内容の様々な作詩は、マラーティー文学をその比類なき特色で高めています。

 エークナートと同時代に、ゴアに住むオクスフォード出身のイングランド人イエズス会士、ステファン神父という人がいました。彼はマラーティー語で『クリスタ・プラーナ』を作り、それはエークナートの『バーガヴァタ』をはっきり彷彿とさせます。

 エークナートの純粋なアドヴァイタ的理解を明らかにする多くの言葉が存在します。彼は、「私の体はパンダーリであり、アートマはその中のヴィッターラである」と言います。そしてまた、「私が川で沐浴する時、水は液状の意識である!」(と言います)。

 彼は寛容と慈悲はもちろん、決して尽きることのない忍耐でも有名でした。彼は崇拝のための聖水を運んでいましたが、それをのどが渇いたロバに与えました。彼の祖先の記念日に、彼は不可触民を食事に呼び、バラモンのために用意された清められた料理を彼に与えました。

「カヤー・ヒ・パンダーリ、アートマ・ハ・ヴィッターラ」-サント・エークナート

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 この王朝の中の次なる偉大な人物、トゥカーラーム(1608-'50)の職業は無学な商人でしたが、ジニャーネーシュワル後のマラータの聖者たちの頂点に位(くらい)しています。女流詩人、バヒナーバーイは彼のことをジニャーネーシュワルがその基礎を敷いた建物の尖塔であると言いました。同時代の弟子、ラーメーシュワルは、「ジニャーナ、バクティ、ヴァイラーギャ(離欲)において、トゥカーラームに匹敵するものは誰もいなかった」と言明しました。今日でさえ、彼の歌は同時代の人々をそうしたように我々の感情を揺さぶります。

 秘密は、彼が深遠な理解と熱心な献身を伴って、歌の中で質朴な簡素さで、全く率直に自らを表していることにあります。彼は商いに何の興味も持てず、その結果、彼とその家族はしばしばひもじい思いをしました。彼の妻が口うるさくなったのも無理もありません。その地方のバラモンたちは、低いカーストに属しているため、彼は詩を作る権利がないと言明し、町を通って流れる川に詩を投げ入れるよう彼に命じました。素直に彼はそのようにしましたが、流れは傷つけることなく詩を岸に運びました。これに当惑して、彼の批判者たちは詩を捨てないでおくことを許しました。

 彼はいまだ体の内にいる間に、体の意識を超越しました。良く知られた詩の中で、彼は、「私は自らの目で私の肉体の死を目撃した。それはまさしく比類なく神聖なものであった!」と言明しました。(彼の模範のナームデーヴのように)彼はヴィッターラという神の一般的な信奉者として始まりましたが、超越的な体験を獲得しました。「私は神を見に行き、神へと姿を変えられ、そこに立った」と彼は言います。

 彼は人生の終わりに肉体的に消え去った珍しい聖者の一人です。お墓に入れる体がなかったため、彼には巡礼者がおもむく神殿はありません。かわりに、彼らは彼の詩が岸に運ばれた川べりの場所に行きます。そこには美しい雰囲気があります。

「アーナンダチ・ドーヒ・アーナンダ・タラング」-サント・トゥカーラーム

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 パンダルプール周辺に集中する、この聖者の集団とは別に、トゥカーラームと同時代の卓越したマラーティーの詩聖が他に二人いました。彼らの内の一人は、ムスリムのファキール、シェイク・ムハンマドであり、アフマドナガルにある彼のお墓はイスラム教徒にとってもヒンドゥー教徒にとっても同様に巡礼地になりました。もう一人はサマルタ・ラームダース、シヴァージーの力強い啓発者でした。彼の神殿はサタラ地方のサジャンガットにあります。

 シェイク・ムハンマドは、今日、主に彼の『ヨーガ‐サングラマ』、精神的闘争を「ヨーガの戦い」と描く、歌の中の長い寓話のために覚えられています。彼は、「私は洗練された話し方を知らない。教養あるパンディットは私の無骨な表現を笑うかもしれない。しかし、核心をのぞき込み、私の魂を理解せよ」と告白します。カビールのように、彼は宗教の基本的一致を理解していたので、「ラムとラヒーム、イーシュワラとアッラーは、全く同じものである」とカビールの如く述べたのかもしれません。彼は、外見や宗教が何であれ、全てのサードゥを同じものであり、絶対者に他ならないとみなしました。「ジャックフルーツの皮はざらざらし、棘だらけだが、中の果肉は甘い。ココナッツの殻は固く、ざらざらするが、中の乳と実は美味である」。彼はまた、「パラマートマと聖者の間に区別は存在しない。彼らは本質的に同一であるが、異なるように見える」と言いました。トゥカーラームはほとんど同じ言葉で、「全ての聖者は同じである。様々な色の牝牛からもたらされても、乳が全く同じであるのとまさしく同様に、彼らは外形のみにおいて異なって見える」と言いました。

 サマルタ・ラームダースもまた、同じことを言いました。「サードゥは異なって見えるが、自らに溶け込んだ。彼らは全て一なる現実の顕現である」。彼をパンダルプールの聖者の集団から区別したのは、彼らと異なり、彼は国民生活にもまた興味を持っていたことです。彼はシヴァージーのグルとなり、アウラングゼーブに対する自由闘争を鼓舞しました。彼の『ダース‐ボーダ』は類まれな価値を持つマラーティーの古典です。オーヴィー韻律で作られていますが、それは力強い散文の簡潔さと率直さを備えています。その実用主義には、最高の精神的価値観が染み込んでいます。それは日常生活の実用的な用語でヴェーダーンタを教え込みます。その啓発された行動基準は、全ての社会的階級にわたり、支配者と被支配者いずれにも当てはまります。

 ラームダースのメッセージと使命は、「マハーラーシュトラ・ダルマ」という意味深長な言葉に要約されました。彼の作品は、時代を通じてマハーラーシュトラに非常に特徴的である、現実主義と直観のかの混合を包含していました。実際、『ダース‐ボーダ』は、トゥカーラームのガーター、または、『歌の本』、そして、『ジニャーネーシュワリー』と共に、今日に至るまでマハーラーシュトラの「三ヴェーダ」とみなすことができます。それらは知性と感情の両方に訴えかけます。それらは詩節というよりもリズミカルな散文のように思われるかもしれない形で言い表わされています。しかし、それらは等しくサティヤム‐シヴァム‐スンダラム-「真理、純粋さ、美」が体現したものです。真理は体験されねばならず、これら(の人々)はそれを体験し、他者が体験すべく、それを指し示すことができました。

「マナーチェー・シュローカ」-サマルタ・ラームダース

(参考)・サント(聖者詩人)とパンダルプール巡礼http://el.minoh.osaka-u.ac.jp/flc/mar/lesson08/07.html

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