最初の疑問
信奉者:
あなたは、自らの探求によって自らを実現できると言います。この探求の特徴は何ですか。
マハルシ:
あなたは心です。もしくは、あなたは自分は心であると思っています。心とは思いに他なりません。さて、一切の特定の思いの背後に、「私」という一般的な思いがあり、それはあなた自身です。この「私」を最初の思いと呼ぶことにしましょう。それが何であるか見出すために、この「私という思い」に張り付き、それを問いなさい。この問いがあなたを強く捉える時、あなたは他の思いを考えられません。
信奉者:
私がそのようにして、私自身、つまり、「私という思い」につかまる時、他の思いが行ったり来たりし、私は自分自身に「私は誰か」問いかけますが、答えはやってきません。このような状況にいることはサーダナでしょうか。
マハルシ:
これは人々がよくする間違いです。あなたが自らの真剣な探求をする時に起こることは、「私という思い」が一つの思いとして消え、深みから他の何かがあなたをつかみます。そして、それは探求を開始した「私」ではありません。
信奉者:
その他の何かとは何ですか。
マハルシ:
それは現実の自ら、私の真意です。それは自我ではありません。それは至高の存在そのものです。
思いの排除
信奉者:
しかし、探求を始める時、他の思いを排除しなければならないとあなたはよく言っていますが、思いには終わりがありません。一つの思いを排除するなら、他のものがやって来て、まったく終わりがないように思えます。
マハルシ:
私はあなたが思いを排除し続けなければならないとは言っていません。あなたがあなた自身に、そう、「私という思い」につかまり、そして、あなたの関心がそのただ一つの考え(概念)にあなたを留まらせる時、他の思いは排除され、自動的に消えます。
信奉者:
それでは、思いの排除は必要ではないでしょうか。
マハルシ:
ええ。それは、一時的に、もしくは、しばらくの間、必要かもしれません。思いが生じる時に、一切の思いを排除し続けるならば終わりがないとあなたは想像しています。いいえ。終わりはあります。あなたが油断せず、思いが起こる時に、一切の思いを排除する厳しい努力をするならば、あなた自身の内なる自らに深く深く入りつつあることにすぐに気づきます。そこでは、思いを排除するあなたの努力は不要です。
信奉者:
それでは、努力なく、緊張なくいることが可能です!
マハルシ:
それだけでなく、ある程度を超えて、あなたが努力をすることは不可能なのです。
信奉者:
私はさらに教え導かれたいのです。私はまったく努力すべきでないのでしょうか。
マハルシ:
今、あなたが努力なくいることは不可能です。あなたがより深くに進む時、あなたにとって努力することは不可能です。
ヴィチャーラと恩寵
信奉者:
では、私は外側の助けなしで済ますことができ、自分自身の努力でより深みにある真理に独力で入ることができます。
マハルシ:
そうです。しかし、あなたが自らの探求に捉えられているというその事実こそが、神聖な恩寵(アルル(*1))の顕れです。それはハート、内なる存在、現実の自ら(*2)の中で燦然と輝いています。それは、あなたを内側から引き込みます。あなたは外側から入ろうと試みなければなりません。あなたの試みがヴィチャーラ(熱心な探求)であり、深い内なる動きが恩寵(アルル)です。それゆえに、恩寵がなければ真のヴィチャーラはなく、ヴィチャーラのない人には現に働いている恩寵はないと私は言います。両方ともが必要です。
(*1)アルル・・・タミル語。அருள்(Arul)。「神の恩寵、恵み」。
(*2)現実の自ら・・・「the Real Self」、本当の自分。
サッドグル
信奉者:
サッドグルの恩寵がなければ人は自らに達することができないとあなたはどこかで述べました。正確には、それはどういう意味ですか。グルとは何ですか。
マハルシ:
知の道の観点からは、自らという至高の境地がサッドグルです。それは、あなたが自分自身と呼ぶ、自我である自分とは異なります。
信奉者:
では、それが私自身の至高の境地であるなら、サッドグルの恩寵がなければ、それに達することができないということをどういう意味において述べたのですか。
マハルシ:
自我である自分は、ジーヴァです。それは一切の主(サルヴェーシュワラ)と異なります。私心のない献身を通じ、ジーヴァは主に近づき、主は恵み深くも名と形を帯び、ジーヴァを彼自身に取り込みます.... それゆえ、グルは主以外の何者でもないと言われています。彼は神の恩寵が人間として具現化したもの(化身)であるとギーターは言います。真のグルは神自身です。誰がこれを疑えますか。
信奉者:
しかし、人間のグルを一人も持たなかったように思える人もいくらかいます。
マハルシ:
そうです。さる偉大な方々の場合は、神が彼らの光の中の光として内側から彼自身を表します。
信奉者:
では、真の献身(バクティ)とは何ですか。
マハルシ:
私が行う、もしくは、私自身が行っていると私が思うことは何であれ、本当は、主の行いである。本当は、何ものも私のものではない。私はここに主への奉仕のためにいる。この奉仕の精神(アルル・ウルヴァム)が、実際、至高の献身であり、真の信奉者は至高の存在を万物に内在する主とみなします。名と形による崇拝は、全ての名と形の向こうへ人を導きます。完全な献身は、終には、至高の知になります。
はじめバクティが世俗的な望みによって動機づけられてさえいても、望みが叶えられた時にバクティは止みません。それは揺らぐことのない信仰によって増大し、完全に成長し、実現という至高の境地になります。
信奉者:
では、ジニャーナの道とは何ですか。
マハルシ:
自我がはぎ取られる時、人は自然に至高なる自らの自覚に自分自身を打ち立てます。
信奉者:
バクティとジニャーナが、どうして共に同じ目的に通じると言えるのですか。
マハルシ:
どうして言えませんか。両方の道が、一切の理解を超える至高なる安らぎの境地(モウナム)にあなたを導きます。
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