マハルシの福音
第1巻 第1章 仕事と放棄
信奉者:
人にとって霊的体験の最高の目標とは何ですか。
マハルシ:
自らの実現です。
信奉者:
結婚している人は自らを実現できますか。
マハルシ:
もちろんです。結婚していても結婚していなくても、人は自らを実現できます。なぜなら、それは今ここにあるからです。仮にそうでなく、何らかの努力によってある時に得られるなら、そして、仮にそれが新たなもので、獲得されなければならないなら、それは追求に値しないでしょう。なぜなら、自然でないものは永遠でもないからです。しかし、私が言うことは、自らは今ここに、ただ一人いるということです。
信奉者:
大海に沈みゆく塩で出来た人形は、防水膜によって守られないでしょう。私たちがその中で明けても暮れても苦労して働かなければならない、この世界は、大海のようです。
マハルシ:
ええ、心がその防水膜です。
信奉者:
それでは、人は仕事に従事しながらも、欲望なく、独居を続けることがあるのですか。しかし、人生の義務は、瞑想して座るための、祈るための時間さえほとんど与えません。
マハルシ:
ええ。愛着を持って行われる仕事は束縛ですが、愛着なく行われる仕事は行為者に影響しません。彼は、働いている間さえ、独居にいます。あなたの義務に従事することが、真のナマスカール(*1)です.....そして、神の内に住まうことが、唯一の真のアーサナ(*2)です。
信奉者:
私は家を放棄すべきではないのでしょうか。
マハルシ:
仮にそれがあなたの運命であったのなら、その質問は起こらなかったでしょう。
信奉者:
では、どうしてあなたは青年時代に家を出たのですか。
マハルシ:
神の摂理(*3)以外、何も起こりません。今世での人の行為の過程は、人のプラーラブダ(*4)によって決定されます。
信奉者:
私の全ての時間を自らの探求に捧げるのは良いことですか。それが不可能ならば、私はただ黙ってさえいればいいのでしょうか。
マハルシ:
他のどのような追求にも従事することなく、あなたが黙っていられるなら、それはとても良いことです。それが行えないなら、実現に関する限り、黙っていることが何の役に立ちますか。人が活動的であることを余儀なくされる限り、彼に自らを実現する試みを放棄させないようにしましょう。
信奉者:
人の行為は、後の誕生において人に影響を与えませんか。
マハルシ:
あなたは今、生まれるのですか。どうして他の誕生について考えるのですか。実のところ、誕生もなく死もありません。生まれる者に死とそれの緩和策について考えさせましょう!
信奉者:
あなたは私たちに死者を見せられますか。
マハルシ:
あなたは親類の死後に彼らを知ろうと努めますが、あなたは彼らの誕生の前に彼らを知っていましたか。
信奉者:
モークシャ(*5)の体系において、どのようにグリハスタ(*6)は暮らしてゆくのでしょうか。彼は解放を得るために必ずしも乞食者にならなくてもいいのでしょうか。
マハルシ:
どうして自分はグリハスタであるとあなたは思うのですか。サンニャーシン(*7)として出てゆくとしても、自分はサンニャーシンであるという同様の思いがあなたに付きまとうでしょう。家庭に居続けても、それを放棄して森に行っても、あなたの心はあなたに付きまといます。自我が思いの源です。それは体と世界を創造し、あなたにグリハスタであると思わせます。あなたが放棄するなら、グリハスタという思いがサンニャーサ(*8)のそれに、家庭という環境が森のそれにとって代わるだけでしょう。しかし、心の障害物はあなたにとっていつもそこにあります。それは新しい環境で大いに増しさえします。環境を変えても仕方ありません。唯一の障害は心であり、家であっても森であっても、それが乗り越えられなければなりません。あなたが森でそれを行えるなら、どうして家でできないのですか。ですから、どうして環境を変えるのですか。あなたの努力は今でも、どのような環境でも、行えます。
信奉者:
世俗的な仕事で忙しくしながら、サマーディ(*9)を享受することは可能ですか。
マハルシ:
「私は働く」という感覚が妨害物です。「誰が働くのか」あなた自身に尋ねなさい。あなたは誰か思い出しなさい。その時、仕事はあなたを束縛しないでしょう。それは自動的に進んでゆくでしょう。働こうとも放棄しようとも努力しないように。あなたの努力は束縛です。起こるように定められていることは起こるでしょう。あなたが働かないように定められているなら、あなたがそれを探し回っても仕事は得られないでしょう。あなたが働くように定められているなら、あなたはそれを避けることはできないでしょう。あなたはそれに従事するように強いられるでしょう。ですから、高き力(*10)に任せなさい。あなたは好きなように放棄することも保持することもできません。
信奉者:
昨日、バガヴァーンは、人が「内で」神の探求に従事している間に、「外の」仕事は自動的に進んで行くでしょうと言いました。シュリー・チャイタンヤ(*11)の人生で、生徒への彼の講義の間、彼は本当は内でクリシュナ(自ら)を探し求めていて、彼の体についてすっかり忘れ、クリシュナのみと話し続けていたと言われています。このことから、仕事を安全に放っておけるのかという疑問が生じます。人は身体の働きに部分的な注意を留めておくべきではないでしょうか。
マハルシ:
自らは全てです。あなたは自らと離れていますか。あるいは、仕事は自らなしで進んで行けますか。自らは広大無辺です。ですから、全ての行動は、あなたが懸命にそれに従事してもしなくても、進んで行くでしょう。仕事はひとりでに進んで行くでしょう。それゆえに、クリシュナはアルジュナにわざわざカウラヴァ達を殺す必要はないと言ったのです。彼らはすでに神によって滅ぼされていました。彼の手中にあったのは、働こうと決意し、それについて気をもむことでなく、彼自身の本質に高き力の意思を遂行するのを許すことでした。
信奉者:
しかし、私が注意を払わなければ、仕事は駄目になるかもしれません。
マハルシ:
自らに注意を払うことが、仕事に注意を払うことを意味します。あなたはあなた自身を体と同一視しているので、あなたによって仕事が行われると考えています。しかし、仕事を含め、体とその活動は、自らと離れていません。あなたが仕事に注意を払っても払わなくても、どうだっていいじゃありませんか。仮にあなたがある場所から別の場所に歩いて行くとしましょう。あなたはその歩みに注意を払いません。それでも、しばらくして気がつくと、あなたは目的地についています。あなたが注意を払わずに、どのように歩くという業務が進んで行くか分かりますね。他の類の仕事も同じです。
信奉者:
それではまるで眠りながら歩くようです。
マハルシ:
まるで、夢遊病?まさしくそうです。子供がぐっすり眠っている時に、母親が彼に食事を与えます。子供ははっきり目が覚めているときと同じ様に、食事をとります。しかし、翌朝、彼は母親に、「お母さん、昨日の夜、僕ごはん食べてないよ」と言います。母親たちは彼が食べたことを知っていますが、彼は食べなかったと言います。彼は気づいていませんでした。それでも、行動は進んで行きました。
荷車の中の旅人が眠りに落ちました。旅の間、雄牛は移動するか、じっと立つか、頸木(くびき)を外されています。彼はそれらの出来事を知りませんが、目覚めた後に自分が別の場所にいることに気づきます。彼は幸福にも途中の出来事を知らないでいましたが、旅は終えられました。人の自らも同様です。常に目覚めている自らは、荷車の中で眠る旅人に例えられます。目覚めている状態は、雄牛の移動です。サマーディは、雄牛がじっと立つことです(なぜなら、サマーディはジャーグラット・スシュプティ(*12)を意味します。つまり、人は気づいていますが、行動に関係していません。雄牛は頸木をかけられていますが、動きません)。眠りは雄牛の頸木を外すことです。なぜなら、頸木を外した雄牛の安堵に対応する活動の完全な停止があります。
あるいはまた、映画を例にとりましょう。映画のショーでは、場面がスクリーンに投影されます。しかし、動く映像はスクリーンに影響を与えたり、変えたりしません。観客は、スクリーンではなく、映像に注意を払います。映像はスクリーンから離れて存在できませんが、スクリーンは無視されます。そのようにまた、自らもスクリーンであり、そこで映像、活動などが進んで行くのが見られます。人は後者に気づいていますが、不可欠の前者に気づいていません。まったく同様に、映像からなる世界は、自らと離れていません。彼がスクリーンに気づいていても気づいていなくても、行為は継続するでしょう。
信奉者:
しかし、映画には操作者がいます!
マハルシ:
映画のショーは感覚のない器具から作られています。ランプ、映像、スクリーンなど、全ては感覚がないので、それらは操作者、感覚ある行為の主体者を必要とします。他方、自らは絶対的な意識であり、そのため自己充足しています(他の助けを必要としません)。自らと離れて操作者がいるはずはありません。
信奉者:
私は体を操作者と混同しているのではありません。むしろ、私はギーターの第18章・61詩節のクリシュナの言葉に言及しているのです。
主は、おぉ、アルジュナよ、あらゆる存在のハート(中心)に住する
彼は、その惑わす力により、まるで機械の上に置かれたように全存在を回転させる
操作者の必要性を求める体の機能が考慮されています。体はジャーダ、すなわち、感覚がないため、感覚がある操作者が必要です。人々が自分たちをジーヴァ(*13)であると思うので、クリシュナは神がジーヴァの操作者としてハートに住むと言いました。実のところ、ジーヴァはおらず、いわば、ジーヴァの外側に、操作者はいません。自らは全てを含んでいます。それはスクリーン、映像、見る人、俳優、操作者、光、劇場、その他の全てです。あなたが自らを体と混同すること、そして、あなた自身を行為者(actor)と想像することは、見る人が彼自身を映画のショーの俳優(actor)だと思い描くようなものです。その俳優がスクリーンなしで場面を演じられるかどうか尋ねていると想像してみなさい!自らと離れてその行動について思う人でも事情は同じです。
信奉者:
逆に、それは観客に映画の映像の中で演技するように頼むようなものです。では、私たちは「眠って目覚めていること」を習わなければなりません!
マハルシ:
行動や状態は、人の視点に従います。カラスや象や蛇は、1本の手足を2つの目的のためにかわるがわる利用します。1つの目で、カラスは両側を見ます(*14)。象にとって、鼻(全体)(trunk)は手と(においをかぐ)鼻(nose)の両方の目的に役立ち、蛇はその目で見も、聴きもします。あなたがカラスが1つの目、もしくは、両目を持っていると言っても、象の鼻(trunk)を「手」、もしくは、「鼻(nose)」と言っても、蛇の目を耳と呼んでも、それは全く同じものを意味します。ジニャーニ(*15)の場合も同様で、「眠って目覚めていること」、「目覚めている眠り」、「夢を見ている眠り」、「夢を見ながら目覚めている状態」は、ほとんど全く同じことを意味します。
信奉者:
しかし、我々は物質的な目覚めている世界の中で、肉体を扱わなければなりません!仕事が進んでゆく間に眠るか、もしくは、眠っている間に仕事をしようと試みるなら、仕事は駄目になるでしょう。
マハルシ:
眠りは無知ではありません。それは人の純粋な状態です。目覚めている状態は知識ではありません。それは無知です。眠っているときに完全な自覚があり、目覚めているときに全くの無知があります。あなたの本性は、両方に及んでいて、それを超えて広がっています。自らは、知識と無知の両方を超えています。眠りと夢と目覚めの状態とは、自らの前を通過する様態でしかありません。あなたがそれらに気づいていてもいなくても、それらは進みます。それがジニャーニの状態であり、乗客が眠っている間に、牛が移動するか、立っているか、頸木を外されているように、彼の中でサマーディ、目覚め、夢、深い眠りの状態が通過します。これらの答えはアジニャーニ(*16)の観点からのものです。そうでなければ、そのような質問は起こらないでしょう。
信奉者:
もちろん、質問が自らにとって生じることはありません。尋ねるべき誰がいるでしょうか。ですが、不運なことに、私はまだ自らを実現していないのです!
マハルシ:
まさにそれがあなたの行く手の障害物です。あなたは自分がアジニャーニであり、いまだ自らを実現していないという考えを取り除かなければなりません。あなたは自らです。あなたがかの自らに気づいていなかった時がかつてありましたか。
信奉者:
それでは、我々は「眠って目覚めていること」を試してみなければいけません.....もしくは、白昼夢をでしょうか。
マハルシ:
(笑う)
信奉者:
私は、サマーディに没入した人の肉体は、自らの不断の「観想」の結果として、その理由のために動かなくなることがあると主張します。それは活動的か、不活発なことがあります。そのような「観想」に打ち立てられた心は、体や五感の動きによって影響されないでしょう。心の動揺もまた、肉体の活動の前兆ではありません。しかしながら、別の人は肉体の活動がサマーディ、不断の「観想」を確実に妨げると断言します。バガヴァーンの意見はどうでしょうか。あなたは私の主張の変わることのない証明なのです。
マハルシ:
あなたたち2人とも正しいのです。あなたはサハジャ・ニルヴィカルパ・サマーディ(*17)について言及し、他の人はケーヴァラ・ニルヴィカルパ・サマーディ(*18)について言及しています。後者の場合は、心は自らの光の中に浸っています(それに対して、深い眠りでは、心は無知の暗闇の中にあります)。そして、サマーディから目覚めた後、主体はサマーディと活動を区別をします。さらに、体の、視覚の、生命力の、心の活動、そして、対象物の認識、これら全てはケーヴァラ・ニルヴィカルパ・サマーディを実現しようと努める人にとって障害物です。
サハジャ・サマーディでは、しかしながら、心は自らに溶け込んでいて、失われています。上で述べられた相違と障害は、そのため、ここには存在しません。そのような人の活動は、眠たげな男の子に食事を与えるように、見る者には知覚できますが、主体には(知覚)できません。動く荷車の中で眠る旅人は、その心が暗闇に沈んでいるため、荷車の動きに気づきません。それに対して、サハジャ・ジニャーニは、その心が、チダーナンダ(自らの至福)の恍惚に溶け込んだため、死んでいるので、身体的活動に気づかないままです。
自らを実現した賢者の心は、完全に破壊されています。それは死んでいます。しかし、見る者には、彼は普通の人のように心を所有しているように見えるかもしれません。それゆえ、賢者の中の「私」は見せかけの「客観的現実性」を持つに過ぎません。しかしながら、実際、それは主観的実在性も持たず、客観的現実性も持ちません。
眠り | ケーヴァラ・ニルヴィカルパ ・サマーディ |
サハジャ・ニルヴィカルパ ・サマーディ |
---|---|---|
1) 心は生きている | 1) 心は生きている | 1) 心は死んでいる |
2) 無意識の中に沈んでいる | 2) 光の中に沈んでいる | 2) 自らの中に溶け込んでいる |
3) 縄に結ばれ、井戸水の中に 置かれているつるべのよう |
3) 海に注がれ、川としての性 質を失った川のよう |
|
4) 縄のもう一方の端によって 引き上げられる |
4) 川が海から流れ出ることは ありえない |
(*1)ナマスカール・・・お辞儀する(敬意を表す)行為
(*2)アーサナ・・・瞑想のためにとられる姿勢
(*3)神の摂理・・・「Divine dispensation」の訳。 摂理は、「神あるいは神的存在の被造物に対する計画・導き」を意味するようです。
(*4)プラーラブダ・・・運命、現在の人生において経験されるように割り当てられた過去の行為の結果の一部。
(*5)モークシャ・・・解放
(*6)グリハスタ・・・家庭を持つ人、結婚生活する人
(*7)サンニャーシン・・・放棄した人、出家者
(*8)サンニャーサ・・・放棄
(*9)サマーディ・・・自らへ吸収された状態。シュリー・バガヴァーンの定義によると、その中には「私は在る」という実感のみあり、思いは何もない」。
(*10)高き力・・・「the higher power」の訳。Wiktionaryによると「神や、超自然的な力」を指すようです。
(*11)シュリー・チャイタンヤ・・・「チャイタンヤ・マハープラブ」。ヴァイシュナバ(ヴィシュヌ派)の16世紀の聖者。
(*12)ジャーグラット・スシュプティ・・・目覚めた眠りの状態。思いは何もないが、「私は在る」という実存かつ意識の完全な自覚がある。
(*13)ジーヴァ・・・個々の人々
(*14)南インドには、カラスが一つの目で両方を見ているという話があるようです。
(*15)ジニャーニ・・・「自らの知」を実現した人
(*16)アジニャーニ・・・自分の本質について無知な人
(*17)サハジャ・ニルヴィカルパ・サマーディ・・・サマーディ、もしくは、完全に自らへ吸収された永続的で、自然な状態。
(*18)ケーヴァラ・ニルヴィカルパ・サマーディ・・・・サマーディ、もしくは、自らへ吸収された一時的な状態。
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