1945年12月29日 夜
P.C.デーサーイー氏が、P.C.デワンジ氏(引退した副裁判官)を紹介しました。彼はトリヴァンドラムから戻る途中で、哲学会議の一部門を主催していました。
P.C.デワンジ氏:
心の一点集中を達成するための最も容易な道とは何でしょうか。
バガヴァーン:
最良の方法は、心の源を見ることです。心というようなものが存在するのか確かめなさい。心が存在する場合にのみ、それを一点に集中させるという問題が生じます。あなたが内に向くことによって探求する時、心というようなものは存在しないと気づきます。
そこで、P.C.デーサーイー氏はバガヴァーンのサンスクリット語の「ウパデーシャ・サーラ」を引用しました。その趣旨は、「心の性質を継続的に、もしくは、途切れなく探求する時、心というようなものは存在しないと気づく。これが全ての人にとって真っ直ぐな道である」でした。
P.C.デワンジ氏:
我々の聖典では、神が全てを創造し、維持し、破壊する、そして彼は全てに内在すると言われています。そうであるなら、そして神が全てを行うなら、そして我々が行うこと全てが神のニヤティ(おきて、法)に従い、広大無辺な意識によってすでに計画されているならば、個々の性格やそれに対する責任はあるのでしょうか。
バガヴァーン:
もちろん、あります。同じ聖典が、人がなすべきこと、なさざるべきことに関する規則を定めています。もし人に責任がないならば、どうしてそのような規則が定められなければならないのですか。
あなたは神のニヤティとそれに従って起こる物事について話します。あなたが神に、「この創造などの全てがどうしてあるのでしょうか」と尋ねるならば、彼は「それはあなたのカルマによります」と更にあなたに言うでしょう。
あなたが神と全てのものに働いている彼のニヤティを信じているならば、あなた自身を彼に完全に委ねなさい。そうすれば、あなたの責任はなくなります。そうでなければ、あなたの本質を見つけだし、それにより自由を達成しなさい。
1946年8月21日
ベンガルからの訪問者:
シャンカラは我々みなが自由であり、束縛されておらず、そして我々みなが火炎から火花が出るように我々がそこからでた神のもとへ帰ることになっていると言います。では、どうして我々はあらゆる類の罪を犯すべきでないのでしょうか。
バガヴァーン:
我々が束縛されていないこと、つまり、真の自らに束縛がないということは真実です。あなたが最終的にあなたの源へ帰ることも真実です。しかし、それまでは、あなたが言うところの罪を犯すならば、あなたはそのような罪の結果に向きあわねばなりません。あなたはその結果から逃れられません。もし人があなたを叩くなら、その時、「私は自由だ。私はこれらの殴打によって束縛されていないし、何の痛みも感じない。彼にどんどん叩かせよう」と言えますか。あなたがそのように感じられるならば、好きなことをし続けても良いでしょう。単に口先で「私は自由だ」と言うことが、何の役に立つのですか。
訪問者:
書籍では、自らの実現のための様々な方法が言及されています。どれが最も簡単で、最も良いのでしょうか。
バガヴァーン:
様々な方法は、様々な心に適するために言及されています。それらは全て良いのです。あなたが最も気に入るどんな方法でも選べます。
◇『シュリー・ラマナ・マハルシとの対話(Talks with Sri Ramana Maharshi)』
Talk 426. 1937年5月12日 (p409、抜粋)
信奉者:
人間は自由意志を持っているのでしょうか、それとも人生の全てのことはあらかじめ運命づけられているのでしょうか。
マハルシ:
自由意思は、個人性と連携して陣地を保持しています。個人性が存続する限りは、自由意志も存在します。全てのシャーストラ(聖典)はこの事実に基づいており、シャーストラはその自由意志を正しい方向に向けるように勧めています。
自由意思、もしくは、運命が誰にとって問題であるのか見出しなさい。それに留まりなさい。その時、それら二つは超越されます。それが、それらの問題を議論する唯一の目的です。それらの問題が誰に起こったのですか。見つけ出し、安らかにありなさい。
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