ラベル マーヤー の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル マーヤー の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2014年4月12日土曜日

「マーヤーに関する五詩節(マーヤー・パンチャカム、Maya Panchakam)」

◇「山の道(Mountain Path)」、1974年4月 p75

マーヤーに関する五詩節

シャンカラーチャーリヤ

1.
私は無比なる、永遠の、部分を持たない完全な、まるで概念のない純粋な自覚であるにもかかわらず、世界、神、生命(ジーヴァ)のような概念が私の中に生じる。これは不可能を成し遂げるのに極めて巧みなマーヤーの仕業である。

Although I am the Pure Awareness which is unparalleled, eternal, whole without parts and entirely conceptless, notions like the world, God and the soul (jiva) arise in me. This is the work of Maya who is extremely clever in accomplishing the impossible.

2.
マーヤーは不可能を成し遂げるのに極めて巧みであり、何百ものヴェーダおよびヴェーダーンタの著作を綿密に学んだ人々さえも混乱させる。彼女(マーヤー)は彼らに富やその他のものを渇望させ、動物のように振る舞わせる。何という不可思議!

Maya, who is extremely clever in accomplishing the impossible, distracts even those who have closely studied hundreds of Vedic and Vedantic works. She makes them hanker for riches and other things and behave like animals. What a wonder !

3.
マーヤーは不可能を成し遂げるのに極めて巧みであり、不ニであり、途切れのない意識かつ至福に虚空、火、太陽のような(要素)からなる(世界)を付属させ、サンサーラの大海の中でそれを乱暴に揺さぶる。

Maya, who is extremely clever in accomplishing the impossible, attaches what is non-dual, unbroken Consciousness and Bliss to (the world) composed of (elements) like ether, fire and sun and tosses it about violently in the ocean of samsara.

4.
マーヤーは不可能を成し遂げるのに極めて巧みであり、カースト、(肌の)色、属性のような区別がまるでない純粋な自覚かつ至福なるものの中に妻、息子、家という迷妄のみならず、「私」という概念やバラモン、ヴァイシャなどの概念を生み出す。

Maya, who is extremely clever in accomplishing the impossible, gives rise to the notion of  ' I ' and notions of brahmin, vaisya, and so on as well as the delusion of wife, son and house in what is pure Awareness and Bliss entirely free from distinctions like caste, colour and attributes.

5.
至高なる存在(神)は部分を持たず、ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァのような一切の区別を免れているにもかかわらず、賢者でさえ惑わされ、ヴィシュヌ、シヴァなどのような相違があると思い込む。これは不可能を成し遂げるのにたいへん巧みなマーヤーの仕業である。

Although the Supreme Being has no parts and is free from all distinctions like Brahma, Vishnu and Siva, even the wise are deluded into thinking that there are differences like Vishnu, Siva and so on. This is the work of Maya who is very clever at accomplishing the impossible.

2014年3月1日土曜日

バガヴァーンの言葉 - 1918年、C.V.スブラマニア・アイヤルの記録

◇「山の道(Mountain Path)」、1979年7月 p157~158

 バガヴァーンの言葉


 1918年6月、チットゥール県のC.V.スブラマニア・アイヤルにより記録されました。
  1. 心を内に向け、あなた自身の自らに安らいなさい。
  2. 心が束縛の原因です。
  3. 一つまた一つと放棄し、安らぎに留まりなさい。
  4. 我々が得るものを我々は失います。それゆえに、欲するなかれ。
  5. 二種類の瞑想があります。一つは進んだサーダカによって修練されるニルグナ・ディヤーナであり、彼は瞑想する者自身を知ろうと努めます。もう一種類は、それより進んでいない人々により修練されるサグナ・ディヤーナであり、いくぶん回り道です。そこでは、瞑想者、瞑想、瞑想の対象が究極的には一つに溶け込みます。
  6. 「私は決して生まれていなかった」と知るようになる時、私は決して死にません。死は生まれる者にとってあります。私は決して生まれませんでした。私は体を持たず、それゆえ、私は決して死にません。私はあらゆる所にいます。私がどこに行くことができ、どこに来ることができますか。
  7. 心が死んでいる時、彼は再び死にません。
  8. ジャグラート(目覚め)においてスシュプティ(眠り)を得なさい。そうすれば、あなたはジニャーニとなります。
  9. 心を内に向け、見る者を探しなさい。そうすれば、あなたはあなたが見る者であり、対象的世界は存在しないということを見出します。
  10. 心はそれ自身を主体と対象-見る者と見られるもの-に分けました。それゆえ、名と形からなる外側の世界は独立して存在しません。
  11. ジーヴァは、心に映ったブラフマンの影です。
  12. 人は前世において多くのカルマを行ったかもしれません。その中の少しだけ、今世のために選ばれ、彼は今世においてその結果を享受しなければなりません。それは幻灯機による興行のようであり、興行師は上映で披露されるスライドを少しだけ選び、残りのスライドは他の上映のためにとっておかれます。しかし、自らの知を得ることにより、カルマを滅ぼすことは可能です。カルマは過去の経験の結果であり、様々なカルマはスライドです。そして、心が投影機です。カルマは破壊されねばならず、そうすれば、映像もなく、サンサーラもありません。
  13. 私は心の支配者です。私は心ではありません。たいていの人々は心を自らとみなし、彼ら自身に苦しみをもたらします。
  14. グルは人にとって必要です。彼は実現への道の導き手として役立ちます。しかし、導くグルなくして真理を知った人々もいます。そのような人々は過去の転生において学んだに違いありません。一言か、二言で実現の道に向けるのに十分な人々もいれば、一方、どのような進歩をしうる前に何年も努力して進まなければならない人々もいます。
  15. ディヤーナは真理の実現のために必要です。全ての人が目的に達するために敷かれた道-ヨーガ、バクティ、ジニャーナ-の中で、彼らに合うものを選ばねばなりません。ヴィチャーラもまたヨーガであり、単なる書籍の学習ではありません。
  16. ジーヴァが彼自身をパラブラフマンとして知り、安らぎに留まる時、それが至高の沈黙(モウナム)です。
  17. 自らは不変です。全ての変化は心の変化です。アヴィドヤー(無知)を通じ、心の変化がアートマンに帰せられます。
  18. 砂糖でできたお菓子を見てみなさい。ナスの形のものもあれば、マンタパムや馬のように形作られているのもありますが、それら全ては一つの材料、砂糖からできています。同じように、この世界の対象物は様子や大きさ、または名や形は様々ですが、全てはブラフマン以外の何ものでもありません。
  19. アーシュラマ(グリハスタやブラフマチャーリヤのような人生の段階)は肉体に関連してのみ存在します。アートマンにはアーシュラマはありません。
  20. 「どうして人は幻の支配下にいなければならないのですか」という質問にバガヴァーンは、「幻を持つのは誰か探求しなさい。そうすれば、あなたは幻が存在しないことを見出します」と答えました。
  21. あなたは恐怖を持つべきではありません。なぜなら、アートマンはあらゆる所にあり、あなたはアートマンだからです。分離の感覚がある時に、恐怖が生じます。
  22. アドヴァイタ哲学のみが全ての試験に首尾よく耐えられます。他の学派は、それら自身の理論に合わせるためにヴェーダの聖句を無理に曲げています。
  23. 人は超常的な力を望みますが、彼らが得るものを彼らはいつの日か失わなければなりません。その力を求めることは、あなたがその力を得ようと試みる力よりも、あなたが劣っていることを暗示します。心の全ての働きは、あなたを束縛の状態に留めようとします。それゆえ、欲望を放棄し、何ものにも依存しないように。なぜなら、あなた自身が力と至福の貯蔵庫であるからです。他の一切のものを放棄し、あなたの心を安らぎに留めなさい。

2013年12月5日木曜日

マーヤーの五つの名、世界(波)とアートマ・スワルーパ(海)

◇『シュリー・ラマナーシュラマムからの手紙(Letters from Sri Ramanasramam)』

1947年5月21日
(119)ニディディヤーサナ 

 昨日の朝8時、Arya Vignana Sanghaで働き、バガヴァーンの弟子の一人であるサイード博士が、バガヴァーンのダルシャンのためにやって来て、「バガヴァーンは全世界がアートマ(自ら)というスワルーパ(*1)であると言います。もしそうなら、我々はどうしてこの世界にとても多くの問題を見出すのですか」と尋ねました。喜びを表す顔つきで、バガヴァーンは答えました。

バガヴァーン:
 それはマーヤーと呼ばれています。『ヴェーダーンタ・チンターマニ』で、マーヤーは五つの方法で描かれています。ニジャグナ・ヨーギ(*2)という名の人が、カナラ語でその本を書きました。その中でヴェーダーンタがとても適切に扱われており、ヴェーダーンタの学術用語の権威であると言えます。タミル語の翻訳があります。

 マーヤーの五つの名は、タマス、マーヤー、モーハ、アヴィドヤー、アニティヤです。タマスは、生命についての知識を隠すものです。マーヤーは、世界の形である一者(神)を世界と異なるように見せることに責任があります。モーハは、異なるものを現実にみせるものです-スクティ・ラジャタ・ヴァバティ(*3)、真珠母貝が銀でできているという幻を作りだすこと。アヴィドヤーは、ヴィドヤー(知)を台無しにするものです。アニティヤは、一時的なもの、永遠であり、現実であるものと異なるものです。 

 これらの五つのマーヤーのため、スクリーン上の映画の映像のように、問題がアートマの中に現れます。そのマーヤーを取り除くためだけに、全世界がミティヤ(*4)であると言われています。アートマンはスクリーンのようです。あなたが映される映像がスクリーンに依存していて、別なように存在していないということを知るようになるのとまさしく同様に、目に映る世界がアートマと異ならないということを自らの探求によって知ることができるまで、世界はまったくのミティヤ(*5)であると言わざるを得ません。しかし、いったん現実が知られるなら、全世界はアートマのみとして現れます。それゆえ、世界が非現実であると言ったまさにその人々が、続いてそれがアートマ・スワルーパのみであると言ったのです。結局のところ、重要なのは見かたです。見かたが変われば、世界の問題は我々を悩ませません。波は大海と異なりますか。いったいどうして波が起こるのか。尋ねられるなら、どのような答えができますか。波は行き来します。それらがアートマと異ならないということが見出されるなら、この悩みは存在しません。

 その信奉者は悲しげな口調で、「いくらバガヴァーンが我々に教えても、我々は理解できません」と言いました。

バガヴァーン:
 人々は遍く行き渡るアートマを知ることができないと言います。私に何ができますか。ほんの小さな子供さえも、「僕がいる。僕がやる。これは僕のものだ」と言います。ですから、全ての人が「私」というものがいつも存在していることを理解しています。その「私」がそこにある時のみ、あなたが体であり、彼はヴェンカンナです、私はラマンナです、というような実感がそこにあります。常に目に映る一者(神)が自分自身であるということ知るために、蝋燭を持って探す必要がありますか。我々が自分自身の中にあり、異なるものでないアートマ・スワルーパを知らないと言うことは、「私は私自身を知りません」と言うようなものです。

信奉者:
 それは、シュラバナ(*6)とマナナ(*7)によって目覚め、目に映る全世界をマーヤーに満ちていると見る人たちが、究極的にはニディディヤーサナ(*6)によって真のスワルーパを見つけるという意味です。

バガヴァーン:
 ええ、そうです。ニディはスワルーパという意味です。ニディディヤーサナは、グルの言葉のシュラバナとマナナの助けと共に、スワルーパに強く集中する行為です。それは、逸れることのない熱意をもって、それに瞑想することを意味します。長いあいだ瞑想した後で、彼はそれに溶け込みます。その時、それがそのものとして輝きます。いつもそこにそれはあります。人がそれをあるがままに見られるなら、この種の問題はありません。常にそこにある自分自身を見るために、どうしてこんなにも多くの質問がいりますか。

(*1)スワルーパ・・・(自分自身の)本質
(*2)ニジャグナ・ヨーギ・・・ニジャグナ・シヴァヨーギ、15世紀のカンナダ語(カナラ語)の詩人であり、多作の作家。
(*3)スクティ・・・貝、ラジャタ・・・銀、ヴァバティ・・・なること、形を装うこと
(*4)ミティヤ・・・幻、非現実
(*5)シュラバナ・・・聞くこと
(*6)マナナ・・・熟考すること
(*7)ニディディヤーサナ・・・途切れのない瞑想

2013年6月9日日曜日

『アドヴァイタ・ボーダ・ディーピカ』  第二章 アパヴァーダ(付加の除去)

◇『不ニの知の灯と解放の真髄(Lamp of Non-Dual Knowledge&Cream of Liberation)』

アドヴァイタ・ボーダ・ディーピカ

第二章 アパヴァーダ(付加の除去)

弟子:(1)
 師よ、無知には始まりがないと言われています。その結果、無知には終わりがないということになります。どうして無始なる無知を払えるのですか。あなたは憐れみの大海です。どうかこれを私にお教え下さい。

師:(2)
 そうです、我が子よ。あなたは聡明であり、微妙な事柄を理解できます。あなたは正しく言いました。確かに、無知には始まりがありません。しかし、終わりがあります。知の生起が無知の終焉であると言われています。日の出が夜の暗闇を払うように、知の光は無知の暗闇を払います。

 (3-4)混乱を避けるため、世界の一切万物は、「原因、性質、影響、限界、結果」という範疇の下、その個別の特徴を分析することによって考察できます。しかし、超越した現実は、不ニであるので、これらを超えています。しかしながら、それ以外のすべて、マーヤーから先、それの上に誤って見られるものは、上述の分析に従います。

 (5)これらの中で、マーヤーは先行する原因を持ちません。なぜなら、マーヤーは、それに先行する何ものの産物でもなく、ブラフマンの内に留まり、自明であり、始まりがありません。創造の前、その顕現のための原因はありませんが、それは顕現します。それはひとりでに存在するはずです。

弟子:(6)
 この言明のための典拠が何かありますか。

師:
 ええ、ヴァーシシュタの言葉です。彼曰く、「泡が自然と水の中から生じるのとまさしく同様に、名と形を顕現する力も、全能であり完全に超越的な自らから湧き上る」。

弟子:(7-9)
 マーヤーは原因を持たざるをえません。陶工という作用因(媒介)なくして粘土が壺にならないのとまさしく同様に、ブラフマンの内でずっと未顕現に留まっている力はイーシュワラの意思のみによって顕現できます。

師:
 消滅において、不ニのブラフマンのみ残り、イーシュワラは残りません。明らかに、彼の意思は存在できません。消滅において、一切が顕現から引き戻され、未顕現に留まると言われる時、それは「ジーヴァ、全世界、イーシュワラ」のすべてが顕現しなくなることを意味します。未顕現のイーシュワラはその意思を行使できません。(実際に)起こることはこれです-眠りの中の休止している力がそれ自体を夢として展開するのとまさしく同様に、マーヤーの中の休止している力もそれ自体をイーシュワラ、その意思、世界とジーヴァからなる複数性へと展開します。そのように、イーシュワラはマーヤーの産物であり、彼の起源の起源ではありえません。それゆえ、マーヤーは先行する原因を持ちません。消滅において、意思のない純粋な存在のみ残り、何の変化の余地もありません。創造において、マーヤーは、今までこの純粋な存在の内に顕現せずに留まっていましたが、心として輝き出ます。心の戯れにより、魔法ごとく、「イーシュワラ、世界、ジーヴァ」として複数性が現れます。顕現したマーヤーが創造であり、未顕現のマーヤーが消滅です。そのように、マーヤーはひとりでに現われ、それ自体を引き込みます。このように、マーヤーは始まりを持ちません。ですから、それに先行する原因は存在しなかったと我々は言います。

弟子:(10-11)
 その「性質」とは何ですか。

師:
 それは表現できません。その存在が後に無効にされるため、それは現実ではありません。それは事実として経験されるため、それは非現実ではありません。また、それは二つの両極-現実と非現実-の混合でもありません。ですから、賢者はそれは言い表せないと言います(アニルヴァチャニーヤ)。

弟子:
 では、何が現実で、何が非現実なのですか。

師:
 マーヤーの礎となるもの、純粋な存在、またはブラフマンは、二元の余地はなく、現実です。名と形から成り立ち、世界と呼ばれる幻の現象は、非現実です。

弟子:
 マーヤーは何と言われうるのでしょうか。

師:
 その二つのどちらでもありません。現実の礎とも、非現実の現象とも異なります。

弟子:
 それを説明して下さい。

師:(12-17)
 火があるとします。それは礎です。火花がそれから飛び散ります。それは火が形を変えたものです。火花は火そのものの中に見られませんが、火から出てきます。この現象の観察により、火の中に内在する火花を作りだす力が推測されます。

 粘土は礎です。首の部分と開いた口をもつ中空の球体がそれから作られ、壺と呼ばれています。この事実により、粘土でも壺でもなく、両方とは異なる力が推測されます。

 水は礎です。泡はその結果です。両方とは異なる力が推測されます。

 蛇の卵は礎であり、若い蛇はその産物です。卵とも、若い蛇とも、異なる力が推測されます。

 種は礎であり、芽はその産物です。種とも、芽とも、異なる力が推測されます。

 深い眠りの変化するジーヴァは礎であり、夢はその結果です。眠りから目覚めた後、ジーヴァとも、夢とも、異なる力が推測されます。

 同様に、ブラフマンの内に潜在している力は、ジャガットという幻を作りだします。この力の礎はブラフマンであり、ジャガットはその結果です。この力はそれらのどちらでもありえず、両方と異なるはずです。それは定義できません。しかしながら、それは存在します。しかし、それは不可解のままです。ですから、我々はマーヤーの「性質」は言い表せないと言います。

弟子:(18-20)
 マーヤーの「影響」とは何ですか。

師:
 それはブラフマンという不ニの礎の上に、その覆う力と投影する力によって、「ジーヴァ、イーシュワラ、ジャガット」という幻を表すことにあります。

弟子:
 どのようにですか。

師:
 休止している力が心として現れ出すとすぐに、心の潜在性が芽吹き、木々のごとく成長し、共に世界を形作ります。心はその潜在性と戯れます。それらは思いとして湧き上り、この世界として物質化します。それゆえ、それは夢の映像に過ぎません。ジーヴァとイーシュワラはその内容物であり、この白昼夢と同じく幻です。

弟子: 
 それらの幻の特徴を説明して下さい。

師:
 世界は対象物であり、心の戯れの結果として見られています。ジーヴァとイーシュワラはそれに含まれています。部分は全体と同程度に現実的でありえます。仮に世界が壁に絵具で描かれていると想像してみなさい。ジーヴァとイーシュワラは絵の中の人物です。人物は絵そのものと同程度に現実的でありうるに過ぎません。

 (21-24)世界そのものが心の産物であり、イーシュワラとジーヴァは同じ産物の部分を形作っています。それゆえ、それらは心の投影に過ぎず、それ以上の何物でもありません。これは、マーヤーがイーシュワラとジーヴァの幻を生じさせると述べるスルティから、そして、ヴァーシシュタが魔法によるように潜在性は「彼、私、あなた、これ、それ、私の息子、財産」などとして心の中で踊ると述べるヴァーシシュタ・スムリティから明白です。

弟子:(25-27)
 そのスムリティはどこでイーシュワラ、ジーヴァ、ジャガットについて話しているのですか。

師:
 ソハミダム(*1)、すなわち、「彼、私、これ」という言明の中で、「彼」は見られないイーシュワラを意味します。「私」は自我としてまかり通るジーヴァを意味します。「これ」は外(的世)界すべてを意味します。聖典、論理的推論、経験から、「ジーヴァ、イーシュワラ、ジャガット」が心の投影に過ぎないことは明白です。

弟子:(28-29)
 どのように論理的推論と経験はその見解を支持するのですか。

師:
 目覚めと夢における心の生起と共に、潜在性は戯れはじめ、ジーヴァ、イーシュワラ、ジャガットが現れます。深い眠りや気絶などにおいて潜在性が退くと共に、それらはすべて消えます。これはすべての人の経験の内にあります。

 また、一切の潜在性が知によって根こそぎにされる時、「ジーヴァ、イーシュワラ、ジャガット」はこれを最後に消えます。これは「ジーヴァ、イーシュワラ、ジャガット」を超えた不ニの現実に確立した完全な眼識(洞察力)を持つ偉大な聖者の経験の内にあります。ですから、これらがすべて心の投影であると我々は言います。そのように、マーヤーの「影響」は説明されます。

弟子:(30-32)
 マーヤーの「限界」とは何ですか。

師: 
 それはマハーヴァーキャの意味への探求から生じる知です。マーヤーは無知であり、無知は探求の欠如に基づき存続します。探求の欠如が探求にとって代わる時、正しい知が生じ、無知を終わらせます。

 では、聞きなさい。体の病は過去のカルマの結果であり、間違った食べ物の上に存続し、その継続と共に増悪します。もしくは、縄についての無知は、それが探求されない限り、蛇を視界へ映し出し、それに引き続き、他の幻覚が伴います。同じように、マーヤーは自明であり、無始であり、自然に起こりますが、自らの本質への探求の欠如の内に存続し、世界などを顕現し、より巨大に成長します。

 (33-35)探求の生起と共に、探求の欠如のため力強く成長したマーヤーはその栄養を失い、その結果、すなわち、ジャガットなどと共に徐々に弱まります。探求の欠如にもとづき、縄についての無知という要因が縄を蛇に見せますが、探求の生起と共に突如として消えるのとまさしく同様に、マーヤーは無知の内に栄え、探求の生起と共に消えます。縄の蛇とその幻を作り出す力が探求の前に存続し、探求の後に単なる縄に帰するのとまさしく同様に、マーヤーとその結果であるジャガットは探求の前に存続しますが、その後で純粋なブラフマンに帰します。

弟子:(36-38)
 どうして唯一のものが二つの異なる方法で現われられるのですか。

師: 
 ブラフマン、不ニの純粋の存在は、探求の前にジャガットとして現われ、探求の後、それ自体をその真実の姿で示します。

 適切な考察の前には、どのように粘土が壺として見え、その後で粘土のみとして見えるのか、もしくは、黄金が装飾品として見え、それからただ黄金だけであると分かるのかご覧なさい。ブラフマンもまた同様です。探求の後、ブラフマンは過去、現在、未来において一元であり、不ニであり、分割されず、変化しないと実現されています。その中に、マーヤーやジャガットなど、その影響のようなものは何も存在しません。この実現は、至高の知と無知の限界として知られています。そのように、マーヤーの「限界」は言い表わされます。

弟子:(39)
 マーヤーの「結果」とは何ですか。

師:
 成果なく無へ消え去ること、それがその結果です。兎の角は、何の意義もない音に過ぎません。マーヤーも同様に、何の意味もない音に過ぎません。実現した聖者は、そのようにそれを見出します。

弟子:(40-43)
 では、なぜすべての人がこの点において同意しないのですか。

師:
 無知な者は、それを現実であると信じます。思慮深い者は、それは言い表せないと言います。実現した聖者は、それは兎の角のように存在しないと言います。そのように、それはこれら三つの方法で現われます。人々は自分自身の視点からそれについて話します。

弟子:
 無知な者は、どうしてそれを現実であるとみなすのですか。

師:
 子供を怖がらせるために幽霊がいるという嘘がつかれる場合でも、子供はそれを真実であると信じます。同様に、無知な者はマーヤーに目をくらまされ、それを現実であると信じます。現実のブラフマンと非現実のジャガットの性質を探究する者たちは、マーヤーがどちらとも異なると見出し、その性質を定義することができず、言い表せないと言います。しかし、探求を通じて至高の知を達成した聖者は、「娘によって灰へと焼き尽くされる母のように、知によって灰に帰されたマーヤーはいかなる時も存在しない」と言います。

弟子:(44-46)
 どうしてマーヤーが娘によって灰へと焼き尽くされる母と比べられるのですか。

師:
 探求の過程で、マーヤーはさらにさらに透明となり、知に変じます。そのように、知はマーヤーから生まれるため、マーヤーの娘であると言われています。探求の欠如のもとに長きにわたり栄えているマーヤーは、探求によって、その最後の日を迎えます。蟹が子を産み、その結果、自分自身が死ぬことになるのとまさしく同様に、探求の最後の日に、マーヤーは自身の破滅のための知を生みます。即座に、娘である知は彼女を灰へと焼き尽くします。

弟子:
 どうして子供にその親が殺せるのですか。

師:
 竹林で竹が風で動き、互いにこすり合わされ、親木を燃やす炎を作りだします。そのようにまた、マーヤーから生まれる知はマーヤーを灰へと焼き尽くします。マーヤーは兎の角のように名前においてのみ留まります。ですから、聖者はそれを存在しないと言明します。さらに、まさにその名前がその非現実性を示唆しています。その名前はアヴィドヤーとマーヤーです。それらの中、前者は「無知、もしくは、存在しないもの」を意味し、また、マーヤーは「存在しないもの」(*2)です。ですから、それは単純な否定です。それゆえ、成果なく無へ消え去ることが、その「結果」です。

弟子:(47-49)
 師よ、マーヤーは知に変じます。それゆえ、それは成果なく無として消え去ると言われるはずはありません。

師:
 知、変じられたマーヤーが現実であるならば、マーヤーは現実であると言えます。しかし、この知そのものが虚偽です。それゆえ、マーヤーは虚偽です。

弟子: 
 どうして知が虚偽であると言われるのですか。

師:
 木々の摩擦から生じる炎はそれらを燃やし尽くし、その後、消えます。汚れを除く木の粉は水の中の不純物を下へと運び、それ自体は不純物と共に沈着します。同様に、この知は無知を破壊し、それ自体は消滅します。それもまた最終的に溶かされるため、マーヤーの「結果」は非現実のみとなりえます。

弟子:(50-52)
 知もまた最後には消え去るならば、どうして無知の影響であるサンサーラを根絶できるのですか。

師:
 無知の影響であるサンサーラは、知のように非現実です。一つの非現実は、もう一つの非現実によって取り消されます。

弟子:
 どうしてそれがなされうるのですか。

師:
 夢の影響下にいる人の飢えは、夢の食物で満足させられます。一方はもう一方と同様に非現実ですが、しかし目的に叶います。同様に、知は非現実ですが、しかし目的に叶ないます。束縛と解放は、無知の虚偽の概念に過ぎません。縄の蛇の出現と消失が等しく虚偽であるように、ブラフマンの内の束縛と解放も同様です。

 (54-55)結論すると、至高の真理は不ニのブラフマンのみです。その他一切は虚偽であり、いかなる時も存在していません。スルティはそれを支持し、言います。「何ものも創造されず、破壊されてもいない。束縛も解放も存在しない。誰も束縛されず、解放を望んでもいない。熱望する者はおらず、修練する者はおらず、解放された者もいない。これが究極の真理である」。そのように、付加の除去は、マーヤーとその影響を超える不ニの現実、純粋な存在の知に存しています。その実現が、体の内で生きている間の解放(ジーヴァン・ムクティ)です。

 (56)この章を注意深く学ぶ者のみが、無知の付加を取り消す手段として、自らへの探求の過程を知ろうと欲し得ます。そのような探求に適する探求者は次章で扱われる三つの特性を備えねばなりません。その後で、探求の方法が扱われます。

 有能な探求者は、先へと進む前に、これら二章を注意深く学ばねばなりません。

(*1)ソハミダム・・・「Sohamidam」、soh=彼、aham=私 、idam=それ
(*2)「ヤー・マー・サー・マーヤー(ya ma sa maya)」 ya=~であるもの、ma=ない、sa=彼女?

2013年6月1日土曜日

『アドヴァイタ・ボーダ・ディーピカ』  第一章 アドヤーローパ(付加)

◇『不ニの知の灯と解放の真髄(Lamp of Non-Dual Knowledge&Cream of Liberation)』

 『アドヴァイタ・ボーダ・ディーピカ(不ニの知の灯、Advaita bodha Deepika)』はシュリー・カルパトラ・スワーミー(Sri Karpatra Swami)がシュリー・シャンカラーチャーリヤと他の聖者らの教えを凝縮したもので、12章からなるのですが、最後の4章は失われています。英訳は、スワーミー・シュリー・ラマナナンダ・サラスワティ(Swami Sri Ramanananda Saraswathi)によるものです。前書には、シュリー・ラマナが『アドヴァイタ・ボーダ・ディーピカ』を高く評価していたと書かれています。(文:shiba)

アドヴァイタ・ボーダ・ディーピカ

第一章 アドヤーローパ(付加について)(*1)

 (7)種の苦悩(ターパトゥラヤ)(*2)に大変に悩まされ、この苦痛をもたらす存在から自由になるために束縛からの解放を強く求めて、四種のサーダナからなる長い修練により際立った弟子は、尊敬すべき師に近づき、嘆願しました。

 (8-12)「主よ、師よ、恩寵の大海よ、私はあなたに身を委ねます!どうぞ私をお救いください!」

師:
 あなたを何から救うのですか。

弟子:
 繰り返す誕生と死の恐怖からです。

師:
 サンサーラを去り、恐れないように。

弟子:
 サンサーラという広大な大海を渡れずに、私は繰り返す誕生と死を恐れています。ですから、私はあなたに身を委ねたのです。私を救うのはまさしくあなたです!

師:
 あなたのために私に何ができますか。

弟子:
 私をお救いください。私には他の寄る辺がありません。頭髪が燃えている時、炎を消すためにただ一つの適したものが水であるように、あなたのような聖者は三種の苦悩からの炎で燃えている私のような人々の唯一の寄る辺です。あなたはサンサーラの幻から自由であり、心穏やかで、始まりも終わりもない比類なきブラフマンの至福に深く浸っています。確かに、あなたはこの哀れなる者を救えます。どうかなさってください!

師:
 あなたが苦しむならば、それが私にとって何なのですか。

弟子:
 父親が子供に対するように、あなたのような聖者は他者が苦しむのを見ることに耐えられません。一切の存在へのあなたの愛には動機がありません。あなたはすべての人に共通するグルであり、サンサーラのこの大海の向こうへ我々を運ぶ唯一の舟です。

師:
 では、あなたを何が苦しめるのですか。

弟子:
 苦痛をもたらすサンサーラという冷酷な蛇の噛まれ、私は目がくらみ、苦しんでいます。師よ、どうぞこの燃え盛る地獄から私を救い、どのようにして自由になるのか私にお教え下さい。

師:(13-17)
 よくぞ言いました、我が息子よ!あなたは賢明であり、よく修練されています。弟子となるためのふさわしさを証明する必要はありません。あなたの言葉はあなたが適していることを明確に表しています。では、いいですか、我が子よ!

 実在(サット)‐知(チット)‐至福(アーナンダ)である至高の自らの中に、誰が転生する存在でありえますか。このサンサーラがどうしてありえますか。何がそれを生じさせえたのですか。そして、それはどのように、どこから生じうるのですか。不ニの現実であるため、どうしてあなたが惑わされうるのですか。深い眠りにおいて何も分離していなく、どのような様子でも変化していなく、ぐっすりと幸福に眠っていますが、目覚めると愚か者は「ああ、私は道に迷っている!」と大声で叫びます。変化せず、形なく、比類なく、幸福で満ちた自らであるあなたが、どうして「私は転生する。私はみじめだ」などと叫べますか。実のところ、誕生もなく、死もありません。生まれる者も、死ぬ者もいません。そのようなものは何もありません!

弟子:
 では、何が存在するのですか。

師:
 無始なる、終わりのない、不ニの、束縛されず、常に自由な、純粋で、気づいており、ただ一つの、比類のない至福‐知のみが存在します。

弟子:(18)
 そうであるなら、雨季の雲のかたまりのように、この力強く巨大なサンサーラという幻が、どのようにして私を深い暗闇で覆っているのか教えてください。

師:(19-20)
 この幻(マーヤー)の力について何が言えるでしょうか。郵便受けを人と間違うように、あなたは不ニで完全な自らを個人と間違えています。惑わされているため、あなたはみじめなのです。しかし、この幻はどのように生じるのでしょうか。眠っている時の夢のように、この虚偽のサンサーラはそれ自体非現実である無知の幻の中に現れます。それゆえ、あなたの思い違いなのです。

弟子:(21-24)
 無知とは何ですか。

師:
 聞きなさい。体の内に幻影、「私」なる自惚れ(うぬぼれ)が生じ、体をそれ自身であると主張します。それはジーヴァと呼ばれています。ジーヴァはいつも外へ向く傾向を持ち、世界を現実とみなし、彼自身を行為者であり、苦楽の経験者とみなし、あれやこれやを欲しがり、見分けることなく、一度も彼自身の本質を思い出すこともなく、また「私は誰か。この世界とは何か」と探求もせず、彼自身を知らずにサンサーラの中をさ迷っています。そのような自らの忘却が無知です。

弟子:(25)
 すべてのシャーストラが、このサンサーラがマーヤーの仕業であると言明しますが、あなたはそれが無知によると言います。この二つの言明はどのようにして調和されうるのですか。

師:
 この無知はマーヤー、プラダーナ(*3)、アヴヤクタ(*4)、アヴィドヤー、自然の摂理、暗闇などのように、様々な名前で呼ばれています。それゆえに、サンサーラは無知の結果でしかありません。

弟子:
 この無知は、どのようにしてサンサーラを投影するのですか。

師:
 無知は二つの側面-覆い(アーヴァラナ)と投影(ヴィクシェーパ)-を持ちます。それらから、サンサーラが生じます。覆いは二つの方法で働きます。一方で、我々は「それはない」と言い、もう一方で「それは輝き出ない」と言います。

弟子:
 それを説明して下さい。

師:
 師と生徒間の論議において、聖者はただ不ニの現実のみがあると教えますが、無知な者は「いったい何が不ニの現実なのか。いや、ありえない」と思います。無始なる覆いの結果として、教わっても教えは無視され、古い考えが続きます。そのような無関心が、覆いの第一の側面です。

 (29-30)次に、聖典と恵み深い師の教えの助けにより、彼はよく分からずに、それでも真摯に不二の現実なるものを信じますが、深く調べることができず、浅い(理解)のまま、「現実は輝き出ない」と言います。ここに、それが輝き出ないことを知る知識はありますが、しかし無知の幻は続きます。それが輝き出ないというこの幻が、覆いの第二の側面です。

弟子:(31-32)
 投影とは何ですか。

師:
 変化せず、形なく、比類なく、幸福で満ちた不二の自らであるのに、人は自分自身を手と足を持つ体、行為者、経験者とみなします。彼はこの人やあの人、これやあれを客観的に見て、惑わされます。世界に包含され、不ニの現実の上にある外側の世界を知覚する錯覚が、投影です。これが付加(アドヤーローパ)です。

弟子:(33)
 付加とは何ですか。

師:
 存在するものを存在しないものと間違うこと-縄を蛇、郵便受けを泥棒、蜃気楼を水と間違うように。現実の上の虚偽の見せかけが、付加です。

弟子:(34)
 ここでの現実のもの、土台の上の非現実の付加と何ですか。

師:
 不ニの実在‐知‐至福、もしくは、至高なるブラフマンが現実です。縄の上に蛇という虚偽の名と形が付加されるように、不ニの現実の上に感覚のある存在と感覚のないものという範疇が付加されています。そのように世界として現れる名と形が、付加を形作っています。これが非現実な現象です。

弟子:
 不二である現実の中に、この付加をもたらしうる誰が存在するのですか。

師:
 それはマーヤーです。

弟子:
 マーヤーとは何ですか。

師:
 先に述べたブラフマンについての無知です。

弟子;
 無知とは何ですか。

師:
 自らがブラフマンであるにも関わらず、自ら(がブラフマンである)の知がありません。この自らの知を妨げるものが無知です。

弟子:
 それはどのように世界を映し出しうるのですか。

師:
 土台、つまり、縄についての無知が蛇という幻を映し出すのとまさしく同様に、ブラフマンについての無知がこの世界を映し出します。

 (36)世界は付加されたものであり、(認識の)前にも(知の)後にも存在していないため、幻とみなされねばなりません。

弟子:
 どうして世界が(認識の)前にも(知の)後にも存在していないと言えるのですか。

師:
 創造されるために、創造の前に世界は存在できませんでした(つまり、世界は創造と同時にか、その後に存在するようになります)。消滅において、世界は存在できません。世界は、今その狭間で、空中に魔法により作られた都市のように現われているに過ぎません。深い眠り、ショック症状、サマーディにおいて世界が見られない限り、今でさえもそれは付加物に過ぎず、それゆえ幻ということになります。

弟子:(37)
 創造の前と消滅において、世界が存在しないならば、それでは何が存在できるのですか。

師:
 架空でなく、不二の、内から外から分化しない(アジャーティーヤ、ヴィジャーティーヤ、スヴァガタ・ベダ)、唯一の根本的存在、実在‐知‐至福、不変の現実が存在します。

弟子:
 それはどのようにして知られるのですか。

師:
 ヴェーダ曰く、「創造の前に、純粋な存在のみがあった」。ヨーガ・ヴァーシシュタもまた、それを理解する助けになります。

弟子:
 どのようにですか。

師:(38)
 ヨーガ・ヴァーシシュタ曰く、「消滅において全世界は引き戻され、不動のままあり、言葉と思いを超え、闇でも光でもなく、しかし完全である、つまりは語ることができないが、無ではない唯一の現実のみを後に残す」。

弟子:(39)
 そのような不二性の中、どうして世界が生じうるのですか。

師:
 先に述べた縄と蛇(の例)において、現実の土台についての無知が縄の中に隠されているように、根本的現実の中に無知が隠されており、別にマーヤーやアヴィドヤーと呼ばれています。後に、それはこの一切の名と形を生じさせます。

 (40-41)語られることなき知‐至福‐現実に依存する、このマーヤーは、覆い(アーヴァラナ)と投影(ヴィクシェーパ)の二つの側面を持ちます。前者はそれ自身の土台を見えないように隠し、後者により未顕現のマーヤーは心として顕在化されます。その後、心はその潜在性と戯れ、あらゆる名と形を伴う、この世界の投影に到ります。

弟子:
 以前に、他の誰かがこれを言いましたか。

師:
 ええ、ヴァーシシュタがラーマに。

弟子:
 どのようにですか。

師:(43-50)
 ブラフマンの力は無限です。それらの力の中、かの力(マーヤーの力?ヴィクシェーパ?)が顕現し、その力を通じてそれ(世界?)が輝き出ます。

弟子:
 その様々な力とは何ですか。

師:
 意識のある存在の中の意識、風の中の動き、地の中の固体性、水の中の流動性、火の中の熱、虚空の中の空所、滅びゆくものの中の朽ちゆく傾向性、そして、さらに多くの力がよく知られています。これらの性質は顕現しないままあり、その後に現れます。卵の胚の中の孔雀のきらびやかな羽の色や、小さい種の中の広がったバニヤンの木のように、それらは不ニのブラフマンの中に潜在していたはずです。

弟子:
 全ての力が唯一のブラフマンの中に潜在していたならば、どうしてそれらは同時に現れなかったのですか。

師:
 いかにして木々、草花、香草、つる性植物などの種が大地の中に全て含まれていますが、土壌や気候や季節に応じてそれらの中のいくらかだけしか芽を出さないかを見なさい。そのようにまた、顕現のための力の性質や程度は、条件により定められています。ある時、(全てのマーヤーの力の礎である)ブラフマンは考える力とつながり、この力は心として現れます。そのように、長らく眠っているマーヤーは、一切万物の共通の源である至高なるブラフマンから心として突然に活動し始めます。その後、この心は全世界を作り出します。そのようにヴァーシシュタは言います。

弟子:
 マーヤーの投影の力を形作る、この心の性質とは何ですか。

師:
 概念、もしくは、潜在的傾向を思い出すことがその性質です。心は潜在的傾向を内容として持ち、目撃する意識の中に、二つの形態(*5)-「私」と「これ」-で現れます。

弟子:
 それらの形態とは何ですか。

師:
 それらは「私」の概念と「これ」「あれ」などの概念です。

子:(52)
 この私という形態が、どのようにして目撃する意識の上に付加されるのですか。

師:
 真珠層の上に付加された銀色が真珠層を銀として表すのとまさしく同様に、根本的な目撃者の上の私という形態も、あたかも目撃者が自我と異なっておらず、自我そのものであるかのように「私」(つまり、自我)としてそれを表します。

 (53)霊に取り憑かれた人が惑わされ、全く別人のように振る舞うのとまさしく同様に、私という形態に取り憑かれた目撃者も、その本質を忘れ、それ自身を自我として表します。

弟子:(54)
 不変の目撃者が、どうしてそれ自身を変化する自我と間違いうるのですか。

師:
 自分自身が空中に持ちあげられていると感じる譫妄状態の人、我を忘れた酔っぱらった人、支離滅裂なことをわめいている気がおかしい人、夢の旅に出る夢見る人、取り憑かれて奇妙な様子で振る舞う人のように、目撃者は彼自身は汚されず不変ですが、自我という幻影の悪意ある影響下で「私」として変化したかのように見えます。

弟子:(55)
 心の私という形態は目撃者を自我として変化させて表すのですか、それとも、それ自身が目撃者の中に自我として変化して現れるのですか。

師:(56-57)
 今や、この質問は起こりえません。なぜなら、それは自らと離れて存在しないため、単独で現われえません。それゆえ、それは自らをあたかも自我へ変化したかのように表すにちがいありません。

弟子:
 さらにそれを説明して下さい。

師:
 縄の中の無知という要因はそれ自体を蛇として投影できませんが、縄を蛇のように見せるにちがいないのとまさしく同様に。水中に現われえないものが、水をあぶくや泡や波として表します。火の中にそれ自体は現われえないものが、火を火花として見せます。粘土の中で現れえないものが、粘土を壺として表します。そのようにまた、目撃者の中の力も現われえませんが、目撃者を自我として表します。

弟子:(58-60)
 師よ、マーヤーを通じて自らが個々の自我へ寸断されるとどうして言えるのですか。自らは他の何にも関係しません。それは虚空のように汚されず、不変のままあります。どうしてマーヤーがそれに影響できるのですか。自らの寸断について話すのは、「私は虚空をつかみ、それを人間へとかたどる人、または、空気を桶へと形作る人を見た」と言うのと同じように馬鹿げてはいないですか。私は今、サンサーラという大海に沈んでいます。どうぞ私をお救い下さい。

師:
 マーヤーがマーヤーと呼ばれているのは、不可能を可能にしうるからです。観客に空中の天空都市をみせる魔術師のように、それは常にそこになかったものを視界へもたらす力です。人間にこれができるならば、マーヤーがそれをできませんか。その中に馬鹿げたものは何もありません。

弟子:(62-66)
 それを私に明らかにして下さい。

師:
 では、夢の映像を呼び出す眠りの力を考えてみなさい。閉じられた部屋の中でベッドで横になっている人が眠りに落ち、夢の中で鳥や獣の形をとってさ迷います。夢見る人は家の中で眠っていますが、夢は彼をベナレスの街路やセツの砂地の上を歩いているように表します。眠る人は変わらずに横になっていますが、夢の中で彼は空に飛び上がり、真っ逆さまに奈落へ落ちます、また自分の腕を切断し、それを手に持って運びます。夢自体の中で、整合性やその他の疑問は存在しません。その中で見られるものは何であれ適切であるように見え、批判されません。単なる眠りが不可能を可能にできるならば、全能のマーヤーがこの名状しがたい世界を創造することにいったい何の不思議がありますか。それはマーヤーのまさに本質です。

 (67-74)それを例示するため、あなたにヨーガ・ヴァーシシュタからの物語を手短に話しましょう。かつてラヴァナという名の王、イクシュヴァークの家系の貴人がいました。ある日、宮廷の講堂に全ての人が集まった時、魔術師が彼の前に現れました。素早く彼は王に近づき、平伏し、「陛下、あなたに不思議なものをお見せしましょう、ご覧ください!」と言いました。すぐに、彼は孔雀羽がついた棒を王の前で振りました。王は意識が遠くなり、我を忘れ、途方もない夢のような壮大な幻を見ました。彼は自分の前に馬を見つけ、それにまたがり、森の中で狩りをしながら馬に乗って行きました。長い間の狩りの後で彼はのどが渇いていましたが、水を見つけられず、疲れてきました。ちょうどその時、低いカーストの女が土製の皿の上に粗末な食べ物をのせて偶然そこに来ました。飢えと渇きに駆り立てられ、彼は一切のカーストの制約と自分自身の品格を捨て、彼女に食べ物と飲み物を求めました。彼女はもし自分が彼の正当な妻となれるなら、彼の願いを受け入れると申し出ました。躊躇なく彼は同意し、彼女が与える食べものを食べました。それから彼女の村落へ行き、そこで夫婦として共に住み、二人の息子と一人の娘をもうけました。

 ずっと王は相変わらず玉座の上にいました。しかし、一時間半という短い間に、彼はもう一つの幻のみじめな人生を送り、それは数年に渡りました。このように、容易く不可能を可能にするマーヤーの不思議な戯れを印象づけるため、ヴァーシシュタはラーマにいくつか長い物語を話しました。

 (75-76)広がる心の力を超える幻はなく、それに惑わされない人は誰もいません。その特徴は不可能なことを成し遂げることです。何ものもその力から逃れられません。常に不変であり、汚されない自らでさえ、変化し、汚されて見えるようになっています。

弟子:
 そのようなことが、どうしてありうるのですか。

師:
 どのように分割されず、汚されない空が青く見えるのか見なさい。ラヴァナ王が低いカーストのみじめな人として生活したのとまさしく同様に、至高なる自らもまた、常に純粋であるにも関わらず、それ(マーヤー)によって自我を帯びさせられ、ジーヴァとしてまかり通るようになっています。

弟子:(77)
 至高なる自らが心の私という形態との結合により幻のジーヴァとなるならば、彼はただ一人のジーヴァとして現れるはずです。しかし、多くのジーヴァが存在します。唯一の現実が、どうして無数のジーヴァとして現われうるのですか。

師:(78-80)
 一人のジーヴァの幻が純粋な至高なる自らの中で活動するようになるとすぐに、それは純粋な知の虚空の中に他の幻のジーヴァを自然と生じさせます。鏡で囲まれた部屋に犬が入るなら、初めに一つの鏡の中に一つの反射を生じさせ、連続した反射により無数になり、気がつくと犬は大変多くの他の犬に囲まれていて、うなり、闘志を示します。不ニの純粋な意識の虚空である自らもその通りです。一人のジーヴァの幻は、否応なく複数のジーヴァの幻と関係しています。

 (81-83)また、あなた、私、彼などとして世界を見る習慣は、夢見る人の夢の中に同様の幻の存在を余儀なく見させます。同様に、過去の生の蓄積した習慣は、純粋な知の虚空のみである自らに無数の幻のジーヴァを今でさえ見させます。それ自体不可解であるマーヤーの範囲を越えて何が存在できますか。今やこれが済んだので、どのように体や星々が創造されたか聞きなさい。

 (84-85)至高なる自らがマーヤーの私という形態によって「私」と表わされるように、自らは「これ」という形態よって、その一切の内容物を伴う世界として表されます。

弟子:
 どのようにですか。

師:
 多様性の力が「これ」という形態であり、その性質は「これ」や「あれ」を想像することです。意識の虚空の中で、それは「これ」や「あれ」として何百万の潜在性を想像します。それらの潜在性にかき立てられ、ジーヴァは意識の虚空そのものであるにも関わらず、個々の体など、外界、多様なものとして現れます。

弟子:
 どのようにですか。

師:(86-89)
 はじめに、心が分割されない意識の虚空に現れます。その動きは先に述べた潜在性を形成し、様々な幻の形で現れ出します。「ここに器官と手足を持つ体がある」、「私はこの体である」-「ここに私の父がいる」、「私は彼の息子である」、「私の年齢はこれこれである」、「これらは我々の親戚と友人である」-「これは我々の家である」、「私とあなた」、「これとあれ」、「善と悪」、「楽しみと苦しみ」、「束縛と解放」、「カースト、信条、義務」、「神、人、他の生き物」、「高い、低い、中間」-「楽しむ人と楽しみ」、「何百万の星々」などのように。

弟子:
 潜在性自体が、どうしてこの広大な世界として現れうるのですか。

師:(90)
 深い眠りの中で動きなく幸福のままでいる人は、生じる潜在性によってかき立てられる時、生命と世界という幻の夢の映像を見ます。それらは彼の中にある潜在性でしかありません。目覚めの状態でもまた、彼はこの生命と世界として現れる潜在性により、惑わされています。

弟子:(91)
 では、師よ、夢は目覚めの状態において形作られ、以前には休止している心の印象の複製でしかありません。その印象は過去の経験を複製します。それゆえ、夢の映像は心の創造でしかないと正しく言われています。仮に同じことが目覚めの状態でも真実であるならば、これはなんらかの過去の印象の複製に違いありません。この目覚めの体験を生じさせるその印象とは何ですか。

師:(92)
 目覚めの状態の経験が夢の世界を生じさせるのとまさしく同様に、過去世の経験が目覚めの状態の世界を生じさせ、それでもなお幻です。

弟子:
 現在の経験が先の経験の結果であるなら、何が先の経験を生じさせたのですか。

師:
 その先の経験などからです。

弟子:
 それでは創造の時まで遡ることになります。消滅において、その一切の印象は解消されていたに違いありません。新しい創造を始めるための何が残されていたのですか。

師:
 ある日に集められるあなたの印象が深い眠りにおいて休止していて、翌日に現われるのとまさしく同様に、先行する周期(カルパ)の印象も続いて起こる周期の中に再び現れます。そのように、マーヤーのこの印象は始まりを持ちませんが、くり返しくり返し現われます。

弟子:(93)
 師よ、前日に経験したことは今思いだせます。我々はどうして過去世の経験を思い出せないのですか。

師:(94-95)
 それはできません。どのように目覚めの経験が夢の中で繰り返され、目覚めの状態と同じ方法で、しかし違った様相で把握されているのかご覧なさい。なぜでしょうか。眠りが一切の相違を作りだします。なぜなら、それが最初の認識を隠し、歪めているからです。その結果、夢の中で繰り返される同じ経験は違った様相で示され、たいてい常軌を逸し、不安定です。同じように、過去世の経験は昏睡と死により影響され、その結果、現在の環境は過去のそれと異なり、異なる方法で繰り返された同じ経験は過去を思い出せません。

弟子:(96)
 師よ、夢の映像は心の創造に過ぎず、移ろいゆき、すぐに非現実として払いのけられます。そのため、それは幻であると適切に言われています。逆に、目覚めの世界は永続すると見られており、一切の証拠はそれが現実であると示そうとします。どうしてそれが夢と共に幻であると分類できるのですか。

師:(97-98)
 夢そのものの中で、映像は真実であり、現実であると経験されます。その時、映像は非現実であると感じられません。同様に、経験する時、この目覚めの世界もまた真実であり、現実のようです。しかし、あなたが自分の本質に目覚める時、これもまた非現実として過ぎ去ります。

弟子:
 それでは、夢と目覚めの状態の違いは何ですか。

師:(99)
 両方ともがただ心によるもので、幻に過ぎません。これは疑いえません。ただ、目覚めている世界は長引く幻であり、夢は短い幻です。これが唯一の違いであり、それ以上、何もありません。

弟子:(100)
 仮に目覚めが夢に過ぎないならば、ここで誰が夢見る人ですか。

師:
 この全世界は、汚されない不ニの知‐至福の夢の産物に過ぎません。

弟子:
 しかし、夢は眠っている時にのみ起こり得ます。至高なる自らがこの夢を見るために眠りに入ったのですか。

師:
 我々の眠りは、太古の昔から自らの本質を隠している自らの無知に対応しています。そのように、自らはこの世界という夢を夢見ます。夢見る人が惑わされ、自分自身を夢の経験者であると思うように、不変の自らもまた幻によって、このサンサーラを経験するジーヴァとして表されます。

 (101)夢のような体、五感などを見る時、ジーヴァは惑わされ自分が体や五感などであると信じるようになります。それらと共に、彼は目覚め、夢、深い眠りの間をぐるぐる回ります。これが彼のサンサーラを形作ります。

弟子:(102-104)
 ジャーグラット(目覚めの状態)とは何ですか。

師:
 それは私という形態の現象であり、他の一切の心の形態、そして、関連する対象を伴います。目覚めの状態の粗大な体の中に私という性質を帯び、個人はヴィシュヴァという目覚めの状態の経験者の名で知られます。

弟子:
 夢とは何ですか。

師:
 五感が外側の活動から引き込まれた後、目覚めの状態の心の形態によって形作られる印象は、それ自体を夢の映像として複製します。この微細な状態の経験者がタイジャサとして知られています。

弟子:
 深い眠り(スシュプティ)とは何ですか。

師:
 一切の心の形態が原因となる無知の中で休止している時、それは深い眠りであると言われています。ここで、プラージニャとして知られる経験者は自らの至福を体験しています。

 (105)ジーヴァは彼の過去のカルマの働きのために、カルマが目覚め、夢、深い眠りの経験を授けるのに応じて、この回転木馬の中で回転します。これがサンサーラです。同様に、ジーヴァは過去のカルマの結果として誕生と死に従属しています。

 (106)しかしながら、それらは惑わされた心の見せかけに過ぎず、現実ではありません。彼は生まれ、死ぬように見える(だけ)です。

弟子:
 誕生と死が、どうして幻でありうるのですか。

師:
 私が言うことに注意深く耳を傾けなさい。

 (107-109)ジーヴァが眠りに圧倒される時、過去の経験を複製するために目覚めの状態の認識が新しい夢の認識にとって代わるように、もしくは、一切の外側の事物と心の活動の完全な消失があるように、死の前の昏睡に圧倒される時、現在の認識は失われ、心は休止しています。これが死です。心が新しい環境において過去の経験の複製を再開する時、その現象は誕生と呼ばれます。誕生の過程は人が、「ここに私の母がいる。私は彼女の子宮にいる。私の体はこれらの手足を持っている」と想像することに始まります。その後、彼は自分自身が世界に生まれたことを想像し、後に、「これは私の父だ。私は彼の息子だ。私の年齢はこれこれだ。これらは私の親戚と友人だ。この快適な家は私のものだ」と言います。この新しい一連の幻は、死の前の昏睡における先の幻の消失に始まり、過去の行為の結果に依存しています。

 (110-113)死の前に非現実な昏睡により圧倒されたジーヴァは、様々な過去の行為に従い様々な幻を持ちます。死の後、彼は(以下のように)信じます。「ここは天国だ。それはとても美しい。私はその中にいる。私は今、素晴らしい天人だ。とても多くのかわいらしい少女が私に仕えている。私は神酒を飲み物としている」、または「ここは死の領域だ。ここには死の神がいる。これらは死の神の使いだ。ああ、彼らはとても冷酷だ-彼らは私を地獄へ投げ入れる!」、または「ここはピトリス(*6) の領域だ、もしくはブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの領域だ」など。そのように、それらの性質に応じ、過去のカルマの潜在性は、誕生、死、天国への道、地獄、その他の領域という幻として自らの前に現れますが、自らはいつも不変の意識の虚空のままあります。それらは心の迷妄に過ぎず、現実ではありません。

 (114)意識の虚空である自らの中に、世界という現象が空中に見られる天空都市のように存在します。それは現実であると想像されていますが、実のところ、そうではありません。名と形が世界を形作っており、それ以上の何ものでもありません。

弟子:(115)
 師よ、私だけでなく他の全ての人が、意識ある存在と意識のないものからなる、この世界を直接的に経験し、それを真実であり、現実とみなしています。どうしてそれが非現実であると言われているのですか。

師:(116)
 世界は、その一切の内容物と共に、意識の虚空の上に付加されているだけです。

弟子:
 それは何によって付加されたのですか。

師:
 自らについての無知によって。

弟子:
 それはどのように付加されたのですか。

師:
 意識ある生命と意識のない物体の絵が背景の上に風景を示すように。

弟子:(117)
 聖典は、この世界すべてはイーシュワラ(*7)の意思によって創造されたと言明していますが、あなたは自分自身の無知によると言います。どうすれば、この二つの言明が調和できますか。

師:(118)
 矛盾はありません。聖典が言うこと-イーシュワラがマーヤーという手段によって五つの要素を創造し、多様な全世界を作るために様々な方法でそれらを混ぜ合わせた-は、全て誤りです。

弟子:
 聖典がどうして誤ったことを言えるのですか。

師:
 それらは無知な人への導きであり、表面的に思われるようなことを意味していません。

弟子:
 それはどういうことですか。

師:
 人はまさしく完全な意識の虚空であるという自らの本質を忘却し、無知により惑わされ自分自身を体などと同一視し、自分自身を平凡な能力の取るに足らない個人とみなします。彼に彼が全世界の創造者であると告げるならば、彼はその考えを馬鹿にし、導かれるのを拒絶します。そのように、彼の水準に降りて、聖典はイーシュワラを世界の創造者に据えています。しかし、それは真理ではありません。しかしながら、聖典は有能な探求者に真理を明らかにします。あなたは今おとぎ話を難解な真理と間違えています。これに関連して、あなたはヨーガ・ヴァーシシュタの子供の物語を思い浮かべるかもしれません。

弟子:(119-134)
 それは何ですか。

師:
 それはこの全世界の空虚さを例示する見事な物語です。それを聞くなら世界が現実であり、イーシュワラの創造物であるという誤った概念は全て消えます。手短に言えば、物語は以下のようになります。-子供が乳母に面白い話をしてほしいと頼みました。それに従い、彼女は以下の話を語りました。

乳母:
 昔むかし、その母親が不妊である大変に力のある王が三世界全てを支配していました。彼の言葉はそれらの世界の王達にとって法でした。不妊の母の息子は、世界を作り、世話し、破壊する並々ならぬ幻の力を持っていました。彼は意のままに、白、黄、黒の三つの体のどれでも身につけることができました。彼が黄色の体を身につけた時、彼は衝動にかられ、魔術師のように都市を創造したものでした。

子供:
 その都市はどこにあるの。

乳母:
 空中にぶら下がっています。

子供:
 なんて呼ばれているの。

乳母:
 絶対的な非現実です。

子供:
 どのように造られているの。

乳母:
 都市には一四本の立派な道路があり、それぞれ三つの区域に分けられ、その中にそれぞれ沢山の楽しい庭園、巨大な館、そして、七つの水槽があり、真珠の首飾りで飾られています。二つの灯-一つは温かく、もう一つは涼しい-がいつも都市を照らしています。その中に、不妊の母の息子は多くの快適な家を建て、いくらかは高地にあり、いくらかは中地にあり、その他は低地にありました。それぞれの家は、黒いビロードのような屋根、九つの門、風を入れるためのいくつかの窓、五つの灯、三本の白い柱、上手に漆喰が塗られた壁を備えていました。魔法により、彼はそれぞれの家を守るために恐ろしい幽霊を作り出しました。鳥が巣へ入るように、彼はそれらの家のどれにでも意のままに入り、好きなように遊びました。

 (135-140)黒い体で、彼は幽霊の番人を通じてそれらの家を守ります。白い体で、彼はそれらを瞬く間に灰へと帰します。不妊の母の息子は、愚か者のように気まぐれにくり返し都市を作り、守り、破壊します。かつて彼は仕事の後で疲れ、蜃気楼の飲み水の中で水浴びをして再び元気づき、空から集められた花を誇らしげに身につけました。私は彼を見ました。壊れたガラスの破片の輝きから作られた宝石からなる四つの首飾りと、真珠層の銀からなる足首飾りをあなたに贈るために、彼はすぐにここに来ます。

 子供はこの物語を信じて喜びました。この世界を現実であるとみなす愚か者も同様です。

弟子:(141-148)
 この物語はどのようにその狙いを例示していますか。

師:
 説話の子供は、世界の無知な人です。乳母とは、イーシュワラによる創造について語る聖典です。不妊の母親の息子とは、マーヤーから生まれたイーシュワラです。彼の三つの体は、マーヤーの三つの性質です。彼が体を身につけることは、ブラフマー、ヴィシュヌ、ルドラの側面です。黄色の体で、全世界を貫通する(生命の)糸であるブラフマーは、意識の虚空の中にそれを創造します。意識の虚空は、寓話の空中に対応します。その名前は絶対的な非現実です。一四本の立派な道路とは、一四の世界です。楽しい庭園とは、森です。館とは、山々の連なりです。二つの灯とは、太陽と月です。真珠の首飾りで飾られた豪華な水槽とは、多くの川が流れ入る大海です。

 (149-155)高地、中地、低地に建てられた家とは、天人、人間、動物の体です。三本の白い柱とは、骸骨です。壁の漆喰とは、皮膚です。黒い屋根とは、その上に髪がある頭です。九つの門とは、体の九つの導管です。五つの灯とは、五感です。幽霊の見張り人とは、自我です。

 今や、マーヤーという不妊の母の息子、王イーシュワラは、体という家々を建て、思いのままにジーヴァとしてその中に入り、自我なる幽霊と一緒に楽しみ、無目的に動き回ります。

 (156-160)黒い体で、彼はヴィシュヌ(さもなければ、ヴィラートとして知られている)として働き、世界を維持します。破壊者、一切に住まうものであるルドラとしての白い体で、彼は全世界を彼自身の中へ引き込みます。これが彼の戯れであり、彼はそれを楽しんでいます。この楽しみは、王が蜃気楼の水の中で再び元気づくことであると言われています。彼の誇りとは、彼の支配権についてです。空からの花とは、全知全能という属性です。足首飾りは、天国と地獄です。ガラスの輝きからなる四つの首飾りとは、ムクティの四段階です。それらはサーローキャ、サミピャ、サルピャ、サユジャ(*8) であり、地位、立場、力、最終的な同一性において等しいことを意味します。贈り物をするための予期される王の到来は、信奉者の願いをかなえる聖像の崇拝です。

 このように、聖典の無知な生徒はその無知に惑わされ、世界が現実であると信じます。

弟子:(161)
 仮に、天国や地獄や無上の幸福(ムクティ)の四段階が全て誤りであるなら、聖典の一部において、どうして天国や無上の幸福を得るための手段を定めているのですか。

師:(162-164)
 子供がお腹の痛みで苦しむのを見て、優しい母親は子供に胡椒を与えたいと望みますが、子供が胡椒を嫌い、蜂蜜を好むことに気づき、その口に胡椒を押し込む前に優しく子供を蜂蜜の香りでなだめすかします。同じように、聖典は憐れんで、無知な生徒が世界で苦しむのを見て、彼に真理を悟らせたいと望みますが、彼の世界への愛着と微妙で理解することが難しい不ニの現実への嫌気を知り、むき出しの不ニの現実を提示する前に、天国などの甘美な楽しみで優しく彼をなだめすかします。

弟子:(165)
 天国などの概念が、どうして彼を不ニの現実へ導くのですか。

師:
 善行により天国は得られます。苦行やヴィシュヌへの献身により、至福の四段階が(得られます)。それを知り、人はそれらの中で好むものを修練します。いくつかの転生において繰り返し修練することにより、不ニの現実という最高の教えを受け取るため、彼の心は純粋になり、感覚の楽しみから遠ざかります。

弟子:(166)
 師よ、天国や地獄などが虚偽であると認めるとしても、どうして聖典によって大変多く言及されるイーシュワラもまた非現実であると言明しうるのですか。

師:(167)
 栄華を極めるイーシュワラを扱う文章は、「イーシュワラはマーヤーの産物であり、ジーヴァは無知の産物である」と言う他の人により受け継がれています。

弟子:
 聖典はどうして異なる趣旨の文章でもって矛盾しているのですか。

師:
 聖典の目的は、善行、苦行、献身というような自分自身の努力により、生徒に彼の心を清めさせることです。彼をなだめすかすため、それらは彼に楽しみをもたらすと言われています。それら自体は意識がないので、自発的に結果を生み出せません。そのため、全能であるイーシュワラが行為の結果を分配すると言われています。このようにしてイーシュワラが舞台に登場します。後に、聖典はジーヴァ、イーシュワラ、ジャガット(世界)が等しく全て虚偽であると言います。

 (168)幻の産物であるイーシュワラは、眠りの産物である夢の対象物以上に現実的ではありません。彼は無知の産物であるジーヴァ、もしくは、眠りの産物である夢の対象物と同じ範疇にいます。

弟子:(169-174)
 聖典はイーシュワラはマーヤーの産物であると言います。彼がどうして無知の産物であると言えるのですか。

師:
 我々が一本の木、もしくは、森全体について話すように、自らについての無知は、個別に、もしくは、全体的に働けます。全世界の全体的な無知がマーヤーと呼ばれています。その産物であるイーシュワラは、ヴィラートとして全世界の目覚めの状態で働きます。また、全世界の夢の状態でヒランヤガルバとして(働き)、そして全世界の深い眠りの状態で内に住まう者として(います)。彼は全知全能です。創造する意思に始まり、一切の生き物に入ることに終わり、これが彼のサンサーラです。個人の無知は単なる無知であると言われています。その産物であるジーヴァは、それぞれヴィシュヴァ、タイジャサ、プラージニャとして個人の目覚め、夢、眠りの状態において働きます。彼の知識と能力は限られています。彼は行為者であり、楽しむ者であると言われています。彼のサンサーラは、現在の目覚めの活動と最終的な解放の間にある一切から成り立っています。このように、聖典はイーシュワラ、ジーヴァ、ジャガットが全て幻であることを明確にしています。

弟子:(175-179)
 では、師よ。縄についての無知が蛇のみの幻を生じ得るのとまさしく同様に、人の無知も自分自身がジーヴァであるという幻を広げるかもしれません。しかし、どうしてそれが拡大され、イーシュワラとジャガットの幻も同様に創造し得るのですか。

師:
 無知は部分を持ちません。それは全体として働き、三つの幻を同時に作り出します。ジーヴァが目覚めと夢の状態で現われる時、イーシュワラとジャガットもまた現われます。ジーヴァが溶け込む時、他のものも溶け込みます。これは我々の目覚めと夢における(三つの)顕現と深い眠り、気絶、死、サマーディにおけるその消失の体験により証明されます。

 さらに、知によるジーヴァ性の最終的な消滅と同時に、他のものもまたそれと共に消滅させられます。無知がその付随する幻と共に完全に失われ、自らとしてのみ自覚する聖者は、直接的に不ニの現実を体験します。ですから、自らについての無知が三つの幻全て-ジーヴァ、ジャガット、イーシュワラ-の根本的原因であるのは明白です。

弟子:(180)
 師よ、仮にイーシュワラが無知の幻とするなら、彼はそのように現れるはずです。そうではなく、彼は世界の起源として、我々の創造者として現れます。イーシュワラとジャガットが共に幻の産物であるというのは筋が通っていると思われません。彼は我々の創造物として現れずに、我々の創造者として現れます。それは矛盾してはいませんか。

師:(181-183)
 いいえ。夢の中で夢見る人は、昔に亡くなった彼の父親を見ます。父親は彼自身によって夢の幻として創造されますが、夢見る人は一方の人は父親で、彼自身は息子と思い、彼自身の創造物である父親の財産を相続したとも思います。さあ、夢見る人がどのように個々人と物事を創造し、彼自身をそれらと関連付け、それらが以前からあり、彼が後からやって来たと思うのか見なさい。これは不可能を可能にするマーヤーの奇術に過ぎません。

弟子:
 マーヤーはどうしてそれほど強力なのですか。

師:
 何の不思議もありません。どのように普通の魔術師が一切の観衆に空中にある天空都市を見せられるのか、もしくは、どのようにあなた自身が夢の中にあなただけの素晴らしい世界を創造できるのか見なさい。そのようなことが劣った力の個々人に可能ならば、どうして全世界の本質的な原因であるマーヤーにその他のことが可能ではないのでしょうか。結論すると、イーシュワラ、ジーヴァ、ジャガットを含む、この一切は、人の無知から生じ、唯一の現実である自らの上に付加された幻の見せかけです。

 これは我々を付加を取り除く道を考えるように導きます。

(*1)アドヤーローパ・・・adhyaropa、文字どおりの意味は「虚偽の見せかけ」。付け加えられたもの。
(*2)ターパトゥラヤ・・・①自分の体と心から起こる苦しみ(病気、痛み、怠惰など)。②外界から起こる苦しみ(動物、人間、自然災害など)③超感覚的な神々や幽霊などから起こる苦しみ
(*3)プラダーナ・・・文字どおりの意味は「前に置かれたもの」で、「世界の元になるもの、物質的原因」
(*4)アヴヤクタ・・・文字どおりの意味は「顕現しない・形を欠く」
(*5)形態・・・英語の「mode」の訳。「存在の仕方、特定の状態」などとも訳せる
(*6)ピトリス・・・文字道理の意味は「父」、亡くなった先祖の霊
(*7)イーシュワラ・・・文字どおりの意味は「全世界の主」。ブラフマー(創造者)、ヴィシュヌ(維持者)、シヴァ(破壊者)の3つの姿で現れる人格神。別に、サグナ・ブラフマンとも言う。
(*8)4種のムクティ・・・サーローキャは「神と同じ世界に住むこと」、サミピャは「神と個人的に交際すること(神の近くに住むこと)」、サルピャは「神と同じ体を持つこと」、サユジャは「神と一体になること」

2012年7月20日金曜日

マーヤーの本質、マーヤーへの六つの問い、マーヤーと現実(自ら)の関係

◇「ウパデーシャ・マンジャリー(タミル:Upadesa Manjari、英:Spiritual Instruction)」 

第2章 修練(アバヤーサ)

質問5:
 マーヤーの本質とは何ですか。

バガヴァーン:
 マーヤーは、あらゆる所に常に存在し、全てに行き渡り、自ら輝いている自ら、現実を我々に存在していないとみなさせ、あらゆる時、あらゆる所で存在していないと決定的に証明されている個々の生命(ジーヴァ)、世界(ジャガット)、神(パラ)を我々に存在しているとみなさせます。

◇『バガヴァーンと日々をともにして(Day by Day with Bhagavan)』 (p99、p238~239))

1946年1月7日 

マハータニ氏:
 『アドヴァイタ・ボーダ・ディーピカ』で、心と同一化した至高の自らは変化に富むように見えると言われています。自らから出るマーヤーから出ている心が、どうして不変の自らを変化させられるのですか。

バガヴァーン:
 実際には、変化はなく、創造はありません。しかし、「この創造はどのように生じたのか」と尋ねる人のために、上述の説明が与えられています。

1946年5月29日 

ボーズ:
 ウパニシャッドが全てはブラフマンであると言う時、どうしてシャンカラのように、この世界がミティヤ、すなわち、幻であると我々が言えるのですか。

バガヴァーン:
 シャンカラもまた、世界がブラフマン、すなわち、自らであると言います。彼が異議を唱えるのは、自らが世界を構成する名と形によって制限されていると想像することです。彼は世界がブラフマンと別に存在していないと述べているだけです。ブラフマン、すなわち、自らはスクリーンのようであり、世界はその上にある映像のようです。あなたはスクリーンがある限りにのみ、映像を見ることができます。しかし、見る者自身がスクリーンになる時、自らのみが残ります。『カイヴァルヤ・ナヴァニータ(*1)』には、マーヤーに関す六つの質問と答えが書かれています。それらは有益です。

1番目の質問:
 マーヤーとは何ですか。

答え:
 アニルヴァチャニーヤ、言い表すことができません。

2番目の質問:
 それは誰に起こりましたか。

答え:
 自分が分離した存在であると感じ、「私がこれをなす」や「これは私のものである」と考える心、もしくは、自我に。

3番目の質問:
 どこから来ましたか、どのように始まりましたか。

答え:
 誰も答えられません。

4番目の質問:
 どのように生じましたか。

答え:
 ヴィチャーラの欠如(*2)を通して。「私は誰か」と尋ねることの怠りを通して。

5番目の質問:
 自らとマーヤーが共に存在するなら、これはアドヴァイタ(*3)の理論を無効にするのではありませんか。

答え:
 必ずしもそうではありません。というのも、スクリーン上に映像があるように、マーヤーは自らに依存しています。映像は、スクリーンが現実であるという意味において、現実ではありません。

6番目の質問:
 自らとマーヤーが一つであるなら、自らが幻というマーヤーの性質を持つと論じられるのではありませんか。

答え:
 いいえ。自らは幻になることなく、幻を作り出すことができます。魔術師(奇術師)は我々を楽しませるために、人々や動物や物体の幻をつくるかもしれません。そして、我々は我々が彼を見るのと同じようにはっきりとその全てを見ます。しかし、そのパフォーマンスの後、彼だけが残り、彼が作り出した一切の映像は消えます。彼は幻の一部ではなく、現実であり、確かなものです。

(*1)カイヴァルヤ・ナヴァニータ・・・16世紀にタミル語で書かれたアドヴァイタの古典。ターンタヴァラーヤ・スヴァーミの著作。タミル語:Kaivalya Navaneeta、英語:The Cream of Emancipation。
(*2)ヴィチャーラの欠如・・・「non-vichara」の訳。ヴィチャーラは「探求」を意味する。
(*3)アドヴァイタ・・・不ニ、「ブラフマン(=アートマン、自ら)のみが存在する」という教え。

◇『グル・ラマナ(GURU RAMANA-memories and notes)』、p58~59 抜粋

第2部-対話  9章 マーヤー

<1> 1937年4月15日

 C氏はこの巨大な世界の幻の謎を知りたいと思いました。

C氏:
 我々は世界を幻として話しますが、その中の全てのものは厳密な法則に従っており、それは世界が十分に計画され、十分に統制されていることを証明しています。

バガヴァーン:
 そうです。幻を投影した彼が、秩序としっかりした計画という外観を世界に与えました。

C氏:
 アドヴァイタ的なもの以外の一切の宗教的組織は、それらが神と名付ける現実の創造的側面を重要視しています。それらは預言者、聖者、聖典などについて話します。それらは全て、幻ですか。

バガヴァーン:
 その全ては、質問者であるあなたと同じように存在しています。あなたは相対的な世界におり、それらもまたそのようです。そうでなければ、あなたはそれらについて知らなかったでしょう。夢の中でもまた、人は聖者や聖典などを伴う十分に統制された世界を見ますが、目覚めるとすぐにそれらは全て消え去ります。そのようにまた、この夢の世界から至高の意識に目覚めることにより、その全ては消え去ります。

C氏:
 しかし、どのようにして真理から幻、虚偽が生じるのですか。

バガヴァーン:
 マーヤーは虚偽ではありません。それは虚偽の外観を持ちますが、現実の活動的側面なのです。それは意識の中の形の作り手であり、形は多様性を意味し、それは幻を引き起こします。とは言え、この全ての多様性は意識の中にあり、その他のどこにもありません。それは心の中にのみあります。あるジーヴァ(A)が他のジーヴァ(B)を見て、それ(B)との同一性を忘れ、それ(B)をそれ自身(A)から異なっていると思います。しかし、それ(A)がその注意を形としてでなく、その意識としての本質に向けるとすぐに、多様性、もしくは分離性という幻は、夢が目覚めが起こる時に消えるように消えます。

C氏:
 形を生じる神、無形のものは想像し難いです。

バガヴァーン:
 どうして難しいのですか。例えば深い眠りや、サマーディや、気絶した状態において、あなたが知覚したり、考えたりしない時、あなたの心は無形のままにありませんか。そして、心が考え、あなたの体を働くよう駆り立てる時、心は空間や関係性を創造しませんか。一つの同質的で、自動的な行為において-非常に自動的であるのでほとんどの人々はその過程に気づかないのですが-、あなたの心が考え出し、あなたの体が実行するのとまさしく同様に、神の知性も考え出し、計画し、彼の力は自動的で、自発的に働き、その思いと行為は一つの完全に統合されたものです。純粋な知性の中に暗に示されている、この創造的な力は、様々な名前で呼ばれています。その中の一つがマーヤー、もしくはシャクティであり、形や映像の創造者です。

◇『シュリー・ラマナ・マハルシとの対話(Talks with Sri Ramana Maharshi)』 

Talk 20. 1935年1月30日 (抜粋)

信奉者:
 マハルシは普遍的な幻(マーヤー)の理論をどう思いますか。

マハルシ:
 マーヤーとは何ですか。それは現実に過ぎません。

信奉者:
 マーヤーは幻ではないのですか。

マハルシ:
 マーヤーは現実の顕現を表すために使われています。そのように、マーヤーは現実に過ぎません。

Talk 477. (抜粋)

信奉者:
 心もまたマーヤーであると私は思います。

マハルシ:
 マーヤーとは何ですか。心が現実から分離されているという知(識)が、マーヤーです。心は現実の中だけにあり、離れていません。この知(識)がマーヤーの除去です。

◇『彼の机から落ちる(パンの)かけら(Crumbs From His Table)』 p40 抜粋

11)夢、眠り、サマーディ 

信奉者:
 世界の存在は虚偽、幻、マーヤーであると言明されていますが、我々は来る日も来る日も世界を見ます。どうしてそれが虚偽となりうるのですか。

マハルシ:
 虚偽ということで、暗闇(無知)の中で縄という現実の上に蛇という考えが付加されるように、世界という概念が現実に付加されたものであるということを意味しています。

信奉者:
 マーヤーとは何ですか。幻ですか。

バガヴァーン:
 氷が水であるのを知らずに、氷を見ることが幻、マーヤーです。それゆえ、心を殺すや、何かそのようなことを言うのもまた意味はありません。なぜなら、結局のところ、心もまた自らの重要な部分であるからです。自らに安らうこと、または、自らの内にあることがムクティ、マーヤーを取り除くことです。マーヤーは分離した存在ではありません。光の欠如が暗闇と呼ばれるように、知、輝きなどの欠如が無知、幻、マーヤーと呼ばれています。