バガヴァーンの言葉
1918年6月、チットゥール県のC.V.スブラマニア・アイヤルにより記録されました。
- 心を内に向け、あなた自身の自らに安らいなさい。
- 心が束縛の原因です。
- 一つまた一つと放棄し、安らぎに留まりなさい。
- 我々が得るものを我々は失います。それゆえに、欲するなかれ。
- 二種類の瞑想があります。一つは進んだサーダカによって修練されるニルグナ・ディヤーナであり、彼は瞑想する者自身を知ろうと努めます。もう一種類は、それより進んでいない人々により修練されるサグナ・ディヤーナであり、いくぶん回り道です。そこでは、瞑想者、瞑想、瞑想の対象が究極的には一つに溶け込みます。
- 「私は決して生まれていなかった」と知るようになる時、私は決して死にません。死は生まれる者にとってあります。私は決して生まれませんでした。私は体を持たず、それゆえ、私は決して死にません。私はあらゆる所にいます。私がどこに行くことができ、どこに来ることができますか。
- 心が死んでいる時、彼は再び死にません。
- ジャグラート(目覚め)においてスシュプティ(眠り)を得なさい。そうすれば、あなたはジニャーニとなります。
- 心を内に向け、見る者を探しなさい。そうすれば、あなたはあなたが見る者であり、対象的世界は存在しないということを見出します。
- 心はそれ自身を主体と対象-見る者と見られるもの-に分けました。それゆえ、名と形からなる外側の世界は独立して存在しません。
- ジーヴァは、心に映ったブラフマンの影です。
- 人は前世において多くのカルマを行ったかもしれません。その中の少しだけ、今世のために選ばれ、彼は今世においてその結果を享受しなければなりません。それは幻灯機による興行のようであり、興行師は上映で披露されるスライドを少しだけ選び、残りのスライドは他の上映のためにとっておかれます。しかし、自らの知を得ることにより、カルマを滅ぼすことは可能です。カルマは過去の経験の結果であり、様々なカルマはスライドです。そして、心が投影機です。カルマは破壊されねばならず、そうすれば、映像もなく、サンサーラもありません。
- 私は心の支配者です。私は心ではありません。たいていの人々は心を自らとみなし、彼ら自身に苦しみをもたらします。
- グルは人にとって必要です。彼は実現への道の導き手として役立ちます。しかし、導くグルなくして真理を知った人々もいます。そのような人々は過去の転生において学んだに違いありません。一言か、二言で実現の道に向けるのに十分な人々もいれば、一方、どのような進歩をしうる前に何年も努力して進まなければならない人々もいます。
- ディヤーナは真理の実現のために必要です。全ての人が目的に達するために敷かれた道-ヨーガ、バクティ、ジニャーナ-の中で、彼らに合うものを選ばねばなりません。ヴィチャーラもまたヨーガであり、単なる書籍の学習ではありません。
- ジーヴァが彼自身をパラブラフマンとして知り、安らぎに留まる時、それが至高の沈黙(モウナム)です。
- 自らは不変です。全ての変化は心の変化です。アヴィドヤー(無知)を通じ、心の変化がアートマンに帰せられます。
- 砂糖でできたお菓子を見てみなさい。ナスの形のものもあれば、マンタパムや馬のように形作られているのもありますが、それら全ては一つの材料、砂糖からできています。同じように、この世界の対象物は様子や大きさ、または名や形は様々ですが、全てはブラフマン以外の何ものでもありません。
- アーシュラマ(グリハスタやブラフマチャーリヤのような人生の段階)は肉体に関連してのみ存在します。アートマンにはアーシュラマはありません。
- 「どうして人は幻の支配下にいなければならないのですか」という質問にバガヴァーンは、「幻を持つのは誰か探求しなさい。そうすれば、あなたは幻が存在しないことを見出します」と答えました。
- あなたは恐怖を持つべきではありません。なぜなら、アートマンはあらゆる所にあり、あなたはアートマンだからです。分離の感覚がある時に、恐怖が生じます。
- アドヴァイタ哲学のみが全ての試験に首尾よく耐えられます。他の学派は、それら自身の理論に合わせるためにヴェーダの聖句を無理に曲げています。
- 人は超常的な力を望みますが、彼らが得るものを彼らはいつの日か失わなければなりません。その力を求めることは、あなたがその力を得ようと試みる力よりも、あなたが劣っていることを暗示します。心の全ての働きは、あなたを束縛の状態に留めようとします。それゆえ、欲望を放棄し、何ものにも依存しないように。なぜなら、あなた自身が力と至福の貯蔵庫であるからです。他の一切のものを放棄し、あなたの心を安らぎに留めなさい。
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