マハルシの福音
第2巻 第1章 自らの探求
信奉者:
どのように人は自らを実現すればいいのでしょうか。
マハルシ:
誰の自らですか。見出しなさい。
信奉者:
私のですが、私は誰ですか。
マハルシ:
あなた自身を見出しなさい。
信奉者:
どうするのか私は知りません。
マハルシ:
ちょっとその質問をよく考えてみなさい。「私は知りません」と言うのは、いったい誰ですか。あなたの言葉の中の「私」とは誰ですか。何が知られていないのですか。
信奉者:
私の中の誰かか何かです。
マハルシ:
その誰かとは誰ですか。誰の中に?
信奉者:
おそらく、何らかの力です。
マハルシ:
見出しなさい。
信奉者:
どうして私は生まれたのですか。
マハルシ:
誰が生まれたのですか。答えは、あなたの全ての質問に対して同じです。
信奉者:
では、私は誰ですか。
マハルシ:
(微笑みながら)あなたは私を調べに来たのでしょうか。あなたは誰か、あなたが言わなければなりません。
信奉者:
どれほど私が試みようとも、私は「私」を捕らえられないようです。それは明確に認識できさえしません。
マハルシ:
「私」が認識できないと言うのは、いったい誰ですか。一方がもう一方によって認識できないということは、あなたの中に2人の「私」がいるのですか。
信奉者:
「私は誰か」と尋ねる代わりに、「あなたは誰か」と私自身に問いかけることはできますか。なぜなら、その時、私の心は、私がグルの姿をした神とみなす、あなたに定められるかもしれないからです。おそらく、「私は誰か」と私自身に尋ねるよりも、私はその問いによって、私の探求の目的に近づくでしょう。
マハルシ:
あなたの問いがどのような形をとるのであれ、あなたは最終的に唯一の私、自らへ行かなければなりません。
「私」と「あなた」、師と弟子などの、この全ての区別は、人の無知の表れに過ぎません。「至高なる私(I-Supreme)」のみいます。そう思わないことは、自分自身を欺くことです。
賢者リブとその弟子ニダーガの『プラーナ』の物語は、この文脈において特にためになります。
リブは、他を持たない唯一のブラフマンという至高の真理を彼の弟子に説きましたが、ニダーガは、その深い学識と理解力にもかかわらず、ジニャーナの道を選び、従うだけの十分な確信を得られず、儀式的な宗教の遵守に捧げられた生活を送るために故郷に腰を落ち着けました。
しかし、弟子が師を敬慕するのと同様に深く、賢者は弟子を愛していました。高齢にもかかわらず、弟子が儀式主義からどれほど脱したかを知るためだけに、リブは自ら町にいる弟子のもとへ行ったものでした。時々、賢者は変装して行きました。それはニダーガが師に見られていることを知らない時に、どのように振る舞うかを観察するためでした。
そのようなある時に、村の農夫に変装したリブは、ニダーガが王の行列を熱心に見つめているのに気づきました。町の住民であるニダーガに気づかれることなく、村の農夫は、このにぎわいはいったい何なのか尋ね、王が行進していると教えられました。
「ああ!王様かい。彼は行進するもんだ!でも、彼はどこだい」と農夫は尋ねました。
「ほら、象の上です」とニダーガは言いました。
「お前さんは王様は象の上だと言うね。ああ、その2つが見えるよ」と農夫は言いました。「でも、どっちが王様で、どっちが象だい」。
「なんですって!」。ニダーガは声を上げました。「あなたはその2つが見えるのに、上の人が王様で、下の動物が象なのが分からないのですか。あなたのような人と話して何になりますか」。
「後生だから、わしのような学のねえ者に腹を立てねえでくれよ」。農夫は懇願しました。「でも、お前さんは『上』と『下』と言ったね。それってどういう意味だい」。
ニダーガはもう我慢できませんでした。「あなたには王様と象、上の一方、下のもう一方が見えます。それでも、あなたは『上』と『下』がどういう意味か知りたいのですか」とニダーガは声を上げました。「もし見られるものと話される言葉があなたにほんの少ししか伝えられないなら、行為だけがあなたに教えられます。前にかがみなさい。そうすれば、あなたは十分すぎるぐらい分かるでしょう」。
農夫は言われたようにしました。ニダーガは彼の肩の上に乗り、言いました。「もう分ったでしょう。私は王様として上にいて、あなたは象として下にいます。十分はっきりしてますか」。
「いや、まだだね」。農夫は静かに答えました。「お前さんはお前さんが王様のように上にいて、わしは象のように下にいると言うね。『王様』、『象』、『上』と『下』、ここまでははっきりしているよ。でも、後生だから、わしに教えてくれよ。お前さんの言う『私』と『あなた』って、どういう意味だい」。
「私」と離れて「あなた」を定義するという手ごわい問題に、ニダーガがそのように全く唐突に直面したとき、彼の心に光明が差しました。すぐさま彼は飛び降り、師の足元にひれ伏し、「私の敬愛する師、リブ以外の他に誰が、物質的存在という浅薄な物事から自らの真の存在(Being)へと心を引き寄せられたでしょうか。おお、恵み深い師よ、私は御身の祝福を懇願します」と言いました。ですから、あなたの目的は、アートマ・ヴィチャーラを通じ、物質的存在というこれら浅薄な物事を今ここで超越することであるのに、体にだけ属する「あなた」と「私」の区別をする余地がどこにありますか。あなたが思いの源を探し、心を内に向ける時、どこに「あなた」があり、どこに「私」がありますか。あなたは全てを包含する自らを探求し、自らであらねばなりません。
信奉者:
しかし、「私」が「私」を探し求めていなければならないとは奇妙ではありませんか。「私は誰か」という問いは結局は空虚な決まり文句になりませんか。それとも、私はそれをマントラのように繰り返し、延々と自分自身に質問すべきですか。
マハルシ:
自らの探求は、決して空虚な決まり文句ではありません。それはどのようなマントラの復唱以上です。仮に「私は誰か」という問いが心の中の質問に過ぎないならば、それに大した価値はないでしょう。自らの探求のまさにその目的は、心全体をその源に集中させることです。ですから、それは一人の「私」がもう一人の「私」を探しているというわけではありません。
ましてや、自らの探求は空虚な決まり文句ではありません。なぜなら、それは心を純粋な自らの認識にしっかり定着させ続けるという心全体の強烈な活動を伴うからです。
自らの探求は、本当のあなたである、制限のない絶対的存在(Absolute Being)を実現するための、ただ一つの間違いのない手段、唯一、直接的な手段です。
信奉者:
どうして自らの探求だけが、ジニャーナへの直接的な手段とみなされるべきなのですか。
マハルシ:
なぜなら、アートマ・ヴィチャーラというサーダナ以外の全ての種類のサーダナは、サーダナを行うための道具として心の保持を前提とし、心がなければそれを修練できないからです。修練の様々な段階において、自我は様々なより微細な形をとるかもしれませんが、それ自体は決して破壊されません。
ジャナカが、「今や私は、私をずっと破滅させてきた泥棒を見つけた。彼を直ちに処分しよう」と声を上げた時、王は本当は自我または心に言及していたのです。
信奉者:
しかし、他のサーダナで泥棒が捉えられることもありそうです。
マハルシ:
自我または心をアートマ・ヴィチャーラ以外のサーダナで破壊しようする試みは、警官を装った泥棒が泥棒を、つまり自分自身を捕まえようとすることも同然です。アートマ・ヴィチャーラのみが、自我も心も実際には存在していないという真理を明らかにでき、自らまたは絶対者(the Absolute)の純粋な未分化の存在を人が実現することを可能にします。
自らを実現した後、知られるべきものは何も残りません。なぜなら、それは完全な至福であり、全てであるからです。
信奉者:
この制限に囲まれた人生において、いったい私は自らの至福を実現できるのですか。
マハルシ:
その自らの至福は常にあなたと共にあるため、あなたがそれを熱心に探し求めようとするなら、あなたは自分自身でそれを見つけるでしょう。
あなたの苦しみの原因は、外側の人生にありません。それは自我としてあなたの中にあります。あなたは制限を自分自身に課し、その後、それを乗り越えようと無益に奮闘します。全ての不幸は自我のせいです。それと共に、全てのあなたの問題がやって来ます。実際はあなたの内にある苦しみの原因を人生の出来事のせいにすることが、あなたの何の役に立ちますか。あなた自身の外側にある(と無関係の)ものから、あなたはどのような幸福を得られますか。あなたがそれを得るとき、それはどれほど続くでしょうか。
あなたが自我を無視することによって、それを否定し、枯れさせようとするなら、あなたは自由になるでしょう。あなたがそれを受け入れるなら、それはあなたに制限を課し、それを乗り越えるための無益な奮闘へとあなたを陥らせるでしょう。そのようにして泥棒はジャナカ王を「破滅」させようとしたのです。
本当のあなたである自らでいることが、常にあなたのものである至福を実現するための唯一の手段です。
信奉者:
自らのみが存在するという真理を悟っていないため、サーダナの目的により適しているとして、ヴィチャーラ・マールガよりも、バクティやヨーガ・マールガを私は採用すべきでないですか。人の絶対的存在の実現、すなわち、ブラフマ・ジニャーナは、私のような世俗の者には全く達成できないのではないですか。
マハルシ:
ブラフマ・ジニャーナとは、それを獲得して幸福を得るために、獲得される知識のようなものではありません。人が放棄しなければならないのは、その無知な見かたです。あなたが知ろうと努める自らは、まさしくあなた自身なのです。あなたの想像された無知は、決して失われていなかった10人目の男の「喪失」を嘆く10人の愚かな男の悲嘆のように、あなたに不必要な悲嘆をもたらします。
喩え話の中の10人の愚かな男は川を歩いて渡り、対岸に到着するとすぐに彼ら全員が本当に無事に川を渡ったということを確かめたいと思いました。10人の中の1人が数え始めましたが、他の人を数えている間に、彼自身をぬかしました。「9人しか確かめられない。思った通り、我々は1人失った。いったい誰なんだ」と彼は言いました。「正しく数えたのか」と別の人が尋ね、彼自身が数えました。しかし、彼もまた9人しか数えませんでした。次々に10人それぞれが自分自身を見落とし、9人だけ数えました。「我々は9人しかいない」と彼ら全員が同意しました。「しかし、いなくなった者は誰なんだ」と自問しました。彼らは「いなくなった」人を発見するため のあらゆる努力をしましたが、失敗に終わりました。「おぼれ死んだ者はいったい誰なんだ」と10人の愚か者の中で一番感傷的な者が言いました。「我々は彼を失った」。そのように言って、彼はわっと泣き出し、残りの9人もそれにならいました。
彼らが川岸で泣いているのを見て、情け深い旅人が事情を尋ねました。彼らは何が起こったのか話し、何度も自分たちで数えた後でさえ、9人しか見つけられないと言いました。話を聞き、しかし、彼の前に10人全員を見るとすぐ、旅人は何が起こったのか見当をつけました。彼らが実際10人であり、彼ら全員が無事に渡り終えたことを彼ら自身によって彼らに知らせるため、「あなたたちそれぞれに自分で、1・2・3というように、次々と順番に数えさせましょう。その間、あなたたち全員が数に含まれている、それも一度だけ含まれていることをあなたたちが確信できるように、私があなたたちをそれぞれ一回ずつ叩きましょう。その時、10人目の『いなくなった』人が見つかるでしょう」と言いました。これを聞き、彼らは「失われた」仲間が見つかるという見込みに喜び、旅人が提案した方法を受け入れました。
親切な旅人が10人それぞれをかわるがわる一回叩く間、叩かれた人は自ら声に出して数えました。番にあたって最後に叩かれた時、「10」と最後の人が言いました。困惑し、お互いに顔を見合わせ、一斉に「我々は10人だ」と言い、彼らの悲嘆を取り除いてくれたことを旅人に感謝しましたそれが喩え話です。どこから10人目の人が連れて来られましたか。彼はかつて失われましたか。彼がその間ずっとそこにいたと知ることによって、彼らは何か新たなことを学びましたか。彼らの悲嘆の原因は、10人の内の誰かの本当の喪失ではなく、彼ら自身の無知、むしろ、彼らが9人しか数えなかったために(誰かは見つけられなかったにも関わらず)彼らの1人が失われたという彼らの単なる推測です。
あなたの場合もそのようです。実のところ、あなたがみじめで、不幸でいる理由はありません。あなた自身が無限の存在(Infinite Being)という、あなたの真の本質に制限を課し、その後、「私は有限の創造物でしかない」と嘆きます。その後、あなたは存在しない制限を超越するために、あれやこれやのサーダナを始めます。しかし、あなたのサーダナ自体が制限の存在を当然のこととするなら、どうしてそれがあなたが制限を超越する助けになれますか。
それゆえに私は言います。あなたが本当は、無限者(the Infinite)、純粋な存在(Pure Being)、絶対の自ら(the Self Absolute)であると知りなさい。あなたは常に自らであり、その自ら以外の何ものでもありません。ですから、あなたは決して自らを本当に知らないわけではありません。あなたの無知は、「失われた」10人目の男についての10人の愚か者の無知のように、形だけの無知に過ぎません。彼らに悲嘆をもたらしたのは、この無知なのです。
ですから、真の知は、あなたのために新たな存在を創造しないと知りなさい。それはただあなたの「無自覚の無知」を取り除くだけです。至福は、あなたの本質につけ加えられません。それは永遠かつ不滅の、あなたの自然な真の境地として明らかにされるに過ぎません。あなたの悲嘆を取り除く唯一の道は、自らを知り、自らでいることです。これが達成できないわけがありません。
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