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この匿名の記録者は、理学士の最終学年の学生であり、1946年にシュリー・マハルシに会いました。マハルシの前で私は身をかがめてお辞儀をし、講堂に座りました。多くの人々がいましたが、講堂は静かでした。私は静かな様子で座り続けることができなかったのですが、マハルシに何を話せばいいのか分かりませんでした。マハルシの近くの置き台に本が数冊ありました。私はその中の一冊を手に取り、読み始めました。その本には、「存在は一である」、「世界は非現実である」というような概念が記されていました。科学に限定された私の知識では、それらを理解できませんでした。私は以下のような一連の思考に混乱を感じざるを得ませんでした。「神は私をどうして創造しなければならないのか。私はどこにいたのか。私はどこにいるようになるのか。私が見る全ては虚偽なのか。確かに、私は私の前の対象物の存在を知っている。私の前に座っているマハルシを私は見ていないのか。」
それ以上、私は本を読むことができず、物思いにふけり始めました。まさにその時、マハルシは私に「あなたの疑問は何ですか」と呼びかけました。私は頭を上げ、言いました。「ソファーに人の姿があります。床にも人の姿があります。私の眼によって、この二人をとてもはっきり感じます。しかし、実際は、ただ一なるものしかないとあなたは言います。どうしてそれが真実になるのでしょうか」。マハルシは微笑み、沈黙を保ちました。数分後に、彼は言いました。
マハルシ:
あなたは実験室で実験を行うことに慣れているはずです。あなたがある対象を調べるならば、詳細さの程度はその対象を調べるためにあなたが使った道具の質によるでしょう。さて、たとえ道具が良くても、あなたの視力が悪いなら、あなたはその対象のことをほとんど知りません。視力が良くても、脳が正常でなければ、あなたは対象の本当の性質を知りません。さらに、脳が健全でも、心があなたが観察しているものに注意を払わなければ、対象について知ることは少なくなります。端的に言って、対象について知る程度(質)は、心と呼ばれる存在に依存しています。
心とは何ですか。それは思いです。全ての思いは、ただ一つの思いから生じてきます。この思いは、「私は体である」という思いです。それは二つの要素を持っています。一つは「体」であり、もう一つは「私」です。「体」ははかない性質のもので、変化にさらされており、その存在を食べ物というような外側の要因に依存しています。本当に存在するものは、常に存在しているべきです。「体」は常に存在しないので、真実ではありません。「私」は、目覚め、夢をみる眠り、深い眠りを含んだ全ての状態において存在しています。ですから、「私」が真実です。「体」は真実でありません。これら二つが組み合わさったものは、一つの実体として存在できません。夜と昼が、光と闇がどうして共存できるでしょうか。同様に、「私」と「体」が共存する存在を基礎としてもつ実体も存在しません。ですから、実際は、「私は体である」という思いは根拠を持たないのです。我々がこの真実でない思いに基づき世界を調べるなら、どうして真理を知ることができますか。
その瞬間に、私は私の知識の基盤が揺るがされているのを感じ、究極的な達成を与えるものとしての科学的探究への私の確信は突如として失われました。さらにマハルシは、自分自身の真理を知った後で世界についての真理を悟ることができると言いました。私が受けたウパデーシャ(教え)は私の心の態度を変え、ついで私の日常的な活動も変えました。以前と同じ環境で私は生活を続けましたが、マハルシの祝福を受け、人生の達成を精神的な道において求めました。マハルシの恩寵によって、調和のとれた人生を送ることができると私は感じました。
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