45年11月11日 朝
ウッタル・プラデーシュ州政府の主任技師、マハー・ヴィール・プラサードは、二十日間ばかりここに滞在しており、バガヴァーンに尋ねました。
質問:
『マハー・ヨーガ』(ラクシュマナ・サルマ著)では、瞑想のはじめに呼吸、つまり、「息を吸うこと」と「息を吐くこと」に注意を向けてよく、それにより心の落ち着きがある程度得られた後で、心の源を探してハートへ飛び込むことができると述べられています。私はそのような実際的な助言をたいへん必要としています。私はこの方法に従えますか。それは正しいですか。
バガヴァーン:
重要なことは、何とかして心を殺すことです。探求の方法に従う力を持たない人々には、心を制御するための手助けとして、プラーナーヤーマが勧められます。プラーナーヤーマには2種類あり、一つは呼吸を制御し、調整するもので、もう一つは単純に呼吸に注意するものです(*1)。
45年12月1日
昨夜、私(ムダリアール氏)はここに戻りました。ウッタル・プラデーシュ州政府の主任技師であるマハー・ヴィール・プラサードは、10月と11月に20日間ばかりここに滞在しており、ラーメシュワラムやそのほかの場所へ巡礼に出かけていましたが、(今は)ここに戻っています。
『マハー・ヨーガ』のある文章に関連した彼のいつもの質問の続きで、彼はバガヴァーンに、「私は誰か」という心の探求を始める前に、呼吸に注意する(*2)ことが必要であるのか、先行する条件であるのか尋ねました。
バガヴァーン:
すべては、その人のパクヴァ、すなわち、素質や適性によります。心を集中したり、制御する心の力を持たず、それを探求に向けることができない人々は、呼吸に注意する(*3)ように助言されます。なぜなら、そのような注意は、自然に、そして、当然ながら、思いの停止につながり、心を制御下におくからです。
呼吸と心は同じ場所から起こり、どちらかが制御される時、もう一方も制御されます。実のところ、探求の方法において-それはより正確には、単に「私は誰か」でなく、「私はどこから来たか」ですが-私たちは、究極的な現実として残るものに到達するために、「我々は体でなく、感覚などでなく」と言いながら単に取り除こうと試みているのでなく、自我にとって「私」という思いがどこから私たちの内に生じるのか見つけようと試みているのです。その方法は、その内に、明示的でなく暗示的にですが、呼吸への注意(*4)を含んでいます。私たちが全ての思いの源である「私」という思いがどこから飛び出るのか注意を払うとき、必然的に呼吸の源にも注意しています。なぜなら、「私」という思いと呼吸は同じ源から生じるからです。
プラサード氏は呼吸を制御するために、1対4対2の割合で息を吸い、止め、息を吐くように規定されている一般的なプラーナーヤーマは良くないのか、再び尋ねました。
バガヴァーン:
時には、数を数えることによってでなく、マントラを口にすることなどによって調整されるそういった割合すべては、心の制御するための助けです。それが全てです。呼吸への注意(*5)もまた、プラーナーヤーマの一つの形です。息を止めることなどはより乱暴で、サーダカを全ての段階で導く適切なグルがいない時などの場合には有害となるかもしれません。しかし、単に呼吸に注意することは簡単であり、危険を伴いません。
年配の紳士であるスワミナータ・アイヤル氏が来ました。彼はティンドゥッカル出身の代議士です。彼と一緒に、ラマナと呼ばれる3歳ぐらいの男の子がいました。見たところ、その子はその時までバガヴァーンに会ったことはなかったようですが、バガヴァーンについてたくさん聞いていたようです。それで、その子は講堂で「今、ラマナを見つけたよ」と言いました。それは自然と我々みんなの笑いを誘い、バガヴァーンも一緒に笑いました。
その年配の紳士はバガヴァーンに、サハジャ・サマーディを達成する前に、まずはニルヴィカルパ・サマーディを経験すべきでないのか尋ねました。
バガヴァーン:
私たちがヴィカルパ(*6)を持っていて、それらを放棄しようと試みている時、すなわち、私たちが未だ完全でなく、心を一点に集中し続けるか、もしくは、心を思いなく保つために意識的な努力をしなければならない時、それはニルヴィカルパ・サマーディです。修練を通じて、サマーディに入ったり再び出たりすることなく、私たちがいつもその状態にいる時、それがサハジャの境地です。サハジャにおいて、人は常に自分自身を見ています。彼はジャガット(*7)をスワルーパ(*8)、もしくは、ブラフマカーラ(*7)として見ます。
ディヤーナ、ジニャーナ、バクティ、どのような方法に人が従っても、かつては手段であるものが、終には、目的そのものになります。サマーディは、私たち自身の、私たちの真の境地の別名なのです。
(*1)(*2)(*3)(*4)(*5)・・・いずれも動詞のwatchが使われており、「呼吸を見守る」とも訳せます。
(*6)ヴィカルパ・・・「想像、思い」
(*7)ジャガット・・・「全世界」
(*8)スワルーパ・・・「自分自身の本質、真の姿」
(*9)ブラフマカーラ・・・「ブラフマンの形、姿」
46年5月10日 抜粋
ジヴラジャニ:
バガヴァーンは、真珠を潜って取る人のように、呼吸と言葉を制御して自分自身の中へと潜り、自らを発見するか、もしくは、自らを達成しなければならないと言いました。それでは、バガヴァーンは呼吸の制御の修練をすることを私に勧めるのでしょうか。
バガヴァーン:
呼吸の制御は心を制御する助けであり、そのような助けなしには心を制御できないと気づくような人に勧められます。心を制御でき、集中できる人々にとっては、それは必要ありません。呼吸の制御は、心が制御できるまで、最初は使うことができますが、その後に放棄されるべきです。心とプラーナは同じ源から生じるので、一方の制御により他方も制御されます。
ジヴラジャニ:
呼吸の制御を達成しようと力を振り絞ることは良いですか。
バガヴァーン:
いいえ。力を振り絞ること(*1)は良くありません。最初、プラーナーヤーマは、ほんの少しだけ行うことができます-出来る限り過度の力み(*2)なしに。
(*1)英語の「straining」の訳
(*2)緊張、英語の「strain」の訳
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