2013年7月7日日曜日

常に「あなた」に留まれ / あなたは虚空ではなく、その目撃者である

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』、p277~279 後略

1946年7月21日

 午後、ウッタル・プラデーシュ州のジャーンシーからの年配の訪問者、バルガヴァ氏は以下の二つの質問をしました。
  1. 始めから終りまで、私はどのように「私」を探し求めるべきですか。
  2. 瞑想する時、私は真空(*1)や虚空(*2)が存在する段階に達します。そこから、私はどのように進むべきですか。
バガヴァーン:
 映像、音、その他の何があっても、もしくは、虚空があっても、気にすることはありません。この全ての間にあなたは存在していますか、それとも、あなたは存在していませんか。あなたが虚空を経験したと言えるためには、その虚空の間にさえ、あなたはそこにいたに違いありません。その「あなた」に据えられることが、始めから終わりまでの「私」の追求です。ヴェーダーンタに関する全ての本の中に、弟子によってなされ、グルによって答えられた虚空、もしくは、残された無に関するこの質問をあなたは見つけます。対象を見たり、経験を持ち、そして、見たり、経験することをやめる時に虚空を見出すのは心ですが、それは「あなた」ではありません。あなたは、その経験と虚空を共に照らしている絶え間ない輝きです。それは劇場の光のようであり、劇が進行している間に劇場、俳優、劇をあなたが見ることを可能にしますが、輝くままあり、劇がすべて終わった時にあなたが「劇は上演していない」と言うことを可能にします。また、別の例もあります。我々は我々の周りの対象物を見ますが、完全な暗闇の中でそれらを見ることができず、「私は何も見ていない」と言います。その時でさえ、目が何も見ていないと言うために目はそこにあります。同様に、あなたが言及した虚空の中にさえ、あなたはそこにいるのです。

 あなたは、粗大、微細、原因という三つの体、目覚め、夢、深い眠りという三つの状態、過去、現在、未来という三つの時間、そしてまた、その虚空の目撃者です。10番目の男の話の中で、10人それぞれが数え、それぞれが自分自身を数えるのを忘れ、9人しかいないと思った時、彼らが一人いなくなっており、それが誰か分からないと思う段階があります。そして、それが虚空に対応します。我々は我々の周りに見る全てが永遠であり、我々がこの体であるという概念にとても慣れ親しんでいるため、この全てが存在しなくなる時、我々もまた存在しなくなったと想像し、恐れます。

 また、バガヴァーンは『ヴィヴェーカチューダーマニ』から212、213詩節を引用しました。その中で弟子は、「五つの覆いを自らでないとして取り除く後に、私は全く何も残っていないと気づきます」と言い、グルは、それによって(自我とその創造物と含む)全ての変形とその消失(つまり、虚空)が知覚される自ら、もしくは、それはいつもそこにあると答えました。バガヴァーンはこのテーマについて話を続け、言いました。

バガヴァーン:
 自ら、もしくは、「私」の本質は、輝きに違いありません。あなたは全ての変形とその消失を知覚します。どのようにでしょうか。あなたが輝きを別の人から得ると言うことは、どのように彼がそれを得たのかという質問を提起し、推論の連鎖に終わりはないでしょう。ですから、あなた自身が輝きなのです。このいつもの例は以下になります。あなたは様々な原料からなり、様々な形のあらゆる種類のお菓子を作りますが、それはみんな甘く感じます。なぜなら、その中の全てに砂糖があり、甘さは砂糖の本質だからです。そして、同様に、全ての経験とその消失は、自らの本質である輝きを含んでいます。砂糖がなければ、あなたが作るものの中のどれ一つも甘く感じられないのとまさしく同様に、自らがなければ、それは経験できません。

 (少し後で)はじめ、人は自らを対象物として見ます。次に、人は自らを虚空として見ます。次に、人は自ら自らとして見ます。この最後のみにおいて、見ることは存在しません。なぜなら、見ることは在ることです。

(*1)真空・・・「vaccum」の訳
(*2)虚空・・・「void」の訳

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