2013年7月13日土曜日

『マハルシの福音』 第1巻 第5章 自らと個人性

◇『Maharshi’s Gospel -The Teachings of Sri Ramana Maharshi』 2009年15版、p19-21

マハルシの福音


第1巻 第5章 自らと個人性 


弟子:
 大海に注ぐ川がその個別性を失うのと同じように、死は人の個人性を解消するため、転生はありえないのではありませんか。

マハルシ:
 しかし、水が蒸発し、雨として山々に戻るとき、もう一度それは川の形で流れ、海に流れ込みます。そのようにまた、眠りの間の個人性もその分離性を失いますが、それでも、サンスカーラ、過去の傾向に応じて個々人として戻ります。死においてもまさにその通りです。サンスカーラのある人の個人性は失われません。

弟子:
 どうしてそうなるのですか。

マハルシ:
 その枝を切られている木がどのように再び成長するのか見てみなさい。木の根が引き抜かれないままである限り、木は成長し続けるでしょう。同様に、死の際にハートに沈んでいる過ぎず、それが理由で消滅していないサンスカーラは、適切な時に転生を引き起こします。そのようにしてジーヴァは生まれ変わります。

弟子: 
 無数のジーヴァと、その存在がジーヴァの存在と相補的関係にある広大な世界が、ハートに沈んだ、そのような微細なサンスカーラからどうして芽吹きうるのですか。

マハルシ:
 バニヤンの巨木が小さな種から芽吹くように、ジーヴァと名と形を伴う全世界も、微細なサンスカーラから芽吹きます。

弟子:
 どのように絶対的な自らから個人性が出現し、どのようにその帰還は可能になるのですか。

マハルシ:
 火炎から火花が生じるように、絶対的な自らから個人性が出現します。その火花は自我と呼ばれます。アジニャーニの場合、自我はその生起と同時にそれ自体を何らかの対象物と同一視します。それは、対象物とのそのような関わりなしに留まれません。

 この関わりはアジニャーナによるもので、その破壊が人の努力の目的です。それ自体を対象物と同一視する、この傾向が破壊されるなら、自我は純粋になり、その後、それはその源に溶け込みもします。自分自身と体との誤った同一視は、デハートマ・ブッディ、「私は体である」という考えです。これがなくならなければ、良い結果は後に続きません。

弟子:
 どのように私はそれを根絶すべきですか。

マハルシ:
 あなたは体と心に関わることなくスシュプティ(*1)に存在しますが、他の2つの状態では、あなたはそれらに関わっています。仮にあなたが体と一体であるなら、どうしてあなたは体なしでスシュプティに存在できるのですか。あなたは、自分の外側にあるものから自分自身を分離することはできますが、自分と一体であるものからは(分離)できません。それゆえ、自我は体と一体であるはずがありません。これが目覚めている状態で実現されなければなりません。3つの状態は、この知識を得るために学ばれます。

弟子:
 (3つの)状態の中の2つに制限された自我が、どうして3つの状態全てを包含するそれを実現しようと努力できるのですか。

マハルシ:
 純粋な状態の自我は、2つの状態の合間、もしくは、2つの思いの合間に経験されます。自我は、一方をつかんではじめて、もう一方を手放す、いも虫(*2)のようです。その本質は、それが対象物、もしくは、思いと接触していない時に知られます。ジャーグラット(*3)、スワプナ(*4)、スシュプティという3つの状態の検討によって得られた確信を通じて、あなたはこの合間を永続する不変の現実、あなたの真の存在(Being)として実現すべきです。

弟子:
 私が目覚めの状態にいるように、私はスシュプティに好きなだけ留まったり、思いのままにその中にいることはできないのですか。この3つの状態のジニャーニの経験はどうですか。

マハルシ:
 スシュプティは、あなたの目覚めの状態でも確かに存在します。今でさえ、あなたはスシュプティにいます。このまさに目覚めている状態で、それに意識的に入り、到達しければなりません。本当は、それに入ったり、それから出たりすることはありません。ジャーグラットの状態でスシュプティに気づいていることが、ジャーグラット・スシュプティ、それがサマーディです。

 アジニャーニは、スシュプティに長く留まれません。なぜなら、彼の性質によって、彼はそれから出ざるを得ないからです。彼の自我は死んでいないので、くり返しくり返し生じるでしょう。しかし、ジニャーニは、自我をその源で粉砕します。あたかもプラーラブダ(*5)によって駆り立てられるかのように、それが彼の場合にも時には現れるように見えるかもしれません。つまり、アジニャーニの場合のように、ジニャーニの場合も、ただ表面上の目的のためだけに、プラーラブダが自我を維持、保持しているように見えるでしょう。しかし、根本的な違いがあります。アジニャーニの自我はそれが生起するとき(本当は、深い眠りを除き、それは退いています)、その源を全く知りません。言いかえれば、アジニャーニは、その夢と目覚めている状態でスシュプティに気づいていません。ジニャーニの場合は、逆に、自我の生起や存在は見かけだけのもので、そのような見かけの自我の生起や存在にも関わらず、彼は途切れのない超越的な体験を享受し、その注意(ラクシャヤ)をいつも源に保っています。この自我は無害です。それは燃やされた縄の残骸のようでしかありません-形を持ちますが、それは何を結ぶのにも役立ちません。継続的に注意を源に保つことによって、海の中の塩でできた人形のように、自我はかの源に溶け込みます。

弟子:
 キリストの磔(はりつけ)の意義とは何ですか。

マハルシ:
 体が十字架です。イエス、人の子は、自我、もしくは、「私は体である」という考えです。人の子が十字架の上で磔にされるとき、自我は消滅し、後に残るものは絶対的存在です。それが輝かしい自らの、神の子-キリストの復活です。

弟子:
 しかし、どうして磔が正当化されるのですか。殺人は恐ろしい犯罪ではありませんか。

マハルシ:
 全ての人が(今)自殺しています。永遠の、幸福に満ちた、自然の境地は、この無知な人生によって窒息死させられてきています。このように現在の生は、永遠の明白な存在の殺害によるものです。それは実際、自殺の一例ではないですか。ですから、どうして殺人などについて心配するのですか。

弟子:
 シュリー・ラーマクリシュナは、ニルヴィカルパ・サマーディ(*6)は21日以上継続できず、もし続けるなら、その人は死ぬと言います。それは事実ですか。

マハルシ:
 プラーラブダが使い果たされるとき、後に何の痕跡も残さず、自我は完全に解消されます。これが最終的な解放(ニルヴァーナ)です。プラーラブダが使い果たされなければ、ジーヴァンムクタ(*7)の場合に生起するように見えるかもしれないように、自我は生起するでしょう。

(*1)スシュプティ・・・夢を見ない深い眠りの状態
(*2)芋虫・・・worm、にょろっとした足のない虫で、ミミズとかウジとかを指しているようです。芋虫はcaterpillarの訳なのですが、ぴったりした訳語が見当たらないのでここで使っています。
(*3)ジャーグラット・・・目覚めている状態
(*4)スワプナ・・・夢を見ている状態
(*5)プラーラブダ・・・現在の人生で経験するように割りてられた過去の行為の結果の一部
(*6)ニルヴィカルパ・サマーディ・・・思いのない自らへの没入
(*7)ジーヴァンムクタ・・・生きているうちに解放を得た者

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