2013年12月10日火曜日

沈黙の力、グルとの死後の交際、交際の利益、ジャパの修練、死と解放

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』、p168~172

46年3月9日 朝 

 ボーパールの引退した医療官長であるマサラワーラー医師は、もう1ヵ月以上ここにいて、シヴァ・ラオ医師の不在の間、アーシュラムの病院を一時的に管理しています。彼はバガヴァーンに以下の質問をして、以下の答えを得ました。

質問:
 バガヴァーンは、「ジニャーニの影響は沈黙のうちに信奉者へそっと入りこむ」と言います。バガヴァーンはまた、「偉大な人々、高貴な方々との交際は、人の真の存在を実現する一つの有効な手段である」と言います。

バガヴァーン:
 ええ。何か矛盾していますか。ジニャーニ、偉大な人々、高貴な方々-彼(医師)はこれらの人たちを区別するのですか。

 そこで直ちに、私(デーヴァラージャ・ムダリアール)は「いいえ」と言いました。

バガヴァーン:
 彼らとの交際は良いことです。彼らは沈黙を通じて働きかけます。話すことによって、彼らの力は減少します。沈黙はもっとも力強いのです。言葉はいつも沈黙より力強くありません。ですから、心の交際が最良です。

質問:
 それはジニャーニの身体の消滅の後さえも当てはまりますか、それとも、それは彼が肉体(血と肉)の内にいる限りのみ真実ですか。

バガヴァーン:
 グルは身体的な形態ではありません。ですから、交際はグルの身体的な形態が消え去った後さえも存続します。

質問:
 同様に、グルと信奉者の交際はグルの死後も続きますか。それとも、終わりますか。成熟した者にとっては、グルが亡くなった後、彼の自らが彼のグルの役目を果たすことは可能ですが、未熟な者は何をすべきですか。バガヴァーンは、「外側のグルもまた信奉者の心を自らへ押し進めるために必要とされる」と言います。彼は別の熟練者と交際できますか。この交際は必ず身体的なものであるべきですか、それとも、心の交際で十分ですか。どちらがより良いでしょうか。

バガヴァーン:
 すでに説明したように、グルは身体的な形態でないので、彼の交際は彼の形が消え去った後で続きます。一人のジニャーニが世界に存在するならば、彼の影響は、ただ彼の直近の弟子たちのみでなく、世界の全ての人々により感じられ、もしくは、利益します。世界の全ての人々は彼の弟子、バクタ、彼に無関心な人々、彼に敵意すらある人々に分けられ、以下の詩節ではこの全ての区分がジニャーニの存在により利益されると言われています。

四つの区分の人々がジヴァーンムクタ(*1)により利益を受ける
ジーヴァンムクタへの信により、弟子はムクティを達成し
グルを崇拝するバクタは功徳を得
ジーヴァンムクタの聖なる生き方を見た無関心な人々は正義(廉直)への望みを獲得し
罪びと(つまり、最初の詩節の敵意ある人々)さえも
そのような聖者のダルシャンを得たという事実だけによって罪を取り除く
(『ヴェーダーンタ・チューダーマニ』から、バガヴァーンの引用の要約)

 神、グル、自らは、同じものです。あなたの神へのバクティがあなたを成熟させた後、神はグルの姿でやって来て、外側からあなたの心を内側に推し進めますが、一方、彼は自らとして内にいるので、あなたを内からそこに引き寄せます。そのようなグルは、とても進歩した稀な人々には必要ありませんが、広く一般に必要とされています。人は彼のグルが亡くなった後、別のグルのもとへ行けます。しかし、全てのグルは一つです。彼らの誰も形態ではないからです。いつも心の交際が最良です。

質問:
 私の修練は継続的なジャパであり、吸う息と共に神の名を言い、吐く息と共にバーバー(つまり、ウパシュニ・バーバ(*2)、もしくは、サーイー・バーバー)の名を言います。これと同時に、私はバーバーの姿をいつも見ます。バガヴァーンの内にさえ、私はバーバーを見ます。外見もとてもよく似ています。バガヴァーンはほっそりしています。バーバーはすこし太っています。今、私はこれを継続すべきでしょうか、それとも、方法を変えるべきでしょうか。内から何かが、「あなたが名と形にしがみつくなら、あなたは決して名と形を超え行けないだろう」と言います。しかし、名と形を放棄した後、私はさらに何をすべきか分かりません。バガヴァーンはこの点について私に教えて下さいますか。

バガヴァーン: 
 あなたは現在の方法を続けてかまいません。ジャパが継続的になる時、他の一切の思いは止み、人はその本質の内にいます。それはジャパやディヤーナです。我々は心を世界の物事へ外に向け、それゆえ、常にジャパである我々の本質に気づきません。いわゆる意識的な努力、ジャパやディヤーナによって、我々が我々の心が他の物事を考えるのを妨げる時、後に残るものが我々の本質であり、ジャパです。

 あなたが「私は名と形である」と思うかぎり、あなたはジャパにおいても名と形から逃れられません。あなたが「私は名と形ではない」と悟る時、名と形は自ら抜け落ちます。他の努力は必要ありません。ジャパやディヤーナは自然に、そして、自ずからそれに通じます。今、手段としてみなされているもの、ジャパがその時、目的であると見出されます。名と神は異なりません。1937年9月号の「Vision」から抜粋された神の名の意義についてのナームデーヴの教えをご覧なさい。(これは講堂で読みあげられました。)

 バガヴァーンはまた、聖書を引用しました。「はじめに言葉があり、言葉は神と共にあり、言葉は神であった」(*3)

質問:
 解放は体の消滅の前に達成されるべきですか、それとも、死後に得られますか。ギーターの2章・72(*4)や8章・6(*5)のような詩節の意味は何ですか。

バガヴァーン:
  あなたに死がありますか。死が誰にありますか。死ぬ体、寝ている間に、あなたはそれに気づいていましたか、それを持っていましたか。あなたが寝ていた時、はありませんでしたが、その時でさえあなたは存在していました。あなたが目覚めた時にあなたは体を得て、その目覚めの状態においてさえ、あなたは存在します。眠りと目覚めの両方において、あなたは存在していました。しかし、眠りにおいて体は存在しておらず、目覚めにおいてのみ存在します。いつも存在せずに、ある時には存在し、他の時には存在しないものは現実になるはずがありません。あなたは常に存在しており、それゆえに、あなたのみが現実なのです。

 解放はあなたの別名です。それは、あなたと共に今ここにいつもあります。それは、これから後や、どこかで勝ち取られたり、達せられたりする必要はありません。キリストは、今ここに「神の王国はあなたの内にある」と言いました。あなたは死を持ちません。ターユマーナヴァルは、「世界に住んでいる時でさえ、ニシター(*6)に常にいる者たちは死のようなものがあると考えない」と歌っています。

 ギーター全体の文脈において、その(たとえば、2章の)ギーターの詩節は、あなたが今世の間に解放を達成しなければならないということを意味しているだけです。たとえ今世の間にそれができなくても、あなたは少なくとも死の時に神を思わねばなりません。なぜなら、人は死の時に考えたものになるからです。しかし、あなたが生きている間中いつも神を思っていなければ、あなたが生きている間に神についてのディヤーナを常なる習慣としていなければ、あなたが死の時に神を思うのはまったく不可能でしょう。

(*1)ジーヴァンムクタ・・・命あるうちに解放に達した聖者。
(*2)ウパシュニ・バーバー・マハーラージ・・・http://en.wikipedia.org/wiki/Upasni_Maharaj
(*3)「ヨハネによる福音書」の第1章1・2詩節、3詩節は「全てのものはこれによってできた」
(*4)ギーターの2章72詩節:「プリターの息子よ、これがブラフマンの境地である。それに達すれば、迷うことはない。死の時もこれに留まるなら、ブラフマ・ニルヴァーナに達する」
(*5)ギーターの8章6詩節:「体を捨て去る時にどのような思いを思い起こそうとも、クンティーの息子よ、彼は必ずいつもその思いとなる」
(*6)ニシター・・・サンスクリット語。最上の住まい・堅固な献身。

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