いかにしてシュリー・バガヴァーンはその聖なる御前に私を引き寄せたのか
M.G.シャンムカム
以下の文章は、記録保管所で発見されました。何かの不可解な理由から、それはこの雑誌に一度も掲載されていませんでした。彼のマハー・ニルヴァーナの日まで、1926年から24年間にわたり、シュリー・バガヴァーンと交際するという幸運に恵まれていたのにも関わらず、以前にこの文章を記さなかったことを、私は「The Mountain Path」の読者にお詫び申し上げねばなりません。その理由とは、誰にも知られることなくアートマ・ヴィチャーラを修練することが常により望ましいとかつてシュリー・バガヴァーンが私に語ったからです。
故シュリー・デーヴァラージャ・ムダリアールとシュリー・T・P・ラーマチャンドラ・アイヤルとシュリー・バガヴァーンの他の信奉者たちは、後世の人々がそれを失うといけないからと、シュリー・バガヴァーンとの私の思い出と体験を記すように私に求めました。この頃、シュリー・バガヴァーンご自身が私の夢に現れ、この文章を書くように、また、タミル語の本、「Sri Bhagavan’s Life and His Sayings」を改訂するように私に命じました。その本は、彼の限りない恩寵を通じて私によって記され、早くも1930年に出版されました。さらにまた、その本が手に入れやすくなければならないと彼は私に言いました。
いかにしてシュリー・バガヴァーンがその聖なる御前に私を引き寄せたのかを示すためには、私の初期の人生の手短な描写が必要です。
私はマヤバラムに生まれ、14の歳から宗教的な気質を持っていました。当時、私はプージャーを行い、マントラを復唱し、ウパニシャッドとバガヴァッド・ギーターはもちろん、アドヴァイタに関するほとんど全ての宗教書を読んでいました。幼少期からの私の熱烈な願いとは、アドヴァイティンになることであり、今世でジーヴァンムクタのダルシャンを得るほと十分に恵まれているようにと心から願い、私は涙を流しながらスワーミ・ヴィヴェーカーナンダの写真の前で座ったものでした。
私の最初のグルは、ティルチェンゴードゥのムルガッパ・デーシカルという名の人で、1922年に私は眉間の瞑想の手ほどきを受けました。いつものプージャーに加え、私はそれを日に三度、それぞれ一時間修練しました。これをいくらか修練した後、一種の脳の疲労と心に不快な状態が現れました。この時、ヒマラヤで12年間苦行を行ったスワヤムプラカーシャ・ヨーギニ・アンマルという名の人が父の招待で家にやってきました。私の父、故K.ゴーパラ・ピッライは、警部補であり、非常に敬虔でした。父とヨーギニは宗教的な議論をいくらか行い、それに私は加わりたいと思いましたが、父は私が若すぎるという理由で参加することを許しませんでした。私は苛立ち、大変に気落ちしました。ヨーギニが一人でいる時、私は彼女に私の精神生活と体験を語り、彼女の導きを懇願しました。彼女は大いに私を気に入り、眉間の瞑想は狂気(精神異常)に至ることもあるかもしれない。瞑想はハートで修練されねばならないと言いました。彼女は私にシュリー・ヴェンカタチャラパティのルーパ・ディヤーナの修練を手ほどきして下さいました。さらにまた、彼女は親切にも私の精神的探求のすべてにおいて父が私を手助けするように頼んで下さいました。
三人目のグルは、マハーンミヤマチ・スワーミアールという名の人であり、ティルチェンゴードゥの山の斜面の洞窟の一つに住んでいました。私は彼からシュリー・バガヴァーンについて知りました。父と私は週に一度、スワーミアールを訪れたものでした。ある日、私が彼のアーシュラムへ行った時、あいにく3週間、彼が不在であると分かりました。彼が戻った後、このところずっと彼がどこに行っていたのか尋ねました。彼はティルヴァンナーマライに行き、シュリー・ラマナ・マハルシという名の偉大なジーヴァンムクタのダルシャンを得るという大変な幸運に恵まれ、(マハルシが)2、3語彼に話しかけたと言いました。そのような偉大な人物のダルシャンは、これ以後、生を受けない資格を人に与える、と。私は驚愕しました。その時以来、ティルヴァンナーマライへ行きたいという望みは頭から離れなくなりました。当時、私はセーラムの市立大学で財政法の授業を学んでいました。4か月が過ぎ去りました。大変驚いたことに、1926年に父が警部補としてティルチェンゴードゥからティルヴァンナーマライに転勤になりました。どうしていいか分からずに、私は困惑していました。ティルヴァンナーマライへ行きたいという私の望みは大変に強かったため、父のそばに行き、私が数学が苦手であるという口実で、勉強を中断して、シュリー・バガヴァーンのダルシャンを得るために彼とともにティルヴァンナーマライへ行くことを許してくれるように頼み、来年、チダンバラムのシュリー・ミーナークシ大学に入り、歴史を選択科目にとると話しました。私は拒絶を予期していました。なぜなら、どんな父親も息子が一年間勉強を無駄にすることを許さないでしょうから。しかし、信じられないことに、シュリー・バガヴァーンの恩寵がそこにはありました。父は快く私の願いをかなえ、ティルヴァンナーマライへ彼に同行することを許しました。
父と家族の他のメンバーとともに、私はティルチェンゴードゥを離れ、ティルヴァンナーマライへ向いました。カートパーディで、我々は広軌からメーターゲージへ乗り換えなければなりませんでした。列車に乗ってすぐ後、私は半ば眠り、半ば目覚めているように感じました。その状態で、私は次のようなヴィジョンを得ました。「私はティルヴァンナーマライへ旅をし、道を尋ね、小屋がある場所にやってきた。小屋の内部で、私は背の高い男性が長椅子に横たわっているのを目にした。彼の前にはクムムディ(水差し)があった。私が小屋に入るとすぐに、クムムディの中に燃え立つようなジョーティ(光)があった」。私は目覚めました。
ティルヴァンナーマライに到着してすぐ後、誰にも、愛する父にさえ告げずに、私はラマナーシュラマムへの道を尋ね、多少苦労してそこに到着しました。アーシュラムに入った時、驚愕したことに、私は同じ小屋、同じ背の高い男性を目にしました-彼が長椅子に座っていたことを除いてですが。そして、ヴィジョンの中で私が目にしたように彼の前にはクムムディがありました。
私は彼の前で平伏し、彼は即座に私に尋ねました-「いつ来ましたか」、そして、「右手はどんな具合ですか」と。信じられない!シュリー・バガヴァーンが私の折れた右手について知る機会は全くありませんでした。さらにまた、シュリー・バガヴァーンによって私になされた最初の質問自体が、彼が私がやってくるのを知っていたことを示しています。彼はうなずき、身ぶりで私に座るように求めました。彼との私の最初の交際は、彼の聖なる御前における一時間の滞在の間に起こり、それは私に完全な平安、心の安らぎ、神経の落ち着きを与え、体は一本の藁のように軽く感じました。
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その日以来、1926年から1950年まで私と彼との交際は途切れることなく、彼は私の精神的進歩に大いに良い結果をもたらし、私のこの世界の見かたを完全に変え、私は純粋なアドヴァイティンになりました。彼の恩寵によって、私はアートマ・ヴィチャーラという彼の方法を修練することができました。彼の深遠な沈黙によって、様々な聖典からの引用によって、その場ですぐに彼は私の疑問をすべて晴らしました。
私の家族全員は、シュリー・バガヴァーンを信奉していました。彼は外見上は全く普通の人のように我々の中で行動しましたが、我々は多くの体験と奇跡を経験しました。シュリー・バガヴァーンの偉大さと全能性と彼の最上の純粋な意識(サハジャ・サマーディの境地)を示すためには、2つの例だけ挙げれば十分です。それはおよそ1935年か1936年であったと思います。早朝、私はシュリー・バガヴァーンに質問しました。「ニルヴィカルパ・サマーディの本質と境地とは何ですか」。彼は黙っていました。なぜ私がこの質問をしたのか、私は不思議に思いました。夕方、私は自らの探求という彼の方法を彼の目の前で非常に集中して修練しました。「私は誰か」という絶え間ない探求によって、私の心にはゆっくりと思いがなくなり、ゆっくりと心は「私」という思いのみに自覚的に瞑想し始めました。没入が始まり、心は内観的になり、「私」という思いに瞑想しながら、さらに深くに進みました。ハートは穏やかな振動によって感じられ、呼吸はとても浅くなりました。心は私を外側に連れ出そうと試みましたが、その瞬間、突然、何らかの力が私を完全に内側に引っ張り、その結果、自我は崩れ落ちました。その瞬間、体と世界の意識は完全に消え去り、それらに代わり、言葉で表現しえない形容しがたい至福と結びついた、深い「私」「私」という意識を伴う広大なものが存在しました。シュリー・バガヴァーンの咳の音によって、私はその最上の体験から目覚めました。膝をマッサージしているシュリー・バガヴァーンを除いて、講堂には誰もいませんでした。バガヴァーンは、「さあ、食事にしましょう」と言いました。私は最上の心の安らぎを感じました。食後、我々は講堂に戻り、バガヴァーンは、「あなたの体験はどうですか」と尋ねました。私は私の体験のすべてを物語りました。それから、シュリー・バガヴァーンは、それはアートマ・ヴィチャーラの絶え間ない修練によって得られる境地であり、それがサハジャになるまで継続的に修練し続けねばならないと言いました。彼はこの最上の境地について様々な聖典から引用しました。
別の例は、脳充血のために弱り、ゆっくりと死へ向かっていた私の妹の例でした。彼女は今や意識がなくなりました。医者たちは最善を尽くしましたが、回復の見込みはないと明言し、親族全員に知らせるように父に頼みました。シュリー・バガヴァーンを非常に信奉していた母は、泣きながら叫びました。「おお、バガヴァーン。私たちはあなたの聖なる御前を離れたばかりです。なんという災いでしょうか!娘をお救いください!」 即座に、シュリー・バガヴァーンがカマンダラム(水差し)を携え、妹のそばを通り過ぎるのを母は目にしました。すぐに、妹は眠りからのように目覚め、水を求めました。
少しの聖典の知識も持たず、彼に手ほどきをするグルを持ちませんでしたが、シュリー・バガヴァーンは16歳の時に死の恐怖を体験することによって自らの実現を得ました。彼は天性のジニャーニであり、アティアーシュラミとして知られる最高の部類のジニャーニに属していました。そのようなジニャーニは、何らかの忘れられた真理を説くために世界にまれに現れます。シュラヴァナ、マナナ、ニディディヤーサナという伝統的な方法に反し、バガヴァーンはアートマ・ヴィチャーラという直接的な方法を開示しました。それは何らの制約も要求せず、カーストや信条に関わらず、皆が修練できます。
シュリー・バガヴァーンは具現化した魂(人)であるにもかかわらず、54年間、純粋な意識として我々とともに行動しました。そして、彼はいまだ我々の間で生きていて、彼の存在は真摯なすべての信奉者に強く感じられます。これは実際の体験です。ティルムーラルが、ジニャーニの影響は彼のサマーディで千年間継続すると言うように、彼は遍在し、全知ですが、現ラマナーシュラマムはシュリー・バガヴァーンの真の住まいであり、そこで彼はいつも純粋な絶対的意識としていつも力強く存在し、恩寵を全ての信奉者と訪問者に注いでいます。
信奉者と訪問者は、バガヴァーンの住まい、ティルヴァンナーマライの現シュリー・ラマナーシュラマムを訪れることによって、この絶好の機会をどうぞ役立て、彼の豊かな恩寵を受け取って下さい。一たび訪れるならば、必ずや誰もが確信するでしょう。
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