2015年4月22日水曜日

『A Search in Secret India』 第9章 ⑥マハルシとの対話-(2)

◇『秘められしインドでの探求(A Search in Secret India)』 邦題:秘められたインド

 その後の数日間、私はマハルシとより親密に接触しようと努めたが、失敗した。この失敗には、三つ理由が存在した。一つ目の理由は、彼自身の控え目な性質、彼が論争や討論を明らかに好まないこと、人の信条や意見への感情を表わさない彼の無関心から自然と生じた。全く明らかとなったことは、賢者が、彼自身の意見が何であっても、それに誰をも転向させることをまるで望まず、ただの一人でも彼の追随者に加えようとする気がまるでないことだ。

 二つ目の理由は、確かにおかしなものだったが、それでもなお、それは存在した。あの奇妙な夢の夕べ以来、彼の面前に行く時はいつでも、私は大変な畏敬の念を感じた。そのように感じなければ私の口からとうとうと出たであろう質問は沈黙させられた。なぜなら、一般的な人類に関する限り、人が同列に対話したり、議論したりできる人として彼をみなすことは、ほとんど冒涜のように思えたからだ。

 私の失敗の三つ目の理由は、いかにも単純なものだ。ほとんどいつも、講堂には他に数人の人がいた。それで、私の個人的な思いを彼らの前で持ち出す気持ちにならなかった。つまるところ、彼らにとって私は見知らぬ人、この地方にいる外国人である。私が彼らの内の何人かに向けて異なる言語を発することはほとんど重要でないことだったが、私が宗教的感情によってかき乱されない皮肉っぽく懐疑的な見解を抱いていることは、私がその見解を述べようとする時、大いに重要なことだった。私には彼らの信心深い敏感な感情を傷つけようとする気はまるでなかったが、また、私にとってほとんど魅力的でない観点から問題を議論しようとする気もまるでなかった。それで、ある程度、このことは私を口ごもらせた。

 三つの障壁すべてを越える平坦な道を見出すことは、簡単ではなかった。数回、私はまさにマハルシに質問しかけたが、三つの要因の内の一つが邪魔に入り、私の失敗を引き起こした。

 予定された週末は早々と過ぎ、私はそれを1週間に延長した。私がその名にふさわしいマハルシと交わした最初の会話は、同様に、最後の会話となった。一つか二つのまったく通り一遍のありきたりの会話の断片を超えて、私はその人と正面からぶつかれないでいた。

 1週間が過ぎ、私はそれを2週間に延長した。日ごと、賢者の心の佇まいの素晴らしい安らぎ、彼の周りの空気そのものに行き渡る静穏を私は感じた。

 私の訪問の最終日がやって来たが、私は彼とまるでより親密になっていなかった。私の滞在は、崇高な気分とマハルシとの価値ある個人的接触を達成し損なうことでの気落ちとが、じれったく入り混じっていた。私は講堂を見まわし、少し意気消沈した。この人たちの大部分は、内輪でも表でも異なる言語を話している。どうすれば彼らに近づけるというのか。私は賢者自身を見た。彼はそこでオリンポス山の頂上に座り、人生の移り変わる光景を離れたところからじっと見ている。この人の中には、私が出会った他の一切の人と彼を区別する謎めいた特性がある。どことなく私は、彼は我々人類に属していないどころか、自然にも属しておらず、隠遁所の背後に唐突にそびえ立つ孤峯に、遠くの森にまで広がる密林の荒れ地に、全空間を満たす計り知れない虚空に属している、と感じた。

 孤独なアルナーチャラの石のように冷徹で不動の性質が、いくらかマハルシの中へ入ったようだった。彼が30年間山で生活し、たった一度の短い旅のためでさえ、山から離れることを拒んでいることを私は知った。そのような親密な付き合いは、必然的に人の性格にその影響を及ぼすはずだ。彼がこの山を愛していることを私は知った。というのも、賢者がこの愛を表すために記した、魅力的ではあるが哀れを誘う詩の数詩節を誰かが翻訳したからだ。この孤山が密林のへりからそびえ立ち、そのずんぐりした頭を空に真っ直ぐ立てているのとまさしく同様に、この奇妙な人は、人類一般という密林の中から孤独に気高く、いやむしろ、唯一人だけ、彼自身の頭を掲げている。アルナーチャラ、神聖なかがり火の山が、全景を取り巻く山々の不規則な連なりから離れ、遠ざかって立つのとまさしく同様に、彼自身の信奉者たち、彼を愛し、彼のそばで何年も過ごしている人々に取り囲まれている時でさえ、マハルシは謎めいて超然としたままだ。万物の非人格的で、計り知れない性質-殊更、この神聖な山において例証される(性質)-が、どういうわけか彼の中へ入った。それは彼のか弱い仲間たちから彼を隔絶した-おそらくは永遠に。彼がもう少し人間的であれば、ちょうど彼の非人格的な面前に示された弱々しい失敗のように、我々にとってまったく普通に思えるものにもう少し敏感であれば、と気がつけば願っていることもあった。そうかといって、彼が並々ならぬ何らかの崇高な悟りを本当に得ているなら、人間を超えることなく、彼の鈍重な種族を永遠に置き去りにすることなく、そうすることをどうして彼に期待できるのか。彼の奇妙な一瞥のもと、何らかの途轍もない啓示がすぐにでも私になされるかのように、私が奇妙な期待した状態を必ずも体験するのはなぜなのか。

 けれども、はっきりとした静穏の雰囲気と記憶の空にきらめく夢よりほかは、言葉やその他による啓示は私に伝えられていない。時間の切迫によって、私はいくぶん必死になっていた。ほぼ2週間が過ぎたが、重要な意味を持つ会話が一つだけだ!賢者の声の愛想のなさでさえ、暗に、私を遠ざけることに一役かっていた。この普通でない接見もまた、思いも寄らないものだった。というのも、黄色いローブをまとった聖職者が私に浴びせた、ここへ来るようにとの情熱的な勧誘を私は忘れていなかったからだ。じれったいことは、私が他の全ての人々よりも賢者に、私のために口を開くことを望んだことだ。なぜなら、ある一つの思いが、どういうわけか私の心を手中に収めていたからだ。私はそれをどのような推論の過程によっても得たわけではない。それは求められずとも、全く自ずからやって来た。

 「この人は一切の問題から脱しているので、どのような災難も彼を害することはできない。」

 この支配的な思いの趣旨は、そういったものだった。

 私は強引に質問を言葉に表そうとする新たな試みをしようと、マハルシを質問への応答に引っ張り込もうと決意した。私は彼の古くからの弟子の一人にもとへ赴いた。彼は隣接する小屋で何か仕事を行っていて、私にとりわけ親切にしてくれていたので、彼の師と最後に話をしたいという私の望みについて彼に熱心に伝えた。私が気後れを感じ、賢者と自ら論じ合うことができないことを打ち明けた。その弟子は、同情するように微笑んだ。彼は私を残して去り、彼の師が喜んで対談に応じるという知らせと共にすぐ戻って来た。

 私は急いで講堂に戻り、都合がいいように寝台のそばに腰を下ろした。マハルシはすぐさま顔を向け、彼の口元は緩み、愛想よく挨拶した。すぐに、私は気持ちが和らぎ、彼に質問し始めた。

 「ヨーギたちは、真理を見出すことを望むのなら、この世を放棄し、人里離れた密林や山々へ入らねばならないと言います。そのようなことは、西洋において、ほとんど行えません。我々の生活は、非常に異なります。あなたはヨーギたちの意見に賛成でしょうか。」

 マハルシは、上品な顔つきのバラモンの弟子のほうを向いた。弟子は、彼の答えを私に翻訳した。

 「活動的な人生を放棄する必要はありません。あなたが1時間か2時間、毎日瞑想するというのなら、その後、あなたの務めを続けられます。あなたが正しい方法で瞑想するなら、務めの最中でさえ、引き起こされた心の流れは流れ続けるでしょう。それは同じ考えを表わすのに、二つの方法が存在するようなものです。あなたが瞑想の中でとるのと同じ態度が、あなたの活動の中で表されるでしょう。」

 「それを行うことの結果はどうなるでしょうか。」

 「あなたが進む(続ける)につれ、人々や出来事や対象に対するあなたの態度が徐々に変化することにあなたは気づくでしょう。あなたの行為は、自ずからあなたの瞑想に倣う傾向になるでしょう。」

 「では、あなたはヨーギたちに賛成しないのですね」。私は彼に態度を明確にさせようとした。

 しかし、マハルシは直接的な回答を避けた。

 「人はこの世に彼を縛りつける個人的な利己性を放棄すべきです。偽りの自分を捨て去ることが、真の放棄です。」

 「世俗的に活発な生活を送りながら、無私無欲になることが、どうして可能でしょうか。」

 「務めと知恵の間には、何の衝突もありません。」

 「つまり、例えば、職業において、人はいつもの全ての活動を続けることができ、同時に、悟りを得ることができるということですか。」

 「もちろんです。しかし、その場合、務めを行っているのが、いつもの人格であると人は考えません。なぜなら、その人の意識は徐々に移され、終には、小さな自分を超えてあるそれの中心に置かれるからです。」

 「人が務めに従事するなら、彼には瞑想する時間がほとんど残されていないでしょう。」

 マハルシは、私の難題に全く動じないように見えた。

 「瞑想のために別に時間を設けることは、靈性の初心者のためだけでしかありません」と彼は答えた。「働いていても、働いていなくても、進歩しつつある人は、より深い至福を享受しはじめるでしょう。彼の両手は社会にありますが、彼は独り頭を冷静に保ちます。」

 「では、あなたはヨーガの道を教えないのですか」。

 「牛飼いが雄牛を棒で駆り立てるように、ヨーギは彼の心を目標へと駆り立てようとしますが、この道において、探求者はひとつかみの草を差し出すことで、雄牛をなだめ導きます!」

 「どのようにそれをするのでしょうか。」

 「あなたは、『私は誰か』という問いをあなた自身に尋ねなければなりません。この探求は、心の背後にある、あなたの内の何かの発見へ最後には通じるでしょう。この大問題を解決しなさい。そうすれば、それによって、あなたは他の一切の問題を解決するでしょう。」

 会話が途切れた。私が彼の答えを消化しようと試みたからだ。インドの大変多くの建物において窓の役割を果たす、鉄格子で閉じられた四角い枠組みの壁の穴から、私は神聖な山の低斜面の素晴らしい眺めを得た。その奇妙な輪郭は、早朝の太陽の光の中に浸っていた。

 再び、マハルシは私に語りかけた。

 「このように表現するなら、もっとはっきりするでしょうか。全ての人間は、悲しみに染まることなく、幸福を常に欲しています。彼らは終わりを迎えない幸福をつかみたいのです。その本能は、真のものです。しかし、あなたは今までに、彼らが彼ら自身をもっとも愛しているということに衝撃を受けたことはありませんか。」

 「というと」

 「では、それを、人間があれやこれやの手段を通じて、飲み物(お酒)を通じて、または、宗教を通じて、幸福を得ることを常に望んでいるということに結び付けなさい。そうすれば、あなたは人の本質への糸口を与えられています。」

 「私には分かりかね-」

 彼の声の調子は、さらに高くなった。

 「人の本質こそが幸福なのです。幸福は、真の自らの内に生まれついてあります。彼の幸福の探求とは、真の自らの無意識の探求です。真の自らは、不滅です。そのため、人がそれを見出す時、彼は終わりを迎えることのない幸福を見出します。」

 「しかし、世界はとても不幸ではありませんか。」

 「ええ。しかし、それは、世界がその真の自らに無知なためです。全ての人が、例外なく、意識的、もしくは、無意識的にそれを探し求めています。」

 「悪人、残忍な人、犯罪者でさえもですか」と私は尋ねた。

 「彼らでさえ、彼らが犯す、あらゆる罪の中に、自身の幸福を見出そうとしているために罪を犯します。この奮闘は人に本能的なものですが、彼らが実際は彼らの真の自らを探し求めていることを知らないがために、幸福への手段として、まずはそれらの邪悪な方法を試みます。もちろん、それらは誤った方法です。行いは己に跳ね返って来るからです。」

 「では、我々がこの真の自らを知る時、我々は永続する幸福を感じるのでしょうか。」

 もう一方(マハルシ)は、首を縦に振った。

 太陽の一筋の斜光が、ガラスのはまっていない窓を通じ、マハルシの顔に降り注いだ。その整った眉には静穏があり、その引き締まった口まわりには満足があり、その光輝く両目には聖堂のごとき安らぎがある。彼のしわのない顔つきは、彼の啓示の言葉に反していない。

 これらの一見すれば単純な文で、マハルシは何を言わんとしているのか。翻訳者はそれらの表面的な意味を英語で私に伝えた。なるほどそうではあるが、彼が伝えることができない、より深い意味が存在する。私がそれを自分自身で発見しなければならないことを私は分かっている。賢者は、哲学者としてでなく、自身の教説を説明せんとするパンディットとしてでなく、むしろ彼自身の心の奥底から語っているように思える。これらの言葉は彼自身の幸運な体験の表れなのか。

 「あなたが話す、この自らとは厳密には何なのでしょうか。あなたがおっしゃることが真実であるなら、人の中にはもう一人の自分がいるはずです。」

 一瞬、彼の唇は湾曲し、微笑んだ。

 「人が二つの人格、二人の自分を所有できますか」と彼は答えた。「この問題を理解するためには、人が彼自身を分析することが、まずは必要です。他の人が考えるように考えることが彼の長年の癖になっているため、彼は真の方法で彼の『私』に一度も向き合っていません。彼は彼自身を正しく捉えていません。彼はあまりに長く、彼自身を体や脳と同一視してきました。ですから、私はあなたに、この探求、『私は誰か』を追求するように言うのです。」

 彼は間を置き、これらの言葉を私に染み込ませた。私は彼の次の文に熱心に耳を傾けた。

 「あなたは、この真の自らをあなたに説明するように私に頼みます。何が言えますか。その中から個人の『私』という感覚が生じ、その中へと『私』が姿を消さなければならない、それです。」

 「姿を消すですって?」と私はおうむ返しに言った。「どうして人が人格の感覚を失うことができるのですか。」

 「全ての思いの中の一番最初の思い、全ての人の心の中の原始の思いは、『私』なる思いです。この思いの誕生の後はじめて、どのような他の思いも生じることができます。第一人称の『私』が心に生じた後はじめて、第二人称の『あなた』が姿を現すことができます。あなたがその『私』という糸を心の中でたどることができ、終には、それがその源まであなたを導くなら、それが最初に現れる思いであるのとまさしく同様に、最後に姿を消す思いでもあることをあなたは発見するでしょう。これは体験しうる事柄です。」

 「あなたが言わんとするのは、自分自身へのそのような心の探求を行うことが全く可能であるということでしょうか。」

 「もちろんです!内に進み、終には、最後の思いである『私』が徐々に消え去ることは可能です。」

 「何が残るのでしょうか」と私は尋ねた。「人は、その時、全く無意識になるのでしょうか、それとも、馬鹿者になるのでしょうか。」

 「そうではありません!それどころか、彼が人の本質である真の自らに目覚めた時、彼はかの不死なる意識を得、彼は真に賢明になるのです。」

 「しかし、『私』の感覚は、きっと、それにもまた付属するはずではありませんか」と私は食い下がった。

 「『私』の感覚は、人に、体と脳に付属します」とマハルシは穏やかに答えた。「人がはじめて真の自らを知る時、何か他のものが彼の存在の奥底から生じ、彼を手中に収めます。かの他のものは、心の背後にいます。それは無限で、神聖で、永遠です。ある人々はそれを天の王国と呼び、他の人々はそれを魂と呼び、さらに他の人々はそれをニルヴァーナと名づけ、我々ヒンドゥー教徒はそれを解放と呼びます。あなたが好むどんな名前をそれに与えてもかまいません。これが起こる時、人は、実際、彼自身を失っていません。むしろ、彼は彼自身を見出したのです。」

 最後の言葉が通訳者の口から出ると、ガラリヤのさすらいの教師によって発された印象的なあの言葉、大変多くの善人を困惑させた言葉が、私の脳裏を横切った。「己が命を救わんとする者は誰であれ、それを失い、己が命を失う者は誰であれ、それを保つ。(ルカによる福音書、17:33)

 その二つの文は、なんと奇妙にも似通っているのか!だが、そのインドの賢者は、彼独自の非‐キリスト教的方法で、はなはだ難しいように思え、なじみのないように映る心理学的な道を通り、その考えに到った。

 マハルシは再び話し、彼の言葉が私の思考に割って入った。

 「人がこの真の自らの探求に乗り出さないならば、乗り出すまでは、疑念や迷いが、一生、彼の後についてまわります。最も優れた王や政治家たちは、心の奥底では彼らが彼ら自身を支配できないことを知っているのに、他者を支配しようとします。それでも、最も優れた力は、最奥の深みへ貫通した人の意のままです。多くの物事についての知識を集めることに人生を費やす非凡な知性を持つ人々がいます。その人たちに、人間の神秘を解き明かしたのか、彼ら自身に打ち勝ったのか尋ねてみなさい。そうすれば、彼らは恥じ入ってうなだれます。あなたが誰か、いまだあなたは知らないのに、他の全てのことについて知ることが何の役に立ちますか。人は真の自らへのこの探求を避けますが、それほどにとりかかる価値があるものが他に何かありますか。」

 「それは実に困難で、超人的な課題です」と私は意見した。

 賢者は、ほとんど気づかれない程度、肩をすくめた。

 「その実現性の問題は、自分自身の体験の問題です。困難は、あなたが思うほど現実的ではありません。」

 「活動的で、実際的な西洋人である我々にとって、そのような内観は-」、私は疑い深げに始め、文を宙ぶらりんのままにしておいた。

 マハルシは上半身を倒し、新しい線香に火をともした。それは、赤い火花が消えかかっている線香と置き換えられる。

 「真理の実現は、インド人にとってもヨーロッパ人にとっても同じです。それへの道が世俗的生活に夢中である人々にとってより困難であることを認めざるをえないにしても、その場合でさえ、人は勝利を得られますし、勝利を得なければなりません。瞑想中に引き起こされた流れは、維持しようと修練することによって、習慣的に維持することができます。その時、人はまさにその流れ自体の中で務めや活動を行えます。途切れはなくなります。従って、また、瞑想と外的な活動の間の相違もなくなるでしょう。あなたがこの質問、『私は誰か』について瞑想するなら-あなたが体も、脳も、欲求も、実のところあなたではないことを知り始めるなら、その時、探求のまさしくその姿勢が、あなた自身の存在の奥底からあなたへ答えを引き寄せるでしょう。答えは、深い悟りとして、自ずからあなたのもとへ訪れるでしょう。」

 再び、私は彼の言葉をじっくり考えた。

 「真の自らを知りなさい」と彼は続けた。「そうすれば、その時、陽の光のごとく、真理があなたのハートの内から輝き出るでしょう。心に心配事はなくなり、本当の幸福が心にみなぎるでしょう。幸福と真の自らは、全く同じです。いったん、あなたがこの自らの自覚を得るなら、あなたはもはや疑念を抱かないでしょう。」

 彼は頭の向きを変え、その視線を講堂の遠くの端に定めた。彼が会話の限度に達したことが、その時、分かった。そうして我々の最後の会話は終わり、出発前に、寡黙という殻から運よく彼を引き出せたことを私は喜んだ。

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