清らかなユーモア
I.S.マドゥグラ
全ての聖者がユーモア感覚で知られているわけではありません。よそよそしかったり、近づきがたい傾向のある人々もいます。バガヴァーン・シュリー・ラマナ・マハルシは、決してどのような排他性も主張しませんでした。彼は人生の大部分を普通の人間として普通の人々の間で生活し、彼に接触しに来た人々の人生に並外れた変化をもたらしました。しかも、彼はそれを想像しうる最もチャーミングな方法で行いました。自らに関する非の打ちどころのない議論を使い、いわば、彼は靈性(スピリチュアリティ)を民主化し、人生の神秘を解き明かしました。
おそらくはそれが聴衆を安心させ、彼を彼らに繋ぐだろうから、あたかも彼らへの限りない愛情では十分でないかのように、シュリー・バガヴァーンが彼のメッセージを伝えるために使った道具の一つがユーモアでした。
さらに、どれほど深刻な問題が手元にあっても、ユーモア感覚は彼の存在の自然な部分であったようです。例えば、ある信奉者が馬車での彼女のギリ・プラダクシナがちょうど終わったばかりだと発表した時、彼は雄牛が得たに違いない大変な功徳について語ることがありました。また、嘆き悲しむ母親が亡くなった息子を彼が蘇らせられると愚かにも主張した時、彼はそうすることはできないとはっきりと言い、「もし私が本当にその奇跡を起こせるなら、アーシュラムの敷地には死体があふれかえっているでしょう」と付け加えることにより、重苦しい雰囲気を軽くしたものでした。
おそらく、彼の生来の陽気な性質(つまり、賢者にしては陽気な)のさらに良い例は、彼の周りの人たちが大麻の影響を議論していた時、あたかも大麻の影響下にいるかのように、彼がよろよろ歩くふりをした出来事の中に見ることができます。彼は薬に引き起こされるアーナンダの可能性さえ認め、50年後にやって来ることになるヒッピーの奇矯な振る舞いを、いわば、予見し、それが正当である理由を与えました!同時に、芝居を演じてるように見える間に、彼は触れることで、支えを求めるふりをして彼がもたれかかったある信奉者にしびれるような感動を与えました。(*1)
探求者の質問に答えるシュリー・バガヴァーンの方法は、3段構えであったようで、状況と質問者の態度によりました。彼は質問に的確に答えました。もしくは、質問者がより十分にその質問の含意を理解するために、質問をぐるりと回転させ、質問者を受け身にさせました。もしくは、質問に予想外のユーモラスなひねりを加え、彼の見解をより効果的に理解させました。ここでの我々の関心事は、この3番目の区分です。
この3番目の区分の中には、3種類のユーモア-言葉に関するもの、一般的なもの、自分に向けられたもの-が見られます。自分に向けられた冗談の例は、シュリー・バガヴァーンによって哲学的な疑問を晴らしてもらいたいと思った彼のタミル語の老先生に関するものでしょう。自分は学校をやめ、町を離れて山に逃げたのに、教師の尋問からは逃れることができなかったようだと述べることによって、彼はその状況の皮肉な結果を明らかにしたものでした。
このエピソードを詳しく話してもいいでしょう。
バガヴァーンが山腹に住んでいた時、彼のタミル語の老教師がはるばるマドゥライからティルヴァンナーマライまでやって来て、自分自身で彼の以前の生徒の中の変化を確かめ、今や有名なマハルシに敬意を払おうとしました。彼は訪問者の中に控え目に座りましたが、すぐにバガヴァーンは彼と認め、アクシャラマナマーライを一部、彼の手におきました。それにざっと目を通し、そのパンディットはその深い献身としっかりした哲学を喜ばしく思いましたが、いくつかの文章の意味を完全に理解するためには助けがいると感じました。勇気を奮い起し、彼は立ち上がり、詩節を読み上げ、バガヴァーンにそれを説明して下さるように頼みました。
「このありさまを見てください」とバガヴァーンは抗議しました。「そういった質問から逃(のが)れるために、私は学校と家から逃げ出しました。そしたら彼は私を追って来て、『この文章はどういう意味ですか』といつもの同じ質問を尋ねるのです』」。(*2)全ての人がこの不満のまねごとの裏にある愛情を楽しみました。主スワミナータやダクシナムールティから学んだ年長者たちのように、かつては生徒の知識をためそうとして質問をした教師は、今や弟子に変わり、その質問は彼自身の無知を取り除くことを目的にしていました。
別の例は、カウピーナ[*1]だけを身につけるという彼の生涯に渡る「刑罰」についてでしょう。慣習にあったように、隣家の年配の女性が吉日の料理を手伝うためにカウピーナを身につけるよう彼に頼んだ時、恥ずかしがりな少年ゆえに、それを身につけるのを拒んだ罰としてです。
私は一度、カウピーナを身につけるのを拒んだのですが、今、それをいつも身につけるという報いを受けさせられています。(*3)独学でサンスクリットに精通した者として、シュリー・バガヴァーンはその言語において驚くべき学識を披露しました。彼は哲学的、専門的用語の中に独創的な対照を示すことができました。ヨーガの概念を議論している時に、彼は述べました。
そのため、知の道はどのようにヴィヨーガ(分離)が生じたのか見出そうと試みます。(*4)
ヨーガ(合一)は、ヴィヨーガにある者のためにあります。(*5)また、彼のブラフマチャルヤの解釈は、伝統的なそれからの革新的な離脱であり、その言葉の文字通りの意味に基づきます。
ブラフマチャルヤとは、「ブラフマンに住まうこと」です。それは一般に理解されるような独身生活(禁欲)と全く関係ありません。真のブラフマチャリ、すなわち、ブラフマンに住まう者は、自らと同じであるブラフマンの中に至福を見つけます。では、どうしてあなたは幸福の他の源を探さなければならないのですか。(*6)本当に面白いものは、彼のグルとラグの対比であり、再び、哲学的な意味よりもむしろその用語の明示的な意味に基づいています。
グルは、ラグがある限り必要です。(言葉遊び:グル=重い、ラグ=軽い)。(*7) [*2]それから、彼は続いてその対比の哲学的含意を教えます。
同様に面白おかしい調子で、彼は自らの探求の必要性をそれが止んだ時に起こることを指摘することによって強調しました。
アートマ・ヴィチャーラが止むなら、ローカ・ヴィチャーラ[*3]取って代わります。(*8)彼がある質問への答えに差し出した、さらにもう一つの言葉に基づい説明は、
訪問客:いつくかのアーサナが言及されています。その中のどれが最良ですか。
バガヴァーン:ニディディヤーサナ(心の一点集中)が最良です。(*9)シャンカラが、ブラフマンの実現に導かない、どのような姿勢も自ら課した苦しみでしかないと言った時、彼は韻を踏む機会を逃していました(netarat sukhanasanam)。シュリー・バガヴァーンは一枚上手のようであり、我々に韻が合う相関語を同じ趣旨で提供します。
シュリー・バガヴァーンによる即興の発言の大部分は、一般的なユーモアの区分に入るようです。それらはもちろん誰に向けられたものでもないですが、状況に大変適したものです。彼はどうしてそんなにも彼の近くにあり、まったく絶えることなく彼の内に存する自らを見逃すことができるのか当惑した様子で不思議がったものでした。
自らより明確なものがありえますか。(*10)
これより大きな謎はありません-すなわち、我々自身が現実であるのに、我々が現実を得ようと試みることよりも。(*11)実際、彼の側のこの驚きは、人々が愚かにも死に注意することなく、それなりに人生を送るということをほのめかすユディシュティラのヤクシャへの答えに勝っているかもしれません[*4]。シュリー・バガヴァーンは、人々が彼らの人生の一瞬一瞬をその道の隅々まで照らす自らを逃していることに言及します。
どのように執拗な欲望や感情を扱えばいいのかという質問が、「放棄する前に欲望の充足によって満足しなければならない」と感じた訪問者によって提起された時、シュリー・バガヴァーンはその提言の愚かさを指摘しました。
炎の上にアルコール(spirit)を注ぐことで、火を消すようなものです。(*12)spiritについての言葉遊びが意図されていたことは全くありそうなことです。なぜなら、欲望が抑えられるのは、それに耽溺することによってではなく、内なる魂(spirit)の中に寄る辺を求めることのみによってです。
我々が長年のサンスカーラに対処している時、嫌悪療法がどれほど効果的なのかあまり確かではありません。シュリー・バガヴァーンはシャマンナ氏を以下のように指導しました。
あなたが自分の無力を認め、また自分を助ける高き力を必要とするため、委ねなさい。もしくは、苦しみの原因を調べ、苦しみの原因の中に入り、源の中に入り、自らの中に溶け込みなさい。彼は「委ねの後の心の流れはどうなっていますか」と尋ね、シュリー・バガヴァーンのおどけた逆質問を引き出しました。
委ねた心が、この質問を提起しているのですか。(*13)これが、ある未来の段階で起こるだろうことについてその段階を達成する前に知りたいと思ったり、はじめに自分自身を改める前にどのように世界を改めるのか知りたいと思った多くの訪問者を、シュリー・バガヴァーンが恵み深くも正した方法でした。質問には死後や悟りの後の状態を含んでおり、それにシュリー・バガヴァーンは質問者に未来について思いめぐらし出す前に現在の状態がどうあるのか見出すように求めることで返答しました。
彼が(少し耳が遠い)アメリカ人の訪問者に彼の聴覚の問題について思い悩む必要なないと言った時のように、時に、彼の思いやりは軽妙な発言に変わりさえしました。
心配するには及びません。五感の征服が、自らの実現のために必要な準備です。神自身によって、あなたのために、一つの感覚が抑制されています。かえって好都合です!(*14)また別の時、彼はどうしても当意即妙の応答への衝動をこらえることができませんでした。アメリカ人のヘンリー・ハンド博士を含む幾人かの人々が、様々な哲学的なテーマを広く議論していた時、ハンド博士は彼らがそのように厄介者であることのお粗末な謝罪をしたいと思いました。
ハンド:マハルシ!私たちが悪い子だと思わないでください。
バガヴァーン:そんなわけないでしょう。(でも、)あなたは自分が悪い子だと思う必要はありません。(*15)同様の素早い機知は、ラマナ・パダーナンダとシュリー・バガヴァーンが山へ向かう途中で出会った時の彼らの間の以下のやり取りの中に見られます。
パダーナンダ:では、私はダルシャンを得ました.... 私は戻ります。
バガヴァーン:誰のダルシャンですか。あなたが私にダルシャンを与えたと言ってはどうですか。(*16)シュリー・バガヴァーンは、決して賢者として堅苦しくはありませんでした。アナンタチャリ氏との以下の議論に証明されるように、彼は全く現世的でありえました。アナンタチャリ氏は、「私はそれである」という聖なる表明よりも、一般的に人々にとって「私は人間である」という声明を自然に理解することは簡単であると主張し、仮に手近にいる聴衆に世論調査するなら、彼が過半数の票を得るだろうと付け加えました。シュリー・バガヴァーンは即座に加わりました。
私もあなたの側に投票します.... 私もまた「私は人間である」といいますが、私は体に制限されていません。それ(体)は私の内にあります。それが違いです。(*17)シュリー・バガヴァーンのこのハーシャ・ヴィチャーラ[*5]は、ユーモラスな状況が現れた時、彼が神々さえも容赦しなかったという最後の報告で締めくくられていいでしょう。偽の盗賊に変装したシヴァの雑多な側近によって聖者ティルジニャーナサンバンダル[*6]がどのように追剥にあったかの物語を彼が読んでいた時、彼は全ての人の注意をシヴァ自身に起こったことに向けさせました。
シヴァ自身がティルヴダル・ウトサヴァで追剥にあい、彼は同じいたずらを彼の信奉者たちに行いました。そんなことがありえますか。(*18)上述のバガヴァーン・シュリー・ラマナ・マハルシのとても見事なユーモア感覚の例は、一冊の本からだけです。彼が身体的にアーシュラムに存在する時に彼を訪問し、彼と共に時を過ごす幸運を得た人々によって記録された残りのラマナの文献の中にはさらに多くのものがあるでしょう。
ユーモアは人間の魂の手際を要する領域であり、最高の職業喜劇俳優でさえ聴衆を怒らせることなく安全にそれを行うことに手を焼きます。シュリー・バガヴァーンの場合、特筆すべきことは、彼が知恵によって聴衆を教えながらも、決してその機知によって誰の感情も傷つけはしなかったということです。
原注:
(*1)『Talks with Sri Ramana Maharshi』、p179(1994年版) (*2)『The Mountain Path』、1996年6月号 (*3)『Talks with Sri Ramana Maharshi』、p387(1994年版) (*4)同上、p11 (*5)同上、p140 (*6)同上、p140 (*7)同上、p12 (*8)同上、p80 (*9)同上、p519 (*10)同上、p83 (*11)同上、p130 (*12)同上、p476 (*13)同上、p334 (*14)同上、p132 (*15)同上、p142 (*16)同上、p326 (*17)同上、p556 (*18)同上、p153
shiba注:
[*1]カウピーナ・・・腰布
[*2]グルとラグは、韻律学では、重(長)音節と軽(短)音節を意味するようです。バガヴァーンは、続いて「ラグは、自らへの自ら課した、しかし、誤った制限によります」と述べています。
[*3]ローカ・ヴィチャーラ・・・ローカは「世界、世俗」の意味。つまり、世俗的なことを追い求めること。
[*4]『Mountain Path』、1968年4月号、「THE YAKSHA PRASNA」 119から ヤクシャ:最も驚くべきこととは何か。ユディシュティラ:日ごと日ごとに人々は死の住まいへ旅立つが、残る人々は決して自分自身の死を思い描かない。これより驚くべきことがあるのか。
[*5]ハーシャ・ヴィチャーラ・・・ハーシャは「冗談、笑い、微笑み」
[*6]ティルジニャーナサンバンダル・・・http://en.wikipedia.org/wiki/Sambandar
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