2014年10月6日月曜日

G.ラクシュミー・ナラシンハム (ラマナの詩のテルグ語への翻訳者)の思い出

◇『シュリー・ラマナ・マハルシと向かい合って(Face to Face with Sri Rmana Maharshi)』

106.
法学士、G.ラクシュミー・ナラシンハムは、1930年代と40年代にアーシュラムの運営にたいへん尽力しました。彼はシュリー・ラマナの作品、「Five Hymns to Aruna chala」、「Reality in Forty Verses」をテルグ語に翻訳しました。
  バガヴァーンと私の交際は1930年に始まり、シュリー・ラマナーシュラマムで3年間にわたり過ごしました。それは大変な幸運でした。

 私は理学部の卒業生でした。私は万物の原子構造について、どのように物質が最終的にエネルギーに解消されるのかについて学び、心もまたエネルギーの一つの形であると学びました。そのため、心と物質からなる全世界は、その源までたどる時、どのようにあなたがそれを呼ぼうと決めるのであれ、均一な一つのエネルギー、または、神です。

 これが私がはじめてシュリー・ラマナーシュラマムに来た時の私の態度でした。バガヴァーンはその時、「Ulladu Narpadu」をテルグ語に翻訳していました。それを仕上げた後、彼は私に原稿を渡し、「あなたはアーンドラ人ですね。その中に文法上の誤りがあるのか確かめてください」と言いました。私の心を内に向け、正しい道に向かわせたのは、この翻訳でした。

 バガヴァーンが私との対話の中で述べたことの要約は以下になります。「あなたは『最終的な分析において私が見たり、考えたり、行ったりする全ては一つである』と言います。しかし、それは実のところ二つの概念を含んでいます。見られる全て、そして、見る、考える、行うということをなし、『私』と言う、『私』です。これら二つのどちらがより現実的で、真実で、重要ですか。明らかに、見る者です。なぜなら、『見られるもの』はそれに依存しています。ですから、あなたの注意を見る者に、あなたの『私』の源に向け、それを実現しなさい。それが本当の務めです。今まであなたは主体ではなく、対象について学んできました。今や、この『私』がどのような意味を表すのか見出しなさい。『私』という表れの源である実体を見つけなさい。それが自ら、私たち自身みなの自らです」。

 この直接的で、簡潔な教えは、私にとって強壮剤のようでした。それはその時まで私の心に絶えずつきまとっていた不安と混乱と一掃しました。それは、もちろん、「Ulladu Narpadu」の真髄であり、バガヴァーンの全著作の中心となるテーマです。その簡潔さは私に、「では、バガヴァーン、あなたがアートマ・ヴィドヤーの詩の中で述べた通りに、自らの実現はとても簡単です!」と急に大きな声を出させました。

 バガヴァーンは微笑み、「ええ、ええ。はじめはそのように思えますが、困難は存在します。あなたはあなたの現在の誤った価値観と間違った同一視に打ち勝たなければなりません。その探求は集中した努力と、(源に)達する時、源に堅固に留まることを必要とします」と言いました。しかしながら、私に注意を与えながら、彼はまた慰めの言葉を付け加えました。「しかし、そのことで止めようとしないように。『私』を探求しようとする衝動が起こること自体が、人が願い求めなければならない神の恩寵の働きです」。

 かつて、私の母がバガヴァーンに、「あなたは神です。どうぞ私をお助け下さい」と言いました。彼は、「私、神-私はただ神の存在を信じる者です。私が神であると言わないでください。それでは、全ての人が私の髪の毛を抜き取ろうとします」と答えました。

 急性の肝臓病を患っていた私の3才の息子は、数日間、アーシュラムに連れて行かれましたが、2か月後に亡くなりました。その出来事はバガヴァーンの知るところとなりました。バガヴァーンがある近親者の夢に現れた時、彼はバガヴァーンに、「子供はあなたのもとへ連れて行かれたのに亡くなりました」と尋ねました。バガヴァーンは、「とても多くの顧客があなたの家の弁護士にやってきます。彼はいつも、『最善を尽くします』と言いませんか。彼はいつも訴訟に勝ちますか。神の場合もまた同様です」と答えました。

 ある信奉者が娘にふさわしい花婿を得ようとする試みに失敗した時、彼はバガヴァーンの助けを求めました。彼は毎日一定回数、朗唱するためのタミル語の詩節を与えられました。詩節はパールヴァティーを妻として娶るシヴァへの祈りの文句でした。ひと月かふた月後、その信奉者はうまく娘の結婚式を挙げることができました。

 私の娘もまた年頃であり、私は同じ方策に従おうと考えました。バガヴァーンの許可を得るために、私は紙切れにその詩節を記し、「この中に間違いはありませんか」と言って、それを彼に見せました。バガヴァーンはそれに目を通し、「どうしてこれが必要なのですか。あなたはこの全てを行う必要はありません。時が来れば、花婿自身がやって来て、その手で彼女を連れて行きます」と尋ねました。私はあきらめました。そして、私の娘はバガヴァーンが予言したように結婚しました。

 1930年12月、私の兄弟の生まれたばかりの娘が、バガヴァーンに名づけていただくために、アーシュラムに連れて行かれました。彼に親しみのある二つの名前は、ラクシュミーとサラスワティーでした。それで、赤ん坊を見ながら、バガヴァーンは、「彼女にサラスワティーの名を与えてはどうですか」と言いました。すでに一人サラスワティーがいると告げられた時、彼は彼女をバーラ・サラスワティーと名付けました(バーラは「年下の」を意味します)。

 バガヴァーンはパーラーヤナ(聖典の復唱)を強調しました。彼は最初はそれらを理解することができなくても、徐々にその究極的な意味が自然と閃くだろうと考えました。バガヴァーンはまた、1回書くことは10回読むことに相当すると言いました。

 1930年代初期に、ジャッキーという名前の犬が病気にかかりました。バガヴァーンは犬のために柔らかいベッドを講堂に用意し、愛情こめて世話していました。数日後、犬の病気はひどくなり、悪臭を発しはじめました。バガヴァーンの犬への世話に何の変わりもありませんでした。終に、犬は彼の手の中で息を引き取りました。犬はアーシュラム構内に埋葬され、その上には小さなお墓が伴っています。

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