1947年11月29日
(159)自らの探求という道
今日の午後、ある信奉者がバガヴァーンに、「スワーミー、実現(悟り)を得るためには、『私は誰か』という探求が唯一の道でしょうか」と尋ねました。
バガヴァーンは彼に答えました。「探求が唯一の道ではありません。聖なる名の復唱(ジャパ)やどのような方法でも、不屈の決意と忍耐をもって、名と形を伴う靈的修練(サーダナ)を行うなら、人はそれになります。各人の素質に応じて、ある靈的修練が別のものよりも優れていると言われていて、その様々な微妙な相違やバリエーションが与えられています。ティルヴァンナーマライから遠く離れている人々もいて、とても近くにいる人々もいます。また、ティルヴァンナーマライにいる人々もいますが、バガヴァーンの講堂自体に入る人々もいます。講堂に入る人々にとって、彼らが足を踏み入れる時に『ここにマハルシがいます』と告げるなら、それで十分であり、彼らは即座に彼に気づきます。他の人々には、どの道筋をとるのか、どこで乗り換えるのか、どの道に向かうのか教えなればなりません。同様に、修練者(サーダカ)の素質に応じて、採るべき特定の道が定められなければなりません。これらの靈的修練は、全てに行き渡る自分自身の自らを知るためではなく、ただ欲望の対象を取り除くためだけにあります。その全て(の欲望の対象)が捨て去られる時、在るがままに留まります。いつも存在しているそれは、自らです-あらゆるものが自らから生まれます。人が自分自身の自らを実現する時にのみ、それは知られるでしょう。人がその知を持たない限りは、この世界で見られる全ては現実のように見えます。この講堂で眠っている人がいるとしましょう。寝ている間に彼はどこかに行く夢を見て、道に迷い、村から村へ、山から山へさ迷い、その間、何日かの間ずっと、食べ物も水もなく探し求めます。彼は大いに苦しみ、何人かに尋ね、終に正しい場所を見つけます。彼はそれにたどり着き、この講堂に足を踏み入れつつあると思い、大変に安心して、驚いた表情で目を開けます。この全ては短い間に起こったのでしょうが、目覚めてはじめて、彼は自分がどこにもいなかったということを理解しました。我々の現在の人生もまたこのようです。知の目が開かれる時、人は自分が常に自分自身の自らの中に変わらずにいることを悟ります。」
質問者はさらに、「全ての靈的修練が、よく言われるように、自らの探求という道に溶け込むというのは本当ですか」と尋ねました。
「ええ」とバガヴァーンは答えました。「『私は誰か』という探求はヴェーダーンタの始まりであり、終わりです。四種類の靈的修練の長所を持つ者だけが、ヴェーダーンタ的な探求に適していると言われています。修練の四つの範疇の中で、最初のものは自ら(アートマ)と自らならざるもの(アナートマ)についての知識です。それは自らが永遠(ニティヤ)であり、世界が非現実(ミティヤ)であるという知識を意味します。これをどうやって知るのかが問題です。『私は誰か』や、私自身の本質とは何かに関する探求によって、これを知ることが可能です!いつも、この手順は靈的修練の最初に提案されますが、一般的にそれは説得力がありません。そのため、あらゆる類の他の靈的修練が頼られ、修練者が自らの探求に取り組むのは、ただ究極的に、最後の拠り所としてだけです。A、B、C、D、Eなどのアルファベッドは若いころに習います。これらの文字が全ての教育の根本であり、文学士や文学修士のために勉強する必要がないと言われるなら、人々はそのような助言を聞き入れますか。勉強し、それらの試験を通ってはじめて、学んだ全てがA、B、Cなどの根本的な文字に含まれていることが理解されます。全ての聖典は初歩的なものごと、アルファベットに含まれてはいませんか。そうであることは、全ての聖典を暗記した後にだけ知られます。多くの川があり、真っ直ぐに流れるものもあれば、うねり、ジグザグに曲がっているものもありますが、その全てが究極的には大海に溶け込みます。同じように、全ての道が自らの探求に溶け込みます。全ての言語が沈黙(モウナ)に溶け込むのとまさしく同様です。モウナとは途切れのない会話です。それは空白であるということを意味しません。それは自らの言葉であり、自らと一体となっています。それは自ら光り輝いています。あらゆるものが自らの内にあります。タミル・ナードゥでは、ある偉大な人が、「我々はスクリーンのようであり、全世界はその上の映像のように映る。沈黙は完全であり、全てに行き渡っている』という趣旨の歌を作り、歌いました。「om purnamadah purnamidam purnatpurnauduchyate」という言葉のように、あらゆるものは真理を悟った人にとっては同じように映ります。たとえ彼が何かを見ても、彼はそれを見ていないも同然です。」
そのように言い、バガヴァーンは再び沈黙しました。
イーシャー・ウパニシャッド
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『イーシャ-・ウパニシャッド』のはじめの祈りの詩節
om purnamadah purnamidam purnatpurnamuduchyate
オーム プールナマダ プールナミダム プールナープールナムダッチャテー
purnasya
purnamadaya purnamevavasisyate
プールナッシャ プールナマーダヤ プールナメーヴァーヴァシッシャテー
om shanti shanti shantih
オーム シャーンティ シャーンティ シャーンティ
オーム、あれは完全である。これは完全である。完全から完全が生じる
完全から完全を取り除くなら、残るものは完全である
オーム、安らかでありますように(×3)
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