2014年10月8日水曜日

D.S.シャーストリ - 妹ナーガンマからの手紙の受取人、ジャパの速度

◇「山の道(Mountain Path)」、1971年7月 p181~183

シュリー・バガヴァーンとの若かりし日々の思い出

D.S.シャーストリ

 1941年にアーシュラムをはじめて訪れた際に、私はビクシャーの手配をしました。アーシュラムに住む人全員にご馳走する費用がかかるため、それを行う訪問者はほとんどいませんでした。そのために私は尊大な気持ちを持っていました。午後、しかしながら、私が他の二人の信奉者とお茶を飲んでいた時、彼らの内の一人、副登記官のシュリー・ナーラヤナ・アイヤルが弁護士のシュリー・T.P.ラーマチャンドラ・アイヤルに、「今朝、誰が我々全員にご馳走したのか知っていますか。我々のそばにいるシュリー・シャーストリですよ」と言いました。これに対して、シュリー・ラーマチャンドラ・アイヤルは、「誰がビクシャーを与えたかの何が重要なのですか。シュリー・バガヴァーンがその日の我々の食事を与えています。それが我々にとって重要なことです」と述べました。それは謙虚さについての良い教訓となり、自己中心主義というヒドラの首を切り落とすために様々な手段を使う、真のジニャーニの常に存在する注意深さを私に深く悟らせました。

 私はヒンドゥー教の聖典や哲学についてあまりよく知りませんでした。私はそれらをパンディットの助けによって学びたいと思い、『ヨーガ・ヴァーシシュタ』か『バガヴァッド・ギーター』のどちらから始めるべきかバガヴァーンに尋ねました。以前に、誰かが私に前者はバガヴァーンのマールガであるジニャーナ・マールガを扱っているので、その本から始めるべきだと言っていました。バガヴァーンは、しかしながら、ギーターを勧めました。私はそれについて全然うれしくありませんでした。翌日、私が去った後、バガヴァーンは私の妹のナーガンマに、初心者はヒンドゥー教の教義と哲学の根本について理解するために、はじめにギーターを読むべきであり、『ヨーガ・ヴァーシシュタ』は後で考えてもいいと言いました。それはいつもの通りに私に伝えられました。それゆえ、私はあるパンディットにギーターについて講演をしてもらうように手配しましたが、始める前にバガヴァーンの祝福を得るために私たちはアーシュラムにやって来ました。バガヴァーンは私たちに、ギーターは注意深く、むやみに急がないで学ばれるべきであると言いました。それに応じて、講演には私自身の他に、信奉者の小集団が出席し、20か月以上続きました。

 1946年9月の50周年記念式典の数日前に、私は偶然アーシュラムにやって来ました。私が到着して1日後、事務仕事のため、私は朝に車でヴェールールに出発しました。アーシュラムの管理人たちは、ヴェールールにいるある人から50周年記念式典のために必要な袋一杯の野菜と他の品物を途中で受け取って、一緒に持って帰るように私に頼みました。ティルヴァンナーマライを離れる前にバガヴァーンに告げることは信奉者にとって一般的なことでした。何かの理由で、私はこの機会にそのようにし忘れました。そのため、バガヴァーンはアーシュラムの管理人たちが私をヴェールールにお使いにやったと思い、信奉者がアーシュラムに安らぎと落ち着きを求めてやってきたのに、雑多な用事に煩わされるのをバガヴァーンは好まないため、アーシュラムの事務所にいる人たちを叱責することによって不満の色を示しました。私の妹のナーガンマは、私が予定通りに自分の事務仕事のためだけに出かけたのだとバガヴァーンに請け負いましたが、彼は納得しませんでした。夜の7時30分ごろにアーシュラムに戻るとすぐに、私は真っ直ぐバガヴァーンのもとへ行き、私がしたことを説明するように頼まれました。彼の心遣いはそのようでした!

 信奉者みなによくあることですが、サーダナに関して疑問がある時はいつでも、私はバガヴァーンに尋ね、疑問を解消しました。私が早朝に行うことを習慣にしていたガーヤトリー・ジャパをゆっくりと行うべきか、それとも素早く行うべきか、かつて私は尋ねました。バガヴァーンは、「それはジャパが行われている目的によります」と言いました。「それがシャクティ(力)を達成するためならば、素早く行われるべきです。マントラが繰り返し唱えられる回数が、必要とされる力を与えるからです。しかしながら、主要な目的が瞑想状態に入ることならば、マントラがゆっくり繰り返されても、素早く繰り返されてもほとんど重要ではありません。復唱は目的への手段でしかないからです」。しばらく後で、マントラをゆっくり繰り返している間にその流れを見失っていき、何とかそれを思い出した時だけ、それを再開することに気づきました。そのような逸脱が忘却や眠気によるのかどうか、そして、ジャパの継続性を保つために、それについて私はどうすべきかバガヴァーンに尋ねました。ジャパの流れを見失うことと瞑想に入り込むことは、忘却でもなく眠気でもなく、サーダナにおける好ましい特徴であり、何の恐れも疑いもなく、この修練を続けるべきであるとバガヴァーンは私に請け負いました。

 私は『Bankers' Advance Against Goods』という題名の銀行業務に関する本を記し、ボンベイのM/s. Thacker & Co. Ltdから出版されました。私はその本の最初の2冊をアーシュラムに持って行きました。1冊はアーシュラムの図書館のためであり、1冊は私が個人的に使うためであり、私の本にバガヴァーンのサインを得たいと思いました。アーシュラムの事務所はその両方にゴム印を押し、バガヴァーンのもとへ送りました。いつものように、バガヴァーンはそれらを熟読し、脇におきました。私はサインを頼みましたが、断られました。バガヴァーンは、アーシュラムの印がすでに上に押してあり、それで十分なはずですと指摘しました。そこで、シュリーやオームというように、バガヴァーンが少なくともアクシャラム(文字)を一つだけでもその上に書いたらどうかという提案が直ちになされました。再び断りながら、バガヴァーンは、「存在するもの(全存在)は一つのアクシャラムであり、それを書きとめることは不可能です」と言いました。私は困惑し、立ち去るときに気落ちせずにはいられませんでした。翌日、バガヴァーンは紙切れに「Ekamaksharam hri di nirantaram bhasate svayam likhyathe katham」(原注)という、この有名な詩節をサンスクリット語で記し、私のもとへ送るようにそれをナーガンマに手渡し、それによって私は落ち着きを取り戻しました。

 ある時、私はアーシュラムがひと月か3か月おきに機関誌を発行してはどうかと提案しました。アーシュラムの関心はその編集上の側面にあったので、私はその一部始終を作りあげ、印刷、発行、発送とあらゆる付随する仕事を監督すると申し出ました。(当時、全ての通信と出版を扱っていた)サルヴァーディカーリーとモウニは、これは望ましく、うまくいきそうだ云々と確信し、ある夜の9時頃、信奉者みなが去った時、我々3人はバガヴァーンに許可を求めるために近づきました。モウニは計画について詳細に説明し、バガヴァーンの同意を繰り返し懇願しました。しかしながら、バガヴァーンは熟慮された沈黙を保ち、どれほど我々がバガヴァーンから何らかの指示を得ようと試みても、うまくいきませんでした。それゆえ、計画は取りやめになりました!

 ナーガンマは、シュリー・バガヴァーンが信奉者と共に座っていた旧講堂で起こる興味深いことについて何でも私に(テルグ語で)手紙を書いたものでした。彼女は彼女が語る話をバガヴァーンの生き生きとした存在で満たすことができました。彼の質問への答えや発言は、いつも非常に興味深く、大きな価値がありました。ジニャーニの言葉は、探求者を変容しうる力を放っています。

  そのように、我々がシュリー・バガヴァーンから物理的に遠く離れていても、彼女の手紙は精神において彼のダルシャンを我々にもたらします。

 それらの手紙は偶然に読んだ他の信奉者にもたいへん高く評価され、より多くの人々に届くために、彼らはそれらをテルグ語から英語に翻訳するように私にしきりに促しました。これを私は奉仕として行い、それらは『Letters from Sri Ramanasramam』という題名のもとで発行されています。(バガヴァーン存命時)より短い、もしくは、より長い期間、我々はシュリー・ラマナーシュラマムを訪れつづけており、バガヴァーンの存在と導きと気遣いを以前のように感じています。

(原注)
「自ら光輝いている、ただ一つの不滅なるものが、常にハートの中にある。どのようにそれを書きとめればいいのか」-(アクシャラは「文字」だけでなく、「不滅の」も意味します)。

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