2013年12月25日水曜日

ロバート・アダムスの思い出-イエス・キリストとラマナ・マハルシの慈愛

◇『シュリー・ラマナ・マハルシと向かい合って(Face to Face with Sri Ramana Maharshi)』

163.

アメリカ人のロバート・アダムス(1928‐97)は、小柄なインド人が彼の枕元に現れるヴィジョンを得ました。彼はパラマハンサ・ヨーガーナンダに相談し、ヨーガーナンダは彼にシュリー・ラマナの写真を見せました。彼はそれが夢の中の人物であると分かりました。彼はラマナーシュラマムを訪問し、シュリー・ラマナと1947年~50年の3年間を共に過ごしました。彼の著書、『Silence of the Heart』は、彼がアメリカで催したサットサンの要約を含んでいます。
   19才の時、私はティルヴァンナーマライの途中のボンベイに到着しました。私が講堂に入ったのは午前8時30分ごろでした。シュリー・ラマナは彼の寝台の上にいて、手紙を読んでいました。私は彼の前に座りました。彼は私の方を見て、微笑み、私は微笑み返しました。講堂には30人ぐらいの人がいました。マハルシは私が朝食を食べたのか尋ねました。私は「いいえ」と答えました。彼は付添人に話しかけ、付添人は巨大な2枚の葉っぱをもって帰って来ました。一つには果物がのり、一つにはおかゆ(*1)と胡椒がのっていました。食べ物をすっかり食べた後、私は床の上で少し横になりました。私はとても疲れていたのです。

 マハルシは足に関節炎を患っていて、当時(1947年)、ほとんど歩けませんでした。彼の付添人は彼が立ち上がるのを助け、彼は部屋から歩いて出ました。彼が外に出た時、彼は付添人に何かを言い、付添人は私に来るように身振りで合図しました。マハルシは私がそこに滞在している間に使うための小さな小屋に私を案内しました。彼は私と共に中に入りました。きっとあなたは我々が深遠な話題について話したと思うでしょう。それとは逆に、彼は飾らない人でした。彼は全世界の自らでした。彼は私の旅がどうだったか、私がどこから来たのか、何が私をここに来させたのか尋ねました。その後、彼は、「あなたは休んだほうがいいですね」と言いました。私は簡易ベッドに横たわり、彼は去りました。

 私は夕方5時ごろに私のために食べ物を持ってきたラマナ自身に起こされました。あなたはそれを想像できますか。我々は手短に話し、私は食べて、眠りました。次の朝、私は講堂へ行きました。全ての人がマハルシをただ見ながら、座りました。彼は手紙に目を通し、時にはそれを声に出して読み、信奉者たちに話かけましたが、彼の落ち着きは決して変わりませんでした。私は他のどこでもそのような慈しみと愛情を目にしませんでした。

 その後、人々は質問し始めました。彼の答えはとても簡潔でした。それはあなたが本で読むようではありませんでした。どうやら、あなたが本で読むものは、3、4人の人々への彼の回答のようです。彼らはそれを一つの質問と答えに縮めています。人々はたいてい質問をするか、意見を述べます。彼が同意するなら、彼はうなずくか、「ええ」と言います。それだけです。彼が同意しなかったなら、彼はおそらくは1文か2文で説明を与えたものでした。

 イスラム教徒、カトリックの司祭、多くの人種や国籍の人々がアーシュラムにはいました。私が1週間かそこらそこにいた時、彼の弟子の二人が食事の時に冗談ぽく何かについて議論していました。私は通訳に彼らが何について話しているのか尋ねました。彼は、「ラマナの寝台は虱(シラミ)で覆われていますが、彼は我々が虱を殺すのを拒みます。虱は体や足を這い上りますが、彼は気にしません。我々は寝台を燻蒸くんじょう)消毒したいのですが、彼は我々にさせてくれません」と言いました。次の日、彼が朝の散歩に出かけた時、彼らは寝台にDDT(*2)を散布しました。戻って来るとすぐに彼は寝台の匂いをかぎ、ほほ笑み、冗談ぽく、「誰かが私を罠にかけましたね」と言いました。彼は決して腹を立てたり、激怒したりしませんでした。私は彼がその言葉(angry、mad?)が何を意味しているのか知らなかったと思います。

 数日後、ドイツ人の女性がアーシュラムにやって来て、寄付をしました。彼女は何かの理由のために満足できず、ラマナに不満を述べていましたが、彼はただ黙っていました。私は通訳に、「彼女は何を求めているのですか」と尋ねました。彼は私に、「彼女は寄付を返してもらって、ドイツに帰りたいのです」と言いました。彼女がアーシュラムの管理人と言い争い始めた時、ラマナは英語で、「彼女に寄付を返し、それに50ルピー加えてあげなさい」と言いました。それは行われ、彼女は去りました。これが彼の性質でした。彼は悪いものを何も見ませんでした。彼らが何をしようとも、彼は決して誰も彼の愛から除外しませんでした。彼はちょうど同じように全ての人を愛していました。

 ラマナはよく聖典から引用したものでした。イエスとラマナは基本的に同じことを言いました。イエスは、「天の王国はあなたの内にある」と言いました。ラマナは、「自らはあなたの内にあります。それを探し、見つけ、目覚めなさい」と言いました。イエスは、「子よ、いつも私はあなたと共におり、私の持つ全てのものはあなたのものである(*3)」と言いました。ラマナは、「私は決してあなたから離れられません。私はいつもあなたと共にいます」と言いました。彼の慈しみは、決して彼から離れませんでした。

 1950年4月、私はパパ・ラム・ダス(*4)に会うためにバンガロールにいました。ラマナがその体を離れたということを知らされた時、私はティルヴァンナーマライへ行きました。群衆がすでにやって来始めていました-数えきれない人々。それで、私は山に登り、洞窟の一つへ入り、そこで5日間を過ごしました。私が下りてきた時、群衆は散っていました。彼はすでに埋葬されていました。私は彼の最後を見た信奉者に、「彼が話した最後の言葉は何でしたか」と尋ねました。彼は、「彼が体を去りつつある時、孔雀が壁のてっぺんに飛び上がり、高い声で鳴き始めました。ラマナは彼の付添人に、『まだ誰も孔雀に食べ物を与えていないのですか』と尋ねました。それが彼の最後の言葉でした」と言いました。

 私は多くの教師、多くの聖者、多くの賢者に会いに行きました。私はニサルガダッタ(*5)、アーナンダマイー・マー(*6)、パパ・ラム・ダス、ニーム・カロリ・バーバー(*7)や他の多くの人々と共にいましたが、私はラマナ・マハルシのような慈しみ、彼のような愛、彼のような至福をにじませた誰にも出会いませんでした。

アダムの詩の見本:
                        
私は誰か?
あなたの現実を感じよ
沈黙の中に
静寂の中に
そこには心は無く
思いもなく、言葉もない
それではあなたは誰か?
あなたはただいる
私はいる、私はいる
私はこれでなく
私はそれでない
私はいる
私はいつもあったものであり
私はいつもあるだろうもの
私はいる、が私である

(*1)おかゆ・・・南インドにはポンガルというおかゆがあり、緑豆と米を使い、牛乳で煮るようです。
(*2)DDT・・・殺虫剤。現在日本では使用禁止されているが、マラリア対策で使われている国もある。
(*3)ルカによる福音書、15:31に、「すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ」とあります。また、マタイによる福音書、28:20に、「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」や、ヨハネによる福音書、17:10にも、「わたしのものは皆あなたのもの、あなたのものはわたしのものです」とあります。ヨハネの福音書の「あなた」は神を意味しているようです。
(*4)http://en.wikipedia.org/wiki/Ram_Dass
(*5)http://en.wikipedia.org/wiki/Nisargadatta_Maharaj
(*6)http://en.wikipedia.org/wiki/Anandamayi_Ma
(*7)http://en.wikipedia.org/wiki/Neem_Karoli_Baba

2013年12月24日火曜日

「シュリー・アルナーチャラへの八詩節(Sri Arunachala Asthakam)」

◇『アルナーチャラへの五つの賛歌&シュリー・ラマナ・マハルシのその他の詩(Five Hymns To Arunachala & other Poems of Sri Ramana Maharshi』)

 英訳はK.スワミナタン教授のものです。(文:shiba)

以下は、『Ramana Maharshi and the Path of Self-Knowledge』、第16章からの抜粋
 ともかく、本を書こうや、詩を作ろうとは私は思いもしませんでした。私が作った詩のすべては、誰かの要望によるか、何かの特別の出来事に関係していました。今や、とても多くの解説や翻訳が存在する「現実への40詩節(Forty verses on Reality)」でさえも、本として計画されたのではなく、様々な時に作られた詩節から成り立っており、後にムルガナールと他の人々によって本として整えられました。誰も私に書くように促すことなく、私のもとへ自然とやってきて、いわば、私に書くように強いた唯一の詩は、「シュリー・アルナーチャラへの十一詩節」と「シュリー・アルナーチャラへの八詩節」です。


Manachanallur Giridharan による「シュリー・アルナーチャラ・アシュタカム」


シュリー・アルナーチャラへの八詩節

1.
見よ、それは意識がないかのようにそこに立つ。謎めいているのはそれが働く方法であり、まるで人知を超えている。物心の付かない幼少時代から、果てしのないアルナーチャラは私の意識の中に輝いていた。しかし、それがティルヴァンナーマライでしかないとある人から学んだときでさえ、私はその真意を理解していなかった。それが私の心を静め、それ自体に私を引き寄せ、私が近づいたとき、私はそれが絶対的な静寂であることを知った。

Look, there it stands as if insentient. Mysterious is the way it works, beyond all human understanding. From my unthinking childhood, the immensity of Arunachala had shone in my awareness. But even when I learnt from someone that it was only Tiruvannamalai, I did not realize its meaning. When it stilled my mind and drew me to itself and I came near, I saw that it was stillness absolute.

2.
「見る者は誰か」内に探求し、私は見る者が消えゆくのを、そして、永遠にあるそれのみを見た。「私は見た」と言うための思いは生じなかった。それでは、どうして「私は見なかった」と言うための思いが生じ得たのか。あなたでさえ(ダクシナームールティとして)古のこれを沈黙の中でのみ伝えたなら、この全てを言葉で説明する力を誰が持つのか。超越したあなたの境地を沈黙により啓示するため、今やあなたはここに立つ、まばゆく天空へとそびえ立つ山よ。

Enquiring within "Who is the seer?" I saw the seer disappearing and That alone which stands for ever. No thought arose to say "I saw". How then could the thought arise to say "I did not see?" Who has the power to explain all this in words, when even You (as Dakshinamurti) conveyed this of yore in silence only? And in order to reveal by silence, Your state transcendent, now You stand here, a Hill resplendent soaring to the sky.

3.
私が「あなたは形を持つ」と思いながらあなたに近づくとき、あなたは地上に山としてここに立つ。あなたを無形とみなす人がそれでもあなたを見たいと思うなら、彼は(遍在し、目に見えない)虚空を一目見るために世界中を放浪する人のようである。あなたの無形の実在に思いなく瞑想し、私の形(私の分離した存在)は海の中の砂糖人形のように溶ける。そして、私は誰か私が悟ったとき、あなたと離れてどのように私は存在するのか、おお、力強いアルナの山として立つ、あなたよ。

When I approach You thinking You have form, You stand here as a Hill on earth. If one regarding You as formless wants yet to see You, he is like one wandering through the world to have a look at the ether (ubiquitous, invisible). Meditating without thought on Your formless Being, my form(my separate entity) dissolves like a sugar-doll in the sea. And when I realize who I am, what being have I apart from You, O, You who stand as the mighty Aruna Hill?

4.
実在として立ち、意識として輝くあなたを見落とし、神を探すことは、灯火を手に持ち、暗闇を探すようなものである。実在かつ意識として、終にはあなた自身を現わすために、あなたは全ての宗教の中に様々な形で住む。その実在が意識である、あなたを見損じる人々がいまだいるならば、彼らは太陽を知らない盲目の人も同然である。おお、力強いアルナの山よ、比類のない宝石、立ちて輝け、他を持たない唯一なるもの、私のハートの内なる自ら

 To search for God ignoring You who stand as Being and shine as Awareness is like looking, lamp in hand, for darkness. In order to reveal Yourself at last as Being and Awareness, You dwell in various forms in all religions. If still there are people who fail to see You whose Being is Awareness, they are no better than the blind who do not know the Sun. O mighty mountain Aruna, peerless Jewel, stand and shine, One without a second, the Self within my Heart.

5.
首飾りの宝石をつなぐ糸のように、あなたは全存在と様々な宗教を貫き、束ねている。削磨される宝石のように、分離した心が純粋で普遍的な心なる研磨石の上で磨かれるなら、それはあなたの恩寵の光を獲得し、他のどのようなものによっても損なわれない輝きを持つルビーのように輝く。いったん太陽光が感光板に落ちたとき、板は別の映像を記録するのか。あなたと離れて、おお、吉兆なる輝くアルナの山よ、他の何ものが存在するのか。

 Like the string that holds together the gems, in a necklace, You it is that penetrate and bind all beings and the various religions. If, like a gem that is cut and polished, the separate mind is whetted on the grindstone of the pure, universal Mind, it will acquire the light of your Grace and shine like a ruby whose brightness is not flawed by any other object. When once the light of the Sun has fallen on a sensitive plate, will the plate register another picture? Apart from you, O Aruna Mountain bright, auspicious does any other thing exist?

6.
あなたのみが存在する、おお、ハート、意識の光輝よ。あなたの中に、謎めいた力が住する-あなた無くして存在しない力。それ(この顕現する力)から、プラーラブダの渦巻きの真中で心の反射した光により照らされることで、映画がレンズを通じて投影されるように、知覚者と共に一連の微細な影のような思いが、影のような世界の光景として内に現れ、五感によって知覚される世界として外に現れる。知覚されても、知覚されなくても、これら(の思い)はあなたと離れて存在しない、おお、恩寵の山よ。

You alone exist, O Heart, the radiance of Awareness. In You a power mysterious dwells, a power which without You is nothing. From it (this power of manifestation) there proceeds, along with a perceiver, a series of subtle shadowy thoughts which, lit by the reflected light of mind amid the whirl of prarabdha, appear within as a shadowy spectacle of the world and appear without as the world perceived by the five senses as a film is projected through a lens. Whether perceived or unperceived, these (thoughts) are nothing apart from you, O Hill of Grace.

7.
私という思いが存在してはじめて、他の思いが存在しうる。他の思いが生じるとき、「誰に?私に?この『私』はどこに生じるのか」尋ねよ。そのように内側に潜り、人が心の源をつきとめ、ハートに到達するなら、人は全世界の至高なる主となる。もはや内外、正邪、生死、苦楽、明暗などのようなものを夢見ることはない。おお、恩寵の限りない大海であり光輝、ハートの舞踏館で静寂の踊りを踊るアルナーチャラよ。

Until there is the I thought there can be no other thought. When other thoughts arise, ask "To whom? To me? Where does this 'I' arise?" Thus diving inwards, if one traces the source of the mind and reaches the Heart, one becomes the Sovereign Lord of the Universe. There is no more dreaming of such as in and out, right and wrong, birth and death, pleasure and pain, light and darkness, O boundless ocean of Grace and Light, Arunachala dancing the dance of stillness in the dancing Hall of the Heart.

8.
海から立ち昇り、雲から降り注ぐ雨粒は、全ての障害をよそに、今一度、その生まれ故郷である大海にたどり着くまで休むことはできない。あなたから進み出る、形を与えられた心(人、生命)は、自ら選んだ様々な道を通り、しばらく無目的にさ迷うかもしれないが、源である、あなたに合流するまで休むことはできない。鳥はあちらこちらに停空飛翔するかもしれないが、中空には留まれない。鳥は進んだ道を戻らねばならず、終には地上のみがその休らう場所であると見出す。まさにそのように、心はあなたへ向かい、おお、アルナの山よ、至福の大海である、ただあなたのみに再び溶け込まなければならない。

The raindrops showered down by the clouds, risen from the sea cannot rest until they reach, despite all hindrance, once again their ocean home. The embodied soul from You proceeding may through various ways self-chosen wander aimless for a while, but cannot rest till it rejoins You, the source. A bird may hover here and there and cannot in midheaven stay. It must come back the way it went to find at last on earth alone its resting place. Even so the soul must turn to You O, Aruna Hill, and merge again in You alone, Ocean of bliss.

2013年12月18日水曜日

自らの探求と他の修練の比較 - 「秘密の技法」は存在しない

◇『バガヴァーンと日々をともにして(Day by Day with Bhagavan)』、p324~326

 多少訳を変更し、読みやすいように対話形式にしています。(文:shiba)

1946年10月8日

訪問者:(午後に)
 疑いなくバガヴァーンの教える方法は直接的です。しかし、それはとても困難です。我々はどのようにそれを始めればいいのか分かりません。我々が「私は誰か」をマントラとして、ジャパのように「私は誰か」「私は誰か」と問い続けるなら、それは単調なものになります。他の方法では、人は予備的で明確なものから始められ、その後、それと共に一歩一歩進めます。しかし、バガヴァーンの方法ではそのようなものがないため、直ちに自らを探求することは、直接的ではあるにしても困難です。

バガヴァーン:
 それが直接的な方法であるとあなた自身が思っています。それは直接的で、簡単な方法です。我々から離れた他のものを追い求めるのがとても簡単であるならば、人が自分自身の自らへ向かうのがどうして困難になりえるでしょうか。あなたは「どのように始めるのか」と話します。始まりも、終わりもありません。あなた自身が始まりであり、終わりです。あなたがここにいて、自らが他のどこかにあり、あなたがその自らに到達しなければならないなら、あなたは「どのように始めるか、どのように旅するか、どのように到達すればいいか」教わるかもしれません。仮に今、ラマナーシュラマムにいるあなたが、「私はラマナーシュラマムへ行きたいのです。私はどのように出発すればいいですか、どのようにそれに行きつけばいいですか」と尋ねるならば、人は何と言うべきですか。人の自らの探求はそのようです。彼はいつも自らであり、その他の何ものでもありません。

 あなたは「私は誰か」がジャパになると言います。それはあなたが「私は誰か」尋ね続けるべきであるという意味ではありません。その場合には、思いはそう簡単に消えません。全てのジャパは、一つの思い、マントラの使用により、他の一切の思いを排除しようとしています。このジャパはやがては人の役に立ちます。マントラの思い以外の他の一切の思いは徐々に消え、その後、その一つの思いさえも消えます。我々の自らはジャパの性質を帯びています。ジャパはいつもそこで続いています。我々が一切の思いを放棄するなら、ジャパが我々の側の努力なしにいつもそこにあることに気づきます。

 あなたが呼ぶところのその直接的な方法において、あなた自身に「私は誰か」尋ねなさいと言うことによって、あなた自身の内の「私という思い」(他の一切の思いの根本)が生じる場所に集中するように言われているのです。自らはあなたの外になく、内にあるため、あなたは外へ向かうのではなく、内に潜るように求められています。あなた自身に向かうことよりも何が簡単になりえるでしょうか。しかし、この方法が難しく思え、魅力的でないと感じる人々もいるという事実は残ります。ですから、たくさんの異なる方法が教えられているのです。そのそれぞれ(の方法)に、それを最良で、最も簡単なものとして魅力的に感じる人たちがいます。それは彼らのパクヴァ、適性によります。しかし、ヴィチャーラ・マールガ以外の何も魅力的に感じない人々もいます。彼らは、「あなたは私にあれこれを知るのや、見るのを望みます。しかし、知る者、見る者とは誰ですか」と尋ねます。他のどのような方法が選ばれても、常に行為者がいます。それは避けられません。その行為者が誰か見出されねばなりません。それまでは、サーダナを終えることはできません。ですから、結局は、皆が「私は誰か」見出すに至らなければなりません。

 あなたは始めるための予備的もの、明確なものが何もないと不満を言います。あなたは始めるための「私」を持っています。あなたはあなたがいつも存在しており、例えば、眠りにおいて、体はいつも存在していないのを知っています。眠りによって、たとえ体がなくてもあなたが存在することが明らかになります。我々は「私」を体と同一視し、自らが体を持っていて、制限を持っているとみなしています。それゆえに、我々の全ての問題があります。我々がなすべき全てのことは、我々の自らを形と制限を持つ体と同一視するのをやめることです。その時、我々自身をいつも我々である自らとして知ります。

訪問者:
 サーダナの技法に関する限り、あなたの本の中に折に触れ書かれているもの以上に、今、さらに知られるべきものは何もないと信じていいでしょうか。この質問は、他の一切の体系のサーダナにおいて、サッドグルが手ほどき、いわゆるディークシャーの時に何らかの秘密の瞑想の技法を彼の弟子に打ち明けるという事実から起こります。

バガヴァーン:
 あなたが本の中に見つけたもの以上に知られるべきものは何もありません。秘密の技法はありません。この体系では、それはまったく公然の秘密です。

訪問者:
 神の実現の後でさえ、人が飢え、睡眠、休息、暑さ寒さなどのような肉体的要求に注意を払わなければならないなら、自らの実現が何の役に立ちますか。その状態は完全とは呼ばれえない何かです。

バガヴァーン:
 自らの実現の後の状態がどうなるのか。あなたはどうしてそれについて今、思い悩まなければならないのですか。自らの実現を達成しなさい。そして、その後、自分自身で確かめなさい。しかし、どうして自らの実現の状態に向かうですか。今でさえ、あなたは自らなしに存在しますか。そして、食べることや眠ることなど、これら全ての物事は自らなしに、自らを離れて存在しますか。 
              

2013年12月10日火曜日

トゥリーヤ(第四の状態)、儀式の必要性、ジニャーナと他者の苦しみ

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』、p92~97

 多少訳を変更して、読みやすいように対話形式にしています。(文:shiba)

46年1月5日 午後 

 私が講堂に入った時、バガヴァーンは何かの質問に答えていました。

バガヴァーン:
 夢が短く、目覚めが長いという以外、夢と目覚めの状態の間に相違はありません。共に心の結果です。目覚めの状態が長いので、我々はそれが我々の真の境地であると想像します。しかし、実際、我々の真の境地とはトゥリーヤ、または、第四の状態と時に呼ばれるものであり、いつもあるがままにあり、三つのアヴァスター(*1)、すなわち、目覚め、夢、眠りについて何も知りません。我々がそれら三つをアヴァスターと呼ぶので、我々は第四の状態もまたトゥリーヤ・アヴァスターと呼びます。しかし、それはアヴァスターではなく、自らという真の自然な境地です。これが実現される時、我々はそれがトゥリーヤでも、第四の状態でもなく-なぜなら、第四の状態は相対的なものに過ぎません-、トゥリーヤーティータ、第四の状態と呼ばれる超越的な境地であると知ります。

訪問者:
 聖職者は様々な儀式やプージャー(*2)を定め、人々は断食期間や祭日などにそれらを適切に行わなければ、罪が生じるなどと言われます。そのような儀式や儀式的崇拝を行う必要がありますか。

バガヴァーン:
 ええ。そのような全ての儀式もまた必要です。それはあなたには必要ではないかもしれません。しかし、そのことは、それが誰にとっても必要ではなく、全く役に立たないということを意味しません。幼児教室の生徒に必要なものは、大学院生には必要ありません。しかし、大学院生さえも幼児教室で彼が習ったまさにそのアルファベットを使わなければなりません。今や、彼はアルファベットの使い方と意義を十分に知っています。

訪問者:
 私はオームカーラ(*3)・プージャーをします。私はオーム・ラムと言います。それは良いことですか。

バガヴァーン:
 ええ。どのようなプージャーも良いのです。オーム・ラムや他のどのような名前も役に立ちます。肝心なことは、オーム、ラム、神という一つの思い以外の他の一切の思いを遠ざけることです。全てのマントラ、ジャパはその手助けをします。例えば、ラムのジャパをする人は、ラーマ・マヤ(*4)になります。崇拝する者が、やがては崇拝されるものになります。その時になってはじめて、彼は彼が繰り返し唱えていたオームカーラの完全な意味を知ります。

 我々の本質はムクティです。しかし、我々は我々が束縛されていると想像していて、我々がその間中ずっと自由であるにもかかわらず、自由になるために様々な骨の折れる試みを行っています。これは我々がその段階に達した時にのみ理解されます。我々は、我々がいつも我々であったもの、そして、(今も)我々であるものを得ようと必死に試みていたことに驚きます。

 一つの例によって、これが分かりやすくなるでしょう。ある人がこの講堂で眠りに落ちます。彼は世界旅行に出かけた夢を見て、山や谷、森や国、砂漠や海を放浪し、様々な大陸を越え、長い年月の難儀な骨の折れる旅の後、この国に戻り、ティルヴァンナーマライに到着し、アーシュラムに入り、講堂に歩み入ります。ちょうどその時、彼は目を覚まし、彼が少しも動いておらず、彼が横たわった場所で寝ていたことに気づきます。彼は大変な努力の後でこの講堂に帰ってきたわけではなく、講堂に今も、そして、いつもいました。それはまさにそのようなのです。「自由であるのに、どうして我々は我々が束縛されていると想像するのですか」と問われるなら、私は、「講堂にいるのに、どうしてあなたは自分が山や谷、砂漠や海を越え、世界を冒険していると想像したのですか。それはすべて心、もしくは、マーヤーです」と答えます。

シュリー・オウロビンドー・アーシュラムから来たという訪問客:
 しかし、我々は世界の中で苦しみを見ます。ある人は空腹です。それは身体的な現実です。それは彼にとってとても現実的です。我々はそれを夢であると呼び、彼の苦しみに心動かされずにいるべきなのですか。

バガヴァーン:
 ジニャーナや現実(*5)の視点からは、あなたが言う苦しみは確かに夢です。それは世界と同じく夢であり、苦しみは世界のごくわずかの部分です。夢の中でも、あなた自身が空腹を感じます。あなたは他の人が空腹で苦しんでいるのに気づきます。あなたは食事をとり、憐れみに心動かされ、あなたが空腹で苦しんでいると気付いた他の人に食事を与えます。夢が続く限り、その一切の苦しみは非常に現実的です。あなたが今、世界で見る苦しみを現実的であると思うのと同じです。目覚めて初めて、あなたは夢の中の苦しみが現実でないと発見します。あなたはたっぷり食べて、眠りについたかもしれません。あなたは夢を見て、灼熱の太陽が一日中照りつける中で激しく長時間働き、疲れて空腹で、たくさん食べたいと思います。その時、あなたは目覚め、お腹一杯でベッドから動いていないことに気付きます。

 しかし、今述べたこと全ては、あなたが夢にいる間に、あなたがそこで感じる苦しみが現実でないかのようにあなたが振る舞ってもいいと言わんとしているのではありません。夢の空腹は夢の食べ物で満たされねばなりません。あなたがとてもお腹が減っていると夢で気付いた仲間には、その夢の中で食べ物が与えられなければなりません。あなたは、二つの状態、夢と目覚めの状態を決して混ぜることはできません。

 あなたがジニャーナの境地に達するまで、従って、このマーヤーから目覚めるまで、あなたが苦しみを見る時はいつでも、苦しみを和らげることによって社会的な奉仕をしなければなりません。しかし、その時でさえ、我々が教わっているように、アハンカーラ(*6)なしに、つまり「私が行為者である」という実感なしに、「私は主(神)の道具である」と感じながらそれを行うべきです。

 同じように、あなたは、「私は自分より下にいる人を助けている。彼は助けが必要だ。私は助ける立場にいる。私は優れていて、彼は劣っている」と思いあがってはいけません。そうではなく、あなたはその人の内にいる神を崇拝するための手段として助けなければいけません。そのような奉仕すべては自らのためでもあり、他の誰のためでもありません。あなたは他の誰でもなく、ただあなた自身のみを助けているのです。

 ラーマチャンドラ・アイヤルがこれに関連して、『エイブラハム・リンカーンの古典的な例があります。彼は豚が溝から出るのを助け、その過程で彼自身と彼の服を汚してしまいました。彼がどうしてそんなにも労を費やしたのか尋ねられた時、彼は、「私は豚の問題を終わらせるためというよりもむしろ、気の毒な生き物が溝から出ようともがいているのを見るという自分自身の苦しみを終わらせるためにそれをしました」と答えました』と言いました。

ジョーシー氏:
 私は世帯主です。私には精神的成長の妨げになる扶養家族と障害となるものがあります。私はどうすべきでしょうか。

バガヴァーン:
 その扶養家族と障害となるものがあなたの外にあるのか、それらがあなたの内に存在するのか確かめなさい。

ジョーシー氏:
 私は初心者です。私はどのように始めるべきでしょうか。

バガヴァーン:
 あなたは今どこにいますか。どこに目的地がありますか。歩まれねばならない距離はどれほどですか。自らは到達されるべきどこか遠くにありません。あなたはいつもそれです。あなたはただ、あなたの習慣、あなた自身を自らでないものと同一視する長年の習慣をやめさえすればいいのです。一切の努力はそのためだけにあります。心を外に向けることにより、あなたは世界、自らでないものを見つづけています。あなたが心を内に向けるなら、あなたは自らを見ます。

 この教えの後、ローカンマがタミル語の歌を歌い始めました。バガヴァーンはすぐに、「母はこの歌をたびたび歌っていました。これは私が今話してきたまさにそのことを繰り返しています」と言いました。そこで直ちに、私はバガヴァーンに誰がその歌の作者なのか尋ねました。

 彼は、「アヴダイ・アンマル(*7)です。彼女は非常に多くの歌を作りました。それらはその地域(マドゥライや近辺の他県)では非常に人気があります。それらのいくつかは出版されています。しかし、とても多くが出版されないままです。それらは口頭で世代から世代へ、主に女性を通じて受け継がれています。彼女達は他の人から歌を聞き、すでに歌を知っている人たちと一緒に歌い、歌を暗記します」と言いました。私は今、バガヴァーンの母親が読み書きができなかったことを知りました。バガヴァーンは私に、「それにも関わらず、彼女はとてもたくさんの歌を暗記していました」と言いました。以下に、その歌とその意味が記されます。

どうして常にある自ら
自覚かつ至福が
どうしてそれが今まで、あたかも
これを忘れていたかのように振る舞ったのか
不可思議の中の不可思議、理解を越えているのは
あなたのおかしな恐れ
私の白鳥、私のかわいい人
私へのあなたの恐れ!
心は学び、知り、忘れ
体はもうけられ、生まれ、死ぬ
どこからこの不浄が清浄の中に?
大、小、階級、地位、光景、見る者-
どうしてこの薄暗がりの波が深淵なる至福の海の中に?
言葉も沈黙の誓いも必要ない
行くことも来ることもなく、始まりも終わりも中間もない
光もなく、音もない、性質もない
分離もなく、それゆえ、恐れもない
おお、不可思議の中の不可思議、夢の中のように見える物事!
内と外、高い低い、十方向すべては
無限に広大な光の中に失われた
壊れない、支えられていない、完全で穏やかな
純粋な自覚、不変の至福
かつては遠い目的地に思い焦がれていた
今やここに、歓喜が、歓喜が!

(*1)アヴァスター・・・状態
(*2)プージャー・・・神などを崇拝するヒンドゥー教の祈りの儀式。
(*3)オームカーラ・・・文字通りは、「オームの音節」
(*4)ラーマ・マヤ・・・「ラーマで満ちたもの」、「完全なラーマ」。
(*5)現実・・・英語のthe realityの訳。「真実」とも訳せますが、夢との比較で現実と訳しています。
(*6)アハムカーラ・・・「自我への同一化、愛着」。カーラは「創造されたもの」「すること」を意味する。
(*7)アヴダイ・アンマル・・・2010年1月号の「The Mountain Path」のp17に「Avudai Akka of Chengottai 」という記事があります。

沈黙の力、グルとの死後の交際、交際の利益、ジャパの修練、死と解放

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』、p168~172

46年3月9日 朝 

 ボーパールの引退した医療官長であるマサラワーラー医師は、もう1ヵ月以上ここにいて、シヴァ・ラオ医師の不在の間、アーシュラムの病院を一時的に管理しています。彼はバガヴァーンに以下の質問をして、以下の答えを得ました。

質問:
 バガヴァーンは、「ジニャーニの影響は沈黙のうちに信奉者へそっと入りこむ」と言います。バガヴァーンはまた、「偉大な人々、高貴な方々との交際は、人の真の存在を実現する一つの有効な手段である」と言います。

バガヴァーン:
 ええ。何か矛盾していますか。ジニャーニ、偉大な人々、高貴な方々-彼(医師)はこれらの人たちを区別するのですか。

 そこで直ちに、私(デーヴァラージャ・ムダリアール)は「いいえ」と言いました。

バガヴァーン:
 彼らとの交際は良いことです。彼らは沈黙を通じて働きかけます。話すことによって、彼らの力は減少します。沈黙はもっとも力強いのです。言葉はいつも沈黙より力強くありません。ですから、心の交際が最良です。

質問:
 それはジニャーニの身体の消滅の後さえも当てはまりますか、それとも、それは彼が肉体(血と肉)の内にいる限りのみ真実ですか。

バガヴァーン:
 グルは身体的な形態ではありません。ですから、交際はグルの身体的な形態が消え去った後さえも存続します。

質問:
 同様に、グルと信奉者の交際はグルの死後も続きますか。それとも、終わりますか。成熟した者にとっては、グルが亡くなった後、彼の自らが彼のグルの役目を果たすことは可能ですが、未熟な者は何をすべきですか。バガヴァーンは、「外側のグルもまた信奉者の心を自らへ押し進めるために必要とされる」と言います。彼は別の熟練者と交際できますか。この交際は必ず身体的なものであるべきですか、それとも、心の交際で十分ですか。どちらがより良いでしょうか。

バガヴァーン:
 すでに説明したように、グルは身体的な形態でないので、彼の交際は彼の形が消え去った後で続きます。一人のジニャーニが世界に存在するならば、彼の影響は、ただ彼の直近の弟子たちのみでなく、世界の全ての人々により感じられ、もしくは、利益します。世界の全ての人々は彼の弟子、バクタ、彼に無関心な人々、彼に敵意すらある人々に分けられ、以下の詩節ではこの全ての区分がジニャーニの存在により利益されると言われています。

四つの区分の人々がジヴァーンムクタ(*1)により利益を受ける
ジーヴァンムクタへの信により、弟子はムクティを達成し
グルを崇拝するバクタは功徳を得
ジーヴァンムクタの聖なる生き方を見た無関心な人々は正義(廉直)への望みを獲得し
罪びと(つまり、最初の詩節の敵意ある人々)さえも
そのような聖者のダルシャンを得たという事実だけによって罪を取り除く
(『ヴェーダーンタ・チューダーマニ』から、バガヴァーンの引用の要約)

 神、グル、自らは、同じものです。あなたの神へのバクティがあなたを成熟させた後、神はグルの姿でやって来て、外側からあなたの心を内側に推し進めますが、一方、彼は自らとして内にいるので、あなたを内からそこに引き寄せます。そのようなグルは、とても進歩した稀な人々には必要ありませんが、広く一般に必要とされています。人は彼のグルが亡くなった後、別のグルのもとへ行けます。しかし、全てのグルは一つです。彼らの誰も形態ではないからです。いつも心の交際が最良です。

質問:
 私の修練は継続的なジャパであり、吸う息と共に神の名を言い、吐く息と共にバーバー(つまり、ウパシュニ・バーバ(*2)、もしくは、サーイー・バーバー)の名を言います。これと同時に、私はバーバーの姿をいつも見ます。バガヴァーンの内にさえ、私はバーバーを見ます。外見もとてもよく似ています。バガヴァーンはほっそりしています。バーバーはすこし太っています。今、私はこれを継続すべきでしょうか、それとも、方法を変えるべきでしょうか。内から何かが、「あなたが名と形にしがみつくなら、あなたは決して名と形を超え行けないだろう」と言います。しかし、名と形を放棄した後、私はさらに何をすべきか分かりません。バガヴァーンはこの点について私に教えて下さいますか。

バガヴァーン: 
 あなたは現在の方法を続けてかまいません。ジャパが継続的になる時、他の一切の思いは止み、人はその本質の内にいます。それはジャパやディヤーナです。我々は心を世界の物事へ外に向け、それゆえ、常にジャパである我々の本質に気づきません。いわゆる意識的な努力、ジャパやディヤーナによって、我々が我々の心が他の物事を考えるのを妨げる時、後に残るものが我々の本質であり、ジャパです。

 あなたが「私は名と形である」と思うかぎり、あなたはジャパにおいても名と形から逃れられません。あなたが「私は名と形ではない」と悟る時、名と形は自ら抜け落ちます。他の努力は必要ありません。ジャパやディヤーナは自然に、そして、自ずからそれに通じます。今、手段としてみなされているもの、ジャパがその時、目的であると見出されます。名と神は異なりません。1937年9月号の「Vision」から抜粋された神の名の意義についてのナームデーヴの教えをご覧なさい。(これは講堂で読みあげられました。)

 バガヴァーンはまた、聖書を引用しました。「はじめに言葉があり、言葉は神と共にあり、言葉は神であった」(*3)

質問:
 解放は体の消滅の前に達成されるべきですか、それとも、死後に得られますか。ギーターの2章・72(*4)や8章・6(*5)のような詩節の意味は何ですか。

バガヴァーン:
  あなたに死がありますか。死が誰にありますか。死ぬ体、寝ている間に、あなたはそれに気づいていましたか、それを持っていましたか。あなたが寝ていた時、はありませんでしたが、その時でさえあなたは存在していました。あなたが目覚めた時にあなたは体を得て、その目覚めの状態においてさえ、あなたは存在します。眠りと目覚めの両方において、あなたは存在していました。しかし、眠りにおいて体は存在しておらず、目覚めにおいてのみ存在します。いつも存在せずに、ある時には存在し、他の時には存在しないものは現実になるはずがありません。あなたは常に存在しており、それゆえに、あなたのみが現実なのです。

 解放はあなたの別名です。それは、あなたと共に今ここにいつもあります。それは、これから後や、どこかで勝ち取られたり、達せられたりする必要はありません。キリストは、今ここに「神の王国はあなたの内にある」と言いました。あなたは死を持ちません。ターユマーナヴァルは、「世界に住んでいる時でさえ、ニシター(*6)に常にいる者たちは死のようなものがあると考えない」と歌っています。

 ギーター全体の文脈において、その(たとえば、2章の)ギーターの詩節は、あなたが今世の間に解放を達成しなければならないということを意味しているだけです。たとえ今世の間にそれができなくても、あなたは少なくとも死の時に神を思わねばなりません。なぜなら、人は死の時に考えたものになるからです。しかし、あなたが生きている間中いつも神を思っていなければ、あなたが生きている間に神についてのディヤーナを常なる習慣としていなければ、あなたが死の時に神を思うのはまったく不可能でしょう。

(*1)ジーヴァンムクタ・・・命あるうちに解放に達した聖者。
(*2)ウパシュニ・バーバー・マハーラージ・・・http://en.wikipedia.org/wiki/Upasni_Maharaj
(*3)「ヨハネによる福音書」の第1章1・2詩節、3詩節は「全てのものはこれによってできた」
(*4)ギーターの2章72詩節:「プリターの息子よ、これがブラフマンの境地である。それに達すれば、迷うことはない。死の時もこれに留まるなら、ブラフマ・ニルヴァーナに達する」
(*5)ギーターの8章6詩節:「体を捨て去る時にどのような思いを思い起こそうとも、クンティーの息子よ、彼は必ずいつもその思いとなる」
(*6)ニシター・・・サンスクリット語。最上の住まい・堅固な献身。

2013年12月5日木曜日

マーヤーの五つの名、世界(波)とアートマ・スワルーパ(海)

◇『シュリー・ラマナーシュラマムからの手紙(Letters from Sri Ramanasramam)』

1947年5月21日
(119)ニディディヤーサナ 

 昨日の朝8時、Arya Vignana Sanghaで働き、バガヴァーンの弟子の一人であるサイード博士が、バガヴァーンのダルシャンのためにやって来て、「バガヴァーンは全世界がアートマ(自ら)というスワルーパ(*1)であると言います。もしそうなら、我々はどうしてこの世界にとても多くの問題を見出すのですか」と尋ねました。喜びを表す顔つきで、バガヴァーンは答えました。

バガヴァーン:
 それはマーヤーと呼ばれています。『ヴェーダーンタ・チンターマニ』で、マーヤーは五つの方法で描かれています。ニジャグナ・ヨーギ(*2)という名の人が、カナラ語でその本を書きました。その中でヴェーダーンタがとても適切に扱われており、ヴェーダーンタの学術用語の権威であると言えます。タミル語の翻訳があります。

 マーヤーの五つの名は、タマス、マーヤー、モーハ、アヴィドヤー、アニティヤです。タマスは、生命についての知識を隠すものです。マーヤーは、世界の形である一者(神)を世界と異なるように見せることに責任があります。モーハは、異なるものを現実にみせるものです-スクティ・ラジャタ・ヴァバティ(*3)、真珠母貝が銀でできているという幻を作りだすこと。アヴィドヤーは、ヴィドヤー(知)を台無しにするものです。アニティヤは、一時的なもの、永遠であり、現実であるものと異なるものです。 

 これらの五つのマーヤーのため、スクリーン上の映画の映像のように、問題がアートマの中に現れます。そのマーヤーを取り除くためだけに、全世界がミティヤ(*4)であると言われています。アートマンはスクリーンのようです。あなたが映される映像がスクリーンに依存していて、別なように存在していないということを知るようになるのとまさしく同様に、目に映る世界がアートマと異ならないということを自らの探求によって知ることができるまで、世界はまったくのミティヤ(*5)であると言わざるを得ません。しかし、いったん現実が知られるなら、全世界はアートマのみとして現れます。それゆえ、世界が非現実であると言ったまさにその人々が、続いてそれがアートマ・スワルーパのみであると言ったのです。結局のところ、重要なのは見かたです。見かたが変われば、世界の問題は我々を悩ませません。波は大海と異なりますか。いったいどうして波が起こるのか。尋ねられるなら、どのような答えができますか。波は行き来します。それらがアートマと異ならないということが見出されるなら、この悩みは存在しません。

 その信奉者は悲しげな口調で、「いくらバガヴァーンが我々に教えても、我々は理解できません」と言いました。

バガヴァーン:
 人々は遍く行き渡るアートマを知ることができないと言います。私に何ができますか。ほんの小さな子供さえも、「僕がいる。僕がやる。これは僕のものだ」と言います。ですから、全ての人が「私」というものがいつも存在していることを理解しています。その「私」がそこにある時のみ、あなたが体であり、彼はヴェンカンナです、私はラマンナです、というような実感がそこにあります。常に目に映る一者(神)が自分自身であるということ知るために、蝋燭を持って探す必要がありますか。我々が自分自身の中にあり、異なるものでないアートマ・スワルーパを知らないと言うことは、「私は私自身を知りません」と言うようなものです。

信奉者:
 それは、シュラバナ(*6)とマナナ(*7)によって目覚め、目に映る全世界をマーヤーに満ちていると見る人たちが、究極的にはニディディヤーサナ(*6)によって真のスワルーパを見つけるという意味です。

バガヴァーン:
 ええ、そうです。ニディはスワルーパという意味です。ニディディヤーサナは、グルの言葉のシュラバナとマナナの助けと共に、スワルーパに強く集中する行為です。それは、逸れることのない熱意をもって、それに瞑想することを意味します。長いあいだ瞑想した後で、彼はそれに溶け込みます。その時、それがそのものとして輝きます。いつもそこにそれはあります。人がそれをあるがままに見られるなら、この種の問題はありません。常にそこにある自分自身を見るために、どうしてこんなにも多くの質問がいりますか。

(*1)スワルーパ・・・(自分自身の)本質
(*2)ニジャグナ・ヨーギ・・・ニジャグナ・シヴァヨーギ、15世紀のカンナダ語(カナラ語)の詩人であり、多作の作家。
(*3)スクティ・・・貝、ラジャタ・・・銀、ヴァバティ・・・なること、形を装うこと
(*4)ミティヤ・・・幻、非現実
(*5)シュラバナ・・・聞くこと
(*6)マナナ・・・熟考すること
(*7)ニディディヤーサナ・・・途切れのない瞑想

2013年12月3日火曜日

忘却の効用、人形劇のような世界、ヴェーダーンタはアディカーリーへ

◇『シュリー・ラマナーシュラマムからの手紙(Letters from Sri Ramanasramam)』

 読みやすいように対話形式にするため、多少訳を変更しています(文:shiba)

1947年11月21日
(158) 記憶 - 忘却

 今日の午後3時、白孔雀がバガヴァーンの前に来て、私たちみんなの真っただ中で動き回り始めました。一人の信奉者が、それがとても人馴れしていることに気づき、「この鳥は過去生を知っているようです。そうでなければ、人々みんなの真っただ中をこんなにも自由に動けますか」と発言しました。バガヴァーンは、「ですから、ここにいる多くの人々が、それがマドハヴァ(最近亡くなったバガヴァーンの古参の従者)であり、その姿でここにやって来たと言うのです」と言いました。その信奉者は、「もしそうなら、それは過去生でこれこれであったということを知っていますか」と尋ねました。

バガヴァーン:
 どうして(知ることが)できるでしょうか。誰も過去生について知りません。人々は忘れています。そして、その忘却は良いことです。この一度の人生だけで、時に我々は過去に起こったことにひどく悩みます。もし我々が過去生をすっかり知るならば、そのような悩みに耐えられますか。過去生の事実を知ることは、自分自身の自らを知ることを意味します。それが知られるなら、この生まれと過去生が、心とそのサンカルパ(欲望、意思)のみから出ていると分かるでしょう。

 『(ヨーガ・)ヴァーシシュタ』において、この創造がどれほど様々な方法で描かれているのかご覧なさい。ガーディ(*1)がクリシュナにマーヤー・スワルーパ(マーヤーの本質)を見せるように頼んだ時、彼はガーディに無数の姿を見せました。ラヴァナ・マハーラージャの話(*2)もそのようであり、シュクラの話(*2)はよりいっそう興味深いものです。シュクラはサマーディに留まっていて、その間に彼の体が完全に朽ちていて、もはや存在していないことを理解していませんでした。その間に、彼はいくつもの生まれを持ちました。最後に彼はバラモンとして生まれ、メール山で禁欲的な生活を送っている時、彼の父ブルグがストゥーラ・サーリア(粗大な体)を身につけた死の神(カーラ)と共に彼のもとへ行き、彼に彼の生まれ変わりの間に起こった全てのことを話しました。その後、シュクラは彼らに同行し、彼の元々の体を見て、死の神の許しを得て、それに入りました。

 いくつかの他の話で、ある人にとって夢に現れた事を別の人が目覚めた状態そのものにおいて見たということが語られています。その中で、どの話が真実でしょうか。

信奉者:
 ある人にとって何かが夢で現れるなら、どうしてそれが他の誰かに目覚めの状態で現れうるのですか。

バガヴァーン:
 どうしてできませんか。異なる種類のものですが、それもまた夢です。スクリーン上に現れる映像のように、現れる全てのものは心の創造物です。現実には、人はそのどれでもありません。人形劇のようである、この非現実の世界において、人があの人形や、この映像だったことを思い出すよりも、全てを忘れるほうが良いのです。

信奉者:
 物質的な世界に従って、我々は「これは私のものである」と言わざるを得ません。そうではありませんか。

バガヴァーン:
 ええ、確かに、我々はそのように言わざるを得ません。しかしながら、ただ単にそう言うことによって、我々がその全てであると思い、それに関連する楽しみと悲しみに浸(ひた)る必要はありません。我々が乗り物に乗るとき、我々が乗り物であると思いますか。太陽を例にとりましょう。それは小さな壺の水の中で、大きな川の中で、鏡の中で輝きます。その映像はそこにあります。しかし、ただそのために、太陽が「私はその全てである」と思いますか。我々に関しても同じことです。全ての問題は、人が「私は体である」と思うならば生じます。人がその思いを拒絶するなら、その時、太陽のように、人はあらゆる所に輝き、遍く行き渡るでしょう。

信奉者:
 そのために、バガヴァーンは、なすべき最良のことは、「私は誰か」という自らの探求の道に従うことであると言うのではないですか。

バガヴァーン:
 ええ。しかし、『(ヨーガ・)ヴァーシシュタ』の中で、自らの探求の道は十分な資格を持たない誰にも示されるべきではないとヴァーシシュタがラーマに語ったと言及されています。他のいくつかの本では、靈的修練は数回の生まれ、もしくは、少なくともグルの元で十二年間行われるべきであると述べられています。しかし、もし私が靈的修練を数回の生まれの間なされねばならないと言うなら、人々を怖がらせ、遠ざけてしまうので、私は彼らに、「あなたはすでにあなたの内に解放を持っています。あなたはただ、あなたに降りかかった外側の物事をあなた自身からただ取り除きさえすばいいのです」と言います。靈的修練はそのためだけにあります。とはいえ、昔の人々がこの全てを理由もなしに言ったわけではありません。「あなたは神、ブラフマンそのものであり、あなたはすでに解放されている」と告げられるなら、人は「私はすでに必要とされるものを持っていて、それ以上何も欲しくない」と思い、靈的修練を何も行わないかもしれません。ですから、これらのヴェーダーンタに関する事柄はアナディカーリー(適していない人)(*4)に語られるべきではありません。他に理由はありません。(そしてバガヴァーンは微笑みました。)

最近到着した信奉者が、話の穂をつぎ、言いました:
 シャンカラのスタンザ(詩節)で、「鏡の中の都市のように、全世界は自らの中の反射である」(*5)とあります。世界は幻であり、非現実であると言う言明は一般の人々のためにあり、悟った人のためではありません。そうではありませんか。

バガヴァーン:
 ええ。悟った人の目には、あらゆるものはブラフマンに満ちているように見えます。いくら語られても、悟っていない人(アジニャーニ)は何も見ることができません。それゆえ、全ての聖典は一般の人々のためだけにあります。

(*1)ガーディ(Gadhi)の話・・・私が持ってる『ヨーガ・ヴァーシシュタ』ではクリシュナでなく、主ヴィシュヌがガーディにマーヤ・スワルーパを見せます。ガーディは夢のような出来事を体験しますが、それが現実(目覚めの状態)で起こっていたことに気づき、マーヤーの不可思議に翻弄されています。
(*2)ラヴァナ(Lavana)の話・・・ラヴァナ王がマーヤーの力により、わずかの時間で違う人生を体験します。
(*3)シュクラ(sukra)の話・・・父ブルグは息子シュクラが死んでいるのを見て、怒り、「時(もしくは死)」を呪おうとするのですが、「時」が無駄なことはやめなさいと言い、教えを説いています。
(*4)アナディカーリー・・・・アディカーリー(適した人)+否定の接頭辞
(*5)http://arunachala-saint.blogspot.jp/2013/05/dakshinamurthy-stotra_12.htmlの第2詩節。

2013年11月29日金曜日

ジニャーニの心とブラフマン、ジニャーニの振る舞いかた

◇『シュリー・ラマナーシュラマムからの手紙(Letters from Sri Ramanasramam)』

 読みやすいように対話形式にするため、多少訳を変更しています(文:shiba)

1947年2月8日
(90)ジニャーニの心は、ブラフマンそのものである 

 今朝の7時30分ごろ、私は講堂に行きました。中はまったく静かでした。窓の外から燃えている香木の香りが届き、新来の訪問者たちにバガヴァーンがいることを示しました。私は中に入り、バガヴァーンの前でお辞儀して、座りました。バガヴァーンはずっと枕に寄りかかっていましたが、蓮華座で背筋を伸ばして座りました。たちまち彼のまなざしは動きなく、並外れたものとなり、講堂全体が輝きで満たされました。突然、誰かが、「スワーミージ!ジニャーニは心を持ちますか、持ちませんか」と尋ねました。バガヴァーンは優しいまなざしを彼に投げかけ、言いました。

バガヴァーン:
 人が心なしでブラフマンを実現するということはありえません。実現は心がある時にのみ可能です。心はいつも何らかのウパーディ(*1)と共に働きます。ウパーディなくして心は存在しません。ウパーディと関連してのみ、我々は人がジニャーニであると言います。ウパーディなくして、どうして誰かがジニャーニであると言えるのですか。しかし、心なくしてウパーディはどのように働きますか。それは働きません。ですから、ジニャーニの心そのものがブラフマンであると言われています。ジニャーニは、いつもブラフマンを見ています。心なくして見ることがどうしてできますか。それゆえ、ジニャーニの心は、ブラフマーカーラ(*2)やアカンダーカーラ(*3)と言われています。

 しかし、実際には、彼の心そのものがブラフマンなのです。無知な人がブラフマンを内に認識せず、外側のヴリッティ(*4)しか認識しないのとまさしく同様に、ジニャーニの体は外側のヴリッティの中を動き回りますが、彼は常に内なるブラフマンのみを認識しています。そのブラフマンは遍く行き渡っています。いったん心がブラフマンの中に失われると、心をブラフマーカーラと呼ぶことは、川を大海のようであるというようなものです。いったん全ての川が大海に失われると、それは巨大な一面の水そのものです。その時、あなたは巨大な一面の水の中で、「これがガンジス川で、これがガウタミ川で、この川はとても長く、あの川はとても広い」などと見分けられますか。心に関してもまた同じことです。

 他の誰かが、「サットヴァはブラフマンであり、ラジャスとタマスはアーバーサ(*5)であると言います。そうですか」と尋ねました。

バガヴァーン:
 ええ!サットとは実在するものです。サットはサットヴァです。それは自然なものです。それは心の微細な働きです。それがラジャスとタマスに触れることにより、心は無数の形を伴う世界を創造します。ラジャスとタマスと接触のみが原因で、心はアーバーサである世界をみて、幻惑されます。あなたがその接触を取り除くなら、サットヴァが純粋で汚されずに輝きます。それが純粋なサットヴァ、スッダ・サットヴァと呼ばれています。この接触は、あなたが微細な心の中で最も微細な心で探求し、それを排除しない限りは、取り除けません。全てのヴァーサナーは抑制されねばならず、心はとても微細にならなければなりません。つまりそれは、最も微細な中でも微細な-アノラネーヤム(極小の内の極小)と言われます。それは極小のものにとっての極小になるべきです。それが極小のものにとっての極小として抑制されるなら、その時、それは無限のものの中の無限、マハトー・マヘーヤムへ高まります。

 それを見ている心や、力を得ている心と呼びなさい。それをあなたが好むどんな名前ででも呼びなさい。どのような名前でそれが呼ばれても、我々が眠る時、心はその全ての活動と共にハートの中に抑えられています。その時、我々は何を見ますか。何も見ません。なぜですか。なぜなら、心が抑制されているからです。我々が眠りから覚め、そして我々が目覚めるとすぐに心があり、サットとブラフマンがあります。目覚めている心がグナへ付着するとすぐに、全ての活動が現れます。あなたがそれらのグナ・ヴィカーラ(*6)を捨て去るなら、ブラフマンがあらゆる所に現れます。それは自ら輝き、自明であり、アハム、「私」です。その時、あらゆるものがタンマヤム(遍く行き渡る)に見えます。ヴェーダーンタの専門用語を見てみなさい。ブラフマヴィド(*7)、ブラフマヴィド・ヴァリシュタ(*8)などが言われ、それからブラフマイヴァ・バヴァティ(*9)と言われます。彼はブラフマンそのものです。それゆえ、我々はジニャーニの心そのものがブラフマンであると言います

 他の誰かが、「ジニャーニは全てに対して絶対的な平等をもって振る舞うと言われていますか」と尋ねました。

バガヴァーン:
 ええ!ジニャーニはどのように振る舞いますか。

マイトリー(慈)、カルナ(悲)、ムディタ-(喜)、ウペクシャ(捨)
そのような他のバーヴァ(態度)は彼らにとって自然となる
幸せな人(スカ)への慈しみ、苦しんでいる人(ドゥッカ)へのいたわり
善を行う人(プンニャ)への喜び、不善を行う人(アプンニャ)への平静
そのような全てはジニャーニの自然な特徴である


 『パタンジャリ・ヨーガ・スートラ』、1章・33(*10)

(*1)ウパーディ・・・制限、特性、変装、乗り物
(*2)ブラフマーカーラ・・・ブラフマンの形、姿
(*3)アカンダーカーラ・・・途切れのない形

(*4)アーバーサ・・・反射、反映
(*5)ヴリッティ・・・(心の)働き、形をかえたもの
(*6)ヴィカーラ・・・変形、変質
(*7)ブラフマヴィド・・・ブラフマンを知る者
(*8)ブラフマヴィド・ヴァリシュタ・・・ブラフマンを知る者の中で最上の者
(*9)ブラフマイヴァ・バヴァティ・・・『マンダカ・ウパニシャッド』の3・2・9に「ブラフマヴィド・ヴラフマイヴァ・バヴァティ(ブラフマンを知る者はブラフマンそのものである」とあります。
(*10)サンスクリット語の原文など色々参考にしており、英文そのままの翻訳ではありません。スワーミー・ヴィヴェーカナンダの英訳では、「慈・悲・喜・捨を、幸福な、不幸な、良い、悪い対象それぞれに関して思うことは、心を落ち着ける」とあります。

2013年11月17日日曜日

R.ラファエル・ハースト氏(ポール・ブラントン)の最初の訪問 - 悟りの探求

◇『大いなる愛と恩寵(Surpassing Love and Grace)』、p14~18

14. 初期の時代から 


 この文章は、スワーミー・オームカーラの1931年9月付の月刊誌「PEACE」から抜粋されたものです。それはポール・ブラントンのシュリー・ラマナーシュラマムの最初の訪問を描いています。彼の著書、『A Search in Secret India』は、初期のころにシュリー・バガヴァーンを広く知らしめるために、他の何よりも役立ちました。ポール・ブラントンが初めてインドに来た時、彼はR.ラファエル・ハーストという名前を使っていました。ポール・ブラントンは彼のペンネームであり、後に彼はそれを永久に採用しました。その名前で記した本によって、彼が大いに知られるようになったからです。

 興味深いことに、一人の外国人記者のアーシュラムへの訪問という出来事が、遠い昔には新聞に書かれるべき重要なことだったのです!

 それは午後4時半のことで、弟子たちは講堂でマハルシの前に座り、ハースト氏と仏教の比丘がアーシュラムを訪問しようとしているという趣旨の新聞に出た告示について話していました。時計は五時を打ち、砂糖菓子を一皿分携えたヨーロッパ人の服装をした男性が、仏教の比丘に伴われて講堂に入って来ました。訪問者らは砂糖菓子をマハルシに差し上げ、ヨーロッパ風にお辞儀した後、共に彼の前の床に座りました。彼らが弟子たちが話していた訪問者たちでした。英国の服装の男性はR.ラファエル・ハースト、当時インドを訪問していたロンドンの記者でした。彼は東洋の宗教的な教えに熱烈な興味を持っていて、その知的研究と理解により、東洋と西洋の間の協調の運動が大いに促進されるだろうと考えました。彼は多くの他のアーシュラムを訪れた後、シュリー・ラマナーシュラマムに来ました。彼と共に来た比丘もまた、生まれはイギリス人でした。彼は依然は陸軍将校でしたが、今はスワーミー・プラジニャーナンダとして知られています。彼はヤンゴンの英国人のアーシュラムの創設者です。訪問者たちは共に魔法にかけられたかのようにマハルシの前で座りました。水を打ったような静寂がありました。

 訪問者たちを連れてきた人が、彼らが何か質問をしたいかどうか尋ねることによって、静寂は破られました。しかしながら、彼らはそのようにする気分でなく、そうして一時間半がたちました。それから、ハースト氏は彼の訪問の目的を述べました。強烈な熱意がこもった声で、彼は靈的な悟りのためにインドへ来たのだと言いました。彼は「私自身だけでなく、西洋の多くの他の人々も東洋からの光を熱望しています」と付け加えました。マハルシは完全に内に引きこまれて座り、まるで注意を払いませんでした。そこに座っていた人々の中の一人が、彼らに比較宗教学の研究のために東洋に来たのかどうか尋ねました。比丘は答えました。「いいえ。我々はそれをヨーロッパでよりよく学べるでしょう。我々は真理を見つけたいのです。我々は光が欲しいのです。我々は真理を知ることができますか。悟りを得ることは可能ですか」。マハルシはいまだ沈黙し、内に引き込まれたままでした。訪問者たちが散歩を望んだので、会話は終わり、みな散りました。

 次の日の朝、訪問者たちは講堂に入り、大変な熱意を持ってマハルシにいくつか質問をしました。以下に再現された会話は、会話が進行している間にとられた大雑把な覚え書きからです。

比丘:
 我々は悟りを求め、至る所を旅しました。どうすれば我々はそれを得られますか。

マハルシ:
 深い探求と継続的な瞑想を通じて。

ハースト:
 西洋では多くの人々が瞑想しますが、進歩の兆候を示しません。

マハルシ:
 あなたはどのようにして彼らが進歩していないと知るのですか。靈的な進歩は簡単には見分けられません。

ハースト:
 数年前、私は至福を垣間見たのですが、次の数年の内にそれは再び失われました。それから、昨年、私は再びそれを得ました。それはなぜですか。

マハルシ:
 あなたの瞑想が自然(サハジャ)になっていなかったために、あなたはそれを失いました。あなたが習慣的に内向きになる時、靈的な至福の楽しみは普通の体験になります。

ハースト:
 それはグルがいないためではないでしょうか。

マハルシ:
 ええ。しかし、グルは内にいます。内にいるそのグルは、あなたの自らと同じです。

ハースト:
 何が神の実現への道ですか。

マハルシ:
 ヴィチャーラ、あなた自身に「私は誰か」と尋ねること、あなたの自らという本質への探求。

比丘:
 世界は堕落した状態にあります。どんどん悪くなってきています。靈的に、道徳的に 、知的に、そして、あらゆる方面において。靈的な師は、混沌から世界を救うために現れるのでしょうか。

マハルシ:
 必然的に。善が衰退し、悪がはびこるとき、は善を元通りにするために現れます。世界はあまりにも善かったり、あまりにも悪かったりしません。それは善と悪が混在したものです。混ざりけのない幸福と不幸は、世界の中に見つかりません。世界はいつも神を必要としていて、神はいつも訪れます。

比丘:
 彼は東洋に生まれるでしょうか。それとも、西洋でしょうか。

 マハルシはその質問に笑いましたが、それに返答しませんでした。

ハースト:
 マハルシはアヴァターラがすでに肉体の内に存在しているかどうか知っていますか。

マハルシ:
 彼は知っているかもしれません。

ハースト:
 神性を達成するための最良の道は何ですか。

マハルシ:
 自らの探求が、自らの実現に通じます。

ハースト:
 靈的進歩のためにグルは必要ですか。

マハルシ:
 ええ。

ハースト:
 弟子が道を先に進むのをグルが手助けすることは可能ですか。

マハルシ:
 ええ。

ハースト:
 何が弟子の立場(期間)の条件ですか。

マハルシ:
 自らの実現への強い望み、熱意、心の純粋さ。

ハースト:
 グルは弟子の世俗的な事柄も管理したいと思いますか。

マハルシ:
 ええ、全てのことを。

ハースト:
 彼は弟子が必要とする靈的な閃きを与えられますか。

マハルシ:
 彼は弟子に弟子が必要とする全てを与えることができます。このことは体験から理解できます。

ハースト:
 グルと身体的に接触していることは必要ですか。もしそうなら、どれぐらいの期間ですか。

マハルシ:
 それは弟子の成熟性しだいです。火薬は一瞬で着火しますが、石炭に火をつけるには時間がかかります。

ハースト:
 務めについて生活しながら、(聖)靈の道に従い成長することは可能ですか。

マハルシ:
 務めと知恵の間に対立はありません。逆に、私心のない務めは自らの知への道を開きます。

ハースト:
 人が務めに従事しているなら、彼には瞑想のための時間がほとんど残されていません。

マハルシ:
 瞑想のために特別の時間を割く必要があるのは、靈的な道の初心者だけです。より進んだ人は、務めに従事していても、していなくても、常に至福を楽しみます。彼の手は社会にあっても、彼は頭を独り冷静に保てます。

比丘:
 メヘル・バーバー(*1)について聞いたことはありますか。

マハルシ:
 ええ。

比丘:
 数年以内に(自分は)アヴァターラ(*2)になるだろうと彼は言っています。

マハルシ 
 全ての人が神のアヴァターラです。「天の王国はあなたがたの内にあります」(*3)。イエス、ムハンマド、ブッダ、クリシュナ、皆があなたの内にいます。真理を知るものは、他の誰をも神の顕現として見ます。

比丘:
 マハルシはメヘル・バーバーについて意見があるでしょうか。

マハルシ:
 どんな意見ですか。それ(外的なアヴァターラの存在)は、真理の探求者が考慮する必要のない問題です。

比丘:
 世界は活力を取り戻すでしょうか。

マハルシ:
 世界を統治している一者(*4)がいて、その面倒を見るのはの仕事です。世界を創造したが、それをどのように導くか知っています。

比丘:
 今、世界は進歩していますか。

マハルシ:
 我々が進歩すれば、世界も進歩します。あなたがあるがごとく、世界もあります。自らを理解せずに、世界を理解することが何の役に立ちますか。自らの知がなければ、世界の知識は役に立ちません。内に潜り、そこに隠されている財宝を見出しなさい。ハートを開き、あなたの真の自らという目通じ、世界を見なさい。覆いを破りさり、あなた自身の自らという神の荘厳を見なさい。

(*1)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC
(*2)アヴァターラ・・・文字どうりの意味は「降下」。神聖な存在が、この世に現れること。「化身」。
(*3)「天の王国(the Kingdom of Heaven)」という言葉は使われていませんが、ルカによる福音書、17章20・21に以下のように記されています-神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちでくるものではない。また、『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ。「天の王国」は、マタイによる福音書によく出てくる言葉のようです。
(*4)一者・・・英語のthe Oneの訳。「絶対者、神」

2013年11月12日火曜日

サーダナに関する様々な対話 - ヨーガ、自らの探求、困難、サマーディ

◇『グル・ラマナ(GURU RAMANA-memories and notes)』、第二部-対話 前書きは省略

第11章 瞑想 


<1> 1936年5月16日

 C氏は1926年に『パタンジャリ・スートラ』を読み、それがどれほど彼に感銘を与えたか話しました。最初の少しのスートラにより、彼は教えの真実性を確信しました。しかし、不運なことに、彼が1936年の始めにシュリー・バガヴァーンに会うまでは、彼に適切な導きを与える人がいませんでした。

バガヴァーン:
 パタンジャリの最初のスートラは、まさしく、ヨーガ全体系の極みです。全てのヨーガはヴリッティの停止を目指しています(*1)。これは聖典の中で言及される多様な方法による心の制御を通じ、もたらすことができます。それは意識からあらゆる思いを取り除き、純粋に保ちます。努力が必要です。実際、努力がヨーガそのものなのです。

C氏:
 努力は目覚めている状態において行われねばならず、当然、モークシャ(*2)はジャーグラット(*3)においてのみ獲得できるということになると思います。

バガヴァーン:
 まさしくそうです。心の制御のためには、自覚が必要です。そうでなければ、努力するべき誰がいますか。あなたは眠りにおいて、または、薬の影響下では努力できません。また、ムクティ(*4)は完全な自覚の中で獲得されねばなりません。なぜなら、現実そのものが純粋な自覚なのです。

C氏:
 自覚以外の何も存在しないようです。というのも、何を知るにも、知識が存在するはずです。我々はそれを乗り越えられません。

バガヴァーン:
 確かに。主観的な知-それ自身を知る知がジニャーナです。それはその時、知る者としての主体、知られるものとしての対象、それらを結ぶ知です。

C氏:
 その場合、その最後が私には明らかではありません。

バガヴァーン:
 どうしてですか。知は、見る者と見られるものをつなぐ光です。仮に、あなたが本を探しに真っ暗な図書館に入るとしましょう。主体であるあなた、客体である本が共に存在しますが、あなたは本を光なしに見つけられますか。光が、あなたを結ぶために存在しなければいけません。あらゆる経験における主体と対象の間のこのつながりが、チット、意識です。それは礎であり、経験の目撃者、パタンジャリの見る者でもあります。

<2> 1936年6月18日

 引退した県の警視は、60歳の誕生日の後、観照的生活を始めるつもりでした。彼は瞑想が深刻な問題であると見出し、(シュリー・ラマナの)弟子に導きを求めて近づきました。しかし、弟子は彼に彼の困難を師の前に置くように助言しました。彼は今日それを行いました。

訪問者:
 バガヴァーン、私は瞑想する時にいつでも、頭に強い熱を感じます。もし私が続けるなら、全身が燃えるように感じます。何が解決策でしょうか。

バガヴァーン:
 集中が脳によって行われるならば、熱の感覚や頭痛さえも結果として起こります。集中は涼やかで、さわやかなハートで行われるべきです。力を抜きなさい。そうすれば、あなたの瞑想は楽になります。侵入してくる一切の思いを優しくかわすことによって、心をしっかりと保ちなさい。ただし、緊張なく。じきに、うまくいきます。

<3> 1936年7月1日

 このアーシュラムにずいぶん前に所属した信奉者は断続的に一種の恍惚状態に陥り、そこで彼は自らでなく、空(そら)のような空白を見ました。彼はそれについてシュリー・バガヴァーンに話しました。

バガヴァーン:
 その空白を見る彼が自らです。

信奉者:
 瞑想は、心の制御によってのみ可能です。心の制御は、瞑想を通じてのみ達成することができます。これは循環論法ではないですか。

バガヴァーン:
 それらは相互依存的です。実際、瞑想は心の制御、侵入する思いへの鋭い注意深さを包含しています。はじめは制御のための努力が実際の瞑想のための努力よりも大きいのですが、やがては瞑想が勝利し、無努力になります。

信奉者:
 そのためにはあなたの恩寵が必要です。

バガヴァーン:
 修練が必要です。恩寵は存在しています。

信奉者:
 瞑想において、心の中で繰り返されるべき言葉はありますか。

バガヴァーン:
 概念の心による復唱以外の瞑想とは何ですか。それは心によるジャパであり、言葉で始まり、自らの沈黙に終わります。

<4> 

 ある訪問者は、彼が自我であると想像するものと戦う時に、瞑想において大変な困難を経験しています。彼は師のもとへ確認のために行きました。

訪問者:
 瞑想において、私は間違った「私」を排除しようと試みますが、これまでのところ成功していません。

バガヴァーン:
 どうして「私」がそれ自身を排除できますか。あなたがなすべき一切は、その源を見つけ、あなたの真の自らとしてそれに留まることです。あなたの努力はそこまで届きます。それを超えては自然に進みます。

訪問者:
 バガヴァーン、あなたはいつも「自らは常に存在する」と言います。私が存在するなら、では、どうして私はそれを感じないのですか。

バガヴァーン:
 あなたは今、あなたが存在していることを感じませんか。あなたの疑問は、あなたが常に存在し続けるのかどうかです。あなたはどうして疑問を持たなければならないですか。少し考えれば、あなたの存在の壊れる部分である体が単なる機械であり、壊れ得ないものである心に仕える道具であるとあなたは確信します。それが一切(all-in-all)、知る者、師であり-あなた自身です。

 あなたの疑問と困難は、あなたの思いから生じます。それは体を知覚し、体をあなた自身と間違えています。あなたの敵(自我)である思いを止めなさい。そうすれば、心はあなたの純粋な存在、不滅の「私」として残ります。それが自我を排除する最良の方法です。

<5> 1937年1月2日

訪問者:
 私はマントラ・ジャパが修練においてとても力強いものであると教わりました。

バガヴァーン:
 自らはすべてのマントラの中で最も偉大なものであり、自動的に、永遠に続いています。あなたがこの内なるマントラに気づかないなら、ジャパとして意識的にそれに専念すべきです。他の一切の思いをかわすために、ジャパには努力が伴います。それへの継続的な注意によって、終には、あなたは内なるマントラに気づくようになります。それは実現の境地であり、無努力です。この自覚の堅固さによって、あなたがどれほど他の活動に従事しようとも、あなたはその流れに途切れなく無努力で保たれます。ヴェーダの朗唱やマントラに耳を傾けることは、ジャパの意識的な復唱と同じ効果があります。そのリズムがジャパなのです。

<6> 1936年7月5日

訪問者:
 どのようにして瞑想中に眠りに落ちるのを防ぐべきですか。

バガヴァーン:
 あなたが眠りを防ごうと試みるなら、それは瞑想中に考えることを意味します。それは避けなければなりません。しかし、あなたが瞑想している間に眠りにすっと入るなら、眠っている間やその後でさえも、瞑想は継続します。しかし、思いであるため、眠りは取り除かねばなりません。というのも、生来の境地は、妨げる思いのないジャーグラットにおいて意識的に獲得されなければならないからです。目覚めと眠りは、生来の思いのない境地というスクリーン上の映像に過ぎません。気づかれることなく、それらを通過させましょう。

<7> 1942年7月27日

 北インド出身の鉄道主任技師が、瞑想における直接の導きを得ようと一月以上アーシュラム滞在しました。

技師:
 私は瞑想において初心者です。どうかバガヴァーンが私を導いてくださいますように。あなたは我々に「私は誰か」探求し続けるように熱心に勧めます。それが私をどこへ導くのか教えていただけますか。

バガヴァーン:
 それは単に尋ねているだけではありません。あなたはその真意へ入らなければなりません。多くの人が体の何かの中心に瞑想して、終にはそれらに溶け込みますが、遅かれ早かれ、彼らは避けることのできない彼らの本質を調べなければなりません。それでは、どうして一直線にあなた自身に集中して、終にはその源に溶け込まないのですか。

技師:
 そうです。20年間、私はあるチャクラに集中しつづけ、ものを見て、音を聞きつづけていますが、まるで真理に近付けていません。今、思いが心に生じるとすぐに、「私は誰か」と問い続ければよいのでしょうか。

バガヴァーン:
 まさしくそうです。あなたが外側の思いにより妨げられない限りは、その真意に留まりなさい。目的は、心の変化の絶え間ない抑制を通じ、「私」という感覚の根元へ到達することです・・・

<8> 1936年11月10日

訪問客:
 私が見る限りでは、押し寄せる思いを防ぐのに完全に成功するまで、自らを実現するのは不可能です。正しいでしょうか。

バガヴァーン:
 少し違います。あなたは他の思いを防ぐ必要はありません。深い眠りにおいて、あなたは完全に思いから自由です。なぜなら、「私」という思いがないからです。目覚めて「私」という思い生じる瞬間に、他のあらゆる思いが自然に押し寄せます。それゆえ、人がなすべき最も賢明なことは、この先導する思いである「私」という思いを捕まえ、それを吟味し-それは誰で、何か-、それによって他の思いに気をそらさせる機会を与えないことです。そこに、ヴィチャーラの真価と心の制御におけるその有効性があります。

<9> 1937年2月19日

訪問者:
 どの瞑想(ディヤーナ)が最良ですか。

バガヴァーン:
 最良の瞑想は、三つの状態すべてで継続するものです。それは「私は瞑想している」と思う余地さえないように力強くならねばなりません。そのように目覚めと夢の状態がそれによって完全に占領される時、深い眠りもまた分化しないディヤーナと考えられるかもしれません・・・

訪問者:
 スシュムナ・ナーディとアートマ・ナーディの違いは何ですか。

バガヴァーン:
 スシュムナは、ヨーガの修練において、つまり、動的なディヤーナにおいてシッディ(超常的な力)の達成のために働く中心的なナーディであり、ヨーギはサハスラーラ、脳に帰着すると主張します。アートマナーディ、パラナーディ、もしくは、アムリタナーディは、ジニャーナ・マールガの静的なディヤーナにおいてハートからサハスラーラへ昇る力の流れであり、自らの実現に通じます。スシュムナは、それを支えるアートマナーディに最終的に溶け込まなければなりません。

 ナーディとは神経構造であり、それに沿って意識がハートから全有機体へ流れます。

<10> 1936年2月12日

 C氏は山から帰る途中のバガヴァーンを捕まえました。

C氏:
 シュリー・オウロビンドーは、ヨーガの修練に影響する二つの力について話します。一方は水平的で、他方は垂直的です。私はそれが分かりません。

バガヴァーン:
 一切の力は、方向を持たない自らから出てきます。しかし、シュリー・オウロビンドーは、頭の中心における集中の結果生じる動的な力(または、クンダリーニ・シャクティ)とハートにおけるヴィチャーラ・ディヤーナの結果生じる静的な力について比ゆ的に話しているのかもしれません。

C氏:(夕方遅くに)
 バガヴァーンはサマーディ、恍惚状態(trance)について話します。私はそれを体の意識の完全な喪失を意味すると理解しています。私はそれを決して達成できないのではと恐れています。私は私自身を眠りにつかせるのさえ難しく感じます。それは自らの実現の前に必要ですか。

バガヴァーン:(笑いながら)
 もしそうなら、あなたはクロロフォルムを吸い込まなければなりません。サマーディは、自らの境地そのものです。あなたは体の意識の完全な喪失をどう解釈していますか。それを一種のカタレプシー(*5)や深い眠りに陥っているとは想像しないでしょう。サマーディにおいて、心はジャーグラットにいますが、しかし、思いなくあり、心はそれが中へ引き込まれるスシュプティ(*6)の至福を楽しみます。サマーディにおいて心はとても注意深くあるため、それはブラフマンを経験します。仮に心がそのように完全に目覚めていないなら、どのようにしてそれがブラフマンを知るのですか。実際、心そのものがブラフマンになります。恍惚状態は、この考えを伝えていますか。でなければ、サマーディを表すには不適切な言葉です。

C氏:
 カルマ・ヨーギやバクタもまた、サマーディを経るのですか。

バガヴァーン:
 サマーディとは、集中と心の制御を通じてハートへ溶け込むことです。カルマ・ヨーギやバクティ・ヨーギもまた、彼らが修練するなら、サマーディを達成します。実際は、彼らの大部分が結局はヴィチャーラの方法によってムクティを達成します。

<11> 1936年7月15日

 C氏はシュリー・バガヴァーンの「40詩節」を講堂で黙読していました。第30詩節が彼を魅了しました。彼は声に出して読み、言いました。

C氏:
 この詩節から、私は探求がハートではなく、心で始めねばならないと理解しましたが、バガヴァーンはいつもハートについて話します。おそらくは、修練の最終段階として。

バガヴァーン:
 まさしくそうです。それは押し寄せる思いを阻止するため、そして、「私」の位置を理解するために、内に向けられた心で始まります。心がついにハートに沈む時、妨げられない至福が圧倒されるほどに感じられます。その時、純粋な自覚から離れていない実感があります。つまり、頭とハートがまったく同じものとなります。

C氏:
 『ヴィヴェーカ・チューダーマニ』の第266詩節においてシュリー・シャンカラーチャーリアは、ブラフマンはブッディ、微細な知性により実現されうると言います。それは知性が大きな助けになりうること、実際、実現に不可欠であることを意味しています。

バガヴァーン:
 「ブッディ」という言葉は、微細な知性として正しく翻訳されていますが、ここで、それは、ハートの洞窟を意味しています。とは言え、微細な知性もまたブラフマンを実現できるので、それゆえ、最も重要です。(声に出して266詩節を読んで)


ブッディの洞窟の中に、ブラフマンがある
それは粗大とも微細とも異なる、絶対的実在
至高であり、他を持たない唯一なるもの
ブラフマンとして、この洞窟に住まう者は、おお、最愛なる者よ
もはや女性の子宮へ入ることはない

<12> 1936年7月30日

C氏:
 『ヴィヴェーカチューダーマニ』では、「私」‐「私」の意識について永遠にハートの中で輝いていると語りますが、誰もそれに気づいていません。

バガヴァーン:
 そうです。目覚め、夢、夢を見ない眠り-どのような状態にいるのであれ、それに気づいていようがいまいが、全ての人が例外なくそれを持っています。

C氏:
 『サット・ダルシャナ・バシャヤ』の対話の部分で、「私」‐「私」は絶対的な意識として言及されていますが、バガヴァーンはかつて私にサハジャ・ニルヴィカルパ以前のどのような実現も知性によるものであると言いました。

バガヴァーン:
 そうです。「私」‐「私」の意識は絶対者です。それはサハジャの前に来ますが、その中にはサハジャ自体の中にあるように微細な知性があります。違いは、後者では形の認識が消えていますが、前者ではそうではありません。

C氏:
 バガヴァーン、あなたは昨日、人間の体には針の先のように小さい穴があり、そこから意識がいつも湧き出ていると言いました。それは開いていますか、それとも閉じていますか。

バガヴァーン:
 それはいつも閉じており、体を意識へ結び付ける無知の結び目です。心が一時的なケヴァラ・ニルヴィカルパの中に沈む時、それは開きますが、再び閉じます。サハジャでは、それはいつも開いています。

C氏:
 「私」‐「私」の意識の体験の間はどうですか。

バガヴァーン:
 その意識が、それを永久的に開く鍵(かぎ)です。

<13>

C氏:
 「私は誰か」という探求は体のどこかの場所へ導きますか。

バガヴァーン:
 明らかに、自らの意識は個々人自身に関係しているために、体の中の中心によって体験の中心として、彼の存在の中で体験されなければなりません。それは機械の発電機に似ていて、発電機はあらゆる類の電気の働きを生じさせます。それは意識的および無意識的に、体の生命やその一切の部分や器官の活動を維持しているだけでなく、物質的次元とより微細な次元の間の関係も維持しており、個人はそこで活動します。また、それは発電機のように振動し、それに注意を払う落ち着いた心はそれを感じることができます。それはヨーギやサーダカにスプラナの名称で知られており、サマーディにおいて意識によってきらめいています

C氏:
 あなたが究極的な意識-「私」‐「私」-と呼ぶものが生じる場所-中心にどのように到達するのですか。単に「私は誰か」と思うことによってですか。

バガヴァーン:
 ええ。それはあなたを連れて行きます。あなたは落ち着いた心で行わねばなりません。心の落ち着きが不可欠です。

C氏:
 その中心-ハート-に達する時、どのようにその意識は現れるのですか。私はそれを認識しますか。

バガヴァーン:
 もちろん、あらゆる思いのない純粋な意識として。それはあなたの自ら、むしろ、実在の途切れのない純粋な自覚です。それが純粋な時、間違えることはありません。

C氏:
 中心の振動する動きは、純粋な意識の体験と同時に感じられるのですか、それとも、その前か、後ですか。

バガヴァーン:
 その両方はまったく同じものです。しかし、瞑想が十分に安定し、深まり、究極的な意識に非常に近い時に、または、突然の大きな恐怖や衝撃の間に心が停止するようになった時にさえも、スプラナは微細な方法で感じられます。それはそれ自体へ注意を引きつけ、その結果、落ち着きによって鋭くなった瞑想者の心はそれに気づくようになり、自然とそれに引き寄せられ、最終的にそれ、自らに飛び込みます。

C氏:
 「私」‐「私」の意識は、自らの実現ですか。

バガヴァーン:
 その前触れです。それが永続的(サハジャ)になる時、自らの実現、解放です。

(*1)『ヨーガ・スートラ』、第1章2詩節、「ヨーガ チッタ ヴリッティ ニローダ(ヨーガとは心の働きの止滅である)」。ヴリッティは、「(心の)働き、変形したもの」とよく訳されます。
(*2)モークシャ・・・解放
(*3)ジャーグラット・・・目覚めている状態
(*4)ムクティ・・・解放
(*5)カタレプシー・・・受動的にとらされた姿勢を保ち続け、自分の意思で変えようとしない状態。統合失調症やヒステリーなどでみられる。蝋屈症。(「デジタル大辞泉」)
(*6)スシュプティ・・・眠り

2013年11月3日日曜日

ナテーサ・アイヤル (アーシュラムの料理人)の思い出

◇『シュリー・ラマナ・マハルシと向かい合って(Face to Face with Sri Ramana Maharshi)』

64.
 ナテーサ・アイヤルはチダンバラムからティルヴァンナーマライへと移り、アーシュラムで料理人としての職を見つけました。アイヤルはマハルシとの滞在と仕事の記述を残しませんでしたが、デイヴィッド・ゴッドマンが彼をよく知っていた信奉者達から情報を集めました。
ナテーサ・アイヤルが世俗を放棄しようという衝動を感じた時、彼は妻と娘を残し、ティルヴァンナーマライへ行き、そこで彼はバガヴァーンに魅せられました。彼が調理場での仕事を始めた時、調理の大部分はバラモンの未亡人の一団によってなされていて、彼を大変激しく働かせました。かつて彼は、1人のやかましい女性から逃げて、結局、5人のもとで働くことになったと笑って言いました。

 ある時、彼が調理場での扱いに疲れた時、彼は誰にも告げずアーシュラムを離れようと決心しました。彼の家に帰る途中で、彼はティルヴァンナーマライから40マイル離れたヴィリュップラムに到着しました。沐浴した後、そこで彼はヴィブーティを額につけ、目を閉じました。そして、彼がバガヴァーンへお祈りをしていた時、彼はバガヴァーン自身が彼の前に立っているのを感じました。「どうやってここに来たのですか」とアイヤルは驚いて尋ねました。バガヴァーンは微笑み、「私から離れてずいぶんと遠くに行ったものですね」と答えました。アイヤルは泣き崩れ、返答できませんでした。

 バガヴァーンの姿はティルヴァンナーマライに向かって歩き始め、アイヤルはためらいなく彼に従いました。その姿はついには消えましたが、アイヤルはバガヴァーンが彼の前にいつもいると感じました。そして、彼はアーシュラムに到着しました。彼が講堂に入り、平伏した時、バガヴァーンは、「私から離れてずいぶんと遠くに来たものですね」と言葉を繰り返しました。アイヤルは崩れ落ち、泣きました。彼は調理場へ戻り、仕事を再び始めました。

 この出来事はアイヤルの中に委ねの過程を起こし、終には、「バガヴァーンは、みながあちこちアーシュラムを動いているのを見る体ではない」という理解に到りました。彼はかつて言いました。「バガヴァーンは我々の心によってはかることのできる何かや、何者かではありません。我々は我々の無知を認め、彼について本当のことを何も言うことができないということを認めなければななりません。私は何もバガヴァーンについて言えません。なぜなら、本当のバガヴァーンは言葉で説明できないからです。それはあなた自身で味わうことによってのみ知ることができる甘美な味なのです」。

 彼がバガヴァーンの付添人であった時にバガヴァーンに行われた手術についての彼の体験を語ることが、彼は大好きでした。彼の言葉によれば-手術の間中のバガヴァーンの振る舞いは、体が単に彼が身につけている何かに過ぎないということをとても明確に示しました。肉が切開され、血が流れ、私は癌性増殖の周りの肉に差し込まれていたラジウム針を見ることができました。バガヴァーンは意識がはっきりしていましたが、彼の腕に行われていた手順に全く無関心でした。我々はみな、バガヴァーンの静寂の力に吸収されました。医者達さえも、それに吸い込まれました。手術が完了した時、医者達は自然にバガヴァーンに平伏しました。彼らの1人は、「私は多くの人々を手術しましたが、このような経験をしたことはありませんでした。部屋には、私が他のどこでも感じたことのない安らぎがありました。それが今まで私が経験した何ものとも異なっていたと言う以外は、それがどのようであったのか言い表せません」と言いました。

バガヴァーンの弟の孫であるV.ガネーシャンの記録

 バガヴァーンが亡くなった数年後、私がアーシュラムの門に近づいた時、ナテーサ・アイヤルがアーシュラム近くの寺院の踏み段に座っているのを見て驚きました。聞いてみると、彼は言いました。「アーシュラムの運営が私に去るように求めました。私は他に行くべき場所がありません。ここは私のサッドグルのアーシュラムです。私はここで座ることに決めました。なぜなら、ここが私がアーシュラムに最も近づける場所だからです」。彼がそのように扱われたことに閉口し、私はアーシュラムの会長である父のもとへまっすぐに行きました。しかし、父は彼を連れ戻すことを拒否しました。

 私は大変に心かき乱され、ムルガナールに会いに行きました。彼はアーシュラムの外の小さな小屋に住んでいました。目に涙をため、私は彼に起こったことを話しました。ムルガナールは私にいたずらっぽく微笑み、尋ねました。「どうしてあなたはこのことを私に話しているのですか。あなたは直接、バガヴァーンのもとへ行き、問題について彼に話せたのに。あなたが彼のサマーディへ行くなら、彼はあなたの言葉に耳を傾けないでしょうか」。私は神殿へ行き、あらん限りの大声で叫びました。「バガヴァーン!不正がナテーサ・アイヤルに行われています!私の心は痛みます!彼を仕事に戻らせて下さい」。幸運にも、私の奇妙な感情の迸(ほとばし)りを目撃する人は誰もいませんでした。バガヴァーンが問題に対処して下さるだろうと自信を持ち、私は平伏し、ギリ・プラダクシナへ出かけました。

 次の日の朝、私がアーシュラムへ行った時、私はアイヤルが調理場の彼のいつもの場所で働いているのを目にしました。尋ねられると、彼は私に、「昨夜、会長があるいて家に戻る時、彼は寺院の前で止まり、私にアーシュラムへ戻って来て、元の仕事を再び始めるよう頼みました」と言いました。

アイヤルの死去に関する、ブパティ・ナーラヤナ・ラジュによる「アルナーチャラ・ラマナ」の1983年9月号の記述

 ナテーサ・アイヤルは前もって自分が死去することを知っていました。彼は意気揚々と私に言いました。「ラジュ、バガヴァーンが私を呼んでいます。私は10日後に行くでしょう」。私が彼に次に会った時、彼は依然として元気でした。「ラジュ、もう5日だけです。私は5日後に行くでしょう」。彼の肉体の状態は衰えていきましたが、彼は依然として力に満ちていました。人々の中には、「彼は頭がおかしくなっている」と言う人もいました。私は何か奇妙なことが起こりつつあると知っていました。彼はとても弱り、流動食さえとることができませんでした。10日目に彼は意識を失いました。しかし、突然、彼の顔がとても晴れやかになりました。活発な口調で彼は尋ねました。「バガヴァーンは来ましたか。今、行きます」。それが彼の口から出た最後の言葉でした。

2013年10月19日土曜日

物質主義者のたどる道のり、神や自らよりも「私」から、さ迷う心の制御

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』 

 読みやすいように対話形式にするため、訳を多少変えています。(文:shiba)

46年3月24日 (後略)

 私はスワーミー・サンブッダーナンダの最後の質問-神への信仰を失った人々、彼らの源を見つけだすように求められるなら、「我々の両親が我々が生じる源です」と言うかもしれない人々をどう扱うか-について言及しました。

バガヴァーン:
 我々の源が両親と言う人がいるなんて。

私(デーヴァラージャ・ムダリアール):
 しかし、神を信じない純粋な物質主義者についてはどうですか。彼をどのように扱うべきですか。

バガヴァーン:
 「私」の源を見つけだすため、徐々に、一歩一歩、彼は近づきます。はじめに不運な出来事が彼の計画を狂わせ、彼の手に負えない力があると彼に感じさせます。それから、彼は儀式、儀式的崇拝から始め、ジャパ、キールタン、ディヤーナを通り、ヴィチャーラへ進みます。

46年8月17日

 今朝、数人のグジャラート州からの訪問客がここに到着しました。どうやら、15日のポンディチェリーでのダルシャンの後の帰りのようでした。彼らの中の一人がバガヴァーンに尋ねました。

質問者:
 自らの実現とは何を意味しているのですか。物質主義者は、神や自らといったものは存在しないと言います。

バガヴァーン:
 物質主義者や他の人たちが言うことを気にしないように。また、自らや神について思い悩まないように。あなたは存在していますか、存在していませんか。あなた自身についてのあなたの考えは何ですか。あなたは何を意図して、「私」と言いますか。

質問者:
 私は「私」を体ではなく、体の内にある何かと理解しています。

バガヴァーン:
 あなたは「私」が体でなく、その内にある何かであると認めています。では、どこからその「私」が体の内に生じるのか確かめなさい。それが生じ、消えるのか、常に存在するのか確かめなさい。あなたが目覚めるとすぐに現れ、体、世界、その他の全てを見て、あなたが眠る時に存在しなくなる「私」があり、別の「私」が体から離れ、体から独立して存在することをあなたは認めます。それは、例えば眠りにおけるように、あなたにとって体と世界が存在しない時に、あなたと共に独りあります。では、眠りの間とその他の状態の間で、あなたが同じ「私」でないのかあなた自身に問いなさい。二人の「私」がいますか。あなたはいつも同じ一人の人です。さて、どちらが現実になれますか。去来する「私」ですか、いつも留まる「私」ですか。その時、あなたはあなたが自らであると知ります。これが自らの実現と呼ばれています。

  しかしながら、自らの実現はあなたにとって異質であり、あなたからはるか離れていて、あなたによって到達されなければならない境地ではありません。あなたはいつもその境地にいます。あなたはそれを忘れ、あなた自身を心とその創造物と同一視しています。あなた自身を心と同一視するのをやめることが、必要とされる全てです。我々は我々自身を自らでないものとたいへん長く同一視してきたため、我々自身を自らとみなすのが困難であると気づきます。そのような誤った実現を放棄することが、自らの実現が意味する全てです。どのように自らを実現(realize)、つまり、現実にする(make real)のですか。我々は非現実なもの、自らでないものを実現、つまり、現実とみなしています。そのような誤った実現を放棄することが、自らの実現です。

午後、パーラーヤナの後で、訪問客がバガヴァーンに尋ねました。

質問者:
 私は私を悩ませている疑問をバガヴァーンに尋ねたいと思います。どのようにさ迷う心を制御すべきでしょうか。

バガヴァーン:(笑った後)
 それはあなたに限ったことではありません。それは全ての人によっていつも尋ねられ、ギーターのような全ての本で扱われている問いです。ギーターが助言するように、心がさ迷ったり、外へ行くたびに、心をたぐり寄せ、心を自らに定める以外にどんな方法がありますか。もちろん、それを行うのは簡単ではありません。それは修練、すなわち、サーダナと共にのみ、現れます。

質問者:
 心は欲するものだけを追い求め、我々がその前に置いた対象に定まろうとしません。

バガヴァーン:
 全ての人が自分に幸福を与えるものだけを追い求めます。幸福が何らかの対象から来ると考え、あなたはそれを追い求めます。あなたが感覚の対象物からやって来るとみなす幸福を含め、全ての幸福が本当はどこからやって来るのか確かめなさい。あなたは全ての幸福がただ自らのみからやって来るのを理解し、その時、あなたは常に自らに留まります。

2013年10月16日水曜日

瞑想の進歩の印 - アスッダ ⇒ ミスラ ⇒ スッダ・サットヴァ ⇒ グナティータへ

◇『シュリー・ラマナ・マハルシとの対話(Talks with Sri Ramana Maharshi)』 

Talk 73. 1935年9月27日

 技術者であるエーカンタ・ラオ氏が尋ねました。「師の恩寵はもちろん、師から何の励みになるものを得られないという落胆についてはどうなのでしょうか」。

マハルシ:
 それは無知でしかありません。落胆などをしているのは誰かについて探求が行わなければなりません。そのような思いの餌食となるのは、眠りの後に生じる自我という幻影です。深い眠りにおいて、その人は苦しんでいませんでした。今、目覚めている間、苦しんでいるのは誰ですか。眠りの状態は、正常な状態の近くにあります。彼に探させ、見出させましょう。

信奉者:
 しかし、励みになるものが不足しているため、やる気が起きません。

マハルシ:
 瞑想の中で、ある種の安らぎを見出しませんか。それが進歩の印です。安らぎは、継続した修練によって、より深く、より長くなります。それはまた目的へも通じます。『バガヴァッド・ギーター』第14章の最後の詩節(*1)は、グナティータ(グナを超越した者)について語っています。それが最終的な段階です。

 前の段階はアスッダ・サットヴァ、ミスラ・サットヴァ、スッダ・サットヴァ(*2)です。その中で、アスッダ・サットヴァは、(サットヴァが)ラジャスとタマスによって圧倒されている時です。ミスラ・サットヴァは、サットヴァが断続的に現れる状態です。スッダ・サットヴァは、(サットヴァが)ラジャスとタマスを圧倒しています。この連続した段階の後、グナを超えた境地が訪れます。

(*1)ギーターの14章25詩節で、グナティータについて語られています。シュリー・ラマナ編集の「バガヴァッド・ギーターの精髄」の第37詩節にも採用されています。
(*2)英文では、サットヴァが「being(存在、実在)」と言いかえられているのですが、色々考慮した結果、省いて訳しています。アスッダ・・・不純な、ミスラ・・・混ざった、スッダ・・・純粋な。

Talk 103.

マハルシ:
 この人々は何らかのジャパ、ディヤーナ、ヨーガ、または、似たような何かを求めます。彼らがこれまでに行っていることを言わなければ、彼らにそれ以上何を言えるでしょうか。また、ジャパや、そのパラ・スルティ(*)などがどうして(必要なのですか)。ジャパをするのは一体誰ですか。その結果をそれから得るのは誰ですか。彼らは自らに目を向けられないのですか。あるいはまた、たとえ他の人からジャパやディヤーナをするように指導されても、彼らはしばらくの間それをしますが、常に何らかの結果、つまり、ヴィジョンや夢や奇跡的な力に目を向けています。それらを見出さなければ、彼らは「私たちは進歩していない」、「タパスは効果的でない」と言います。ヴィジョンなどは、進歩の印ではありません。単なるタパスの実践が、その進歩でもあるのです。必要とされることは、着実さです。さらに、彼らはマントラや神に身を委ね、その恩寵を待たなければなりません。彼らはそのようにしません。たとえジャパを一回だけ口にしても、それ独自の良い結果があります-それに人が気づいていても、いなくても。

(*)パラ・スルティ・・・スルティ(聖典)を読むことで得るパラ(結果)。

Talk 427. (抜粋)

信奉者:
 瞑想の修練において、自らの実現に向かう大志を抱く者の進歩を指し示す、主観的な経験の特徴か何かといった印はあるのですか。

マハルシ:
 望ましくない思いから解放されている程度、そして、一つの思いへの集中の程度が、進歩を判断する尺度です。

Talk 565. (抜粋)

信奉者:
 どのように心を正しい方法で保つ(守る)べきですか。

マハルシ:
 修練によって。心に良い思いを与えなさい。心は良い方法で鍛えられねばなりません。

信奉者:
 しかし、心は安定していません。

マハルシ:
 バガヴァッド・ギーター曰く、sanaih sanair uparamed (徐々に、徐々に退き);atma-samstham manah krtva (心を自らに確立し)(*1)abhyasa-vairagyabhyam (修練と離欲により)(*2)

 修練が必要です。進歩はゆっくりです。

(*1)引用の最初の2つは、ギーターの6章25詩節からで、シュリー・ラマナ編集の「バガヴァッド・ギーターの精髄」の第27詩節にも採用されています。
(*2)この最後の引用にぴったりあてはまるのは、ヨーガ・スートラの1章12詩節「abhyasa-vairagyabhyam tan nirodhah(修練と離欲により、この止滅が(もたらされる)」ですが、ギーターの6章35詩節にも「・・・mano・・・abhyasena・・・vairagyena ca grhyate(心は修練と離欲により、制御されうる」とあります。

Talk 618. 1939年2月1日 (抜粋)

マハルシ:
 その思いがどこから起こったのか確かめなさい。それは心です。誰にとって心や知性が働くのか確かめなさい。自我にとってです。知性を自我に溶け込ませ、自我の源を探求しなさい。自我は消え去ります。「私は知っている」、「私は知らない」は、主体と対象を暗示します。それらは二元性のためです。自らは純粋で、絶対的であり、ただ一者のみです。一方が他方を知る二人の自分は存在しません。それでは、二元性とは何ですか。それは、ただ一者のみである自らではあり得ません。それは自らならざるものに違いありません。二元性は自我の特徴です。思いが生じる時、二元性が存在します。それを自我であると知り、その源を探求しなさい。

 思いの消失の程度が、自らの実現へのあなたの進歩の尺度です。しかし、自らの実現そのものは進歩を許しません。それは常に同じです。自らは常に実現されたままあります。妨げるものは思いです。自らが常に実現されているという理解を妨げるものの除去の程度によって、進歩は測られます。ですから、誰に思いが起こったのか探求することによって、思いは制御されなければなりません。そのようにして、あなたは思いが生じない思いの源へ行きます。

2013年10月7日月曜日

ブラフマ・ジニャーナ、サンスカーラとの戦い、感情の征服

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』 

 読みやすいように対話形式するため、訳を多少変えています。(文:shiba)

45年3月31日 午後

 訪問客、ウッタル・プラデーシュ州のシヴァガル(?)のラージャ(*1)が、「私は私自身をバガヴァーンに委ねます。バガヴァーンは私にジニャーナを下さるべきです」と言ったようでした。バガヴァーンは1937年9月号の「Vision」のナームデーヴ(*2)が主の名の重要性を強調した文章に言及しました。そこでは、「私」、自我が委ねられた時のみに、主の名の意義が理解されると指摘されていました。
 私が講堂に入った時、上述のラージャと他の訪問客のために、どのようにして『アシュターヴァクラ・ギータ』が説かれるようになったのかという話が英語で詳しく話されていました。話を読み終わった後、バガヴァーンは言いました。

バガヴァーン:
 ブラフマ・ジニャーナ(*3)は、遠くのどこかにあり、行って得られる外側にある何かではないため、それを得るためにはとても長い時間がかかるや、とても短い時間で済むということは言えません。それはいつもあなたと共にあります。あなたはそれです!『アシュターバクラ・ギータ』の物語の意図するところは、「ブラフマ・ジニャーナを得るために必要な全てのことは、あなた自身を完全にグルへ委ねること、『私』および『私のもの』なる概念を放棄することである」と説くことです。それらが放棄される時、残るものが現実です。その時、ブラフマ・ジニャーナを得るためにさらにどれほどの時間がかかると言うことは不可能になります。一方の足を階段の1段目に置いた後、もう一方の足を2段目に置くのに要する時間と同じぐらいかかると言うのは間違いでしょう。自我が完全に放棄された瞬間、自らが輝きます。

(続いて、バガヴァーンは『ヨーガ・ヴァーシシュタ』から引用しました)
意識の虚空(チダーカーシャ)なる月を覆う「私」、「自我」なる雲が取り除かれないなら
「私」という感覚(アハンカーラ)をまるで知らないハートなるユリの花は満開にならない

 我々は長年のサンスカーラ(*4)と戦わなければなりません。それは全てなくなります。ただ、過去にサーダナをすでに行った人々の場合には、比較的すぐなくなり、他の人々の場合には遅くなります。

デーヴァラージャ・ムダリアール:
 サンスカーラは段階的になくなるのですか、それとも、ある日突然に消えるのですか。私がこれを尋ねるわけは、私はかなり長い間ここに留まっているにもかかわらず、私の中に段階的な変化を何も感じないからです。

バガヴァーン:
 太陽が昇る時、暗闇は段階的に消えますか、それとも、いっぺんに消えますか。

別の訪問客:
 どのようにして感情を征服するのですか。

バガヴァーン:
 感情が我々の外にある何かであるなら、武器と弾薬を手に取り、それを征服できます。それは我々の内側から出てきます。それが出てくる源を調べることによって、我々はそれが我々から出てこないことを理解し、それを征服するでしょう。世界とその中にある対象物こそが、我々の感情をかき立てます。しかし、世界とこれらの対象物は我々の心によってのみ創造されています。それらは我々の眠りの間に存在しません。

(*1)ラージャ・・・藩主、地方の領主
(*2)ナームデーヴ・・・ヒンドゥー教のヴァールカリー派に属する詩聖。1270年にマハラーシュトラで誕生。
(*3)ブラフマ・ジニャーナ・・・「ブラフマンを直接に知ること、全てをブラフマンであると知ること」など
(*4)サンスカーラ・・・心の過去の傾向、印象

2013年9月29日日曜日

スワーミー・ヨーガーナンダとの対話 - 神と自らの実現、苦しみという道

◇『シュリー・ラマナ・マハルシとの対話(Talks with Sri Ramana Maharshi)』 p103~105

シュリー・ラマナの左手側、順に、スワーミー・ヨーガーナンダ、ポール・ブラントン氏です

Talk 106. 107. 1935年11月29日

 午前8時45分、スワーミー・ヨーガーナンダが他の四人と共に到着しました。彼は尊大なように見えますが、温和で、身なりが整っています。彼は肩までかかっている黒くふさふさした髪をしています。一行はアーシュラマムで昼食をとりました。

C.R.ライト氏(彼の秘書):
 どのようにして私は神を実現すればいいでしょうか。

マハルシ:
 神は未知の存在です。さらに、彼は外側にいます。しかしながら、自らは常にあなたと共にあり、それはあなたです。親しいものを無視して、どうして外側にあるものを求めるのですか。

C.R.ライト氏:
 あらためて、この自らとは何ですか。

マハルシ:
 自らは全ての人に知られていますが、明確に知られていません。あなたはいつも存在しています。その「在る」ものが自らです。神の全ての定義の中で、実際、聖書の言明である出エジプト記(第3章)の「私は在る、が私である」より適切に表されているものはありません。ブラフマイヴァーハム(*1)、アハム・ブラフマースミ(*2)、ソーハム(*3)のような他の言明もあります。しかし、どれも「ジェホウヴァ(*4)=私は在る」という名前のように直接的ではありません。絶対的存在とは在るものです-それは自らです。それは神です。自らが知られるなら、神は知られます。それどころか、神は自ら以外の何者でもありません。

C.R.ライト氏:
 なぜ善と悪が存在するのですか。

マハルシ:
 それらは相対的な言葉です。善と悪を知る主体が存在するに違いありません。その主体は自我です。自我の源を突き止めなさい。それは自らに帰着します。自我の源は神です。この神の定義は、おそらくより具体的であり、あなたにより良く理解されるでしょう。

C.R.ライト氏:
 本当にそうですね。どのようにして至福を得るべきですか。

マハルシ:
 至福は得られるべき何かではありません。逆に、あなたは常に至福なのです。この望みは、不完全であるという感覚から生まれます。この不完全であるという感覚は誰にありますか。探求しなさい。深い眠りの中、あなたは至福に満ちています。今、そうではありません。その至福とこの至福でない状態の間に何が入っていますか。それは自我です。その源を探し、あなたが至福であると見出しなさい。

 新たに得るべきものは何もありません。あなたは、逆に、あなたが至福と異っているとあなたに思わせる無知を取り除かなければなりません。この無知は誰にとってありますか。自我にとってです。自我の源を突き止めなさい。その時、自我は失われ、至福が後にすっかり残ります。それは永遠です。あなたは、今ここで、それなのです・・・・ それが一切の疑いを解決するためのマスター・キーです。疑いは心に生じます。心は自我から生まれます。自我は自らから生じます。自我の源を探しなさい。そうすれば、自らが明らかになります。それのみが残ります。全世界は広がった自らに過ぎません。それは自らと異なりません。

C.R.ライト氏:
 最良の生き方とは何ですか。

マハルシ:
 それは人がジニャーニか、アジニャーニかによって異なります。ジニャーニは何ものも自らと異なったり、自らから離れていると見ません。全ては自らの内にあります。世界が存在し、その中に体が存在し、体の中にあなたが住んでいると想像することは誤りです。真理が知られるなら、全世界とそれを超えてあるものは自らの内にのみ存在すると見出されるでしょう。視野は人の視力に応じて異なります。視力は目に由来します。目はどこかに位置しているに違いありません。あなたが粗大な目をもって見ているなら、他のものを粗大であると見ます。微細な目(つまり、心)でなら、他のものは微細に見えます。目が自らになるなら、自らは無限であるので、目は無限です。自らと異なるように見るべき他のものは何もありません。

 彼はマハルシに感謝の言葉を述べました。彼は感謝する最良の方法は常に自らのままあることであると言われました。

後で、ヨーギが尋ねました:
 どのようにして人々の精神的な向上はもたらされうるのですか。彼らに与えられるべき教えは何ですか。

マハルシ:
 教えは個々人の気質に応じて、そして、彼らの心の精神的成熟性に応じて異なります。みなそろっての教えはありえません。

ヨーギ:
 なぜ神はこの世の苦しみを許すのですか。彼はその全能の力でもって一遍にそれを取り除き、神の普遍的な実現を定めるべきではありませんか。

マハルシ:
 苦しみは神の実現のための道です。

ヨーギ:
 彼は別なように定めるべきではありませんか。

マハルシ:
 それが道なのです。

ヨーギ:
 ヨーガ、宗教などは苦しみへの解毒薬ですか。

マハルシ:
 それらはあなたが苦しみを克服するのを手助けします。

ヨーギ:
 なぜ苦しみがなければならないのですか。

マハルシ:
 誰が苦しむのですか。苦しみとは何ですか。

 返答なし!ついにヨーギは立ち上がり、彼の作品のためにシュリー・バガヴァーンの祝福を願い求め、彼があわただしく帰ることを詫びました。彼はとても真摯で、熱心で、感情的にさえ見えました。

(*1)ブラフマイヴァーハム・・・「ブラフマンは私である」
(*2)アハム・ブラフマースミ・・・「私はブラフマンである」
(*3)ソーハム・・・「彼は私である」
(*4)ジェホウヴァ・・・英語のJehovahの発音、エホバ、ヤハウェとも

2013年9月28日土曜日

安全なギリプラダクシナのための用心 - 女性の一人歩きはやめよう

 ギリプラダクシナは、シュリー・バガヴァーンがたいへん高く評価した修練です。しかし、プラダクシナを行う過程で出会うかもしれない危険も存在します。あまり触れたくはない話題ですが、私の翻訳を見て「神聖なプラダクシナに危険なんてあるわけがない」と思い、用心を欠き、無防備な状態で現地に行かれる人がいるかもしれないと心配になったのであえて記します。
 シュリー・バガヴァーンの教えや聖典、アルナーチャラに関する様々な話題についての議論・情報交換の場であるHP(「The Forum dedicated to Arunachala and Bhagavan Sri Ramana Maharshi」)があります。その中でグラハムという人が、プラダクシナをする際の用心について詳しく述べています。そこから抜粋しものを翻訳して、以下に記します。
 以下の翻訳で私が伝えたいことは、世界の他の場所と比べてアルナーチャラがとりわけ危険であるということではなく、残念ながらアルナーチャラにも危険が存在するので用心して下さいということだけです。(文:shiba)。

赤色・・・インナーパス、オレンジ色・・・アウターパス

〇「アルナーチャラでの強姦と強盗について」 2010年1月22日の投稿

グラハム:
 数日前、私はとても不穏なニュースを耳にしました。それは、先週、インナー・パスで若い魅力的な西洋人の少女が強姦され、殺害されたというものです。それについてのメディアの報道が何もないので、私はこの話の正確な所を確かめようとしているのですが、地元の村人はそれについて話しています。(←この情報の真偽は分かりません<shiba注>)

 どうぞ以下のことに注意を払って下さい。人々がティルヴァンナーマライに来る時、彼らはそれが気高く信心深い人々でいっぱいであると想像します。それほど真実から遠いことはありません(全くのウソです)。ここには多くの高潔な人々がいますが、たくさんの日和見主義者もまたいます。

 過去十年以上にわたり、強盗や西洋人女性の強姦が西洋人のコミュニティーで多数報告されています。それは山中やギリヴァラム(=ギリプラダクシナ、タミル語)の道の両方で起こり、孤立しているためインナー・パスで起こるのが最も一般的です。数年前、二人の男が山中での強盗と強姦で投獄されました。

 非常に一般的であり、まったく誤って信じられていることは、西洋人女性はふしだらで、どんな男とでもセックスを望むと言うことです。伝えられるところによれば、これは数人の女性の不品行な振る舞いと西洋人女性をゆがめて描く映画のために起こっています。

 西洋の文化はインドの文化と非常に異なります。西洋人女性は概して見知らぬ人に友好的で、微笑み、気軽に話し、互いに抱擁もします。不幸なことに、西洋式の親密なコミュニケーションはここではその心が下水道の中に住んでいる人々によりセックスへの大っぴらな誘いと受け取られます。インド人の大多数はそれに難色を示します。

 昨年、私の友人の一人がここに数週間の瞑想のためにやってきて、最初の数日以内にセックスを要求する二人のインド人男性が近寄って来ました。頼むのでなく、要求し、一人は彼女の宿泊場所までついてきて、もう一人はアーシュラムで彼女に近づきました。これによって彼女は恐怖し、非常にうろたえました。私はこのように常に悩まされている多くの他の女性のことを耳にしています。
 インド人女性は一般的に知り合いの男性としか話をしませんし、それも遠くからだけです。彼女達は決して触れません。

 私はここでアーシュラムかどこかで告示された警告を促す助言を繰り返します。どんなことがあっても女性は一人で山に登ったり、ギリヴァラムを行うべきではありません。私はさらなる警告を西洋人女性のために付け加えます。どんなことがあっても長い間の知り合いでない男性と共に一人でどこかに行くべきではありません。

 瞑想の姿勢で座り、宗教的事柄について話すからという理由で、彼が高潔であると思わないように。近づいてくるなら注意深く観察して、その人が他の女性にも近づいていないか確かめなさい。彼がそうするなら、彼を避けなさい。彼の意図はセックスか、金か、その両方です。

 オレンジ色(の服)を着ているからという理由で、彼がサードゥ(聖者)であると思わないように。その服を着ている彼らの99%は物乞いか、それ以下です。4年前、その黄土色の服を着た男たちの内の三人が12歳のとてもかわいらしいが、知的障害のある少女をアーシュラム近くの大学構内で強姦しました。警察に通報されているなら、彼らは限られたやり方で最善を尽くそうとするでしょう

 しかしながら、予防がよりよい道です・・・あなたはインド人女性が一人で山を登ったり、ギリヴァラムを行ったりするのをめったに見ません。彼女達は生まれて以来うるさく教え込まれてきた警告からこの態度をとっており、さびしく思うからではありません。同じようになさい!

ナーガラージ:
 特にアルナーチャラで、山そのもので、このような最新の情報を耳にするのは非常に悲しいことです。

 なぜ?と私を困惑させます。少なくともここじゃなくてもいいはずです!少なくとも地球上でこの場所をそっとしておいて下さい!

 女性が一人で山に、インナー・パス、ギリヴァラムに乗り出さない方がいいと助言されていることは理解しています。私も信頼できる地元の人々から聞いたのですが、彼らは、人々を叩きのめそうと待ち構え、持っているお金でもなんでも奪いとるならず者がたくさんいるので、男性である私さえにも一人で乗り出さないように助言しました。

 しかし、私たち(男性)がインナー・パスに一人で乗り出すことはまだできますか。それは賢明なことですか。私はいつもインナー・パスがとてものどかに感じます。心地よい鳥のさえずり、風が木の葉にこすれる音、聖なる山の間近いることはとても魅力的で、神聖であり、あたかもラマナ・マハルシ自身の面前にいるかのように、私が自らと親しくいることを感じさせます。

グラハム:
 親愛なるナーガラージへ。ええ、そのようなことが起こるのは恐ろしいことですが、実際に起こりますし、上に私が報告したことよりもいっそうひどいことが起こっています。

 警告にもかかわらず、人々は依然として履き違えた信仰と信頼からとても愚かなことをします。

 警察にはそのようなことを適切に捜査するために訓練されておらず、またその能力もなく、犯罪者は邪魔されることなく遠慮なく犯罪を犯しているようでもあります。

 最後に誰かが止めるまで、これらの変質者が蛮行を楽しみ始め、よりいっそう犯罪を犯したいと思い、後になるにつれより悪くなるという実際の危険があります。

 本当は私はこのような記事を私のサイトにのせたくないのですが、ここに聖なる目的のためにやってきた罪のない人々を守ろうとすることは我々の義務です。

アキラ:
 バガヴァーンがアルナーチャラを大変に褒めていることを思えば、西洋の訪問客がティルヴァンナーマライを聖なる場所であり、悪いことは何も起こるはずがない信じるのは自然なことです。

 山の近くに住む誰かがその恩寵により利益を得たということを聞き、人はティルヴァンナーマライのすべての人が善人だろうと想像するかもしれません。そこを訪れ、ある程度の期間住んだ後にのみ、ティルヴァンナーマライが期待したような夢の国でないことに気づきます。

 より深い意味において、悪い出来事もまたその意味を持つに違いありません。それはジーヴァの浄化の過程かもしれません。たとえ、そのことが人を「山の恩寵に何が起こったのか」と戸惑わせるにしても。
サーダカ:
  グラハムに賛成ですが、文章の中に(おそらく意図せずに)西洋人の女性だけが危険にいると言うことを暗示する偏向があると思います。私は数年前にインド人の女性が西洋人の男性に山の上までついてこられたという出来事を知るようになりました。彼は明らかに良い意図を持っていませんでした。終には、その女性はヴィルーパークシャ洞窟からアーシュラムに向かって駆けだしました。彼女が洞窟の中に二人のほかに誰もいないとわかったからでした。

 皆が非常に注意深くいる必要があります。その場所には世界中からやってくる変質者がいるようです。

アダム:
 ラマナ自身が、ティルヴァンナーマライに住んでいる間に、襲われたということを忘れないようにしましょう。ラマナ・マハルシが強盗に襲われていた時、彼の信奉者たちは強盗を攻撃したい思いましたが、彼は、「いえ、いえ、いけません。我々のダルマはこのようであり、彼らのダルマはそのようです。我々は彼らのダルマに干渉すべきでありません。ですから、彼らが欲しいものをあげなさい」と言いました。

グラハム:
 ここでの行為の中には神聖な正義あります。それは確かです。しかし、それは人々が後先考えないで行動すべきであるという意味ではありません。

 バガヴァーン自身が、正当な理由から女性が一人で山の周りを巡るべきでないと強調しました。これはダルマよりも、ヴァーサナーと関連付けられるべきです。人々がここに来る時、良いものも悪いものも同様に、すべてのものが表面に上がってきます。人々はこれらの問題に耽溺するのでなく、取り組まねばなりません。

アダム:
 用心は、恐れから枝分かれしたのではありませんか。運命はそれが定められた方法を演じ切ります。バガヴァーンが足を棒で打たれた時、警官に襲撃者の身元を明かすことを断わり、彼の信奉者は理由を尋ねました。「もしあなたたちがどうして彼らが私を棒で打ったのか知りたいなら、あなたたちは過去世で私が誰を棒で打ったのか見つけださねばなりません」。

 この引用は記憶からなので、言葉遣いが正確でないならお許しください。しかしながら、用心しているのは誰ですか。恐れているのは誰ですか。襲われているのは一体誰ですか。襲っていますか。すべての道は遡り、「私は誰か」に通じます。

スブラマニアン.R:
 すべてのものはプラーラブダ(神聖な計画)です。しかし、同時に、我々はまた安全のために用心して行動すべきです。かつて、シュリー・ラーマクリシュナに、はぐれ象によって傷を負った人が話を持ちかけました。彼はシュリー・ラーマクリシュナに、「主よ!私は象がナーラーヤナであると考え続けていました。しかし、象は私を傷つけました」と言いました。シュリー・ラーマクリシュナは、『「逃げろ、逃げろ、はぐれ象が来るぞ!」と言う、その象の訓練士の警告を聞きませんでしたか。』と言いました。
オーム・フリダヤム:
 ええ、私はラマナ自身がそこで強盗にあい、盗賊により殴打されたということを覚えておくのが最良だと思います。

 誰が現れても、マーヤーの世界はいまだそれが行うことを行います・・・キリストは磔にされ、ブッダは腐った米を食べ、ラマナは痛々しい癌でなくなるなど、など。我々はどうしてこういう恐ろしいことが起こるのか分かりません。(文法がわかりにくため後略します<shiba注>) 

バイラヴァ(「恐ろしい」の意)、左手にブラフマーの首をもっている、犬が乗りもの ジョーティ: 
 私はアルナーチャラが神であるなら、どうして彼は彼の周りを歩く女性にこのようなことが起こるのを許すのか困惑します。

 ハンセン病を患っているある男性がアルナーチャラの周りを歩いており、その時突然に別の男が現れ、彼をニームの木の枝で打ちつけました。(次の文のdemangingが英語で見当たらなかったので訳していません<shiba注>)ハンセン病の人が逃げ出した時、病気がなくなったことに突然気づきました。

 ですから、どうして、アルナーチャラの道で男が女性を強姦しようと試みる時、シヴァがバイラヴァとしての姿でやってきて、彼らを怖がらせて違うように振る舞わせないのですか。

スブラマニアン.R:
 親愛なるジョーティへ。答えのない質問がいくつか存在します。それらの出来事は、集団で行くことなしに、もしくは、男性の付添なしにギリヴァラム-特に森のルート-を試みないようにというアーシュラマムの警告にも関わらずそこに存在します。さて、誰が非難されるべきですか。あなたはアルナーチャラをすべてのことについて非難できません。あなたが美味しいアイスクリームを味わっている時、アルナーチャラのことを思い、アイスクリームをアルナーチャラに感謝しますか。

ジョーティ:
 しかし、アルナーチャラはサーダナを一人で修練する人々の避難所でもあります。多くの聖者がアルナーチャラの洞窟に住んだと言われています。それでは、一人で修練をしたいと思う女性の探求者はどうなるのですか。

スブラマニアン.R:
 親愛なるジョーティへ。私が読んだシュリー・バガヴァーンの信奉者の話によると、一人の女性だけ(スザンヌさんだと思います)が山に行き、ヴィルーパークシャ洞窟で一晩過ごしました。彼女の瞑想のエネルギーはとても強烈であったため、彼女は夜にサーマヴェーダの朗唱を耳にしました。そのような瞑想のエネルギーのために、誰も洞窟の近くにさえ行けませんでした。それでも用心のために、バガヴァーンはS.S.コーエンを送り、彼女は早朝の2時30分ごろにアーシュラマムに連れ戻されました。

〇「用心に関する最新の情報について教えてください」 2013年9月4日の投稿
http://www.arunachala-ramana.org/forum/index.php?topic=7992.msg53918#msg53918

Ksksat20:
 親愛なるグラハムとその他のみなさんへ。山を登ったり、インナー・パスを行く間の男女の信奉者の両方がなすべき最新の用心一式について教えてください。

 男性にとってさえも、山の道にいるいわゆる物乞いからの危険はありますか。彼らはズボンをはいた若い年齢の人で、アルム(施し?)を求めるようです。彼らが周りを見渡して、他に誰もいないなら、彼らは脅し始めるでしょうか。

 突然ほえる迷い犬や脅してくる猿に対処するために用心するべきことは何ですか。

 私はある時、若い男がヴィルーパークシャ洞窟を登っている外国人の集団を見るのを見ました。私は彼らの数フィート後ろに離れて、登っていました。この男は私がタミル語を知らないと思い、余り上品でないことをタミル語で言いました。私は何気なく彼の方を見て、再び歩き始めました。これは2012年12月25日のクリスマスに起こりました。ありがたいことに、多人数の外国人とインド人がいました。そうでなければ、私は男性でも山の周りを歩き回るのは安全であるとは思いません。

グラハム:
 大多数の男性にとって、日中に一人で山の周りを歩き、洞窟を訪れることは、特に道にはいつも交通や他の人がいるので、概して安全です。しかしながら、今は強盗や男性によるハラスメントの報告があります。

 女性一人とっては、特に、隙だらけに見える外国の女性が同じことをするのは決して安全ではありません。その人々は威嚇やセクシャル・ハラスメントや強盗のかっこうの的であると現地人にとってみなされているからです。

 今、インナー・パスは数年の間、閉じられていますが、人々がいまだに使っているフェンスに壊れているところがあります。

 猿が怖いなら、棒か、彼らの方になげる小石を数個持って行きなさい。犬についても同じです。歯を見せて猿に微笑まないように。猿の世界ではそれは攻撃のサインであり、攻撃的な反応を引き起こすからです。

 強姦、強盗、暴行、殺人はティルヴァンナーマライにとって新しいことではありません。バガヴァーンの時代に、彼が座っている場所からほんの50フィートはなれたアーシュラム内で女性の信奉者が重大な性的暴行を被りました。このことにより、女性には暗くなる前にアーシュラムを離れることが求められるようになり、山をひとりで回らないように言われました。

 もしバガヴァーンがこの助言をしたほうがいいと思ったならば、この状況は避けることができるのは明らかであり、非難されるべきはカルマではなく、危険な行いです。

 何であれ、全員が用心すべきです。特に、ここで急増する何百の偽サードゥに関しては。彼らの大多数は勘違いした信奉者達によってオレンジ色の服を与えられたはみ出し者と物乞いです。

 簡単な適例-数年前、大学構内のむかいで働く地元の小売店主から聞いたのですが、白昼に三人の「サードゥ」が知的障害のある13歳の子供(上の投稿では12歳となっていますが、同じ人でしょう<shiba注>)を大学構内へと連れて行き、強姦しました。地元の人はこれを見て、彼女を助けるために何もせず、警察すら呼びませんでした。彼らは彼らが苦情を申し立てるなら、金銭を要求されるようになるだけだからだと言いました。

 私はなぜ彼らが自分自身で彼女を助けに向かわなかったのか尋ねましたが、彼らは「私たちに何ができるのか?」と言い、肩をすくめました。個人的には、特に子供に関しては、警察はこれに対して行動しただろうと確信していますが、地元の認識は異なります。もしくは、誰も本当は気に掛けないのかもしれません。こういうことがここで起こりうるのは人生の悲しい事実です。
 この後、ナーガラージという人が『ラーマクリシュナの福音』から「象である神の話」を引用しています。その部分だけでは分かりづらいので、少し前の部分から引用して以下に記します。(文:shiba)。
ラーマクリシュナ:
 それについてどう思いますか。世俗的な人々は宗教的な心をもつ人についてあらゆる類のことを言います。しかし、いいですか!象が道に沿って移動する時、野良犬や他の小動物がいくらでもその後ろで吠え、鳴き叫ぶかもしれません。しかし、象は振り返ってそれらを見ようともしません。もし人々があなたのことを悪く言うなら、彼らをどう思いますか。

ナレンドラ:
 犬が私に向かって吠えているのだと思いましょう。

ラーマクリシュナ:(微笑んで)
 いえ、いえ!我が子よ、そんなに遠くに行ってはいけません(笑い)!神は全ての存在に住んでいます。しかし、あなたは善人とだけ親しくして良いのです。あなたは悪い心を持った人からはなれるべきです。神は虎の中にさえいます。しかし、そのためにあなたは虎を抱擁できません(笑い)。あなたは、「どうして虎から逃げるのですか。それもまた神の顕現ではないのですか」と言うかもしれません。その答えは、「あなたに逃げるように言う人々もまた神の顕現です。ですから、どうして彼らの言うことに耳を傾けるべきではないのですか」です。

 一つ話をしましょう。森の中に多くの弟子を持つ聖者が住んでいました。ある日、彼は彼らに神をすべての存在の中に見て、これを知りながら、それら全ての前に低くお辞儀するように教えました。一人の弟子が供犠の火のための木を集めるに森へ行きました。突然、彼は、「道を開けろ!怒り狂った象がやってくるぞ!」 と叫ぶ声を聞きました。聖者のその弟子以外の全ての人は一目散に逃げ出しました。彼はその象もまた別の形をした神であると論理的に考えました。それなら、どうして彼はそれから逃げださねばならないのですか。彼はじっと立ち、その動物の前で礼をして、賛美し始めました。象使いは「逃げろ!逃げろ!」と叫んでいました。しかし、弟子は動きませんでした。その動物は彼を鼻でつかみ、彼をわきに投げ、道を進んでゆきました。怪我をして、弟子は意識を失い地面に倒れました。起こったことを聞いて、彼の師と兄弟弟子たちが彼のもとに来て、彼を庵に運びました。何かの薬の助けで、彼はすぐに意識を取り戻しました。誰かが彼に「あなたは象がやって来ているのを知っていました。どうしてその場所を離れなかったのですか」と尋ねました。「しかし、我々の師が、人間はもちろん動物についても、神自身がこれら全ての形をとっているのだと我々に言いました。ですから、象である神がやって来ているだけだと思い、私は逃げませんでした」と彼は言いました。これについて、師は、「そうです、我が子よ。象である神がやって来ていたのは本当です。しかし、象使いである神があなたがそこにいることを禁じました。全ては神の顕現であるのに、どうしてあなたは象使いの言葉を信用しなかったのですか?あなたは象使いである神の言葉に気をつけるべきでした(笑い)」と言いました。

2013年9月27日金曜日

ギリプラダクシナの意義 - シュリー・ラマナ・マハルシによる解説

◇『シュリー・ラマナーシュラマムからの手紙(Letters from Sri Ramanasramam)』

 1949年6月26日

(251)ヤートラー(*1)とプラダクシナの重要性

 いくぶん前にバガヴァーンは体調がすぐれないことが続いていました。そのために私は心苦しく思い、何をすべきか分からないので、私は山の周りをいつも通りの火曜日だけでなく、金曜日も巡り、バガヴァーンの健康をアルナーチャレーシュワラへ祈ることに決めました。この決心をもって、私は木曜日の午後、私が明日の朝に山の周りを巡ろうとしていることをバガヴァーンに告げに行きました。

 「明日?明日は火曜日ですか?」とバガヴァーンは尋ねました。

 「いいえ。金曜日です」と私は言いました。彼は私の目的を理解しているかのように、「うむ、うむ」と言いました。

 最近やってきて、しばらく滞在していた信奉者の一人がバガヴァーンに、「ここでは様々な人が山の周りを頻繁に巡ります。その偉大さとは何ですか」と尋ねました。

アルナーチャラ-聖なる山。内道(インナーパス)を歩く

バガヴァーンは以下の話を彼に語りました:
 このギリプラダクシナの偉大さは、『アルナーチャラ・プラーナム(*2)に詳細に描かれています。主ナンディケーシャはサダーシヴァに似たような質問をして、サダーシヴァは以下のように語りました。「この山の周りを巡ることは良いことです。『プラダクシナ』という言葉は独特な意味を持ちます。『プラ』はあらゆる類の罪の除去を意味します。「ダ」は望みを叶えることを意味します。『クシ』は来世の誕生からの自由を意味します。『ナ』はジニャーナを通じての解放を意味します。プラダクシナとして、あなたが一歩進むなら、それはこの世界の幸福を与え、2歩歩くなら、それは天界の幸福を与え、3歩歩くなら、それは達成されうるサティヤローカ(*3)の至福を与えます。人はモウナ(沈黙)か、ディヤーナ(瞑想)か、ジャパ(主の名前の復唱)か、サンキールタナ(バジャン)をして周りを巡るべきであり、それによって神を常に思うべきです。人は妊娠9か月目の女性のようにゆっくり歩むべきです」。ここでタパスを行っていたアンバは、クリティカイ星(*4)の日の夜の4つの区分の最初に山の周りを巡ったようです。聖なるかがり火のダルシャンの後、彼女は最終的に主シヴァに吸収されました。聖なるかがり火の祝祭の後の3日目に、シヴァ自身が彼の従者(信奉者)みなを連れてプラダクシナに出かけたと述べられています。実のところ、このプラダクシナにより人が得る楽しみや幸福を言い表わすのは困難なことです。体は疲れ、感覚器官はその力を失い、体の全ての活動は内に吸収されます。従って、自分自身を忘れ、瞑想の状態に入ることが可能なのです。人が歩き続けるにつれ、体はアーサナの状態にあるように自動的に調和がとれたものになります。そのため、体の健康状態が改善されます。それに加え、山には数種類の薬草があります。それらの香草の上を通った空気は肺に良いのです。車両の通行がないので、車やバスのために道をあける心配はありません。人は思いのまま気楽に歩けます。

 私たちがプラダクシナに出かけていた当時、それはとてもわくわくするものでした。したいと思った時にいつでも、出発しました。特に祝祭の日であったなら、遅くなったり、疲れていると感じた時はいつでも休息し、自分たちで料理して食べたものでした。特定の場所に止まらねばならないという決まりはなかったので、何の心配事もありませんでした。

 列車の旅が始まる前は、巡礼は全て徒歩で行われました。彼らは特定の時間に特定の場所に到着しようという考えや、特定の場所に特定の期間とまらねばならないという考えをもって、決して出発しませんでした。カーシー(ベナレス)へ行く人々とカティ(火葬場)へ行く人々は等しいという諺があります。帰って来るという望みを持たない人々のみが、カーシーへと出発したものでした。全財産を持って、彼らはディヤーナに浸って歩み、つかれたと感じた時はいつでも止まり、しかるべき時に再び出発しました。巡礼者が町の中心部に入る必要がないように、町の外れにはダルマシャーラー(宿泊所)がありました。ダルマシャーラーがない所には、彼らには避難場所として利用できた寺院、洞窟、木々、積み重なった石がありました。巡礼者たちは神への思い以外の思いを持たずに歩くことにより彼らのアートマに吸収されました。

 ギリプラダクシナもまた同じことです。体は軽くなり、ひとりでに歩きます。歩いているという感覚はなくなります。あなたがプラダクシナに行くなら、あなたが座っている間に入ることができないディヤーナへと自動的に入ります。その場所と雰囲気はそのようなのです。人が歩くことができなくても、一度山の周りを巡るなら、彼は何度も何度も行きたいと思うようになります。あなたが行けばいくほど、より一層それへの熱意が起こります。それは決して衰えません。人が一度プラダクシナの幸福になじむなら、彼はそれを決して放棄できません。ナーガンマを見なさい!彼女は週に一度だけ、火曜日ごとに周りを巡っていました。今、彼女は金曜日にも周りを巡っています。彼女は夜に何の恐れもなく一人だけで周りを巡ります。

 その信奉者は、「カンナッパという名前のサードゥが毎日周りを巡っているようです」と言いました。「ええ、ええ。彼はとても年をとった男性です。彼は目が見えません。毎日、夜の8時に彼は始めます。荷馬車の通行があまりないからです。彼は法螺貝を持ち、行くにしたがい鳴らします。その音を聞いて、人々はみな、彼に道を開けます。目が見えない人々のための道具がいくつかあります」とバガヴァーンは言いました。

 「夜にバガヴァーンが信奉者達と山の周りを巡った時、シッダの集団をよく見たと言うのは事実ですか」と別の人が尋ねました。「ええ。そのすべては伝記に書かれています」。そう言って、バガヴァーンは再び沈黙に戻りました。

(shiba注)上の文章のサダーシヴァが語った内容に関して、英文中に閉じかっこが見当たらなく、終わりがどこまでなのかよく分からなかったのですが、一応、「人は妊娠9か月目の女性のようにゆっくり歩むべきです」までとしています。

(*1)ヤートラー・・・「旅、行進」を意味するサンスクリット語。ヒンドゥー教では、一般的に聖地への巡礼を意味する。
(*2)アルナーチャラ・プラーナム・・・アルナーチャラに関する主要な神話を記録した16世紀のタミル語の作品。特定の聖地の宗教的な話をまとめたプラーナである「スタラ・プラーナ」の1つであり、Saiva Ellappa Navalarの作(ディヴィッド・ゴッドマン氏のブログから情報)。
(*3)サティヤローカ・・・メル山にあるブラフマー神がすむ場所。ブラフマローカ、ブラフマプラと同じ。
(*4)クリティカイ星・・・Krithikai star、プレアデス星団、おそらくタミル語かテルグ語です。サンスクリット語では「クルッティカー」、タミル語では「カールティカイ」とも呼ぶようです。

2013年9月21日土曜日

シュリー・ラマナ・マハルシと共に歩むギリプラダクシナ

◇『シュリー・ラマナの戯れ(Sri Ramana Lila)』  

29.ギリプラダクシナ


何であれ偉大なる者がなすことは、他の者たちによって見習われる
バガヴァッド・ギーター


 1908年、セシャドリ・スワーミーは、当時、マンゴーの木の洞窟に滞在していたマハルシを訪問しました。彼はマハルシの心を読もうという意図でマハルシを近くで観察しながら、いくらか時を過ごしました。そのようにできなかったので、彼は憤慨して両手を放りあげ、マハルシが何を考えているのか分からないと言いました。マハルシは返答しませんでした。セシャドリは、「人がアルナーチャレーシュワラ(*1)を崇拝するなら、それで十分です。彼が解放を授けます」と続けました。

マハルシ:
 崇拝するのはいったい誰ですか、崇拝されるのは誰ですか。

 セシャドリは大声で笑い出し、「それははっきりしていません。それが問題のすべてです」と言いました。そこで直ちに、バガヴァーンはアドヴァイタの体験について長い講話をし、セシャドリはとても注意深く聞いていました。最後に彼は、「私は何も言うことができません。このすべては私にとって分かり難いものです。それは全くの空白です。私自身に関しては、いつも崇拝する者でいることに満足しています」と言いました。その後、彼は山の頂上に15回平伏し、その場を離れました。セシャダリは山の頂上をアルナーチャレーシュワラ、全能者(the Almighty、神)の象徴として崇拝することを好んだようでした。

 ほとんどの人は似たような意見でした。彼らにとって、山はアルナーチャレーシュワラの形、光の柱でした。「アルナーチャラ」というまさにその名前の想起、もしくは、山のダルシャンはすべての愛着を消し去るものでした。

 光の柱は、山がジョーティルリンガ(*2)を象徴していることを繰り返し示すために、アルナーチャレーシュワラ寺院でクリッティカイの日(*3)ごとに立ちあげられます。この柱は山の頂上に光が灯されるまさにその瞬間に立ちあげられます。後者(山の光)は樟脳、ギーやその他のものがくべられ、空まで立ち上り、数日間そのようにあります。それは様々な遠くの場所からも見えます。広がる光線はその名前、アルナーチャラの正当性を示します。その光の柱は、ハートの洞窟の内なる光の象徴でもあります。『スタラ・プラーナ』(*4)はアルナーチャラを世界の中心であり、南部のカーシー(*5)でもあると描いています。

 山のプラダクシナ(周回)はその土地(the land、国?世界?)の全ての巡礼地を訪れることと同等です。それはまたパラメーシュワラ(*6)自身のプラダクシナも象徴しています。伝説によれば、ヴィナーヤカ(*7)はクマーラスワーミー(*8)をイーシュワラを周回するという単純な方法によって倒しました。ギリプラダクシナの力とはそのようなのです。信奉者にとってのその重要性を強調し過ぎることはできません。マハルシもまた彼自身の利益のためでなく、彼の信奉者や弟子に模範を示す目的でそれを行いました。

 山の周りには整備された道があり、その道沿いに神殿、貯水池、マンタパ(*9)、サマーディがたくさんあります。また、道に沿って巨木が並び、通行人に日陰を提供しています。道沿いには休憩場所もあります。

 みながプラダクシナを自分たちのやり方で行います。歩くだけの人や、道沿いに転がって進む人(*10)もいれば、歩むごとに止まり、アートマ・プラダクシナ(*11)をそれぞれ止まる時に行ったり、もしくは、山に平伏する人もいます。一般的に、プラダクシナは3時間の内に終えられます。

 アルナーチャラについて以来ずっと、1926年ごろまで、マハルシは少なくとも週に一度か、もっと頻繁に、定期的にプラダクシナを行ったものでした。彼が朝に出かけたなら、たいていアーシュラムに夕暮れに戻りました。同様に、夕方に出発したなら、夜明けに戻りました。時には、ギリプラダクシナは2日か3日を要したかもしれません。マハルシは聖典に定められたようにとてもゆっくりと歩き、ほとんどの時間、サマーディの状態にいて、その体は機械的に動きました。マハルシはまた、1マイルごとに少し休憩しました。マンタパでは信奉者たちが彼を留め、食べ物やその他の軽食を差し上げました。信奉者らは互いに競ってバガヴァーンをもてなそうとし、バガヴァーンは彼らみなの期待に応えました。

 バガヴァーンに付き添った人々の振る舞いは人により様々でした。無言の人もいれば、バジャンの集団のように楽器を演奏したり、恍惚とした様子で歌を歌ったりする人もいました。たいてい信奉者達は音楽に詳しかったので、彼らはバクティにより供給される増した勢いで、見事に歌い、聞く者に楽しみをもたらしました。

 バガヴァーンに付き添ったガジャーナナは、神聖な『バーガヴァタ』からの詩節を歌いながら、道すがらずっと踊りました。彼は主ナタラージャがバガヴァーンに付き添っているような印象を与えました。バガヴァーンの108の名前を唱えたり、マハルシや他の人たちにより作られた賛歌を歌う信奉者もいました。信奉者達は主ご自身が彼らのただ中にいると感じ、何の屈託もなく、自分自身を表現しました。

 プラダクシナの間、信奉者らは献身の大海へと沈み、ジニャーナという涼やかな風により運び去られました。マハルシの沈黙はとても深く、人は彼がいったい話すことができるのだろうかといぶかりました。しかし、彼が話した時、彼の言葉は知恵の澄んだ水晶でした。

 バガヴァーンは数回のプラダクシナの間にいくつかの賛歌を作り、そのような時、彼は内面にあるアーカーシャ(虚空)にいました。そこには心はなく、言葉はなく、見る者はなく、見られるものはなく、崇拝する者はなく、崇拝されるものはなく、唯一のアートマが存在するだけでした。

(*1)アルナーチャレーシュワラ・・・シヴァ神の別名。「アルナーチャラ+イーシュワラ(支配者、神)」。
(*2)ジョーティルリンガ・・・ジョーティは「輝き、光」、リンガは「印、現れ」。
(*3)クリッティカイの日・・・Krittikai day、 おそらく、カールティカイ・ディーパムの日のことだと思います。
(*4)スタラ・プラーナ・・・タミル地方のシヴァ神の寺院・神殿の起源や伝統をしるした聖典の集成。
(*5)カーシー・・・インド北部、ウッタル・プラデーシュ州のガンジス川沿いにある都市。ヴァーラーナシー、べナーレス。
(*6)パラメーシュワラ・・・「至高なる神」。
(*7)ヴィナーヤカ・・・シヴァ神の長男ガネーシャの別名。
(*8)クマーラスワーミ・・・シヴァ神の二男ムルガン(スカンダ)の別名。
(*9)マンタパ・・・「マンダパ」とも。「寺院へつづく玄関のような建物。宗教的音楽や舞踊のために使われる。巨大な寺院は多数のマンタパを持ち、それぞれのマンタパは異なる役割を持ち、その役割に応じた名前がつけられている」(wiki)。
(*10)転がって進む・・・「シャヤナ・プラダクシナ」という寝ころんで、転がって進む方法があるようです。
(*11)アートマ・プラダクシナ・・・「自分自身の周りを回る」。その場でぐるぐる回転するということでしょうか。

2013年9月15日日曜日

シュリー・ガネーシャへ捧げる二詩節、ガナパティ・プラールタナー

◇『シュリー・ラマナ・マハルシの全集(Collected Works of Sri Ramana Maharshi)』

シュリー・ガネーシャへ


 1912年のある日、陶工がヴィルーパークシャ洞窟にシュリー・ガネーシャの小さな聖像を持ってきました。それは彼が作ったもので、シュリー・バガヴァーンに贈られました。ある弟子が彼とシュリー・バガヴァーンの両者がこの機会を祝って詩節を書いてはどうかと提案しました。そして、これがシュリー・バガヴァーンの書いたものです。

あなたを子供としてもうけた彼を
あなたは物乞いにした。あなた自身子供として
その後、ただあなた自身の巨大なお腹を養うために、あらゆる所に住んだ
私もまた子供である。おお、その壁龕(へきがん)にいる子供の神よ!
あなたの後に生まれた者に出会っているのに、あなたの心は石でできているのか
どうぞ私を見て下さい!

Him who begot you as a child you made 
Into a beggar; as a child yourself 
You then lived everywhere just to support 
Your own huge belly; I too am a child. 
Oh Child God in that niche! encountering one 
Born after you, is your heart made of stone? 
I pray you look at me!

 とても太っているように描かれるガネーシャは、シヴァの二人の息子の一人で、放浪する乞食者となりました。バガヴァーンは彼自身をガネーシャの弟・スブラマニアン(*)と同一視しています。
(この文は、『The Poems of Sri Ramana Maharshi』から)

(*)スブラマニアン・・・ガネーシャの弟であるスカンダの別名。カルナータカ州、アーンドラ・プラデーシュ州ではこの名で呼ばれているようです。

ガネーシャ


 これは主ガネーシャ、一切の障害を取り除く者への祈りです。ガネーシャはヴィーヤサの書記を務め、マハーバーラタを書き記したという話がプラーナで言及されています。ガネーシャの恩寵が、ヴェーダーンタ哲学の保護を求めて祈られてます。
おお、ヴィナーヤカ(*)巻物(メール山の斜面)に偉大なる賢者(ヴィヤーサ)の言葉を記し、勝利に彩られるアルナーチャラで長を務める者よ。繰り返される誕生の原因である病をどうか取り除き、自らなる蜜であふれる偉大な高貴なる信仰を恵み深く守りたまえ。
O Vinayaka, who wrote on a scroll(i.e., the slopes of Mount Meru) the words of Great Sage(i.e., Vyasa) and who presides at the victorious Arunachala, do remove the disease that is the cause of repeated births, and protect graciously the great Noble Faith which brims with the honesy of the Self.
(*)ヴィナーヤカ・・・ガネーシャの別名。ガネーシャの様々な別名に関する(おそらくサイ・ババによる)詳しい解説が、このサイトにあります。

***

ガナパティ・プラールタナー & ガナパータ

 下の動画は、Uma Mohanさんのアルバム『Divine Chants Of Ganesh』からの「Ganapati Prarthana ; Ghanapaath」です。とても印象的な曲なので、ガネーシャに関連してここで紹介しています。
 「ガナパータ」は「鐘形式」の朗唱であり、言葉が鐘のようにくり返し前後にいったりきたりして歌われるためそのように名付けられています。ヴェーダの朗唱様式では最も難しい手法のようです。詩節は『リグ・ヴェーダ』、2巻、23・1からです。(文:shiba)


om gananam tva ganapatim havamahe
kavim kavinam-upama-sravas-tamam
Jyestha-rajam brahmanam brahmanas-pata
a nah srnvan-nutibhih sida-sadanam
Om maha-ganapataye-namah

1.オーム、神々の主であるあなたへ祈りを捧げます
2.賢者の中の賢者であり、最高の栄誉を持つ者
3.最も偉大な王であり、神聖な知を持つヴェーダの主
4.我々の称賛に耳を傾け、家で座について下さい
5.オーム、偉大なる神々の主に礼拝いたします

(1行目)  gana・・・「群衆、軍隊、族」、神々; tva・・・あなた ; ganapati・・・ganaの主 ; havamahe・・・祈りを捧げます
(2行目)  kavi・・・詩人、賢者、預言者、太陽 ; upama・・・最高の ; sravas・・・栄光、名誉 ; tama・・・最高の度合いの
(3行目)   jyestha・・・最も偉大な ; raja・・・王 ; brahmana・・・神聖な知を持つ者 ; brahmanaspati・・・ヴェーダの主
(4行目)    nah・・・我々(に、の) ; srn・・・聞くこと ; nuti・・・称賛、崇拝 ; sad・・・座ること ; sadana・・・住まい、場所

 主にのサイトを参考にさせていただき翻訳しましたが、英訳は人によって様々です。例えば、3行目の最後の言葉、brahmanaspataは、「聖なるプラナヴァ(オーム)の体現者」、4行目最後のsida-sadanam は「我々のハートにいてください」のように訳されていたりします。(文:shiba)