2013年10月16日水曜日

瞑想の進歩の印 - アスッダ ⇒ ミスラ ⇒ スッダ・サットヴァ ⇒ グナティータへ

◇『シュリー・ラマナ・マハルシとの対話(Talks with Sri Ramana Maharshi)』 

Talk 73. 1935年9月27日

 技術者であるエーカンタ・ラオ氏が尋ねました。「師の恩寵はもちろん、師から何の励みになるものを得られないという落胆についてはどうなのでしょうか」。

マハルシ:
 それは無知でしかありません。落胆などをしているのは誰かについて探求が行わなければなりません。そのような思いの餌食となるのは、眠りの後に生じる自我という幻影です。深い眠りにおいて、その人は苦しんでいませんでした。今、目覚めている間、苦しんでいるのは誰ですか。眠りの状態は、正常な状態の近くにあります。彼に探させ、見出させましょう。

信奉者:
 しかし、励みになるものが不足しているため、やる気が起きません。

マハルシ:
 瞑想の中で、ある種の安らぎを見出しませんか。それが進歩の印です。安らぎは、継続した修練によって、より深く、より長くなります。それはまた目的へも通じます。『バガヴァッド・ギーター』第14章の最後の詩節(*1)は、グナティータ(グナを超越した者)について語っています。それが最終的な段階です。

 前の段階はアスッダ・サットヴァ、ミスラ・サットヴァ、スッダ・サットヴァ(*2)です。その中で、アスッダ・サットヴァは、(サットヴァが)ラジャスとタマスによって圧倒されている時です。ミスラ・サットヴァは、サットヴァが断続的に現れる状態です。スッダ・サットヴァは、(サットヴァが)ラジャスとタマスを圧倒しています。この連続した段階の後、グナを超えた境地が訪れます。

(*1)ギーターの14章25詩節で、グナティータについて語られています。シュリー・ラマナ編集の「バガヴァッド・ギーターの精髄」の第37詩節にも採用されています。
(*2)英文では、サットヴァが「being(存在、実在)」と言いかえられているのですが、色々考慮した結果、省いて訳しています。アスッダ・・・不純な、ミスラ・・・混ざった、スッダ・・・純粋な。

Talk 103.

マハルシ:
 この人々は何らかのジャパ、ディヤーナ、ヨーガ、または、似たような何かを求めます。彼らがこれまでに行っていることを言わなければ、彼らにそれ以上何を言えるでしょうか。また、ジャパや、そのパラ・スルティ(*)などがどうして(必要なのですか)。ジャパをするのは一体誰ですか。その結果をそれから得るのは誰ですか。彼らは自らに目を向けられないのですか。あるいはまた、たとえ他の人からジャパやディヤーナをするように指導されても、彼らはしばらくの間それをしますが、常に何らかの結果、つまり、ヴィジョンや夢や奇跡的な力に目を向けています。それらを見出さなければ、彼らは「私たちは進歩していない」、「タパスは効果的でない」と言います。ヴィジョンなどは、進歩の印ではありません。単なるタパスの実践が、その進歩でもあるのです。必要とされることは、着実さです。さらに、彼らはマントラや神に身を委ね、その恩寵を待たなければなりません。彼らはそのようにしません。たとえジャパを一回だけ口にしても、それ独自の良い結果があります-それに人が気づいていても、いなくても。

(*)パラ・スルティ・・・スルティ(聖典)を読むことで得るパラ(結果)。

Talk 427. (抜粋)

信奉者:
 瞑想の修練において、自らの実現に向かう大志を抱く者の進歩を指し示す、主観的な経験の特徴か何かといった印はあるのですか。

マハルシ:
 望ましくない思いから解放されている程度、そして、一つの思いへの集中の程度が、進歩を判断する尺度です。

Talk 565. (抜粋)

信奉者:
 どのように心を正しい方法で保つ(守る)べきですか。

マハルシ:
 修練によって。心に良い思いを与えなさい。心は良い方法で鍛えられねばなりません。

信奉者:
 しかし、心は安定していません。

マハルシ:
 バガヴァッド・ギーター曰く、sanaih sanair uparamed (徐々に、徐々に退き);atma-samstham manah krtva (心を自らに確立し)(*1)abhyasa-vairagyabhyam (修練と離欲により)(*2)

 修練が必要です。進歩はゆっくりです。

(*1)引用の最初の2つは、ギーターの6章25詩節からで、シュリー・ラマナ編集の「バガヴァッド・ギーターの精髄」の第27詩節にも採用されています。
(*2)この最後の引用にぴったりあてはまるのは、ヨーガ・スートラの1章12詩節「abhyasa-vairagyabhyam tan nirodhah(修練と離欲により、この止滅が(もたらされる)」ですが、ギーターの6章35詩節にも「・・・mano・・・abhyasena・・・vairagyena ca grhyate(心は修練と離欲により、制御されうる」とあります。

Talk 618. 1939年2月1日 (抜粋)

マハルシ:
 その思いがどこから起こったのか確かめなさい。それは心です。誰にとって心や知性が働くのか確かめなさい。自我にとってです。知性を自我に溶け込ませ、自我の源を探求しなさい。自我は消え去ります。「私は知っている」、「私は知らない」は、主体と対象を暗示します。それらは二元性のためです。自らは純粋で、絶対的であり、ただ一者のみです。一方が他方を知る二人の自分は存在しません。それでは、二元性とは何ですか。それは、ただ一者のみである自らではあり得ません。それは自らならざるものに違いありません。二元性は自我の特徴です。思いが生じる時、二元性が存在します。それを自我であると知り、その源を探求しなさい。

 思いの消失の程度が、自らの実現へのあなたの進歩の尺度です。しかし、自らの実現そのものは進歩を許しません。それは常に同じです。自らは常に実現されたままあります。妨げるものは思いです。自らが常に実現されているという理解を妨げるものの除去の程度によって、進歩は測られます。ですから、誰に思いが起こったのか探求することによって、思いは制御されなければなりません。そのようにして、あなたは思いが生じない思いの源へ行きます。

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