2013年9月29日日曜日

スワーミー・ヨーガーナンダとの対話 - 神と自らの実現、苦しみという道

◇『シュリー・ラマナ・マハルシとの対話(Talks with Sri Ramana Maharshi)』 p103~105

シュリー・ラマナの左手側、順に、スワーミー・ヨーガーナンダ、ポール・ブラントン氏です

Talk 106. 107. 1935年11月29日

 午前8時45分、スワーミー・ヨーガーナンダが他の四人と共に到着しました。彼は尊大なように見えますが、温和で、身なりが整っています。彼は肩までかかっている黒くふさふさした髪をしています。一行はアーシュラマムで昼食をとりました。

C.R.ライト氏(彼の秘書):
 どのようにして私は神を実現すればいいでしょうか。

マハルシ:
 神は未知の存在です。さらに、彼は外側にいます。しかしながら、自らは常にあなたと共にあり、それはあなたです。親しいものを無視して、どうして外側にあるものを求めるのですか。

C.R.ライト氏:
 あらためて、この自らとは何ですか。

マハルシ:
 自らは全ての人に知られていますが、明確に知られていません。あなたはいつも存在しています。その「在る」ものが自らです。神の全ての定義の中で、実際、聖書の言明である出エジプト記(第3章)の「私は在る、が私である」より適切に表されているものはありません。ブラフマイヴァーハム(*1)、アハム・ブラフマースミ(*2)、ソーハム(*3)のような他の言明もあります。しかし、どれも「ジェホウヴァ(*4)=私は在る」という名前のように直接的ではありません。絶対的存在とは在るものです-それは自らです。それは神です。自らが知られるなら、神は知られます。それどころか、神は自ら以外の何者でもありません。

C.R.ライト氏:
 なぜ善と悪が存在するのですか。

マハルシ:
 それらは相対的な言葉です。善と悪を知る主体が存在するに違いありません。その主体は自我です。自我の源を突き止めなさい。それは自らに帰着します。自我の源は神です。この神の定義は、おそらくより具体的であり、あなたにより良く理解されるでしょう。

C.R.ライト氏:
 本当にそうですね。どのようにして至福を得るべきですか。

マハルシ:
 至福は得られるべき何かではありません。逆に、あなたは常に至福なのです。この望みは、不完全であるという感覚から生まれます。この不完全であるという感覚は誰にありますか。探求しなさい。深い眠りの中、あなたは至福に満ちています。今、そうではありません。その至福とこの至福でない状態の間に何が入っていますか。それは自我です。その源を探し、あなたが至福であると見出しなさい。

 新たに得るべきものは何もありません。あなたは、逆に、あなたが至福と異っているとあなたに思わせる無知を取り除かなければなりません。この無知は誰にとってありますか。自我にとってです。自我の源を突き止めなさい。その時、自我は失われ、至福が後にすっかり残ります。それは永遠です。あなたは、今ここで、それなのです・・・・ それが一切の疑いを解決するためのマスター・キーです。疑いは心に生じます。心は自我から生まれます。自我は自らから生じます。自我の源を探しなさい。そうすれば、自らが明らかになります。それのみが残ります。全世界は広がった自らに過ぎません。それは自らと異なりません。

C.R.ライト氏:
 最良の生き方とは何ですか。

マハルシ:
 それは人がジニャーニか、アジニャーニかによって異なります。ジニャーニは何ものも自らと異なったり、自らから離れていると見ません。全ては自らの内にあります。世界が存在し、その中に体が存在し、体の中にあなたが住んでいると想像することは誤りです。真理が知られるなら、全世界とそれを超えてあるものは自らの内にのみ存在すると見出されるでしょう。視野は人の視力に応じて異なります。視力は目に由来します。目はどこかに位置しているに違いありません。あなたが粗大な目をもって見ているなら、他のものを粗大であると見ます。微細な目(つまり、心)でなら、他のものは微細に見えます。目が自らになるなら、自らは無限であるので、目は無限です。自らと異なるように見るべき他のものは何もありません。

 彼はマハルシに感謝の言葉を述べました。彼は感謝する最良の方法は常に自らのままあることであると言われました。

後で、ヨーギが尋ねました:
 どのようにして人々の精神的な向上はもたらされうるのですか。彼らに与えられるべき教えは何ですか。

マハルシ:
 教えは個々人の気質に応じて、そして、彼らの心の精神的成熟性に応じて異なります。みなそろっての教えはありえません。

ヨーギ:
 なぜ神はこの世の苦しみを許すのですか。彼はその全能の力でもって一遍にそれを取り除き、神の普遍的な実現を定めるべきではありませんか。

マハルシ:
 苦しみは神の実現のための道です。

ヨーギ:
 彼は別なように定めるべきではありませんか。

マハルシ:
 それが道なのです。

ヨーギ:
 ヨーガ、宗教などは苦しみへの解毒薬ですか。

マハルシ:
 それらはあなたが苦しみを克服するのを手助けします。

ヨーギ:
 なぜ苦しみがなければならないのですか。

マハルシ:
 誰が苦しむのですか。苦しみとは何ですか。

 返答なし!ついにヨーギは立ち上がり、彼の作品のためにシュリー・バガヴァーンの祝福を願い求め、彼があわただしく帰ることを詫びました。彼はとても真摯で、熱心で、感情的にさえ見えました。

(*1)ブラフマイヴァーハム・・・「ブラフマンは私である」
(*2)アハム・ブラフマースミ・・・「私はブラフマンである」
(*3)ソーハム・・・「彼は私である」
(*4)ジェホウヴァ・・・英語のJehovahの発音、エホバ、ヤハウェとも

2013年9月28日土曜日

安全なギリプラダクシナのための用心 - 女性の一人歩きはやめよう

 ギリプラダクシナは、シュリー・バガヴァーンがたいへん高く評価した修練です。しかし、プラダクシナを行う過程で出会うかもしれない危険も存在します。あまり触れたくはない話題ですが、私の翻訳を見て「神聖なプラダクシナに危険なんてあるわけがない」と思い、用心を欠き、無防備な状態で現地に行かれる人がいるかもしれないと心配になったのであえて記します。
 シュリー・バガヴァーンの教えや聖典、アルナーチャラに関する様々な話題についての議論・情報交換の場であるHP(「The Forum dedicated to Arunachala and Bhagavan Sri Ramana Maharshi」)があります。その中でグラハムという人が、プラダクシナをする際の用心について詳しく述べています。そこから抜粋しものを翻訳して、以下に記します。
 以下の翻訳で私が伝えたいことは、世界の他の場所と比べてアルナーチャラがとりわけ危険であるということではなく、残念ながらアルナーチャラにも危険が存在するので用心して下さいということだけです。(文:shiba)。

赤色・・・インナーパス、オレンジ色・・・アウターパス

〇「アルナーチャラでの強姦と強盗について」 2010年1月22日の投稿

グラハム:
 数日前、私はとても不穏なニュースを耳にしました。それは、先週、インナー・パスで若い魅力的な西洋人の少女が強姦され、殺害されたというものです。それについてのメディアの報道が何もないので、私はこの話の正確な所を確かめようとしているのですが、地元の村人はそれについて話しています。(←この情報の真偽は分かりません<shiba注>)

 どうぞ以下のことに注意を払って下さい。人々がティルヴァンナーマライに来る時、彼らはそれが気高く信心深い人々でいっぱいであると想像します。それほど真実から遠いことはありません(全くのウソです)。ここには多くの高潔な人々がいますが、たくさんの日和見主義者もまたいます。

 過去十年以上にわたり、強盗や西洋人女性の強姦が西洋人のコミュニティーで多数報告されています。それは山中やギリヴァラム(=ギリプラダクシナ、タミル語)の道の両方で起こり、孤立しているためインナー・パスで起こるのが最も一般的です。数年前、二人の男が山中での強盗と強姦で投獄されました。

 非常に一般的であり、まったく誤って信じられていることは、西洋人女性はふしだらで、どんな男とでもセックスを望むと言うことです。伝えられるところによれば、これは数人の女性の不品行な振る舞いと西洋人女性をゆがめて描く映画のために起こっています。

 西洋の文化はインドの文化と非常に異なります。西洋人女性は概して見知らぬ人に友好的で、微笑み、気軽に話し、互いに抱擁もします。不幸なことに、西洋式の親密なコミュニケーションはここではその心が下水道の中に住んでいる人々によりセックスへの大っぴらな誘いと受け取られます。インド人の大多数はそれに難色を示します。

 昨年、私の友人の一人がここに数週間の瞑想のためにやってきて、最初の数日以内にセックスを要求する二人のインド人男性が近寄って来ました。頼むのでなく、要求し、一人は彼女の宿泊場所までついてきて、もう一人はアーシュラムで彼女に近づきました。これによって彼女は恐怖し、非常にうろたえました。私はこのように常に悩まされている多くの他の女性のことを耳にしています。
 インド人女性は一般的に知り合いの男性としか話をしませんし、それも遠くからだけです。彼女達は決して触れません。

 私はここでアーシュラムかどこかで告示された警告を促す助言を繰り返します。どんなことがあっても女性は一人で山に登ったり、ギリヴァラムを行うべきではありません。私はさらなる警告を西洋人女性のために付け加えます。どんなことがあっても長い間の知り合いでない男性と共に一人でどこかに行くべきではありません。

 瞑想の姿勢で座り、宗教的事柄について話すからという理由で、彼が高潔であると思わないように。近づいてくるなら注意深く観察して、その人が他の女性にも近づいていないか確かめなさい。彼がそうするなら、彼を避けなさい。彼の意図はセックスか、金か、その両方です。

 オレンジ色(の服)を着ているからという理由で、彼がサードゥ(聖者)であると思わないように。その服を着ている彼らの99%は物乞いか、それ以下です。4年前、その黄土色の服を着た男たちの内の三人が12歳のとてもかわいらしいが、知的障害のある少女をアーシュラム近くの大学構内で強姦しました。警察に通報されているなら、彼らは限られたやり方で最善を尽くそうとするでしょう

 しかしながら、予防がよりよい道です・・・あなたはインド人女性が一人で山を登ったり、ギリヴァラムを行ったりするのをめったに見ません。彼女達は生まれて以来うるさく教え込まれてきた警告からこの態度をとっており、さびしく思うからではありません。同じようになさい!

ナーガラージ:
 特にアルナーチャラで、山そのもので、このような最新の情報を耳にするのは非常に悲しいことです。

 なぜ?と私を困惑させます。少なくともここじゃなくてもいいはずです!少なくとも地球上でこの場所をそっとしておいて下さい!

 女性が一人で山に、インナー・パス、ギリヴァラムに乗り出さない方がいいと助言されていることは理解しています。私も信頼できる地元の人々から聞いたのですが、彼らは、人々を叩きのめそうと待ち構え、持っているお金でもなんでも奪いとるならず者がたくさんいるので、男性である私さえにも一人で乗り出さないように助言しました。

 しかし、私たち(男性)がインナー・パスに一人で乗り出すことはまだできますか。それは賢明なことですか。私はいつもインナー・パスがとてものどかに感じます。心地よい鳥のさえずり、風が木の葉にこすれる音、聖なる山の間近いることはとても魅力的で、神聖であり、あたかもラマナ・マハルシ自身の面前にいるかのように、私が自らと親しくいることを感じさせます。

グラハム:
 親愛なるナーガラージへ。ええ、そのようなことが起こるのは恐ろしいことですが、実際に起こりますし、上に私が報告したことよりもいっそうひどいことが起こっています。

 警告にもかかわらず、人々は依然として履き違えた信仰と信頼からとても愚かなことをします。

 警察にはそのようなことを適切に捜査するために訓練されておらず、またその能力もなく、犯罪者は邪魔されることなく遠慮なく犯罪を犯しているようでもあります。

 最後に誰かが止めるまで、これらの変質者が蛮行を楽しみ始め、よりいっそう犯罪を犯したいと思い、後になるにつれより悪くなるという実際の危険があります。

 本当は私はこのような記事を私のサイトにのせたくないのですが、ここに聖なる目的のためにやってきた罪のない人々を守ろうとすることは我々の義務です。

アキラ:
 バガヴァーンがアルナーチャラを大変に褒めていることを思えば、西洋の訪問客がティルヴァンナーマライを聖なる場所であり、悪いことは何も起こるはずがない信じるのは自然なことです。

 山の近くに住む誰かがその恩寵により利益を得たということを聞き、人はティルヴァンナーマライのすべての人が善人だろうと想像するかもしれません。そこを訪れ、ある程度の期間住んだ後にのみ、ティルヴァンナーマライが期待したような夢の国でないことに気づきます。

 より深い意味において、悪い出来事もまたその意味を持つに違いありません。それはジーヴァの浄化の過程かもしれません。たとえ、そのことが人を「山の恩寵に何が起こったのか」と戸惑わせるにしても。
サーダカ:
  グラハムに賛成ですが、文章の中に(おそらく意図せずに)西洋人の女性だけが危険にいると言うことを暗示する偏向があると思います。私は数年前にインド人の女性が西洋人の男性に山の上までついてこられたという出来事を知るようになりました。彼は明らかに良い意図を持っていませんでした。終には、その女性はヴィルーパークシャ洞窟からアーシュラムに向かって駆けだしました。彼女が洞窟の中に二人のほかに誰もいないとわかったからでした。

 皆が非常に注意深くいる必要があります。その場所には世界中からやってくる変質者がいるようです。

アダム:
 ラマナ自身が、ティルヴァンナーマライに住んでいる間に、襲われたということを忘れないようにしましょう。ラマナ・マハルシが強盗に襲われていた時、彼の信奉者たちは強盗を攻撃したい思いましたが、彼は、「いえ、いえ、いけません。我々のダルマはこのようであり、彼らのダルマはそのようです。我々は彼らのダルマに干渉すべきでありません。ですから、彼らが欲しいものをあげなさい」と言いました。

グラハム:
 ここでの行為の中には神聖な正義あります。それは確かです。しかし、それは人々が後先考えないで行動すべきであるという意味ではありません。

 バガヴァーン自身が、正当な理由から女性が一人で山の周りを巡るべきでないと強調しました。これはダルマよりも、ヴァーサナーと関連付けられるべきです。人々がここに来る時、良いものも悪いものも同様に、すべてのものが表面に上がってきます。人々はこれらの問題に耽溺するのでなく、取り組まねばなりません。

アダム:
 用心は、恐れから枝分かれしたのではありませんか。運命はそれが定められた方法を演じ切ります。バガヴァーンが足を棒で打たれた時、警官に襲撃者の身元を明かすことを断わり、彼の信奉者は理由を尋ねました。「もしあなたたちがどうして彼らが私を棒で打ったのか知りたいなら、あなたたちは過去世で私が誰を棒で打ったのか見つけださねばなりません」。

 この引用は記憶からなので、言葉遣いが正確でないならお許しください。しかしながら、用心しているのは誰ですか。恐れているのは誰ですか。襲われているのは一体誰ですか。襲っていますか。すべての道は遡り、「私は誰か」に通じます。

スブラマニアン.R:
 すべてのものはプラーラブダ(神聖な計画)です。しかし、同時に、我々はまた安全のために用心して行動すべきです。かつて、シュリー・ラーマクリシュナに、はぐれ象によって傷を負った人が話を持ちかけました。彼はシュリー・ラーマクリシュナに、「主よ!私は象がナーラーヤナであると考え続けていました。しかし、象は私を傷つけました」と言いました。シュリー・ラーマクリシュナは、『「逃げろ、逃げろ、はぐれ象が来るぞ!」と言う、その象の訓練士の警告を聞きませんでしたか。』と言いました。
オーム・フリダヤム:
 ええ、私はラマナ自身がそこで強盗にあい、盗賊により殴打されたということを覚えておくのが最良だと思います。

 誰が現れても、マーヤーの世界はいまだそれが行うことを行います・・・キリストは磔にされ、ブッダは腐った米を食べ、ラマナは痛々しい癌でなくなるなど、など。我々はどうしてこういう恐ろしいことが起こるのか分かりません。(文法がわかりにくため後略します<shiba注>) 

バイラヴァ(「恐ろしい」の意)、左手にブラフマーの首をもっている、犬が乗りもの ジョーティ: 
 私はアルナーチャラが神であるなら、どうして彼は彼の周りを歩く女性にこのようなことが起こるのを許すのか困惑します。

 ハンセン病を患っているある男性がアルナーチャラの周りを歩いており、その時突然に別の男が現れ、彼をニームの木の枝で打ちつけました。(次の文のdemangingが英語で見当たらなかったので訳していません<shiba注>)ハンセン病の人が逃げ出した時、病気がなくなったことに突然気づきました。

 ですから、どうして、アルナーチャラの道で男が女性を強姦しようと試みる時、シヴァがバイラヴァとしての姿でやってきて、彼らを怖がらせて違うように振る舞わせないのですか。

スブラマニアン.R:
 親愛なるジョーティへ。答えのない質問がいくつか存在します。それらの出来事は、集団で行くことなしに、もしくは、男性の付添なしにギリヴァラム-特に森のルート-を試みないようにというアーシュラマムの警告にも関わらずそこに存在します。さて、誰が非難されるべきですか。あなたはアルナーチャラをすべてのことについて非難できません。あなたが美味しいアイスクリームを味わっている時、アルナーチャラのことを思い、アイスクリームをアルナーチャラに感謝しますか。

ジョーティ:
 しかし、アルナーチャラはサーダナを一人で修練する人々の避難所でもあります。多くの聖者がアルナーチャラの洞窟に住んだと言われています。それでは、一人で修練をしたいと思う女性の探求者はどうなるのですか。

スブラマニアン.R:
 親愛なるジョーティへ。私が読んだシュリー・バガヴァーンの信奉者の話によると、一人の女性だけ(スザンヌさんだと思います)が山に行き、ヴィルーパークシャ洞窟で一晩過ごしました。彼女の瞑想のエネルギーはとても強烈であったため、彼女は夜にサーマヴェーダの朗唱を耳にしました。そのような瞑想のエネルギーのために、誰も洞窟の近くにさえ行けませんでした。それでも用心のために、バガヴァーンはS.S.コーエンを送り、彼女は早朝の2時30分ごろにアーシュラマムに連れ戻されました。

〇「用心に関する最新の情報について教えてください」 2013年9月4日の投稿
http://www.arunachala-ramana.org/forum/index.php?topic=7992.msg53918#msg53918

Ksksat20:
 親愛なるグラハムとその他のみなさんへ。山を登ったり、インナー・パスを行く間の男女の信奉者の両方がなすべき最新の用心一式について教えてください。

 男性にとってさえも、山の道にいるいわゆる物乞いからの危険はありますか。彼らはズボンをはいた若い年齢の人で、アルム(施し?)を求めるようです。彼らが周りを見渡して、他に誰もいないなら、彼らは脅し始めるでしょうか。

 突然ほえる迷い犬や脅してくる猿に対処するために用心するべきことは何ですか。

 私はある時、若い男がヴィルーパークシャ洞窟を登っている外国人の集団を見るのを見ました。私は彼らの数フィート後ろに離れて、登っていました。この男は私がタミル語を知らないと思い、余り上品でないことをタミル語で言いました。私は何気なく彼の方を見て、再び歩き始めました。これは2012年12月25日のクリスマスに起こりました。ありがたいことに、多人数の外国人とインド人がいました。そうでなければ、私は男性でも山の周りを歩き回るのは安全であるとは思いません。

グラハム:
 大多数の男性にとって、日中に一人で山の周りを歩き、洞窟を訪れることは、特に道にはいつも交通や他の人がいるので、概して安全です。しかしながら、今は強盗や男性によるハラスメントの報告があります。

 女性一人とっては、特に、隙だらけに見える外国の女性が同じことをするのは決して安全ではありません。その人々は威嚇やセクシャル・ハラスメントや強盗のかっこうの的であると現地人にとってみなされているからです。

 今、インナー・パスは数年の間、閉じられていますが、人々がいまだに使っているフェンスに壊れているところがあります。

 猿が怖いなら、棒か、彼らの方になげる小石を数個持って行きなさい。犬についても同じです。歯を見せて猿に微笑まないように。猿の世界ではそれは攻撃のサインであり、攻撃的な反応を引き起こすからです。

 強姦、強盗、暴行、殺人はティルヴァンナーマライにとって新しいことではありません。バガヴァーンの時代に、彼が座っている場所からほんの50フィートはなれたアーシュラム内で女性の信奉者が重大な性的暴行を被りました。このことにより、女性には暗くなる前にアーシュラムを離れることが求められるようになり、山をひとりで回らないように言われました。

 もしバガヴァーンがこの助言をしたほうがいいと思ったならば、この状況は避けることができるのは明らかであり、非難されるべきはカルマではなく、危険な行いです。

 何であれ、全員が用心すべきです。特に、ここで急増する何百の偽サードゥに関しては。彼らの大多数は勘違いした信奉者達によってオレンジ色の服を与えられたはみ出し者と物乞いです。

 簡単な適例-数年前、大学構内のむかいで働く地元の小売店主から聞いたのですが、白昼に三人の「サードゥ」が知的障害のある13歳の子供(上の投稿では12歳となっていますが、同じ人でしょう<shiba注>)を大学構内へと連れて行き、強姦しました。地元の人はこれを見て、彼女を助けるために何もせず、警察すら呼びませんでした。彼らは彼らが苦情を申し立てるなら、金銭を要求されるようになるだけだからだと言いました。

 私はなぜ彼らが自分自身で彼女を助けに向かわなかったのか尋ねましたが、彼らは「私たちに何ができるのか?」と言い、肩をすくめました。個人的には、特に子供に関しては、警察はこれに対して行動しただろうと確信していますが、地元の認識は異なります。もしくは、誰も本当は気に掛けないのかもしれません。こういうことがここで起こりうるのは人生の悲しい事実です。
 この後、ナーガラージという人が『ラーマクリシュナの福音』から「象である神の話」を引用しています。その部分だけでは分かりづらいので、少し前の部分から引用して以下に記します。(文:shiba)。
ラーマクリシュナ:
 それについてどう思いますか。世俗的な人々は宗教的な心をもつ人についてあらゆる類のことを言います。しかし、いいですか!象が道に沿って移動する時、野良犬や他の小動物がいくらでもその後ろで吠え、鳴き叫ぶかもしれません。しかし、象は振り返ってそれらを見ようともしません。もし人々があなたのことを悪く言うなら、彼らをどう思いますか。

ナレンドラ:
 犬が私に向かって吠えているのだと思いましょう。

ラーマクリシュナ:(微笑んで)
 いえ、いえ!我が子よ、そんなに遠くに行ってはいけません(笑い)!神は全ての存在に住んでいます。しかし、あなたは善人とだけ親しくして良いのです。あなたは悪い心を持った人からはなれるべきです。神は虎の中にさえいます。しかし、そのためにあなたは虎を抱擁できません(笑い)。あなたは、「どうして虎から逃げるのですか。それもまた神の顕現ではないのですか」と言うかもしれません。その答えは、「あなたに逃げるように言う人々もまた神の顕現です。ですから、どうして彼らの言うことに耳を傾けるべきではないのですか」です。

 一つ話をしましょう。森の中に多くの弟子を持つ聖者が住んでいました。ある日、彼は彼らに神をすべての存在の中に見て、これを知りながら、それら全ての前に低くお辞儀するように教えました。一人の弟子が供犠の火のための木を集めるに森へ行きました。突然、彼は、「道を開けろ!怒り狂った象がやってくるぞ!」 と叫ぶ声を聞きました。聖者のその弟子以外の全ての人は一目散に逃げ出しました。彼はその象もまた別の形をした神であると論理的に考えました。それなら、どうして彼はそれから逃げださねばならないのですか。彼はじっと立ち、その動物の前で礼をして、賛美し始めました。象使いは「逃げろ!逃げろ!」と叫んでいました。しかし、弟子は動きませんでした。その動物は彼を鼻でつかみ、彼をわきに投げ、道を進んでゆきました。怪我をして、弟子は意識を失い地面に倒れました。起こったことを聞いて、彼の師と兄弟弟子たちが彼のもとに来て、彼を庵に運びました。何かの薬の助けで、彼はすぐに意識を取り戻しました。誰かが彼に「あなたは象がやって来ているのを知っていました。どうしてその場所を離れなかったのですか」と尋ねました。「しかし、我々の師が、人間はもちろん動物についても、神自身がこれら全ての形をとっているのだと我々に言いました。ですから、象である神がやって来ているだけだと思い、私は逃げませんでした」と彼は言いました。これについて、師は、「そうです、我が子よ。象である神がやって来ていたのは本当です。しかし、象使いである神があなたがそこにいることを禁じました。全ては神の顕現であるのに、どうしてあなたは象使いの言葉を信用しなかったのですか?あなたは象使いである神の言葉に気をつけるべきでした(笑い)」と言いました。

2013年9月27日金曜日

ギリプラダクシナの意義 - シュリー・ラマナ・マハルシによる解説

◇『シュリー・ラマナーシュラマムからの手紙(Letters from Sri Ramanasramam)』

 1949年6月26日

(251)ヤートラー(*1)とプラダクシナの重要性

 いくぶん前にバガヴァーンは体調がすぐれないことが続いていました。そのために私は心苦しく思い、何をすべきか分からないので、私は山の周りをいつも通りの火曜日だけでなく、金曜日も巡り、バガヴァーンの健康をアルナーチャレーシュワラへ祈ることに決めました。この決心をもって、私は木曜日の午後、私が明日の朝に山の周りを巡ろうとしていることをバガヴァーンに告げに行きました。

 「明日?明日は火曜日ですか?」とバガヴァーンは尋ねました。

 「いいえ。金曜日です」と私は言いました。彼は私の目的を理解しているかのように、「うむ、うむ」と言いました。

 最近やってきて、しばらく滞在していた信奉者の一人がバガヴァーンに、「ここでは様々な人が山の周りを頻繁に巡ります。その偉大さとは何ですか」と尋ねました。

アルナーチャラ-聖なる山。内道(インナーパス)を歩く

バガヴァーンは以下の話を彼に語りました:
 このギリプラダクシナの偉大さは、『アルナーチャラ・プラーナム(*2)に詳細に描かれています。主ナンディケーシャはサダーシヴァに似たような質問をして、サダーシヴァは以下のように語りました。「この山の周りを巡ることは良いことです。『プラダクシナ』という言葉は独特な意味を持ちます。『プラ』はあらゆる類の罪の除去を意味します。「ダ」は望みを叶えることを意味します。『クシ』は来世の誕生からの自由を意味します。『ナ』はジニャーナを通じての解放を意味します。プラダクシナとして、あなたが一歩進むなら、それはこの世界の幸福を与え、2歩歩くなら、それは天界の幸福を与え、3歩歩くなら、それは達成されうるサティヤローカ(*3)の至福を与えます。人はモウナ(沈黙)か、ディヤーナ(瞑想)か、ジャパ(主の名前の復唱)か、サンキールタナ(バジャン)をして周りを巡るべきであり、それによって神を常に思うべきです。人は妊娠9か月目の女性のようにゆっくり歩むべきです」。ここでタパスを行っていたアンバは、クリティカイ星(*4)の日の夜の4つの区分の最初に山の周りを巡ったようです。聖なるかがり火のダルシャンの後、彼女は最終的に主シヴァに吸収されました。聖なるかがり火の祝祭の後の3日目に、シヴァ自身が彼の従者(信奉者)みなを連れてプラダクシナに出かけたと述べられています。実のところ、このプラダクシナにより人が得る楽しみや幸福を言い表わすのは困難なことです。体は疲れ、感覚器官はその力を失い、体の全ての活動は内に吸収されます。従って、自分自身を忘れ、瞑想の状態に入ることが可能なのです。人が歩き続けるにつれ、体はアーサナの状態にあるように自動的に調和がとれたものになります。そのため、体の健康状態が改善されます。それに加え、山には数種類の薬草があります。それらの香草の上を通った空気は肺に良いのです。車両の通行がないので、車やバスのために道をあける心配はありません。人は思いのまま気楽に歩けます。

 私たちがプラダクシナに出かけていた当時、それはとてもわくわくするものでした。したいと思った時にいつでも、出発しました。特に祝祭の日であったなら、遅くなったり、疲れていると感じた時はいつでも休息し、自分たちで料理して食べたものでした。特定の場所に止まらねばならないという決まりはなかったので、何の心配事もありませんでした。

 列車の旅が始まる前は、巡礼は全て徒歩で行われました。彼らは特定の時間に特定の場所に到着しようという考えや、特定の場所に特定の期間とまらねばならないという考えをもって、決して出発しませんでした。カーシー(ベナレス)へ行く人々とカティ(火葬場)へ行く人々は等しいという諺があります。帰って来るという望みを持たない人々のみが、カーシーへと出発したものでした。全財産を持って、彼らはディヤーナに浸って歩み、つかれたと感じた時はいつでも止まり、しかるべき時に再び出発しました。巡礼者が町の中心部に入る必要がないように、町の外れにはダルマシャーラー(宿泊所)がありました。ダルマシャーラーがない所には、彼らには避難場所として利用できた寺院、洞窟、木々、積み重なった石がありました。巡礼者たちは神への思い以外の思いを持たずに歩くことにより彼らのアートマに吸収されました。

 ギリプラダクシナもまた同じことです。体は軽くなり、ひとりでに歩きます。歩いているという感覚はなくなります。あなたがプラダクシナに行くなら、あなたが座っている間に入ることができないディヤーナへと自動的に入ります。その場所と雰囲気はそのようなのです。人が歩くことができなくても、一度山の周りを巡るなら、彼は何度も何度も行きたいと思うようになります。あなたが行けばいくほど、より一層それへの熱意が起こります。それは決して衰えません。人が一度プラダクシナの幸福になじむなら、彼はそれを決して放棄できません。ナーガンマを見なさい!彼女は週に一度だけ、火曜日ごとに周りを巡っていました。今、彼女は金曜日にも周りを巡っています。彼女は夜に何の恐れもなく一人だけで周りを巡ります。

 その信奉者は、「カンナッパという名前のサードゥが毎日周りを巡っているようです」と言いました。「ええ、ええ。彼はとても年をとった男性です。彼は目が見えません。毎日、夜の8時に彼は始めます。荷馬車の通行があまりないからです。彼は法螺貝を持ち、行くにしたがい鳴らします。その音を聞いて、人々はみな、彼に道を開けます。目が見えない人々のための道具がいくつかあります」とバガヴァーンは言いました。

 「夜にバガヴァーンが信奉者達と山の周りを巡った時、シッダの集団をよく見たと言うのは事実ですか」と別の人が尋ねました。「ええ。そのすべては伝記に書かれています」。そう言って、バガヴァーンは再び沈黙に戻りました。

(shiba注)上の文章のサダーシヴァが語った内容に関して、英文中に閉じかっこが見当たらなく、終わりがどこまでなのかよく分からなかったのですが、一応、「人は妊娠9か月目の女性のようにゆっくり歩むべきです」までとしています。

(*1)ヤートラー・・・「旅、行進」を意味するサンスクリット語。ヒンドゥー教では、一般的に聖地への巡礼を意味する。
(*2)アルナーチャラ・プラーナム・・・アルナーチャラに関する主要な神話を記録した16世紀のタミル語の作品。特定の聖地の宗教的な話をまとめたプラーナである「スタラ・プラーナ」の1つであり、Saiva Ellappa Navalarの作(ディヴィッド・ゴッドマン氏のブログから情報)。
(*3)サティヤローカ・・・メル山にあるブラフマー神がすむ場所。ブラフマローカ、ブラフマプラと同じ。
(*4)クリティカイ星・・・Krithikai star、プレアデス星団、おそらくタミル語かテルグ語です。サンスクリット語では「クルッティカー」、タミル語では「カールティカイ」とも呼ぶようです。

2013年9月21日土曜日

シュリー・ラマナ・マハルシと共に歩むギリプラダクシナ

◇『シュリー・ラマナの戯れ(Sri Ramana Lila)』  

29.ギリプラダクシナ


何であれ偉大なる者がなすことは、他の者たちによって見習われる
バガヴァッド・ギーター


 1908年、セシャドリ・スワーミーは、当時、マンゴーの木の洞窟に滞在していたマハルシを訪問しました。彼はマハルシの心を読もうという意図でマハルシを近くで観察しながら、いくらか時を過ごしました。そのようにできなかったので、彼は憤慨して両手を放りあげ、マハルシが何を考えているのか分からないと言いました。マハルシは返答しませんでした。セシャドリは、「人がアルナーチャレーシュワラ(*1)を崇拝するなら、それで十分です。彼が解放を授けます」と続けました。

マハルシ:
 崇拝するのはいったい誰ですか、崇拝されるのは誰ですか。

 セシャドリは大声で笑い出し、「それははっきりしていません。それが問題のすべてです」と言いました。そこで直ちに、バガヴァーンはアドヴァイタの体験について長い講話をし、セシャドリはとても注意深く聞いていました。最後に彼は、「私は何も言うことができません。このすべては私にとって分かり難いものです。それは全くの空白です。私自身に関しては、いつも崇拝する者でいることに満足しています」と言いました。その後、彼は山の頂上に15回平伏し、その場を離れました。セシャダリは山の頂上をアルナーチャレーシュワラ、全能者(the Almighty、神)の象徴として崇拝することを好んだようでした。

 ほとんどの人は似たような意見でした。彼らにとって、山はアルナーチャレーシュワラの形、光の柱でした。「アルナーチャラ」というまさにその名前の想起、もしくは、山のダルシャンはすべての愛着を消し去るものでした。

 光の柱は、山がジョーティルリンガ(*2)を象徴していることを繰り返し示すために、アルナーチャレーシュワラ寺院でクリッティカイの日(*3)ごとに立ちあげられます。この柱は山の頂上に光が灯されるまさにその瞬間に立ちあげられます。後者(山の光)は樟脳、ギーやその他のものがくべられ、空まで立ち上り、数日間そのようにあります。それは様々な遠くの場所からも見えます。広がる光線はその名前、アルナーチャラの正当性を示します。その光の柱は、ハートの洞窟の内なる光の象徴でもあります。『スタラ・プラーナ』(*4)はアルナーチャラを世界の中心であり、南部のカーシー(*5)でもあると描いています。

 山のプラダクシナ(周回)はその土地(the land、国?世界?)の全ての巡礼地を訪れることと同等です。それはまたパラメーシュワラ(*6)自身のプラダクシナも象徴しています。伝説によれば、ヴィナーヤカ(*7)はクマーラスワーミー(*8)をイーシュワラを周回するという単純な方法によって倒しました。ギリプラダクシナの力とはそのようなのです。信奉者にとってのその重要性を強調し過ぎることはできません。マハルシもまた彼自身の利益のためでなく、彼の信奉者や弟子に模範を示す目的でそれを行いました。

 山の周りには整備された道があり、その道沿いに神殿、貯水池、マンタパ(*9)、サマーディがたくさんあります。また、道に沿って巨木が並び、通行人に日陰を提供しています。道沿いには休憩場所もあります。

 みながプラダクシナを自分たちのやり方で行います。歩くだけの人や、道沿いに転がって進む人(*10)もいれば、歩むごとに止まり、アートマ・プラダクシナ(*11)をそれぞれ止まる時に行ったり、もしくは、山に平伏する人もいます。一般的に、プラダクシナは3時間の内に終えられます。

 アルナーチャラについて以来ずっと、1926年ごろまで、マハルシは少なくとも週に一度か、もっと頻繁に、定期的にプラダクシナを行ったものでした。彼が朝に出かけたなら、たいていアーシュラムに夕暮れに戻りました。同様に、夕方に出発したなら、夜明けに戻りました。時には、ギリプラダクシナは2日か3日を要したかもしれません。マハルシは聖典に定められたようにとてもゆっくりと歩き、ほとんどの時間、サマーディの状態にいて、その体は機械的に動きました。マハルシはまた、1マイルごとに少し休憩しました。マンタパでは信奉者たちが彼を留め、食べ物やその他の軽食を差し上げました。信奉者らは互いに競ってバガヴァーンをもてなそうとし、バガヴァーンは彼らみなの期待に応えました。

 バガヴァーンに付き添った人々の振る舞いは人により様々でした。無言の人もいれば、バジャンの集団のように楽器を演奏したり、恍惚とした様子で歌を歌ったりする人もいました。たいてい信奉者達は音楽に詳しかったので、彼らはバクティにより供給される増した勢いで、見事に歌い、聞く者に楽しみをもたらしました。

 バガヴァーンに付き添ったガジャーナナは、神聖な『バーガヴァタ』からの詩節を歌いながら、道すがらずっと踊りました。彼は主ナタラージャがバガヴァーンに付き添っているような印象を与えました。バガヴァーンの108の名前を唱えたり、マハルシや他の人たちにより作られた賛歌を歌う信奉者もいました。信奉者達は主ご自身が彼らのただ中にいると感じ、何の屈託もなく、自分自身を表現しました。

 プラダクシナの間、信奉者らは献身の大海へと沈み、ジニャーナという涼やかな風により運び去られました。マハルシの沈黙はとても深く、人は彼がいったい話すことができるのだろうかといぶかりました。しかし、彼が話した時、彼の言葉は知恵の澄んだ水晶でした。

 バガヴァーンは数回のプラダクシナの間にいくつかの賛歌を作り、そのような時、彼は内面にあるアーカーシャ(虚空)にいました。そこには心はなく、言葉はなく、見る者はなく、見られるものはなく、崇拝する者はなく、崇拝されるものはなく、唯一のアートマが存在するだけでした。

(*1)アルナーチャレーシュワラ・・・シヴァ神の別名。「アルナーチャラ+イーシュワラ(支配者、神)」。
(*2)ジョーティルリンガ・・・ジョーティは「輝き、光」、リンガは「印、現れ」。
(*3)クリッティカイの日・・・Krittikai day、 おそらく、カールティカイ・ディーパムの日のことだと思います。
(*4)スタラ・プラーナ・・・タミル地方のシヴァ神の寺院・神殿の起源や伝統をしるした聖典の集成。
(*5)カーシー・・・インド北部、ウッタル・プラデーシュ州のガンジス川沿いにある都市。ヴァーラーナシー、べナーレス。
(*6)パラメーシュワラ・・・「至高なる神」。
(*7)ヴィナーヤカ・・・シヴァ神の長男ガネーシャの別名。
(*8)クマーラスワーミ・・・シヴァ神の二男ムルガン(スカンダ)の別名。
(*9)マンタパ・・・「マンダパ」とも。「寺院へつづく玄関のような建物。宗教的音楽や舞踊のために使われる。巨大な寺院は多数のマンタパを持ち、それぞれのマンタパは異なる役割を持ち、その役割に応じた名前がつけられている」(wiki)。
(*10)転がって進む・・・「シャヤナ・プラダクシナ」という寝ころんで、転がって進む方法があるようです。
(*11)アートマ・プラダクシナ・・・「自分自身の周りを回る」。その場でぐるぐる回転するということでしょうか。

2013年9月15日日曜日

シュリー・ガネーシャへ捧げる二詩節、ガナパティ・プラールタナー

◇『シュリー・ラマナ・マハルシの全集(Collected Works of Sri Ramana Maharshi)』

シュリー・ガネーシャへ


 1912年のある日、陶工がヴィルーパークシャ洞窟にシュリー・ガネーシャの小さな聖像を持ってきました。それは彼が作ったもので、シュリー・バガヴァーンに贈られました。ある弟子が彼とシュリー・バガヴァーンの両者がこの機会を祝って詩節を書いてはどうかと提案しました。そして、これがシュリー・バガヴァーンの書いたものです。

あなたを子供としてもうけた彼を
あなたは物乞いにした。あなた自身子供として
その後、ただあなた自身の巨大なお腹を養うために、あらゆる所に住んだ
私もまた子供である。おお、その壁龕(へきがん)にいる子供の神よ!
あなたの後に生まれた者に出会っているのに、あなたの心は石でできているのか
どうぞ私を見て下さい!

Him who begot you as a child you made 
Into a beggar; as a child yourself 
You then lived everywhere just to support 
Your own huge belly; I too am a child. 
Oh Child God in that niche! encountering one 
Born after you, is your heart made of stone? 
I pray you look at me!

 とても太っているように描かれるガネーシャは、シヴァの二人の息子の一人で、放浪する乞食者となりました。バガヴァーンは彼自身をガネーシャの弟・スブラマニアン(*)と同一視しています。
(この文は、『The Poems of Sri Ramana Maharshi』から)

(*)スブラマニアン・・・ガネーシャの弟であるスカンダの別名。カルナータカ州、アーンドラ・プラデーシュ州ではこの名で呼ばれているようです。

ガネーシャ


 これは主ガネーシャ、一切の障害を取り除く者への祈りです。ガネーシャはヴィーヤサの書記を務め、マハーバーラタを書き記したという話がプラーナで言及されています。ガネーシャの恩寵が、ヴェーダーンタ哲学の保護を求めて祈られてます。
おお、ヴィナーヤカ(*)巻物(メール山の斜面)に偉大なる賢者(ヴィヤーサ)の言葉を記し、勝利に彩られるアルナーチャラで長を務める者よ。繰り返される誕生の原因である病をどうか取り除き、自らなる蜜であふれる偉大な高貴なる信仰を恵み深く守りたまえ。
O Vinayaka, who wrote on a scroll(i.e., the slopes of Mount Meru) the words of Great Sage(i.e., Vyasa) and who presides at the victorious Arunachala, do remove the disease that is the cause of repeated births, and protect graciously the great Noble Faith which brims with the honesy of the Self.
(*)ヴィナーヤカ・・・ガネーシャの別名。ガネーシャの様々な別名に関する(おそらくサイ・ババによる)詳しい解説が、このサイトにあります。

***

ガナパティ・プラールタナー & ガナパータ

 下の動画は、Uma Mohanさんのアルバム『Divine Chants Of Ganesh』からの「Ganapati Prarthana ; Ghanapaath」です。とても印象的な曲なので、ガネーシャに関連してここで紹介しています。
 「ガナパータ」は「鐘形式」の朗唱であり、言葉が鐘のようにくり返し前後にいったりきたりして歌われるためそのように名付けられています。ヴェーダの朗唱様式では最も難しい手法のようです。詩節は『リグ・ヴェーダ』、2巻、23・1からです。(文:shiba)


om gananam tva ganapatim havamahe
kavim kavinam-upama-sravas-tamam
Jyestha-rajam brahmanam brahmanas-pata
a nah srnvan-nutibhih sida-sadanam
Om maha-ganapataye-namah

1.オーム、神々の主であるあなたへ祈りを捧げます
2.賢者の中の賢者であり、最高の栄誉を持つ者
3.最も偉大な王であり、神聖な知を持つヴェーダの主
4.我々の称賛に耳を傾け、家で座について下さい
5.オーム、偉大なる神々の主に礼拝いたします

(1行目)  gana・・・「群衆、軍隊、族」、神々; tva・・・あなた ; ganapati・・・ganaの主 ; havamahe・・・祈りを捧げます
(2行目)  kavi・・・詩人、賢者、預言者、太陽 ; upama・・・最高の ; sravas・・・栄光、名誉 ; tama・・・最高の度合いの
(3行目)   jyestha・・・最も偉大な ; raja・・・王 ; brahmana・・・神聖な知を持つ者 ; brahmanaspati・・・ヴェーダの主
(4行目)    nah・・・我々(に、の) ; srn・・・聞くこと ; nuti・・・称賛、崇拝 ; sad・・・座ること ; sadana・・・住まい、場所

 主にのサイトを参考にさせていただき翻訳しましたが、英訳は人によって様々です。例えば、3行目の最後の言葉、brahmanaspataは、「聖なるプラナヴァ(オーム)の体現者」、4行目最後のsida-sadanam は「我々のハートにいてください」のように訳されていたりします。(文:shiba)


2013年9月8日日曜日

『バガヴァッド・ギーター』からの42詩節 - バガヴァーン・ラマナ選出

◇「山の道(Mountain path )」、2003年 ディーパム、p28~35

 以下の英文は、チャドウィック少佐がバガヴァーンの訂正を経て、翻訳したものです。また、日本語訳にあたり、「Mountain Path(1996年 アーラーダナ)」の中のF.T.Brook氏の英訳と以下のURL(*0)にある英訳や日本語訳を参考にさせていただいています。(文:shiba)

シュリー・ラマナ・マハルシによる

バガヴァッド・ギーター選集

 かつてバガヴァーンは、『バガヴァッド・ギーター』の偉大な功績について訪問中のパンディット(*1)と話をしていました。その時、ある信奉者が700詩節全てを覚えておくのは難しいと不満を述べ、ギーターの真髄として覚えておける1詩節がないのか尋ねました。そこで、バガヴァーンは10章の第20詩節:「おお、グダケーシャ、私は自らであり、全ての者のハートに座す。私は全ての始まりであり、中間であり、終わりである」に言及しました。後に、彼はここで以下に示される42詩節を選び(上に引用した詩節は4番目になります)、導きとして役立つように適切な順序に並び変えました。彼はまた、それらの詩節のタミル語とマラヤーラム語版も用意しました。
(『Collected Works of Sri Ramana Maharshi』、「The Song Celestial」の前文から)

サンジャヤ(*2)は言った:
1.
哀れみに打ちのめされ
涙あふれる痛む目をし、悲嘆に暮れた彼に、そのように
マドゥを滅ぼす者(*3)は、これらの言葉を語った-

To him was with pity overcomed
With smarting, brimming eyes, despondent, thus
madusudana spake to these words:
2章-1
バガヴァーン(*4)は言った:
2.
汝らが見るこの体は、(はた)と呼ばれ
それを知る者を賢者らは呼ぶ
を知る者と。おお、クンティー(*5)の息子よ

This body that ye see the Field is called,
And that which knoweth it the Sages call
The knower of the Field, O Kunti's son.
13章-2
3.
全てのにおける知る者と、を知れ(、おお、バーラタ(*6)の子孫よ)
、および、それを知る者
私の見解では、真なる知である

Knower of Field in all the Fields, know Me.
Knowledge of Field and Knower of it too,
True Knowledge that in my opinion is.
13章-3
4.
全ての者のハートの内に座する自ら
それが私である、おお、グダケーシャ(*7)
私は全ての始まり中間終わりである

´T is I, O gudakesha, am the SELF
Seated within the Heart of everyone,
of all I am Beginning, Middle, End.
10章-20
5.
なぜなら、生まれる全生物にとって、死は確かであり
死ぬその者たち全てにとって、誕生は確かである
それゆえ、汝は必然を嘆くべきでない

For death is certain for all creatures born
And birth is certain for all those who die,
Therefore thou should'st not grieve for what must be.
2章-27
6.
彼は生まれず、死にもせず、存在したのち
いつか存在しなくなるということもない
不生、不変、永続的、往古のものでもあり
体が殺されても、彼は殺害されない

He is not born, nor dies, nor having been
Ceaseth he evermore to be; unborn,
Abiding, everlasting, ancient too,
He is not slain the body being killed.
2章-20
7.
切断できず、燃やせず
濡らすことも、乾かすこともできず
また永続的であり、全てに行き渡り、安定し
不動であり、とこしえに続くは、彼である

Uncleavable and incombustible,
And neither to be wetted nor be dried,
Perpetual, all-pervasive, stable too,
Immovable, from everlasting He.
2章-24
8.
なぜなら、この全てに行き渡るそれ
破壊しえないと知れ。何者も
その不滅のを破壊することはできない

For know that THAT is indestructible
Whom all this doth pervade. There is no one
Who can destory th' imperishable One.
2章-17
9.
非現実なるものは存在せず、現実なるものは
決して存在しなくならない。その両方の真理が
現実を見る者たちによって見られてきた

The unreal hath no being; and the real
Doth never cease to be; the truth of both
By seers of Reality has been seen.
2章-16
10.
遍在する虚空は、微細さゆえに
触れられない。同様に
あらゆる所に座し、体の内に住みながら
自らもまた触れられない

As omnipresent ether is not touched
By reason of subtlety, so too
The SELF is not touched either as it dwells
Within the body, seated everywhere.
13章-33
11.
そこで太陽は輝かず、月も、火も(輝かない)
其処(そこ)に行くとき、彼らはもはや戻り来ない
これが我がただ一つの至高なる住まいである

There the Sun lightens not, nor moon, nor fire;
Having gone thither they return no more;
This is of me the one Abode Supreme.
15章-6
12.
そして、この顕れないが呼ばれている
「不壊(ふえ)なるもの」、最上の境地
それに達する者たちは、もはや決して戻り来ないであろう
これが我がただ一つの至高なる住まいである

And this unmanifested One is called
"The Indestructible", the highest State.
Those reaching It will never more return,
This is of me the one Abode Supreme.
8章-21
13.
常に自らに住し、高慢や錯覚なき
彼らは愛着への勝利者である
欲望を静め、苦楽なる
「対になるもの」を免れ、錯覚を免れ
彼らは不変の地へ確かに行く

Without pride or delusion, victors they
Over attachment, dwelling e'er in SELF,
With pacified desire, free from the "Pairs"
Of pain and pleasure, from delusion free,
They to the place immutable do go.
15章ー5
14.
聖典の定めを捨て去り
欲望の衝動に従う者は
完成を、幸福を得ない
彼は最上の目的に近づくこともない

He who the Scriptures' ordinance forsakes
And followeth the promtings of desire,
Attaineth not perfection, happiness,
Nor doth he gain unto the highest goal.
16章-23
15.
全存在の内に等しく座す
滅びゆくものの内なる不滅
至高の主を見る彼、彼は見る

Seated within all beings equally
The Supreme Lord, unperishing within
The perishing - he who sees Him, he sees.
13章-28
16.
しかし、のみへの献身によって
私がこのように本質において見られ
知られ、入られもする、おお、アルジュナよ

But by devotion unto Me alone
I in this way in essence may be seen
And known and entered too, O Arjuna.
11章-54
17.
各々の信仰は、彼自身の性質に応じ、形作られている
人は信仰に満ち溢れている、おお、バーラタよ
彼の信仰があるところに、まさしく彼はいる

The faith of each to his own nature's shaped;
Man is instinct with faith, O Bharata;
Wherein his faith so verily is he.
17章-3
18.
信仰に専心する者は、を得る
感覚(五感)が制御された、かの者もまた(を得る)
が得られ、彼は安らぎを速やかに得る

The man intent on faith doth Knowedge gain,
Also that one with senses held in check;
Knowledge obtained, he Peace doth swiftly gain.
4章-39
19.
常に平静であり、愛をもって崇拝する、この(人々)に
探求のヨーガを私は授け
それによって彼らはのもとへ来る、おお、バーラタよ

To these, e'er tranquil, worshipping in love,
The yoga of enquiry I vouchsafe,
By which they come to Me, O Bharata.
10章-10
20.
彼らの自らに住まいつつ、純粋な憐れみから
輝くのともし火によって、私は破壊する
無知より生まれる彼らの暗闇を

From pure compassion, dwelling in their SELF,
By shining lamp of Knowledge I destory
Their darkness which from ignorance is born.
10章-11
21.
まこと、その無知が自らにより
破壊された、彼らの中の
太陽のごとく輝く至高のものを顕(あら)わにする

Truly, in whom is ignorance destoryed
By Knowledge of the SELF, Knowledge in them,
Discloses the Supreme shining like Sun.
5章-16
22.
感覚(五感)は偉大であり、心はさらに偉大であり
心よりさらに偉大であるのは知性であると言われているが
知性より遥か偉大であるのは、である

The senses are called great, greater the mind,
Greater than mind the Understanding is
Than Understanding greater far is HE.
3章-42
23.
遥かに知性よりも高きを知り
自らによって自我を麻痺させ
いと打ち勝ちがたき欲望なる
汝の敵を殺害せよ、おお、剛腕の者よ

Knowing Him higher than Understanding far,
And petrifying ego by the SELF,
Slay thou the enemy that is desire,
So hard to overcome, O mighty-armed.
3章-43
24.
燃え盛る燃料の火が灰を作るように
そのように、の炎は、アルジュナよ
一切の行為を灰塵(かいじん)に帰す

As burning fire of fuel ashes makes
So doth the fire of Knowledge, Arjuna,
Reduce all actions unto ashes too.
4章-37
25.
その務めが欲望に型どられることなく
その行為がの炎によって焼き尽くされた
かの者が学識者と呼ばれている

Whose works are free from moulding of desire,
Whose acts by fire of Knowledge are burned up,
That person Learned One is designate.
4章-19
26.
永遠なるもの至福は抱擁する
性質において抑制され、思考において抑制され
欲望と瞋恚(しんい)を断ち切った、彼ら自身を知る者たちを

The Bliss of the ETERNAL enfolds those
Who know themselves, weaned from desire and wrath,
Subdued in nature and subdued in thought.
5章-26
27.
落ち着きを手にした知性によって
少しずつ彼に安らぎを得させよう
心を自らの内に住まわせ
彼に何をも思わせないようにしよう

Little by little let him peace obtain
By Understanding steadiness attained;
Having made mind within the SELF abide
Let him not think of anything at all.
6章-25
28.
どこに落ち着きなく、不安定な心が
外側に突き出ようとも、その場所からそれを引き戻し
ただ自らの支配下に連れ行け

Wherever the unsteady, wavering mind
Outward projects, withdraw it from that place,
And lead it under sway of SELF alone.
6章-26
29.
感覚(五感)、心、理性を常に制御し
解放に専心する賢者ら
恐怖と瞋恚と共に永遠に
欲望を捨て去り、まことに自由を得ている

With senses, mind and Reason e'ver controlled
The Sages, on Liberation solely bent,
Having for ever cast away desire,
With fear and wrath, in truth has Freedom.
5章-28
30.
ヨーガによって自らに)融和した、その人は見る
自らが全ての内に、全てが自らの内に住まうのを
そして、万物を公平に眺める

The one, by yoga harmonized, doth see
The SELF dwelling in all and all in SELF;
And looks on everything impartially.
6章-29
31.
他の誰をも思わず、常に融和し
のみを崇拝する、かの人々
彼らのために、私は獲得し、保護することを請け負う

To those popele who worship Me alone
Thinking of no one else, harmonious e'er,
For them I undertake to gain and guard.
9章-22
32.
その(人々の)中で、常に融和し
一者を崇拝する賢なるが最良である
賢者にとって私はこの上なく愛しく
にとって賢者はこの上なく愛しい

Of these the wise One ever harmonized
And worshipping the One, is best of all;
I am supremely dear to the Wise One
And the Wise One supremely dear to Me.
7章-17
33.
「ヴァースデーヴァ(*9)は全てである」と思いながら
多くの誕生の終わりに、に満ちた者が
私を崇拝する。マハートマーとは彼であり
そのような者は実に極めて見つけ難い

At close of many births he who is full
Of Knowledge worships me, thinking the while
"Vasudeva is all," Mahatma he,
Such is indeed most difficult to find.
7章-19
34.
心の一切の欲望を捨て去り
自らによって自らの内に満足する時
その時、安定した心を持つ者と彼は呼ばれる

When one gets rid of all the mind's desires
And is contented in the Self by SELF,
Then is he called one of a stable mind.
2章-55
35.
誰であれ、一切の欲望を捨て去り
あらゆる熱望なく進みゆく者は
「私」および「私のもの」を欠き-彼は安らぎを達成する

Whoso forsaketh all desires and goes
Upon his way from every yearnings free,
Devoid of "I" and "mine" - he Peace achieves.
2章-71
36.
彼によって世界が煩わされず
世界によっても煩わされない、その人は、怒り
喜び、恐れなる患(わずら)いなく、にとって愛しい

That man by whom the world is not perturbed
Nor by the world's perturbed, free from cares
Of anger, joy and fear, is dear to Me.
12章-15
37.
名誉、不名誉にも等しくあり
友と敵に等しくあり、一切の務めを
放棄し-彼は言われる
三つの性質全てを完全に超えたと

The same in honour, ignominy too,
The same to friend and foe, abondoning
All undertaking - he is said to have
Gone quite beyond all the three qualities.
14章-25
38.
しかし、自らの内に喜び
自らに満足し、自らに自足する、かの人
彼にとって、まこと、さらになすべきことは何もない

But that man who rejoices in the SELF
With SELF is satisfied, with SELF content,
For him in truth there's nothing more to do.
3章-17
39.
彼が行うことによって、また、彼が行わないことによって
彼は何も得ない、また、何も失わない。彼には必要ない
どのような存在から何ものも求める(必要が)

He gains or loses nothing by his acts
Or by his inaction, and he has no need
From any being anything to ask.
3章-18
40.
彼が労せずして得る全てに満足し
「対になるもの」を免れ、羨望もまた免れ
失敗と成功にも平らかにあり
行為すれども彼は行為によって束縛されない

Content with all he without effort gets,
free from the "Pairs", from envy also free,
Balanced in failure and in success too,
Though acting he by action is not bound.
4章-22
41.  
は全ての者のハートに住し
彼の幻のによって彼ら全てを
回転盤上の操り人形のごとく回転させる

The Lord dwells in the Heart of everyone
Causing by his illusive Power them all
To spin like marionettes upon a wheel.
18章-61
42.
心の底から庇護を求めてのもとに逃れよ
の恩寵によって、汝は至高の安らぎを得るだろう
それが永住の地である

To Him for shelter flee with all thy heart,
By His grace peace supreme thou shalt obtain,
Which is the everlasting dwelling-place.
18章-62

(*0)http://brahmanisone.blogspot.jp/2008/12/selected-verses-from-gita-by-ramana.htmlhttp://forramana.blogspot.jp/2011/11/song-celestial-01.htmlhttp://www.asitis.com/http://sitarama.info/blog/http://vedabase.net/bg/en
(*1)パンディット・・・サンスクリット語やヴェーダ聖典やヒンドゥーの儀式などに精通した学者、教師。
(*2)サンジャヤ・・・アルジュナに敵対するドゥルヨダーナの父であるドリタラーシュトラ王の相談役。バガヴァッド・ギーターは、ビーシュマの死を報告しに戦場から帰還したサンジャヤが王の要望により戦いの様子を語るという形式で記されている。(英語版のwikiなどから)
(*3)マドゥを滅ぼす者・・・クリシュナ。ヴィシュヌが悪魔マドゥを滅ぼしたという話に由来している。クリシュナはヴィシュヌの化身とされている。
(*4)シュリー・バガヴァーン・・・クリシュナ。
(*5)クンティー・・・アルジュナの母親の名。
(*6)バーラタ・・・アルジュナの祖先の伝説の王バーラタ。意味は、「大事にされる者」。
(*7)グダケーシャ・・・グダカは「眠り」を意味し、眠りを征服した者がグダケーシャと呼ばれる。「眠り」は真理への無知を象徴している。
(*8)プリター・・・クンティーの別名。
(*9)ヴァースデーヴァ・・・ヴァスデーヴァの息子、クリシュナのこと。