2014年8月30日土曜日

「ウパデーシャ・サーラム(教えの精髄)」- マラヤーラム語版の英訳から

◇「山の道(Mountain Path)」、1984年4月 p103~104

 バガヴァーン・ラマナが30詩節からなるタミル語のウパデーシャ・ウンディヤールを作ったのは、シュリー・ムルガナールの要請であり、彼の詩を完成させるためでした。すぐ後に、信奉者たちの要望により、バガヴァーン自身がその詩のテルグ語版を作りました。1927年、バガヴァーンは、日々のパラヤーナにふさわしいように、それぞれ24音節からなるスローカの形でサンスクリット語版を一気に作りました。

 翌年、マラヤーラム語を話す信奉者たちのために、バガヴァーンはマラヤーラム語版を作りました。それらはより長い節で書かれており、それゆえ、より説明的な形式になっています。9、10、12、14、15、20、22、26、29詩節は、この役立つ拡張の明確な例を提供し、そのため、その中に他の三つの版の中に暗に示されている点が説明されているのに気づいたムルガナールやクンジュ・スワーミーなどはマラヤーラム語版を好ましく思いました。

 それゆえ、友人たちに請われるままに、私はマラヤーラム語の詩の逐語的な英訳を試みました。信奉者たちがこの簡潔な詩を理解するのにそれが役立てばと思います。この詩は、バガヴァーン自身によって四つの言語で作られ、その意図と効果において彼の教えの精髄を含み、劇的な形式においてはシヴァからリシたちへのウパデーシャでもあります。
(K.K.ナンビアール、後書きから)

ウパデーシャ・サーラム
(マラヤーラム語版からの直訳)

K.K.ナンビアール

1.
創造者に定められるままに、カルマは結果を生むため、どうしてカルマがとなれるのか。それには意識がない。

Since Karma yields results as ordained by the creator, how can Karma be God? It is insentient.

2.
カルマの結果は永久的ではないが、それでもヴァーサナー(傾向)の形で心に種を残し、かえってカルマの大海に行為者を繰り返し投げ込むばかりである。カルマは決して人を救いに導かない。

The results of Karma are impermanent and yet leave seeds in the form of Vasanas (tendencies) in the mind which will only repeatedly plunge the doer in the ocean of Karma. Karma never leads one to salvation.

3.
結果への何らの望みもなく、に純粋に奉仕して、無私のカルマを行え。そのような行為は心を清め、人をモークシャの途上へ導く。

Perform disinterested Karma purely in the service of God, without any desire for its fruit. Such actions purify the mind and lead one on the way to moksha.

4.
行為は三種あり、それらは体、言葉、心によって行われる。それらはプージャー(崇拝)、ジャパ(復唱)、ディヤーナ(瞑想)であり、後のものほど価値が高い。

Actions are of three kinds, those performed by body, by speech and by mind. These are pooja (worship), Japa (incantations) and dhyana (meditation), and are in ascending order of merit.

5.
この八つの要素からなる全世界は目に見えるの顕現であると念頭に置き、それに基づきを崇拝せよ。これが崇拝の最良の形である。

Keeping in view that this entire eightfold universe is the visible manifestation of God, worship Him accordingly. This is the best form of worship.

6.
神の名なるマントラの復唱は、賛美(ストートラ)の最良の形より良い。かすかなつぶやき声で繰り返し唱えられるマントラは、声高の朗唱より優れている。心の復唱が、その三つの中で最良である。瞑想はこれと異ならない。

Repetition of mantras of God's names is better than the best forms of praise (stotras). Mantra repeated in faint murmur is superior to loud chanting. Mental repetition is the best of the three. Meditation is not different from this.

7.
油や一年を通じての小川の定流のように、途切れなく行われる瞑想は、断続的な瞑想より良い。わずかの途切れもない、絶え間ない瞑想が最良であり、もっとも力強い。

Meditation carried out without a break like the steady flow of oil or of a perennial stream is better than intermittent meditation. Incessant meditation without a single break is the best and most powerful.

8.
は私である」や「私はから離れていない」という態度は、私はから離れているという態度より、はるか優れている。

The attitude "He is I" or "I am not separate from God" is far superior to the attitude that I am separate from Him

9.
一切の思いを超越する、実在に住まうことが、献身の最も純粋な形である。至高の献身は、モークシャへ通じる。

Abidance in the Real Being transcending all thoughts is the purest form of devotion. Supreme devotion leads to moksha.

10.
自らの存在の秘められた核心に到達し、なんら心の散逸もなく、その内に住まうことが、カルマ、バクティ、ヨーガ、ジニャーナ、四種の道すべての精髄である。

Having reached the secret core of one's existence, abiding therein without any mental distraction is the essence of all four paths, Karma, Bhakti, Yoga and Jnana.

11.
呼吸の制御によって、網に捕えられた鳥のごとく、素早く動く心は抑制される。そのように、呼吸の制御は、心の吸収のための仕掛けである。

By breath-control the fleeting mind is kept under restraint like a bird trapped in the net. Thus breath-control is a device for absorption of the mind.

12.
心には理解する力があるが、プラーナには活動の力のみある。心とプラーナは共に、同じ力の源から生じる枝である。

Mind has the power of apprehension, while prana has the power of activity only. Mind and prana are both branches springing from the same source of power.

13.
ラヤとナーシャは抑制の二つの形である。ラヤは一時の吸収であり、そのように吸収されたものは必ず蘇ることになる。しかし、死んでいる、即ち、永久的に吸収されたものが再び蘇ることは決してないだろう。

Laya and Nasha are two forms of restraint. Laya being absorption for a time, that which is so absorbed is bound to revive. But that which is dead or permanently absorbed will never rise again.

14.
呼吸の抑制によって、心が吸収された所で、(心を)ただ一つの思いの流れに沿わせるなら、心は消滅するだろう。

Where the mind gets absorbed by breath‐restraint, it will die if made to follow a single current of thought.

15.
心が消滅した偉大なヨーギにとって、いまだ彼は普通の人のように見えるが、何らの行為も必要ない。彼が彼の本質を得ているがゆえに。

For the great yogi whose mind is extinguished, though he yet looks like an ordinary man, there is no need for any action, as he has attained his true nature.

16.
心が外側の対象物から退けられ、内に向けられ、純粋な自覚なる自らの姿を注視する時、それが真の知である。

When the mind is withdrawn from external objects and is turned inwards to behold its own form of pure Awareness, that is True Knowledge.

17.
心が内に向けられ、絶え間なく自らの姿を調べる所に、心というようなものは存在しないと見出されるだろう。これが皆にとっての真っ直ぐな道である。

Where the mind, turned inward, unceasingly investigates its own form it will be found that there is no such thing as the mind. This is the straight path for all.

18.
思いとは別に、心は存在しない。思いそのものが、心であると言われている。全ての思いの根本は、「私」という思いである。「私」が心である。

Apart from thoughts there is no mind. The thoughts themselves are said to be the mind. The root of all thoughts is the 'I'‐thought. 'I' is the mind.

19.
内に潜り、どこから「私」という思いが生じるか見出さんと努めるなら、「私」は崩れ落ちるだろう。これが知恵の追求である。

If diving within, one seeks to find out whence the 'I'-thought rises, the 'I' will topple down. This is the pursuit of wisdom.

20.
「私」が消え去る所に、真の「私」‐「私」が自らのあるべき場所に、ハートに自然と生じる。それは無限である。

Where the  'I' perishes, there arises spontaneously in its own place in the Heart the Real 'I' - 'I' , which is infinite.

21.
これが「私」という用語の真意である。なぜなら、日々、眠る間に「私」が吸収される時、自分自身の存在を誰も疑わない。

This is the true import of the term 'I' , for nobody doubts one's own existence, when the 'I' is abosrbed daily during sleep.

22.
体、五感、プラーナ、知性、無知、目に映る世界-全ては幻であり、存在せず、意識がないゆえ-「私」ではない。私は永遠なる現実である。

Body, senses, prana, intellect, ignorance and the visible world, all being illusory, non-existent and insentient, are not I; I am the Eternal Reality.

23.
「在るそれ」に気付いている「私」とは別の意識は存在しない。「在るそれ」は、絶対的な意識である。「私」もまた、その意識ではないのか。

There is no consciousness apart from 'I' to be aware of "That which is". "That which is" is Absolute Consciousness. Am 'I' not also that Consciousness?

24.
創造者と創造物は共に、実質的に、「存在の内に一体」である。相違は彼らの属性と知識にのみあるため、彼らの間に区別がなされるべきではない。

The Creator and creature are both in substance "One in Being". No distinction should be made between them as the differences are only in their attributes and knowledge.

25.
創造物が様々な属性を除き、彼自身を見て、知る所、それこそが自身を見ることである。創造者は自らに他ならない。

Where the creature sees and knows himself without the various attributes, that is verily seeing God himself. The Creator is no other than the Self.

26.
「自分自身を見ること、知ること」と語られていることは、「自らとして住まうこと」のみである。自らは常に一人のみであり、二人ではない。これを「タンマヤ・ニシター」と知れ。

What is spoken of as 'seeing and knowing oneself ' is only 'abiding as the Self'. The Self is ever one alone, never two. Know this as 'Tanmayanishta'.

27.
かの知は、知識と無知を共に超越する「真の知」である。さらに何が知られるべきなのか。「真の知」の他に何ものも存在しない。

That knowledge is "True knowledge" which transcends both knowledge and ignorance. What more is to be known? There is nothing other than "True Knowledge".

28.
自分自身の姿を探し求め、人がその本質を実現するなら、その時、それは始まりも終わりもない存在である。それは途切れのない自覚‐至福である。

Searching for one's own form, if one realises one's true nature, then it is Being without beginning and end; it is unbroken Awareness-Bliss.

29.
束縛と解放についての一切の思いを超える、ブラフマンのこの上ない至福を誰が描けるのか。その境地に常に住まう人々は、至高者への奉仕に堅固である。

Who can describe that supreme bliss of Brahman, beyond all thoughts of bondage and release? Those abiding ever in that state are steadfast in the service of the Supreme.

30.
「私」の一切の痕跡が去った時にある、それを実現し、それとして住まうことが、良きタパスである。全ての自らであるラマナは、そのように語る。

Realising That which is when all trace of 'I' is gone and abiding as That is good tapas. So says Ramana, the Self of all.

2014年8月24日日曜日

心は常に謙虚な無学の農夫であらん - K.スワミナタン教授の決心

◇「山の道(Mountain Path)」、2003年4月 p55~56

パンディットと農夫

K.スワミナタン

 かつて1940年代のアーシュラムへの訪問の間に、私は旧講堂の外で多くの信奉者と共に、寝椅子にもたれていたシュリー・バガヴァーンに対面して、座っていました。学識あるパンディットの一団が、ウパニシャッドからのある文章について奥の深い議論を大変熱心に行っていました。バガヴァーンを含め、みながこの興味深い議論を注意深く傾聴しているように見えました。その時、突然、バガヴァーンは寝椅子から立ち上がり、北に30メートル歩き、そこで手のひらを組み、目線を落として立っていた村人の前に立ちました。

 たちまち議論は止み、みなの目は少し離れて立っているバガヴァーンと村人に向けられました。彼らは会話しているようでしたが、そのように離れていたため、誰も何についてか分かりませんでした。すぐに、バガヴァーンは寝椅子に戻り、議論は再開されました。

 私はこの村人について、そして、バガヴァーンがどうしてわざわざ彼に会ったのか知りたいと思いました。それで、議論が続いている間に私はこっそり抜けだし、彼がアーシュラムを離れる前に彼に追い付きました。私は彼とバガヴァーンが何について話していたのか彼に尋ねました。彼はバガヴァーンが彼にどうしてそんなに遠く離れて立っているのか尋ねたと言いました。「私はバガヴァーンに、『私は学のない貧しい村人に過ぎません。神の化身であるあなたにどうやって近づけばいいのでしょうか』」。

 「その時、マハルシは何を言いましたか」と私は尋ねました。

 「彼は私の名前、私がどの村から来たのか、私がどんな仕事をしているのか、私に子供が何人いるのかなど私に尋ねました。」

 「あなたは彼に何か尋ねましたか。」

 「どうしたら私は救われるのか、どうしたら彼の祝福を得られるのか彼に尋ねました。」

 「彼はあなたに何を言いましたか。」

 「彼は私の村に寺院があるのか尋ねました。私は彼にありますと言いました。彼はその寺院の神の名前を知りたがりました。私は彼にその名前を言いました。それで、彼は『あなたはその神の名前を繰り返し唱え続けるべきです。そうすれば、あなたは必要とされる一切の祝福を受け取るでしょう』と言いました。」

 私はバガヴァーンの面前に戻り、学問的な議論を傾聴している信奉者たちの間に座りました。この農夫の純真な謙虚さと献身が、どれほどの量の学識よりも、はるかに優れた応答を我々の師から引き出したことを悟り、今や私は議論に全く興味を失っていました。私は学者を職業としていましたが、「私はいつも心の底では謙虚な無学の農夫ままあり、あの村人のようにバガヴァーンの恩寵と祝福を願い求めなければならない」とその時、決心しました。

2014年8月22日金曜日

「プラパッティ・アシュタカム」 - シュリー・ジャガディーシャによる祈りの詩節

◇「山の道(Mountain Path)」、1985年10月 p269~271

貴重な遺品

 1945年ごろ、『Ramana Sahasranamam』の編集者、優れたサンスクリット語の学者であるシュリー・ジャガディーシャ・シャーストリは、大変深刻な病状にあり、寝たきりでした。みなが彼の生存を絶望視していました。彼を救うために、バガヴァーンの特別な介入が求められました。

 以下は、A.デーヴァラージャ・ムダリアールがこの出来事について書いたものです。「私がよくバガヴァーンの宮殿のサンスクリット語の詩人と呼んだジャガディーシャ・シャーストリは、プラパッティ・アシュタカムと呼ばれる詩節を記しました。彼は死の床にいて、この最後の懇願を詩(プラパッティ・アシュタカム)で記し、プラーラブダは一定の進路を進まねばならないというバガヴァーンによるいかなる弁解も決して受け入れず、ただバガヴァーンがそれを望みさえすれば、バガヴァーンの恩寵がプラーラブダを打ち消し、自分を救えると言明しました。バガヴァーンが彼を大変に憐れんだので、彼は死の淵から引き上げられました」。(『My Recollection』、p103)

 バガヴァーンがこの特別な祈りをどれほど重要視していたのか示すために、デーヴァラージャ・ムダリアールを再び引用しましょう。「これら(プラパッティ・アシュタカム)は、バガヴァーンの許可と勧めを得て、T.K.スンダレーサ・アイヤルによってタミル語に翻訳されました。私は糸綴(と)じの小さなノートを買い、1ページおきにサンスクリット語版とタミル語版を載せたいと思いました。私はサンスクリット語がタミル文字で書かれて欲しいと思いました。私は初めにタミル語の詩節を書き、サンスクリット語のために1ページおきに空白にしておきました。私はそれらを音訳でき、私のために音訳しようとしてくれる人が誰かいないか探していました。もちろん、私はわざわざバガヴァーンに私のためにそのような仕事をして頂こうとは思っていませんでしたが、私にとって普段通りに、会話の流れで、私はバガヴァーンに私の望みを話し、彼はすべての抗議を払いのけ、私からノートを取り、サンスクリット語の詩節をいつものように整った美しいタミル文字の詩節に写し、私に返しました。ノートは私のもとにあり、家宝として息子たちに譲られることになるでしょう」。(『My Recollection』、p86)

 信奉者たちが貴重な遺品として保存していたおかげで、シュリー・バガヴァーンの手書きの形で、ジャガディーシャ・シャーストリによる元々のサンスクリット語の詩節とT.K.スンダレーサ・アイヤルによるそのタミル語の翻訳の両方を以下に複写できることを我々はとてもうれしく思います。

プラパッティ・アシュタカム


ティルチュリに生まれた彼へ、私は委ねます
パーンダヤ国に戯れた彼へ、私は委ねます
アルナーチャラのなぞえに住む方へ、私は委ねます
タパスの辛苦に動じることのないビクシュへ、私は委ねます

TO HIM born in Tiruchuli I surrender
; to Him who sported in Pandya country, I surrender
; to the dweller on Arunachala slopes, I surrender
; to the bikshu unaffected by the rigours of tapas I surrender.


創造者から虫まで、全てに等しくある彼へ、私は委ねます
六種の感情の征服者へ、私は委ねます
知の本質の担い手へ、私は委ねます
限りない憐れみの御倉(みくら)へ、私は委ねます

To Him who is alike to all, from the Creator to the worm, I surrender
; to the subduer of the six passions, I surrender
; to the bearer of the essence of Knowledge I surrender
; to the store of unbounded mercy, I surrender.


全世界に勝る彼へ、私は委ねます
彼へ-ヴェーダが全世界と他の諸々であると語る彼へ、私は委ねます
一切をむさぼり食らう鰐(わに)、時(とき)への恐れを取り除くために
死を懲らしめる者へ、私は委ねます

To Him who surpasses the universe I surrender
; to Him — whom the Vedas say to be the universe and more, I surrender
; to the chastiser of death
in order to be rid of fear of the all-devouring alligator Time, I surrender.


欲楽の生の苦痛を克服する
知の体現者へ、私は委ねます
得意げなキューピッドによって引き起こされた熱病を阻むために
戯れに降りてきた、カーマの敵対者へ、私は委ねます

To the embodiment of Knowledge
which conquers the pain of sensual life, I surrender;
to the enemy of Kama come down in sport
to prevent the fevers caused by proud Cupid, I surrender.


厳密な生涯にわたる独身者へ、私は委ねます
カマンダルと杖の持ち主へ、私は委ねます
ブラフマーサナをしてディヤーナに安らう彼へ、私は委ねます
ブラフマンと一体である隠者へ、私は委ねます

To the strictly life-long celibate, I surrender;
to the holder of kamandalu and staff, I surrender
; to Him that rests in Dhyana on Brahmasana, I surrender
; to the Hermit at one with Brahman I surrender.


ハラへ、私は委ねます、不朽なるものへ、私は委ねます
独立の在り処へ、私は委ねます
はかり難い技量をもつ彼へ、私は委ねます
汚れのない知る者の中の第一人者へ、私は委ねます

To Hara I surrender ; to the never-decaying I surrender
; to the abode of Independence I surrender
; to Him of immeasurable skill I surrender
; to the foremost of spotless Knowers I surrender.


三種の苦しみ、不運、迷妄、カルマによって
引き起こされた熱を払い去る者へ、私は委ねます
真の決意を持ち、汚れなく
完全に満足し、最上の幸福を味わう彼へ、私は委ねます

To the dispeller of fever
caused by ill luck, three-fold ills, delusion, and karma, I surrender;
to Him of true resolve, no taint,
 perfect contentment and bliss, I surrender.


信奉者に安らぎをもたらす
穏やかなほほ笑みをたたえた顔へ、私は委ねます
ラマナへ-一切の苦痛を取り除き、喜びをもたらすがゆえ
そのように名付けられた彼へ、私は委ねます

To the face of gentle smile
that brings peace to devotees, I surrender
; to RAMANA —(Blessing) so named
because removing all pain He brings in joy, I surrender.  


至福の授け手であるシヴァへ、私は委ねます
あらゆる美徳の御倉(みくら)である師へ、私は委ねます
私のハートの蓮華に住まう方へ、私は委ねます
寄る辺であり、主へ、私は委ねます

To Siva the bestower of bliss, (I surrender)
(;)the Master, the store of all virtues, I surrender
; to the Indweller of my Heart-Lotus, I surrender
; to the Refuge and the Lord I surrender.


彼の祝福によって、彼の性質を得るために
他の全ての人々もまた、賢明にもラマナに委ねますように

May all others also wisely surrender to Ramana,
in order to gain His qualities, by His Blessings.


以下は、バガヴァーンの手書きのT.K.スンダレーサ・アイヤルによるタミル語の翻訳です。

2014年8月17日日曜日

努力と忍耐の必要性 - 無努力(自然体)の達成のために

◇「山の道(Mountain Path)」、1973年4月 p55~57

努力と無努力 

論説(*1)

 時間と空間、様々な伝統と人種において幅広く隔てられた賢者らによって、時代を通じて、霊的努力の必要性は力強く強調されてきました。それにも関わらず、彼らの本質的な教えは、我々は決して自らでなくなることはない、解放されるべき生命は存在しない、新たに自らを獲得するということない、なぜなら、(もしそうでないなら)自らが永続的でないことを暗示するから、です。では、なぜ修練と努力がそのように強調されているのでしょうか。

 事実は、シュリー・バガヴァーンが他の賢者らと一致して説くように、我々が我々の至福に満ちた境地を自覚していないからです。「試みは、純粋な至福を覆う無知を取り除くことのみ注がれます。この無知は、自らを体や心などと誤って同一視することによります。無知という幻の覆いが取り除かれる時、常に存在する真理あるがままに明らかにされます。これを達成するためには、修練が必要です」。修練とは、心にいわば習癖をつくる長年の傾向(サンスカーラ)を取り除くことを意味します。それが平らかにされ、その根っこが切られない限り、幻と苦しみがはびこります。それは真理への無知の中にとりこまれた人生についてまわります。「自我は幻と同意語です。無知が決して存在しなかったと知ることが、全ての霊的教えの目的です」。探求者自身が、無知が決して存在しなかったと見出し、体験的に気づくために、探求者の素質に応じて定められた霊的修練と瞑想によって’心の潜在的傾向を無効にすることを、グルは探求者の努力に委ねます。

あなた自身が、努力しなければならない
仏陀は、ただ道を指し示すのみ...
                                                                                       -ダンマパダ(*2)

 全ては真理を覆う傾向を取り除く修練次第です。そのように、探求者は、探求に必然的に伴う骨の折れる全ての負担を引き受ける決心をし、(実際に)引き受けることができなければなりません。「まこと、人は神であり、まこと、神は人である.... しかし、これは隠されている.... 時が神の王国なる、この宝を隠している.... 人はその他あらゆることを知っているが、自分自身を知らない」とマイスター・エックハルト(*3)は言いました。それゆえに、努力が必要です。

 悟りを開いた慧能は、万物は非現実であり、それを現実として知覚することは完全に誤りであると壁にガーター(詩節)を記しましたが(*4)、真理の探求者にどのように努力するのか学ぶように強く勧め、そして、「あなたがたが修練するならば私の意に沿い、あなたがたは道を踏み外さない」と熱心に説きました。

 コーランが「全ての知識と力は神と共にある」と断言するのとまさしく同様に、イエス・キリストは「神の意思なくして一羽の雀でさえ落ちることはない」と断言しましたが、キリストとコーランは共に人々に正しい努力を強く勧めています。バガヴァーンはそれについてまったく断定的でした。これを例示するために、彼はよく聖者ターユマーナヴァルを引用しました。「あなたが静かにしていれば、至福が付き従う。全ての聖典がそれを言い、我々は毎日、偉大な人々から、我々のグルさえからもそれを耳にするが、我々は決して静かにしておらず、マーヤーと感覚対象物の世界へさ迷い入る。それゆえ、意識的で意図的な努力が、かの静寂の無努力の境地を得るために必要とされる。」

 「無努力の境地が得られるまで、全ての人が何らかの方法で努力します」とバガヴァーンは強く主張します。人にとって努力しないことは不可能ですが、人がより深くに行くと、一切の努力はやみ、あたかも努力のしずくが恩寵の無限の海によってのみ込まれるのを待ちかまえているかのように、自らが引き継ぎます。努力と苦しみの一度の生涯、もしくは、その数々の生涯は、比べてみれば何でもありません。探求者の心がそれに委ねられるに十分に謙虚であるか、純粋である時、恩寵は信じられないほどに素晴らしく寛大です!たとえ永遠をかいま見ただけでさえ、これを直接的に体験した人々の実感と証言はそのようなのです。

 そのように永遠をかいま見た後、探求者はその記憶を持つだけです。心がその経験を留めるほど十分に安定していない限り、最大限の努力と忍耐が不可欠です。自分が目指しているもの、それ以外のどのようなものも心を満たせないと知るため、この場所から本当に真剣なサーダナが始まるのかもしれません。逆に、自我がでしゃばるなら、そのような体験さえ忘れられるか、もしくは、高慢や自己欺瞞に通じる方便になるかもしれません。

 自らの実現に通じる瞑想は、怠惰な空想でも、空虚な無行為でもなく、心の制御を得ようとする強烈な内なる苦闘です。「我々が霊的現実(*5)の知識を得なければならないとまさしく同様に、我々はその修練を獲得しなければならない」とイブン・アタ‐イッラー(*6)は忠告します。大変長く思いの支配下にいたため、その過程を逆にするのは容易なことではありませんが、「熱心な努力は決して失敗しません」とバガヴァーンはくり返し我々に保証しました。そして、編者は、この保証はいくらくり返し言っても言い過ぎるということはないと繰り返し言います。波は上がったり、下がったりします。しかし、最も低い引潮から、近づいてくる波によって、探求者は最も高きに上ることができます。恩寵は常に存在しています。影を離れ、太陽が全てを公平に照らしているのを見ることは我々次第です。普段の義務を私心なく、その力の及ぶかぎり行うことにおいて、人は安らぎと偉大な高みにも霊的に昇ることができる、と賢者らは言います。

 道元は、古典『正法眼蔵』の中で、自分自身を仏陀という最高の理想と同一視しながら、理想を実践へ移すために必要とされる努力を怠る者たちを叱責します。霊的努力を不要として捨て去ることは、本心では真理のために努力する気がないことをうまく釈明する知的合理化でしかありません。彼はさらに、あらゆる人が仏法の道具であると説明します。「一度たりとも、自分がそうではないと思ってはいけない。修練によって確実に、人はそれを直接に体験するだろう」。

 修練と忍耐は、必ず成果をもたらします。古(いにしえ)の師はみな、それに手を焼きました....「100戦の勝利(と敗北)の後、人は偉大な安らぎを得る」とするなら、それは戦いです。「全ては瞑想の修練に帰する」と白隠は『瞑想の歌』(*7)の中で言います。

 我々は想像上の雲を追い払うために全人生を修練に投じなければなりません。楽に成功を達成した人がいるなら、バガヴァーンは「彼は必要な全ての努力を前世で行ったと受け取ってかまいません」と言いました。

 物質的全世界と霊的現実の間には類似があります。世界は反射でしかありません。それがヘルメス(*8)の言明、「上にあるがごとく、下にもある」の真意です。オリゲネス(*9)もまた、天上の事柄の様式と影から、「上にあるものはまた、下にもある」と主張しました。スポーツ、音楽、芸術、工芸などにおいて無努力性(*10)を達成するためには、我々は大変な努力を継続して行わなければなりません。これが限定された目的を達成することに適用されるなら、目的が無限である時、どうしてそれを適用すべきでないのですか。もしくは、バガヴァーンが言うように、「無努力の境地が得られるまで、全ての人が何らかの方法で努力します。では、どうして自らを得ることに努力を向けないのですか」。今までに練習や案内人なしでエベレストに昇った人がいますか。そして、これはエベレスト以上です!シャンカラは、ブラフマンが全ての自らとして実現される前、現象的世界のあらゆる相互作用はその間十分に現実的であると言います。いったんブラフマンが実現されるなら、あらゆる他の知識の序列はアヴィドヤー(無知)になりますが、それまでは、知識の低い階層は知識としてその独自の現象的領域で有効です。我々が夢の中で空腹を感じる時、それを満たすのは夢の食べ物だけです。これはまた、幻の世界の中の幻の努力にも、直接の生き生きとした体験においてそのように(幻として)理解されるまで、当てはまります。

 ほとんど超人的な霊的努力に成功した後、ミラレパ(*11)は彼の師マルパによって後世の堕落した人間は努め励むことができないだろう、努力を怠るだろうと教わりました。シュリー・クリシュナの最後の言葉の趣旨もまたそのようです。様々な聖典が、この時代の人類の全般的な衰退を生き生きと描いています。

 知的理解の段階で満足している者は、目的地からほど遠く、「達することなく達っした」という幻想に陥りがちです。今日では、この時代の精神の中で、努力は必要でないと説く多くの師、いわば、安楽椅子グル(*12)がいます。曰く、人は初めから落ち着いた心を持つべきである。曰く、必要とされる全ては我々自身の不在を見ることである。曰く、実現は2・3週間の超越瞑想(*13)の内に保障される、などなど。そのような教えが、この時代の多くの追随者を魅了することに何の不思議もありません!端的に言って、全ての霊的努力は、我々自身が精神的に作り上げた幻に打ち勝つために、心を静めることを目的にします。「グナからなる幻はとても克服しがたい」とシュリー・クリシュナは『バガヴァッド・ギーター』の中で言います。

 落ち着いた心とは、人が自我性という幻の限界を打ち破り、無限に至ったことを暗示し、初心者やいまだ探求している人々には当てはまりません。「あなたが思いを超えた境地に達するなら、三世界は消え去るだろう」(黄檗希運禅師、『宛陵録(*14))。

 誰が自分自身の不在を見るのでしょうか。見るその者は存在しています。さらに、「不在」もまた存在を暗示する概念です。

 超越瞑想は、先験的な知識無くして修練することはできません。なんと、それは人が思いを超越したことや、心を克服していることを意味しますが、そのような状態で、さらに探求する必要がどこにありますか。患者への薬のように、教えは探求者に適したものであるべきです。聖典やアドヴァイタを引用したり、マントラを与えることは難しくありませんが、教えより偉大であるグルからもたらされる変容させる力を欠くなら、効果的ではないでしょう。

 つまるところ、ある現代の教え手たちは、相対的な現象的状態を否定することによって、努力なく、もしくは、ほとんど努力なく、超越的な無努力の境地を当然のこととするのに反し、ジニャーニは、実在一体性において、そして、最高の水準から語りますが、形を持った状態のその独自の領域における相対的妥当性を認識し、努力を強調しつつ悟りへの様々な道を説きます。ウパニシャッドの中で、ブラフマンは「高くも低くもある彼」として描かれています。

 世界は自堕落、快楽、安楽に屈しており、それらは収穫逓減の法則(*15)に従い、たいてい終には退屈になります。努力と忍耐を通じてのみ、自堕落は、至高の幸福と無上の喜びに通じる自制に変じることができます。

 要約すると、無努力は熱心な努力を通じて達成でき、その努力は決して失敗しません。そのように、賢者らは言います。

(*1)「論説(editorial)」とは編集者が出版物上で意見を述べる記事のことですが、1973年4月号の「Mountain Path」の編集者はルシア・オズボーンなので、彼女が記した記事と考えていいと思います。
(*2)中村元訳、『ダンマパダ』、第20章 「道」、276、「汝らは(みずから)つとめよ。もろもろの如来(=修行を完成した人)は(ただ)教えを説くだけである。心をおさめて、この道を歩む者どもは、悪魔の束縛から脱れるであろう」。
(*3)マイスター・エックハルト、http://en.wikipedia.org/wiki/Meister_Eckhart
(*4)神秀が「身は是れ菩提樹、心は明鏡台の如し。時時に勤めて払拭せよ。塵埃を惹かしむること莫れ」と詠んだのに対し、慧能は「菩提本(もと)樹無く、明鏡も亦(また)台に非ず。本来無一物、何れの処にか塵埃を惹かん」と詠んだ。
(*5)al-baqiyah
(*6)Ibn Ata-Illah、おそらくhttp://en.wikipedia.org/wiki/Ibn_Ata_Allah
(*7)『Song of meditaion』、『(白隠禅師)座禅和讃』。上の引用は、「夫れ摩訶衍の禅定は 称歎するに余りあり。布施や持戒の諸波羅蜜、念仏懺悔修行等、そのしな多き諸善行、皆この中に帰するなり」の部分であると思います。
(*8)ヘルメス・トリスメギストス、http://en.wikipedia.org/wiki/Hermes_Trismegistus
(*9)オリゲネス、http://en.wikipedia.org/wiki/Origen
(*10)「effortlessness」、「自然な巧みさ、自然体」とも訳せる。
(*11)ジェツン・ミラレパhttp://en.wikipedia.org/wiki/Milarepa
(*12)「armchair gurus」。armchairには「観念的な、机上の空論の」という意味がある。
(*13)「transcendental meditation」、マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーによる瞑想法。
(*14)英語:Zen Master Huang Po、『The Wan Ling Record』
(*15)「the law of diminishing returns」。ここでは、快楽を増やそうとさらに刺激を増しても、それに比例して快楽は増えず、刺激に対して得られる快楽が減って行く、というような意味であると思います。

2014年8月13日水曜日

キリスト教に見られるヴェーダーンタ的思想 - 異なる宗教の対面

◇「山の道(Mountain Path)」、1992年ジャヤンティ p197~198

ヴェーダーンタから見たキリスト教

ビード・グリフィス神父

 近代の最も驚くべき現象の一つは、世界中の異なる宗教が対面していることです。それぞれの宗教は、その独自の文化様式の中で成長しました。ヒンドゥー教はインドで、仏教は最初インドで、その後、極東全土に、イスラム教はアラビア半島で、その後、北アフリカと中東全土で、キリスト教はパレスチナで、その後、ヨーロッパとアメリカ全土で。しかし、異なる宗教的伝統が5大陸全土で自由に交わっており、それぞれの宗教が世界の他の宗教的伝統にそれ自身を関係づけるように要求されているのは、今日に限ったものです。いくらかにとって、特にセム語族の宗教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教にとっては、それぞれが自分たちを唯一の真の宗教とみなしているため、これは苦痛を伴う体験です。しかし、今日では、神学者は自らの宗教的伝統を他の伝統の文脈において検討することを強いられており、新たな普遍的な神学が現れつつあります。

 キリスト教は、パレスチナで、ヘブライ語とアラム語を話すセム語族の文化の中で成長し、古代イスラエルの伝統と慣習に従いました。しかし、その発展のまさに最初の世紀に、それはギリシャ‐ローマの世界へ移動し、その聖典はギリシャ語で記されました。1500年の間、それは実質的にヨーロッパと中東に限定されており、16世紀になってはじめてアメリカ、そして、アジアとアフリカのヨーロッパ植民地に広がり始めました。結果として、キリスト教会の構造は、教義と組織の両方において、基本的に聖書の啓示という土台の上に建てられたギリシャ‐ローマ的構造です。

 1000年にわたる時の流れにおいて、ギリシャ哲学とローマ法に基づき、精巧な教義と組織の構造が作りあげられました。この基本的な構造は今日まで残っていますが、教会が異なる宗教的伝統-特に、ヒンドゥー教、仏教、イスラム教-に遭遇しているため、この基礎はその是非を問われつつあり、キリスト教は今日、ヴェーダーンタ、大乗仏教、イスラム教のスーフィの伝統の観点からそれ自身を見ることを学ばなければなりません。

 これは始まったばかりの仕事ですが、すでに教会の新たな理解の概要を見てとることはできます。キリスト教が一つの新たな精神によって啓示を受けたカリスマ的ユダヤ人の小集団として始まり、ギリシャ‐ローマの世界において、その教会的構造を徐々に発展させただけであることを我々は思い起こさなければなりません。キリスト教がアジアの精神性、特にヴェーダーンタのそれに遭遇し、今、是非を問われているのはこれらの構造です。キリスト教神学はプラトンとアリストテレスの哲学に基づいており、それは確かにとても深遠なものですが、ヴェーダーンタはさらなる深みを持った哲学を提供します。ヒンドゥー哲学の核心は、アドヴァイタ、不二の概念の中に見出されます。あらゆる理性的思考の体系とあらゆる概念的体系を超えて、超越的であるが、しかし内在的な現実が言葉と思考を超えて存在し、究極的な真理であり現実が見出されるのは、この現実の体験、ヒンドゥー教の用語でブラフマンとアートマンの体験の内にです。

 幸運にも、新プラトン主義の影響下のキリスト教の伝統の中に同様の概念があり、それは6世紀にディオニシウス・アレオパギトという名のシリア人の僧によって発展されました。ディオニシウスの教えは、中世の偉大な教会博士、聖トマス・アクィナスによってキリスト教神秘主義の真正な表現として受け入れられました。ディオニシウスによれば、神、究極の真理であり現実を知りたければ、我々はあらゆる観念や概念、存在そのものの概念さえも乗り越えねばなりません。それゆえ、キリスト教の伝統の中に、シャンカラの教説と類似した教説があり、ヒンドゥー教とキリスト教の伝統が出会えるのはこの地点です。我々が観念や概念の水準に留まる限り、我々はいつも相違を見出します。異なる宗教的伝統を分かつ、あらゆる相違、あらゆる二元主義を我々が克服できるのは、超越的現実の神秘主義的体験においてのみです。それぞれの宗教が至高の現実への独自の洞察を持ち、それを異なる観念や概念で表現しています。しかし、そのような一切の相違を超え、究極的真理-それがブラフマンやアートマン、仏教ではニルヴァーナやスンニャター、イスラム教ではアル・ハックとして知られているのであれ-が存在します。今日、我々はこれら全ての洞察を評価し、我々個々人の信仰と実践に関連づけることを学びつつあります。