2014年4月14日月曜日

バガヴァーンの教えへのイスラム教からの証言-「私は神である」の真意

◇『静かなる力(The Silent Power)』、p164~168

ラマナの普遍的な哲学 

M.ハーフィズ・サイード博士

Ⅱ.バガヴァーンの人生と教えへのイスラム教の証言 


 ラマナ・マハルシの他に類をみない人生と教えの偉大さは、彼が世の聖典に親しんでいないにも関わらず、自らの実現の後、無限の知が彼に開かれたという事実にあります。パタンジャリの『ヨーガ・スートラ』の1節を引用すると、「無学の者の心が一点に集中する時、内なる知と外なる知が彼に明らかになる。彼は彼の存在の至高なる源にじかに接するようになる」。

 ラマナの信奉者は、彼の簡素で波乱のない人生に親しんでいます。彼は最後まで質素な人生を送りました。彼には気取った様子も、もったいぶった様子もありませんでした。彼は偉大な教師であり、彼独自の高い次元に生きただけでなく、日常生活において全く人間的でした。真のバラモンがそうあるべく、彼は全ての生ける者に愛と思いやりを抱いていました。彼は自分の杖を修理し、時には、野菜を切り、料理することに加わりました。彼は人類は一体であり、平等であると非常に強く感じていたので、彼自身のために用意されたものを決して何も受け取らず、講堂にいる全ての人々へ平等に配らせました。あらゆる人種、カースト、信条、性別の人々、地位の高い人も低い人も、富裕な人も貧しい人も彼を訪れました。彼にとって全ての人は同じでした。彼は地位のある人々を決してひいきせず、パーリア(*1)やパンチャマ(*2)を決して見下しませんでした。全ての人が彼に会えました。

 イスラム教の預言者(ムハンマド)も同様でした。彼は人類の兄弟愛を信じ、全ての人を等しく扱いました。彼は彼の追随者に、アナ・ミスラクム(*3)、すなわち、「私はあなたたちと同じく人である」と言いました。彼にとってユダヤ人も非ユダヤ人も、ムスリムも非ムスリムも同じでした。彼がモスクで礼拝にいそしみ座っている時に非ムスリムが彼を訪れた時はいつでも、彼はすぐに座から立ち上がり、彼自身のマントを広げ、丁重にその人を座らせました。彼は自分の靴を修理し、自分の擦り切れた衣服に継ぎ当てしました。彼の家には翌日のために残されるものは何もありませんでした。一日のうちに彼が受け取る全てのものは貧しい人々に配られました。彼はしばしば、アル・ファクル・ファフリ(*4)、つまり、「貧しさは私の誇りである」と言いました。彼は人類の福利に強い関心を持ち、聖なる瞑想のために洞窟に退いたものでした。そのように、彼の人生と我々の愛するマハルシの人生の間には緊密な類似性があることが分かります。

 我々みなが、どれほど繰り返しマハルシが、神の意思へ完全に委ね、全て(の人)と仲良くするように、意見の違いを忘れ、水に流すように言ったのか知っています。実際、かつて彼は、「それらを燃やし、安らぎの住処、あなた自身のハートへ向きなさい」と言いました。イスラムは、安らぎ、静穏、そして最終的には、神への自分自身の委ねを意味するサラームという語根に由来します。ドイツ人作家のドイチュは、「イスラムという言葉は神の意思への絶対的な服従を含意する」と言います。4代目カリフ、預言者(ムハンマド)の娘婿であるハザラット・アリーは、「自分自身の自らを知らなければ、誰も神について少しも知ることはできない」と言いました。そのように、バガヴァーンが彼のよく知られた全ての本の中でくり返した教えを裏づけています。

  ある神秘主義の詩人は、「私が私自身になしたこと、かつて誰も自らそれをなさなかった。私自身の家(体)の中で、私は私の家の所有者(つまり、自分自身)を失った」と言いました。これはバガヴァーンの感動的な言葉への証言になりませんか。

 さらに、コーランには、「我々は神のものであり、彼のもとへ我々は帰る」(コーラン、第2章、第156詩節)と書いてあります。これはどこから我々が来て、どこに我々が行くのかを明確に示しています。人の生来の神性が、コーランにある、これらの明快な言葉において表現されています。「神は人の鼻孔に彼自身の命の息を吹き入れた(*5)。人は神の顔にならって創造された(*6)」。

 ガズナ朝とセルジューク朝の初期の時代に、偉大な哲学者で詩人のナースィル・ホスロー(*7)がいました。彼は大変優れた神秘主義者として知られていました。自らの知に関する彼の詩、「ラウシャニ・ナマ」(*8)の中で、彼は(以下のように)著しており、それはバガヴァーンのよく知られている教えへの十分な証言になっています。

あなた自身を知れ。なぜなら、あなたがあなた自身を知るなら
あなたは善と悪の違いもまた知る
まずは、あなた自身の内なる存在に親しみ
その後、全兵の司令官となれ
あなたがあなた自身を知る時、あなたは全てのことを知る
あなたがそれを知る時、あなたは一切の悪から逃れている
あなたはあなた自身の価値を知らない。なぜなら、あなたはこのようであるから
あなたがあなた自身を見るなら、あなたは神自身を見る
九つの天と七つの星はあなたの奴隷である
しかしながら、あなたはあなたの体のしもべである。もったいないことだ!
獣のごとき快楽に束縛されるな
あなたがかの至高なる幸福の探求者ならば
真の人になり、眠りと断食を捨てよ
巡礼者のごとく、あなた自身へ旅せよ
眠りと断食とは何か。理性のない獣のつとめである
あなたの魂が存続するのは、知によってである
一度でも目覚めよ。いつまで眠っているのか
あなた自身を見よ。あなたは十分に素晴らしい何かである
今、熟考せよ。あなたがどこから来たのか思案せよ
そして、なぜに今、あなたはこの牢獄にいるのか
檻を破れ。あなた自身の天空の駅へ発て
アーザルの息子、アブラハムのごとく偶像破壊者となれ
あなたはそれにならい目的を持って創造されている
あなたがこの目的を無視するなら、それは恥となる
天使にとって悪魔から命を受けるのは恥である
王にとって門番のしもべとなるのは恥である
なぜイエスが盲目でなければならないのか
ひとつ目であるのはカルンにとって誤りである
あなたはあなたの財宝の上に蛇にとぐろを巻かせている
その蛇を殺し、苦しみなくあれ
しかし、あなたがそれに餌を与えるなら、あなたは恐怖し
その限りない財宝と関わりなくなる
あなたの家の中に財宝があるのに、あなたは物乞いである
あなたの手には奴隷がいるのに、あなたの心は傷ついている
あなたは眠っている。どのようにして旅の目的地に着くのか
あなたは魔法を作り上げ、財宝を気にしない
急ぎ、魔法を破り、財宝を取れ
少しの苦しみを引き受け、あなたから苦しみを取り去れ

 神秘主義の第一人者であるジャラール・ウッディーン・ルーミー(*9)は、R.A.ニコルソンの『ルーミー-詩人であり、神秘主義者』(*10)の中で引用され、(以下のように)言います。

 ジャラール・ウッディーンは、「儀式的祈りよりも近い、神への道はありますか」と尋ねられました。「いいえ」と彼は答えました。「しかし、祈りは形のみに存するのではありません。形や体、言葉と音の性質を帯びる一切のもののように、形式的な祈りには始まりがあり、終わりがあります。しかし、魂は制限がなく、無限です。それは始まりもなく、終わりもありません。預言者たちは祈りの本質を示しています.... 祈りとは、魂がおぼれ死ぬこと、魂の無意識であり、その結果、これら全ての形は外に留まります。その時、純粋な神霊であるガブリエルの余地さえありません。このように祈る人は一切の宗教的義務を免除されていると言えます。なぜなら、彼は理性を奪われています。神聖な一体性に溶け込むことが祈りの極意です。

 「ハエが蜂蜜に投げ入れられる時、体の全ての部分は同じ状態にさせられ、ハエは動けません。同様に、イシュティグラク(*11)(神への没入)という言葉は意識的な存在、主導権、動きを持たない者に適用されます。彼から起こるどのような行為も彼のものではありません。彼がいまだ水の中でもがくか、彼が『ああ、私はおぼれ死につつある』と叫ぶなら、彼は没入の境地にいるとは言われません。これがアナッル・ハック(*12)、「私は神である」という言葉によって意味されることです。人々はそれが僭越な主張であると思いますが、実際はアナッル・アブド(*13)、『私は神の奴隷である』と言うことが僭越な主張であり、アナッル・ハック、「私は神である」は大変な謙虚さの表現です。アナッル・アブド、『私は神の奴隷である』と言う者は、二つの存在-彼自身と神の存在-を肯定してます。しかし、アナッル・ハック、『私は神である』と言う者は、彼自身を存在しないものとなし、彼自身を捨て去り、『私は神である』、すなわち、『私は存在しない、彼が全てである。神のもの以外の存在はない』と言います。これは謙虚と自己卑下の極致です。」

 この二つの引用は、「自らの探求」や「私は誰か」やその他の本に具現化されているように、バガヴァーンの教えへのまったく十分で、最も明快な証言になります。

スーフィーの音楽、ルーミーからの引用と共に

(*1)パーリア・・・社会的に排除された人々、南インドの低いカーストの人々。
(*2)パンチャマ・・・文字通りの意味は、第五番目。4つのヴァルナに属さないアウトカーストの人々。
(*3)Ana mislakum・・・おそらく、コーランの第18章、第110詩節に当たると思います。
(*4)Al faqr fakhri・・・ファクルが「貧しさ」、ファフリが「誇り、栄光」。
(*5)おそらく、旧約聖書の「創世記」、第2章、第7詩節に当たると思います。
(*6)おそらく、旧約聖書の「創世記」、第1章、第27詩節に当たる思います。
(*7)ナースィル・ホスロー・・・Nasir-e-khusrau、
(*8)ラウシャニ・ナマ・・・「Raushani nama」。wikiでは「Rawshana'i-nama」 となっています。「悟りの書」の意。
(*9)ジャラール・ウッディーン・ルーミー・・・Jalaluddin(Jalalu'l-Din) Rumi。別の表記では、Jalāl ad-Dīn Muhammad Rūmī となっています。
(*10)『Rumi, Poet and Mystic』、R. A. Nicholson 著
(*11)イシュティグラク・・・istighraq
(*12)アナッル・ハック・・・Ana'l Haqq。Ana al Haqとも。「私は真理である」という訳もあります。
(*13)アナッル・アブド・・・Ana'l abd。Ana al abdとも。「私は神のしもべである」という訳もあります。

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