2013年1月29日火曜日

神のニヤティ(定め)、運命 - 個人の責任、罪、自由意思は存在するか

◇『バガヴァーンと日々をともにして(Day by Day with Bhagavan)』 

1945年12月29日 夜

 P.C.デーサーイー氏が、P.C.デワンジ氏(引退した副裁判官)を紹介しました。彼はトリヴァンドラムから戻る途中で、哲学会議の一部門を主催していました。

P.C.デワンジ氏:
 心の一点集中を達成するための最も容易な道とは何でしょうか。

バガヴァーン:
 最良の方法は、心の源を見ることです。心というようなものが存在するのか確かめなさい。心が存在する場合にのみ、それを一点に集中させるという問題が生じます。あなたが内に向くことによって探求する時、心というようなものは存在しないと気づきます。

 そこで、P.C.デーサーイー氏はバガヴァーンのサンスクリット語の「ウパデーシャ・サーラ」を引用しました。その趣旨は、「心の性質を継続的に、もしくは、途切れなく探求する時、心というようなものは存在しないと気づく。これが全ての人にとって真っ直ぐな道である」でした。

P.C.デワンジ氏: 
 我々の聖典では、神が全てを創造し、維持し、破壊する、そして彼は全てに内在すると言われています。そうであるなら、そして神が全てを行うなら、そして我々が行うこと全てが神のニヤティ(おきて、法)に従い、広大無辺な意識によってすでに計画されているならば、個々の性格やそれに対する責任はあるのでしょうか。

バガヴァーン:
 もちろん、あります。同じ聖典が、人がなすべきこと、なさざるべきことに関する規則を定めています。もし人に責任がないならば、どうしてそのような規則が定められなければならないのですか。

 あなたは神のニヤティとそれに従って起こる物事について話します。あなたが神に、「この創造などの全てがどうしてあるのでしょうか」と尋ねるならば、彼は「それはあなたのカルマによります」と更にあなたに言うでしょう。

 あなたが神と全てのものに働いている彼のニヤティを信じているならば、あなた自身を彼に完全に委ねなさい。そうすれば、あなたの責任はなくなります。そうでなければ、あなたの本質を見つけだし、それにより自由を達成しなさい。

 1946年8月21日

ベンガルからの訪問者:
 シャンカラは我々みなが自由であり、束縛されておらず、そして我々みなが火炎から火花が出るように我々がそこからでた神のもとへ帰ることになっていると言います。では、どうして我々はあらゆる類の罪を犯すべきでないのでしょうか。

バガヴァーン:
 我々が束縛されていないこと、つまり、真の自らに束縛がないということは真実です。あなたが最終的にあなたの源へ帰ることも真実です。しかし、それまでは、あなたが言うところの罪を犯すならば、あなたはそのような罪の結果に向きあわねばなりません。あなたはその結果から逃れられません。もし人があなたを叩くなら、その時、「私は自由だ。私はこれらの殴打によって束縛されていないし、何の痛みも感じない。彼にどんどん叩かせよう」と言えますか。あなたがそのように感じられるならば、好きなことをし続けても良いでしょう。単に口先で「私は自由だ」と言うことが、何の役に立つのですか。

訪問者:
 書籍では、自らの実現のための様々な方法が言及されています。どれが最も簡単で、最も良いのでしょうか。

バガヴァーン:
 様々な方法は、様々な心に適するために言及されています。それらは全て良いのです。あなたが最も気に入るどんな方法でも選べます。

◇『シュリー・ラマナ・マハルシとの対話(Talks with Sri Ramana Maharshi)』 

Talk 426.  1937年5月12日 (p409、抜粋)

信奉者:
 人間は自由意志を持っているのでしょうか、それとも人生の全てのことはあらかじめ運命づけられているのでしょうか。

マハルシ:
 自由意思は、個人性と連携して陣地を保持しています。個人性が存続する限りは、自由意志も存在します。全てのシャーストラ(聖典)はこの事実に基づいており、シャーストラはその自由意志を正しい方向に向けるように勧めています。

 自由意思、もしくは、運命が誰にとって問題であるのか見出しなさい。それに留まりなさい。その時、それら二つは超越されます。それが、それらの問題を議論する唯一の目的です。それらの問題が誰に起こったのですか。見つけ出し、安らかにありなさい。

『マハルシの福音』 第1巻 第1章 仕事と放棄

◇『Maharshi’s Gospel -The Teachings of Sri Ramana Maharshi』 2009年15版 p3-9

マハルシの福音


第1巻 第1章 仕事と放棄 

信奉者:
 人にとって霊的体験の最高の目標とは何ですか。

マハルシ:
 自らの実現です。

信奉者:
 結婚している人は自らを実現できますか。

マハルシ:
 もちろんです。結婚していても結婚していなくても、人は自らを実現できます。なぜなら、それは今ここにあるからです。仮にそうでなく、何らかの努力によってある時に得られるなら、そして、仮にそれが新たなもので、獲得されなければならないなら、それは追求に値しないでしょう。なぜなら、自然でないものは永遠でもないからです。しかし、私が言うことは、自らは今ここに、ただ一人いるということです。

信奉者:
 大海に沈みゆく塩で出来た人形は、防水膜によって守られないでしょう。私たちがその中で明けても暮れても苦労して働かなければならない、この世界は、大海のようです。

マハルシ:
 ええ、心がその防水膜です。

信奉者:
 それでは、人は仕事に従事しながらも、欲望なく、独居を続けることがあるのですか。しかし、人生の義務は、瞑想して座るための、祈るための時間さえほとんど与えません。

マハルシ:
 ええ。愛着を持って行われる仕事は束縛ですが、愛着なく行われる仕事は行為者に影響しません。彼は、働いている間さえ、独居にいます。あなたの義務に従事することが、真のナマスカール(*1)です.....そして、神の内に住まうことが、唯一の真のアーサナ(*2)です。

信奉者:
 私は家を放棄すべきではないのでしょうか。

マハルシ:
 仮にそれがあなたの運命であったのなら、その質問は起こらなかったでしょう。

信奉者:
 では、どうしてあなたは青年時代に家を出たのですか。

マハルシ:
 神の摂理(*3)以外、何も起こりません。今世での人の行為の過程は、人のプラーラブダ(*4)によって決定されます。

信奉者:
 私の全ての時間を自らの探求に捧げるのは良いことですか。それが不可能ならば、私はただ黙ってさえいればいいのでしょうか。

マハルシ:
 他のどのような追求にも従事することなく、あなたが黙っていられるなら、それはとても良いことです。それが行えないなら、実現に関する限り、黙っていることが何の役に立ちますか。人が活動的であることを余儀なくされる限り、彼に自らを実現する試みを放棄させないようにしましょう。

信奉者:
 人の行為は、後の誕生において人に影響を与えませんか。

マハルシ:
 あなたは今、生まれるのですか。どうして他の誕生について考えるのですか。実のところ、誕生もなく死もありません。生まれる者に死とそれの緩和策について考えさせましょう!

信奉者:
 あなたは私たちに死者を見せられますか。

マハルシ:
 あなたは親類の死後に彼らを知ろうと努めますが、あなたは彼らの誕生の前に彼らを知っていましたか。

信奉者:
 モークシャ(*5)の体系において、どのようにグリハスタ(*6)は暮らしてゆくのでしょうか。彼は解放を得るために必ずしも乞食者にならなくてもいいのでしょうか。

マハルシ:
 どうして自分はグリハスタであるとあなたは思うのですか。サンニャーシン(*7)として出てゆくとしても、自分はサンニャーシンであるという同様の思いがあなたに付きまとうでしょう。家庭に居続けても、それを放棄して森に行っても、あなたの心はあなたに付きまといます。自我が思いの源です。それは体と世界を創造し、あなたにグリハスタであると思わせます。あなたが放棄するなら、グリハスタという思いがサンニャーサ(*8)のそれに、家庭という環境が森のそれにとって代わるだけでしょう。しかし、心の障害物はあなたにとっていつもそこにあります。それは新しい環境で大いに増しさえします。環境を変えても仕方ありません。唯一の障害は心であり、家であっても森であっても、それが乗り越えられなければなりません。あなたが森でそれを行えるなら、どうして家でできないのですか。ですから、どうして環境を変えるのですか。あなたの努力は今でも、どのような環境でも、行えます。

信奉者:
 世俗的な仕事で忙しくしながら、サマーディ(*9)を享受することは可能ですか。

マハルシ:
 「私は働く」という感覚が妨害物です。「誰が働くのか」あなた自身に尋ねなさい。あなたは誰か思い出しなさい。その時、仕事はあなたを束縛しないでしょう。それは自動的に進んでゆくでしょう。働こうとも放棄しようとも努力しないように。あなたの努力は束縛です。起こるように定められていることは起こるでしょう。あなたが働かないように定められているなら、あなたがそれを探し回っても仕事は得られないでしょう。あなたが働くように定められているなら、あなたはそれを避けることはできないでしょう。あなたはそれに従事するように強いられるでしょう。ですから、高き力(*10)に任せなさい。あなたは好きなように放棄することも保持することもできません。

信奉者:
 昨日、バガヴァーンは、人が「内で」神の探求に従事している間に、「外の」仕事は自動的に進んで行くでしょうと言いました。シュリー・チャイタンヤ(*11)の人生で、生徒への彼の講義の間、彼は本当は内でクリシュナ(自ら)を探し求めていて、彼の体についてすっかり忘れ、クリシュナのみと話し続けていたと言われています。このことから、仕事を安全に放っておけるのかという疑問が生じます。人は身体の働きに部分的な注意を留めておくべきではないでしょうか。

マハルシ:
 自らは全てです。あなたは自らと離れていますか。あるいは、仕事は自らなしで進んで行けますか。自らは広大無辺です。ですから、全ての行動は、あなたが懸命にそれに従事してもしなくても、進んで行くでしょう。仕事はひとりでに進んで行くでしょう。それゆえに、クリシュナはアルジュナにわざわざカウラヴァ達を殺す必要はないと言ったのです。彼らはすでに神によって滅ぼされていました。彼の手中にあったのは、働こうと決意し、それについて気をもむことでなく、彼自身の本質に高き力の意思を遂行するのを許すことでした。

信奉者:
 しかし、私が注意を払わなければ、仕事は駄目になるかもしれません。

マハルシ:
 自らに注意を払うことが、仕事に注意を払うことを意味します。あなたはあなた自身を体と同一視しているので、あなたによって仕事が行われると考えています。しかし、仕事を含め、体とその活動は、自らと離れていません。あなたが仕事に注意を払っても払わなくても、どうだっていいじゃありませんか。仮にあなたがある場所から別の場所に歩いて行くとしましょう。あなたはその歩みに注意を払いません。それでも、しばらくして気がつくと、あなたは目的地についています。あなたが注意を払わずに、どのように歩くという業務が進んで行くか分かりますね。他の類の仕事も同じです。

信奉者:
 それではまるで眠りながら歩くようです。

マハルシ:
 まるで、夢遊病?まさしくそうです。子供がぐっすり眠っている時に、母親が彼に食事を与えます。子供ははっきり目が覚めているときと同じ様に、食事をとります。しかし、翌朝、彼は母親に、「お母さん、昨日の夜、僕ごはん食べてないよ」と言います。母親たちは彼が食べたことを知っていますが、彼は食べなかったと言います。彼は気づいていませんでした。それでも、行動は進んで行きました。

 荷車の中の旅人が眠りに落ちました。旅の間、雄牛は移動するか、じっと立つか、頸木(くびき)を外されています。彼はそれらの出来事を知りませんが、目覚めた後に自分が別の場所にいることに気づきます。彼は幸福にも途中の出来事を知らないでいましたが、旅は終えられました。人の自らも同様です。常に目覚めている自らは、荷車の中で眠る旅人に例えられます。目覚めている状態は、雄牛の移動です。サマーディは、雄牛がじっと立つことです(なぜなら、サマーディはジャーグラット・スシュプティ(*12)を意味します。つまり、人は気づいていますが、行動に関係していません。雄牛は頸木をかけられていますが、動きません)。眠りは雄牛の頸木を外すことです。なぜなら、頸木を外した雄牛の安堵に対応する活動の完全な停止があります。

 あるいはまた、映画を例にとりましょう。映画のショーでは、場面がスクリーンに投影されます。しかし、動く映像はスクリーンに影響を与えたり、変えたりしません。観客は、スクリーンではなく、映像に注意を払います。映像はスクリーンから離れて存在できませんが、スクリーンは無視されます。そのようにまた、自らもスクリーンであり、そこで映像、活動などが進んで行くのが見られます。人は後者に気づいていますが、不可欠の前者に気づいていません。まったく同様に、映像からなる世界は、自らと離れていません。彼がスクリーンに気づいていても気づいていなくても、行為は継続するでしょう。

信奉者:
 しかし、映画には操作者がいます!

マハルシ:
 映画のショーは感覚のない器具から作られています。ランプ、映像、スクリーンなど、全ては感覚がないので、それらは操作者、感覚ある行為の主体者を必要とします。他方、自らは絶対的な意識であり、そのため自己充足しています(他の助けを必要としません)。自らと離れて操作者がいるはずはありません。

信奉者:
 私は体を操作者と混同しているのではありません。むしろ、私はギーターの第18章・61詩節のクリシュナの言葉に言及しているのです。

主は、おぉ、アルジュナよ、あらゆる存在のハート(中心)に住する
彼は、その惑わす力により、まるで機械の上に置かれたように全存在を回転させる

マハルシ:
 操作者の必要性を求める体の機能が考慮されています。体はジャーダ、すなわち、感覚がないため、感覚がある操作者が必要です。人々が自分たちをジーヴァ(*13)であると思うので、クリシュナは神がジーヴァの操作者としてハートに住むと言いました。実のところ、ジーヴァはおらず、いわば、ジーヴァの外側に、操作者はいません。自らは全てを含んでいます。それはスクリーン、映像、見る人、俳優、操作者、光、劇場、その他の全てです。あなたが自らを体と混同すること、そして、あなた自身を行為者(actor)と想像することは、見る人が彼自身を映画のショーの俳優(actor)だと思い描くようなものです。その俳優がスクリーンなしで場面を演じられるかどうか尋ねていると想像してみなさい!自らと離れてその行動について思う人でも事情は同じです。

信奉者:
 逆に、それは観客に映画の映像の中で演技するように頼むようなものです。では、私たちは「眠って目覚めていること」を習わなければなりません!

マハルシ:
 行動や状態は、人の視点に従います。カラスや象や蛇は、1本の手足を2つの目的のためにかわるがわる利用します。1つの目で、カラスは両側を見ます(*14)。象にとって、鼻(全体)(trunk)は手と(においをかぐ)鼻(nose)の両方の目的に役立ち、蛇はその目で見も、聴きもします。あなたがカラスが1つの目、もしくは、両目を持っていると言っても、象の鼻(trunk)を「手」、もしくは、「鼻(nose)」と言っても、蛇の目を耳と呼んでも、それは全く同じものを意味します。ジニャーニ(*15)の場合も同様で、「眠って目覚めていること」、「目覚めている眠り」、「夢を見ている眠り」、「夢を見ながら目覚めている状態」は、ほとんど全く同じことを意味します。

信奉者:
 しかし、我々は物質的な目覚めている世界の中で、肉体を扱わなければなりません!仕事が進んでゆく間に眠るか、もしくは、眠っている間に仕事をしようと試みるなら、仕事は駄目になるでしょう。

マハルシ:
 眠りは無知ではありません。それは人の純粋な状態です。目覚めている状態は知識ではありません。それは無知です。眠っているときに完全な自覚があり、目覚めているときに全くの無知があります。あなたの本性は、両方に及んでいて、それを超えて広がっています。自らは、知識と無知の両方を超えています。眠りと夢と目覚めの状態とは、自らの前を通過する様態でしかありません。あなたがそれらに気づいていてもいなくても、それらは進みます。それがジニャーニの状態であり、乗客が眠っている間に、牛が移動するか、立っているか、頸木を外されているように、彼の中でサマーディ、目覚め、夢、深い眠りの状態が通過します。これらの答えはアジニャーニ(*16)の観点からのものです。そうでなければ、そのような質問は起こらないでしょう。

信奉者:
 もちろん、質問が自らにとって生じることはありません。尋ねるべき誰がいるでしょうか。ですが、不運なことに、私はまだ自らを実現していないのです!

マハルシ:
 まさにそれがあなたの行く手の障害物です。あなたは自分がアジニャーニであり、いまだ自らを実現していないという考えを取り除かなければなりません。あなたは自らです。あなたがかの自らに気づいていなかった時がかつてありましたか。

信奉者:
 それでは、我々は「眠って目覚めていること」を試してみなければいけません.....もしくは、白昼夢をでしょうか。

マハルシ:
 (笑う)

信奉者:
 私は、サマーディに没入した人の肉体は、自らの不断の「観想」の結果として、その理由のために動かなくなることがあると主張します。それは活動的か、不活発なことがあります。そのような「観想」に打ち立てられた心は、体や五感の動きによって影響されないでしょう。心の動揺もまた、肉体の活動の前兆ではありません。しかしながら、別の人は肉体の活動がサマーディ、不断の「観想」を確実に妨げると断言します。バガヴァーンの意見はどうでしょうか。あなたは私の主張の変わることのない証明なのです。

マハルシ:
 あなたたち2人とも正しいのです。あなたはサハジャ・ニルヴィカルパ・サマーディ(*17)について言及し、他の人はケーヴァラ・ニルヴィカルパ・サマーディ(*18)について言及しています。後者の場合は、心は自らの光の中に浸っています(それに対して、深い眠りでは、心は無知の暗闇の中にあります)。そして、サマーディから目覚めた後、主体はサマーディと活動を区別をします。さらに、体の、視覚の、生命力の、心の活動、そして、対象物の認識、これら全てはケーヴァラ・ニルヴィカルパ・サマーディを実現しようと努める人にとって障害物です。

 サハジャ・サマーディでは、しかしながら、心は自らに溶け込んでいて、失われています。上で述べられた相違と障害は、そのため、ここには存在しません。そのような人の活動は、眠たげな男の子に食事を与えるように、見る者には知覚できますが、主体には(知覚)できません。動く荷車の中で眠る旅人は、その心が暗闇に沈んでいるため、荷車の動きに気づきません。それに対して、サハジャ・ジニャーニは、その心が、チダーナンダ(自らの至福)の恍惚に溶け込んだため、死んでいるので、身体的活動に気づかないままです。

 自らを実現した賢者の心は、完全に破壊されています。それは死んでいます。しかし、見る者には、彼は普通の人のように心を所有しているように見えるかもしれません。それゆえ、賢者の中の「私」は見せかけの「客観的現実性」を持つに過ぎません。しかしながら、実際、それは主観的実在性も持たず、客観的現実性も持ちません。


眠り ケーヴァラ・ニルヴィカルパ
・サマーディ
サハジャ・ニルヴィカルパ
・サマーディ
1) 心は生きている 1) 心は生きている 1) 心は死んでいる
2) 無意識の中に沈んでいる 2) 光の中に沈んでいる 2) 自らの中に溶け込んでいる
3) 縄に結ばれ、井戸水の中に
  置かれているつるべのよう
3) 海に注がれ、川としての性
  質を失った川のよう
4) 縄のもう一方の端によって
  引き上げられる
4) 川が海から流れ出ることは
  ありえない
(原注) 眠りとケーヴァラ・ニルヴィカルパ・サマーディとサハジャ・ニルヴィカルパ・サマーディの相違は、シュリー・バガヴァーンによって示された表の形で明確に表わすことができます。

(*1)ナマスカール・・・お辞儀する(敬意を表す)行為
(*2)アーサナ・・・瞑想のためにとられる姿勢
(*3)神の摂理・・・「Divine dispensation」の訳。 摂理は、「神あるいは神的存在の被造物に対する計画・導き」を意味するようです。
(*4)プラーラブダ・・・運命、現在の人生において経験されるように割り当てられた過去の行為の結果の一部。
(*5)モークシャ・・・解放
(*6)グリハスタ・・・家庭を持つ人、結婚生活する人
(*7)サンニャーシン・・・放棄した人、出家者
(*8)サンニャーサ・・・放棄
(*9)サマーディ・・・自らへ吸収された状態。シュリー・バガヴァーンの定義によると、その中には「私は在る」という実感のみあり、思いは何もない」。
(*10)高き力・・・「the higher power」の訳。Wiktionaryによると「神や、超自然的な力」を指すようです。
(*11)シュリー・チャイタンヤ・・・「チャイタンヤ・マハープラブ」。ヴァイシュナバ(ヴィシュヌ派)の16世紀の聖者。
(*12)ジャーグラット・スシュプティ・・・目覚めた眠りの状態。思いは何もないが、「私は在る」という実存かつ意識の完全な自覚がある。
(*13)ジーヴァ・・・個々の人々
(*14)南インドには、カラスが一つの目で両方を見ているという話があるようです。
(*15)ジニャーニ・・・「自らの知」を実現した人
(*16)アジニャーニ・・・自分の本質について無知な人
(*17)サハジャ・ニルヴィカルパ・サマーディ・・・サマーディ、もしくは、完全に自らへ吸収された永続的で、自然な状態。
(*18)ケーヴァラ・ニルヴィカルパ・サマーディ・・・・サマーディ、もしくは、自らへ吸収された一時的な状態。

2013年1月22日火曜日

アルナーチャラ(アンナーマライ)山とアルナーチャレーシュワラ寺院

◇『シュリー・ラマナ・マハルシと向かい合って(Face to Face with Sri Ramana Maharshi)』 

付録1-ティルヴァンナーマライのアルナーチャラ山とアルナーチャレーシュワラ寺院

アルナーチャラ山

 シュリー・ラマナが50年以上住んだ偉大なアルナーチャラ山は、タミル・ナードゥのティルヴァンナーマライという町にあります。その街自体がアンナーマライ山(*1)にちなんで名づけられ、タミル語で「シュリー」に相当する接頭辞の「ティル」を伴っています。タミル語の「アンナーマライ」という言葉は、「たどり着けない山」を意味しています。「アンナル」は主シヴァの特別の名前であり、彼はその場所に火の柱の姿で現れました。その頂上にも、根元にも近づけないため、それゆえ、たどり着けないのです。そうして、山はアンナル・マライ(マライはタミル語で山を意味します)として知られるようになりました。その言葉はゆっくり訛(なま)ってゆき、アンナーマライとなりました。ポール・ブラントンは、『アルナーチャラからのメッセージ』の中で、アメリカ出身の地質学者の友人が、アルナーチャラは、石炭を産出する地層が形成されるよりもさらに前のはっきりしない時代に、激しい火山の噴火の圧力を受けて地表によって持ち上げられたという見解を抱いていたと記しています。

 周囲約10kmであるその山は、最も高い地点で海抜(およそ)3000フィート(914.4m)の高さまであります。アルナーチャラは、アルナギリとしても知られています。シュリー・ラマナは、アルナは「赤い」、「火のように明るい」を意味すると説明しました。この火は、知恵の火(ジニャーナグニ)です。アーチャラ、もしくは、ギリは山です。ですから、それは知恵の山を意味します。アーディ・シャンカラは、それは伝説のメール山(*2)であると言明しました。

 その本の初めのシュリー・ラマナの人生の概略の中に記されているように、「アルナーチャラ」というまさにその言葉は、どいうわけか、シュリー・ラマナを子供のころから魅了していました。アルナーチャラを尋ね、彼は家を離れました。後に残した短い手紙で、彼は彼の父なる神(Father)を探しに行きますと述べました。彼にとって、アルナーチャラはただの山ではありませんでした。それは絶対的な聖霊(Spirit)の目に見える象徴でした。

 信奉者のお気に入りである彼の詩、アルナーチャラ・アクシャラ・マナ・マーライ(*3)は、「アルナーチャラへの文字で編まれた婚礼の花輪」を意味します。それは婚礼の神秘主義(マドゥラ・バクティ(*4))の好例です。ここでシュリー・ラマナは親しい愛の言葉を用い、主と会話しています。彼はまた、彼の愛しいアルナーチャラに恋焦がれ、おだて、叱り、言い争っています。その詩はシュリー・ラマナによって、1913年、彼が13kmの山の周りを巡っている時に作られました。ギリ・プラダクシナとして知られるこの儀式はシヴァ神の信奉者により熱心に行われ続けています。

 シュリー・ラマナはかつて、「山の聖なる部分からとった石を欲しがる海外からの人もいます。彼は山全体が神聖であることを知りません。山は主シヴァ自身です。我々が我々自身を体と同一視するように、シヴァも彼自身を山と同一視することを選びました」と言いました。

アルナーチャレーシュワラ寺院(*5)

 その名前が示すように、これはアルナーチャラのイーシュワラ(神)、つまり、主シヴァの寺院です。これは南インドでもっとも大きい寺院の一つで、1000年以上経っています。寺院の構造は、本当に驚くべきものです。東の塔(ゴープラム)は217フィート(66.1m)の高さがあります。巨大な寺院には、数多くの神殿、マンダパム、ゴープラム、囲い地があります。

 シュリー・ラマナの最初の伝記作家であるB.V.ナラシンハ・スワーミーによると、シュリー・ラマナは、1896年9月1日の朝にティルヴァンナーマライの駅に降りた後、この偉大な寺院へまっすぐに進みました。彼が最も奥の神殿に進んだ時、彼以外に誰も人はいませんでした。彼は(リンガムの形の)アルナーチャレーシュワラに、「おお、神よ。あなたの招きに従い、私は全てを捨て、やって来ました」と呼びかけました。彼はしばらくの間そこに恍惚として立ち、それから聖域を離れました。シュリー・ラマナのティルヴァンナーマライの最初の数か月の滞在は、この寺院の様々な場所で、深い瞑想の中に過ごされました。

曲:Joy 「Sri Deva Ashtottara Shata Namavalih」

(*1)アンナーマライ山・・・「アルナーチャラ」はサンスクリット語で、タミル語では「アンナーマライ」となります。
(*2)メル山・・・シュメル(素晴らしいメル)やマハーメル(偉大なメル)とも呼ばれる。ヒンドゥー教、ジャイナ教、仏教の宇宙論における聖なる山で、全ての世界の中心とみなされている。主ブラフマーや半神半人の住処でもある。
(*3)http://arunachala-saint.blogspot.jp/2012/01/marital-garland-of-lettersakshara-mana.html
(*4)神を自分の愛しい人に見立て、表わす献身。信奉者を神のすぐ近くに連れてくるとても力強い献身の形。
(*5)アルナーチャレーシュワラ寺院の美しい写真 → http://yutan123.world.coocan.jp/tb/ind/tiruvannamalai.htm

2013年1月20日日曜日

一切の疑問の克服するには、モウナ・ディークシャーの意義

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』 

45年10月18日 朝

 パンジャーブからの訪問者がバガヴァーンに、「瞑想する時、私は時にある種の至福を感じます。そのような場合、自分自身に『この至福を経験しているのは誰か』と尋ねるべきでしょうか」と尋ねました。

バガヴァーン:
 経験されるものが自らの真の至福であるならば、つまり、心が自らに本当に溶け込んでいるならば、そのような疑問はまるで起こりません。質問自体が、真の至福に到達されていなかったことを示しています。

 疑う者と彼の源が見つけられている時にのみ、一切の疑問が止みます。疑問を取り除くことは役に立ちません。一つの疑問を晴らしても、別の疑問が起こり、疑問に終わりはありません。しかし、疑う者の源を探し求めることによって、疑う者が実際には存在しないということが見出されるならば、その時、一切の疑問は止みます。

訪問者:
 時々、私は内部で起こる音を聞きます。そのようなことが起こる時、何をすべきでしょうか。

バガヴァーン:
 何が起こっても、現実に到達するまで、「この音を誰が聞くのか」尋ね、自らの探求を続けなさい。

 最近、アクシャラジニャによる「Sri Ramana, the Sage of Arunagiri」の第2版が出版されました。あちこち拾い読みしていると、バガヴァーンが彼の弟子を様々な方法で-初心者は「見ること」によって、中ほどの者は「思い」によって、進んだ者は「触れること」によって-祝福するという文章に出くわしました。

 かつて、私がタミル語の「カイヴァルヤム」(*1)を読んでいた時、バガヴァーンに、「多くの本では、グルが弟子の頭を手や足で触れることによって弟子を祝福する、もしくは、ディークシャー(*2)を与えることが書かれています。それでは、いったいどうしてバガヴァーンはそのような事をしないのでしょうか」と尋ねました。バガヴァーンは私に、「本でディークシャーの三つの方法、すなわち『見る、触れる、思い』によるディークシャーが言及されているのは本当です。しかし、実際は、思いによるディークシャーが最良です」と言いました。

 それで今日、私はバガヴァーンにアクシャラジニャの本の中の上記の文章のついて尋ねて、「彼もまたバガヴァーンをよく知っています。彼がそのように言うには何か理由があるはずです」と言いました。バガヴァーンは、「わかりません」と言い、「ディークシャーを与えようという意図はなく、偶然か、もしくは、その他の理由で触れたのかもしれません」と言い足しました。

 これに関連して、(その出来事が起こった時にいた)G.V.スッバラーマヤ氏を証人として書き留められるでしょうが、数年前、北インド出身の年をとった際立った容貌をした尊敬すべき行者が、アーシュラムにひと月ほど滞在していていました。彼は「バガヴァッド・ギーター」すべてを暗誦したものでした。彼の出発の日に、バガヴァーンは以下のような状況で彼に触れました。

 朝の散策の後、バガヴァーンは講堂にもどり、寝椅子の上に座りました。彼の両足がまだ地面に触れている間に、上記の行者はバガヴァーンの足もとにひれ伏し、彼の頭はほとんどバガヴァーンの両足に触れんばかりでした。彼は触れるディークシャーによって彼を祝福してくださるようバガヴァーンに懇願し、バガヴァーンがそのようにするまで立ち上がらないと加えて言いました。そこで、バガヴァーンは快く片方の手をその老年の男性の頭におき、もう片方の手で彼を起こしました。

 この全ての会話が行われている間、シュリニヴァーサ・ラオ医師が、リューマチ性の病気を患っていたバガヴァーンの両足をマッサージしていました。バガヴァーンはユーモラスに、「今、触れることによってドクターが私にディークシャーを与えています」と発言しました。15日ほど前、その医師がバガヴァーンの両足をマッサージしている時に、「あなたは十分にしました。座りに行ってかまいません。私は自分自身をマッサージして、プンニャを得ましょう。どうしてあなたばかりが全てのプンニャを得るべきなのですか」と言い、彼自身をマッサージし始めました(プンニャは、たとえば師への奉仕によって得られる聖なる福徳です)。

(*1)カイヴァルヤム・・・・おそらく「カイヴァルヤ・ナヴァニータム」のこと。
(*2)ディークシャー・・・「清めること、手ほどき」。サンスクリット語の語根「 (与えること) 」と 「kṣi (破壊すること)」か、もしくは動詞の語根「dīkṣ(捧げる、清める)」に由来する。

◇『シュリー・ラマナ・マハルシとの対話(Talks with Sri Ramana Maharshi)』

Talk 433.(抜粋)

信奉者:
 バガヴァーンはディークシャーを与えますか。

マハルシ:
 モウナ(沈黙)は、最も力づよい最良のディークシャーです。それはシュリー・ダクシナームールティによって実践されました。触れる、見るなどは低い序列のものです。沈黙(モウナ・ディークシャー)は全ての者の心を変えます。

Talk 518.(抜粋)

マハルシ:
 恩寵の最高の形は、沈黙(モウナ)です。それは最高のウパデーシャでもあります。

信奉者:
 ヴィヴェーカーナンダもまた、沈黙が祈りの最も大きな声の形であると言っています。

マハルシ:
 そうです。探求者の(心の)沈黙のためには、グルの沈黙が最も大きな声のウパデーシャです。それは最高の形での恩寵でもあります。他の全てのディークシャー、例えば、スパルシャ(触れる)、チャクシュ(見る)はモウナに起源を持ちます。それゆえ、それらは二次的なものです。モウナは第一(根本)の形です。グルが沈黙しているなら、探求者の心は自然と清められます。

信奉者:
 人が世俗的な病によって苦しんでいる時、人が神やグルに祈るのは適切なことですか。

マハルシ:
 疑う余地なく(そうです)。

Talk 519.(抜粋)

マハルシ:
  ダクシナームールティは、弟子が彼に近づいた時、沈黙を守りました。それは清めの最高の形です。それは他の形を包含しています。他のディークシャーには主体‐対象の関係性が確立されていなければいけません。はじめに主体が出てきて、次に対象が出ます。この二つがそこになければ、どうして他方を見たり、触れたりする一方が存在できますか。モウナ・ディークシャーは最も完全なものです。それは見る、触れる、教えるを含んでいます。それは人をあらゆる方法で清め、現実に打ち立てます。

2013年1月11日金曜日

バガヴァーン・ラマナのユーモア - クンジュ・スワーミーの思い出

◇『大いなる愛と恩寵(Surpassing Love and Grace)』、p136~138

12.シュリー・バガヴァーンのユーモア

エブリン・カセロウ

 私がバガヴァーンがかつて冗談を言ったことがあるのか、かつて楽しげな様子でいたことがあるのか尋ねた時、シュリー・クンジュ・スワーミーはいわば私の誤りを正すために私に飛びつき、恍惚とした状態になりました。彼は目に涙を浮かべ、言いました。「バガヴァーンはあなたが考えうる最も自然体の(飾らない)人です。彼はとても繊細なユーモアの感覚を持っていました。それは誰も傷つけず、決して誰かを狙ったものではありませんでした。彼はまた他人の冗談も理解しました。それが自分を犠牲にするものであってもです!」。私はもどかしくなり、彼にいくつか実例を話してほしいと思いました。彼は以下のことを語りました。

 ある時、男の子がシュリー・バガヴァーンの前に座っていました。ハエが彼を悩ませており、彼はハエを殺していました。これを見て、バガヴァーンは彼に言いました。「殺してはいけません。それは悪いことです」。少し後で、男の子はバガヴァーンをじっと見て、発言しました。「あなたは殺すことが悪いことだと言います。僕は僕を悩ませていた小さなハエを殺していただけですが、あなたは大きな虎を殺して、その皮の上に座っています。どうしてですか」。バガヴァーンは笑い、言いました。「なるほど、あなたが言うことは全く正しい!」。


 同じ男の子は、他の人と座っている時、葉っぱのお皿に給仕された食ベ物を無駄にする癖がありました。ある時、バガヴァーンは彼に、食べ終わった時、お皿の上に何も残さないようにと言いました。その日も男の子は全部食べ切れませんでしたが、口に何か詰め込み、空の葉っぱを出しました。バガヴァーンは彼が空の葉っぱを出したのを見ました。しかしながら、その男の子は葉っぱを捨てた後、口に詰め込んだ食べ物も吐きだしました。それはバガヴァーンに報告されました。彼は男の子のトリック(策略)を楽しみ、大いに笑いました。

  シュリー・バガヴァーンと他の信奉者と一緒によく山を回っていた別の男の子は、他の人たちが讃美歌や祈りの文句や聖歌をよく歌っているのに、いつも黙っていました(山の周りを歩いている時、バガヴァーンは時にはその男の子の肩を持ちさえしたものでした)。ある日、一行の全ての人が歌や何かを歌った後で、バガヴァーンはどうして彼だけが歌わなかったのか尋ねました。男の子の自然な答えは、シュリー・バガヴァーンを思う存分笑わせました。それは、「ジーヴァンムクタが歌ったりしますか」でした。

 『サット・ダルシャナ・バシャヤ』の著者であるシュリー・カパリ・シャーストリアルは、シュリー・バガヴァーンと若い時分からとても親しくしており、バガヴァーンが敬意を表す言葉を前につけることも、後につけることもなく親しげに話しかける、とてもわずかな人々の内の一人でした(バガヴァーンはとても几帳面に全ての人に、子供にさえも、必ず敬意をもって話しかけていました)。彼の両親はとても熱心に彼を結婚させようとしており、彼自身はそれに断固として反対していました。彼らは結婚するよう彼を説得するために、バガヴァーンに話を持ちかけさえしました。ある日、シュリー・カパリ・シャーストリアルはバガヴァーンに近づき、言いました。「バガヴァーン、明日、私はアーシュラマ(*1)(人生の段階)に入ることにします」。彼の結婚への反発と彼の両親の心配を知っているバガヴァーンは驚き、言いました。「カパリ、何を言っているのですか。両親の許可を取ったのですか」。彼は神妙に答えました。「ええ、バガヴァーン!私は2番目のアーシュラマ(つまり、結婚)に入ります!」。バガヴァーンは大いに笑い、冗談を楽しみました。

 ヴィラチェリー・ランガ・アイヤルの娘で、ルクミニという名前の10歳の少女は、彫像のように座り、シュリー・バガヴァーンの前でよく瞑想していました。彼女の横に座っている年上の男の子か、女の子の中には、彼女を邪魔しようとくすぐる子もいました。バガヴァーンはその全てを楽しんで見ていました。ある日、ルクミニは沐浴した後、いつものように、(ヨーギのように)瞑想のために真剣に座りました。(まだ沐浴していない)近くにいた男の子は彼女をからかって、「触っちゃうぞ」と言いました。ルクミニは、「誰も私に触れないわ!」ときっぱり答えました。バガヴァーンは彼らを見ていました。彼女はバガヴァーンの方を向き、尋ねました。「もちろん、誰も私に触れません。彼らは私の体にだけ触れます。どうして誰かがに触れるのですか」。バガヴァーンは驚いた表情をして、彼女の発言の奥深さを評価しました!

 毎日、シュリー・バガヴァーンに食べ物を与えていたムダリアール・パーティは、お米を強く握ってある形にして、おにぎりを作ることで、いつも彼に調理されたお米を多く給仕しようとしていました。ある日、シュリー・バガヴァーンは彼女のトリックに気づき、言いました。「彼女は賢い。彼女は食べ物を少なく見せることによって、それをより多く私に給仕できるだろうと思っています。私は彼女のトリックを知っています!」。バガヴァーンは彼女が手でお米を握るしぐさをしました。それをきっかけにして、ムダリアール・パーティの返答が一直線に来ました。「バガヴァーン!多いとは何ですか、少ないとは何ですか。大きいものも、小さいものもありません。全てのものは、ただ私たちのバーヴァナー(*2)(考え、思い)です」。

原注
(*2)バーヴァナーは「しぐさ」も意味します。

2013年1月7日月曜日

四つのアーシュラマの意味、個人と社会の関係性、安らぎと力、人類の目標

◇『サット・ダルシャナ・バシャヤとマハルシとの対話(Sat-Darshana Bhashya and Talks with Maharshi )』、p27~28

アーシュラマと社会の決まり


信奉者:
 人々は四つのアーシュラマ、つまり、人生で定められた務めについて話します。それら意味とは何でしょうか。

マハルシ:
 段階を追って進むことは、大多数のために意図された社会の決まりです。しかし、人がパクヴィ、よく発達した人間であるなら、彼はこの決まりを気にする必要ありません。若くても年をとっていても、男性でも女性でも、バラモンでもアウトカーストでも、人がパリパクヴィ、十分に成熟しているなら、段階を気にせずに、彼または彼女は目的に真っ直ぐに行くことができ、そして、実際に行きます。

信奉者:
 では、アーシュラマは聖なる生活に必要ありません。

マハルシ:
 はじめの三つのアーシュラマは、人生の世俗的な事柄の管理のためにあり、聖なる知識という崇高な目標に衝突しないような方法で統制されています。

信奉者:
 4番目、サンニャーサについてはどうですか。

マハルシ:
 ああ、サンニャーサとは、托鉢のお椀に親しんだり、清潔な坊主頭に剃ったり、オレンジ色のローブを身につけることにはありません。

 禁欲によって高められた純粋さを持つブラフマチャリン(生徒)が、他者、もしくは、社会への奉仕のために、離欲によって理想的な世帯主になる時、光が自然に輝き出ます。

 それから、タパスという目的のため、集中した努力のために、3番目のアーシュラマが意図されています。熱心なタパスによって、タパスヴィンが水晶のように純粋になり、適したものになる時、4番目のアーシュラマが自動的にやって来ます。私が言ったように、それは人が思うような外側の事柄ではありません。

社会と人類の目標


信奉者:
 社会への私の義務は何でしょうか。社会と私の関係性はどうあるべきでしょうか。

マハルシ:
 あなたは社会の手足です。社会は体であり、個々人はその一部、その手足です。別々の手足がお互い助けあい、協力し、そのようにして幸福であるのとまさしく同様に、各々は思い、言葉、行為において、全ての人に役立つように他者とつながるべきです...  人は彼自身の集団、つまり、彼にとって身近にある集団の福利の世話をし、その後、他の人たちに進んでかまいません。

信奉者:
 「安らぎ」であるシャーンティを高く評価する人もいれば、「力」であるシャクティを称賛する人もいます。二つの内のどちらが社会に役立つのでしょうか。

マハルシ:
 個人にとって、安らぎは絶対的に欠かせません。社会の維持のために、力は必要です。力によって人は社会を高めるべきであり、その後、その中に安らぎを確立すべきです。

信奉者:
 地上の人類がそれに向かって進んでいる目標とは何でしょうか。

マハルシ:
 真の平等と兄弟愛が、真実の目標を形作っています。なぜなら、その時、至高の安らぎが地上に行き渡ることができ、地上(地球)そのものが一つの家族となれるからです。

信奉者:
 理想は壮大です。しかし、偉大な人々、ジニャーニが洞窟で静かにいるなら、どうして社会が援助されるのでしょうか。

マハルシ:
 私は自らの達成(アートマ・ラーバ)が社会への最大の福利(善)であるとたびたび言っています...

2013年1月5日土曜日

M.アブドゥル・ワハブ(シュリー・バガヴァーンの級友)の思い出

◇『静かなる力(The Silent Power)』

「Mountain Path」と「The Call Divine」からの選集。

4.シュリー・マハルシの級友サーブ・ジャーン


セイン

 バガヴァーン・シュリー・ラマナは、聖なる山・アルナーチャラは世界の中心であり、山々の中で最も古いものであると何度も強調しました。彼はまた、それは自然のシュリー・チャクラであり、それぞれの角度から様々な見え方をすると言いました。ですから、それは形を持ち、かつ形を持たないシヴァ・リンガなのです。あらゆる方向から、それは、様々な荘厳とした姿勢で自身を表します。

 そして、同じように私もシュリー・マハルシを様々な角度から見ることを好み、そして彼の見え方の違いをいつも楽しんでいます!彼の教えや、台所での手伝いや、信奉者や無言の動物の要望さえも満たすというようなアーシュラムでの活動という点では、信奉者はバガヴァーンがタットワマ・シヴァルーパとしてある以上に、自分の父と母、そして神の化身としてあると知っています。級友の親しい友としての彼の偉大さがここでは描かれており、彼の真に愛情深い心を明らかにしています。

 (ティルチュリ出身の)ヴェンカタラーマン青年が、4・5・6学年にマドゥライのアメリカ系のミッション高校で学んでいるとき、彼はムスリムの少年と親しく交際しており、彼を親しい友として選んでいました。ヴェンカタラーマンはこのムスリムの青年をとても気に入っており、彼をサーブ・ジャーンと呼んでいました。彼の本当の名前は、M.アブドゥル・ワハブです。

 ワハブ氏は今は退職した警部であり、80歳近く、見聞きすることがうまくできません。彼は息子と共にネイヴェリに住んでいます。このことを聞いて、私はそこに彼に会いに行きました。彼はとても親切に私を迎えてくれ、彼の顔つきが安らかであることに驚きました。私は彼に学生時代のバガヴァーンについて何か話して下さいと頼みました。マハルシについての彼の話によって私は胸躍るような体験を得て、彼が後に偉大なシュリー・ラマナ・マハルシとして知られるヴェンカタラーマンと楽しんだ親密な友情を心の目で描くことができました。

 私が彼らの友情の深さを説明するように頼むと、ワハブ氏は彼の幸せな過去を回想し、「私たちは分かち難い友でした」と言い、喜びで胸を躍らせました。このムスリムは、ヴェンカタラーマン青年とのそのような恩恵を楽しんでいました。幸運にも彼と共に過ごした過去の幸せな日々についてワハブ氏は語り始めました。

 「ヴェンカタラーマンはとてもタミル語に習熟しており、クラスで一番でした。教師が教科書のある部分を参照したいと思った時、よくヴェンカタラーマンに引用するように頼み、ヴェンカタラーマンは驚くべき明確さでそれを行いました。彼は特にナンヌール・ソースラム(タミル語の文法の格言)に精通していました。タミル語のパンディット(学者)であるジョン・バラクリシュナンは彼をとても気に入っていました。タミル語についての彼の知識は本当に驚くべきもので、タミル語の文法の知識はとても正確でした。

 しかし、ヴェンカタラーマンは、その科目に熟達してはいなかったという意味で、英語はあまり得意でありませんでした。他の科目でも、彼は平均より上でした。しかし、一般的に、彼は教科書にあまり興味がありませんでした。彼は競技をするのがとても好きで、競技の中でもフットボールの名人でした。やりかたを教えると言いながら、彼はよく私に試合に参加するように勧めました。私たちは同じチームで一緒に試合を行い、私は特にヴェンカタラーマンと一緒にいました。その当時の常として、バラモンの家では、息子たちに競技に参加することを勧めていませんした。ヴェンカタラーマンの親戚も、彼が競技をするのを好んでいませんでした。

 昔、我々がフットボールをしているときに、ヴェンカタラーマンは対戦相手の攻撃に対して守っていて、右足にきつい打撃をうけました。右足はすぐに腫れあがりました。彼はおびえ、家にもどらねばなりませんでした。私は彼を病院まで運び、薬をつけて、彼の足を正常な状態にしました。彼はとても喜び、時を得た手助けに感謝しました。

 学生のときでさえ、彼はとても敬虔でした。毎週土曜日と日曜日に、ティルパランクンラムへ行き、スブラマニア・スワーミ寺院の周りを熱烈な宗教的な喜びを持って巡りました。彼は何度も私を連れていき、「神の創造は似ていて、創造のなかに違いはありません。神は同一であり、神々の見かけの違いは人によってつくられています」と言い、私に寺院の周りを回らせました。ヴェンカタラーマンと共にいると、私はモスクとスブラマニア・スワーミ寺院の間に違いを全く感じませんでした。

 彼のこの教えは、私の中に宗教への秘密の道についてのより良い理解を実際に植え付け、その時以来、ヒンドゥーの神とその他の神の間に違いをまったく感じませんでした。それは全く可能なことで、事実、当時ヴェンカタラーマンにより私に植え付けられたそのような普遍的な見方が理由で、晩年に私がカンチープラムのシュリー・ヴァラダラージャ(*1)・ペルマール(*2)の熱心な信奉者となれたのは確かなことです。実際に、彼は私を彼の神聖な歓喜の中に包みました。私はヴァラダラージャ・ペルマールを夢で見て、それが私にとってとても助けとなっていることが分かりました。」

 どのように(助けとなっているのか)と私が彼に尋ねた時、彼は(次のように)言いました。「カンチープラムの道を行進している間、ペルマール神を運ぶために肩をかすことによって、私は12年間、シュリー・ヴァラダラージャ・ペルマールのガルダ・セーヴァー(*3)に積極的に参加することができました。私はそれを今日でさえもっとも偉大な栄誉であり、幸運とみなしています。私がムスリムであるため、私が神を担うのに異議を唱えるヴァイシュナヴィテー(*4)もいたので、問題が起こったこともありました。それは、後に平和的に解決されました。ヴァラダラージャ・ペルマールへのこの12年間の奉仕により、私は彼によりいっそう親密に寄り添うようになりました。

 昔、私がクッパムで勤務していた時、私が大好きだった妻が流産をしたという電報を受け取り、彼女が死ぬのではないかと非常に心配しました。その夜にシュリー・ヴァラダラージャ・ペルマールが夢に現われ、妻は大丈夫で、心配する必要はないと請け負いました。私がティルッパットゥールに戻った時、彼女は正常な状態でした。彼女の回復はシュリー・ペルマールの恩寵でした。」

 次に、ワハブ氏はヴェンカタラーマンについて話しました。『突然、ヴェンカタラーマンは姿を消し、彼が家出について私に告げさえしなかったのは私にとって衝撃でした。彼がいなくなったことは、彼の母親をひどく悲しませました。彼の家と母親について話す時、アラガンマルお母さんが親切心と愛情をもって私をよく迎えてくれたことを述べずにはいられません。

 土曜日と日曜日に、彼は母親と親類縁者と共に過ごすためにティルチュリに行くことがありました。私も彼に会いにそこに行きました。アラガンマルお母さんは、「あなたの仲の良いムスリムの友達が来ましたよ」と言って、ヴェンカタラーマンに私が来たことを告げました。彼女は高潔さに輝く素晴らしい顔をしていました。毎度、彼女はとても温かく迎えてくれ、家でこしえた食べ物を何でも私に出してくれました。偶然に私がある週末に姿をみせなかったなら、私の不在を尋ね、「これをあなたのムスリムの友達にあげなさい」と言い、ヴェンカタラーマンに食べ物を渡しました。私がムスリムだったのに(示してくれた)、アラガンマルの母親としての愛情と私への親切心を決して忘れることはできません。』(当時、ムスリムはバラモン・カーストから不可触民としてみなされていました。彼らは嫌われ、軽蔑をもって扱われていました。)

 私はサーブ・ジャーンに、「いつシュリー・マハルシの所在を知ったのですか」と尋ねました。彼は言いました。『私は警察に入り、1903年にウッタラメルルの薬局の一つで、見た目は全く変わっていたのですが、ヴェンカタラーマンの肖像写真を見て驚きました。その店の人がどのようにして私の級友の写真を持つようになったのか非常に知りたくなりました。そして、これはティルヴァンナーマライに住んでいる「ブラフマナ・スワーミ」で、そのスワーミはその時、モウナム(沈黙)の状態にいると告げられました。

 私はヴェンカタラーマンに会いたいと熱望し、ついに数ヶ月間の熱心な努力ののち、若かりし頃の親愛なる友、シュリー・マハルシの住まいであるシュリー・ラマナーシュラマムに行くことができました。私は中に入り、バガヴァーンに牛乳を差し上げていた牛飼いの女性にじっと見られました。私は級友の「サーブ・ジャーン」であると自己紹介し(ですが、彼の表情は、彼がすぐに私であると分かり、自己紹介は全く必要でなかったことを明確に示していました)、彼は話しませんでしたが、私を喜んで迎えてくれました。晴れやかな顔つきで、彼はただうなずきました。級友にスワーミとして会えて私は身震いしました。なぜなら、聖者性の表れのため、彼はより一層美しく、まばゆく輝いていたからです。

 ティルッパットゥールで警部であった時、再びそこに行きました。父親が亡くなったので、私は当時とても悲しんでいました。バガヴァーンは彼の母親のお墓を私に見せ、そのことは私を慰めました。バガヴァーンの行為から、体に関する限り、死は不可避であり、誰もかつて生まれてないし、死んでいないということを理解しました。彼はとても親切で、食べるものをくれ、数日滞在するように誘いましたが、仕事があったので、できませんでした。その後、何度か彼に会いに行き、すべての機会に、彼は私に特別な気遣いを示し、その機会にいた誰にでも、愛情深く、思いやりをもって私を紹介しました。食堂で食事をとる時、彼はよく私をそばに座らせましたが、後でそれは彼には全く珍しいことであると知るようになりました。

  突然の変化が私に起こりました。私はヴェンカタラーマンの友人から、バガヴァーンの信奉者に変わりました。シュリー・マハルシによりもたらされたこの内面の変化は、彼が私に注いだ最大の恩恵です。かつて、彼はその偉大さを夢を通して示しました。その中で彼は私の妻が亡くなるというお告げを示し、不思議な方法で私を慰め、その衝撃的な出来事に私を備えさせました。それはすぐに起こり、予言されたように私の愛する妻は亡くなりました。シュリー・マハルシの恩寵により、それは私にあまり影響を与えませんでした。この超然とした態度自体が、バガヴァーンの恩寵です。

 1950年4月14日、彼のブラフマ・ニルヴァーナという忘れられない日、遠く離れた場所で仕事についていたので、ティルヴァンナーマライに行くことは私にとって全く不可能であったのですが、偶然にも私はアーシュラムを訪れる機会を得ました。日中、旅の間にホテルに行き、食事をとる時間がなく、食事をとることができませんでした。

 その夜に死すべき体を離れた私の友人であり、グルに私は敬意を払いましたが、彼の存在は依然として彼の住まいに行きわたっていました。私は深く悲しんでいました。私がとても疲労困憊しているように見え、夜遅くだったので、その時、誰かが食事をとるように勧めました。私は、「私の親しい友であり、崇敬されるグルへの敬意を表わす行為として、一日中、断食します」と言い、きっぱりと断りました。』
 私はワハブ氏に感謝を述べ、いち級友であるに留まらず、さらに進み、ヴェンカタラーマンをバガヴァーン・シュリー・ラマナ・マハルシ、マハー・グルとして理解したバガヴァーンの級友として、大変に敬意を持って彼にいとまごいをしました(シュリー・ワハブは、この記事が書かれた後に、亡くなりました)。

(*1)ヴァラダラージャ・・・タミル地方のカンチープラムのヴィシュヌ寺院の神。「恩恵を与える者の中で最高位の者」を意味する。
(*2)ぺルマール・・・タミル語。インドのタミル地方で有名な神。ヴィシュヌ神の別名。
(*3)ガルダ・セーヴァー・・・タミルのタイの月(1月から2月)の新月の日に祝われる祭典。ガルダは、ヴィシュヌの乗り物である神鳥。セーヴァーは「奉仕」を意味する。
(*4)ヴァイシュナヴィテー・・・ヒンドゥー教の主要学派の一つヴィシュヌ派を信仰する人。